ゼロの使い魔 ~星海より来たりし者~   作:すらはん

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第3話「失敗の向こう側」

教室へ入ると、まず、猫がこちらを見た。

 

机の上で丸くなっていたのが、頭だけを起こしたのだ。その向こうでは、大きな鳥が主人の肩から梁を見上げている。

 

ルイズは通路を進みながら、後ろを振り返った。

 

エメトセルクが、扉の上枠へ頭をぶつけないよう、少し身を屈めて入ってくる。

 

何人かの生徒が、それを見て話をやめた。

 

「……本当に、連れてきたのか」

 

声のした方を睨む。

 

相手は慌てて前を向いたが、別の席からも視線が寄ってきた。

 

「ちょっと。あまり、目立たないでよ」

 

ルイズが小声で言うと、エメトセルクは足を止めた。

 

「扉を通るだけで、それほど難しい注文を出されてもな」

 

「そういうことじゃなくて」

 

「まだ、何もしていないぞ」

 

わかっている。

 

わかっているからこそ、言い返しづらかった。

 

ルイズは自分の席へ鞄を置いた。

 

床の上には、使い魔のために荷物を寄せた隙間がある。そこを見下ろしたエメトセルクが、こちらへ目を戻した。

 

彼女は、言われる前に口を開いた。

 

「椅子なら、壁のところにあるわ」

 

「それは助かる」

 

彼は空いた椅子を一つ引き、通路を塞がない位置へ動かした。

 

腰を下ろすと、膝が少し高くなる。

 

その隣を、赤い鱗の尾が通り過ぎた。

 

フレイムだった。

 

後ろから歩いてきたキュルケが、使い魔を自分の席のそばへ促す。

 

「おはよう。昨日の晩は、よく眠れた?」

 

視線は、ルイズの後ろへ向いていた。

 

「多少はな」

 

「今日は、お勉強までなさるのね」

 

「教えるところを見せてもらえるのは、ありがたいことだからな」

 

「あら。ルイズも見習えばいいのに」

 

「わたしは、いつもちゃんと勉強しているわよ!」

 

少し大きな声になった。

 

キュルケは楽しそうに眉を上げる。

 

「では、今日も楽しみにしているわ」

 

ルイズは、鞄から教科書を出した。

 

昨夜、食堂でも同じように言われた。

 

明日は授業だから、見ていればいい。

 

自分から、そう言ったのだ。

 

隣の席へ、タバサが座った。

 

抱えていた本を机の端へ置き、椅子の位置を少し直す。エメトセルクと目が合うと、小さく会釈した。

 

彼も顎を引いて応じた。

 

キュルケがまだ何か言おうとしたところで、教室の扉が開いた。

 

「皆さん、席についてください」

 

紫のローブを着た女性が、石を入れた箱を抱えて入ってきた。

 

ふくよかな頬に、柔らかな笑みが浮かんでいる。

 

教卓へ箱を置くと、彼女は生徒たちを見渡した。

 

「土の系統を担当する、シュヴルーズです。『赤土』と呼ばれることもありますね」

 

何人かが返事をする。

 

教師の目が、壁際の男へ留まった。

 

少し驚いたように目を細め、それからルイズの席へ移る。

 

「ミス・ヴァリエール。そちらが、昨日召喚された方ですね」

 

「はい。わたしの使い魔です」

 

ルイズは、なるべく平然と答えた。

 

エメトセルクも立ち上がる。

 

「エメトセルクという。授業を見学させていただく」

 

シュヴルーズは、少し驚いた顔をした。

 

それでも、すぐに頷く。

 

「ええ。皆さんの邪魔にならないようにしていただければ」

 

「承知した」

 

彼が腰を下ろすと、近くの生徒がまた振り返った。

 

教師と話す使い魔は、やはり珍しいのだろう。

 

ルイズは、教科書を開いた。

 

「二年生になって、初めての授業です。まずは基本から、確かめていきましょう」

 

シュヴルーズが杖を取り出した。

 

机の下で、ルイズも自分の杖へ指を添えた。

 

*

 

「火、水、風、土。そして、今は失われたとされる『虚無』。皆さんがこれから学ぶのは、現在伝わっている四つの系統です」

 

シュヴルーズは、生徒たちが顔を上げるのを待ってから続けた。

 

「どの系統にも、それぞれ大切な働きがあります。私の専門である土も、皆さんの暮らしと深く関わっているのですよ」

 

建物を造ること。

 

金属を得ること。

 

畑を耕し、作物を育てること。

 

教師は身近な例を挙げた。

 

エメトセルクは、黙って聞いていた。

 

昨日、ルイズから聞いた学院の説明よりも、ずっと具体的だった。

 

四つの系統。

 

それとは別に、名だけが残るもの。

 

いま聞いた言葉を、知っている術へそのまま当てはめるのはやめておいた。何をそう呼んでいるかも、まだ確かめていない。

 

シュヴルーズは箱から石を取り、教卓へ並べた。

 

「今日は、土の基本である錬金をおさらいします」

 

丸い石を一つ、手前へ寄せる。

 

