ゼロの使い魔 ~星海より来たりし者~   作:すらはん

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第1話「星海より来たりし者」

杖の先が震えていた。

 

ルイズは、それを両手で握り直した。

 

春の風が、桃色がかった髪を頬へ運んでくる。払おうとすると、指先についた土が目に入った。

 

また、汚れている。

 

白いブラウスの袖も、膝も。さっきまで何もなかった足元には、草の剥がれた丸い窪みができていた。

 

その向こうで、誰かが笑った。

 

「今度は、大きかったな」

 

「使い魔より先に、穴が増えるんじゃないか?」

 

ルイズは顔を上げた。

 

「うるさいわね! まだ終わってないでしょう!」

 

声を張ると、笑いが少し大きくなった。

 

草原に集まった生徒たちは、彼女と同じ黒いマントを着ている。だが、その足元や肩には、今朝までいなかった生き物がいた。

 

猫。梟。大きな蛙。

 

翼を畳むものも、主人の手へ鼻先を寄せるものもいる。

 

皆、呼べたのだ。

 

ルイズだけが、杖の先に誰も連れていない。

 

「そうよ。まだ、終わっていないものね」

 

赤い髪の少女が言った。

 

褐色の肌に、よく似合う笑顔だった。足元では、赤い鱗のサラマンダーが長い尾をゆっくり動かしている。

 

「でも、ルイズ。あまり頑張ると、こちらまで土をかぶってしまうわ」

 

「だったら、もっと離れていればいいでしょう。キュルケ」

 

「さっきも、そうしたつもりだったのよ」

 

ルイズは歯を食いしばった。

 

あの女の使い魔は、いかにも立派だった。

 

自分も、あれくらいのものを呼ぶつもりでいた。

 

今日こそは。

 

呪文も、杖の振り方も、間違えていない。儀式の前に、何度確かめたかわからないほどだ。

 

それでも杖を振れば、煙が上がる。

 

何もいない地面を前にして、また笑われる。

 

「ミス・ヴァリエール」

 

教師の声に、ルイズは振り向いた。

 

コルベールが、杖を下ろすよう手で示していた。眼鏡の片方に、薄く土がついている。

 

「少し、息を整えましょう」

 

「まだ、できます」

 

「ええ。ですが、その握り方では手を痛めますよ」

 

言われて、初めて指の節が白くなっているのに気づいた。

 

ルイズは、ゆっくり力を緩めた。

 

周りの生徒が動く。

 

もう帰れるのか、と誰かが小声で言った。

 

「先生」

 

彼女は、すぐに口を開いた。

 

「もう一度、やらせてください」

 

コルベールが彼女を見た。

 

眼鏡の奥の目に、呆れはなかった。それでも、返事を待つ間が長く感じられた。

 

今日、何も呼べなかったら。

 

ほかの生徒たちが使い魔を連れて戻る、その後ろを、自分だけが空手で歩くことになる。

 

明日も、明後日も、同じように呼ばれる。

 

ゼロのルイズ。

 

「……今度は、必ず」

 

口にしてから、唇を結んだ。

 

必ず、などと約束できるなら、とっくにできている。

 

だが、このまま杖をしまうことだけはできなかった。

 

コルベールは、彼女の手元へ目を落とした。

 

それから、生徒たちを振り返る。

 

「もう一度、試みます。皆さん、十分に下がってください」

 

小さな不満の声が上がった。

 

教師が咳払いをすると、すぐに収まる。

 

「これを最後の一度にしましょう。ミス・ヴァリエール。焦らずに」

 

「……はい」

 

ルイズは、皆から少し離れた。

 

土のめくれていない場所を選び、靴の位置を直す。

 

背後ではまだ、誰かが囁いている。

 

聞かない。

 

息を吸った。

 

胸につかえていたものまで一緒に吐き出すつもりで、ゆっくりと息を戻した。

 

使い魔。

 

自分のもとへ来て、ともに生きるもの。

 

まだ顔も、姿も知らない相手を思い浮かべようとする。

 

強く、美しく、誰に見せても恥ずかしくない。

 

