## 第4話「薔薇と古代の魔法」
アルヴィーズの食堂へ入る頃には、ルイズの腕は、箒を持っていなくても少し重かった。
長い卓の向こうから、焼いた肉の匂いが届く。
席に着こうとして、後ろを振り返った。
エメトセルクは、給仕の通る扉へ向かっていた。
「……食べ終わったら、どこかへ行くつもり?」
彼が足を止める。
「今のところ、予定はないが」
「だったら、その辺にいてよ。午後も授業があるんだから」
「ああ。次の教室まで、自力で探すつもりはないさ」
ルイズは、ようやく椅子を引いた。
勝手に出歩くなと繰り返す前に、行き先は聞けた。
それで十分なはずだったが、黒い長衣が扉の向こうへ消えるまで、つい目で追ってしまった。
今朝、あの手の先に広がった光を思い出す。
自分の呪文は、石と机を壊した。
彼の術は、その破片を止めた。
同じ教室で、違うことが起きた。
それについても、まだ聞いていないことがある。
ルイズは、目の前へ置かれた皿へ顔を戻した。
まずは、食べよう。
厨房では、マルトーが大きな鍋の蓋を開けていた。
入ってきた男に気づくと、顎で奥の卓を示す。
「おう。席なら、そっちが空いてるぞ」
「助かる。約束を忘れられていないようで何よりだ」
「昨日の今日で、あんたみたいな客を忘れるもんか」
マルトーは笑い、近くの料理人へ皿を用意するよう告げた。
椅子へ腰を下ろすと、シエスタがパンと水を運んでくる。
「こんにちは。午前中の授業は、いかがでしたか?」
「なかなか、覚えることが多かった」
彼女は、長衣の袖へ一度目を向けた。
払い落としきれなかった白い埃が、わずかに残っている。
「あの……お怪我は?」
「ああ、問題ない。心配には及ばんよ」
シエスタは、小さく息をついた。
それ以上尋ねず、次の盆を受け取りに戻っていく。
彼女を見送り、エメトセルクは出された肉へナイフを入れた。
表面は香ばしく、中は固くなりすぎていない。
「どうだい」
鍋を任せたマルトーが、近くを通りかかった。
「よく焼けている。急いで皿を出しても、火を通しすぎないのだな」
「そりゃあ、せっかくの肉だからな。焦がして数だけ揃えたって、しょうがねえ」
「食べる方としても、そちらを望む」
料理長は、満足そうに笑った。
それから、皿を持って立ち止まっている若い料理人へ、手を動かせと声を掛ける。
厨房の仕事は、その間にも続いていた。
エメトセルクは食事を終え、匙とナイフを揃えた。
「ご馳走になった」
シエスタが、皿を受け取る。
「あの。お時間があるようでしたら、少しだけお願いしてもよろしいでしょうか」
「何だね?」
「食堂へ、お菓子のお皿を運んでいただけませんか。こちらの片付けと重なってしまって……」
彼女は、並んでいる盆へ目を向けた。
背後で呼ばれ、返事をしてから、慌ててこちらへ顔を戻す。
「もちろん、今だけで結構ですので」
エメトセルクは空の皿を見て、それから盆を見た。
「では、この分を運ぼう。食事の礼にもなるだろう」
「ありがとうございます」
彼女の肩から、少し力が抜けた。
「ですが、食堂では――」
言いかけて、口を閉じる。
昨日のやり取りを思い出したのだろう。
エメトセルクは、盆を持ち上げた。
「皿を運ぶのと、床で食べるのとでは、随分と話が違うぞ」
シエスタは一瞬目を丸くし、それから、困ったように笑った。
「……そうですね。失礼いたしました」
彼は、軽く首を振った。
「どこから配ればよい?」
「あちらの卓へお願いします。私も、すぐに伺います」
*
ギーシュは、薔薇を胸元へ寄せていた。
数人の少年に囲まれ、椅子へ浅く腰掛けている。金色の巻き毛が、窓の光を受けていた。
「女性というものは、皆、花に似ているのさ」
一人が、また始まったと笑う。
ギーシュは気にしなかった。
「咲き方が違うからこそ、どの花にもふさわしい言葉を選ばなくてはならない」
「それを、何人に言ったんだ?」
「心掛けの話をしているんだよ」
彼が胸を張ったとき、制服のポケットから、小さなものが滑り落ちた。
椅子の脚へ当たり、卓の外へ転がる。
近くを歩いていたエメトセルクが足を止めた。
細工のある、小さなガラス瓶だった。
盆を片手で支え直し、屈んで拾う。
中の液体が揺れたが、瓶は割れていない。
「そこの少年。落とし物だ」
ギーシュが振り返った。
差し出された瓶を見る。
笑顔が、一瞬止まった。
「……僕のものではないよ」
エメトセルクは、彼の胸元へ目を向けた。
「そのポケットから落ちたようだが」
「見間違いだろう。そこへ置いてくれれば、誰か取りに来るさ」
言いながら、少年は顔を戻そうとした。
友人の一人が、瓶を覗き込む。
「それ、モンモランシーの香水じゃないか?」
ギーシュの薔薇が、少し下がった。
「大きな声を出すなよ」
小声だったが、すぐ近くにいた少女には届いた。
「……ギーシュさま?」
茶色のマントを着た少女が、足を止めていた。
まだ幼さの残る顔に、戸惑いが浮かんでいる。
ギーシュは、すぐに立ち上がった。
「ケティ。違うんだ、これは」
エメトセルクは、手の中の瓶を卓へ置いた。
返そうとしたものは、ここにある。
