ゼロの使い魔 ~星海より来たりし者~   作:すらはん

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第2話「異邦人の居場所」

「これで、春の使い魔召喚の儀式を終了します」

 

コルベールの声に、生徒たちが一斉に動き出した。

 

長かった、と誰かが言った。

 

ルイズは聞こえないふりをした。杖を握る手には、まだ少し力が入っている。

 

その隣で、エメトセルクは左手を裏返していた。

 

甲に刻まれた文字は、光を失っても消えなかった。指を曲げても、皮膚の上にあるだけの模様とは思えない感覚が残っている。

 

だが、いま眺めているだけで答えが出るものでもなさそうだった。

 

「……戻るわよ」

 

ルイズが言った。

 

「学院へか?」

 

「ほかに、どこがあるの」

 

「私は今、ここ以外の場所を知らんのでな」

 

返事をしようとしたルイズの前で、少年の足が草から離れた。

 

別の少女も浮かび上がる。抱えていた猫が一声鳴き、生徒たちは杖を手に、学院の塔へ向かっていった。

 

エメトセルクは、その動きを目で追った。

 

術を使う直前、彼らの内側で力が集まっていた。

 

馴染みのあるものに近い。

 

だが、まったく同じではない。

 

「ミスタ・コルベール。少々、よろしいか」

 

帰り支度をしていた教師が振り返った。

 

「ええ、何でしょう」

 

「今、彼らを浮かせた魔法は、身体そのものを変えているのかね?」

 

コルベールは生徒たちを見上げ、それから問いの意味を確かめるように彼を見た。

 

「いいえ。身体を変えるのではなく、対象を浮かせる術です。レビテーションといいます」

 

「人以外にも使える?」

 

「もちろんです。もっとも、何でも同じように持ち上げられるわけではありませんが」

 

教師の視線が、長身の男を下から上へ動いた。

 

エメトセルクは眉を上げた。

 

「今すぐ、私で試してくれという意味ではないぞ」

 

「ああ、いえ。失礼しました」

 

コルベールは、少し慌てて笑った。

 

「詳しくお話しするなら、落ち着いて資料も用意した方がよさそうですね」

 

「それは助かる。知らない術を眺めていると、どうにも疑問が増える」

 

その言葉に、コルベールの目が僅かに明るくなった。

 

尋ね返したいことは、彼の方にもあるのだろう。だが、教師はルイズを見てから、話を戻した。

 

「手の方はいかがですか。刻印の後も、痛みはありますか?」

 

「いや。先ほど熱を感じたが、今は何ともない」

 

エメトセルクが左手を見せる。

 

コルベールは文字へ注意を留めた。

 

それでも、手を取ったり、さらに調べさせるよう求めたりはしなかった。

 

「何か変化があれば、知らせてください。人の姿をした使い魔については、私にもわからないことがありますので」

 

「承知した」

 

「それでは、ミス・ヴァリエール。あなたも戻って、使い魔を休ませてあげなさい」

 

「……はい」

 

教師は杖を掲げた。

 

二人のそばから身体が浮き上がり、やがて、草原にはルイズとエメトセルクだけが残った。

 

彼女は杖を制服の下へしまった。

 

「歩くのか?」

 

その一言で、動きが止まる。

 

「……悪い?」

 

「いや。確認しただけだ」

 

「今日は、歩きたいのよ」

 

エメトセルクは、遠ざかる生徒たちと少女を見比べた。

 

何度もの爆発。

 

そのたびに上がった笑い声。

 

ここでわざわざ、飛べないのかと聞き直す必要はなかった。

 

「では、そうしよう」

 

ルイズは、何か言われるつもりで構えていた顔を、急いで前へ向けた。

 

彼は長い脚を動かし、その横へ並んだ。

 

*

 

学院の門へ着く頃には、二人の影が道の脇へ長く伸びていた。

 

本塔を中心に、幾つもの石造りの塔が並んでいる。遠くからは一つの大きな建物に見えたものが、近づけば、中庭や渡り廊下を持つ広い施設なのだとわかった。

 

窓の縁には細かな彫刻があり、踏み減った石段の端は、丸くなっている。

 

エメトセルクが立ち止まった。

 

ルイズは数歩先で振り返った。

 

「何を見ているの?」

 

「随分、長く使われているようだな」

 

「由緒があるのよ。トリステインでも、こんな学院はほかにないんだから」

 

「なるほど。立派な建物を持つだけでは、足りないわけか」

 

「当たり前でしょう。立派な先生も、書物も、ここに集まっているの」

 

ルイズは得意げに本塔を示した。

 

「貴族の子供たちは、ここで魔法を学ぶのよ。わたしも、今年から二年生なんだから」

 

「そのトリステインというのが、この国の名か?」

 

彼女の指が止まった。

 

「……本当に、知らないの?」

 

「知らん。案内役がいて助かった」

 

からかわれたのか、それとも素直に言われたのか。

 

すぐには決められず、ルイズは眉を寄せた。

 

「トリステイン王国よ。ここは、王国の魔法学院」

 

「では、覚えておこう」

 

「あなたの国には、こういう場所はないの?」

 

「学ぶための場所なら、ある」

 

「どこの国?」

 

彼は、少女へ目を向けた。

 

「遠いところだ」

 

「国の名前くらい、言えるでしょう」

 

「名だけ聞いても、お前には場所がわからんだろうな」

 

「地理くらい、勉強しているわよ」

 

「それでも、だ」

 

ルイズの頬が膨らんだ。

 

エメトセルクは門を抜け、改めて本塔を見上げた。

 

建物の内にも、庭にも、幾つもの魔法的な気配がある。使い魔らしい生き物が芝の上を動き、窓辺では、まだ誰かが杖を振っていた。

 

ただの異国、と片づけるには、知らないものが多すぎる。

 

一方で、通路の幅や人の行き来、教師と生徒を分ける立ち居振る舞いには、見知ったものもあった。

 

まずは、ここで暮らしてみる。

 

契約を受けた以上、その判断を今さら惜しむつもりはなかった。

 

「……図書館もあるのか?」

 

ルイズが、彼の横顔を見た。

 

「もちろん。大きな図書館があるわ。魔法について調べるなら、そこへ行けばいいのよ」

 

「それは、よいことを聞いた」

 

今度の返事には、皮肉が混じっていなかった。

 

