杖の先が震えていた。
ルイズは、それを両手で握り直した。
春の風が、桃色がかった髪を頬へ運んでくる。払おうとすると、指先についた土が目に入った。
また、汚れている。
白いブラウスの袖も、膝も。さっきまで何もなかった足元には、草の剥がれた丸い窪みができていた。
その向こうで、誰かが笑った。
「今度は、大きかったな」
「使い魔より先に、穴が増えるんじゃないか?」
ルイズは顔を上げた。
「うるさいわね! まだ終わってないでしょう!」
声を張ると、笑いが少し大きくなった。
草原に集まった生徒たちは、彼女と同じ黒いマントを着ている。だが、その足元や肩には、今朝までいなかった生き物がいた。
猫。梟。大きな蛙。
翼を畳むものも、主人の手へ鼻先を寄せるものもいる。
皆、呼べたのだ。
ルイズだけが、杖の先に誰も連れていない。
「そうよ。まだ、終わっていないものね」
赤い髪の少女が言った。
褐色の肌に、よく似合う笑顔だった。足元では、赤い鱗のサラマンダーが長い尾をゆっくり動かしている。
「でも、ルイズ。あまり頑張ると、こちらまで土をかぶってしまうわ」
「だったら、もっと離れていればいいでしょう。キュルケ」
「さっきも、そうしたつもりだったのよ」
ルイズは歯を食いしばった。
あの女の使い魔は、いかにも立派だった。
自分も、あれくらいのものを呼ぶつもりでいた。
今日こそは。
呪文も、杖の振り方も、間違えていない。儀式の前に、何度確かめたかわからないほどだ。
それでも杖を振れば、煙が上がる。
何もいない地面を前にして、また笑われる。
「ミス・ヴァリエール」
教師の声に、ルイズは振り向いた。
コルベールが、杖を下ろすよう手で示していた。眼鏡の片方に、薄く土がついている。
「少し、息を整えましょう」
「まだ、できます」
「ええ。ですが、その握り方では手を痛めますよ」
言われて、初めて指の節が白くなっているのに気づいた。
ルイズは、ゆっくり力を緩めた。
周りの生徒が動く。
もう帰れるのか、と誰かが小声で言った。
「先生」
彼女は、すぐに口を開いた。
「もう一度、やらせてください」
コルベールが彼女を見た。
眼鏡の奥の目に、呆れはなかった。それでも、返事を待つ間が長く感じられた。
今日、何も呼べなかったら。
ほかの生徒たちが使い魔を連れて戻る、その後ろを、自分だけが空手で歩くことになる。
明日も、明後日も、同じように呼ばれる。
ゼロのルイズ。
「……今度は、必ず」
口にしてから、唇を結んだ。
必ず、などと約束できるなら、とっくにできている。
だが、このまま杖をしまうことだけはできなかった。
コルベールは、彼女の手元へ目を落とした。
それから、生徒たちを振り返る。
「もう一度、試みます。皆さん、十分に下がってください」
小さな不満の声が上がった。
教師が咳払いをすると、すぐに収まる。
「これを最後の一度にしましょう。ミス・ヴァリエール。焦らずに」
「……はい」
ルイズは、皆から少し離れた。
土のめくれていない場所を選び、靴の位置を直す。
背後ではまだ、誰かが囁いている。
聞かない。
息を吸った。
胸につかえていたものまで一緒に吐き出すつもりで、ゆっくりと息を戻した。
使い魔。
自分のもとへ来て、ともに生きるもの。
まだ顔も、姿も知らない相手を思い浮かべようとする。
強く、美しく、誰に見せても恥ずかしくない。
そんな相手を望んでいた。
けれど、いま杖を構えると、それより先に浮かんだのは、誰もいない地面だった。
今度こそ、そこにいてほしい。
ルイズは顎を上げた。
「宇宙の果てのどこかにいる、わたしの使い魔よ……」
風が、マントの裾を揺らす。
続く言葉を、ひとつずつ唱えた。
神聖で、美しく、強力な使い魔を求める祈り。
今日まで何度も口の中で繰り返してきた言葉が、今は、広い草原に響いていた。
「我が導きに、応えなさい!」
杖を振り下ろす。
その先で、光が弾けた。
*
ようやく、静かになった。
エメトセルクは、そう思っていた。
もう、自分が言うべきことは言った。
託すものも、託した。
あとは、あの者たちが自分の脚で歩いていけばよい。
