「これで、春の使い魔召喚の儀式を終了します」
コルベールの声に、生徒たちが一斉に動き出した。
長かった、と誰かが言った。
ルイズは聞こえないふりをした。杖を握る手には、まだ少し力が入っている。
その隣で、エメトセルクは左手を裏返していた。
甲に刻まれた文字は、光を失っても消えなかった。指を曲げても、皮膚の上にあるだけの模様とは思えない感覚が残っている。
だが、いま眺めているだけで答えが出るものでもなさそうだった。
「……戻るわよ」
ルイズが言った。
「学院へか?」
「ほかに、どこがあるの」
「私は今、ここ以外の場所を知らんのでな」
返事をしようとしたルイズの前で、少年の足が草から離れた。
別の少女も浮かび上がる。抱えていた猫が一声鳴き、生徒たちは杖を手に、学院の塔へ向かっていった。
エメトセルクは、その動きを目で追った。
術を使う直前、彼らの内側で力が集まっていた。
馴染みのあるものに近い。
だが、まったく同じではない。
「ミスタ・コルベール。少々、よろしいか」
帰り支度をしていた教師が振り返った。
「ええ、何でしょう」
「今、彼らを浮かせた魔法は、身体そのものを変えているのかね?」
コルベールは生徒たちを見上げ、それから問いの意味を確かめるように彼を見た。
「いいえ。身体を変えるのではなく、対象を浮かせる術です。レビテーションといいます」
「人以外にも使える?」
「もちろんです。もっとも、何でも同じように持ち上げられるわけではありませんが」
教師の視線が、長身の男を下から上へ動いた。
エメトセルクは眉を上げた。
「今すぐ、私で試してくれという意味ではないぞ」
「ああ、いえ。失礼しました」
コルベールは、少し慌てて笑った。
「詳しくお話しするなら、落ち着いて資料も用意した方がよさそうですね」
「それは助かる。知らない術を眺めていると、どうにも疑問が増える」
その言葉に、コルベールの目が僅かに明るくなった。
尋ね返したいことは、彼の方にもあるのだろう。だが、教師はルイズを見てから、話を戻した。
「手の方はいかがですか。刻印の後も、痛みはありますか?」
「いや。先ほど熱を感じたが、今は何ともない」
エメトセルクが左手を見せる。
コルベールは文字へ注意を留めた。
それでも、手を取ったり、さらに調べさせるよう求めたりはしなかった。
「何か変化があれば、知らせてください。人の姿をした使い魔については、私にもわからないことがありますので」
「承知した」
「それでは、ミス・ヴァリエール。あなたも戻って、使い魔を休ませてあげなさい」
「……はい」
教師は杖を掲げた。
二人のそばから身体が浮き上がり、やがて、草原にはルイズとエメトセルクだけが残った。
彼女は杖を制服の下へしまった。
「歩くのか?」
その一言で、動きが止まる。
「……悪い?」
「いや。確認しただけだ」
「今日は、歩きたいのよ」
エメトセルクは、遠ざかる生徒たちと少女を見比べた。
何度もの爆発。
そのたびに上がった笑い声。
ここでわざわざ、飛べないのかと聞き直す必要はなかった。
「では、そうしよう」
ルイズは、何か言われるつもりで構えていた顔を、急いで前へ向けた。
彼は長い脚を動かし、その横へ並んだ。
*
学院の門へ着く頃には、二人の影が道の脇へ長く伸びていた。
本塔を中心に、幾つもの石造りの塔が並んでいる。遠くからは一つの大きな建物に見えたものが、近づけば、中庭や渡り廊下を持つ広い施設なのだとわかった。
窓の縁には細かな彫刻があり、踏み減った石段の端は、丸くなっている。
エメトセルクが立ち止まった。
ルイズは数歩先で振り返った。
「何を見ているの?」
「随分、長く使われているようだな」
「由緒があるのよ。トリステインでも、こんな学院はほかにないんだから」
「なるほど。立派な建物を持つだけでは、足りないわけか」
「当たり前でしょう。立派な先生も、書物も、ここに集まっているの」
ルイズは得意げに本塔を示した。
「貴族の子供たちは、ここで魔法を学ぶのよ。わたしも、今年から二年生なんだから」
「そのトリステインというのが、この国の名か?」
彼女の指が止まった。
「……本当に、知らないの?」
「知らん。案内役がいて助かった」
からかわれたのか、それとも素直に言われたのか。
すぐには決められず、ルイズは眉を寄せた。
「トリステイン王国よ。ここは、王国の魔法学院」
「では、覚えておこう」
「あなたの国には、こういう場所はないの?」
「学ぶための場所なら、ある」
「どこの国?」
彼は、少女へ目を向けた。
「遠いところだ」
「国の名前くらい、言えるでしょう」
「名だけ聞いても、お前には場所がわからんだろうな」
「地理くらい、勉強しているわよ」
「それでも、だ」
ルイズの頬が膨らんだ。
エメトセルクは門を抜け、改めて本塔を見上げた。
建物の内にも、庭にも、幾つもの魔法的な気配がある。使い魔らしい生き物が芝の上を動き、窓辺では、まだ誰かが杖を振っていた。
ただの異国、と片づけるには、知らないものが多すぎる。
一方で、通路の幅や人の行き来、教師と生徒を分ける立ち居振る舞いには、見知ったものもあった。
まずは、ここで暮らしてみる。
契約を受けた以上、その判断を今さら惜しむつもりはなかった。
「……図書館もあるのか?」
ルイズが、彼の横顔を見た。
「もちろん。大きな図書館があるわ。魔法について調べるなら、そこへ行けばいいのよ」