ルイズは、少しだけ胸を張り直した。

 

「だから、勝手に迷子にならないで。あなたがどこにいるか、わからなくなったら困るもの」

 

「これほど目立つ迷子も、そうはいないだろうが」

 

ちょうど、通りかかった下級の使用人が、彼を見上げたまま歩調を緩めた。

 

ルイズはそれを見て、反論を諦めた。

 

女子寮へ入ると、廊下は外よりひんやりしていた。

 

窓から入る光が、石床を斜めに照らしている。

 

ルイズは階段を上がり、後ろを見た。

 

エメトセルクは天井の高さを確かめるように一度顔を上げ、踊り場では肩の向きを変えた。彼には、どこも少しずつ狭いらしい。

 

その姿を見ているうちに、別のことが気になった。

 

「あなた、貴族だったの?」

 

「今度は、身分の調査か」

 

「その服、変わっているけど、安物には見えないわ。それに、ミスタ・コルベールにも、普通に話していたし」

 

「教師に話しかけるのに、身分証が必要だとは聞いていないぞ」

 

「そういう意味じゃないわよ」

 

ルイズは足を止めた。

 

聞かずにすませられるものなら、そうしたかった。

 

しかし、目の前の男が何者なのかわからないまま、自分の使い魔として連れ歩いているのだ。

 

エメトセルクも、それはわかっていた。

 

「かつては、貴族に近い立場にいたこともある」

 

彼は答えた。

 

「ただし、ここで持ち出すような肩書はない。それで、当面の用は足りるかね?」

 

ルイズは、彼の顔を見上げた。

 

貴族に近い。

 

その言い方も、気になった。

 

だが、本人は、何か特別な待遇を求める顔をしていなかった。

 

「……使い魔の主人は、わたしだからね」

 

結局、言えたのはそれだった。

 

「それは、よく覚えているとも」

 

彼の声が少し愉快そうに聞こえたので、ルイズは急いで鍵を出した。

 

「ここが、わたしの部屋よ」

 

扉を開けて中へ入る。

 

ベッドと机、衣装箪笥。壁に掛けた鏡の下には、いつも使っている櫛が置かれていた。

 

外出する前と何も変わっていない。

 

その部屋へ、エメトセルクが身を屈めて入ってきた。

 

一人増えただけで、部屋が狭くなった。

 

ルイズは、自分の持ち物と、大きな男を交互に見た。

 

召喚したものは、ずっと主人のそばにいる。

 

そう教わってきた。

 

だが、実際に連れ帰った後のことは、あまり考えていなかった。

 

エメトセルクは窓のそばへ歩いていた。

 

中庭と、塔と、その向こうにある森が見える。

 

「……静かだな」

 

その呟きは、彼女に向けたものではなさそうだった。

 

ルイズは、返しかけた言葉を止めた。

 

彼は、窓枠にもたれず、ただ外を眺めている。

 

何を考えているのか、わからない。

 

それが少し面白くなくて、彼女は机のそばへ戻った。

 

「これからのこと、決めるわよ」

 

エメトセルクが振り返った。

 

「ようやく、話がそこへ来たか」

 

「何よ。そのために連れてきたんでしょう」

 

「では、聞こう」

 

彼女は、いつも勉強するときに使っている椅子へ目をやった。

 

勧める前に、彼は椅子の大きさを見て、少し首を傾けた。

 

ルイズは、なぜか、自分が悪いことをしたような気分になった。

 

「使い魔の役目は、さっき聞いたわね」

 

ルイズは、椅子を机から少し離しながら言った。

 

「主人の目や耳になって、秘薬の材料を探して、それから――」

 

「主人を守る。ミスタ・コルベールの説明は覚えている」

 

エメトセルクは椅子へ腰を下ろした。

 

膝が高くなる。

 

少し考えて脚の置き場を変えたが、椅子そのものが大きくなるわけではなかった。

 

「ほかの役目は、明日から教えてあげるわ」

 

「探すものについてなら、見本も頼む。知らない植物を、名だけ聞いて持ち帰る気はないのでね」

 

「……それくらい、見せるわよ」

 

素直に話が進んだので、ルイズは少し調子を取り戻した。

 

「あと、部屋の掃除と、洗濯も」

 

「それは断る」

 

間を置かない返事だった。

 

彼女は、椅子のそばで立ち止まった。

 

「まだ、説明が終わってないでしょう!」

 

「聞き間違えてはいないつもりだが」

 

「使い魔なんだから、主人の世話をするのは当たり前よ」

 

「その『当たり前』が、さっき草原で話した条件には入っていなかったのだろうな」

 

ルイズは口を開いた。

 

すぐには言葉が続かなかった。

 

奴隷ではない。

 

何でも従うわけではない。

 

確かに聞いた。

 

あのときは、ともかく契約を終えたかった。そうしなければ、今日の儀式で失敗したままになる。

 

だが、それで使い魔の役目までなくなったつもりではなかったのだ。

 

「……だったら、わたしだけで全部やれっていうの?」

 

「今日までは、どうしていた?」

 

「洗濯は、まとめて出していたわ。掃除だって、使い魔を呼んだら自分でやるようにって……」

 

そこまで言って、ルイズは口を閉じた。

 

エメトセルクは、彼女の制服の裾と、小さな手を見た。

 

「新しく受け持つことになった仕事を、そっくり私へ任せる算段だったわけか」

 

「使い魔の仕事なの!」

 

「私は護衛を引き受けた。掃除と洗濯を日課に加える話は、別だ」

 

彼の声は大きくなかった。

 

そのせいで、ルイズも怒鳴り続けるわけにはいかなかった。

 

「……主人の言うことが聞けないの?」

 

「聞いて、断っているのだよ」

 

ルイズは、椅子の前で拳を握った。

 

相手は契約した使い魔だ。

 

それなのに、教師に意見をするときも、自分に返事をするときも、まるで態度が変わらない。

 

普通なら、と思う。

 

だが、普通の使い魔に、掃除や洗濯の話を最後まで聞いてもらうものなのか。それも、よくわからなかった。

 

「それじゃあ、あなたに何ができるのか、わからないじゃない」

 

苛立ちに混じって、本音が出た。

 

エメトセルクが、彼女を見た。

 

「私が何を知っていて、何ができるかも聞かずに、働き方だけは決められるのかね?」

 

