ゼロの使い魔 ~星海より来たりし者~   作:すらはん

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第4話「薔薇と古代の魔法」

## 第4話「薔薇と古代の魔法」

 

アルヴィーズの食堂へ入る頃には、ルイズの腕は、箒を持っていなくても少し重かった。

 

長い卓の向こうから、焼いた肉の匂いが届く。

 

席に着こうとして、後ろを振り返った。

 

エメトセルクは、給仕の通る扉へ向かっていた。

 

「……食べ終わったら、どこかへ行くつもり?」

 

彼が足を止める。

 

「今のところ、予定はないが」

 

「だったら、その辺にいてよ。午後も授業があるんだから」

 

「ああ。次の教室まで、自力で探すつもりはないさ」

 

ルイズは、ようやく椅子を引いた。

 

勝手に出歩くなと繰り返す前に、行き先は聞けた。

 

それで十分なはずだったが、黒い長衣が扉の向こうへ消えるまで、つい目で追ってしまった。

 

今朝、あの手の先に広がった光を思い出す。

 

自分の呪文は、石と机を壊した。

 

彼の術は、その破片を止めた。

 

同じ教室で、違うことが起きた。

 

それについても、まだ聞いていないことがある。

 

ルイズは、目の前へ置かれた皿へ顔を戻した。

 

まずは、食べよう。

 

厨房では、マルトーが大きな鍋の蓋を開けていた。

 

入ってきた男に気づくと、顎で奥の卓を示す。

 

「おう。席なら、そっちが空いてるぞ」

 

「助かる。約束を忘れられていないようで何よりだ」

 

「昨日の今日で、あんたみたいな客を忘れるもんか」

 

マルトーは笑い、近くの料理人へ皿を用意するよう告げた。

 

椅子へ腰を下ろすと、シエスタがパンと水を運んでくる。

 

「こんにちは。午前中の授業は、いかがでしたか?」

 

「なかなか、覚えることが多かった」

 

彼女は、長衣の袖へ一度目を向けた。

 

払い落としきれなかった白い埃が、わずかに残っている。

 

「あの……お怪我は?」

 

「ああ、問題ない。心配には及ばんよ」

 

シエスタは、小さく息をついた。

 

それ以上尋ねず、次の盆を受け取りに戻っていく。

 

彼女を見送り、エメトセルクは出された肉へナイフを入れた。

 

表面は香ばしく、中は固くなりすぎていない。

 

「どうだい」

 

鍋を任せたマルトーが、近くを通りかかった。

 

「よく焼けている。急いで皿を出しても、火を通しすぎないのだな」

 

「そりゃあ、せっかくの肉だからな。焦がして数だけ揃えたって、しょうがねえ」

 

「食べる方としても、そちらを望む」

 

料理長は、満足そうに笑った。

 

それから、皿を持って立ち止まっている若い料理人へ、手を動かせと声を掛ける。

 

厨房の仕事は、その間にも続いていた。

 

エメトセルクは食事を終え、匙とナイフを揃えた。

 

「ご馳走になった」

 

シエスタが、皿を受け取る。

 

「あの。お時間があるようでしたら、少しだけお願いしてもよろしいでしょうか」

 

「何だね?」

 

「食堂へ、お菓子のお皿を運んでいただけませんか。こちらの片付けと重なってしまって……」

 

彼女は、並んでいる盆へ目を向けた。

 

背後で呼ばれ、返事をしてから、慌ててこちらへ顔を戻す。

 

「もちろん、今だけで結構ですので」

 

エメトセルクは空の皿を見て、それから盆を見た。

 

「では、この分を運ぼう。食事の礼にもなるだろう」

 

「ありがとうございます」

 

彼女の肩から、少し力が抜けた。

 

「ですが、食堂では――」

 

言いかけて、口を閉じる。

 

昨日のやり取りを思い出したのだろう。

 

エメトセルクは、盆を持ち上げた。

 

「皿を運ぶのと、床で食べるのとでは、随分と話が違うぞ」

 

シエスタは一瞬目を丸くし、それから、困ったように笑った。

 

「……そうですね。失礼いたしました」

 

彼は、軽く首を振った。

 

「どこから配ればよい?」

 

「あちらの卓へお願いします。私も、すぐに伺います」

 

*

 

ギーシュは、薔薇を胸元へ寄せていた。

 

数人の少年に囲まれ、椅子へ浅く腰掛けている。金色の巻き毛が、窓の光を受けていた。

 

「女性というものは、皆、花に似ているのさ」

 

一人が、また始まったと笑う。

 

ギーシュは気にしなかった。

 

「咲き方が違うからこそ、どの花にもふさわしい言葉を選ばなくてはならない」

 

「それを、何人に言ったんだ?」

 

「心掛けの話をしているんだよ」

 

彼が胸を張ったとき、制服のポケットから、小さなものが滑り落ちた。

 

椅子の脚へ当たり、卓の外へ転がる。

 

近くを歩いていたエメトセルクが足を止めた。

 

細工のある、小さなガラス瓶だった。

 

盆を片手で支え直し、屈んで拾う。

 

中の液体が揺れたが、瓶は割れていない。

 

「そこの少年。落とし物だ」

 

ギーシュが振り返った。

 

差し出された瓶を見る。

 

笑顔が、一瞬止まった。

 

「……僕のものではないよ」

 

エメトセルクは、彼の胸元へ目を向けた。

 

「そのポケットから落ちたようだが」

 

「見間違いだろう。そこへ置いてくれれば、誰か取りに来るさ」

 

言いながら、少年は顔を戻そうとした。

 

友人の一人が、瓶を覗き込む。

 

「それ、モンモランシーの香水じゃないか?」

 

ギーシュの薔薇が、少し下がった。

 

「大きな声を出すなよ」

 

小声だったが、すぐ近くにいた少女には届いた。

 

「……ギーシュさま?」

 

茶色のマントを着た少女が、足を止めていた。

 

まだ幼さの残る顔に、戸惑いが浮かんでいる。

 

ギーシュは、すぐに立ち上がった。

 

「ケティ。違うんだ、これは」

 