「それは、よいことを聞いた」
今度の返事には、皮肉が混じっていなかった。
ルイズは、少しだけ胸を張り直した。
「だから、勝手に迷子にならないで。あなたがどこにいるか、わからなくなったら困るもの」
「これほど目立つ迷子も、そうはいないだろうが」
ちょうど、通りかかった下級の使用人が、彼を見上げたまま歩調を緩めた。
ルイズはそれを見て、反論を諦めた。
女子寮へ入ると、廊下は外よりひんやりしていた。
窓から入る光が、石床を斜めに照らしている。
ルイズは階段を上がり、後ろを見た。
エメトセルクは天井の高さを確かめるように一度顔を上げ、踊り場では肩の向きを変えた。彼には、どこも少しずつ狭いらしい。
その姿を見ているうちに、別のことが気になった。
「あなた、貴族だったの?」
「今度は、身分の調査か」
「その服、変わっているけど、安物には見えないわ。それに、ミスタ・コルベールにも、普通に話していたし」
「教師に話しかけるのに、身分証が必要だとは聞いていないぞ」
「そういう意味じゃないわよ」
ルイズは足を止めた。
聞かずにすませられるものなら、そうしたかった。
しかし、目の前の男が何者なのかわからないまま、自分の使い魔として連れ歩いているのだ。
エメトセルクも、それはわかっていた。
「かつては、貴族に近い立場にいたこともある」
彼は答えた。
「ただし、ここで持ち出すような肩書はない。それで、当面の用は足りるかね?」
ルイズは、彼の顔を見上げた。
貴族に近い。
その言い方も、気になった。
だが、本人は、何か特別な待遇を求める顔をしていなかった。
「……使い魔の主人は、わたしだからね」
結局、言えたのはそれだった。
「それは、よく覚えているとも」
彼の声が少し愉快そうに聞こえたので、ルイズは急いで鍵を出した。
「ここが、わたしの部屋よ」
扉を開けて中へ入る。
ベッドと机、衣装箪笥。壁に掛けた鏡の下には、いつも使っている櫛が置かれていた。
外出する前と何も変わっていない。
その部屋へ、エメトセルクが身を屈めて入ってきた。
一人増えただけで、部屋が狭くなった。
ルイズは、自分の持ち物と、大きな男を交互に見た。
召喚したものは、ずっと主人のそばにいる。
そう教わってきた。
だが、実際に連れ帰った後のことは、あまり考えていなかった。
エメトセルクは窓のそばへ歩いていた。
中庭と、塔と、その向こうにある森が見える。
「……静かだな」
その呟きは、彼女に向けたものではなさそうだった。
ルイズは、返しかけた言葉を止めた。
彼は、窓枠にもたれず、ただ外を眺めている。
何を考えているのか、わからない。
それが少し面白くなくて、彼女は机のそばへ戻った。
「これからのこと、決めるわよ」
エメトセルクが振り返った。
「ようやく、話がそこへ来たか」
「何よ。そのために連れてきたんでしょう」
「では、聞こう」
彼女は、いつも勉強するときに使っている椅子へ目をやった。
勧める前に、彼は椅子の大きさを見て、少し首を傾けた。
ルイズは、なぜか、自分が悪いことをしたような気分になった。
「使い魔の役目は、さっき聞いたわね」
ルイズは、椅子を机から少し離しながら言った。
「主人の目や耳になって、秘薬の材料を探して、それから――」
「主人を守る。ミスタ・コルベールの説明は覚えている」
エメトセルクは椅子へ腰を下ろした。
膝が高くなる。
少し考えて脚の置き場を変えたが、椅子そのものが大きくなるわけではなかった。
「ほかの役目は、明日から教えてあげるわ」
「探すものについてなら、見本も頼む。知らない植物を、名だけ聞いて持ち帰る気はないのでね」
「……それくらい、見せるわよ」
素直に話が進んだので、ルイズは少し調子を取り戻した。
「あと、部屋の掃除と、洗濯も」
「それは断る」
間を置かない返事だった。
彼女は、椅子のそばで立ち止まった。
「まだ、説明が終わってないでしょう!」
「聞き間違えてはいないつもりだが」
「使い魔なんだから、主人の世話をするのは当たり前よ」
「その『当たり前』が、さっき草原で話した条件には入っていなかったのだろうな」
ルイズは口を開いた。
すぐには言葉が続かなかった。
奴隷ではない。
何でも従うわけではない。
確かに聞いた。
あのときは、ともかく契約を終えたかった。そうしなければ、今日の儀式で失敗したままになる。
だが、それで使い魔の役目までなくなったつもりではなかったのだ。
「……だったら、わたしだけで全部やれっていうの?」
「今日までは、どうしていた?」
「洗濯は、まとめて出していたわ。掃除だって、使い魔を呼んだら自分でやるようにって……」
そこまで言って、ルイズは口を閉じた。
エメトセルクは、彼女の制服の裾と、小さな手を見た。
「新しく受け持つことになった仕事を、そっくり私へ任せる算段だったわけか」
「使い魔の仕事なの!」
「私は護衛を引き受けた。掃除と洗濯を日課に加える話は、別だ」
彼の声は大きくなかった。
そのせいで、ルイズも怒鳴り続けるわけにはいかなかった。
「……主人の言うことが聞けないの?」
「聞いて、断っているのだよ」
ルイズは、椅子の前で拳を握った。
相手は契約した使い魔だ。
それなのに、教師に意見をするときも、自分に返事をするときも、まるで態度が変わらない。
普通なら、と思う。
だが、普通の使い魔に、掃除や洗濯の話を最後まで聞いてもらうものなのか。それも、よくわからなかった。