そんな相手を望んでいた。

 

けれど、いま杖を構えると、それより先に浮かんだのは、誰もいない地面だった。

 

今度こそ、そこにいてほしい。

 

ルイズは顎を上げた。

 

「宇宙の果てのどこかにいる、わたしの使い魔よ……」

 

風が、マントの裾を揺らす。

 

続く言葉を、ひとつずつ唱えた。

 

神聖で、美しく、強力な使い魔を求める祈り。

 

今日まで何度も口の中で繰り返してきた言葉が、今は、広い草原に響いていた。

 

「我が導きに、応えなさい!」

 

杖を振り下ろす。

 

その先で、光が弾けた。

 

*

 

ようやく、静かになった。

 

エメトセルクは、そう思っていた。

 

もう、自分が言うべきことは言った。

 

託すものも、託した。

 

あとは、あの者たちが自分の脚で歩いていけばよい。

 

うまくいくかどうかを見届けるために、いつまでも居座ってやる義理もなかろう。

 

消えゆく輪郭の向こうに、柔らかな光が広がっていた。

 

星海へ。

 

今度こそ、何も背負わずに還れる。

 

並んでいた友の気配も、その光へ溶けていく。別れを惜しむ言葉を、改めて探す気にはならなかった。

 

十分に、話したのだ。

 

彼もまた、意識を委ねた。

 

そのときだった。

 

遠くから、何かが触れた。

 

初めは、流れの乱れかと思った。

 

だが、違う。

 

こちらを探り当て、捉えようとする力だった。

 

「……おい」

 

声になるはずのない言葉が、意識の内側で形を取る。

 

つい先ほど、呼び出されたばかりなのだ。

 

用は済んだ。

 

そう、確かに告げたはずだった。

 

振り払おうとするより早く、力が深く食い込んだ。

 

馴染みのない術式。

 

どこから届いたのかもわからないそれが、ほどけかけた魂を、一つの輪郭へ引き戻していく。

 

「今度は、誰だ……?」

 

答えはなかった。

 

代わりに、感覚が戻った。

 

重さ。

 

指先。

 

内側に打つ、脈。

 

エーテルが魂の周りへ集まり、肉体を形づくっていた。骨を支え、血を巡らせ、皮膚の下へ温もりを取り戻していく。

 

その構築のあり方まで、馴染みの術と同じではない。

 

何をされたのか確かめようとして、彼は、自分の手を感じた。

 

よく動く。

 

長く使っていた器のどれとも違う、しかし、何より古く知っている感覚だった。

 

老いた身体ではない。

 

借りものでもない。

 

かつて、自分自身のものだった肉体。

 

その健やかさが戻ったことを喜ぶ前に、呆れが来た。

 

休ませるつもりがないにも、程がある。

 

まぶたの裏へ、強い光が差した。

 

次いで、足の下に地面ができた。

 

靴底が土を踏む。

 

風の音がした。

 

エメトセルクは、閉じていた目を開いた。

 

*

 

今までで、一番大きな爆発だった。

 

ルイズは腕で顔をかばい、吹きつけてくる土煙に目を細めた。

 

咳が出る。

 

後ろでも、何人かが咳き込んでいた。

 

また、なのか。

 

杖を下ろしかけた。

 

けれど、その先の煙が動いた。

 

風に流されるだけではなかった。

 

奥に、人影がある。

 

ルイズは瞬きをした。

 

何もいないはずの場所に、誰かが立っていた。

 

「あ……」

 

杖を握り直した。

 

胸が、一度大きく鳴る。

 

呼べた。

 

自分が。

 

本当に、呼べたのだ。

 

「先生、わたし――」

 

振り向きかけたところで、人影がこちらへ顔を向けた。

 

声が止まった。

 

そこにいたのは、背の高い男だった。

 

黒い長衣をまとい、灰色の髪が肩の辺りへ流れている。煙の向こうから現れた金色の目が、まず空を、それから周囲を見渡した。

 

翼はない。

 

角も、尾も。

 

見慣れない服を着てはいるが、どう見ても、人だった。

 