エメトセルクは、手の中の瓶を卓へ置いた。

 

返そうとしたものは、ここにある。

 

これ以上、持っている理由もなかった。

 

少年の友人が、笑うのをやめる。

 

ケティの目は、瓶からギーシュへ動いていた。

 

「モンモランシーさまと、お付き合いなさっているんですか?」

 

「そういうわけではない。彼女とは、以前から親しくしているだけで――」

 

「親しくしているだけ?」

 

別の声がして、ギーシュの言葉が止まった。

 

巻き髪の少女が立っていた。

 

彼女は、瓶を一瞥する。

 

それから、ギーシュの顔を見た。

 

「わたしの渡したものを、ずいぶん便利に持ち歩いていたのね」

 

「モンモランシー。今は、話の途中なんだ」

 

「その話を、聞かせてちょうだい」

 

声は、静かだった。

 

ギーシュは、二人を交互に見た。

 

ケティが、少し俯く。

 

「わたしだけだと、おっしゃいましたよね」

 

「ケティ……」

 

呼び止めようと伸びた手より先に、彼女の手が動いた。

 

乾いた音がした。

 

ギーシュの顔が、横へ向いた。

 

少女は唇を震わせ、一度何か言おうとした。

 

結局、声にはならなかった。

 

裾を翻し、食堂の出口へ走っていく。

 

「待ってくれ!」

 

少年の足が動きかける。

 

その前に、モンモランシーが立った。

 

「わたしにも、何か言うことがあるんじゃない?」

 

「だから、誤解だと言っているだろう。僕はただ、二人とも悲しませたくなくて」

 

言い終える前に、彼女の手が杯を取った。

 

赤いワインが、ギーシュの顔へ掛かる。

 

エメトセルクは、盆を僅かに引いた。

 

皿へ雫が飛ばずに済んだ。

 

「……だったら、初めから嘘なんてつかなければよかったのよ」

 

モンモランシーは、杯を卓へ戻した。

 

瓶も手に取り、返事を待たずに歩き去る。

 

ギーシュは、濡れた顔を上げられずにいた。

 

卓の向こうで、誰かが吹き出した。

 

別の席からも、笑いが広がっていく。

 

彼は懐から布を出し、頬を押さえた。

 

平手で打たれた方へ触れ、少し顔をしかめる。

 

エメトセルクは、盆へ目を戻した。

 

残った皿を置ける場所がないか、卓の端を確かめる。

 

その動きを、ギーシュが見た。

 

「……君」

 

声の硬さが、変わっていた。

 

「随分と、余計なことをしてくれたね」

 

エメトセルクは、顔を上げた。

 

「落とし物を、返そうとしただけだが」

 

「僕は、違うと言っただろう!」

 

「だから、置いた」

 

「そこで黙ってくれていれば、こんなことにはならなかったんだ」

 

ギーシュの声が、大きくなる。

 

笑っていた友人たちが、今度はこちらを見た。

 

エメトセルクは、少年をしばらく眺めた。

 

「二人の娘に、違う約束をしていたことまで、私に引き受けろと言うのかね」

 

ギーシュの布を握る指に、力が入った。

 

「……給仕の真似をしている平民に、そんなことを言われる筋合いはない」

 

エメトセルクは、盆を脇の卓へ置いた。

 

皿が揺れないことを確かめてから、手を放す。

 

「皿を運んでいる者なら、責めても構わんという話なら、聞く相手を変えた方がよいな」

 

「僕を馬鹿にしているのか!」

 

「話を聞いているところだ。まだ、何について私を責めているのかわからんのでね」

 

「エメトセルク!」

 

聞き慣れた声がした。

 

ルイズが、生徒の間を抜けてきた。

 

自分の卓へ皿を置かれた頃から、あちらの騒ぎが目に入っていた。

 

少女が走り去り、ワインが飛んだ。

 

そのそばに、自分の使い魔がいる。

 

急いで来てみれば、案の定だった。

 

「何をやってるのよ!」

 

「食事の礼に、配膳を手伝っていた」

 

「それは、見ればわかるわよ」

 

彼女は、ギーシュへ目を向けた。

 

「あなた、いったい……」

 

「ルイズ。君の使い魔に、貴族への礼儀を教えておいた方がいい」

 

先に言われ、眉が上がった。

 

「礼儀?」

 

「僕を、皆の前で侮辱したんだ」

 

「瓶を返した覚えはあるが、侮辱した覚えはないぞ」

 

エメトセルクの返事に、近くの少年がまた笑った。

 

ギーシュが、そちらを睨む。

 

笑いが止まった。

 

その代わり、注目は集まるばかりだった。

 

彼は薔薇を持つ手を上げた。

 

「そこまで言うなら、わからせてあげよう」

 

ルイズの肩が強張った。

 

「ちょっと、ギーシュ」

 

「決闘だ。ヴェストリの広場へ来たまえ」

 

食堂が、どよめいた。

 

少年たちが顔を見合わせる。

 

ルイズは、思わず一歩前へ出た。

 

「香水瓶くらいで、何を――」

 

「僕の名誉の問題だよ」

 

「それなら、あの二人と話をする方が先ではないかね」

 

エメトセルクが言った。

 

ギーシュの頬へ、再び血が上る。

 

ワインの染みとは別の、赤さだった。

 

「来ないのなら、今の言葉を取り消したまえ」

 

エメトセルクは、しばらく黙っていた。

 

目の前の少年は、謝罪以外を受け取る気がないらしい。

 

周りの目を気にして、ますます声を大きくしている。

 

「……よかろう」

 

彼は答えた。

 

「話で済まぬと言うなら、場所を移そう」

 

ギーシュは、ようやく自分の立つ場所を取り戻したように胸を反らした。

 

「待っているよ」

 

そう言い、踵を返す。

 

何人もの生徒が、後を追った。

 

ルイズは振り返り、自分の使い魔を見上げた。

 

「あなたまで、何を考えているのよ」

 

「ここで続ければ、給仕の邪魔になるだろう」

 

「そういうことを聞いてるんじゃない!」

 