「それじゃあ、あなたに何ができるのか、わからないじゃない」
苛立ちに混じって、本音が出た。
エメトセルクが、彼女を見た。
「私が何を知っていて、何ができるかも聞かずに、働き方だけは決められるのかね?」
「……それは」
ルイズは、目を逸らしかけた。
だが、ここで逸らすのも悔しかった。
「だったら、教えなさいよ」
「少なくとも、この土地の秘薬は知らん。お前の目で見ているものが、こちらに見えるわけでもなさそうだ。今、約束できることは草原で話したとおりだ」
あっさりと答えられた。
ルイズは、彼の左手へ目をやった。
ルーンはある。
契約は、できた。
その先で何が起きるのかを、自分も知らない。
彼女が黙ると、エメトセルクも、それ以上は畳みかけなかった。
窓の外で、使い魔らしい鳥の声がした。
ルイズは壁の鏡を見た。
今日は、ほかの生徒と同じように使い魔を連れ帰るはずだった。
念願どおりに連れ帰った。
ただ、その相手が、自分よりもよほど落ち着いて、こちらの返事を待っている。
「……寝る場所は、どうするのよ」
話を変えたつもりが、それもまた、何も決めていない問題だった。
エメトセルクは、部屋を見渡した。
「空いている部屋を借りられるなら、それがよかろうな」
「使い魔に、個室なんて貸してもらえないわ」
「教師に尋ねたことは?」
「ないけど……聞いたことないもの」
ルイズは、ベッドへ目を向けた。
自分一人が眠るには、十分な広さがある。
だからといって、この男をそこへ寝かせるという話にはならない。
かといって、どこを指せばいいのかも困った。
エメトセルクは、その視線を見て、椅子の背へ手を置いた。
「今夜は、これを使わせてもらおう」
「椅子で?」
「ああ。窓のそばなら、出入りの邪魔にもなるまい」
「……それ、小さいでしょう」
「気づいてはいたか」
からかう口調に、ルイズは眉を寄せた。
彼が脚を組もうとして、やめる。
その動きは、少しもつらそうではなかった。
だが、小さく見える椅子で一晩座っていれば、普通は身体が痛くなるはずだ。
ルイズは、衣装箪笥の脇へ歩いた。
畳んで置いてあった予備の毛布を取り、少し迷った。
さっきは、掃除まで断られた。
その直後に世話を焼くのも、何だか、自分ばかり折れているようではないか。
腕の中で、毛布を持ち直す。
それでも、棚へ戻そうとは思わなかった。
「これ」
エメトセルクが顔を向けた。
差し出されたものを見る。
「使いなさい。椅子に掛けてもいいし、寒かったら、身体に掛ければいいわ」
彼は、すぐには受け取らなかった。
ルイズの眉が上がった。
「何よ。毛布も嫌なの?」
「いや。ありがたく借りよう」
大きな手が、折り畳まれた布を受け取った。
指が触れないよう、ルイズは先に手を引いた。
エメトセルクは毛布を広げ、大きさを確かめた。
それから、椅子の背へ掛ける。
「助かる」
短い言葉だった。
けれど、掃除の話をしたときとは違う返事だった。
ルイズは腕を組んだ。
「風邪なんてひかれたら、わたしが困るんだからね」
「できるだけ、迷惑は掛けぬようにしよう」
きちんと返されると、何だか調子が狂った。
彼女は机へ向き直り、意味もなく櫛の位置を直した。
エメトセルクは、その背中を眺めていた。
寝床をどう与えるか、という顔ではなかった。
椅子が小さく、夜になれば冷える。
そこへ気づいた少女が、持っているものを差し出したのだ。
まだ、さっきの話を納得したわけではなさそうだったが。
毛布を指先で整え、彼は少しだけ息を吐いた。
なかなか、忙しい主人らしい。
やがて、寮の外から、食事の支度を知らせるざわめきが聞こえ始めた。
ルイズが窓へ目を向ける。
「夕食に行くわよ」
「食堂があるのか?」
「もちろん。ここは貴族の学院だって、言ったでしょう」
「それは聞いた。食事の場所まで、伺ってはいないのでね」
ルイズは、彼を振り返った。
椅子に掛けた毛布が、その後ろに見えた。
「……あなたも、来るのよ」
「世話になる」
エメトセルクは立ち上がった。
ルイズは扉を開けながら、少しだけ得意そうに言った。
「食堂は、きっと驚くわ。あんな場所、そうそう見られるものじゃないんだから」
*
廊下へ出ると、隣の部屋の前に、青い髪の少女がいた。
小脇に本を抱えている。
ルイズたちへ顔を向けたところで、その隣の扉が開いた。
「あら、ルイズ。ちょうどよかった」
赤い髪の少女が、笑みを浮かべて出てきた。
キュルケだった。
制服の襟元は大きく開き、褐色の肌が覗いている。その足元から、赤い鱗を持つ生き物がゆっくりと現れた。
「食事に行くところ?」
「見れば、わかるでしょう」
「ええ。でも、あなたがちゃんと使い魔を連れているのを見ると、少し不思議な気分になるわ」
ルイズの顔が険しくなる。
キュルケの目は、すでにその後ろへ向いていた。
「あらためて、ごきげんよう。わたしはキュルケ。『微熱』のキュルケよ」
「エメトセルクだ。ご丁寧にどうも」
「知っているわ。さっき、聞いていたもの」
何を聞いていたかは、言わなかった。
ルイズが口を挟む前に、キュルケは傍らの少女を示した。
「こちらは、タバサ」
青髪の少女が、小さく会釈した。
エメトセルクも頷き返す。
タバサの眼鏡の奥の目が、彼の顔から、扉の上枠へ動いた。
彼が出入りに使った高さを確かめるような、短い視線だった。
「本当に、近くで見ると大きいのね」
キュルケが言った。
「皆、それから始めるらしいな」
