教室へ入ると、まず、猫がこちらを見た。
机の上で丸くなっていたのが、頭だけを起こしたのだ。その向こうでは、大きな鳥が主人の肩から梁を見上げている。
ルイズは通路を進みながら、後ろを振り返った。
エメトセルクが、扉の上枠へ頭をぶつけないよう、少し身を屈めて入ってくる。
何人かの生徒が、それを見て話をやめた。
「……本当に、連れてきたのか」
声のした方を睨む。
相手は慌てて前を向いたが、別の席からも視線が寄ってきた。
「ちょっと。あまり、目立たないでよ」
ルイズが小声で言うと、エメトセルクは足を止めた。
「扉を通るだけで、それほど難しい注文を出されてもな」
「そういうことじゃなくて」
「まだ、何もしていないぞ」
わかっている。
わかっているからこそ、言い返しづらかった。
ルイズは自分の席へ鞄を置いた。
床の上には、使い魔のために荷物を寄せた隙間がある。そこを見下ろしたエメトセルクが、こちらへ目を戻した。
彼女は、言われる前に口を開いた。
「椅子なら、壁のところにあるわ」
「それは助かる」
彼は空いた椅子を一つ引き、通路を塞がない位置へ動かした。
腰を下ろすと、膝が少し高くなる。
その隣を、赤い鱗の尾が通り過ぎた。
フレイムだった。
後ろから歩いてきたキュルケが、使い魔を自分の席のそばへ促す。
「おはよう。昨日の晩は、よく眠れた?」
視線は、ルイズの後ろへ向いていた。
「多少はな」
「今日は、お勉強までなさるのね」
「教えるところを見せてもらえるのは、ありがたいことだからな」
「あら。ルイズも見習えばいいのに」
「わたしは、いつもちゃんと勉強しているわよ!」
少し大きな声になった。
キュルケは楽しそうに眉を上げる。
「では、今日も楽しみにしているわ」
ルイズは、鞄から教科書を出した。
昨夜、食堂でも同じように言われた。
明日は授業だから、見ていればいい。
自分から、そう言ったのだ。
隣の席へ、タバサが座った。
抱えていた本を机の端へ置き、椅子の位置を少し直す。エメトセルクと目が合うと、小さく会釈した。
彼も顎を引いて応じた。
キュルケがまだ何か言おうとしたところで、教室の扉が開いた。
「皆さん、席についてください」
紫のローブを着た女性が、石を入れた箱を抱えて入ってきた。
ふくよかな頬に、柔らかな笑みが浮かんでいる。
教卓へ箱を置くと、彼女は生徒たちを見渡した。
「土の系統を担当する、シュヴルーズです。『赤土』と呼ばれることもありますね」
何人かが返事をする。
教師の目が、壁際の男へ留まった。
少し驚いたように目を細め、それからルイズの席へ移る。
「ミス・ヴァリエール。そちらが、昨日召喚された方ですね」
「はい。わたしの使い魔です」
ルイズは、なるべく平然と答えた。
エメトセルクも立ち上がる。
「エメトセルクという。授業を見学させていただく」
シュヴルーズは、少し驚いた顔をした。
それでも、すぐに頷く。
「ええ。皆さんの邪魔にならないようにしていただければ」
「承知した」
彼が腰を下ろすと、近くの生徒がまた振り返った。
教師と話す使い魔は、やはり珍しいのだろう。
ルイズは、教科書を開いた。
「二年生になって、初めての授業です。まずは基本から、確かめていきましょう」
シュヴルーズが杖を取り出した。
机の下で、ルイズも自分の杖へ指を添えた。
*
「火、水、風、土。そして、今は失われたとされる『虚無』。皆さんがこれから学ぶのは、現在伝わっている四つの系統です」
シュヴルーズは、生徒たちが顔を上げるのを待ってから続けた。
「どの系統にも、それぞれ大切な働きがあります。私の専門である土も、皆さんの暮らしと深く関わっているのですよ」
建物を造ること。
金属を得ること。
畑を耕し、作物を育てること。
教師は身近な例を挙げた。
エメトセルクは、黙って聞いていた。
昨日、ルイズから聞いた学院の説明よりも、ずっと具体的だった。
四つの系統。
それとは別に、名だけが残るもの。
いま聞いた言葉を、知っている術へそのまま当てはめるのはやめておいた。何をそう呼んでいるかも、まだ確かめていない。
シュヴルーズは箱から石を取り、教卓へ並べた。
「今日は、土の基本である錬金をおさらいします」
丸い石を一つ、手前へ寄せる。
杖が、その上へ向けられた。
彼女の内側で、力が動いた。
エメトセルクは、その流れへ注意を留めた。