「……それは」

 

ルイズは、目を逸らしかけた。

 

だが、ここで逸らすのも悔しかった。

 

「だったら、教えなさいよ」

 

「少なくとも、この土地の秘薬は知らん。お前の目で見ているものが、こちらに見えるわけでもなさそうだ。今、約束できることは草原で話したとおりだ」

 

あっさりと答えられた。

 

ルイズは、彼の左手へ目をやった。

 

ルーンはある。

 

契約は、できた。

 

その先で何が起きるのかを、自分も知らない。

 

彼女が黙ると、エメトセルクも、それ以上は畳みかけなかった。

 

窓の外で、使い魔らしい鳥の声がした。

 

ルイズは壁の鏡を見た。

 

今日は、ほかの生徒と同じように使い魔を連れ帰るはずだった。

 

念願どおりに連れ帰った。

 

ただ、その相手が、自分よりもよほど落ち着いて、こちらの返事を待っている。

 

「……寝る場所は、どうするのよ」

 

話を変えたつもりが、それもまた、何も決めていない問題だった。

 

エメトセルクは、部屋を見渡した。

 

「空いている部屋を借りられるなら、それがよかろうな」

 

「使い魔に、個室なんて貸してもらえないわ」

 

「教師に尋ねたことは?」

 

「ないけど……聞いたことないもの」

 

ルイズは、ベッドへ目を向けた。

 

自分一人が眠るには、十分な広さがある。

 

だからといって、この男をそこへ寝かせるという話にはならない。

 

かといって、どこを指せばいいのかも困った。

 

エメトセルクは、その視線を見て、椅子の背へ手を置いた。

 

「今夜は、これを使わせてもらおう」

 

「椅子で?」

 

「ああ。窓のそばなら、出入りの邪魔にもなるまい」

 

「……それ、小さいでしょう」

 

「気づいてはいたか」

 

からかう口調に、ルイズは眉を寄せた。

 

彼が脚を組もうとして、やめる。

 

その動きは、少しもつらそうではなかった。

 

だが、小さく見える椅子で一晩座っていれば、普通は身体が痛くなるはずだ。

 

ルイズは、衣装箪笥の脇へ歩いた。

 

畳んで置いてあった予備の毛布を取り、少し迷った。

 

さっきは、掃除まで断られた。

 

その直後に世話を焼くのも、何だか、自分ばかり折れているようではないか。

 

腕の中で、毛布を持ち直す。

 

それでも、棚へ戻そうとは思わなかった。

 

「これ」

 

エメトセルクが顔を向けた。

 

差し出されたものを見る。

 

「使いなさい。椅子に掛けてもいいし、寒かったら、身体に掛ければいいわ」

 

彼は、すぐには受け取らなかった。

 

ルイズの眉が上がった。

 

「何よ。毛布も嫌なの?」

 

「いや。ありがたく借りよう」

 

大きな手が、折り畳まれた布を受け取った。

 

指が触れないよう、ルイズは先に手を引いた。

 

エメトセルクは毛布を広げ、大きさを確かめた。

 

それから、椅子の背へ掛ける。

 

「助かる」

 

短い言葉だった。

 

けれど、掃除の話をしたときとは違う返事だった。

 

ルイズは腕を組んだ。

 

「風邪なんてひかれたら、わたしが困るんだからね」

 

「できるだけ、迷惑は掛けぬようにしよう」

 

きちんと返されると、何だか調子が狂った。

 

彼女は机へ向き直り、意味もなく櫛の位置を直した。

 

エメトセルクは、その背中を眺めていた。

 

寝床をどう与えるか、という顔ではなかった。

 

椅子が小さく、夜になれば冷える。

 

そこへ気づいた少女が、持っているものを差し出したのだ。

 

まだ、さっきの話を納得したわけではなさそうだったが。

 

毛布を指先で整え、彼は少しだけ息を吐いた。

 

なかなか、忙しい主人らしい。

 

やがて、寮の外から、食事の支度を知らせるざわめきが聞こえ始めた。

 

ルイズが窓へ目を向ける。

 

「夕食に行くわよ」

 

「食堂があるのか?」

 

「もちろん。ここは貴族の学院だって、言ったでしょう」

 

「それは聞いた。食事の場所まで、伺ってはいないのでね」

 

ルイズは、彼を振り返った。

 

椅子に掛けた毛布が、その後ろに見えた。

 

「……あなたも、来るのよ」

 

「世話になる」

 

エメトセルクは立ち上がった。

 

ルイズは扉を開けながら、少しだけ得意そうに言った。

 

「食堂は、きっと驚くわ。あんな場所、そうそう見られるものじゃないんだから」

 

*

 

廊下へ出ると、隣の部屋の前に、青い髪の少女がいた。

 

小脇に本を抱えている。

 

ルイズたちへ顔を向けたところで、その隣の扉が開いた。

 

「あら、ルイズ。ちょうどよかった」

 

赤い髪の少女が、笑みを浮かべて出てきた。

 

キュルケだった。

 

制服の襟元は大きく開き、褐色の肌が覗いている。その足元から、赤い鱗を持つ生き物がゆっくりと現れた。

 

「食事に行くところ?」

 

「見れば、わかるでしょう」

 

「ええ。でも、あなたがちゃんと使い魔を連れているのを見ると、少し不思議な気分になるわ」

 

ルイズの顔が険しくなる。

 

キュルケの目は、すでにその後ろへ向いていた。

 

「あらためて、ごきげんよう。わたしはキュルケ。『微熱』のキュルケよ」

 

「エメトセルクだ。ご丁寧にどうも」

 

「知っているわ。さっき、聞いていたもの」

 

何を聞いていたかは、言わなかった。

 

ルイズが口を挟む前に、キュルケは傍らの少女を示した。

 

「こちらは、タバサ」

 

青髪の少女が、小さく会釈した。

 

エメトセルクも頷き返す。

 

タバサの眼鏡の奥の目が、彼の顔から、扉の上枠へ動いた。

 

彼が出入りに使った高さを確かめるような、短い視線だった。

 

「本当に、近くで見ると大きいのね」

 

キュルケが言った。

 

「皆、それから始めるらしいな」

 

「ほかにも、いろいろ聞きたいわ。あの服も、どこで仕立てたのかしら」

 