杖が、その上へ向けられた。

 

彼女の内側で、力が動いた。

 

エメトセルクは、その流れへ注意を留めた。

 

精神力。

 

昨日も使われ、いま教師が口にした力の名だった。

 

彼の知るエーテルに、よく似ている。

 

だが、力が杖を通り、石へ届くところまで追うと、同じ術の見本としては収まらない違いがあった。

 

石が輝いた。

 

ざらついていた表面から、灰色が失われていく。

 

やがて残ったのは、黄色く光る金属だった。

 

生徒たちが身を乗り出す。

 

キュルケが、少し首を傾けた。

 

「先生。それは金ですか?」

 

「いいえ。真鍮です。金を錬成するとなれば、スクウェアほどの力量が必要になります」

 

シュヴルーズは、できた塊を持ち上げた。

 

窓の光が、その角へ照り返す。

 

エメトセルクの視線も動いた。

 

何もないところへ、新しいものを生み出したのではない。

 

目の前にあった石が、変わった。

 

ただ、その途中で何がどう組み替えられたかを、見たまま理解できるわけでもなかった。

 

「強い魔法には、系統を重ねることが必要です。二つを重ねられればライン、三つならトライアングル。四つならスクウェア」

 

「同じ系統を重ねても、よろしいのですか?」

 

前の席から出た問いに、教師は頷いた。

 

「もちろん。たとえば土に土を重ねることもできます。異なる系統を組み合わせるだけではありません。私も土を重ねるトライアングルのメイジです」

 

ルイズのペンが、紙の上を走る。

 

そこは知っている。

 

一年の授業でも習ったし、家でも教わった。

 

だが、知らないふりをしても仕方がない。聞き直すのが無駄ということでもない。

 

彼女は、書いたところへ短く線を引いた。

 

机の端に、横から指が触れた。

 

顔を向けると、マリコルヌがこちらを見ていた。

 

「君の使い魔も、勉強するのか?」

 

小さな声だった。

 

ただし、隣の生徒にも聞こえるくらいには、大きい。

 

「見ていると、わかるでしょう」

 

ルイズは、声を落として答えた。

 

前へ向き直ろうとすると、少年の目が壁際へ動いた。

 

「そのうち、君より先に魔法を覚えたりしてな」

 

傍らで、誰かが口元を押さえた。

 

ルイズはペンを止めた。

 

「余計なお世話よ」

 

「心配しているんだ。使い魔の方が先に、ゼロでなくなったら――」

 

「自分の使い魔の心配でもしていなさいよ、風邪っぴき」

 

マリコルヌの顔が変わった。

 

「風上だ。人の二つ名を勝手に変えるな」

 

「だったら、わたしのことも――」

 

「ミス・ヴァリエール」

 

ルイズの背筋が伸びた。

 

シュヴルーズが、真鍮の塊を置いていた。

 

教室は、いつの間にか静かになっている。

 

「授業中のお喋りは、慎んでください」

 

「……はい」

 

「ミスタ・マリコルヌもです」

 

少年も、渋々と前を向いた。

 

教師はルイズへ視線を戻した。

 

「さて。それほどお話しする余裕があるなら、実演をしてもらいましょうか」

 

ルイズの指が、ペンの軸を押した。

 

「わたしが、ですか?」

 

「ええ。こちらの石を、金属へ変えてごらんなさい」

 

教卓の上へ、まだ灰色の石が一つ置かれる。

 

ほんの少し前まで、平気で笑っていた生徒の顔から、笑みが消えた。

 

「先生。ルイズは、やめた方が……」

 

「どうしてです?」

 

シュヴルーズは、声のした席へ顔を向けた。

 

キュルケが手を上げていた。

 

「危ないと思います」

 

今度は、からかう声ではなかった。

 

別の生徒も頷いた。

 

「錬金だけじゃなくて、いつも爆発するんです」

 

「机が壊れますよ」

 

教師の眉が寄る。

 

ルイズは、机の下で手を握った。

 

止めてくれている。

 

自分のためではないとわかっていても、その声を聞くたび、椅子へ押しつけられるようだった。

 

「ミス・ヴァリエールは、努力家だと聞いています」

 

シュヴルーズは言った。

 

「失敗を恐れて試さなくなれば、できることも増えません。私が、そばで見ていますから」

 

「でも、本当に――」

 

「皆さんは、席を離さないで。前の方は、荷物を少し引いてください」

 

教師は周囲へ目を配り、教卓の上の箱を脇へ移した。

 

空いた場所に、石だけが残る。

 

「ミス・ヴァリエール」

 

呼ばれて、ルイズは顔を上げた。

 

シュヴルーズは、先ほどより少し声を和らげていた。

 

「手順は、覚えていますね?」

 

「……はい」

 

「焦らなくてよいのですよ」

 

それは、何度も聞いた言葉だった。

 

ルイズは椅子を引いた。

 

マリコルヌが、机の上のものを慌てて抱え込む。

 

その動きを見て、口の中へ戻しかけた返事が変わった。

 

「できます」

 

教師の目を見て、言う。

 

「やらせてください」

 