その声の隙間に、シエスタが盆を抱えて近づいてきた。

 

食堂へ来たところで騒ぎに気づいたらしく、顔が強張っている。

 

「あの……」

 

エメトセルクは、置いていた盆を示した。

 

「すまない。まだ、配り終えていない」

 

「それは、私が。ですが、あちらの方はメイジです。決闘なんて……」

 

「わかっている。ここまでの分は、片づけてもらえるか」

 

シエスタは、彼とルイズを見比べた。

 

何か言おうとしたが、すぐには言葉にならなかった。

 

やがて、小さく頷く。

 

ルイズは、エメトセルクの袖を掴んだ。

 

「ちょっと、来なさい」

 

彼女は、残った生徒の視線から少し離れた。

 

「ギーシュは、土系統のメイジなのよ」

 

ルイズは声を落とした。

 

「今朝、先生が石を変えたのを見たでしょう。ああいう術を、戦うために使うの。青銅のゴーレムを出して、動かすんだから」

 

「人形を操るのか」

 

「そうよ。あなただって、魔法は使えるでしょうけど……」

 

そこで、言葉が一度止まった。

 

彼が教室で何をしたかは見た。

 

ただ、それでメイジを相手に戦えるのか、自分にはわからない。

 

「飛んでくるものを止めるのと、相手を倒すのは違うでしょう」

 

「ああ。違うな」

 

平然と頷かれた。

 

ルイズは、掴んだ袖へ力を込める。

 

「だったら、どうして!」

 

「私の方から、彼を殴りに行くつもりはない。ただ、覚えのない非礼を認めるつもりもないのでな」

 

「貴族を相手に、そんなことを言ったら……」

 

彼女は、途中で口を閉じた。

 

エメトセルクが、静かにこちらを見ている。

 

「誰が言ったかで、起きたことまで変わるのかね」

 

答えづらい問いだった。

 

彼が悪かったとは、自分も思っていない。

 

それでも、相手には魔法があり、グラモンという家名がある。

 

「……グラモン元帥の息子なのよ、あいつ」

 

「それは、本人から聞いた方がよさそうだ」

 

エメトセルクは、袖を掴む小さな手へ目を落とした。

 

「ルイズ。心配していることはわかった。だが、あの少年の力も、私の力も、お前が全部知っているわけではあるまい」

 

「だから、心配してるんでしょう!」

 

つい、大きな声になった。

 

彼女は周囲を見て、もう一度声を落とした。

 

「あなたが何かやったら、主人のわたしだって困るのよ」

 

「では、無用な騒ぎを増やさぬようにしよう」

 

「もう、増えてるじゃない……」

 

エメトセルクは、否定しなかった。

 

向こうから聞こえた「決闘だって」という声に、僅かに眉を寄せる。

 

彼にも、ここで立ち止まっていたい理由はなさそうだった。

 

ルイズは、ゆっくり手を離した。

 

「わたしも、行くわ」

 

「ああ。ただし、戦う場所のそばへ出てくるなよ」

 

「わかってるわよ」

 

彼女は自分の席へ戻り、鞄を取り上げた。

 

ほとんど空になった皿が、卓に残っている。

 

食べ終えたばかりのはずなのに、もう落ち着かなかった。

 

出口で待つ男のところへ戻る。

 

そのそばを、二人の少女が通った。

 

「あら。ご主人も、お付き合い?」

 

キュルケだった。

 

隣には、タバサがいる。

 

本を閉じて小脇へ挟み、長い杖を手にしていた。

 

ルイズは、二人を睨んだ。

 

「見世物じゃないのよ」

 

「だから、近くで確かめるのよ。今朝みたいに煙がいっぱいでは、よく見えないもの」

 

キュルケの目が、エメトセルクへ移る。

 

「攻撃も、多少はできるとおっしゃったわね」

 

「だからといって、わざわざ派手なものを見せる義理もないぞ」

 

「それは、拝見してから判断するわ」

 

タバサは何も言わなかった。

 

彼の手元を一度見てから、先へ向いた。

 

ルイズは、鞄の紐を持ち直した。

 

「……行くわよ」

 

*

 

ヴェストリの広場には、すでに人が集まっていた。

 

建物に囲まれた石畳の中央が空き、その周りへ、生徒たちが半円を広げている。

 

話を聞いて駆けつけた者が、後ろから背伸びをした。

 

ギーシュは中央で待っていた。

 

顔のワインは拭き取ったらしい。

 

ただ、制服の襟には赤い染みが残っていた。

 

「逃げずに来たんだね」

 

薔薇を胸へ寄せ、彼は笑った。

 

先ほどまでの狼狽を隠すには、少し大きな笑みだった。

 

エメトセルクは、周囲を見渡した。

 

「見物人が、近すぎるな」

 

「心配には及ばない。僕は、無関係な人を巻き込んだりしないよ」

 

「ならば、下がってもらおう。何もなければ、それで済む」

 

ギーシュの口元が、少し固くなった。

 

だが、反対する理由も見つからなかったらしい。

 

薔薇を振り、見物人へ空けるよう告げる。

 

最前列から不満の声が出た。

 

エメトセルクも、足を止めたまま待っている。

 

やがて人垣が外へ広がり、二人の周りに余裕ができた。

 

ルイズは、その端へ立った。

 

鞄を足元へ置く。

 

少し離れて、キュルケとタバサも足を止めた。

 

三人の前には、人形が走り回ってもすぐには届かないだけの、空いた石畳がある。

 

エメトセルクは、そこまで確かめてから中央へ進んだ。

 

ギーシュとの間は、およそ十メイル。

 

相手の手には、薔薇がある。

 

飾りとして持っているだけではなさそうだった。

 

「最後に聞いておこう」

 

ギーシュが、声を張った。

 

「ここで謝るなら、許してあげるよ」

 

「返事は、食堂でしたはずだ」

 

短く答える。

 

それで、少年の表情が変わった。

 

「……いいだろう」

 

薔薇が、振られた。

 

一枚の花びらが舞う。

 

地面へ触れるより先に、淡い光がそれを包んだ。

 