「キュルケ!」

 

ルイズが割り込んだ。

 

「わたしの使い魔に、質問ばかりしないで」

 

「あなただって、まだ全部は聞いていないでしょう?」

 

言い返そうとしたところで、足元を長い尾が横切った。

 

ルイズは慌てて一歩下がる。

 

赤い生き物が、エメトセルクの靴のそばで頭を上げていた。

 

「……ほう」

 

彼は屈みかけ、そこで止めた。

 

手を差し出す代わりに、キュルケへ目を向ける。

 

「近づいても、構わないものかね?」

 

「ええ。フレイムよ。火竜山脈に棲むサラマンダーなの」

 

「それなら、この熱にも合点がいく」

 

身体から届く熱気だけではない。

 

彼女の使い魔には、その熱とよく似た性質の力が宿っているように感じられた。

 

ただの爬虫類とは違う。

 

エメトセルクが少し身を屈めると、フレイムは鼻先を上げた。

 

キュルケが、喉の辺りを撫でる。

 

「火の魔法を得意とするわたしには、ふさわしい使い魔でしょう?」

 

「なるほど。互いに馴染みのよい相手を呼べることもあるわけか」

 

「そういうことよ。ねえ、ルイズ?」

 

急に話を振られ、ルイズは顔を上げた。

 

キュルケの口元が、楽しそうに動く。

 

「あなたも、ぴったりの相手を呼んだのかしら」

 

「ちゃんと、召喚できたでしょう!」

 

「ええ。どんなことができるのか、楽しみね」

 

ルイズは、今さっき部屋で交わした話を思い出した。

 

何ができるのか。

 

自分でも、まだ、よくわからない。

 

隣でエメトセルクが立ち上がった。

 

「初対面の相手に、食前の実演まで求めるものではないだろう」

 

キュルケが、彼を見た。

 

すぐに、愉快そうな笑みを浮かべる。

 

「だったら、続きはお食事の後にでも」

 

「予定を決めるのが早いな」

 

「機会を逃すよりは、いいでしょう?」

 

タバサが、抱えた本を持ち直した。

 

「……食堂」

 

短い一言だった。

 

キュルケは横を向き、窓から入る夕日を確かめた。

 

「そうね。行きましょうか」

 

フレイムが先に廊下を歩き始めた。キュルケとタバサが続く。

 

ルイズは、二人から少し間を空けて歩いた。

 

「……あの女の言うこと、本気にしないでよ」

 

小声で告げる。

 

エメトセルクは、前を歩く赤い髪へ一度目を向けた。

 

「知り合いなのだろう?」

 

「ツェルプストー家の人間よ。ヴァリエール家とは、昔から仲が悪いの」

 

「なるほど。主人を選ぶと、その家の喧嘩までついてくるわけか」

 

「喧嘩って、そんな簡単なものじゃないわよ!」

 

彼は、それ以上は尋ねなかった。

 

ルイズの声が届いたらしく、前でキュルケが肩越しに振り返る。

 

「悪口は、もう少し小さな声で言うものよ」

 

「あなたに聞かせているんだから、いいの!」

 

キュルケは笑って前を向いた。

 

タバサも一度だけ振り返った。

 

何も言わなかったが、その目は、二人の間にいる長身の男へ留まっていた。

 

エメトセルクは歩幅を緩めた。

 

今夜は、静かな食事にはならないかもしれない。

 

アルヴィーズの食堂へ入ると、話し声が高い天井へ広がっていた。

 

長い卓に、白い布が掛けられている。

 

銀の燭台。

 

磨かれた食器。

 

壁際に並ぶ彫像の間を、黒と白の服を着た給仕たちが行き来していた。皿を運ぶ足取りは早いが、生徒のそばへ来ると静かになる。

 

「どう?」

 

ルイズが、彼を見上げた。

 

「十分、驚いた?」

 

エメトセルクは、天井から卓へ目を戻した。

 

「立派な食堂だ。彫刻の手入れにも、手間が掛かっていそうだな」

 

「そうでしょう」

 

彼女は、ようやく納得のいく返事を聞けた顔をした。

 

キュルケは少し先で、知り合いの男子生徒へ挨拶していた。タバサはその隣を通り、卓の向こう側へ腰を下ろす。

 

ルイズも、自分の席へ進んだ。

 

周囲の視線が、エメトセルクに集まった。

 

人を連れてきた、というだけの視線ではない。

 

昼の儀式にいた者が、隣の者へ何か囁く。

 

その間を、給仕の少女が盆を持って通り抜けた。

 

「ミス・ヴァリエール。こちらでよろしいですか?」

 

「ええ。ありがとう」

 

ルイズが席に着くと、少女は温かなスープを置いた。

 

エメトセルクは、その後ろで足を止めていた。

 

ルイズの隣は、生徒が使っている。

 

卓には、人数に合わせた食器が並んでいるらしかった。

 

「少しいいか」

 

呼びかけると、少女が顔を上げた。

 

彼の顔まで目を向けるのに、顎が上がる。

 

「はい。何か、ご用でしょうか」

 

「私の食事について、誰に相談すればよいかね?」

 

少女は、彼の服と、ルイズを見た。

 

「こちらの方は……」

 

「わたしの使い魔よ」

 

ルイズが答えた。

 

給仕の少女の手が止まった。

 

「あの、召喚されたという……」

 

「ええ」

 

噂は、もう届いているらしい。

 

少女は慌ててエメトセルクへ頭を下げた。

 

「失礼いたしました。使い魔のお食事は、主人の方がご用意されることになっています」

 

エメトセルクは、ルイズへ目を向けた。

 

「とのことだが」

 

彼女は自分の前にある皿を見た。

 

肉も、パンもある。量も、一人で食べきれないほどだった。

 

「少し分ければいいでしょう。器をもう一つ、持ってきてくれる?」

 

少女は頷いた。

 

ルイズは卓の下へ目をやった。

 

足元は、広い。

 

小さな使い魔なら、いつも主人のそばで食べる。そのための場所だった。

 

「この辺りに置けば、邪魔にもならないし」

 

言いながら、床を示す。

 

給仕の少女が、動かなかった。

 

エメトセルクも、すぐには何も言わなかった。

 

ルイズは顔を上げた。

 

大きな男の目と、合った。

 

「……何よ」

 