自分が呼んだ男も、そこにいる。

 

昨日、自分は言った。

 

学院には、立派な教師も書物もある。

 

自分も、そこで学んでいるのだと。

 

彼はそれを聞き、自分から授業を見たいと言った。

 

ここで、できないとは言いたくなかった。

 

ルイズは杖を抜き、前へ進んだ。

 

壁際で、椅子が小さく鳴った。

 

エメトセルクが脚を引き、彼女の通る場所を空けていた。

 

「……見ていなさいよ」

 

通り過ぎるとき、つい声が漏れた。

 

彼は顔を上げた。

 

「ああ。見ている」

 

それ以上は言わなかった。

 

ルイズは教卓の前へ立った。

 

後ろで、また何かが動く。

 

振り返らなくても、何をしているかわかる。

 

机の下へ、身を隠しているのだ。

 

シュヴルーズは、その様子に困った顔をした。

 

だが、ルイズへ杖を向けたり、やめるよう言ったりはしなかった。

 

「まず、石をよく見て。変える先のものを、思い浮かべるのです」

 

ルイズは頷いた。

 

一つの石。

 

これを、金属にする。

 

金でなくてもいい。

 

立派な塊でなくても。

 

小さくてもいいから、教わったとおりのものになってほしい。

 

杖の握りを確かめる。

 

手が震えそうになり、指へ力を入れた。

 

教卓の端に添えた左手を離し、静かに息を吸った。

 

ルイズが、呪文を唱え始めた。

 

エメトセルクは、その横顔から杖へ目を移した。

 

力が集まる。

 

シュヴルーズが錬金を使ったときと、同じ動きには見えなかった。

 

弱すぎて届かないのではない。

 

何かが、そこまで来ている。

 

だが、石へ作用しようとする流れを追ううち、先ほど見た変化の筋道から外れた。

 

何へ変わる。

 

その答えを探す間に、流れがさらに歪んだ。

 

錬金と同じ結果にはならない。

 

どこまで広がる現象なのか、確かめている時間はなかった。

 

エメトセルクは立ち上がった。

 

「伏せろ」

 

ルイズが、こちらへ目を向けかけた。

 

杖は、すでに振り下ろされていた。

 

白い光が弾ける。

 

次いで、轟音。

 

石と、その下の教卓が砕けた。

 

エメトセルクは通路へ踏み出し、片手を上げた。

 

こちらへ走る爆風。

 

跳ね上がった木の破片。

 

それらと、身を伏せる生徒たちとの間へ、薄い障壁を置く。杖も、声に出す呪文も要らなかった。

 

何度となく行ってきた防護だった。

 

だが、組み上げた術へ力が通った瞬間、左手の甲が熱を帯びた。

 

袖口の内側で、刻まれた線が淡く光る。

 

障壁の縁が、意図した位置を越えて伸びた。

 

近くの机を覆うだけのはずだった光が通路へ張り出し、教卓の前にいたルイズの脇まで広がっていく。薄く受け止めるつもりの面へ、予定にない強さが加わっていた。

 

「……何だ?」

 

指先の感覚は、確かだった。

 

それなのに、返ってきた手応えが違う。

 

エメトセルクは手の向きを変えた。

 

広がりかけた縁を机の手前で留め、光の面を僅かに傾ける。木片を受け止め、勢いを失ったものから床へ落とした。

 

障壁に阻まれた煙が、その両脇へ流れていく。

 

床は、なお震えていた。

 

光の届かなかった教卓の向こうで、紫のローブが翻る。

 

何かが倒れる音と、生徒の悲鳴が重なった。

 

エメトセルクはそちらへ顔を向けたが、煙に遮られ、すぐには姿を捉えられなかった。

 

障壁は、すでに向かってきた破片を止めていた。

 

壊れた教卓も、先に広がった衝撃も、元へ戻るわけではなかった。

 

煙の中を鳥が飛び、羽が顔をかすめる。

 

「いやっ、こっちへ来ないで!」

 

「僕の使い魔だ、手を出すな!」

 

机の下から出ようとした少年の前へ、猫が飛び降りた。

 

誰かの鞄が床へ落ち、中の本が散る。

 

キュルケは身を伏せたまま、フレイムを呼び止めていた。低く唸ったサラマンダーが、飛ぶ鳥を追いかけようと頭を上げる。

 

その横で、飛んできた木片が宙に止まった。

 

煙越しに、暗紫色の光が見えた。

 

キュルケは、思わず顔を上げかけた。

 

隣のタバサが本を閉じ、彼女の袖を引く。

 

眼鏡の奥の目が、光の縁からこぼれ落ちる破片を追っていた。

 

二人の席は、その内側にあった。

 

木片が、足元で乾いた音を立てた。

 

タバサは通路へ目を移した。

 

煙の切れ目に、大きな手が見える。

 

杖は、持っていなかった。

 

ルイズは、教卓の前で目を開いた。

 

すぐ脇に、薄い光があった。

 

砕けた板が、その向こうで落ちていく。

 

光の面をたどると、通路にエメトセルクが立っていた。上げていた手を動かすと、こちらへ張り出した縁がゆっくり狭まった。

 