ギーシュの内側から、力が向かう。

 

花びらの輪郭が膨らみ、金属の重さを持ち始めた。

 

石畳へ、青銅の足が下りる。

 

女性を模した鎧姿。

 

手には武器が握られ、頭部がこちらへ向いた。

 

ギーシュは、人形の隣へ半歩進んだ。

 

「僕は『青銅』のギーシュ。このワルキューレが、お相手しよう」

 

エメトセルクは、答える代わりに目を細めた。

 

朝の錬金は、石の組成を変えていた。

 

今、目の前では、金属へ変わったものが動こうとしている。

 

ギーシュと人形の間に、微弱な力のつながりが続いていた。

 

彼が薔薇を傾けると、人形の肩も動く。

 

すべての動作を、一本ずつ指示しているのか。

 

それとも、もっと大まかな命令を与えているのか。

 

まだ、そこまではわからなかった。

 

学院長室の遠見の鏡にも、その二人と、青銅の人形が映っていた。

 

オスマンとコルベールは、鏡の前で広場を見ていた。

 

広場のエメトセルクは、別の小さな気配を感じた。

 

人垣から向けられる目とは違う。

 

遠くから、かすかな術の作用が届いている。

 

害意を伴う力というより、こちらを探り、眺める類のものに思えた。

 

見物は、この広場の中だけではないらしい。

 

彼は、その気配を追わなかった。

 

目の前で、青銅の足が動いたからだ。

 

「行け!」

 

ワルキューレが踏み込んだ。

 

重い足音が、石畳を打つ。

 

武器が頭上から振り下ろされた。

 

エメトセルクは、半歩、身体をずらした。

 

風が頬の近くを通る。

 

得物が石へ当たり、硬い音がした。

 

「……え?」

 

最前列から、声が漏れた。

 

ギーシュも、一瞬だけ薔薇を持つ手を止めた。

 

すぐに、横へ振る。

 

人形が身体を捻り、武器を薙いだ。

 

エメトセルクはその腕を見た。

 

重いものを引き戻す前に、肩が動く。

 

半歩下がる。

 

さらに足を斜めへ運び、人垣へ背中を近づけずに、広場の内側へ回った。

 

青銅の腕が、目前を通り過ぎた。

 

「逃げるばかりかい!」

 

ギーシュが叫ぶ。

 

エメトセルクは、ワルキューレの脚へ目を向けた。

 

攻撃を空振りした後、足の位置を直している。

 

ギーシュも、薔薇を握り直した。

 

その動きが、先ほどより早い。

 

人形だけを見ていては、間に合わない場面もあるだろう。

 

「今のも、魔法かしら」

 

キュルケが、小さく言った。

 

タバサは、首を横に振った。

 

「足」

 

視線は、男の靴に向いていた。

 

彼は、攻撃が来る前に、立つ場所を変えている。

 

光も、手振りもない。

 

ただ、それだけで何も使っていないと決めるより、まずは目に見える動きを追っていた。

 

ルイズは、二人の話へ加われなかった。

 

ワルキューレの武器が石へ当たった音が、まだ耳に残っている。

 

あれが人へ当たれば、怪我で済まないかもしれない。

 

それなのに、エメトセルクは足を止めると、人形とギーシュを交互に見ていた。

 

肩で息をしている様子もない。

 

まるで、朝、教卓の上を見ていたときのようだった。

 

「……もう」

 

ルイズは、握った紐を下ろした。

 

声を掛けたい。

 

だが、こちらへ顔を向けさせる方が危ない気もして、唇を噛んだ。

 

ギーシュは、薔薇を大きく引いた。

 

人形が一度下がる。

 

その向こうの少年の顔は、すでに笑っていなかった。

 

「なら、これはどうだ!」

 

青銅の足が、強く踏み出した。

 

間を置かず、もう一歩。

 

武器を前へ出し、ワルキューレが突進する。

 

エメトセルクは、その進路を見た。

 

ギーシュは、人形の後方。

 

観客は、さらに外。

 

足元を止めれば、まず動きは封じられる。

 

人形を砕く必要はない。

 

一度動けなくし、少年へ続ける意思があるか確かめればよい。

 

彼は、使う力を絞った。

 

朝と同じ変化が起こるかもしれない。

 

その分を考え、慣れた術を普段よりも小さく組み上げる。

 

攻撃を受け流し続けるうちに、少年が人垣へ向けて人形を振り回すことになっても困る。

 

止めるなら、今の進路で。

 

「少々、静かにしてもらおうか」

 

右手を、軽く上げた。

 

親指と指先が触れる。

 

ぱちん、と音がした。

 

左手の甲に、熱が走った。

 

またか。

 

エメトセルクは、刻印のある位置の熱を意識しながら、目を人形から離さなかった。

 

ワルキューレの足元へ、暗い光が絡む。

 

その広がりが、速すぎた。

 

足首を留めるはずの術が、膝へ、腰へと及んでいく。

 

注いだ力を絞ったにもかかわらず、術の内側には、予定にない重さが加わっていた。

 

前へ進もうとする青銅の身体が、ぎくりと止まる。

 

武器を握った腕だけが、なお振り上がろうとした。

 

エメトセルクは、右手を開いた。

 

術の働く先を、人形から外へ滑らせない。

 

脚の下へ広がりかけた光を絞り、余った力の逃げ道を上へ向ける。

 

朝、障壁の縁を整えた感覚が、役に立った。

 

だが、受け止める面と、動くものを縛る力では、同じ加わり方にはならない。

 

人形の全身へ掛かった拘束が、引き締まった。

 

青銅が、軋む。

 

肩の外側が歪み、胸の鎧へ亀裂が走った。

 

「……そこまでせんでよい」

 

呟く間にも、身体の支えが潰れた。

 

鈍い轟音がした。

 

ワルキューレの胸が砕け、頭部が傾く。

 

折れた腕と、青銅の欠片が跳ねた。

 

ギーシュが、顔をかばいかけた。

 

だが、破片は、彼のところへ届かなかった。

 

エメトセルクは、残る拘束を解いていなかった。

 