うまくいくかどうかを見届けるために、いつまでも居座ってやる義理もなかろう。
消えゆく輪郭の向こうに、柔らかな光が広がっていた。
星海へ。
今度こそ、何も背負わずに還れる。
並んでいた友の気配も、その光へ溶けていく。別れを惜しむ言葉を、改めて探す気にはならなかった。
十分に、話したのだ。
彼もまた、意識を委ねた。
そのときだった。
遠くから、何かが触れた。
初めは、流れの乱れかと思った。
だが、違う。
こちらを探り当て、捉えようとする力だった。
「……おい」
声になるはずのない言葉が、意識の内側で形を取る。
つい先ほど、呼び出されたばかりなのだ。
用は済んだ。
そう、確かに告げたはずだった。
振り払おうとするより早く、力が深く食い込んだ。
馴染みのない術式。
どこから届いたのかもわからないそれが、ほどけかけた魂を、一つの輪郭へ引き戻していく。
「今度は、誰だ……?」
答えはなかった。
代わりに、感覚が戻った。
重さ。
指先。
内側に打つ、脈。
エーテルが魂の周りへ集まり、肉体を形づくっていた。骨を支え、血を巡らせ、皮膚の下へ温もりを取り戻していく。
その構築のあり方まで、馴染みの術と同じではない。
何をされたのか確かめようとして、彼は、自分の手を感じた。
よく動く。
長く使っていた器のどれとも違う、しかし、何より古く知っている感覚だった。
老いた身体ではない。
借りものでもない。
かつて、自分自身のものだった肉体。
その健やかさが戻ったことを喜ぶ前に、呆れが来た。
休ませるつもりがないにも、程がある。
まぶたの裏へ、強い光が差した。
次いで、足の下に地面ができた。
靴底が土を踏む。
風の音がした。
エメトセルクは、閉じていた目を開いた。
*
今までで、一番大きな爆発だった。
ルイズは腕で顔をかばい、吹きつけてくる土煙に目を細めた。
咳が出る。
後ろでも、何人かが咳き込んでいた。
また、なのか。
杖を下ろしかけた。
けれど、その先の煙が動いた。
風に流されるだけではなかった。
奥に、人影がある。
ルイズは瞬きをした。
何もいないはずの場所に、誰かが立っていた。
「あ……」
杖を握り直した。
胸が、一度大きく鳴る。
呼べた。
自分が。
本当に、呼べたのだ。
「先生、わたし――」
振り向きかけたところで、人影がこちらへ顔を向けた。
声が止まった。
そこにいたのは、背の高い男だった。
黒い長衣をまとい、灰色の髪が肩の辺りへ流れている。煙の向こうから現れた金色の目が、まず空を、それから周囲を見渡した。
翼はない。
角も、尾も。
見慣れない服を着てはいるが、どう見ても、人だった。
「……人間?」
誰かが言った。
ルイズは返事をしなかった。
男の周りを見た。
足元にも、後ろにも、ほかの生き物はいない。
では、この人が。
さっき胸へ広がった喜びを、どこへ置けばよいのかわからなかった。
召喚は、できた。
でも、こんなものを呼ぶ儀式だっただろうか。
「ゼロが、人を呼んだぞ」
驚きの声が、笑いへ変わりかける。
ルイズは、そちらを睨んだ。
「見れば、わかるわよ!」
だが、男も、今まさに同じことを確かめているようだった。
子供たち。
杖。
見慣れない生き物。
少し離れて、一人の教師らしい男が立っている。
視線を一巡させた後、彼は短く息を吐いた。
「この騒がしい出迎えについて、説明できる者はいるかね」
低い、よく通る声だった。
何を言っているのかは、はっきりわかった。
ルイズは、一歩前へ出た。
「わたしが呼んだのよ」
男の目が、彼女へ下りてくる。
間近で向き合うと、顎を上げなければならなかった。
「お前が?」
「そうよ」
ルイズは胸を張った。
「わたしの、サモン・サーヴァントで」
彼は、彼女の杖を見た。
それから、抉れた地面を見る。
「……随分と、熱心なお招きだったようだな」
「何よ。不満でもあるの?」
「山ほどある」
すぐに返ってきた。
ルイズは、口を開けたまま彼を見た。
「私は、休むつもりだったのだよ」
「そんなこと、知らないわよ」
「だろうな。知っていてこれなら、なお悪い」