彼が、何かをした。

 

そう思って、息を吸いかけた。

 

頬が、ざらつく。

 

口の中に土のような味がして、咳き込んだ。

 

石は、なかった。

 

その下にあったはずの机の一部も、なくなっていた。

 

黒く焦げた板。

 

折れた脚。

 

それらが、足元へ散らばっている。

 

「……先生?」

 

呼ぶと、少し離れたところから咳が返ってきた。

 

シュヴルーズが床に座り込んでいた。

 

帽子が、脇へ転がっている。

 

生徒が二人、慌てて近づき、その肩と腕を支えた。

 

ルイズは、一歩動こうとした。

 

靴の下で、何かが砕けた。

 

止まる。

 

また、やってしまった。

 

昨日は、召喚できた。

 

初めて、皆と同じように結果を残せた。

 

あれで何もかも変わったとは、思っていなかった。

 

それでも。

 

今なら、小さな石くらいは。

 

最後の木片が床へ落ちると、エメトセルクは障壁を解いた。

 

光が薄れ、空いた手へ風が触れる。

 

左手を返すと、刻印の線に残っていた輝きも消えかけていた。熱は、まだ少し残っている。

 

契約のときと同じ場所だった。

 

だが、いま確かめるべきものは、ほかにある。

 

「ルイズ」

 

目の前へ、黒い長衣が来た。

 

エメトセルクだった。

 

彼は彼女を見てから、助け起こされる教師へ目を向けた。

 

「立てますか」

 

「ええ……大丈夫です。少し、驚いてしまって」

 

シュヴルーズは生徒の腕を借り、ゆっくり立ち上がった。

 

声が震えていた。

 

だが、壁へ手を添えると、すぐに教室を見回した。

 

「怪我をした方は、申し出てください。使い魔は、主人のそばへ。走らないで」

 

今度は、何人かが返事をした。

 

近くの窓が開けられ、煙が外へ流れていく。

 

エメトセルクは、ルイズの手元へ目を戻した。

 

杖を握る指は、動いている。

 

「怪我は?」

 

「……してないわ」

 

彼女は答えた。

 

声が、思ったより普通に出た。

 

それが、少し嫌だった。

 

こんなことには慣れている。

 

服を叩いて煤を落とし、片付けを言いつけられ、また笑われる。

 

いつものことだ。

 

それでも、さっきの光は、いつもと違った。

 

「……今の、あなたが?」

 

ルイズが尋ねると、彼は頷いた。

 

「ああ。飛んでくるものを止めた」

 

自分が呼んだ使い魔は、魔法を使える。

 

その驚きを、何と口にすればいいのかわからなかった。

 

だが、目を戻せば、教卓は壊れている。自分が変えようとした石は、金属になっていない。

 

エメトセルクは、壊れた教卓の方を見ていた。

 

さっき、あれを見ていてくれと言った。

 

彼は見ていた。

 

最初から、最後まで。

 

ルイズは、杖を下げた。

 

「……あなたも、笑うの?」

 

彼が、こちらを向いた。

 

一度、眉が上がる。

 

「何が面白いというんだ?」

 

聞き返されて、ルイズは口を閉じた。

 

彼の目には、隠した笑いもなかった。

 

怒る準備をしていたところへ、別の返事が来てしまった。

 

「だって……失敗したじゃない」

 

「それは、見ていた」

 

「それなら」

 

「お前が錬金をしたかったこともな」

 

彼は足元の石片を避けた。

 

「望んでいない結果を前にして、笑う理由があるのか?」

 

ルイズは、その顔を見上げた。

 

言葉が出なかった。

 

後ろで誰かが、小さく笑った。

 

別の生徒が、やめろよと言う。

 

ルイズは、いつもならそちらを睨んだだろう。

 

だが、今は目の前から視線を外せなかった。

 

エメトセルクが、ふと横を向いた。

 

「君。腕は、どうした?」

 

声を掛けられた少年が、袖を押さえた。

 

光の届かなかった、窓側の前の席にいた生徒だった。

 

指の脇に、小さな血の染みがある。

 

「破片が……少し、当たっただけだ」

 

「見せてもらえるか」

 

ためらってから、少年は袖をまくった。

 

前腕に、浅い傷があった。

 

エメトセルクは屈んで目を寄せたが、触れはしなかった。

 

「傷の中に何か残っているかもしれん。先生に申し出たまえ」

 

「……わかった」

 

少年が、シュヴルーズへ近づいていく。

 

教師の声がまた聞こえた。

 

ほかにも怪我をした者はいないか、と。

 

ルイズは、それを見送った。

 

エメトセルクも、話を続けようとはしなかった。

 

*

 

傷のある少年を呼び寄せたシュヴルーズが、エメトセルクへ顔を向けた。

 

「先ほど、皆さんを守ってくださったのですね」

 

「近くの者を庇っただけです。こちらには、ほかに怪我人は見当たりません」

 

教師は、木片の集まった通路を見た。

 

「ありがとうございます。詳しいお話は、皆の無事を確かめてからにしましょう」

 