人形があった場所へ、砕けたものを留める。

 

上へ抜けた光がほどけ、風が広場を叩いた。

 

生徒たちのマントがはためく。

 

足元から砂埃が上がった。

 

「きゃっ!」

 

ルイズは腕で顔を庇った。

 

前へ出ようとした足が、そのまま止まる。

 

風が過ぎてから見ると、エメトセルクは中央に立っていた。

 

その前に、青銅の破片が浮いている。

 

落ちてくるのではない。

 

何かに留められ、そこで止まっていた。

 

彼が、開いた右手を僅かに下げる。

 

破片も、ゆっくり下がった。

 

小さな欠片から、石へ触れる。

 

続いて、大きく歪んだ胴が、重い音を立てて着地した。

 

最後に武器が横へ倒れた。

 

暗い光が薄れていく。

 

人形の足跡と、浅く傷ついた石畳。

 

その上に、砕けた青銅が集まっていた。

 

辺りは、静かだった。

 

エメトセルクは、右手を下ろした。

 

左手には、まだ熱がある。

 

薄れていく光は袖に隠れ、人垣の方からは、その甲まで見通せなかった。

 

彼は一度、指を曲げた。

 

防護だけの話では、なかったらしい。

 

だが、そこから先を考えるのは、まだ後だ。

 

ギーシュが、こちらを見ていた。

 

「……何を、したんだ?」

 

声が、少し掠れている。

 

エメトセルクは、足元の残骸を見た。

 

「止めようとした」

 

「これが、止めるだけだっていうのか!」

 

彼の眉が、僅かに寄った。

 

少年が何を言いたいかは、よくわかった。

 

目の前にある結果まで、否定するつもりはない。

 

「少々、力が入りすぎたな」

 

ギーシュは、口を開いた。

 

何か言いかけ、言葉を失う。

 

その間に、広場の端から囁きが戻ってきた。

 

「今の、魔法だよな」

 

「何の系統だ?」

 

「薔薇も、杖も持ってないぞ」

 

朝の教室にいた生徒が、別の者へ何か話している。

 

それを聞いても、正体がわかるわけではなかった。

 

キュルケは、埃のついた髪を肩の後ろへ払った。

 

「……多少、とおっしゃったわね」

 

楽しげな口調に戻そうとしたが、目は青銅の塊から離れなかった。

 

あの防護を見たときから、珍しい術を使うのだとは思っていた。

 

今度は、破片を受け止めただけではない。

 

メイジが作った人形を、止め、砕き、破片まで同じ場所へ戻している。

 

隣で、タバサの手が、本の背へ添えられていた。

 

「指を、鳴らした」

 

「ええ。見えたわ」

 

「……その後も、動かしていた」

 

タバサは、止まっていた破片が落ちた場所を見ている。

 

一度壊して終わりではない。

 

周りへ飛ばさず、床へ下ろしていた。

 

それを、どうやって行ったのか。

 

指の音だけを聞いても、わからなかった。

 

ルイズは、まだ腕を下ろしたばかりだった。

 

ワルキューレが、壊れた。

 

ギーシュの人形を、自分の使い魔が。

 

「……エメトセルク」

 

名を呼びかけたところで、ギーシュが薔薇を握り直した。

 

彼女は、息を呑んだ。

 

「まだだ」

 

少年は、低く言った。

 

エメトセルクが顔を戻す。

 

「僕は、負けたと言っていない」

 

ギーシュは、自分の足元を見ないようにしていた。

 

すぐそこに、人形の腕が転がっている。

 

一つ出すだけでも、自分の術を見せるには十分だったはずだ。

 

それが、相手へ触れもしないうちに壊れた。

 

食堂でも、笑われた。

 

ここでも。

 

「一体で済ませてあげようと思ったのに」

 

ギーシュの声は、最後の方で少し裏返った。

 

そのことが、また腹立たしかった。

 

給仕の盆を持っていた相手だ。

 

自分のワルキューレを見れば、さすがに態度を改めるはずだった。

 

それが今、自慢の青銅は、足元で潰れている。

 

薔薇を持つ手へ、視線が集まっていた。

 

ここで下ろせば。

 

食堂の笑い声が、耳の奥へ戻ってきた。

 

ギーシュは、薔薇を大きく振った。

 

六枚の花びらが散る。

 

淡い光の中で、それぞれが膨らんだ。

 

青銅の足が、次々と石畳へ下りる。

 

一体目の残骸の向こうに、六体の戦乙女が並んだ。

 

「……六体?」

 

ルイズは、思わず声を上げた。

 

キュルケの顔からも、笑みが薄れる。

 

ギーシュは、荒くなった息を整えようとした。

 

一体ずつでは、また同じことになるかもしれない。

 

ならば、同時に。

 

一つを止めている間に、ほかが届けばいい。

 

薔薇を握った指が、汗で滑りそうになった。

 

「これでも、同じようにできるかな!」

 

正面の二体が、先に動いた。

 

残る四体は左右へ二体ずつ分かれ、回り込む。

 

金属の足音が重なった。

 

エメトセルクは、一歩だけ前へ出た。

 

後ろへ下がれば、両脇の人形に押され、人垣との距離がなくなる。

 

正面の二体と、その背後にいる少年。

 

左右から進む四体。

 

彼は、それぞれの足先と、武器の届く場所を見た。

 

先ほどの拘束を広げ、一度に包む。

 

できないことではない。

 

だが、あの圧力が六体の間でどう働くか、ここで確かめる気にはならなかった。

 

右手を、横へ差し出す。

 

掌の中に、細い光が集まった。

 

伸びた光が、長い柄を形作る。

 

先端の装飾まで輪郭を得ると、光は、その表面へ吸い込まれるように消えた。

 

エメトセルクは、現れた杖を握り直した。

 

慣れた重みが、手へ戻っている。

 

「……ちょっと。そんなもの、どこに」

 

ルイズの声は、足音に紛れた。

 

彼は、すでに杖先を下げていた。

 

正面の二体の、踏み出す足へ。

 

杖を介して力をまとめる感覚は、よく知っている。

 