男は袖へついた土を払った。
ルイズの頬が、熱くなる。
ようやく呼べた相手の最初の言葉が、文句。
喜んで迎えるべきなのか、怒るべきなのかもわからないまま、先に怒りだけが口へ出た。
「わたしだって、あなたを呼ぶつもりじゃなかったわ!」
彼の手が止まった。
周りの話し声も、小さくなった。
金色の目が、もう一度彼女を見る。
「その点は、お互いさまのようだな」
ルイズは、杖を握る手を下ろした。
言い返したかった。
けれど、こちらを見下ろす男は、呼ばれた覚えもないという顔をしている。
彼女の後ろへ、コルベールが進み出た。
「失礼。まずは、私からご説明しましょう」
男は、そちらへ向き直った。
「そうしていただけると、助かる」
先ほどとは、幾分違う声だった。
教師は軽く頭を下げた。
「私はジャン・コルベール。このトリステイン魔法学院で教鞭を執っております。あなたのお名前を伺っても?」
「エメトセルクだ」
彼も、小さく顎を引いて答えた。
「ここが学院で、彼女が生徒ということで、よろしいかね」
「はい。今は、春の使い魔召喚の儀式を行っているところです」
「使い魔」
その言葉を、エメトセルクは繰り返した。
ルイズは、すぐに口を挟んだ。
「わたしが呼んだんだから、あなたが、わたしの使い魔になるのよ」
彼の目が戻ってきた。
「説明が、一足飛びではないかね」
「だって、そういう儀式なんだもの」
コルベールが、彼女を片手で制した。
「ミス・ヴァリエール。順にお話ししましょう」
ルイズは口を閉じた。
教師の向こうで、赤い髪の少女がこちらを眺めている。
いつもなら隣で本を読んでいる青髪の少女も、今はページをめくる手を止めていた。
誰も帰ろうとしない。
ルイズは、今さらながら、自分の儀式がまだ終わっていないことを思い出した。
「この儀式では、生徒が自分の使い魔となるものを呼び出します」
コルベールは、周囲の生き物を示した。
「二年生へ進む際に行う、大切な儀式です。召喚された相手と契約を交わして、初めて終わります」
エメトセルクは、傍らの猫へ目を向けた。
少女の腕から、尻尾が下がっている。
生徒と生き物の間には、かすかな力のつながりが感じられた。
一組だけではない。
少し離れた梟にも、ほかの小動物にも、それぞれ違う流れが寄り添っている。
知っている魔法に近いものはあった。
だが、同じと決めるには、どうにも噛み合わないところがある。
「ここにいる者たちは、皆、その契約を?」
「ええ。ミス・ヴァリエールが最後です」
ルイズの背が、少し硬くなった。
教師は、何も責めるようには言わなかった。
それでも、最後という言葉は、こちらに残る。
エメトセルクは、彼女の袖を見た。
土の汚れ。
強く握られた杖。
足元だけでなく、その後ろの草にも、幾つか焦げたような跡がある。
ようやく呼んだというのに、呼ばれた相手が納得しない。
少女にしてみれば、それも予定にないことなのだろう。
「先生」
ルイズが、コルベールの袖へ手を伸ばしかけた。
触れる前に、引っ込める。
「やっぱり、もう一度だけ……」
「それは、認められません」
教師の返事は、穏やかだが、はっきりしていた。
ルイズは、言葉を呑んだ。
「でも」
「先ほどまでは、召喚が成立していませんでした。ですが、今は、こちらの方を呼び出しています。好きな相手が出るまで、やり直すための儀式ではないのですよ」
「……人間じゃないですか」
口にすると、少し声が落ちた。
エメトセルクが、眉を上げた。
「人を呼ぶのは、普通ではないらしいな」
コルベールは、ためらってから頷いた。
「私も、初めてです。人の姿をした使い魔というのは……少なくとも、実際に目にしたことはありません」
正直な答えだった。
知らないことを、ないと断じているわけではない。
エメトセルクは、教師の顔を見た。
「では、私についても、普段の使い魔と同じになるとは限らんわけだ」
「ええ。その点は、慎重に考えるべきでしょう」
「先生。契約は、できるんでしょう?」
ルイズの問いに、コルベールは彼女へ向き直った。