彼も頷いた。

 

授業は、そのまま終わることになった。

 

窓の一枚にはひびが入り、教卓へ近づくための床も、破片で塞がっていた。

 

シュヴルーズは、集まった生徒たちへ、順に使い魔を連れて退室するよう告げた。

 

自分の帽子を拾って渡されると、少し困った顔で受け取る。

 

それから、ルイズを呼んだ。

 

「ミス・ヴァリエール。床の片付けをお願いします」

 

「……はい」

 

「魔法は、使わないでください。箒と塵取りを借りて、大きな破片は脇へ寄せるだけに。窓や、ひびの入ったところには触れないように」

 

ルイズは頷いた。

 

教師は壊れた教卓を見た。

 

脇へ寄せていた箱も、倒れている。

 

「私も、実演させる前に、もっと確かめるべきでしたね」

 

小さな声だった。

 

ルイズが顔を上げる。

 

シュヴルーズは、もう傷のある少年へ向いていた。

 

「あなたは、手当を受けましょう。こちらへいらっしゃい」

 

生徒たちが動き始めた。

 

鞄を抱え、机の下から使い魔を引っ張り出す。

 

マリコルヌは、ルイズの方へ何か言いかけた。

 

だが、袖についた埃を叩いている教師を見て、そのまま口を閉じた。

 

キュルケが、教卓の前を通った。

 

フレイムは、もう落ち着いていた。主人の後ろへ長い尾を引き、焦げた床へ鼻先を向ける。

 

「……昨日より、よく壊したわね」

 

ルイズは顔を上げた。

 

「わかってるわよ」

 

「その調子で、次は本塔まで壊さないでね」

 

「壊すためにやってるんじゃない!」

 

キュルケは肩をすくめた。

 

エメトセルクへ、横から目を向ける。

 

「初めての授業には、驚いたでしょう?」

 

「説明と実演が食い違うと、覚えることが増えるな」

 

彼は答えた。

 

キュルケの目が、彼の手へ動く。

 

「こちらもよ。あなた、魔法をお使いになるのね」

 

「見てのとおりだ」

 

「今のは、防ぐためだけ? 攻撃する方も?」

 

「多少はな。ここで披露してみせるつもりはないが」

 

「あら。そこまでは頼んでいないわ」

 

声には、先ほどまでとは違う興味が混じっていた。

 

タバサが、その隣で足を止めた。

 

「……杖は?」

 

「今の術には、必要なかっただけだ」

 

少女は彼の空の手と、床に積もった破片を見比べた。

 

同じやり方で使われた魔法ではなさそうだった。

 

だが、光が消えた後の教室を見ても、それ以上のことまではわからない。

 

「……そう」

 

短く答え、本を抱え直す。

 

キュルケの口元が、少し動いた。

 

「また、何か聞きたいことがあったら、わたしにもどうぞ」

 

「そのときは、頼むとしよう」

 

ルイズが何か言う前に、キュルケは歩き始めた。

 

タバサが、その隣へ並ぶ。

 

本を小脇へ戻した少女は、通路の木片を跨ぎ、振り返ることなく廊下へ出ていった。

 

教室が静かになった。

 

さっきまでの騒ぎが、扉一枚の向こうへ移っている。

 

ルイズは自分の席へ戻り、机の端から落ちかけていた鞄を拾った。

 

椅子へ置いてから、教室の脇にある物入れへ歩く。

 

箒を手にすると、柄が少し滑った。

 

握り直す。

 

腕に、まだ力が入りすぎていた。

 

ひと掃きすると、木屑が乾いた音を立てて動いた。

 

その先に、大きな板が横たわっている。

 

回り込もうとすると、横から手が伸びた。

 

エメトセルクが、板の端を持ち上げていた。

 

裏に釘の先が出ていないか確かめ、持つ場所を変える。

 

それから、教室の隅へ運んだ。

 

ルイズは、箒を止めた。

 

「……何をしてるの?」

 

「見てのとおりだが」

 

「掃除は、しないって言ったじゃない」

 

彼は板を壁へ立てかけ、簡単には倒れない向きへ直した。

 

「使用人になるつもりはないと言ったんだ。目の前の障害物を片づけることまで拒否した覚えはない」

 

ルイズは、しばらく彼を見ていた。

 

「じゃあ、手伝ってくれるのね」

 

「ああ。お前一人では、昼食が遅くなりそうなのでな」

 

「わたしだって、このくらい……」

 

言いかけて、床を見た。

 

木片は、まだあちこちにある。

 

大きなものを寄せなければ、箒を動かしてもすぐに引っ掛かった。

 

「……そっちは、端へ置いてちょうだい」

 

「ここでよいか?」

 

「ええ。先生にも、そう言われたもの」

 

ルイズは、彼が持ち上げた机の脚の下を掃いた。

 

埃が上がる。

 

口元を袖で押さえると、エメトセルクは窓へ目を向けた。ひびのない方が、すでに開けてある。

 

「風が落ち着くまで、少しずつにしたまえ」

 

「わかってる」

 

答える声も、さっきよりは小さくなった。

 