その分まで見込み、普段なら小さすぎるほどに術を絞った。

 

まず、ここを止める。

 

白い光が、二体の足元に生まれた。

 

同時に、袖の内側で左手の甲が熱を持った。

 

氷が、石畳と足首の間を埋める。

 

その伸び方が、思い描いたものより速い。

 

踵だけを留めるはずが、もう膝へ届こうとしていた。

 

杖で力をまとめる感覚とは、違う。

 

その先へ、また余計なものが加わっている。

 

エメトセルクは、杖先を僅かに返した。

 

二体の間へ流れかけた冷気を切り分ける。氷の広がる先を、それぞれの青銅の身体に沿わせた。

 

白い結晶が、腰へ巻きつく。

 

振り上げられた武器と腕が、胴へ伸びた氷に噛み留められた。

 

ワルキューレが、前傾したまま止まった。

 

足から肩まで覆う氷は、狙ったものより厚い。

 

だが、それ以上、石畳を這うものはなかった。

 

見物人の足元まで白くなる前に、冷気は二つの塊の内側へ収まっていた。

 

左から来る二体は、止まらなかった。

 

片方が先に武器を突き出す。

 

エメトセルクは肩を引き、その先端を外した。

 

もう一体の腕が上がる。

 

彼は、最初の人形を盾にする位置へ踏み込み、二体が重なったところで杖を引いた。

 

青白い光が、青銅の脚に走った。

 

空から落ちてきた雷ではなかった。

 

膝と腰のつなぎ目。

 

彼が選んだ場所で、鋭い光が弾けた。

 

乾いた音とともに、一体の膝が割れる。

 

その奥にいたもう一体も、腰を傾けた。

 

左手の熱が、再び強まった。

 

予定では、関節の動きを損なえば足りた。

 

だが、光は、その内側の支えまで砕こうとしていた。

 

エメトセルクは、すぐに術へ力を送り込むのをやめた。

 

なお残る光の行き先を、青銅の内側へ絞る。

 

二体の脚が、ほぼ同時に折れた。

 

一体は膝から、もう一体は腰を捻って、石へ倒れる。

 

砕けた継ぎ目の中で光が消え、遅れて、金属の重い音が響いた。

 

観客から悲鳴が上がった。

 

だが、人垣の方へ走る雷はなかった。

 

ギーシュも、薔薇を振った姿勢のまま立っていた。

 

その前を、何も通ってはいない。

 

エメトセルクは、杖を持つ指へ僅かに力を入れた。

 

拘束では、締めつける力が強くなった。

 

氷では、広がる速さと厚み。

 

今度は、狭く狙った場所の壊れ方まで変わった。

 

同じつもりで力を減らせば済む、と考えるわけにはいかないらしい。

 

右から、足音が近づいた。

 

彼は、そちらへ身体を向けた。

 

残る二体。

 

一体は正面の凍った人形へ寄り、もう一体は大きく外を回っていた。

 

「挟め!」

 

ギーシュの声がした。

 

凍った二体も、氷の中で腕を動かそうとしている。

 

白い表面に細いひびが入った。

 

エメトセルクは、そこを見てから、広場の内側へ下がった。

 

回り込む人形と、人垣との間を空ける。

 

もう片方が追い、武器を振り下ろした。

 

彼は身を捻った。

 

長衣の裾へ、青銅の先端が触れかける。

 

石畳へ打ちつけられた得物が、火花を散らした。

 

ルイズは、声を呑み込んだ。

 

近い。

 

あれだけの魔法を使っているのに、人形の腕は、まだ彼のそばへ来る。

 

その彼は、飛び退く代わりに、空いた方へ足を運んでいた。

 

二体を追わせ、先ほど倒れた青銅のそばへ寄せていく。

 

杖が、低く振られた。

 

赤い光が、走る。

 

大きな火球ではなかった。

 

二体の脚の付け根に、短い炎が巻きついた。

 

エメトセルクは、燃やす場所を狭めていた。

 

人形全体を熱する必要はない。

 

重さを支え、脚を動かしている、そのつなぎ目へ。

 

注いだ力よりも濃い炎が、青銅の隙間へ潜った。

 

左手の刻印が、また熱い。

 

彼は杖先を止め、炎へ力を渡す時間を、考えていたより短く切った。

 

残る熱を、継ぎ目の内側へ留める。

 

人形の胴を包みかけた火が縮んだ。

 

脚の付け根だけが、赤く光っている。

 

「……そこだけ?」

 

キュルケが、小さく呟いた。

 

青銅の身体を、丸ごと焼き溶かしたのではない。

 

重い上体を支えるところへ、魔法の熱を集中させていた。

 

そこへ踏み込む勢いが掛かる。

 

先に来た一体の脚が、沈むように折れた。

 

もう一体は、それを避けようと身体を捻った。

 

熱を受けた関節が、歪む。

 

足がついてこないまま、胴だけが向きを変えた。

 

二つの重い身体が、最初の残骸の近くへ倒れた。

 

武器が石へ当たって跳ね、倒れた腕に遮られて止まる。

 

炎は、もう消えていた。

 

ギーシュは薔薇を引いた。

 

倒れた人形の腕が、石を擦った。

 

だが、脚は元の形へ戻らない。

 

起き上がらせようとするたび、壊れた支えが、別の向きへずれた。

 

彼は、凍った二体へ目を向けた。

 

こちらなら、まだ。

 

武器を持つ腕へ力を向けた。

 

氷に入っていたひびが広がる。

 

エメトセルクは、二体のそばへ杖先を戻した。

 

新たな氷を大きく張り出させる代わりに、残していた氷の形を締め直す。

 

持ち上がりかけた武器を、腕ごと胴の脇へ留めた。

 

青銅が、氷の内側で鈍く鳴った。

 

それきり、動かなかった。

 

広場へ、静けさが戻る。

 

正面に、凍りついた二体。

 

左側に、脚や腰を砕かれた二体。

 

その近くには、関節の歪んだ二体が倒れている。

 

一体目の残骸を含め、七体のワルキューレのうち、彼へ近づけるものは、もうなかった。

 