精神力。
昨日も使われ、いま教師が口にした力の名だった。
彼の知るエーテルに、よく似ている。
だが、力が杖を通り、石へ届くところまで追うと、同じ術の見本としては収まらない違いがあった。
石が輝いた。
ざらついていた表面から、灰色が失われていく。
やがて残ったのは、黄色く光る金属だった。
生徒たちが身を乗り出す。
キュルケが、少し首を傾けた。
「先生。それは金ですか?」
「いいえ。真鍮です。金を錬成するとなれば、スクウェアほどの力量が必要になります」
シュヴルーズは、できた塊を持ち上げた。
窓の光が、その角へ照り返す。
エメトセルクの視線も動いた。
何もないところへ、新しいものを生み出したのではない。
目の前にあった石が、変わった。
ただ、その途中で何がどう組み替えられたかを、見たまま理解できるわけでもなかった。
「強い魔法には、系統を重ねることが必要です。二つを重ねられればライン、三つならトライアングル。四つならスクウェア」
「同じ系統を重ねても、よろしいのですか?」
前の席から出た問いに、教師は頷いた。
「もちろん。たとえば土に土を重ねることもできます。異なる系統を組み合わせるだけではありません。私も土を重ねるトライアングルのメイジです」
ルイズのペンが、紙の上を走る。
そこは知っている。
一年の授業でも習ったし、家でも教わった。
だが、知らないふりをしても仕方がない。聞き直すのが無駄ということでもない。
彼女は、書いたところへ短く線を引いた。
机の端に、横から指が触れた。
顔を向けると、マリコルヌがこちらを見ていた。
「君の使い魔も、勉強するのか?」
小さな声だった。
ただし、隣の生徒にも聞こえるくらいには、大きい。
「見ていると、わかるでしょう」
ルイズは、声を落として答えた。
前へ向き直ろうとすると、少年の目が壁際へ動いた。
「そのうち、君より先に魔法を覚えたりしてな」
傍らで、誰かが口元を押さえた。
ルイズはペンを止めた。
「余計なお世話よ」
「心配しているんだ。使い魔の方が先に、ゼロでなくなったら――」
「自分の使い魔の心配でもしていなさいよ、風邪っぴき」
マリコルヌの顔が変わった。
「風上だ。人の二つ名を勝手に変えるな」
「だったら、わたしのことも――」
「ミス・ヴァリエール」
ルイズの背筋が伸びた。
シュヴルーズが、真鍮の塊を置いていた。
教室は、いつの間にか静かになっている。
「授業中のお喋りは、慎んでください」
「……はい」
「ミスタ・マリコルヌもです」
少年も、渋々と前を向いた。
教師はルイズへ視線を戻した。
「さて。それほどお話しする余裕があるなら、実演をしてもらいましょうか」
ルイズの指が、ペンの軸を押した。
「わたしが、ですか?」
「ええ。こちらの石を、金属へ変えてごらんなさい」
教卓の上へ、まだ灰色の石が一つ置かれる。
ほんの少し前まで、平気で笑っていた生徒の顔から、笑みが消えた。
「先生。ルイズは、やめた方が……」
「どうしてです?」
シュヴルーズは、声のした席へ顔を向けた。
キュルケが手を上げていた。
「危ないと思います」
今度は、からかう声ではなかった。
別の生徒も頷いた。
「錬金だけじゃなくて、いつも爆発するんです」
「机が壊れますよ」
教師の眉が寄る。
ルイズは、机の下で手を握った。
止めてくれている。
自分のためではないとわかっていても、その声を聞くたび、椅子へ押しつけられるようだった。
「ミス・ヴァリエールは、努力家だと聞いています」
シュヴルーズは言った。
「失敗を恐れて試さなくなれば、できることも増えません。私が、そばで見ていますから」
「でも、本当に――」
「皆さんは、席を離さないで。前の方は、荷物を少し引いてください」
教師は周囲へ目を配り、教卓の上の箱を脇へ移した。
空いた場所に、石だけが残る。
「ミス・ヴァリエール」
呼ばれて、ルイズは顔を上げた。
シュヴルーズは、先ほどより少し声を和らげていた。
「手順は、覚えていますね?」
「……はい」
「焦らなくてよいのですよ」
それは、何度も聞いた言葉だった。
ルイズは椅子を引いた。
マリコルヌが、机の上のものを慌てて抱え込む。
その動きを見て、口の中へ戻しかけた返事が変わった。
「できます」
教師の目を見て、言う。
「やらせてください」
自分が呼んだ男も、そこにいる。