「ほかにも、いろいろ聞きたいわ。あの服も、どこで仕立てたのかしら」
「キュルケ!」
ルイズが割り込んだ。
「わたしの使い魔に、質問ばかりしないで」
「あなただって、まだ全部は聞いていないでしょう?」
言い返そうとしたところで、足元を長い尾が横切った。
ルイズは慌てて一歩下がる。
赤い生き物が、エメトセルクの靴のそばで頭を上げていた。
「……ほう」
彼は屈みかけ、そこで止めた。
手を差し出す代わりに、キュルケへ目を向ける。
「近づいても、構わないものかね?」
「ええ。フレイムよ。火竜山脈に棲むサラマンダーなの」
「それなら、この熱にも合点がいく」
身体から届く熱気だけではない。
彼女の使い魔には、その熱とよく似た性質の力が宿っているように感じられた。
ただの爬虫類とは違う。
エメトセルクが少し身を屈めると、フレイムは鼻先を上げた。
キュルケが、喉の辺りを撫でる。
「火の魔法を得意とするわたしには、ふさわしい使い魔でしょう?」
「なるほど。互いに馴染みのよい相手を呼べることもあるわけか」
「そういうことよ。ねえ、ルイズ?」
急に話を振られ、ルイズは顔を上げた。
キュルケの口元が、楽しそうに動く。
「あなたも、ぴったりの相手を呼んだのかしら」
「ちゃんと、召喚できたでしょう!」
「ええ。どんなことができるのか、楽しみね」
ルイズは、今さっき部屋で交わした話を思い出した。
何ができるのか。
自分でも、まだ、よくわからない。
隣でエメトセルクが立ち上がった。
「初対面の相手に、食前の実演まで求めるものではないだろう」
キュルケが、彼を見た。
すぐに、愉快そうな笑みを浮かべる。
「だったら、続きはお食事の後にでも」
「予定を決めるのが早いな」
「機会を逃すよりは、いいでしょう?」
タバサが、抱えた本を持ち直した。
「……食堂」
短い一言だった。
キュルケは横を向き、窓から入る夕日を確かめた。
「そうね。行きましょうか」
フレイムが先に廊下を歩き始めた。キュルケとタバサが続く。
ルイズは、二人から少し間を空けて歩いた。
「……あの女の言うこと、本気にしないでよ」
小声で告げる。
エメトセルクは、前を歩く赤い髪へ一度目を向けた。
「知り合いなのだろう?」
「ツェルプストー家の人間よ。ヴァリエール家とは、昔から仲が悪いの」
「なるほど。主人を選ぶと、その家の喧嘩までついてくるわけか」
「喧嘩って、そんな簡単なものじゃないわよ!」
彼は、それ以上は尋ねなかった。
ルイズの声が届いたらしく、前でキュルケが肩越しに振り返る。
「悪口は、もう少し小さな声で言うものよ」
「あなたに聞かせているんだから、いいの!」
キュルケは笑って前を向いた。
タバサも一度だけ振り返った。
何も言わなかったが、その目は、二人の間にいる長身の男へ留まっていた。
エメトセルクは歩幅を緩めた。
今夜は、静かな食事にはならないかもしれない。
アルヴィーズの食堂へ入ると、話し声が高い天井へ広がっていた。
長い卓に、白い布が掛けられている。
銀の燭台。
磨かれた食器。
壁際に並ぶ彫像の間を、黒と白の服を着た給仕たちが行き来していた。皿を運ぶ足取りは早いが、生徒のそばへ来ると静かになる。
「どう?」
ルイズが、彼を見上げた。
「十分、驚いた?」
エメトセルクは、天井から卓へ目を戻した。
「立派な食堂だ。彫刻の手入れにも、手間が掛かっていそうだな」
「そうでしょう」
彼女は、ようやく納得のいく返事を聞けた顔をした。
キュルケは少し先で、知り合いの男子生徒へ挨拶していた。タバサはその隣を通り、卓の向こう側へ腰を下ろす。
ルイズも、自分の席へ進んだ。
周囲の視線が、エメトセルクに集まった。
人を連れてきた、というだけの視線ではない。
昼の儀式にいた者が、隣の者へ何か囁く。
その間を、給仕の少女が盆を持って通り抜けた。
「ミス・ヴァリエール。こちらでよろしいですか?」
「ええ。ありがとう」
ルイズが席に着くと、少女は温かなスープを置いた。
エメトセルクは、その後ろで足を止めていた。
ルイズの隣は、生徒が使っている。
卓には、人数に合わせた食器が並んでいるらしかった。
「少しいいか」
呼びかけると、少女が顔を上げた。
彼の顔まで目を向けるのに、顎が上がる。
「はい。何か、ご用でしょうか」
「私の食事について、誰に相談すればよいかね?」
少女は、彼の服と、ルイズを見た。
「こちらの方は……」
「わたしの使い魔よ」
ルイズが答えた。
給仕の少女の手が止まった。
「あの、召喚されたという……」
「ええ」
噂は、もう届いているらしい。
少女は慌ててエメトセルクへ頭を下げた。
「失礼いたしました。使い魔のお食事は、主人の方がご用意されることになっています」
エメトセルクは、ルイズへ目を向けた。
「とのことだが」
彼女は自分の前にある皿を見た。
肉も、パンもある。量も、一人で食べきれないほどだった。
「少し分ければいいでしょう。器をもう一つ、持ってきてくれる?」
少女は頷いた。
ルイズは卓の下へ目をやった。
足元は、広い。
小さな使い魔なら、いつも主人のそばで食べる。そのための場所だった。
「この辺りに置けば、邪魔にもならないし」
言いながら、床を示す。
給仕の少女が、動かなかった。
エメトセルクも、すぐには何も言わなかった。
ルイズは顔を上げた。
大きな男の目と、合った。
「……何よ」
「器を置くのは、卓の上にしてもらえるか」