エメトセルクは、杖先を下げた。

 

ギーシュへは、向けない。

 

「……氷と、雷。それに、火まで」

 

ルイズは、言葉を探すように呟いた。

 

朝、見たのは、破片を受け止める光だった。

 

指を鳴らしただけで人形を砕いたときにも、まだ、それに驚いていた。

 

今は、その先へ、何度も置いていかれた気がする。

 

キュルケは、焼けた関節へ目を向けていた。

 

自分が火を使うときの感覚に、そのまま当てはめることはできない。

 

ただ、あの炎を大きく広げずに使い切ったことは、見えていた。

 

「あれを、多少と呼ぶのね」

 

隣で、タバサが眼鏡を押し上げた。

 

目は、人形の間に立つ男を追っている。

 

「……外へ、向けなかった」

 

「ええ」

 

人形を追って杖が動く。

 

その前に、立つ場所を変えていた。

 

冷気も、雷も、炎も。

 

人垣の方へ抜けない位置を、選び続けていた。

 

タバサは、抱えていた本へ視線を落としかけ、また杖を見た。

 

朝の教室には、なかったものだった。

 

*

 

ギーシュは、薔薇を下ろせずにいた。

 

一体目が壊されたときは、まだ言い訳ができた。

 

一体しか出していなかった。

 

相手の魔法を知らなかった。

 

だが、六体を出しても、届かなかった。

 

左右へ分け、別の方向から向かわせた。

 

その間にも、相手は氷を使い、雷を使い、炎まで使った。

 

一つを防ぐ間に、ほかが届くはずだったのだ。

 

相手は、自分の前へ来ていない。

 

手を伸ばしても届かない場所に立ち、こちらの返事を待っている。

 

それが、かえって、次に何をすればよいかわからなくした。

 

「……僕は」

 

声を出すと、喉が乾いていた。

 

エメトセルクが、顔を上げる。

 

「グラモン元帥の、息子なんだ」

 

さっきまでなら、胸を張って言えた。

 

今は、誰かに思い出してもらいたくて口にしたように聞こえた。

 

ギーシュ自身にも、それがわかった。

 

「父も、兄たちも……僕は、貴族として」

 

エメトセルクは、黙っていた。

 

その視線が、手の中の薔薇へ動く。

 

ギーシュも、つられて見た。

 

花は、まだ残っている。

 

だが、壊れた人形を起こせない。

 

動かせるはずの二体も、氷から出せない。

 

あの杖が、こちらを狙っていたら。

 

ギーシュは、襟に残ったワインの染みへ触れかけ、手を止めた。

 

相手は、自分へ魔法を向けることなく、返事を待っている。

 

そのことが、ようやく、別の意味を持って見えた。

 

「……僕の魔法は、そんなに、つまらないものだったかい」

 

問いは、小さかった。

 

エメトセルクは、人形の方を見た。

 

「いや。形を与え、動かす。悪い術ではなかった」

 

ギーシュが、顔を上げる。

 

「だったら」

 

「その腕前と、食堂で言ったことは、別の話だ」

 

声を荒らげるでもなく、告げられた。

 

「続けるなら、私は止める。どうするかは、お前が決めたまえ」

 

それで、言葉が終わった。

 

広場のどこかで、靴が石を擦った。

 

誰かが囁きかけ、隣の者に止められる。

 

ギーシュは、薔薇を握り直そうとした。

 

指が、うまく動かなかった。

 

一度、息を吐く。

 

それから、腕を下ろした。

 

「……僕の、負けだ」

 

自分の声が、よく聞こえた。

 

負けた。

 

口にしてみると、その後へ続ける言い訳が出てこなかった。

 

エメトセルクは、短く頷いた。

 

「わかった」

 

それ以上は、何も求めなかった。

 

頭を下げろとも、皆の前で謝れとも言わない。

 

「人形は、もう動かさなくてよいな?」

 

問われ、ギーシュは頷いた。

 

薔薇を下ろし、残っていた働きかけをやめる。

 

エメトセルクは、凍った二体へ目を向けた。

 

氷を一度には解かず、支えを低くしていく。

 

傾いた青銅の身体が膝をつき、やがて石畳へ横たわった。

 

最後の氷は、その下でゆっくりと水に変わる。

 

彼は杖を下ろし、足元の破片を避け、来た方へ歩き始めた。

 

ギーシュは、その背中を見ていた。

 

薔薇を持つ手が、少し下がった。

 

「……名前を、もう一度」

 

男が、肩越しに顔を向けた。

 

「エメトセルクだ」

 

ギーシュは、聞いた名を胸の内で繰り返した。

 

口に出す前に、見物人たちの声が戻ってきた。

 

「エメトセルク!」

 

ルイズは、鞄を引っ掴んで駆け寄った。

 

青銅の塊を避け、男の前で足を止める。

 

その顔を見上げてから、両腕へ目を落とした。

 

制服の袖も、自分の頬も、朝の授業では煤だらけになった。

 

だが、彼の服には、いま舞った埃が少しついているだけだった。

 

「……怪我は、してないわね?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「今、答えたばかりだぞ」

 

ルイズは、息を吐いた。

 

それから、急に眉を寄せる。

 

「何なのよ、今の」

 

「もう少し、聞くことを絞れないものかね」

 

「全部よ!」

 

エメトセルクは、広場を振り返った。

 

ギーシュは、まだ人形のそばに立っている。

 

彼女も、そちらを見た。

 

自分が、何を尋ねたいのか。

 

何から聞けば、わかるのか。

 

順番すら決められない。

 

「……その杖、どこから出したの?」

 

やっと言うと、彼は右手のものへ目を向けた。

 

「必要になったので、用意した」

 

「それは見ていたわよ。さっきまで、持っていなかったじゃない」

 

「ああ。あの盆を持って、これまで担いでは歩けまい」

 

「配膳の話なんて、してないでしょう!」

 

ルイズは、言い返しかけて腕を組んだ。

 

見慣れた教師たちの杖とは、ずいぶん形が違う。

 