これ以上、持っている理由もなかった。
少年の友人が、笑うのをやめる。
ケティの目は、瓶からギーシュへ動いていた。
「モンモランシーさまと、お付き合いなさっているんですか?」
「そういうわけではない。彼女とは、以前から親しくしているだけで――」
「親しくしているだけ?」
別の声がして、ギーシュの言葉が止まった。
巻き髪の少女が立っていた。
彼女は、瓶を一瞥する。
それから、ギーシュの顔を見た。
「わたしの渡したものを、ずいぶん便利に持ち歩いていたのね」
「モンモランシー。今は、話の途中なんだ」
「その話を、聞かせてちょうだい」
声は、静かだった。
ギーシュは、二人を交互に見た。
ケティが、少し俯く。
「わたしだけだと、おっしゃいましたよね」
「ケティ……」
呼び止めようと伸びた手より先に、彼女の手が動いた。
乾いた音がした。
ギーシュの顔が、横へ向いた。
少女は唇を震わせ、一度何か言おうとした。
結局、声にはならなかった。
裾を翻し、食堂の出口へ走っていく。
「待ってくれ!」
少年の足が動きかける。
その前に、モンモランシーが立った。
「わたしにも、何か言うことがあるんじゃない?」
「だから、誤解だと言っているだろう。僕はただ、二人とも悲しませたくなくて」
言い終える前に、彼女の手が杯を取った。
赤いワインが、ギーシュの顔へ掛かる。
エメトセルクは、盆を僅かに引いた。
皿へ雫が飛ばずに済んだ。
「……だったら、初めから嘘なんてつかなければよかったのよ」
モンモランシーは、杯を卓へ戻した。
瓶も手に取り、返事を待たずに歩き去る。
ギーシュは、濡れた顔を上げられずにいた。
卓の向こうで、誰かが吹き出した。
別の席からも、笑いが広がっていく。
彼は懐から布を出し、頬を押さえた。
平手で打たれた方へ触れ、少し顔をしかめる。
エメトセルクは、盆へ目を戻した。
残った皿を置ける場所がないか、卓の端を確かめる。
その動きを、ギーシュが見た。
「……君」
声の硬さが、変わっていた。
「随分と、余計なことをしてくれたね」
エメトセルクは、顔を上げた。
「落とし物を、返そうとしただけだが」
「僕は、違うと言っただろう!」
「だから、置いた」
「そこで黙ってくれていれば、こんなことにはならなかったんだ」
ギーシュの声が、大きくなる。
笑っていた友人たちが、今度はこちらを見た。
エメトセルクは、少年をしばらく眺めた。
「二人の娘に、違う約束をしていたことまで、私に引き受けろと言うのかね」
ギーシュの布を握る指に、力が入った。
「……給仕の真似をしている平民に、そんなことを言われる筋合いはない」
エメトセルクは、盆を脇の卓へ置いた。
皿が揺れないことを確かめてから、手を放す。
「皿を運んでいる者なら、責めても構わんという話なら、聞く相手を変えた方がよいな」
「僕を馬鹿にしているのか!」
「話を聞いているところだ。まだ、何について私を責めているのかわからんのでね」
「エメトセルク!」
聞き慣れた声がした。
ルイズが、生徒の間を抜けてきた。
自分の卓へ皿を置かれた頃から、あちらの騒ぎが目に入っていた。
少女が走り去り、ワインが飛んだ。
そのそばに、自分の使い魔がいる。
急いで来てみれば、案の定だった。
「何をやってるのよ!」
「食事の礼に、配膳を手伝っていた」
「それは、見ればわかるわよ」
彼女は、ギーシュへ目を向けた。
「あなた、いったい……」
「ルイズ。君の使い魔に、貴族への礼儀を教えておいた方がいい」
先に言われ、眉が上がった。
「礼儀?」
「僕を、皆の前で侮辱したんだ」
「瓶を返した覚えはあるが、侮辱した覚えはないぞ」
エメトセルクの返事に、近くの少年がまた笑った。
ギーシュが、そちらを睨む。
笑いが止まった。
その代わり、注目は集まるばかりだった。
彼は薔薇を持つ手を上げた。
「そこまで言うなら、わからせてあげよう」
ルイズの肩が強張った。
「ちょっと、ギーシュ」
「決闘だ。ヴェストリの広場へ来たまえ」
食堂が、どよめいた。
少年たちが顔を見合わせる。
ルイズは、思わず一歩前へ出た。
「香水瓶くらいで、何を――」
「僕の名誉の問題だよ」
「それなら、あの二人と話をする方が先ではないかね」
エメトセルクが言った。
ギーシュの頬へ、再び血が上る。
ワインの染みとは別の、赤さだった。
「来ないのなら、今の言葉を取り消したまえ」
エメトセルクは、しばらく黙っていた。
目の前の少年は、謝罪以外を受け取る気がないらしい。
周りの目を気にして、ますます声を大きくしている。
「……よかろう」
彼は答えた。
「話で済まぬと言うなら、場所を移そう」
ギーシュは、ようやく自分の立つ場所を取り戻したように胸を反らした。
「待っているよ」
そう言い、踵を返す。
何人もの生徒が、後を追った。
ルイズは振り返り、自分の使い魔を見上げた。
「あなたまで、何を考えているのよ」
「ここで続ければ、給仕の邪魔になるだろう」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