「召喚は成功しています。契約の儀式へ進むことはできます。ただ、まずはお話をしましょう。こちらの方にも、事情がおありです」
ルイズは、黒い長衣の男を見上げた。
休むつもりだった。
本人は、そう言った。
今、どこから来たのかもわからないまま、ここに立っているのだ。
それくらいは、彼女にもわかった。
だが、わかったからといって、使い魔なしで終えられるわけではない。
「……ちゃんと、聞いているわ」
言うと、エメトセルクは、わざとらしく感心した顔をした。
「それは結構」
ルイズが睨んでも、彼はもう教師へ目を戻していた。
「ミスタ・コルベール。使い魔には、何をさせるのかね?」
「主人の目や耳となること。秘薬の材料を探すこと。それから、主人を守ることなどです」
コルベールは、腕へ猫を抱いた生徒をもう一度示した。
「契約した使い魔の見聞きしたものを、主人が知ることもあります。もちろん、得意な働きは、それぞれ違いますが」
「なるほど」
遠くのものを知る。
必要なものを集める。
身を守る。
そうした役目なら、使い魔という呼び方から大きく外れてはいない。
ただ、猫を抱いた少女と、自分を見上げる少女が、まったく同じことを期待しているとも思えなかった。
「契約すれば、相手の命令に逆らえなくなる、といった仕組みはあるのか?」
ルイズが、少し息を止めた。
コルベールは考えるように杖へ手を添えた。
「使い魔が、自分の意思をなくすとは教えておりません。主人の言うことを聞かないものもいます。ただ、あなたにどのような作用があるか、全て保証できるとは申し上げられません」
「そうか」
すぐに安心した様子もなく、エメトセルクは頷いた。
知らない相手に尋ねたからといって、知らない術の全容がわかるはずもない。
教師が、自分の知る範囲を区切って答えることの方に、多少の好感を持った。
「では、契約を終わらせる場合は?」
「使い魔が命を終えるまで、とされています。契約だけを任意に解く方法は、私の知る限りではありません」
「わたしが、ちゃんと教えるわよ」
エメトセルクは顔を向けた。
「何を?」
「使い魔のこと。この学院のことだって、あなたは知らないんでしょう」
ルイズは、言いながら胸を張り直した。
「だから、わたしの話を聞いていればいいの」
教師が何を説明しても、相手が従う気になる様子はなかった。
だったら、主人になる自分が言うべきだと思った。
だが、金色の目は、少しも怯まない。
「聞くことと、従うことは別だぞ」
「……使い魔になるんだったら」
「なるかどうかを、今、話しているのだろう」
ルイズは、杖の柄を指で押した。
一つ言うたびに、言い返される。
教師と話しているときは、あんなに普通なのに。
「生徒さんには、まだ説明していない条件もあるようだが」
エメトセルクが言うと、コルベールは小さく苦笑した。
「普段は、このように言葉を交わす機会そのものがありませんから」
「それは、察しがつく」
向こうで、梟が首を回した。
自分が何を引き合いに出されたかなど、関わりのない顔だった。
ルイズは、その梟にまで腹が立ちそうになり、慌てて目を戻した。
エメトセルクは、彼女を見ていた。
怒っている。
急いでいる。
こちらがさっさと頷けば、それで話が済むと思っているのだろう。
だが、最初に「お前が呼んだのか」と尋ねたとき、少女は逃げなかった。
あれだけ注目を集めた中で、誰かのせいにすることもなく、前へ出てきた。
呼んだのは、わたしだと。
その次に聞こえたのが、「あなたを呼ぶつもりではなかった」だったのは、いただけないが。
エメトセルクは、もう一度周囲を見た。
知らない動物。
知らない服。
教師が説明する、聞き慣れない魔法の習わし。
この草原には、自分の知識だけで片づけられないものが、幾つもあった。
何に捉えられたのか。
なぜ、こうして肉体まで与えられたのか。
答えは、まだ一つもない。
契約は、召喚とは別の手順らしい。
ならば、ここで拒むこともできる。
拒んだ後、知らない土地で一人、調べ始める道もあるだろう。
ただ、目の前には、その術を学ぶ学院の教師と、自分を呼んだ術者がいる。