昨日、自分は言った。
学院には、立派な教師も書物もある。
自分も、そこで学んでいるのだと。
彼はそれを聞き、自分から授業を見たいと言った。
ここで、できないとは言いたくなかった。
ルイズは杖を抜き、前へ進んだ。
壁際で、椅子が小さく鳴った。
エメトセルクが脚を引き、彼女の通る場所を空けていた。
「……見ていなさいよ」
通り過ぎるとき、つい声が漏れた。
彼は顔を上げた。
「ああ。見ている」
それ以上は言わなかった。
ルイズは教卓の前へ立った。
後ろで、また何かが動く。
振り返らなくても、何をしているかわかる。
机の下へ、身を隠しているのだ。
シュヴルーズは、その様子に困った顔をした。
だが、ルイズへ杖を向けたり、やめるよう言ったりはしなかった。
「まず、石をよく見て。変える先のものを、思い浮かべるのです」
ルイズは頷いた。
一つの石。
これを、金属にする。
金でなくてもいい。
立派な塊でなくても。
小さくてもいいから、教わったとおりのものになってほしい。
杖の握りを確かめる。
手が震えそうになり、指へ力を入れた。
教卓の端に添えた左手を離し、静かに息を吸った。
ルイズが、呪文を唱え始めた。
エメトセルクは、その横顔から杖へ目を移した。
力が集まる。
シュヴルーズが錬金を使ったときと、同じ動きには見えなかった。
弱すぎて届かないのではない。
何かが、そこまで来ている。
だが、石へ作用しようとする流れを追ううち、先ほど見た変化の筋道から外れた。
何へ変わる。
その答えを探す間に、流れがさらに歪んだ。
錬金と同じ結果にはならない。
どこまで広がる現象なのか、確かめている時間はなかった。
エメトセルクは立ち上がった。
「伏せろ」
ルイズが、こちらへ目を向けかけた。
杖は、すでに振り下ろされていた。
白い光が弾ける。
次いで、轟音。
石と、その下の教卓が砕けた。
エメトセルクは通路へ踏み出し、片手を上げた。
こちらへ走る爆風。
跳ね上がった木の破片。
それらと、身を伏せる生徒たちとの間へ、薄い障壁を置く。杖も、声に出す呪文も要らなかった。
何度となく行ってきた防護だった。
だが、組み上げた術へ力が通った瞬間、左手の甲が熱を帯びた。
袖口の内側で、刻まれた線が淡く光る。
障壁の縁が、意図した位置を越えて伸びた。
近くの机を覆うだけのはずだった光が通路へ張り出し、教卓の前にいたルイズの脇まで広がっていく。薄く受け止めるつもりの面へ、予定にない強さが加わっていた。
「……何だ?」
指先の感覚は、確かだった。
それなのに、返ってきた手応えが違う。
エメトセルクは手の向きを変えた。
広がりかけた縁を机の手前で留め、光の面を僅かに傾ける。木片を受け止め、勢いを失ったものから床へ落とした。
障壁に阻まれた煙が、その両脇へ流れていく。
床は、なお震えていた。
光の届かなかった教卓の向こうで、紫のローブが翻る。
何かが倒れる音と、生徒の悲鳴が重なった。
エメトセルクはそちらへ顔を向けたが、煙に遮られ、すぐには姿を捉えられなかった。
障壁は、すでに向かってきた破片を止めていた。
壊れた教卓も、先に広がった衝撃も、元へ戻るわけではなかった。
煙の中を鳥が飛び、羽が顔をかすめる。
「いやっ、こっちへ来ないで!」
「僕の使い魔だ、手を出すな!」
机の下から出ようとした少年の前へ、猫が飛び降りた。
誰かの鞄が床へ落ち、中の本が散る。
キュルケは身を伏せたまま、フレイムを呼び止めていた。低く唸ったサラマンダーが、飛ぶ鳥を追いかけようと頭を上げる。
その横で、飛んできた木片が宙に止まった。
煙越しに、暗紫色の光が見えた。
キュルケは、思わず顔を上げかけた。
隣のタバサが本を閉じ、彼女の袖を引く。
眼鏡の奥の目が、光の縁からこぼれ落ちる破片を追っていた。
二人の席は、その内側にあった。
木片が、足元で乾いた音を立てた。
タバサは通路へ目を移した。
煙の切れ目に、大きな手が見える。
杖は、持っていなかった。
ルイズは、教卓の前で目を開いた。
すぐ脇に、薄い光があった。
砕けた板が、その向こうで落ちていく。
光の面をたどると、通路にエメトセルクが立っていた。上げていた手を動かすと、こちらへ張り出した縁がゆっくり狭まった。
彼が、何かをした。
そう思って、息を吸いかけた。
頬が、ざらつく。
口の中に土のような味がして、咳き込んだ。