「器を置くのは、卓の上にしてもらえるか」

 

彼の声は、低く、はっきりしていた。

 

「床で食事をするつもりはない」

 

ルイズは、指先を引っ込めた。

 

「だって、使い魔は、皆そうしているもの」

 

「私は、ここまでお前と歩いてきた。椅子にも座るし、食事には匙を使う」

 

彼は、空いていない隣の席を一度見た。

 

「そのうえで、ほかの使い魔と同じ場所へ置けば済むのかね?」

 

ルイズは口を開きかけた。

 

さっき部屋で、彼が座れるかどうか、椅子を気にしたばかりだった。

 

それでも、食堂では、使い魔は床にいるものだと思っていた。

 

「あちらの卓にも、席はないのよ」

 

少し声が上ずった。

 

「ここは、貴族の食堂なんだから。人の姿をしているからって、急に生徒と同じにするわけにはいかないでしょう」

 

「では、別の場所で食べよう」

 

あっさりと言われた。

 

その返事が、ルイズをなおさら困らせた。

 

「別の場所って……」

 

エメトセルクは給仕の少女へ向き直った。

 

「厨房の責任者に、相談できるだろうか。席も食事も、こちらに無理に用意してもらう必要はない」

 

少女は、ルイズへ一度目を向けた。

 

許しを待つような視線に、ルイズは唇を結んだ。

 

「……案内するくらい、いいわよ」

 

「ありがとうございます。では、お伺いしてみます」

 

少女が盆を抱え直した。

 

エメトセルクも、その後についていこうとする。

 

ルイズは、思わず椅子から腰を上げた。

 

「ちょっと。勝手に、どこまで行くつもり?」

 

彼が振り返る。

 

「食事の相談だ。学院の外まで、夕食を探しには行かんさ」

 

「そういうことじゃ……」

 

周囲からの視線に気づいた。

 

近くの生徒が、聞こえないふりをしながらこちらを見ている。

 

ルイズは、ゆっくりと座り直した。

 

エメトセルクは、彼女の前の皿へ目を向けた。

 

「冷める前に食べたまえ。私は、食事を済ませたら部屋へ戻る」

 

ルイズは、答えなかった。

 

彼は、その沈黙を了承と受け取った。

 

黒い長衣が、給仕の少女とともに、生徒たちの間を抜けていく。

 

食堂の奥の扉へ着く手前で、少女が声を落とした。

 

「あの……よろしかったのでしょうか」

 

「何がだ?」

 

「ミス・ヴァリエールの、お言いつけと違ってしまいましたから」

 

エメトセルクは、少しだけ彼女を見た。

 

ここでは、相手に従うかどうかまで、身分によって決まると思われているらしい。

 

少女は、彼女なりに、後で困ったことにならないか心配しているのだろう。

 

「契約したからといって、私が私でなくなるわけではないさ」

 

答えは、それだけにした。

 

少女は、すぐには頷かなかった。

 

それでも、顔を上げ、扉の脇へ身を寄せた。

 

「こちらです。中は、少し騒がしいですが」

 

「食事を作る場所なら、そのくらいの方が安心できる」

 

彼が言うと、彼女の緊張が、少し緩んだ。

 

「名前を、伺っても?」

 

「あっ。シエスタと申します」

 

「では、シエスタ。案内を頼む」

 

「はい」

 

扉が開いた。

 

食堂の話し声に代わって、鍋の蓋が鳴る音が聞こえた。

 

*

 

厨房の中は、熱かった。

 

竈の上で、大きな鍋が湯気を上げている。

 

食堂から戻ってきた空の盆が積まれ、その横を、焼いた肉を載せた皿が通っていった。誰かが短く数を告げると、別の者がすぐに返事をした。

 

シエスタは通路の端へ寄り、一人の男へ声を掛けた。

 

「マルトーさん。少し、よろしいでしょうか」

 

白い前掛けを着けた、恰幅のよい男だった。

 

鍋から顔を上げ、まずシエスタを見る。

 

それから、彼女の後ろにいる男を見上げた。

 

「……何だい。扉より大きな客だな」

 

「エメトセルクという。食事の相談に来た」

 

シエスタが、小さく息を吸った。

 

「ミス・ヴァリエールの、使い魔になられた方です」

 

マルトーは二人を見比べた。

 

「使い魔?」

 

「ああ。今日から、そういうことになった」

 

「人間じゃねえか」

 

「その点については、私も随分と指摘されている」

 

近くで皿を拭いていた男が、吹き出した。

 

マルトーも笑いかけたが、シエスタが困った顔をしているのを見て、話を戻した。

 

「で、食事ってのは?」

 

「こちらで食べられる場所はないかと思ってな。あちらでは、私の座る席がないらしい」

 

「ああ……そういうことか」

 

料理長は、彼の上等な長衣へ一度目をやった。

 

ただ、階級や生まれを尋ねるより先に、奥の卓を指した。

 

「賄いでよけりゃ、ちょうどある。あそこなら、座れるだろう」

 

「構わないのか?」

 

「腹が減るんだろ?」

 

「その点では、ほかの者と変わらんさ」

 

「だったら、まず食うことだ。シエスタ、深皿を一つ」

 

「はい」

 

エメトセルクは、一度頭を下げた。

 

「では、ご馳走になろう。料理長」

 

「マルトーでいいよ。ここは、きれいな食堂みたいにはいかねえがな」

 

「皿を置ける卓があれば、十分だ」

 

案内されたのは、厨房の奥にある木製の卓だった。

 

使い込まれた天板には、小さな傷が幾つもある。

 

椅子を引き、長い脚を脇へ逃がして腰を下ろす。足元にあった空の籠を少しずらすと、向こう側に座っていた料理人が、気づいて引き取った。

 

「すまない」

 

「いえ。こっちへ寄せときますから」

 

それだけで、彼の座る場所ができた。

 

シエスタが、湯気の立つシチューとパンを運んでくる。

 

「どうぞ。熱いので、お気をつけください」

 

「ありがとう」

 

匙を取り、一口食べる。

 

肉も野菜も、よく煮込まれていた。濃すぎない塩味の後から、香草の風味が残る。

 

マルトーは鍋へ戻りかけ、彼が匙を置いたのを見た。

 

「どうだい?」

 

「よくできている。香草を使いすぎていないのがいいな」

 