その声の隙間に、シエスタが盆を抱えて近づいてきた。
食堂へ来たところで騒ぎに気づいたらしく、顔が強張っている。
「あの……」
エメトセルクは、置いていた盆を示した。
「すまない。まだ、配り終えていない」
「それは、私が。ですが、あちらの方はメイジです。決闘なんて……」
「わかっている。ここまでの分は、片づけてもらえるか」
シエスタは、彼とルイズを見比べた。
何か言おうとしたが、すぐには言葉にならなかった。
やがて、小さく頷く。
ルイズは、エメトセルクの袖を掴んだ。
「ちょっと、来なさい」
彼女は、残った生徒の視線から少し離れた。
「ギーシュは、土系統のメイジなのよ」
ルイズは声を落とした。
「今朝、先生が石を変えたのを見たでしょう。ああいう術を、戦うために使うの。青銅のゴーレムを出して、動かすんだから」
「人形を操るのか」
「そうよ。あなただって、魔法は使えるでしょうけど……」
そこで、言葉が一度止まった。
彼が教室で何をしたかは見た。
ただ、それでメイジを相手に戦えるのか、自分にはわからない。
「飛んでくるものを止めるのと、相手を倒すのは違うでしょう」
「ああ。違うな」
平然と頷かれた。
ルイズは、掴んだ袖へ力を込める。
「だったら、どうして!」
「私の方から、彼を殴りに行くつもりはない。ただ、覚えのない非礼を認めるつもりもないのでな」
「貴族を相手に、そんなことを言ったら……」
彼女は、途中で口を閉じた。
エメトセルクが、静かにこちらを見ている。
「誰が言ったかで、起きたことまで変わるのかね」
答えづらい問いだった。
彼が悪かったとは、自分も思っていない。
それでも、相手には魔法があり、グラモンという家名がある。
「……グラモン元帥の息子なのよ、あいつ」
「それは、本人から聞いた方がよさそうだ」
エメトセルクは、袖を掴む小さな手へ目を落とした。
「ルイズ。心配していることはわかった。だが、あの少年の力も、私の力も、お前が全部知っているわけではあるまい」
「だから、心配してるんでしょう!」
つい、大きな声になった。
彼女は周囲を見て、もう一度声を落とした。
「あなたが何かやったら、主人のわたしだって困るのよ」
「では、無用な騒ぎを増やさぬようにしよう」
「もう、増えてるじゃない……」
エメトセルクは、否定しなかった。
向こうから聞こえた「決闘だって」という声に、僅かに眉を寄せる。
彼にも、ここで立ち止まっていたい理由はなさそうだった。
ルイズは、ゆっくり手を離した。
「わたしも、行くわ」
「ああ。ただし、戦う場所のそばへ出てくるなよ」
「わかってるわよ」
彼女は自分の席へ戻り、鞄を取り上げた。
ほとんど空になった皿が、卓に残っている。
食べ終えたばかりのはずなのに、もう落ち着かなかった。
出口で待つ男のところへ戻る。
そのそばを、二人の少女が通った。
「あら。ご主人も、お付き合い?」
キュルケだった。
隣には、タバサがいる。
本を閉じて小脇へ挟み、長い杖を手にしていた。
ルイズは、二人を睨んだ。
「見世物じゃないのよ」
「だから、近くで確かめるのよ。今朝みたいに煙がいっぱいでは、よく見えないもの」
キュルケの目が、エメトセルクへ移る。
「攻撃も、多少はできるとおっしゃったわね」
「だからといって、わざわざ派手なものを見せる義理もないぞ」
「それは、拝見してから判断するわ」
タバサは何も言わなかった。
彼の手元を一度見てから、先へ向いた。
ルイズは、鞄の紐を持ち直した。
「……行くわよ」
*
ヴェストリの広場には、すでに人が集まっていた。
建物に囲まれた石畳の中央が空き、その周りへ、生徒たちが半円を広げている。
話を聞いて駆けつけた者が、後ろから背伸びをした。
ギーシュは中央で待っていた。
顔のワインは拭き取ったらしい。
ただ、制服の襟には赤い染みが残っていた。
「逃げずに来たんだね」
薔薇を胸へ寄せ、彼は笑った。
先ほどまでの狼狽を隠すには、少し大きな笑みだった。
エメトセルクは、周囲を見渡した。
「見物人が、近すぎるな」
「心配には及ばない。僕は、無関係な人を巻き込んだりしないよ」
「ならば、下がってもらおう。何もなければ、それで済む」
ギーシュの口元が、少し固くなった。
だが、反対する理由も見つからなかったらしい。
薔薇を振り、見物人へ空けるよう告げる。
最前列から不満の声が出た。
エメトセルクも、足を止めたまま待っている。
やがて人垣が外へ広がり、二人の周りに余裕ができた。
ルイズは、その端へ立った。
鞄を足元へ置く。
少し離れて、キュルケとタバサも足を止めた。
三人の前には、人形が走り回ってもすぐには届かないだけの、空いた石畳がある。
エメトセルクは、そこまで確かめてから中央へ進んだ。
ギーシュとの間は、およそ十メイル。
相手の手には、薔薇がある。
飾りとして持っているだけではなさそうだった。
「最後に聞いておこう」
ギーシュが、声を張った。
「ここで謝るなら、許してあげるよ」
「返事は、食堂でしたはずだ」
短く答える。
それで、少年の表情が変わった。
「……いいだろう」
薔薇が、振られた。
一枚の花びらが舞う。