彼の声は、低く、はっきりしていた。
「床で食事をするつもりはない」
ルイズは、指先を引っ込めた。
「だって、使い魔は、皆そうしているもの」
「私は、ここまでお前と歩いてきた。椅子にも座るし、食事には匙を使う」
彼は、空いていない隣の席を一度見た。
「そのうえで、ほかの使い魔と同じ場所へ置けば済むのかね?」
ルイズは口を開きかけた。
さっき部屋で、彼が座れるかどうか、椅子を気にしたばかりだった。
それでも、食堂では、使い魔は床にいるものだと思っていた。
「あちらの卓にも、席はないのよ」
少し声が上ずった。
「ここは、貴族の食堂なんだから。人の姿をしているからって、急に生徒と同じにするわけにはいかないでしょう」
「では、別の場所で食べよう」
あっさりと言われた。
その返事が、ルイズをなおさら困らせた。
「別の場所って……」
エメトセルクは給仕の少女へ向き直った。
「厨房の責任者に、相談できるだろうか。席も食事も、こちらに無理に用意してもらう必要はない」
少女は、ルイズへ一度目を向けた。
許しを待つような視線に、ルイズは唇を結んだ。
「……案内するくらい、いいわよ」
「ありがとうございます。では、お伺いしてみます」
少女が盆を抱え直した。
エメトセルクも、その後についていこうとする。
ルイズは、思わず椅子から腰を上げた。
「ちょっと。勝手に、どこまで行くつもり?」
彼が振り返る。
「食事の相談だ。学院の外まで、夕食を探しには行かんさ」
「そういうことじゃ……」
周囲からの視線に気づいた。
近くの生徒が、聞こえないふりをしながらこちらを見ている。
ルイズは、ゆっくりと座り直した。
エメトセルクは、彼女の前の皿へ目を向けた。
「冷める前に食べたまえ。私は、食事を済ませたら部屋へ戻る」
ルイズは、答えなかった。
彼は、その沈黙を了承と受け取った。
黒い長衣が、給仕の少女とともに、生徒たちの間を抜けていく。
食堂の奥の扉へ着く手前で、少女が声を落とした。
「あの……よろしかったのでしょうか」
「何がだ?」
「ミス・ヴァリエールの、お言いつけと違ってしまいましたから」
エメトセルクは、少しだけ彼女を見た。
ここでは、相手に従うかどうかまで、身分によって決まると思われているらしい。
少女は、彼女なりに、後で困ったことにならないか心配しているのだろう。
「契約したからといって、私が私でなくなるわけではないさ」
答えは、それだけにした。
少女は、すぐには頷かなかった。
それでも、顔を上げ、扉の脇へ身を寄せた。
「こちらです。中は、少し騒がしいですが」
「食事を作る場所なら、そのくらいの方が安心できる」
彼が言うと、彼女の緊張が、少し緩んだ。
「名前を、伺っても?」
「あっ。シエスタと申します」
「では、シエスタ。案内を頼む」
「はい」
扉が開いた。
食堂の話し声に代わって、鍋の蓋が鳴る音が聞こえた。
*
厨房の中は、熱かった。
竈の上で、大きな鍋が湯気を上げている。
食堂から戻ってきた空の盆が積まれ、その横を、焼いた肉を載せた皿が通っていった。誰かが短く数を告げると、別の者がすぐに返事をした。
シエスタは通路の端へ寄り、一人の男へ声を掛けた。
「マルトーさん。少し、よろしいでしょうか」
白い前掛けを着けた、恰幅のよい男だった。
鍋から顔を上げ、まずシエスタを見る。
それから、彼女の後ろにいる男を見上げた。
「……何だい。扉より大きな客だな」
「エメトセルクという。食事の相談に来た」
シエスタが、小さく息を吸った。
「ミス・ヴァリエールの、使い魔になられた方です」
マルトーは二人を見比べた。
「使い魔?」
「ああ。今日から、そういうことになった」
「人間じゃねえか」
「その点については、私も随分と指摘されている」
近くで皿を拭いていた男が、吹き出した。
マルトーも笑いかけたが、シエスタが困った顔をしているのを見て、話を戻した。
「で、食事ってのは?」
「こちらで食べられる場所はないかと思ってな。あちらでは、私の座る席がないらしい」
「ああ……そういうことか」
料理長は、彼の上等な長衣へ一度目をやった。
ただ、階級や生まれを尋ねるより先に、奥の卓を指した。
「賄いでよけりゃ、ちょうどある。あそこなら、座れるだろう」
「構わないのか?」
「腹が減るんだろ?」
「その点では、ほかの者と変わらんさ」
「だったら、まず食うことだ。シエスタ、深皿を一つ」
「はい」
エメトセルクは、一度頭を下げた。
「では、ご馳走になろう。料理長」
「マルトーでいいよ。ここは、きれいな食堂みたいにはいかねえがな」
「皿を置ける卓があれば、十分だ」
案内されたのは、厨房の奥にある木製の卓だった。
使い込まれた天板には、小さな傷が幾つもある。
椅子を引き、長い脚を脇へ逃がして腰を下ろす。足元にあった空の籠を少しずらすと、向こう側に座っていた料理人が、気づいて引き取った。
「すまない」
「いえ。こっちへ寄せときますから」
それだけで、彼の座る場所ができた。
シエスタが、湯気の立つシチューとパンを運んでくる。
「どうぞ。熱いので、お気をつけください」
「ありがとう」
匙を取り、一口食べる。
肉も野菜も、よく煮込まれていた。濃すぎない塩味の後から、香草の風味が残る。
マルトーは鍋へ戻りかけ、彼が匙を置いたのを見た。
「どうだい?」
「よくできている。香草を使いすぎていないのがいいな」
料理長の眉が、嬉しそうに上がった。