彼が次の板を運ぶ。

 

ルイズは、空いた場所へ箒を進めた。

 

しばらく、木の触れ合う音と、掃く音だけが続いた。

 

板を置いたとき、エメトセルクは左手を開いた。

 

文字は、もう光っていない。

 

この身体を得てから、自分の術を行使したのは初めてだった。

 

力が失われていないことは、わかった。

 

しかし、それだけでは済まなかった。

 

あの程度の破片を止めるために、あれほど強い面を作るつもりはなかった。範囲も違った。向きと広がりを変えて処理はしたが、術へ加わった変化まで、自分で選んだわけではない。

 

刻印の熱と、術の手応えが変わった瞬間。

 

時機は、重なっていた。

 

契約によって刻まれたものが、何かを加えたのか。

 

疑う理由はある。だが、熱が出たというだけで、働きの全てを決めることはできなかった。

 

一度の防護から、ほかの術まで同じようになるとも言い切れん。

 

彼は手を下ろした。

 

今すぐ、もう一度試してみる気にはならなかった。

 

教室には、まだルイズがいる。壊れたものも多い。

 

必要なら使う。だが、急ぐ理由のない行使まで、ここで重ねることはあるまい。

 

「……その板、まだ動かせる?」

 

ルイズの声に、顔を上げる。

 

「ああ。待っていろ」

 

今度は、手で持ち上げた。

 

*

 

「……どこが、違ったの?」

 

ルイズが口を開いたのは、小さな石片を塵取りへ集めているときだった。

 

エメトセルクは、教卓の残骸から顔を上げた。

 

「何のことだ?」

 

「わたしが魔法を使う前。変な顔をしていたでしょう」

 

「見えていたのか」

 

「声も、聞こえたわよ。少しだけ」

 

伏せろ、と。

 

何かを知っていたのなら。

 

そう考えてしまうのが悔しくて、彼女は、彼の顔ではなく箒の先を見た。

 

エメトセルクは、残っていた机の脚を脇へ寄せた。

 

「教師の錬金とは、違う反応が起きていた」

 

ルイズの手が止まった。

 

「違う?」

 

「ああ。先ほどの石が変わったときと、同じには見えなかった」

 

「それは、失敗するからでしょう」

 

彼女は、箒を少し動かした。

 

石片が一つ、塵取りの縁へ当たって残る。

 

もう一度掃く。

 

エメトセルクは、それが中へ入るのを待っていた。

 

「失敗というのは、起きたことにつけた名前だろう。なぜそうなったかまで、答えてはくれん」

 

ルイズは、顔を上げた。

 

「……じゃあ、あなたにはわかるの?」

 

「今は、わからん」

 

返事は、すぐだった。

 

胸に上がりかけたものが、また下がる。

 

ルイズは、塵取りを持ち上げた。

 

「……そう」

 

「何を期待したのだ。こちらの錬金をまともに見たのも、つい先ほどだぞ」

 

「そんなこと、わかってるわよ」

 

少し、声が尖った。

 

わかっている。

 

この男は昨日来たばかりで、学院の場所も国の名前も知らなかった。

 

それなのに、先生が石を変えるところを、初めて見るように眺めていたから。

 

自分にも何か言ってくれそうだと、勝手に思った。

 

ルイズは、集めた破片を箱へ落とした。

 

乾いた音がして、また石が転がる。

 

「だったら、結局、いつもと同じじゃない」

 

エメトセルクは、彼女が持つ空の塵取りを見た。

 

「お前は、何を変えたかった?」

 

「石を、金属にするんでしょう。聞いていたじゃない」

 

「そのつもりで、力を使った」

 

「ええ」

 

「だが、石も、机も砕けた」

 

ルイズの指に力が入った。

 

彼は、焦げた床へ目を向けた。

 

「何も起きなかったわけではない。望んだことが起きなかったのだ」

 

彼女は、すぐに答えなかった。

 

窓から入った風が、足元の木屑を動かす。

 

ルイズは、箒でそれを押さえた。

 

「……でも、皆は、同じ呪文でできるのよ」

 

「だろうな」

 

「わたしだって、ちゃんと覚えてる。杖の振り方も、何度も練習したわ」

 

言葉が、急に続いた。

 

「本を読み直しても、先生に見てもらっても。もっと落ち着いて、力を込めすぎないでって、そうしても……」

 

途中で、止めた。

 

そんなことを訴えて、どうする。

 

この男が、昨日まで自分のしてきたことを知っているわけでもない。

 

エメトセルクは、黙っていた。

 

笑いもしなければ、今の話を遮りもしなかった。

 

ルイズは、少し迷ってから続けた。

 

「……どうして、同じにならないのか、わからないの」

 

彼は、短く頷いた。

 

「では、それが調べるべきことだろう」

 

ルイズは、眉を寄せた。

 

「簡単に言うのね」

 

「調べれば簡単に答えが出る、と言った覚えはないが」

 

「また、そうやって」

 

「力が足りないのか。扱い方が合っていないのか。それとも、別のところに問題があるのか。今の私には、選べん」

 