料理長の眉が、嬉しそうに上がった。

 

「煮込めば何でも同じって言う奴もいるんだがね」

 

「その理屈なら、水だけ入れて待っていればよかろう」

 

マルトーは、今度こそ大きく笑った。

 

「違いねえ。材料を入れた手間くらいは、わかってもらわねえとな」

 

彼は手近な若い料理人を呼び、鍋の様子を見てくるように言った。

 

空になった盆が戻り、食堂へ出す次の皿が並ぶ。

 

エメトセルクは、もう一口食べた。

 

豪奢な卓も、磨かれた銀器もない。

 

その代わり、皿が空くと、近くの者が気づく。

 

食べ終えた者が席を立ち、別の者がそこへ座る。

 

ここにも、順序と役割はあった。ただ、その中へ一人増えることについては、先ほどほど難しい話にならなかった。

 

シエスタは水を置き、食堂へ戻ろうとした。

 

「シエスタ。ひとつ、聞いてもいいか」

 

「はい」

 

「この学院にいる生徒たちは、皆、魔法を学ぶために来ているのだな」

 

「ええ。貴族の方々の学院ですから」

 

「魔法を使える家に生まれれば、ここで学ぶことになる?」

 

「すべての方が、こちらへ来られるわけではないと思います。でも、貴族の方は魔法を使われますし、私たち平民には使えませんから」

 

彼女は、ごく自然に答えた。

 

エメトセルクは、水の入った杯を置いた。

 

食堂で見た、席に着く者と、皿を運ぶ者。

 

それを分けるものは、服や家名だけではないらしい。

 

「では、魔法を使えない貴族は?」

 

シエスタは、返事に迷った。

 

「それは……あまり、存じません」

 

視線が、食堂へ続く扉へ動く。

 

その一瞬で、問い方を間違えたかもしれないとわかった。

 

身分の高い者について、使用人の少女に、評価をさせるような質問になっている。

 

「答えにくいことを聞いたな。無理に答えなくていい」

 

「申し訳ありません」

 

「謝る必要はない。仕事へ戻ってくれ。案内は、助かった」

 

シエスタは丁寧に礼をして、盆を持っていった。

 

エメトセルクは、残ったシチューへ目を落とした。

 

昼の草原で、同じ服を着た少女だけが笑われていた。

 

家名を名乗るときは、あれほど胸を張るのに。

 

学院を案内するときも。

 

この国で魔法を使えないということが、どういう扱いに繋がるのか。

 

まだ、断片しか聞いていない。

 

それでも、あの笑い声の意味は、少し変わって聞こえた。

 

*

 

ルイズは、パンを小さく千切った。

 

目の前の料理は、十分温かい。

 

少なくとも、食べ始めたときはそうだった。

 

だが、何度も食堂の奥へ目が向いた。

 

エメトセルクの姿は、扉の向こうへ消えたままだった。

 

「……気になるの?」

 

声がして、ルイズは視線を戻した。

 

向かいに座ったキュルケが、杯を手にしていた。

 

その隣では、タバサが食事をしている。

 

彼女の本は閉じられ、椅子の脇へ置いてあった。

 

「何が」

 

「あの人よ。厨房で、ちゃんとお食事できているのかしら」

 

「知らないわよ」

 

ルイズは肉へナイフを入れた。

 

「自分で相談するって言ったんだから、何とかするでしょう」

 

「ふうん。まだ、どういう人かも知らないのね」

 

「今日、召喚したばかりなのよ」

 

「でも、あの人はあなたと契約したんでしょう? 少しくらい、言うことを聞いてくれそうなものなのに」

 

キュルケの声に、愉快そうな響きがあった。

 

ルイズは、切った肉をフォークへ刺した。

 

ひどく大きく切ってしまったので、もう一度皿へ戻す。

 

その動きまで見られている気がした。

 

「口を開けば、文句ばかりなのよ。何を言っても、当たり前みたいに言い返すし」

 

「あら。それは、あなたに似たんじゃない?」

 

「似てないわよ!」

 

キュルケが笑った。

 

タバサは杯へ手を伸ばし、その拍子にルイズを一度見た。

 

何も言わなかった。

 

それがかえって、ルイズには気になった。

 

「……何よ」

 

タバサは、少し首を傾けた。

 

「食べないの?」

 

視線が、皿へ向いている。

 

ルイズはフォークを握り直した。

 

「食べるわよ」

 

「そう」

 

タバサは自分の食事へ戻った。

 

キュルケは、まだ話をやめなかった。

 

「まあ、何も喋らない使い魔よりは、退屈しなくていいんじゃない? あの顔を眺めていられるなら、わたしは少し羨ましいわ」

 

「だったら、フレイムに顔を変えてもらえば?」

 

「あの子は、あのままで十分可愛いもの」

 

そう言って、キュルケは足元へ視線を落とした。

 

ルイズも、つられてそちらを見る。

 

フレイムは主人の椅子のそばで、落ち着いて身体を丸めていた。

 

そこにいることを、誰も疑問に思わない。

 

キュルケも、置き場所に迷ったりはしない。

 

「……わたしだって、ちゃんと呼べたわ」

 

ルイズは、小さく言った。

 

キュルケが顔を上げた。

 

「ええ。見ていたわよ」

 

「契約も、できた」

 

「そうね。随分、時間は掛かったけれど」

 

「それなら、いつまでもゼロって呼ばれる筋合いはないでしょう」

 

少しだけ、声が大きくなった。

 

隣の席から、誰かが顔を向ける。

 

キュルケは、杯を卓へ置いた。

 

「召喚は、成功したわね」

 

その言い方が、ルイズの胸へ引っ掛かった。

 

召喚は。

 

ほかは、という言葉が続かなくても、十分だった。

 

杖を握ったときの、手の感触を覚えている。

 

呪文はわかる。

 

順序も、杖の振り方も、何度も練習した。

 

それなのに、結果はいつも同じだった。

 

今日、初めて違うことが起きた。

 

土煙の向こうに、誰かが立っていた。

 

自分が呼んだ。

 

そう思ったとき、本当に嬉しかったのだ。

 

だが、連れて帰った相手は、言われるままに動いてはくれない。

 

使い魔はどうするものなのか。

 

自分は、主人として何をすればいいのか。

 

教わったことを口にすると、それは私に当てはまるのかと聞かれる。

 