地面へ触れるより先に、淡い光がそれを包んだ。
ギーシュの内側から、力が向かう。
花びらの輪郭が膨らみ、金属の重さを持ち始めた。
石畳へ、青銅の足が下りる。
女性を模した鎧姿。
手には武器が握られ、頭部がこちらへ向いた。
ギーシュは、人形の隣へ半歩進んだ。
「僕は『青銅』のギーシュ。このワルキューレが、お相手しよう」
エメトセルクは、答える代わりに目を細めた。
朝の錬金は、石の組成を変えていた。
今、目の前では、金属へ変わったものが動こうとしている。
ギーシュと人形の間に、微弱な力のつながりが続いていた。
彼が薔薇を傾けると、人形の肩も動く。
すべての動作を、一本ずつ指示しているのか。
それとも、もっと大まかな命令を与えているのか。
まだ、そこまではわからなかった。
学院長室の遠見の鏡にも、その二人と、青銅の人形が映っていた。
オスマンとコルベールは、鏡の前で広場を見ていた。
広場のエメトセルクは、別の小さな気配を感じた。
人垣から向けられる目とは違う。
遠くから、かすかな術の作用が届いている。
害意を伴う力というより、こちらを探り、眺める類のものに思えた。
見物は、この広場の中だけではないらしい。
彼は、その気配を追わなかった。
目の前で、青銅の足が動いたからだ。
「行け!」
ワルキューレが踏み込んだ。
重い足音が、石畳を打つ。
武器が頭上から振り下ろされた。
エメトセルクは、半歩、身体をずらした。
風が頬の近くを通る。
得物が石へ当たり、硬い音がした。
「……え?」
最前列から、声が漏れた。
ギーシュも、一瞬だけ薔薇を持つ手を止めた。
すぐに、横へ振る。
人形が身体を捻り、武器を薙いだ。
エメトセルクはその腕を見た。
重いものを引き戻す前に、肩が動く。
半歩下がる。
さらに足を斜めへ運び、人垣へ背中を近づけずに、広場の内側へ回った。
青銅の腕が、目前を通り過ぎた。
「逃げるばかりかい!」
ギーシュが叫ぶ。
エメトセルクは、ワルキューレの脚へ目を向けた。
攻撃を空振りした後、足の位置を直している。
ギーシュも、薔薇を握り直した。
その動きが、先ほどより早い。
人形だけを見ていては、間に合わない場面もあるだろう。
「今のも、魔法かしら」
キュルケが、小さく言った。
タバサは、首を横に振った。
「足」
視線は、男の靴に向いていた。
彼は、攻撃が来る前に、立つ場所を変えている。
光も、手振りもない。
ただ、それだけで何も使っていないと決めるより、まずは目に見える動きを追っていた。
ルイズは、二人の話へ加われなかった。
ワルキューレの武器が石へ当たった音が、まだ耳に残っている。
あれが人へ当たれば、怪我で済まないかもしれない。
それなのに、エメトセルクは足を止めると、人形とギーシュを交互に見ていた。
肩で息をしている様子もない。
まるで、朝、教卓の上を見ていたときのようだった。
「……もう」
ルイズは、握った紐を下ろした。
声を掛けたい。
だが、こちらへ顔を向けさせる方が危ない気もして、唇を噛んだ。
ギーシュは、薔薇を大きく引いた。
人形が一度下がる。
その向こうの少年の顔は、すでに笑っていなかった。
「なら、これはどうだ!」
青銅の足が、強く踏み出した。
間を置かず、もう一歩。
武器を前へ出し、ワルキューレが突進する。
エメトセルクは、その進路を見た。
ギーシュは、人形の後方。
観客は、さらに外。
足元を止めれば、まず動きは封じられる。
人形を砕く必要はない。
一度動けなくし、少年へ続ける意思があるか確かめればよい。
彼は、使う力を絞った。
朝と同じ変化が起こるかもしれない。
その分を考え、慣れた術を普段よりも小さく組み上げる。
攻撃を受け流し続けるうちに、少年が人垣へ向けて人形を振り回すことになっても困る。
止めるなら、今の進路で。
「少々、静かにしてもらおうか」
右手を、軽く上げた。
親指と指先が触れる。
ぱちん、と音がした。
左手の甲に、熱が走った。
またか。
エメトセルクは、刻印のある位置の熱を意識しながら、目を人形から離さなかった。
ワルキューレの足元へ、暗い光が絡む。
その広がりが、速すぎた。
足首を留めるはずの術が、膝へ、腰へと及んでいく。
注いだ力を絞ったにもかかわらず、術の内側には、予定にない重さが加わっていた。
前へ進もうとする青銅の身体が、ぎくりと止まる。
武器を握った腕だけが、なお振り上がろうとした。
エメトセルクは、右手を開いた。
術の働く先を、人形から外へ滑らせない。
脚の下へ広がりかけた光を絞り、余った力の逃げ道を上へ向ける。
朝、障壁の縁を整えた感覚が、役に立った。
だが、受け止める面と、動くものを縛る力では、同じ加わり方にはならない。
人形の全身へ掛かった拘束が、引き締まった。
青銅が、軋む。
肩の外側が歪み、胸の鎧へ亀裂が走った。
「……そこまでせんでよい」
呟く間にも、身体の支えが潰れた。
鈍い轟音がした。
ワルキューレの胸が砕け、頭部が傾く。
折れた腕と、青銅の欠片が跳ねた。
ギーシュが、顔をかばいかけた。
だが、破片は、彼のところへ届かなかった。