「煮込めば何でも同じって言う奴もいるんだがね」
「その理屈なら、水だけ入れて待っていればよかろう」
マルトーは、今度こそ大きく笑った。
「違いねえ。材料を入れた手間くらいは、わかってもらわねえとな」
彼は手近な若い料理人を呼び、鍋の様子を見てくるように言った。
空になった盆が戻り、食堂へ出す次の皿が並ぶ。
エメトセルクは、もう一口食べた。
豪奢な卓も、磨かれた銀器もない。
その代わり、皿が空くと、近くの者が気づく。
食べ終えた者が席を立ち、別の者がそこへ座る。
ここにも、順序と役割はあった。ただ、その中へ一人増えることについては、先ほどほど難しい話にならなかった。
シエスタは水を置き、食堂へ戻ろうとした。
「シエスタ。ひとつ、聞いてもいいか」
「はい」
「この学院にいる生徒たちは、皆、魔法を学ぶために来ているのだな」
「ええ。貴族の方々の学院ですから」
「魔法を使える家に生まれれば、ここで学ぶことになる?」
「すべての方が、こちらへ来られるわけではないと思います。でも、貴族の方は魔法を使われますし、私たち平民には使えませんから」
彼女は、ごく自然に答えた。
エメトセルクは、水の入った杯を置いた。
食堂で見た、席に着く者と、皿を運ぶ者。
それを分けるものは、服や家名だけではないらしい。
「では、魔法を使えない貴族は?」
シエスタは、返事に迷った。
「それは……あまり、存じません」
視線が、食堂へ続く扉へ動く。
その一瞬で、問い方を間違えたかもしれないとわかった。
身分の高い者について、使用人の少女に、評価をさせるような質問になっている。
「答えにくいことを聞いたな。無理に答えなくていい」
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。仕事へ戻ってくれ。案内は、助かった」
シエスタは丁寧に礼をして、盆を持っていった。
エメトセルクは、残ったシチューへ目を落とした。
昼の草原で、同じ服を着た少女だけが笑われていた。
家名を名乗るときは、あれほど胸を張るのに。
学院を案内するときも。
この国で魔法を使えないということが、どういう扱いに繋がるのか。
まだ、断片しか聞いていない。
それでも、あの笑い声の意味は、少し変わって聞こえた。
*
ルイズは、パンを小さく千切った。
目の前の料理は、十分温かい。
少なくとも、食べ始めたときはそうだった。
だが、何度も食堂の奥へ目が向いた。
エメトセルクの姿は、扉の向こうへ消えたままだった。
「……気になるの?」
声がして、ルイズは視線を戻した。
向かいに座ったキュルケが、杯を手にしていた。
その隣では、タバサが食事をしている。
彼女の本は閉じられ、椅子の脇へ置いてあった。
「何が」
「あの人よ。厨房で、ちゃんとお食事できているのかしら」
「知らないわよ」
ルイズは肉へナイフを入れた。
「自分で相談するって言ったんだから、何とかするでしょう」
「ふうん。まだ、どういう人かも知らないのね」
「今日、召喚したばかりなのよ」
「でも、あの人はあなたと契約したんでしょう? 少しくらい、言うことを聞いてくれそうなものなのに」
キュルケの声に、愉快そうな響きがあった。
ルイズは、切った肉をフォークへ刺した。
ひどく大きく切ってしまったので、もう一度皿へ戻す。
その動きまで見られている気がした。
「口を開けば、文句ばかりなのよ。何を言っても、当たり前みたいに言い返すし」
「あら。それは、あなたに似たんじゃない?」
「似てないわよ!」
キュルケが笑った。
タバサは杯へ手を伸ばし、その拍子にルイズを一度見た。
何も言わなかった。
それがかえって、ルイズには気になった。
「……何よ」
タバサは、少し首を傾けた。
「食べないの?」
視線が、皿へ向いている。
ルイズはフォークを握り直した。
「食べるわよ」
「そう」
タバサは自分の食事へ戻った。
キュルケは、まだ話をやめなかった。
「まあ、何も喋らない使い魔よりは、退屈しなくていいんじゃない? あの顔を眺めていられるなら、わたしは少し羨ましいわ」
「だったら、フレイムに顔を変えてもらえば?」
「あの子は、あのままで十分可愛いもの」
そう言って、キュルケは足元へ視線を落とした。
ルイズも、つられてそちらを見る。
フレイムは主人の椅子のそばで、落ち着いて身体を丸めていた。
そこにいることを、誰も疑問に思わない。
キュルケも、置き場所に迷ったりはしない。
「……わたしだって、ちゃんと呼べたわ」
ルイズは、小さく言った。
キュルケが顔を上げた。
「ええ。見ていたわよ」
「契約も、できた」
「そうね。随分、時間は掛かったけれど」
「それなら、いつまでもゼロって呼ばれる筋合いはないでしょう」
少しだけ、声が大きくなった。
隣の席から、誰かが顔を向ける。
キュルケは、杯を卓へ置いた。
「召喚は、成功したわね」
その言い方が、ルイズの胸へ引っ掛かった。
召喚は。
ほかは、という言葉が続かなくても、十分だった。
杖を握ったときの、手の感触を覚えている。
呪文はわかる。
順序も、杖の振り方も、何度も練習した。
それなのに、結果はいつも同じだった。
今日、初めて違うことが起きた。
土煙の向こうに、誰かが立っていた。
自分が呼んだ。
そう思ったとき、本当に嬉しかったのだ。
だが、連れて帰った相手は、言われるままに動いてはくれない。
使い魔はどうするものなのか。