「……人間?」

 

誰かが言った。

 

ルイズは返事をしなかった。

 

男の周りを見た。

 

足元にも、後ろにも、ほかの生き物はいない。

 

では、この人が。

 

さっき胸へ広がった喜びを、どこへ置けばよいのかわからなかった。

 

召喚は、できた。

 

でも、こんなものを呼ぶ儀式だっただろうか。

 

「ゼロが、人を呼んだぞ」

 

驚きの声が、笑いへ変わりかける。

 

ルイズは、そちらを睨んだ。

 

「見れば、わかるわよ!」

 

だが、男も、今まさに同じことを確かめているようだった。

 

子供たち。

 

杖。

 

見慣れない生き物。

 

少し離れて、一人の教師らしい男が立っている。

 

視線を一巡させた後、彼は短く息を吐いた。

 

「この騒がしい出迎えについて、説明できる者はいるかね」

 

低い、よく通る声だった。

 

何を言っているのかは、はっきりわかった。

 

ルイズは、一歩前へ出た。

 

「わたしが呼んだのよ」

 

男の目が、彼女へ下りてくる。

 

間近で向き合うと、顎を上げなければならなかった。

 

「お前が?」

 

「そうよ」

 

ルイズは胸を張った。

 

「わたしの、サモン・サーヴァントで」

 

彼は、彼女の杖を見た。

 

それから、抉れた地面を見る。

 

「……随分と、熱心なお招きだったようだな」

 

「何よ。不満でもあるの?」

 

「山ほどある」

 

すぐに返ってきた。

 

ルイズは、口を開けたまま彼を見た。

 

「私は、休むつもりだったのだよ」

 

「そんなこと、知らないわよ」

 

「だろうな。知っていてこれなら、なお悪い」

 

男は袖へついた土を払った。

 

ルイズの頬が、熱くなる。

 

ようやく呼べた相手の最初の言葉が、文句。

 

喜んで迎えるべきなのか、怒るべきなのかもわからないまま、先に怒りだけが口へ出た。

 

「わたしだって、あなたを呼ぶつもりじゃなかったわ!」

 

彼の手が止まった。

 

周りの話し声も、小さくなった。

 

金色の目が、もう一度彼女を見る。

 

「その点は、お互いさまのようだな」

 

ルイズは、杖を握る手を下ろした。

 

言い返したかった。

 

けれど、こちらを見下ろす男は、呼ばれた覚えもないという顔をしている。

 

彼女の後ろへ、コルベールが進み出た。

 

「失礼。まずは、私からご説明しましょう」

 

男は、そちらへ向き直った。

 

「そうしていただけると、助かる」

 

先ほどとは、幾分違う声だった。

 

教師は軽く頭を下げた。

 

「私はジャン・コルベール。このトリステイン魔法学院で教鞭を執っております。あなたのお名前を伺っても?」

 

「エメトセルクだ」

 

彼も、小さく顎を引いて答えた。

 

「ここが学院で、彼女が生徒ということで、よろしいかね」

 

「はい。今は、春の使い魔召喚の儀式を行っているところです」

 

「使い魔」

 

その言葉を、エメトセルクは繰り返した。

 

ルイズは、すぐに口を挟んだ。

 

「わたしが呼んだんだから、あなたが、わたしの使い魔になるのよ」

 

彼の目が戻ってきた。

 

「説明が、一足飛びではないかね」

 

「だって、そういう儀式なんだもの」

 

コルベールが、彼女を片手で制した。

 

「ミス・ヴァリエール。順にお話ししましょう」

 

ルイズは口を閉じた。

 

教師の向こうで、赤い髪の少女がこちらを眺めている。

 

いつもなら隣で本を読んでいる青髪の少女も、今はページをめくる手を止めていた。

 

誰も帰ろうとしない。

 

ルイズは、今さらながら、自分の儀式がまだ終わっていないことを思い出した。

 

「この儀式では、生徒が自分の使い魔となるものを呼び出します」

 

コルベールは、周囲の生き物を示した。

 