エメトセルクは、残る拘束を解いていなかった。
人形があった場所へ、砕けたものを留める。
上へ抜けた光がほどけ、風が広場を叩いた。
生徒たちのマントがはためく。
足元から砂埃が上がった。
「きゃっ!」
ルイズは腕で顔を庇った。
前へ出ようとした足が、そのまま止まる。
風が過ぎてから見ると、エメトセルクは中央に立っていた。
その前に、青銅の破片が浮いている。
落ちてくるのではない。
何かに留められ、そこで止まっていた。
彼が、開いた右手を僅かに下げる。
破片も、ゆっくり下がった。
小さな欠片から、石へ触れる。
続いて、大きく歪んだ胴が、重い音を立てて着地した。
最後に武器が横へ倒れた。
暗い光が薄れていく。
人形の足跡と、浅く傷ついた石畳。
その上に、砕けた青銅が集まっていた。
辺りは、静かだった。
エメトセルクは、右手を下ろした。
左手には、まだ熱がある。
薄れていく光は袖に隠れ、人垣の方からは、その甲まで見通せなかった。
彼は一度、指を曲げた。
防護だけの話では、なかったらしい。
だが、そこから先を考えるのは、まだ後だ。
ギーシュが、こちらを見ていた。
「……何を、したんだ?」
声が、少し掠れている。
エメトセルクは、足元の残骸を見た。
「止めようとした」
「これが、止めるだけだっていうのか!」
彼の眉が、僅かに寄った。
少年が何を言いたいかは、よくわかった。
目の前にある結果まで、否定するつもりはない。
「少々、力が入りすぎたな」
ギーシュは、口を開いた。
何か言いかけ、言葉を失う。
その間に、広場の端から囁きが戻ってきた。
「今の、魔法だよな」
「何の系統だ?」
「薔薇も、杖も持ってないぞ」
朝の教室にいた生徒が、別の者へ何か話している。
それを聞いても、正体がわかるわけではなかった。
キュルケは、埃のついた髪を肩の後ろへ払った。
「……多少、とおっしゃったわね」
楽しげな口調に戻そうとしたが、目は青銅の塊から離れなかった。
あの防護を見たときから、珍しい術を使うのだとは思っていた。
今度は、破片を受け止めただけではない。
メイジが作った人形を、止め、砕き、破片まで同じ場所へ戻している。
隣で、タバサの手が、本の背へ添えられていた。
「指を、鳴らした」
「ええ。見えたわ」
「……その後も、動かしていた」
タバサは、止まっていた破片が落ちた場所を見ている。
一度壊して終わりではない。
周りへ飛ばさず、床へ下ろしていた。
それを、どうやって行ったのか。
指の音だけを聞いても、わからなかった。
ルイズは、まだ腕を下ろしたばかりだった。
ワルキューレが、壊れた。
ギーシュの人形を、自分の使い魔が。
「……エメトセルク」
名を呼びかけたところで、ギーシュが薔薇を握り直した。
彼女は、息を呑んだ。
「まだだ」
少年は、低く言った。
エメトセルクが顔を戻す。
「僕は、負けたと言っていない」
ギーシュは、自分の足元を見ないようにしていた。
すぐそこに、人形の腕が転がっている。
一つ出すだけでも、自分の術を見せるには十分だったはずだ。
それが、相手へ触れもしないうちに壊れた。
食堂でも、笑われた。
ここでも。
「一体で済ませてあげようと思ったのに」
ギーシュの声は、最後の方で少し裏返った。
そのことが、また腹立たしかった。
給仕の盆を持っていた相手だ。
自分のワルキューレを見れば、さすがに態度を改めるはずだった。
それが今、自慢の青銅は、足元で潰れている。
薔薇を持つ手へ、視線が集まっていた。
ここで下ろせば。
食堂の笑い声が、耳の奥へ戻ってきた。
ギーシュは、薔薇を大きく振った。
六枚の花びらが散る。
淡い光の中で、それぞれが膨らんだ。
青銅の足が、次々と石畳へ下りる。
一体目の残骸の向こうに、六体の戦乙女が並んだ。
「……六体?」
ルイズは、思わず声を上げた。
キュルケの顔からも、笑みが薄れる。
ギーシュは、荒くなった息を整えようとした。
一体ずつでは、また同じことになるかもしれない。
ならば、同時に。
一つを止めている間に、ほかが届けばいい。
薔薇を握った指が、汗で滑りそうになった。
「これでも、同じようにできるかな!」
正面の二体が、先に動いた。
残る四体は左右へ二体ずつ分かれ、回り込む。
金属の足音が重なった。
エメトセルクは、一歩だけ前へ出た。
後ろへ下がれば、両脇の人形に押され、人垣との距離がなくなる。
正面の二体と、その背後にいる少年。
左右から進む四体。
彼は、それぞれの足先と、武器の届く場所を見た。
先ほどの拘束を広げ、一度に包む。
できないことではない。
だが、あの圧力が六体の間でどう働くか、ここで確かめる気にはならなかった。
右手を、横へ差し出す。
掌の中に、細い光が集まった。
伸びた光が、長い柄を形作る。
先端の装飾まで輪郭を得ると、光は、その表面へ吸い込まれるように消えた。
エメトセルクは、現れた杖を握り直した。
慣れた重みが、手へ戻っている。
「……ちょっと。そんなもの、どこに」
ルイズの声は、足音に紛れた。
彼は、すでに杖先を下げていた。
正面の二体の、踏み出す足へ。