石は、なかった。
その下にあったはずの机の一部も、なくなっていた。
黒く焦げた板。
折れた脚。
それらが、足元へ散らばっている。
「……先生?」
呼ぶと、少し離れたところから咳が返ってきた。
シュヴルーズが床に座り込んでいた。
帽子が、脇へ転がっている。
生徒が二人、慌てて近づき、その肩と腕を支えた。
ルイズは、一歩動こうとした。
靴の下で、何かが砕けた。
止まる。
また、やってしまった。
昨日は、召喚できた。
初めて、皆と同じように結果を残せた。
あれで何もかも変わったとは、思っていなかった。
それでも。
今なら、小さな石くらいは。
最後の木片が床へ落ちると、エメトセルクは障壁を解いた。
光が薄れ、空いた手へ風が触れる。
左手を返すと、刻印の線に残っていた輝きも消えかけていた。熱は、まだ少し残っている。
契約のときと同じ場所だった。
だが、いま確かめるべきものは、ほかにある。
「ルイズ」
目の前へ、黒い長衣が来た。
エメトセルクだった。
彼は彼女を見てから、助け起こされる教師へ目を向けた。
「立てますか」
「ええ……大丈夫です。少し、驚いてしまって」
シュヴルーズは生徒の腕を借り、ゆっくり立ち上がった。
声が震えていた。
だが、壁へ手を添えると、すぐに教室を見回した。
「怪我をした方は、申し出てください。使い魔は、主人のそばへ。走らないで」
今度は、何人かが返事をした。
近くの窓が開けられ、煙が外へ流れていく。
エメトセルクは、ルイズの手元へ目を戻した。
杖を握る指は、動いている。
「怪我は?」
「……してないわ」
彼女は答えた。
声が、思ったより普通に出た。
それが、少し嫌だった。
こんなことには慣れている。
服を叩いて煤を落とし、片付けを言いつけられ、また笑われる。
いつものことだ。
それでも、さっきの光は、いつもと違った。
「……今の、あなたが?」
ルイズが尋ねると、彼は頷いた。
「ああ。飛んでくるものを止めた」
自分が呼んだ使い魔は、魔法を使える。
その驚きを、何と口にすればいいのかわからなかった。
だが、目を戻せば、教卓は壊れている。自分が変えようとした石は、金属になっていない。
エメトセルクは、壊れた教卓の方を見ていた。
さっき、あれを見ていてくれと言った。
彼は見ていた。
最初から、最後まで。
ルイズは、杖を下げた。
「……あなたも、笑うの?」
彼が、こちらを向いた。
一度、眉が上がる。
「何が面白いというんだ?」
聞き返されて、ルイズは口を閉じた。
彼の目には、隠した笑いもなかった。
怒る準備をしていたところへ、別の返事が来てしまった。
「だって……失敗したじゃない」
「それは、見ていた」
「それなら」
「お前が錬金をしたかったこともな」
彼は足元の石片を避けた。
「望んでいない結果を前にして、笑う理由があるのか?」
ルイズは、その顔を見上げた。
言葉が出なかった。
後ろで誰かが、小さく笑った。
別の生徒が、やめろよと言う。
ルイズは、いつもならそちらを睨んだだろう。
だが、今は目の前から視線を外せなかった。
エメトセルクが、ふと横を向いた。
「君。腕は、どうした?」
声を掛けられた少年が、袖を押さえた。
光の届かなかった、窓側の前の席にいた生徒だった。
指の脇に、小さな血の染みがある。
「破片が……少し、当たっただけだ」
「見せてもらえるか」
ためらってから、少年は袖をまくった。
前腕に、浅い傷があった。
エメトセルクは屈んで目を寄せたが、触れはしなかった。
「傷の中に何か残っているかもしれん。先生に申し出たまえ」
「……わかった」
少年が、シュヴルーズへ近づいていく。
教師の声がまた聞こえた。
ほかにも怪我をした者はいないか、と。
ルイズは、それを見送った。
エメトセルクも、話を続けようとはしなかった。
*
傷のある少年を呼び寄せたシュヴルーズが、エメトセルクへ顔を向けた。
「先ほど、皆さんを守ってくださったのですね」
「近くの者を庇っただけです。こちらには、ほかに怪我人は見当たりません」
教師は、木片の集まった通路を見た。
「ありがとうございます。詳しいお話は、皆の無事を確かめてからにしましょう」
彼も頷いた。
授業は、そのまま終わることになった。
窓の一枚にはひびが入り、教卓へ近づくための床も、破片で塞がっていた。