「……まったく」
彼は、小さく呟いた。
休息を望んだことに、変わりはない。
それでも、教師の説明を聞くうち、苛立ちだけではないものが残り始めていた。
今も、彼女の杖を目が追っている。
そんな自分に、いささか呆れた。
「説明は、わかった。契約を受けよう」
ルイズは、返事をし損ねた。
コルベールも、一度彼を見直す。
「よろしいのですか?」
「ああ。こちらにも、知りたいことができたのでね」
エメトセルクは、少女へ向き直った。
「ただし、ルイズ――で、よかったな」
彼女は頷きかけ、途中で止めた。
「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ」
家名まで、はっきり告げた。
彼は、最後まで黙って聞いた。
「では、ミス・ヴァリエール。私は、お前の奴隷になるつもりはない。命令に無条件で従うわけでもないぞ」
ルイズの顔から、喜びかけた色が引いた。
「わたしが、主人なのよ」
「その呼び名は聞いた」
落ち着いた声だった。
「お前の身の安全については、可能な範囲で責任を持とう。それ以外のことは、私自身が判断する。それでもよければ、だ」
「……守ることは、してくれるのね」
「ああ。引き受けると言ったことを、忘れるつもりはない」
ルイズは、彼の顔を見上げていた。
ほかの使い魔は、こんな条件を出したりしない。
わざわざ、自分は奴隷ではないと言うことも。
だが、ようやく呼べたのだ。
立派かどうかも、何ができるかも、まだ知らないけれど。
今、目の前に、いる。
「……わかったわよ」
彼女は答えた。
すぐに、付け足す。
「でも、主人がわたしだってことは、忘れないで」
「随分と、念入りな確認だな」
「大事なことだからよ!」
教師の後ろで、忍び笑いが漏れた。
ルイズは振り向こうとして、やめた。
今は、それより先にやることがある。
「先生。契約を、進めていいですよね」
コルベールは、二人の顔を順に確かめた。
「ええ。では、コントラクト・サーヴァントを」
ようやく聞けた言葉だった。
ルイズは杖を持ち直した。
今度こそ。
胸の内で、もう一度だけそう思った。
「それで、何をすればいいのかね」
エメトセルクが尋ねた。
ルイズは、答える前に一度唇を結んだ。
今まで、召喚を成功させることばかり考えていた。
契約の作法も知っている。
ただ、その相手を思い浮かべたとき、目の前のような男が出てきたことは、一度もなかった。
「わたしが、呪文を唱えるの」
「ああ」
「それから……口づけをするわ」
間があった。
エメトセルクの目が、教師へ動く。
コルベールは、眼鏡の位置を直した。
「それが、契約を結ぶための作法です」
「なるほど。最後まで、馴染みのない儀式だ」
「嫌なら、目を閉じていればいいでしょう!」
ルイズの声が裏返った。
言ってから、余計に恥ずかしくなった。
周りには、皆がいる。
キュルケも、こちらを見ている。
エメトセルクは、黙って彼女を見下ろしていた。
ルイズは顎を上げたまま、目を逸らさないようにした。
相手が大きい。
背伸びをしても、その顔へ届くとは思えなかった。
先ほどまで、主人だと何度も言っていた自分から、屈んでほしいと頼む。
それも、ひどく格好がつかない気がした。
彼女の視線が、自分の靴と彼の顔を往復する。
エメトセルクは、やっと困っている理由を察した。
「……始まる前から、難儀なことだな」
長衣の裾を払う。
片膝を草へつくと、ルイズの前へ顔の高さを合わせた。
急に近づいた金色の目に、彼女は半歩、後ろへ下がりかけた。
踏みとどまる。
エメトセルクは、口元を僅かに動かした。
「逃げるのは、まだ早かろう」
「逃げてないわよ」
「では、どうぞ。こちらの支度は済んだ」
さっきまで見上げていた顔が、すぐ目の前にある。
知らない男だ。
今日、初めて会った。
しかも、口を開けば言い返してくる。
ルイズは、余計なことを考えるのをやめた。
これは、儀式。
何度も失敗した召喚を、ちゃんと終えるためにすることだ。
一度息を吸い、杖を掲げる。