自分は、主人として何をすればいいのか。
教わったことを口にすると、それは私に当てはまるのかと聞かれる。
「……明日は、授業でしょ」
ルイズは、皿へ目を落としたまま言った。
「見ていればいいわよ」
キュルケは、僅かに眉を上げた。
それから、肩をすくめる。
「ええ。楽しみにしているわ」
慰めでも、仲直りでもなかった。
ルイズは顔を上げず、肉を小さく切り直した。
床へ食事を置けばよい。
そう言ったときのエメトセルクの顔を、思い出す。
怒鳴らなかった。
皿をよこせと、命令もしなかった。
ただ、そういう扱いでいいのかと、こちらを見ていた。
あの長い脚を折って、床に座ったところを考えてみる。
うまく、想像できなかった。
部屋で、椅子を見下ろした姿なら、思い出せるのに。
だからといって、貴族の卓へ勝手に席を作れるわけでもない。
どうすればよかったのか。
考えがまとまらないまま、スープを一口飲んだ。
少し冷めていた。
*
厨房で食事を終えた後も、エメトセルクは、すぐには席を立たなかった。
戻ってきたシエスタから、普段の食事の時刻を聞く。
マルトーは片づけを指図しながら、朝もこちらへ来ればよいと答えた。
礼を言い、使った食器をどこへ戻せばいいか尋ねると、今度はシエスタが少し驚いた顔をした。
帰り際には、廊下を間違えないよう、目印まで教えてくれた。
そんな話をしている間に、食堂へ続く扉の往来は少なくなっていた。
寮へ戻る頃には、窓の外に夜空が広がっていた。
エメトセルクは、ルイズの部屋の前で足を止めた。
扉を叩く。
しばらくして、中から足音がした。
「……遅かったじゃない」
扉を開けた少女は、制服のままだった。
腕を組み、彼を見上げている。
「食事をしていた」
「それは知ってるわよ。食べて戻るって言ったでしょう?」
「少々、話し込んでしまってな」
エメトセルクは頭を下げて部屋へ入り、扉を閉めた。
ルイズは、彼の後ろへ目をやった。
シエスタがついてきているわけでも、誰かに連れ戻されたわけでもない。
「道は、覚えていたのね」
「この塔の階段を、そう簡単には忘れんさ」
「……別に、迷子になったと思ったわけじゃないけど」
彼は返事をせず、椅子を窓のそばへ引いた。
背に掛けられた毛布が、ふわりと揺れた。
ルイズも、ベッドの縁へ腰を下ろす。
靴先が、床を僅かに擦った。
「それで……ちゃんと、食べられたの?」
「十分にな。温かいシチューと、パンを頂いた」
「シチュー」
思わず、繰り返した。
床へ置こうとしたのは、自分の食事から分けた皿だった。
向こうでは、彼のための皿が出たのだ。
エメトセルクは、少女へ目を向けた。
「料理長が、気前のいい男でね。明日の朝も来てよいそうだ」
「……そう」
ルイズは、膝の上へ手を置いた。
食堂で自分の肉を小さく切り直していたとき、この男は、使用人たちと話しながら食べていた。
ちゃんと食べられたなら、それでいい。
そう思った。
一方で、自分が連れてきた使い魔なのに、自分の知らないところで居場所を決めてきたことが、少しだけ面白くなかった。
何か言おうとして、やめた。
厨房で食事をすることまで、駄目だとは言えない。
「厨房の方々には、失礼なことを言ってないでしょうね」
代わりに、そう尋ねた。
エメトセルクの眉が上がる。
「ご馳走になった相手へ、わざわざ喧嘩を売る理由もないだろう」
「……わたしには、いろいろ言うじゃない」
「お前とは、決めることが多いのでね」
ルイズは唇を尖らせた。
そのまま、窓際の彼を見る。
エメトセルクは、左手を持ち上げていた。
甲に、文字がある。
昼間と同じ形。
ルイズの契約が残したものだった。
彼は指先でなぞろうとして、途中で手を止めた。
文字が刻まれたとき、肉体よりも深いところへ触れられたような感覚があった。
その感覚が何だったのか、眺めるだけでは確かめられない。
かといって、知らない術式へ、今すぐ手を入れる必要もなかった。
左手を下ろす。
ルイズが、その動きを追っていた。
「気になるの?」
「ああ。今まで、身体のここへ、こんな文字を刻んだことはなかったのでな」
「使い魔には、できるものなのよ」
言ってから、彼女は少し黙った。
彼にとっては、初めてのことなのだ。
使い魔になることも、ここへ来ることも。
自分は儀式の日をずっと待っていた。
何度も失敗し、最後の一度に懸けた。
けれど、召喚された方は、そんなことを知らなかったはずだ。
「……ねえ」
「何だ?」
「呼ばれる前は、何をしていたの?」
エメトセルクは、顔を上げた。
「休むつもりだった」
「それで、ここへ?」
「ああ。実に、急な予定変更だった」
声には、いつもの皮肉が戻っていた。
ルイズは、少しだけ目を伏せた。
自分が契約を急かした理由と、彼が嫌そうにしていた理由は、同じではなかったのだ。
「……帰りが遅くなったって、誰かが心配したりしないの?」
彼の目が、彼女へ向いた。
「誰か?」
「家族とか。おうちの人とかよ」
ルイズは、膝の上で指を組んだ。
自分が突然、知らない土地へ連れていかれたら。
父も、母も、姉たちも、黙ってはいないだろう。
たとえ自分が魔法を失敗する娘でも、行方がわからなくなれば。
エメトセルクは、すぐには答えなかった。
窓の外で、枝が風に揺れている。
しばらく、その音だけがした。
「……私の故郷は、もう存在しない」
ルイズは顔を上げた。
昼間のように、質問をはぐらかす声ではなかった。