シュヴルーズは、集まった生徒たちへ、順に使い魔を連れて退室するよう告げた。
自分の帽子を拾って渡されると、少し困った顔で受け取る。
それから、ルイズを呼んだ。
「ミス・ヴァリエール。床の片付けをお願いします」
「……はい」
「魔法は、使わないでください。箒と塵取りを借りて、大きな破片は脇へ寄せるだけに。窓や、ひびの入ったところには触れないように」
ルイズは頷いた。
教師は壊れた教卓を見た。
脇へ寄せていた箱も、倒れている。
「私も、実演させる前に、もっと確かめるべきでしたね」
小さな声だった。
ルイズが顔を上げる。
シュヴルーズは、もう傷のある少年へ向いていた。
「あなたは、手当を受けましょう。こちらへいらっしゃい」
生徒たちが動き始めた。
鞄を抱え、机の下から使い魔を引っ張り出す。
マリコルヌは、ルイズの方へ何か言いかけた。
だが、袖についた埃を叩いている教師を見て、そのまま口を閉じた。
キュルケが、教卓の前を通った。
フレイムは、もう落ち着いていた。主人の後ろへ長い尾を引き、焦げた床へ鼻先を向ける。
「……昨日より、よく壊したわね」
ルイズは顔を上げた。
「わかってるわよ」
「その調子で、次は本塔まで壊さないでね」
「壊すためにやってるんじゃない!」
キュルケは肩をすくめた。
エメトセルクへ、横から目を向ける。
「初めての授業には、驚いたでしょう?」
「説明と実演が食い違うと、覚えることが増えるな」
彼は答えた。
キュルケの目が、彼の手へ動く。
「こちらもよ。あなた、魔法をお使いになるのね」
「見てのとおりだ」
「今のは、防ぐためだけ? 攻撃する方も?」
「多少はな。ここで披露してみせるつもりはないが」
「あら。そこまでは頼んでいないわ」
声には、先ほどまでとは違う興味が混じっていた。
タバサが、その隣で足を止めた。
「……杖は?」
「今の術には、必要なかっただけだ」
少女は彼の空の手と、床に積もった破片を見比べた。
同じやり方で使われた魔法ではなさそうだった。
だが、光が消えた後の教室を見ても、それ以上のことまではわからない。
「……そう」
短く答え、本を抱え直す。
キュルケの口元が、少し動いた。
「また、何か聞きたいことがあったら、わたしにもどうぞ」
「そのときは、頼むとしよう」
ルイズが何か言う前に、キュルケは歩き始めた。
タバサが、その隣へ並ぶ。
本を小脇へ戻した少女は、通路の木片を跨ぎ、振り返ることなく廊下へ出ていった。
教室が静かになった。
さっきまでの騒ぎが、扉一枚の向こうへ移っている。
ルイズは自分の席へ戻り、机の端から落ちかけていた鞄を拾った。
椅子へ置いてから、教室の脇にある物入れへ歩く。
箒を手にすると、柄が少し滑った。
握り直す。
腕に、まだ力が入りすぎていた。
ひと掃きすると、木屑が乾いた音を立てて動いた。
その先に、大きな板が横たわっている。
回り込もうとすると、横から手が伸びた。
エメトセルクが、板の端を持ち上げていた。
裏に釘の先が出ていないか確かめ、持つ場所を変える。
それから、教室の隅へ運んだ。
ルイズは、箒を止めた。
「……何をしてるの?」
「見てのとおりだが」
「掃除は、しないって言ったじゃない」
彼は板を壁へ立てかけ、簡単には倒れない向きへ直した。
「使用人になるつもりはないと言ったんだ。目の前の障害物を片づけることまで拒否した覚えはない」
ルイズは、しばらく彼を見ていた。
「じゃあ、手伝ってくれるのね」
「ああ。お前一人では、昼食が遅くなりそうなのでな」
「わたしだって、このくらい……」
言いかけて、床を見た。
木片は、まだあちこちにある。
大きなものを寄せなければ、箒を動かしてもすぐに引っ掛かった。
「……そっちは、端へ置いてちょうだい」
「ここでよいか?」
「ええ。先生にも、そう言われたもの」
ルイズは、彼が持ち上げた机の脚の下を掃いた。
埃が上がる。
口元を袖で押さえると、エメトセルクは窓へ目を向けた。ひびのない方が、すでに開けてある。
「風が落ち着くまで、少しずつにしたまえ」
「わかってる」
答える声も、さっきよりは小さくなった。
彼が次の板を運ぶ。
ルイズは、空いた場所へ箒を進めた。
しばらく、木の触れ合う音と、掃く音だけが続いた。
板を置いたとき、エメトセルクは左手を開いた。
文字は、もう光っていない。