杖を介して力をまとめる感覚は、よく知っている。
その分まで見込み、普段なら小さすぎるほどに術を絞った。
まず、ここを止める。
白い光が、二体の足元に生まれた。
同時に、袖の内側で左手の甲が熱を持った。
氷が、石畳と足首の間を埋める。
その伸び方が、思い描いたものより速い。
踵だけを留めるはずが、もう膝へ届こうとしていた。
杖で力をまとめる感覚とは、違う。
その先へ、また余計なものが加わっている。
エメトセルクは、杖先を僅かに返した。
二体の間へ流れかけた冷気を切り分ける。氷の広がる先を、それぞれの青銅の身体に沿わせた。
白い結晶が、腰へ巻きつく。
振り上げられた武器と腕が、胴へ伸びた氷に噛み留められた。
ワルキューレが、前傾したまま止まった。
足から肩まで覆う氷は、狙ったものより厚い。
だが、それ以上、石畳を這うものはなかった。
見物人の足元まで白くなる前に、冷気は二つの塊の内側へ収まっていた。
左から来る二体は、止まらなかった。
片方が先に武器を突き出す。
エメトセルクは肩を引き、その先端を外した。
もう一体の腕が上がる。
彼は、最初の人形を盾にする位置へ踏み込み、二体が重なったところで杖を引いた。
青白い光が、青銅の脚に走った。
空から落ちてきた雷ではなかった。
膝と腰のつなぎ目。
彼が選んだ場所で、鋭い光が弾けた。
乾いた音とともに、一体の膝が割れる。
その奥にいたもう一体も、腰を傾けた。
左手の熱が、再び強まった。
予定では、関節の動きを損なえば足りた。
だが、光は、その内側の支えまで砕こうとしていた。
エメトセルクは、すぐに術へ力を送り込むのをやめた。
なお残る光の行き先を、青銅の内側へ絞る。
二体の脚が、ほぼ同時に折れた。
一体は膝から、もう一体は腰を捻って、石へ倒れる。
砕けた継ぎ目の中で光が消え、遅れて、金属の重い音が響いた。
観客から悲鳴が上がった。
だが、人垣の方へ走る雷はなかった。
ギーシュも、薔薇を振った姿勢のまま立っていた。
その前を、何も通ってはいない。
エメトセルクは、杖を持つ指へ僅かに力を入れた。
拘束では、締めつける力が強くなった。
氷では、広がる速さと厚み。
今度は、狭く狙った場所の壊れ方まで変わった。
同じつもりで力を減らせば済む、と考えるわけにはいかないらしい。
右から、足音が近づいた。
彼は、そちらへ身体を向けた。
残る二体。
一体は正面の凍った人形へ寄り、もう一体は大きく外を回っていた。
「挟め!」
ギーシュの声がした。
凍った二体も、氷の中で腕を動かそうとしている。
白い表面に細いひびが入った。
エメトセルクは、そこを見てから、広場の内側へ下がった。
回り込む人形と、人垣との間を空ける。
もう片方が追い、武器を振り下ろした。
彼は身を捻った。
長衣の裾へ、青銅の先端が触れかける。
石畳へ打ちつけられた得物が、火花を散らした。
ルイズは、声を呑み込んだ。
近い。
あれだけの魔法を使っているのに、人形の腕は、まだ彼のそばへ来る。
その彼は、飛び退く代わりに、空いた方へ足を運んでいた。
二体を追わせ、先ほど倒れた青銅のそばへ寄せていく。
杖が、低く振られた。
赤い光が、走る。
大きな火球ではなかった。
二体の脚の付け根に、短い炎が巻きついた。
エメトセルクは、燃やす場所を狭めていた。
人形全体を熱する必要はない。
重さを支え、脚を動かしている、そのつなぎ目へ。
注いだ力よりも濃い炎が、青銅の隙間へ潜った。
左手の刻印が、また熱い。
彼は杖先を止め、炎へ力を渡す時間を、考えていたより短く切った。
残る熱を、継ぎ目の内側へ留める。
人形の胴を包みかけた火が縮んだ。
脚の付け根だけが、赤く光っている。
「……そこだけ?」
キュルケが、小さく呟いた。
青銅の身体を、丸ごと焼き溶かしたのではない。
重い上体を支えるところへ、魔法の熱を集中させていた。
そこへ踏み込む勢いが掛かる。
先に来た一体の脚が、沈むように折れた。
もう一体は、それを避けようと身体を捻った。
熱を受けた関節が、歪む。
足がついてこないまま、胴だけが向きを変えた。
二つの重い身体が、最初の残骸の近くへ倒れた。
武器が石へ当たって跳ね、倒れた腕に遮られて止まる。
炎は、もう消えていた。
ギーシュは薔薇を引いた。
倒れた人形の腕が、石を擦った。
だが、脚は元の形へ戻らない。
起き上がらせようとするたび、壊れた支えが、別の向きへずれた。
彼は、凍った二体へ目を向けた。
こちらなら、まだ。
武器を持つ腕へ力を向けた。
氷に入っていたひびが広がる。
エメトセルクは、二体のそばへ杖先を戻した。
新たな氷を大きく張り出させる代わりに、残していた氷の形を締め直す。
持ち上がりかけた武器を、腕ごと胴の脇へ留めた。
青銅が、氷の内側で鈍く鳴った。
それきり、動かなかった。
広場へ、静けさが戻る。
正面に、凍りついた二体。
左側に、脚や腰を砕かれた二体。
その近くには、関節の歪んだ二体が倒れている。
一体目の残骸を含め、七体のワルキューレのうち、彼へ近づけるものは、もうなかった。
エメトセルクは、杖先を下げた。
ギーシュへは、向けない。