「……明日は、授業でしょ」

 

ルイズは、皿へ目を落としたまま言った。

 

「見ていればいいわよ」

 

キュルケは、僅かに眉を上げた。

 

それから、肩をすくめる。

 

「ええ。楽しみにしているわ」

 

慰めでも、仲直りでもなかった。

 

ルイズは顔を上げず、肉を小さく切り直した。

 

床へ食事を置けばよい。

 

そう言ったときのエメトセルクの顔を、思い出す。

 

怒鳴らなかった。

 

皿をよこせと、命令もしなかった。

 

ただ、そういう扱いでいいのかと、こちらを見ていた。

 

あの長い脚を折って、床に座ったところを考えてみる。

 

うまく、想像できなかった。

 

部屋で、椅子を見下ろした姿なら、思い出せるのに。

 

だからといって、貴族の卓へ勝手に席を作れるわけでもない。

 

どうすればよかったのか。

 

考えがまとまらないまま、スープを一口飲んだ。

 

少し冷めていた。

 

*

 

厨房で食事を終えた後も、エメトセルクは、すぐには席を立たなかった。

 

戻ってきたシエスタから、普段の食事の時刻を聞く。

 

マルトーは片づけを指図しながら、朝もこちらへ来ればよいと答えた。

 

礼を言い、使った食器をどこへ戻せばいいか尋ねると、今度はシエスタが少し驚いた顔をした。

 

帰り際には、廊下を間違えないよう、目印まで教えてくれた。

 

そんな話をしている間に、食堂へ続く扉の往来は少なくなっていた。

 

寮へ戻る頃には、窓の外に夜空が広がっていた。

 

エメトセルクは、ルイズの部屋の前で足を止めた。

 

扉を叩く。

 

しばらくして、中から足音がした。

 

「……遅かったじゃない」

 

扉を開けた少女は、制服のままだった。

 

腕を組み、彼を見上げている。

 

「食事をしていた」

 

「それは知ってるわよ。食べて戻るって言ったでしょう?」

 

「少々、話し込んでしまってな」

 

エメトセルクは頭を下げて部屋へ入り、扉を閉めた。

 

ルイズは、彼の後ろへ目をやった。

 

シエスタがついてきているわけでも、誰かに連れ戻されたわけでもない。

 

「道は、覚えていたのね」

 

「この塔の階段を、そう簡単には忘れんさ」

 

「……別に、迷子になったと思ったわけじゃないけど」

 

彼は返事をせず、椅子を窓のそばへ引いた。

 

背に掛けられた毛布が、ふわりと揺れた。

 

ルイズも、ベッドの縁へ腰を下ろす。

 

靴先が、床を僅かに擦った。

 

「それで……ちゃんと、食べられたの?」

 

「十分にな。温かいシチューと、パンを頂いた」

 

「シチュー」

 

思わず、繰り返した。

 

床へ置こうとしたのは、自分の食事から分けた皿だった。

 

向こうでは、彼のための皿が出たのだ。

 

エメトセルクは、少女へ目を向けた。

 

「料理長が、気前のいい男でね。明日の朝も来てよいそうだ」

 

「……そう」

 

ルイズは、膝の上へ手を置いた。

 

食堂で自分の肉を小さく切り直していたとき、この男は、使用人たちと話しながら食べていた。

 

ちゃんと食べられたなら、それでいい。

 

そう思った。

 

一方で、自分が連れてきた使い魔なのに、自分の知らないところで居場所を決めてきたことが、少しだけ面白くなかった。

 

何か言おうとして、やめた。

 

厨房で食事をすることまで、駄目だとは言えない。

 

「厨房の方々には、失礼なことを言ってないでしょうね」

 

代わりに、そう尋ねた。

 

エメトセルクの眉が上がる。

 

「ご馳走になった相手へ、わざわざ喧嘩を売る理由もないだろう」

 

「……わたしには、いろいろ言うじゃない」

 

「お前とは、決めることが多いのでね」

 

ルイズは唇を尖らせた。

 

そのまま、窓際の彼を見る。

 

エメトセルクは、左手を持ち上げていた。

 

甲に、文字がある。

 

昼間と同じ形。

 

ルイズの契約が残したものだった。

 

彼は指先でなぞろうとして、途中で手を止めた。

 

文字が刻まれたとき、肉体よりも深いところへ触れられたような感覚があった。

 

その感覚が何だったのか、眺めるだけでは確かめられない。

 

かといって、知らない術式へ、今すぐ手を入れる必要もなかった。

 

左手を下ろす。

 

ルイズが、その動きを追っていた。

 

「気になるの?」

 

「ああ。今まで、身体のここへ、こんな文字を刻んだことはなかったのでな」

 

「使い魔には、できるものなのよ」

 

言ってから、彼女は少し黙った。

 

彼にとっては、初めてのことなのだ。

 

使い魔になることも、ここへ来ることも。

 

自分は儀式の日をずっと待っていた。

 

何度も失敗し、最後の一度に懸けた。

 

けれど、召喚された方は、そんなことを知らなかったはずだ。

 

「……ねえ」

 

「何だ?」

 

「呼ばれる前は、何をしていたの?」

 

エメトセルクは、顔を上げた。

 

「休むつもりだった」

 

「それで、ここへ?」

 

「ああ。実に、急な予定変更だった」

 

声には、いつもの皮肉が戻っていた。

 

ルイズは、少しだけ目を伏せた。

 

自分が契約を急かした理由と、彼が嫌そうにしていた理由は、同じではなかったのだ。

 

「……帰りが遅くなったって、誰かが心配したりしないの?」

 

彼の目が、彼女へ向いた。

 

「誰か?」

 

「家族とか。おうちの人とかよ」

 

ルイズは、膝の上で指を組んだ。

 

自分が突然、知らない土地へ連れていかれたら。

 

父も、母も、姉たちも、黙ってはいないだろう。

 

たとえ自分が魔法を失敗する娘でも、行方がわからなくなれば。

 

エメトセルクは、すぐには答えなかった。

 

窓の外で、枝が風に揺れている。

 

しばらく、その音だけがした。

 

「……私の故郷は、もう存在しない」

 

ルイズは顔を上げた。

 

昼間のように、質問をはぐらかす声ではなかった。

 

「……え?」

 