エメトセルクは、最後の板を持ち上げた。

 

「わからないものを全部まとめて、ゼロと呼んでも、わかることは増えまいよ」

 

ルイズの口が、僅かに開いた。

 

彼は、こちらを見ていなかった。

 

板を運び、壁へ立てかける。

 

その間、彼女は、箒を床へついたまま立っていた。

 

「……ねえ」

 

ようやく声を出すと、エメトセルクが振り返った。

 

「調べるって、何からするの?」

 

「まずは、ほかの術と比べることだろうな。お前が、いつ、何をして、どうなったのかを聞く必要もある」

 

「わたしから?」

 

「ほかに、誰へ聞く?」

 

ルイズは、箒の柄へ目を落とした。

 

何回失敗したかなら、数えたくないほどある。

 

だが、いつも同じだったのかと尋ねられると、すぐには答えられなかった。

 

大きな爆発も、小さな爆発もあった。

 

教室だったことも、庭だったことも。

 

それらを全部、できなかった日のこととして覚えていた。

 

「……本なら、あるわ」

 

ルイズは言った。

 

「昨日、話したでしょう。学院の図書館」

 

「覚えている」

 

「魔法の本も、使い魔の本も。あなたの文字のことだって、探せると思う」

 

エメトセルクが、左手へ一度目をやった。

 

刻まれた形は、昨日と変わらない。

 

だが、先ほど光っていたことまで、なかったことにはできなかった。

 

いま何かを試すことはせず、手を下ろす。

 

「それも、確かめておきたいな」

 

「案内するわよ。わたしも、もう一度調べたいもの」

 

彼女は言ってから、少し口を尖らせた。

 

「ただ、魔法の本を全部読んだら、すぐにわかるなんて思わないでね」

 

「それで済むなら、教師も随分と楽な仕事だろう」

 

ルイズは、返事をしかけた。

 

そのとき、箒の先が教卓の破片へ引っ掛かった。

 

見下ろす。

 

まだ、床は散らかったままだ。

 

エメトセルクも、同じものを見ていた。

 

「もっとも。調べる前に、こちらを終わらせねばな」

 

「……わかってるわよ」

 

ルイズは、箒の向きを変えた。

 

彼が動かした木の下から、石片が二つ出てきた。

 

今度は、見落とさずに塵取りへ入れた。

 

*

 

コルベールは、開いていた本を閉じた。

 

写しの脇へ置く。

 

机には、すでに何冊かが積まれていた。

 

使い魔の契約について記したもの。

 

各地に伝わる使い魔の事例を集めたもの。

 

図を見つけるたび、彼は紙を寄せ、文字の形を比べてきた。

 

どれも、違った。

 

学院の図書館の一画にある、フェニアのライブラリー。

 

教師だけに閲覧を許されたこの場所へ来れば、何か手掛かりはあると思っていた。

 

実際、書物は幾らでもあった。

 

だが、どの棚へ手を伸ばせばよいかまでは、教えてくれない。

 

コルベールは眼鏡を外し、目頭を押さえた。

 

紙には、昨日見た紋様が描いてある。

 

人の手へ印が刻まれる。

 

それだけなら、召喚されたものが何であれ、契約の結果として見たことはある。

 

気になっているのは、その形だった。

 

見慣れない。

 

そう思いながらも、まったく初めてだとは言い切れなかった。

 

以前、どこかの本で。

 

その曖昧な記憶のために、朝から何度も書棚と机を往復していた。

 

エメトセルクと名乗った男の顔も、思い出す。

 

契約の内容を尋ねるときも、浮遊魔法について聞くときも、彼は、知らないことを一つずつ確かめていた。

 

話の通じない相手ではない。

 

むしろ、その受け答えの落ち着きが、どこから来た人物なのかという疑問を増やした。

 

こちらには当たり前の術を知らず、しかし、魔法そのものを前にしては驚き騒がない。

 

「……さて」

 

コルベールは眼鏡を掛け直した。

 

人の素性と、ルーンの意味は、別々に確かめるべきことだった。

 

本人へ何を尋ねるにしても、まず、自分が記憶しているものを見つけなければ。

 

もう一度、書棚へ向かう。

 

使い魔そのものを扱う本から、古い記録や伝承を集めた本へ目を移した。

 

背表紙へ指を添えながら進むうち、ひとつの題に留まった。

 

『始祖ブリミルの使い魔たち』。

 

革の表紙は、縁が擦り減っていた。

 

コルベールは慎重に引き抜き、机へ運んだ。

 

紙を傷めないよう、ゆっくり開く。

 

新しい使い魔の飼育法を教える本ではなかった。

 

始祖に仕えた使い魔について、古い記述が集められている。

 

彼は途中で、手元の紙を引き寄せた。

 

ページをめくる速度が、落ちる。

 

そして、ある図の前で止まった。

 

線が、並んでいた。

 

昨日、男の左手の甲に浮かんだものと、よく似た形で。

 

コルベールは、本を少し自分の方へ寄せた。

 

紙を隣へ置く。

 

一つの角。

 

その隣の線。

 

続く文字の向き。

 