けれど、驚いたのは、それだけではなかった。

 

「……魔法も。朝のは、飛んでくるものを止めただけだったのに」

 

「止めるだけでは済まなくなったのでな」

 

「氷も、雷も、火も、使えるなんて聞いてないわよ」

 

「聞かれたのは、魔法を使えるか、だっただろう」

 

「全部できるみたいに……」

 

ルイズは言いかけ、口を閉じた。

 

彼は、できることを並べ始めはしなかった。

 

返事の代わりに、左手を返す。

 

ルイズは、その動きを追った。

 

甲の紋様は、もう光っていない。

 

彼女には、昨日と同じ文字に見えた。

 

「……どうかしたの?」

 

「確かめることが、まだある」

 

手が、袖の中へ戻る。

 

エメトセルクは、それ以上を語らなかった。

 

人垣の向こうで、誰かが大きな声を上げた。

 

「ギーシュが、負けたぞ!」

 

今度は別の者が、食堂へ知らせると言った。

 

走り出した足音が遠ざかる。

 

ルイズは、つい胸を張りかけた。

 

ギーシュが負けた。

 

それだけではない。

 

勝ったのは、自分の使い魔なのだ。

 

昨日、煙の向こうに立っていた男。

 

机の前では、掃除などしないと言い返し、食堂では、自分の決めた場所にいてくれなかった。

 

その男が、七体もの人形を相手に、勝った。

 

だが、エメトセルクは、その声を聞いても得意そうな顔をしなかった。

 

むしろ、人がまだ寄ってくるのを少し面倒そうに見ている。

 

「ルイズ。先へ進めるか?」

 

「え?」

 

「このままでは、質問する者が増えそうでな」

 

彼女は、近づいてきたキュルケへ気づいた。

 

タバサも、その隣にいた。

 

「そうね。聞きたいことが、増えてしまったわ」

 

キュルケが言った。

 

以前と同じような笑顔なのに、視線は少し違っていた。

 

長衣の形や、背の高さばかりを見てはいない。

 

右手の杖。

 

それから、焼けた青銅と、氷の溶けた石畳へも、目が動く。

 

「あなたの『多少』は、あまり当てにならないみたいね」

 

「見ただけで全部わかったような顔をされるよりは、よかろう」

 

「ええ。ですから、またお話を伺いたいわ」

 

「今は、授業に行くの!」

 

ルイズが口を挟んだ。

 

キュルケは、彼女を見た。

 

「まだ、少し時間はあるでしょう?」

 

「教室まで歩く時間も、必要なのよ」

 

「あなたが呼んだ相手だものね。今日は、そういうことにしておくわ」

 

含みのある声に、ルイズの頬が膨らむ。

 

キュルケは笑い、タバサへ顔を向けた。

 

「行きましょうか」

 

少女は、すぐには動かなかった。

 

エメトセルクの杖を、もう一度見ていた。

 

朝、必要なかっただけだと言った。

 

では、今は、何をするために使ったのか。

 

杖先が向いていた場所へ、視線を戻す。

 

そこには、違う壊れ方をした青銅が横たわっていた。

 

「……タバサ?」

 

キュルケに呼ばれ、彼女は顔を上げた。

 

小さく頷く。

 

二人は、先に人垣の切れ目へ向かった。

 

ルイズも、鞄を肩へ掛け直した。

 

後ろでは、生徒たちが青銅の塊を覗き込もうとしていた。

 

エメトセルクは、その足元へ目を向けた。

 

「破片へは、近づかない方がいい。尖ったものも、まだ熱を持つものもある」

 

最寄りの少年が足を引いた。

 

彼は、それを確かめてから、右手の握りを緩めた。

 

杖の輪郭が、先端から淡い光へほどけていく。

 

ルイズが目を追う間に、長い柄も消えた。

 

大きな手だけが残る。

 

「……しまうのも、それなのね」

 

「持ち歩きたいのか?」

 

「わたしが持つ話じゃないわよ」

 

エメトセルクは僅かに肩をすくめ、彼女へ顔を戻した。

 

「では、案内を頼もうか」

 

「……本当に、授業へ戻るつもりなのね」

 

「何のために、朝からついてきたと思っている」

 

ルイズは、少し呆れた。

 

決闘が終わったばかりだ。

 

普通なら、自分がどれほどすごいことをしたか、もっと語っていてもよさそうなのに。

 

「自分でも、魔法は使えるくせに」

 

思わず口にすると、エメトセルクは眉を上げた。

 

「使えるものと、知らないものは、別だろう」

 

それは、わかった気がした。

 

わからないところも、まだ幾らでもあった。

 

彼女は、男の顔を見上げる。

 

何かを褒めようとして、うまく言葉にならなかった。

 

代わりに、背後のギーシュへ一度目を向けた。

 

少年は、友人から何かを聞かれ、困ったように肩を動かしている。

 

血を流してはいない。

 

そのことにも、少し安心した。

 

「……勝ったのは、見ていたわよ」

 

ルイズは、小さく言った。

 

エメトセルクが、こちらを見る。

 

「もっとも、次からは、勝手に決闘なんて引き受けないで。わたしの使い魔なんだから」

 

「それは、喜んでいるのか、叱っているのかね?」

 

「両方よ」

 

答えてから、ルイズは前を向いた。

 

人垣を抜け、学院の建物へ歩き始める。

 

すれ違った生徒が道を空けた。

 

さっきまで、決闘の場所を確かめて走っていた者たちだった。

 

その目が彼女を通り越し、後ろへ向く。

 

驚いた顔をされるのを見て、ルイズは鞄の紐を持ち直した。

 

自分が何かを成功させたわけではない。

 

朝の石は、金属にならなかった。

 

それでも今日は、背中を丸めて通り過ぎたくはなかった。

 

「……エメトセルク」

 

歩きながら呼ぶと、返事があった。

 

「何だ?」

 

「次の教室は、こっちよ」

 

「ああ。ついていこう」

 

その返事を聞き、ルイズは少しだけ歩幅を大きくした。

 

隣へ、長い脚が並んだ。

 

第1章 第4話 完

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