「……氷と、雷。それに、火まで」
ルイズは、言葉を探すように呟いた。
朝、見たのは、破片を受け止める光だった。
指を鳴らしただけで人形を砕いたときにも、まだ、それに驚いていた。
今は、その先へ、何度も置いていかれた気がする。
キュルケは、焼けた関節へ目を向けていた。
自分が火を使うときの感覚に、そのまま当てはめることはできない。
ただ、あの炎を大きく広げずに使い切ったことは、見えていた。
「あれを、多少と呼ぶのね」
隣で、タバサが眼鏡を押し上げた。
目は、人形の間に立つ男を追っている。
「……外へ、向けなかった」
「ええ」
人形を追って杖が動く。
その前に、立つ場所を変えていた。
冷気も、雷も、炎も。
人垣の方へ抜けない位置を、選び続けていた。
タバサは、抱えていた本へ視線を落としかけ、また杖を見た。
朝の教室には、なかったものだった。
*
ギーシュは、薔薇を下ろせずにいた。
一体目が壊されたときは、まだ言い訳ができた。
一体しか出していなかった。
相手の魔法を知らなかった。
だが、六体を出しても、届かなかった。
左右へ分け、別の方向から向かわせた。
その間にも、相手は氷を使い、雷を使い、炎まで使った。
一つを防ぐ間に、ほかが届くはずだったのだ。
相手は、自分の前へ来ていない。
手を伸ばしても届かない場所に立ち、こちらの返事を待っている。
それが、かえって、次に何をすればよいかわからなくした。
「……僕は」
声を出すと、喉が乾いていた。
エメトセルクが、顔を上げる。
「グラモン元帥の、息子なんだ」
さっきまでなら、胸を張って言えた。
今は、誰かに思い出してもらいたくて口にしたように聞こえた。
ギーシュ自身にも、それがわかった。
「父も、兄たちも……僕は、貴族として」
エメトセルクは、黙っていた。
その視線が、手の中の薔薇へ動く。
ギーシュも、つられて見た。
花は、まだ残っている。
だが、壊れた人形を起こせない。
動かせるはずの二体も、氷から出せない。
あの杖が、こちらを狙っていたら。
ギーシュは、襟に残ったワインの染みへ触れかけ、手を止めた。
相手は、自分へ魔法を向けることなく、返事を待っている。
そのことが、ようやく、別の意味を持って見えた。
「……僕の魔法は、そんなに、つまらないものだったかい」
問いは、小さかった。
エメトセルクは、人形の方を見た。
「いや。形を与え、動かす。悪い術ではなかった」
ギーシュが、顔を上げる。
「だったら」
「その腕前と、食堂で言ったことは、別の話だ」
声を荒らげるでもなく、告げられた。
「続けるなら、私は止める。どうするかは、お前が決めたまえ」
それで、言葉が終わった。
広場のどこかで、靴が石を擦った。
誰かが囁きかけ、隣の者に止められる。
ギーシュは、薔薇を握り直そうとした。
指が、うまく動かなかった。
一度、息を吐く。
それから、腕を下ろした。
「……僕の、負けだ」
自分の声が、よく聞こえた。
負けた。
口にしてみると、その後へ続ける言い訳が出てこなかった。
エメトセルクは、短く頷いた。
「わかった」
それ以上は、何も求めなかった。
頭を下げろとも、皆の前で謝れとも言わない。
「人形は、もう動かさなくてよいな?」
問われ、ギーシュは頷いた。
薔薇を下ろし、残っていた働きかけをやめる。
エメトセルクは、凍った二体へ目を向けた。
氷を一度には解かず、支えを低くしていく。
傾いた青銅の身体が膝をつき、やがて石畳へ横たわった。
最後の氷は、その下でゆっくりと水に変わる。
彼は杖を下ろし、足元の破片を避け、来た方へ歩き始めた。
ギーシュは、その背中を見ていた。
薔薇を持つ手が、少し下がった。
「……名前を、もう一度」
男が、肩越しに顔を向けた。
「エメトセルクだ」
ギーシュは、聞いた名を胸の内で繰り返した。
口に出す前に、見物人たちの声が戻ってきた。
「エメトセルク!」
ルイズは、鞄を引っ掴んで駆け寄った。
青銅の塊を避け、男の前で足を止める。
その顔を見上げてから、両腕へ目を落とした。
制服の袖も、自分の頬も、朝の授業では煤だらけになった。
だが、彼の服には、いま舞った埃が少しついているだけだった。
「……怪我は、してないわね?」
「ああ」
「本当に?」
「今、答えたばかりだぞ」
ルイズは、息を吐いた。
それから、急に眉を寄せる。
「何なのよ、今の」
「もう少し、聞くことを絞れないものかね」
「全部よ!」
エメトセルクは、広場を振り返った。
ギーシュは、まだ人形のそばに立っている。
彼女も、そちらを見た。
自分が、何を尋ねたいのか。
何から聞けば、わかるのか。
順番すら決められない。
「……その杖、どこから出したの?」
やっと言うと、彼は右手のものへ目を向けた。
「必要になったので、用意した」
「それは見ていたわよ。さっきまで、持っていなかったじゃない」
「ああ。あの盆を持って、これまで担いでは歩けまい」
「配膳の話なんて、してないでしょう!」
ルイズは、言い返しかけて腕を組んだ。
見慣れた教師たちの杖とは、ずいぶん形が違う。
けれど、驚いたのは、それだけではなかった。