「二年生へ進む際に行う、大切な儀式です。召喚された相手と契約を交わして、初めて終わります」

 

エメトセルクは、傍らの猫へ目を向けた。

 

少女の腕から、尻尾が下がっている。

 

生徒と生き物の間には、かすかな力のつながりが感じられた。

 

一組だけではない。

 

少し離れた梟にも、ほかの小動物にも、それぞれ違う流れが寄り添っている。

 

知っている魔法に近いものはあった。

 

だが、同じと決めるには、どうにも噛み合わないところがある。

 

「ここにいる者たちは、皆、その契約を?」

 

「ええ。ミス・ヴァリエールが最後です」

 

ルイズの背が、少し硬くなった。

 

教師は、何も責めるようには言わなかった。

 

それでも、最後という言葉は、こちらに残る。

 

エメトセルクは、彼女の袖を見た。

 

土の汚れ。

 

強く握られた杖。

 

足元だけでなく、その後ろの草にも、幾つか焦げたような跡がある。

 

ようやく呼んだというのに、呼ばれた相手が納得しない。

 

少女にしてみれば、それも予定にないことなのだろう。

 

「先生」

 

ルイズが、コルベールの袖へ手を伸ばしかけた。

 

触れる前に、引っ込める。

 

「やっぱり、もう一度だけ……」

 

「それは、認められません」

 

教師の返事は、穏やかだが、はっきりしていた。

 

ルイズは、言葉を呑んだ。

 

「でも」

 

「先ほどまでは、召喚が成立していませんでした。ですが、今は、こちらの方を呼び出しています。好きな相手が出るまで、やり直すための儀式ではないのですよ」

 

「……人間じゃないですか」

 

口にすると、少し声が落ちた。

 

エメトセルクが、眉を上げた。

 

「人を呼ぶのは、普通ではないらしいな」

 

コルベールは、ためらってから頷いた。

 

「私も、初めてです。人の姿をした使い魔というのは……少なくとも、実際に目にしたことはありません」

 

正直な答えだった。

 

知らないことを、ないと断じているわけではない。

 

エメトセルクは、教師の顔を見た。

 

「では、私についても、普段の使い魔と同じになるとは限らんわけだ」

 

「ええ。その点は、慎重に考えるべきでしょう」

 

「先生。契約は、できるんでしょう?」

 

ルイズの問いに、コルベールは彼女へ向き直った。

 

「召喚は成功しています。契約の儀式へ進むことはできます。ただ、まずはお話をしましょう。こちらの方にも、事情がおありです」

 

ルイズは、黒い長衣の男を見上げた。

 

休むつもりだった。

 

本人は、そう言った。

 

今、どこから来たのかもわからないまま、ここに立っているのだ。

 

それくらいは、彼女にもわかった。

 

だが、わかったからといって、使い魔なしで終えられるわけではない。

 

「……ちゃんと、聞いているわ」

 

言うと、エメトセルクは、わざとらしく感心した顔をした。

 

「それは結構」

 

ルイズが睨んでも、彼はもう教師へ目を戻していた。

 

「ミスタ・コルベール。使い魔には、何をさせるのかね?」

 

「主人の目や耳となること。秘薬の材料を探すこと。それから、主人を守ることなどです」

 

コルベールは、腕へ猫を抱いた生徒をもう一度示した。

 

「契約した使い魔の見聞きしたものを、主人が知ることもあります。もちろん、得意な働きは、それぞれ違いますが」

 

「なるほど」

 

遠くのものを知る。

 

必要なものを集める。

 

身を守る。

 

そうした役目なら、使い魔という呼び方から大きく外れてはいない。

 

ただ、猫を抱いた少女と、自分を見上げる少女が、まったく同じことを期待しているとも思えなかった。

 

「契約すれば、相手の命令に逆らえなくなる、といった仕組みはあるのか?」

 

ルイズが、少し息を止めた。

 

コルベールは考えるように杖へ手を添えた。

 

「使い魔が、自分の意思をなくすとは教えておりません。主人の言うことを聞かないものもいます。ただ、あなたにどのような作用があるか、全て保証できるとは申し上げられません」