この身体を得てから、自分の術を行使したのは初めてだった。
力が失われていないことは、わかった。
しかし、それだけでは済まなかった。
あの程度の破片を止めるために、あれほど強い面を作るつもりはなかった。範囲も違った。向きと広がりを変えて処理はしたが、術へ加わった変化まで、自分で選んだわけではない。
刻印の熱と、術の手応えが変わった瞬間。
時機は、重なっていた。
契約によって刻まれたものが、何かを加えたのか。
疑う理由はある。だが、熱が出たというだけで、働きの全てを決めることはできなかった。
一度の防護から、ほかの術まで同じようになるとも言い切れん。
彼は手を下ろした。
今すぐ、もう一度試してみる気にはならなかった。
教室には、まだルイズがいる。壊れたものも多い。
必要なら使う。だが、急ぐ理由のない行使まで、ここで重ねることはあるまい。
「……その板、まだ動かせる?」
ルイズの声に、顔を上げる。
「ああ。待っていろ」
今度は、手で持ち上げた。
*
「……どこが、違ったの?」
ルイズが口を開いたのは、小さな石片を塵取りへ集めているときだった。
エメトセルクは、教卓の残骸から顔を上げた。
「何のことだ?」
「わたしが魔法を使う前。変な顔をしていたでしょう」
「見えていたのか」
「声も、聞こえたわよ。少しだけ」
伏せろ、と。
何かを知っていたのなら。
そう考えてしまうのが悔しくて、彼女は、彼の顔ではなく箒の先を見た。
エメトセルクは、残っていた机の脚を脇へ寄せた。
「教師の錬金とは、違う反応が起きていた」
ルイズの手が止まった。
「違う?」
「ああ。先ほどの石が変わったときと、同じには見えなかった」
「それは、失敗するからでしょう」
彼女は、箒を少し動かした。
石片が一つ、塵取りの縁へ当たって残る。
もう一度掃く。
エメトセルクは、それが中へ入るのを待っていた。
「失敗というのは、起きたことにつけた名前だろう。なぜそうなったかまで、答えてはくれん」
ルイズは、顔を上げた。
「……じゃあ、あなたにはわかるの?」
「今は、わからん」
返事は、すぐだった。
胸に上がりかけたものが、また下がる。
ルイズは、塵取りを持ち上げた。
「……そう」
「何を期待したのだ。こちらの錬金をまともに見たのも、つい先ほどだぞ」
「そんなこと、わかってるわよ」
少し、声が尖った。
わかっている。
この男は昨日来たばかりで、学院の場所も国の名前も知らなかった。
それなのに、先生が石を変えるところを、初めて見るように眺めていたから。
自分にも何か言ってくれそうだと、勝手に思った。
ルイズは、集めた破片を箱へ落とした。
乾いた音がして、また石が転がる。
「だったら、結局、いつもと同じじゃない」
エメトセルクは、彼女が持つ空の塵取りを見た。
「お前は、何を変えたかった?」
「石を、金属にするんでしょう。聞いていたじゃない」
「そのつもりで、力を使った」
「ええ」
「だが、石も、机も砕けた」
ルイズの指に力が入った。
彼は、焦げた床へ目を向けた。
「何も起きなかったわけではない。望んだことが起きなかったのだ」
彼女は、すぐに答えなかった。
窓から入った風が、足元の木屑を動かす。
ルイズは、箒でそれを押さえた。
「……でも、皆は、同じ呪文でできるのよ」
「だろうな」
「わたしだって、ちゃんと覚えてる。杖の振り方も、何度も練習したわ」
言葉が、急に続いた。
「本を読み直しても、先生に見てもらっても。もっと落ち着いて、力を込めすぎないでって、そうしても……」
途中で、止めた。
そんなことを訴えて、どうする。
この男が、昨日まで自分のしてきたことを知っているわけでもない。
エメトセルクは、黙っていた。
笑いもしなければ、今の話を遮りもしなかった。
ルイズは、少し迷ってから続けた。
「……どうして、同じにならないのか、わからないの」
彼は、短く頷いた。
「では、それが調べるべきことだろう」
ルイズは、眉を寄せた。
「簡単に言うのね」
「調べれば簡単に答えが出る、と言った覚えはないが」
「また、そうやって」
「力が足りないのか。扱い方が合っていないのか。それとも、別のところに問題があるのか。今の私には、選べん」
エメトセルクは、最後の板を持ち上げた。
「わからないものを全部まとめて、ゼロと呼んでも、わかることは増えまいよ」
ルイズの口が、僅かに開いた。