「……え?」
「随分と昔に失われた。今さら戻る場所でもない」
彼は、淡々と言った。
それで話を終えようとしているのか、ほかに言い方がないのか、わからなかった。
ルイズの口元で、次の質問が止まる。
どこの国なのか。
どうしてなくなったのか。
幾つも浮かんだ。
だが、どれも、今すぐ尋ねてよいことには思えなかった。
「……そう、なの」
やっと、それだけ言った。
エメトセルクは、短く頷いた。
その横顔を見ていると、今日まで自分が知っていた誰とも、重ならなかった。
学院を案内して、知らないことを教えてやれる相手。
こちらの言葉を、いちいちひっくり返す使い魔。
それだけで、済む人ではないらしい。
ルイズは、窓際の椅子へ目を向けた。
少し小さな椅子だった。
今夜は使うと言った。
そこから先のことは、まだ何も決まっていない。
食事をする場所さえ、自分で探してきた。
彼女は、ベッドの縁を軽く握った。
「……じゃあ」
エメトセルクが、こちらを見る。
「今は、ここにいればいいじゃない」
言ってから、自分でも少し驚いた。
言葉にする前は、もっと、当然のことを言うつもりだった。
エメトセルクは、少女を見たままだった。
「ここに?」
「そうよ。……だって、わたしが召喚したんだもの」
ルイズは顎を上げた。
「あなたは、わたしの使い魔なんだから。ここにいるのは、当然でしょう」
言い足すほどに、いつもの口調へ近づいていく。
エメトセルクは、彼女と、椅子へ掛けられた毛布を見た。
昼間、少女は、この部屋に誰がどう収まるかも考えずに扉を開けた。
今も、何がわかったわけではあるまい。
失った場所について、長い説明を聞いたわけでもない。
それでも、ここにはいてよいと、言おうとしている。
彼は、少しだけ目を細めた。
「随分と、勝手な主人だな」
ルイズの眉が動く。
「……嫌だっていうの?」
「いや」
椅子の背へ、静かに身を預けた。
「悪いとは言っていないさ」
返事を聞いて、ルイズは口を閉じた。
怒られたわけではない。
からかわれているのとも、少し違う。
何となく落ち着かず、彼女はベッドから立ち上がった。
「……とにかく。今夜は、そこを使っていいわ」
「ああ。借りるとしよう」
エメトセルクは、背へ掛けていた毛布を取り、膝に置いた。
ルイズはそれを確かめるように一度見てから、衣装箪笥へ向かった。
「そっち、向いていて」
「承知した」
彼は窓へ顔を向ける。
背後で、布の擦れる音がした。
やがてベッドが僅かに軋み、毛布を引き上げる音に変わる。
エメトセルクが目を戻すと、ルイズは天蓋の下で横になっていた。
「……灯り、消してもいい?」
「ああ」
彼女が身を起こし、枕元の燭台の火を吹き消した。
部屋に、淡い月明かりが残った。
窓の向こうには、二つの月が浮かんでいる。
エメトセルクは、その空を見ていた。
知らない場所に呼ばれ、聞いたことのない契約を結び、夕食の場所まで自分で探すことになった。
手間の掛かる一日だった。
だが、その終わりに差し出されたものまで、不運の一言にまとめることはなさそうだった。
膝の毛布を少し広げる。
ベッドの方では、ルイズが一度、寝返りを打った。
「……エメトセルク」
「何だ?」
「明日、勝手にどこかへ行かないでよ」
「行き先を知らせれば、よいのかね?」
返事までに、少し間があった。
「……そういうことよ」
彼は、僅かに口元を緩めた。
「わかった」
しばらくすると、寝台の方から、静かな寝息が聞こえ始めた。
エメトセルクも椅子へ身体を預け、目を閉じた。
窓から入る春の風が、カーテンの端を揺らしていた。
*
朝の鐘が、学院に響いた。
ルイズは、枕へ顔を押しつけたまま、しばらく動かなかった。
それから、急に目を開ける。
窓際に、大きな人影があった。
エメトセルクが、こちらを見ていた。
「……いたのね」
「昨夜、いてよいと言われたのでな」
ルイズは、頬が熱くなるのを感じた。
「そういう意味じゃないわよ!」
彼は、もう外の方を見ていた。
ルイズは身体を起こした。
椅子の背には、毛布が掛かっている。
昨夜と同じ場所にいるのに、そのことが、昨夜までとは少し違って見えた。
「ちゃんと、休めたの?」
「多少はな。それより、今日は授業があるのだろう?」
「あるわよ。だから、支度をするの」
「ならば、私も同行しよう」
彼女の手が止まった。
「授業に?」
「こちらの魔法を知るには、教えるところを見るのが早い。見学は許されるのだろう?」
「使い魔は、主人と一緒に行くものだけど……」
そこまで言って、ルイズは彼を見た。
昨日は、同じ言い方をするたびに、話が止まった気がする。
今度は、彼の方から来ると言っている。
「では、ちょうどいい」
エメトセルクが答えた。
ルイズは、少し考えてから頷いた。
「……いいわ。でも、先生のお話を、邪魔しないでよ」
「心得ている」
「質問するなら、先生が話し終わってからよ」
「なるほど。それは、主人にも守ってもらいたいな」
「わたしは、ちゃんと授業を受けてるわよ!」
彼は小さく肩をすくめ、着替えの邪魔にならないよう窓へ向き直った。
身支度を終えた二人が廊下へ出ると、ほかの部屋からも、生徒たちが使い魔を連れて出てきていた。
ルイズは扉へ鍵を掛け、見上げる。
エメトセルクは待っていた。
「……こっちよ」
昨日と同じように、先に歩き出す。
長い脚が、彼女に合わせた歩幅で続いた。
第1章 第2話 完