 

「そうか」

 

すぐに安心した様子もなく、エメトセルクは頷いた。

 

知らない相手に尋ねたからといって、知らない術の全容がわかるはずもない。

 

教師が、自分の知る範囲を区切って答えることの方に、多少の好感を持った。

 

「では、契約を終わらせる場合は?」

 

「使い魔が命を終えるまで、とされています。契約だけを任意に解く方法は、私の知る限りではありません」

 

「わたしが、ちゃんと教えるわよ」

 

エメトセルクは顔を向けた。

 

「何を?」

 

「使い魔のこと。この学院のことだって、あなたは知らないんでしょう」

 

ルイズは、言いながら胸を張り直した。

 

「だから、わたしの話を聞いていればいいの」

 

教師が何を説明しても、相手が従う気になる様子はなかった。

 

だったら、主人になる自分が言うべきだと思った。

 

だが、金色の目は、少しも怯まない。

 

「聞くことと、従うことは別だぞ」

 

「……使い魔になるんだったら」

 

「なるかどうかを、今、話しているのだろう」

 

ルイズは、杖の柄を指で押した。

 

一つ言うたびに、言い返される。

 

教師と話しているときは、あんなに普通なのに。

 

「生徒さんには、まだ説明していない条件もあるようだが」

 

エメトセルクが言うと、コルベールは小さく苦笑した。

 

「普段は、このように言葉を交わす機会そのものがありませんから」

 

「それは、察しがつく」

 

向こうで、梟が首を回した。

 

自分が何を引き合いに出されたかなど、関わりのない顔だった。

 

ルイズは、その梟にまで腹が立ちそうになり、慌てて目を戻した。

 

エメトセルクは、彼女を見ていた。

 

怒っている。

 

急いでいる。

 

こちらがさっさと頷けば、それで話が済むと思っているのだろう。

 

だが、最初に「お前が呼んだのか」と尋ねたとき、少女は逃げなかった。

 

あれだけ注目を集めた中で、誰かのせいにすることもなく、前へ出てきた。

 

呼んだのは、わたしだと。

 

その次に聞こえたのが、「あなたを呼ぶつもりではなかった」だったのは、いただけないが。

 

エメトセルクは、もう一度周囲を見た。

 

知らない動物。

 

知らない服。

 

教師が説明する、聞き慣れない魔法の習わし。

 

この草原には、自分の知識だけで片づけられないものが、幾つもあった。

 

何に捉えられたのか。

 

なぜ、こうして肉体まで与えられたのか。

 

答えは、まだ一つもない。

 

契約は、召喚とは別の手順らしい。

 

ならば、ここで拒むこともできる。

 

拒んだ後、知らない土地で一人、調べ始める道もあるだろう。

 

ただ、目の前には、その術を学ぶ学院の教師と、自分を呼んだ術者がいる。

 

「……まったく」

 

彼は、小さく呟いた。

 

休息を望んだことに、変わりはない。

 

それでも、教師の説明を聞くうち、苛立ちだけではないものが残り始めていた。

 

今も、彼女の杖を目が追っている。

 

そんな自分に、いささか呆れた。

 

「説明は、わかった。契約を受けよう」

 

ルイズは、返事をし損ねた。

 

コルベールも、一度彼を見直す。

 

「よろしいのですか?」

 

「ああ。こちらにも、知りたいことができたのでね」

 

エメトセルクは、少女へ向き直った。

 

「ただし、ルイズ――で、よかったな」

 

彼女は頷きかけ、途中で止めた。

 

「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ」

 

家名まで、はっきり告げた。

 

彼は、最後まで黙って聞いた。

 

「では、ミス・ヴァリエール。私は、お前の奴隷になるつもりはない。命令に無条件で従うわけでもないぞ」

 

ルイズの顔から、喜びかけた色が引いた。

 

「わたしが、主人なのよ」

 

「その呼び名は聞いた」

 

落ち着いた声だった。

 

「お前の身の安全については、可能な範囲で責任を持とう。それ以外のことは、私自身が判断する。それでもよければ、だ」

 