彼は、こちらを見ていなかった。
板を運び、壁へ立てかける。
その間、彼女は、箒を床へついたまま立っていた。
「……ねえ」
ようやく声を出すと、エメトセルクが振り返った。
「調べるって、何からするの?」
「まずは、ほかの術と比べることだろうな。お前が、いつ、何をして、どうなったのかを聞く必要もある」
「わたしから?」
「ほかに、誰へ聞く?」
ルイズは、箒の柄へ目を落とした。
何回失敗したかなら、数えたくないほどある。
だが、いつも同じだったのかと尋ねられると、すぐには答えられなかった。
大きな爆発も、小さな爆発もあった。
教室だったことも、庭だったことも。
それらを全部、できなかった日のこととして覚えていた。
「……本なら、あるわ」
ルイズは言った。
「昨日、話したでしょう。学院の図書館」
「覚えている」
「魔法の本も、使い魔の本も。あなたの文字のことだって、探せると思う」
エメトセルクが、左手へ一度目をやった。
刻まれた形は、昨日と変わらない。
だが、先ほど光っていたことまで、なかったことにはできなかった。
いま何かを試すことはせず、手を下ろす。
「それも、確かめておきたいな」
「案内するわよ。わたしも、もう一度調べたいもの」
彼女は言ってから、少し口を尖らせた。
「ただ、魔法の本を全部読んだら、すぐにわかるなんて思わないでね」
「それで済むなら、教師も随分と楽な仕事だろう」
ルイズは、返事をしかけた。
そのとき、箒の先が教卓の破片へ引っ掛かった。
見下ろす。
まだ、床は散らかったままだ。
エメトセルクも、同じものを見ていた。
「もっとも。調べる前に、こちらを終わらせねばな」
「……わかってるわよ」
ルイズは、箒の向きを変えた。
彼が動かした木の下から、石片が二つ出てきた。
今度は、見落とさずに塵取りへ入れた。
*
コルベールは、開いていた本を閉じた。
写しの脇へ置く。
机には、すでに何冊かが積まれていた。
使い魔の契約について記したもの。
各地に伝わる使い魔の事例を集めたもの。
図を見つけるたび、彼は紙を寄せ、文字の形を比べてきた。
どれも、違った。
学院の図書館の一画にある、フェニアのライブラリー。
教師だけに閲覧を許されたこの場所へ来れば、何か手掛かりはあると思っていた。
実際、書物は幾らでもあった。
だが、どの棚へ手を伸ばせばよいかまでは、教えてくれない。
コルベールは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
紙には、昨日見た紋様が描いてある。
人の手へ印が刻まれる。
それだけなら、召喚されたものが何であれ、契約の結果として見たことはある。
気になっているのは、その形だった。
見慣れない。
そう思いながらも、まったく初めてだとは言い切れなかった。
以前、どこかの本で。
その曖昧な記憶のために、朝から何度も書棚と机を往復していた。
エメトセルクと名乗った男の顔も、思い出す。
契約の内容を尋ねるときも、浮遊魔法について聞くときも、彼は、知らないことを一つずつ確かめていた。
話の通じない相手ではない。
むしろ、その受け答えの落ち着きが、どこから来た人物なのかという疑問を増やした。
こちらには当たり前の術を知らず、しかし、魔法そのものを前にしては驚き騒がない。
「……さて」
コルベールは眼鏡を掛け直した。
人の素性と、ルーンの意味は、別々に確かめるべきことだった。
本人へ何を尋ねるにしても、まず、自分が記憶しているものを見つけなければ。
もう一度、書棚へ向かう。
使い魔そのものを扱う本から、古い記録や伝承を集めた本へ目を移した。
背表紙へ指を添えながら進むうち、ひとつの題に留まった。
『始祖ブリミルの使い魔たち』。
革の表紙は、縁が擦り減っていた。
コルベールは慎重に引き抜き、机へ運んだ。
紙を傷めないよう、ゆっくり開く。
新しい使い魔の飼育法を教える本ではなかった。
始祖に仕えた使い魔について、古い記述が集められている。
彼は途中で、手元の紙を引き寄せた。
ページをめくる速度が、落ちる。
そして、ある図の前で止まった。
線が、並んでいた。
昨日、男の左手の甲に浮かんだものと、よく似た形で。
コルベールは、本を少し自分の方へ寄せた。
紙を隣へ置く。
一つの角。
その隣の線。
続く文字の向き。