「随分と昔に失われた。今さら戻る場所でもない」

 

彼は、淡々と言った。

 

それで話を終えようとしているのか、ほかに言い方がないのか、わからなかった。

 

ルイズの口元で、次の質問が止まる。

 

どこの国なのか。

 

どうしてなくなったのか。

 

幾つも浮かんだ。

 

だが、どれも、今すぐ尋ねてよいことには思えなかった。

 

「……そう、なの」

 

やっと、それだけ言った。

 

エメトセルクは、短く頷いた。

 

その横顔を見ていると、今日まで自分が知っていた誰とも、重ならなかった。

 

学院を案内して、知らないことを教えてやれる相手。

 

こちらの言葉を、いちいちひっくり返す使い魔。

 

それだけで、済む人ではないらしい。

 

ルイズは、窓際の椅子へ目を向けた。

 

少し小さな椅子だった。

 

今夜は使うと言った。

 

そこから先のことは、まだ何も決まっていない。

 

食事をする場所さえ、自分で探してきた。

 

彼女は、ベッドの縁を軽く握った。

 

「……じゃあ」

 

エメトセルクが、こちらを見る。

 

「今は、ここにいればいいじゃない」

 

言ってから、自分でも少し驚いた。

 

言葉にする前は、もっと、当然のことを言うつもりだった。

 

エメトセルクは、少女を見たままだった。

 

「ここに?」

 

「そうよ。……だって、わたしが召喚したんだもの」

 

ルイズは顎を上げた。

 

「あなたは、わたしの使い魔なんだから。ここにいるのは、当然でしょう」

 

言い足すほどに、いつもの口調へ近づいていく。

 

エメトセルクは、彼女と、椅子へ掛けられた毛布を見た。

 

昼間、少女は、この部屋に誰がどう収まるかも考えずに扉を開けた。

 

今も、何がわかったわけではあるまい。

 

失った場所について、長い説明を聞いたわけでもない。

 

それでも、ここにはいてよいと、言おうとしている。

 

彼は、少しだけ目を細めた。

 

「随分と、勝手な主人だな」

 

ルイズの眉が動く。

 

「……嫌だっていうの?」

 

「いや」

 

椅子の背へ、静かに身を預けた。

 

「悪いとは言っていないさ」

 

返事を聞いて、ルイズは口を閉じた。

 

怒られたわけではない。

 

からかわれているのとも、少し違う。

 

何となく落ち着かず、彼女はベッドから立ち上がった。

 

「……とにかく。今夜は、そこを使っていいわ」

 

「ああ。借りるとしよう」

 

エメトセルクは、背へ掛けていた毛布を取り、膝に置いた。

 

ルイズはそれを確かめるように一度見てから、衣装箪笥へ向かった。

 

「そっち、向いていて」

 

「承知した」

 

彼は窓へ顔を向ける。

 

背後で、布の擦れる音がした。

 

やがてベッドが僅かに軋み、毛布を引き上げる音に変わる。

 

エメトセルクが目を戻すと、ルイズは天蓋の下で横になっていた。

 

「……灯り、消してもいい?」

 

「ああ」

 

彼女が身を起こし、枕元の燭台の火を吹き消した。

 

部屋に、淡い月明かりが残った。

 

窓の向こうには、二つの月が浮かんでいる。

 

エメトセルクは、その空を見ていた。

 

知らない場所に呼ばれ、聞いたことのない契約を結び、夕食の場所まで自分で探すことになった。

 

手間の掛かる一日だった。

 

だが、その終わりに差し出されたものまで、不運の一言にまとめることはなさそうだった。

 

膝の毛布を少し広げる。

 

ベッドの方では、ルイズが一度、寝返りを打った。

 

「……エメトセルク」

 

「何だ?」

 

「明日、勝手にどこかへ行かないでよ」

 

「行き先を知らせれば、よいのかね?」

 

返事までに、少し間があった。

 

「……そういうことよ」

 

彼は、僅かに口元を緩めた。

 

「わかった」

 

しばらくすると、寝台の方から、静かな寝息が聞こえ始めた。

 

エメトセルクも椅子へ身体を預け、目を閉じた。

 

窓から入る春の風が、カーテンの端を揺らしていた。

 

*

 

朝の鐘が、学院に響いた。

 

ルイズは、枕へ顔を押しつけたまま、しばらく動かなかった。

 

それから、急に目を開ける。

 

窓際に、大きな人影があった。

 

エメトセルクが、こちらを見ていた。

 

「……いたのね」

 

「昨夜、いてよいと言われたのでな」

 

ルイズは、頬が熱くなるのを感じた。

 

「そういう意味じゃないわよ!」

 

彼は、もう外の方を見ていた。

 

ルイズは身体を起こした。

 

椅子の背には、毛布が掛かっている。

 

昨夜と同じ場所にいるのに、そのことが、昨夜までとは少し違って見えた。

 

「ちゃんと、休めたの?」

 

「多少はな。それより、今日は授業があるのだろう?」

 

「あるわよ。だから、支度をするの」

 

「ならば、私も同行しよう」

 

彼女の手が止まった。

 

「授業に?」

 

「こちらの魔法を知るには、教えるところを見るのが早い。見学は許されるのだろう?」

 

「使い魔は、主人と一緒に行くものだけど……」

 

そこまで言って、ルイズは彼を見た。

 

昨日は、同じ言い方をするたびに、話が止まった気がする。

 

今度は、彼の方から来ると言っている。

 

「では、ちょうどいい」

 

エメトセルクが答えた。

 

ルイズは、少し考えてから頷いた。

 

「……いいわ。でも、先生のお話を、邪魔しないでよ」

 

「心得ている」

 

「質問するなら、先生が話し終わってからよ」

 

「なるほど。それは、主人にも守ってもらいたいな」

 

「わたしは、ちゃんと授業を受けてるわよ!」

 

彼は小さく肩をすくめ、着替えの邪魔にならないよう窓へ向き直った。

 

身支度を終えた二人が廊下へ出ると、ほかの部屋からも、生徒たちが使い魔を連れて出てきていた。

 

ルイズは扉へ鍵を掛け、見上げる。

 

エメトセルクは待っていた。

 

「……こっちよ」

 

昨日と同じように、先に歩き出す。

 

長い脚が、彼女に合わせた歩幅で続いた。

 

第1章 第2話 完

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