「……守ることは、してくれるのね」

 

「ああ。引き受けると言ったことを、忘れるつもりはない」

 

ルイズは、彼の顔を見上げていた。

 

ほかの使い魔は、こんな条件を出したりしない。

 

わざわざ、自分は奴隷ではないと言うことも。

 

だが、ようやく呼べたのだ。

 

立派かどうかも、何ができるかも、まだ知らないけれど。

 

今、目の前に、いる。

 

「……わかったわよ」

 

彼女は答えた。

 

すぐに、付け足す。

 

「でも、主人がわたしだってことは、忘れないで」

 

「随分と、念入りな確認だな」

 

「大事なことだからよ!」

 

教師の後ろで、忍び笑いが漏れた。

 

ルイズは振り向こうとして、やめた。

 

今は、それより先にやることがある。

 

「先生。契約を、進めていいですよね」

 

コルベールは、二人の顔を順に確かめた。

 

「ええ。では、コントラクト・サーヴァントを」

 

ようやく聞けた言葉だった。

 

ルイズは杖を持ち直した。

 

今度こそ。

 

胸の内で、もう一度だけそう思った。

 

「それで、何をすればいいのかね」

 

エメトセルクが尋ねた。

 

ルイズは、答える前に一度唇を結んだ。

 

今まで、召喚を成功させることばかり考えていた。

 

契約の作法も知っている。

 

ただ、その相手を思い浮かべたとき、目の前のような男が出てきたことは、一度もなかった。

 

「わたしが、呪文を唱えるの」

 

「ああ」

 

「それから……口づけをするわ」

 

間があった。

 

エメトセルクの目が、教師へ動く。

 

コルベールは、眼鏡の位置を直した。

 

「それが、契約を結ぶための作法です」

 

「なるほど。最後まで、馴染みのない儀式だ」

 

「嫌なら、目を閉じていればいいでしょう!」

 

ルイズの声が裏返った。

 

言ってから、余計に恥ずかしくなった。

 

周りには、皆がいる。

 

キュルケも、こちらを見ている。

 

エメトセルクは、黙って彼女を見下ろしていた。

 

ルイズは顎を上げたまま、目を逸らさないようにした。

 

相手が大きい。

 

背伸びをしても、その顔へ届くとは思えなかった。

 

先ほどまで、主人だと何度も言っていた自分から、屈んでほしいと頼む。

 

それも、ひどく格好がつかない気がした。

 

彼女の視線が、自分の靴と彼の顔を往復する。

 

エメトセルクは、やっと困っている理由を察した。

 

「……始まる前から、難儀なことだな」

 

長衣の裾を払う。

 

片膝を草へつくと、ルイズの前へ顔の高さを合わせた。

 

急に近づいた金色の目に、彼女は半歩、後ろへ下がりかけた。

 

踏みとどまる。

 

エメトセルクは、口元を僅かに動かした。

 

「逃げるのは、まだ早かろう」

 

「逃げてないわよ」

 

「では、どうぞ。こちらの支度は済んだ」

 

さっきまで見上げていた顔が、すぐ目の前にある。

 

知らない男だ。

 

今日、初めて会った。

 

しかも、口を開けば言い返してくる。

 

ルイズは、余計なことを考えるのをやめた。

 

これは、儀式。

 

何度も失敗した召喚を、ちゃんと終えるためにすることだ。

 

一度息を吸い、杖を掲げる。

 

「我が名は、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」

 

今度は、はっきりと声が出た。

 

続く契約の言葉を唱える。

 

目の前の相手と、自分とを結ぶための呪文。

 

エメトセルクは、その間、静かにしていた。

 

彼女の内側に、力が集まっていく。

 

召喚の残滓とは、少し違う。

 

杖を通して整えられたものが、こちらへ届こうとしていた。

 

何が起きるかを見逃さぬよう、彼は注意を向ける。

 

ルイズの声が止まった。

 

彼女は杖を持つ手を少し下げ、空いた方の手を、彼の肩へ添えた。

 

黒い布の感触が、指の下にあった。

 

一瞬だけ、目を閉じる。

 