「我が名は、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」
今度は、はっきりと声が出た。
続く契約の言葉を唱える。
目の前の相手と、自分とを結ぶための呪文。
エメトセルクは、その間、静かにしていた。
彼女の内側に、力が集まっていく。
召喚の残滓とは、少し違う。
杖を通して整えられたものが、こちらへ届こうとしていた。
何が起きるかを見逃さぬよう、彼は注意を向ける。
ルイズの声が止まった。
彼女は杖を持つ手を少し下げ、空いた方の手を、彼の肩へ添えた。
黒い布の感触が、指の下にあった。
一瞬だけ、目を閉じる。
唇が、触れた。
すぐに、離れる。
ルイズは顔を引き、肩から手を放した。
「……これで」
言い終える前に、エメトセルクの左手へ熱が走った。
彼は、そちらへ顔を向ける。
甲の内側から、細い光が浮き上がった。
幾つもの線がつながり、見知らぬ文字の形を取っていく。
皮膚の上だけで、起きているのではない。
熱とともに、もっと深いところへ何かが触れた。
今、得たばかりの身体の奥へ。
それでいて、肉体だけを探っているとも思えない。
エメトセルクは、僅かに眉を寄せた。
「……ほう」
指を開く。
文字は、消えなかった。
組み合わされた線の一つ一つへ、目を向ける。
読むことはできない。
似た紋様を知っているというだけで、同じ術と決めつける気にもなれなかった。
「熱い?」
ルイズが尋ねた。
彼は、ようやく目を上げた。
「ああ。少しな」
「契約のルーンが刻まれているのよ。使い魔には、できるものだから」
声に、先ほどまでとは違う響きがあった。
エメトセルクが手を戻すと、彼女は、身を乗り出すようにして文字を見た。
途中で、触れるのをためらった指が止まる。
その顔へ、安堵が広がっていった。
爆発ではない。
煙だけを残して、消えるものでもない。
自分の呪文が、ちゃんと、ここに残っている。
「先生」
ルイズが振り返った。
コルベールは、すでにそばへ来ていた。
「できていますよ、ミス・ヴァリエール」
教師の目が、彼女から左手へ移る。
「契約は、成立しました」
ルイズは、下ろしかけていた杖を胸の前へ引き寄せた。
大きく笑うのは、何だか癪だった。
ここまで待たせた生徒たちも見ている。
それでも、頬が緩むのを止めきれなかった。
コルベールは、刻まれた文字を見つめていた。
見慣れた使い魔の印とは、どこか違う。
何かが、記憶に引っ掛かる。
しかし、すぐに名前や書物へ結びつくものではなかった。
「……珍しい形ですね」
口に出たのは、それだけだった。
エメトセルクは、教師を見る。
「読めるのかね?」
「いえ。今、この場では。ただ、あまり見かけない印だと思いまして」
「そうか」
彼は、それ以上を求めなかった。
刻まれたばかりの文字から、光が薄れていく。
だが、紋様そのものは残った。
エメトセルクは立ち上がり、指をゆっくり曲げた。
動きに不自由はない。
熱も、次第に引いている。
何が結ばれたのかを確かめようにも、これだけでは、まだ足りなかった。
向かい合ったルイズが、再び顔を上げた。
「これで、あなたはわたしの使い魔よ」
今度の言葉には、確かな手応えがあった。
エメトセルクは、彼女の顔と、自分の左手を見比べた。
「そのようだな」
「あまり、嬉しそうじゃないわね」
「お前のように、朝から待ち望んでいたわけではないのでな」
ルイズは、言い返しかけた。
けれど、その前に、彼がもう一度手を返した。
教師も、その文字を目で追っている。
自分には、成功の印に見えるものを、二人は、まだ何かを確かめるように眺めていた。
「……消えたりしないわよね?」
思わず尋ねると、エメトセルクがこちらを見た。
「それは、こちらが聞きたい」
「普通は、消えないのよ」
「では、その普通を、私も知る必要がありそうだ」
答えながら、左手を下ろす。
ルイズは、まだ消えずにある文字を一度見た。
それから、誰にも取られまいとするように、男の隣へ立ち直った。
春の風が、二人の間を通り抜けた。
黒い袖の端から、見知らぬルーンが覗いていた。
第1章 第1話 完