記憶だけを頼りに描いた写しなのだから、細部に誤りがあるかもしれない。

 

それでも、全体の並びは、ただ珍しいというだけでは済ませにくかった。

 

図のそばに記された名を、目で追う。

 

「……ガンダールヴ」

 

声にしてから、周囲の静けさに気づいた。

 

コルベールは、もう一度文章を読んだ。

 

始祖ブリミルに仕え、あらゆる武器を使いこなしたとされる使い魔。

 

幼い頃から伝説の名として知っているものが、今、紙へ写した文字の隣にある。

 

彼は、無意識に腰を浮かせていた。

 

すぐに座り直す。

 

似ている。

 

だが、似ているということと、あの男が伝説そのものだということは、同じではなかった。

 

この本に、エメトセルクという男の姿が書かれているわけでもない。

 

彼が何をできるのかも、まだほとんど見ていない。

 

古い記録と、昨日の記憶。

 

その二つを結びつけるには、確かめることが残っていた。

 

コルベールは紙の余白へ、見つけた箇所を書き留めた。

 

本の図を横へ添え、記憶から描いた方と区別する。

 

ここを曖昧にしたまま、ただ同じだったと話すわけにはいかない。

 

ペンを置くと、指先が少し冷えていた。

 

もし、手掛かりが本当にこの伝承へ続いているなら。

 

珍しい使い魔だと喜び、自分一人で調べていてよい話ではなくなる。

 

召喚したのは、生徒だ。

 

本人も、あの男も、何を結んだのかを知り尽くしているわけではない。

 

コルベールは、紙が乾くのを待った。

 

それから、本を閉じ、写しと一緒に抱える。

 

「学院長に、ご相談しなければ……」

 

何を見たのか。

 

何が、まだ推測なのか。

 

伝える順序を考えながら、彼は机を離れた。

 

*

 

教室では、ルイズが、窓の下の木屑を最後に掃き集めていた。

 

ひびの入ったガラスへ触れないよう、少し離れて手を動かす。

 

エメトセルクは、壊れた机を隅へ寄せたところだった。

 

重いものは彼が持ち、小さなものはルイズが集めた。

 

床の上に、通れる場所が戻っている。

 

「……これで、いいかしら」

 

ルイズは箒を止めた。

 

目につく破片は、箱へ集めた。

 

だが、教卓は欠けたままで、床の焦げ跡も消えていない。

 

エメトセルクが、一度教室を見渡した。

 

「触るなと言われたものまで、直す必要はあるまい。あとは、先生に確かめてもらおう」

 

「そうね」

 

ルイズは箒と塵取りを返した。

 

手を叩くと、細かな埃が落ちる。

 

椅子の鞄を取り、開いた教科書をしまった。

 

錬金の頁だった。

 

石から金属へ。

 

手順も、呪文も、書いてある。

 

朝、そこへ引いた線を見てから、彼女は本を閉じた。

 

「エメトセルク」

 

「何だ?」

 

「さっきの話、覚えておいてよ」

 

彼が、こちらを見る。

 

「調べるって言ったこと」

 

エメトセルクは、僅かに眉を上げた。

 

「昼食を取ったくらいで、忘れはせんさ」

 

「そういうことじゃなくて」

 

ルイズは、鞄の留め金を留めた。

 

「わたしも、思い出しておくわ。今まで、どう失敗したのか」

 

彼は、少しだけ間を置いて頷いた。

 

「ああ。それは、聞いておきたいな」

 

その返事を聞いてから、ルイズは扉へ向かった。

 

通路の端で、男が身体をずらす。

 

彼女は前へ出かけ、ふと、後ろを見た。

 

黒い床。

 

欠けた机。

 

自分の魔法が起こしたことは、何も変わっていない。

 

次も、また同じになるかもしれない。

 

そう思うと、杖を出すのは、まだ怖かった。

 

だが、教室を出る前に、見ておこうと思った。

 

石があった場所。

 

机が砕けたところ。

 

自分は、何をしようとしていたのか。

 

扉のそばで、エメトセルクが待っていた。

 

「……腹は減らないのかね?」

 

ルイズは顔を戻した。

 

「減ってるわよ。さっきから、ずっと」

 

「では、なおさら急ごう。私は厨房で、席を探さねばならん」

 

「昨日、用意してもらえるって言ってたじゃない」

 

「用意があることと、まだ空いていることは別だろう」

 

彼女は、少し呆れた顔をした。

 

あれほど大きな机を運んでも、昼食の席はやはり気になるらしい。

 

「……片付けは、助かったわ」

 

声を落として言う。

 

エメトセルクは、扉を押さえる手を動かさなかった。

 

「どういたしまして」

 

短い返事だった。

 

ルイズは、少し肩の力を抜いた。

 

廊下へ出る。

 

鞄の中で、教科書の角が腕に触れた。

 

昨日までも、失敗した後には本を開いていた。

 

今夜も、開くことになるだろう。

 

ただ、同じ頁を見るとき、次に何を確かめたいのか。

 

今日は、それを考えながら歩いていた。

 

第1章 第3話 完

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