唇が、触れた。

 

すぐに、離れる。

 

ルイズは顔を引き、肩から手を放した。

 

「……これで」

 

言い終える前に、エメトセルクの左手へ熱が走った。

 

彼は、そちらへ顔を向ける。

 

甲の内側から、細い光が浮き上がった。

 

幾つもの線がつながり、見知らぬ文字の形を取っていく。

 

皮膚の上だけで、起きているのではない。

 

熱とともに、もっと深いところへ何かが触れた。

 

今、得たばかりの身体の奥へ。

 

それでいて、肉体だけを探っているとも思えない。

 

エメトセルクは、僅かに眉を寄せた。

 

「……ほう」

 

指を開く。

 

文字は、消えなかった。

 

組み合わされた線の一つ一つへ、目を向ける。

 

読むことはできない。

 

似た紋様を知っているというだけで、同じ術と決めつける気にもなれなかった。

 

「熱い?」

 

ルイズが尋ねた。

 

彼は、ようやく目を上げた。

 

「ああ。少しな」

 

「契約のルーンが刻まれているのよ。使い魔には、できるものだから」

 

声に、先ほどまでとは違う響きがあった。

 

エメトセルクが手を戻すと、彼女は、身を乗り出すようにして文字を見た。

 

途中で、触れるのをためらった指が止まる。

 

その顔へ、安堵が広がっていった。

 

爆発ではない。

 

煙だけを残して、消えるものでもない。

 

自分の呪文が、ちゃんと、ここに残っている。

 

「先生」

 

ルイズが振り返った。

 

コルベールは、すでにそばへ来ていた。

 

「できていますよ、ミス・ヴァリエール」

 

教師の目が、彼女から左手へ移る。

 

「契約は、成立しました」

 

ルイズは、下ろしかけていた杖を胸の前へ引き寄せた。

 

大きく笑うのは、何だか癪だった。

 

ここまで待たせた生徒たちも見ている。

 

それでも、頬が緩むのを止めきれなかった。

 

コルベールは、刻まれた文字を見つめていた。

 

見慣れた使い魔の印とは、どこか違う。

 

何かが、記憶に引っ掛かる。

 

しかし、すぐに名前や書物へ結びつくものではなかった。

 

「……珍しい形ですね」

 

口に出たのは、それだけだった。

 

エメトセルクは、教師を見る。

 

「読めるのかね?」

 

「いえ。今、この場では。ただ、あまり見かけない印だと思いまして」

 

「そうか」

 

彼は、それ以上を求めなかった。

 

刻まれたばかりの文字から、光が薄れていく。

 

だが、紋様そのものは残った。

 

エメトセルクは立ち上がり、指をゆっくり曲げた。

 

動きに不自由はない。

 

熱も、次第に引いている。

 

何が結ばれたのかを確かめようにも、これだけでは、まだ足りなかった。

 

向かい合ったルイズが、再び顔を上げた。

 

「これで、あなたはわたしの使い魔よ」

 

今度の言葉には、確かな手応えがあった。

 

エメトセルクは、彼女の顔と、自分の左手を見比べた。

 

「そのようだな」

 

「あまり、嬉しそうじゃないわね」

 

「お前のように、朝から待ち望んでいたわけではないのでな」

 

ルイズは、言い返しかけた。

 

けれど、その前に、彼がもう一度手を返した。

 

教師も、その文字を目で追っている。

 

自分には、成功の印に見えるものを、二人は、まだ何かを確かめるように眺めていた。

 

「……消えたりしないわよね?」

 

思わず尋ねると、エメトセルクがこちらを見た。

 

「それは、こちらが聞きたい」

 

「普通は、消えないのよ」

 

「では、その普通を、私も知る必要がありそうだ」

 

答えながら、左手を下ろす。

 

ルイズは、まだ消えずにある文字を一度見た。

 

それから、誰にも取られまいとするように、男の隣へ立ち直った。

 

春の風が、二人の間を通り抜けた。

 

黒い袖の端から、見知らぬルーンが覗いていた。

 

第1章 第1話 完

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