「……魔法も。朝のは、飛んでくるものを止めただけだったのに」
「止めるだけでは済まなくなったのでな」
「氷も、雷も、火も、使えるなんて聞いてないわよ」
「聞かれたのは、魔法を使えるか、だっただろう」
「全部できるみたいに……」
ルイズは言いかけ、口を閉じた。
彼は、できることを並べ始めはしなかった。
返事の代わりに、左手を返す。
ルイズは、その動きを追った。
甲の紋様は、もう光っていない。
彼女には、昨日と同じ文字に見えた。
「……どうかしたの?」
「確かめることが、まだある」
手が、袖の中へ戻る。
エメトセルクは、それ以上を語らなかった。
人垣の向こうで、誰かが大きな声を上げた。
「ギーシュが、負けたぞ!」
今度は別の者が、食堂へ知らせると言った。
走り出した足音が遠ざかる。
ルイズは、つい胸を張りかけた。
ギーシュが負けた。
それだけではない。
勝ったのは、自分の使い魔なのだ。
昨日、煙の向こうに立っていた男。
机の前では、掃除などしないと言い返し、食堂では、自分の決めた場所にいてくれなかった。
その男が、七体もの人形を相手に、勝った。
だが、エメトセルクは、その声を聞いても得意そうな顔をしなかった。
むしろ、人がまだ寄ってくるのを少し面倒そうに見ている。
「ルイズ。先へ進めるか?」
「え?」
「このままでは、質問する者が増えそうでな」
彼女は、近づいてきたキュルケへ気づいた。
タバサも、その隣にいた。
「そうね。聞きたいことが、増えてしまったわ」
キュルケが言った。
以前と同じような笑顔なのに、視線は少し違っていた。
長衣の形や、背の高さばかりを見てはいない。
右手の杖。
それから、焼けた青銅と、氷の溶けた石畳へも、目が動く。
「あなたの『多少』は、あまり当てにならないみたいね」
「見ただけで全部わかったような顔をされるよりは、よかろう」
「ええ。ですから、またお話を伺いたいわ」
「今は、授業に行くの!」
ルイズが口を挟んだ。
キュルケは、彼女を見た。
「まだ、少し時間はあるでしょう?」
「教室まで歩く時間も、必要なのよ」
「あなたが呼んだ相手だものね。今日は、そういうことにしておくわ」
含みのある声に、ルイズの頬が膨らむ。
キュルケは笑い、タバサへ顔を向けた。
「行きましょうか」
少女は、すぐには動かなかった。
エメトセルクの杖を、もう一度見ていた。
朝、必要なかっただけだと言った。
では、今は、何をするために使ったのか。
杖先が向いていた場所へ、視線を戻す。
そこには、違う壊れ方をした青銅が横たわっていた。
「……タバサ?」
キュルケに呼ばれ、彼女は顔を上げた。
小さく頷く。
二人は、先に人垣の切れ目へ向かった。
ルイズも、鞄を肩へ掛け直した。
後ろでは、生徒たちが青銅の塊を覗き込もうとしていた。
エメトセルクは、その足元へ目を向けた。
「破片へは、近づかない方がいい。尖ったものも、まだ熱を持つものもある」
最寄りの少年が足を引いた。
彼は、それを確かめてから、右手の握りを緩めた。
杖の輪郭が、先端から淡い光へほどけていく。
ルイズが目を追う間に、長い柄も消えた。
大きな手だけが残る。
「……しまうのも、それなのね」
「持ち歩きたいのか?」
「わたしが持つ話じゃないわよ」
エメトセルクは僅かに肩をすくめ、彼女へ顔を戻した。
「では、案内を頼もうか」
「……本当に、授業へ戻るつもりなのね」
「何のために、朝からついてきたと思っている」
ルイズは、少し呆れた。
決闘が終わったばかりだ。
普通なら、自分がどれほどすごいことをしたか、もっと語っていてもよさそうなのに。
「自分でも、魔法は使えるくせに」
思わず口にすると、エメトセルクは眉を上げた。
「使えるものと、知らないものは、別だろう」
それは、わかった気がした。
わからないところも、まだ幾らでもあった。
彼女は、男の顔を見上げる。
何かを褒めようとして、うまく言葉にならなかった。
代わりに、背後のギーシュへ一度目を向けた。
少年は、友人から何かを聞かれ、困ったように肩を動かしている。
血を流してはいない。
そのことにも、少し安心した。
「……勝ったのは、見ていたわよ」
ルイズは、小さく言った。
エメトセルクが、こちらを見る。
「もっとも、次からは、勝手に決闘なんて引き受けないで。わたしの使い魔なんだから」
「それは、喜んでいるのか、叱っているのかね?」
「両方よ」
答えてから、ルイズは前を向いた。
人垣を抜け、学院の建物へ歩き始める。
すれ違った生徒が道を空けた。
さっきまで、決闘の場所を確かめて走っていた者たちだった。
その目が彼女を通り越し、後ろへ向く。
驚いた顔をされるのを見て、ルイズは鞄の紐を持ち直した。
自分が何かを成功させたわけではない。
朝の石は、金属にならなかった。
それでも今日は、背中を丸めて通り過ぎたくはなかった。
「……エメトセルク」
歩きながら呼ぶと、返事があった。
「何だ?」
「次の教室は、こっちよ」
「ああ。ついていこう」
その返事を聞き、ルイズは少しだけ歩幅を大きくした。
隣へ、長い脚が並んだ。
第1章 第4話 完