記憶だけを頼りに描いた写しなのだから、細部に誤りがあるかもしれない。
それでも、全体の並びは、ただ珍しいというだけでは済ませにくかった。
図のそばに記された名を、目で追う。
「……ガンダールヴ」
声にしてから、周囲の静けさに気づいた。
コルベールは、もう一度文章を読んだ。
始祖ブリミルに仕え、あらゆる武器を使いこなしたとされる使い魔。
幼い頃から伝説の名として知っているものが、今、紙へ写した文字の隣にある。
彼は、無意識に腰を浮かせていた。
すぐに座り直す。
似ている。
だが、似ているということと、あの男が伝説そのものだということは、同じではなかった。
この本に、エメトセルクという男の姿が書かれているわけでもない。
彼が何をできるのかも、まだほとんど見ていない。
古い記録と、昨日の記憶。
その二つを結びつけるには、確かめることが残っていた。
コルベールは紙の余白へ、見つけた箇所を書き留めた。
本の図を横へ添え、記憶から描いた方と区別する。
ここを曖昧にしたまま、ただ同じだったと話すわけにはいかない。
ペンを置くと、指先が少し冷えていた。
もし、手掛かりが本当にこの伝承へ続いているなら。
珍しい使い魔だと喜び、自分一人で調べていてよい話ではなくなる。
召喚したのは、生徒だ。
本人も、あの男も、何を結んだのかを知り尽くしているわけではない。
コルベールは、紙が乾くのを待った。
それから、本を閉じ、写しと一緒に抱える。
「学院長に、ご相談しなければ……」
何を見たのか。
何が、まだ推測なのか。
伝える順序を考えながら、彼は机を離れた。
*
教室では、ルイズが、窓の下の木屑を最後に掃き集めていた。
ひびの入ったガラスへ触れないよう、少し離れて手を動かす。
エメトセルクは、壊れた机を隅へ寄せたところだった。
重いものは彼が持ち、小さなものはルイズが集めた。
床の上に、通れる場所が戻っている。
「……これで、いいかしら」
ルイズは箒を止めた。
目につく破片は、箱へ集めた。
だが、教卓は欠けたままで、床の焦げ跡も消えていない。
エメトセルクが、一度教室を見渡した。
「触るなと言われたものまで、直す必要はあるまい。あとは、先生に確かめてもらおう」
「そうね」
ルイズは箒と塵取りを返した。
手を叩くと、細かな埃が落ちる。
椅子の鞄を取り、開いた教科書をしまった。
錬金の頁だった。
石から金属へ。
手順も、呪文も、書いてある。
朝、そこへ引いた線を見てから、彼女は本を閉じた。
「エメトセルク」
「何だ?」
「さっきの話、覚えておいてよ」
彼が、こちらを見る。
「調べるって言ったこと」
エメトセルクは、僅かに眉を上げた。
「昼食を取ったくらいで、忘れはせんさ」
「そういうことじゃなくて」
ルイズは、鞄の留め金を留めた。
「わたしも、思い出しておくわ。今まで、どう失敗したのか」
彼は、少しだけ間を置いて頷いた。
「ああ。それは、聞いておきたいな」
その返事を聞いてから、ルイズは扉へ向かった。
通路の端で、男が身体をずらす。
彼女は前へ出かけ、ふと、後ろを見た。
黒い床。
欠けた机。
自分の魔法が起こしたことは、何も変わっていない。
次も、また同じになるかもしれない。
そう思うと、杖を出すのは、まだ怖かった。
だが、教室を出る前に、見ておこうと思った。
石があった場所。
机が砕けたところ。
自分は、何をしようとしていたのか。
扉のそばで、エメトセルクが待っていた。
「……腹は減らないのかね?」
ルイズは顔を戻した。
「減ってるわよ。さっきから、ずっと」
「では、なおさら急ごう。私は厨房で、席を探さねばならん」
「昨日、用意してもらえるって言ってたじゃない」
「用意があることと、まだ空いていることは別だろう」
彼女は、少し呆れた顔をした。
あれほど大きな机を運んでも、昼食の席はやはり気になるらしい。
「……片付けは、助かったわ」
声を落として言う。
エメトセルクは、扉を押さえる手を動かさなかった。
「どういたしまして」
短い返事だった。
ルイズは、少し肩の力を抜いた。
廊下へ出る。
鞄の中で、教科書の角が腕に触れた。
昨日までも、失敗した後には本を開いていた。
今夜も、開くことになるだろう。
ただ、同じ頁を見るとき、次に何を確かめたいのか。
今日は、それを考えながら歩いていた。
第1章 第3話 完