本塔へ続く回廊に入っても、広場の騒ぎは、まだ二人についてきていた。
「本当に、七体とも?」
背後で、誰かが言った。
「氷を使ったんだろう?」
「火もだって」
ルイズは前を向いたまま、鞄の紐を握り直した。
先ほどまで広場へ走っていた生徒が、今度は、こちらへ目を向けて足を緩める。
自分を見る者もいた。
だが、その目はすぐ、隣の男へ移っていった。
「……みんな、見てるわね」
「そうだな」
エメトセルクは、窓の向こうの塔を見ていた。
「あまり気にならないの?」
「その度に立ち止まっていては、次の教室へ着かんだろう」
もっともなことを言われ、ルイズは口を閉じた。
階段の前で、別の少年が二人へ顔を向けた。
「ルイズ。ギーシュが負けたって、本当なのか?」
「本当よ」
返事は、すぐに出た。
「わたしの使い魔が勝ったの」
言ってから、少し胸を張りすぎた気がした。
エメトセルクは何も言わない。
少年の方は、彼の空の右手を見ていた。
「杖を使わなかったって、聞いたけど」
「途中から、使っていたわよ。何でも、聞いた話だけで決めないで」
「じゃあ、どこに持ってるんだ?」
ルイズは、足を止めかけた。
つい先ほど、自分も尋ねたことだった。
あの杖は光になって消えた。
それを、そのまま話してよいものか。
迷ううちに、エメトセルクが口を開いた。
「少なくとも、階段を塞いで説明する話ではなさそうだ」
少年が、慌てて身体を引く。
ルイズは、その脇を通った。
「……わたしが呼んだんだから、わたしに聞けば何でもわかると思ってるのよ」
踊り場で言うと、エメトセルクが顔を向けた。
「お前自身も、少々そう思ってはいなかったかね?」
「何よ」
否定しようとして、やめた。
教室の扉は、もう見えている。
中へ入ると、キュルケがこちらを見た。
隣の席では、タバサが本を開いている。
「あら。もう少し、つかまっているかと思ったわ」
「誰に?」
「話を聞きたい方々に、よ」
キュルケの視線が、エメトセルクへ動いた。
「わたしも、氷や雷までお使いになるとは伺っていなかったもの」
「広場で見たばかりのものを、もう一度ここで使ってほしいという話なら断るぞ」
「あら、そこまでは。あの炎のお話には、少し興味があるけれど」
「授業が始まるのよ」
ルイズが言うと、キュルケは軽く肩をすくめた。
「はいはい。ご主人は忙しいわね」
タバサが、本から顔を上げた。
エメトセルクの右手を見てから、彼の後ろの通路へ目を向ける。
教師が、教科書を抱えて入ってきていた。
キュルケも椅子へ向き直る。
ルイズは席へ着き、鞄を開いた。
生徒たちの囁きが、ようやく、授業の支度をする音に変わっていく。
それでも後ろを振り返る目は、しばらく途絶えなかった。
エメトセルクは壁際の椅子へ腰を下ろした。
広場では、何をするかを見る者がいた。
ここでは、何者なのかを知りたがっている。
どちらへも、今すぐ答えるつもりはなかった。
彼は、教師の開いた本へ目を向けた。
*
少し前、まだ午後の授業が始まる前の学院長室では、遠見の鏡から広場の景色が消えたところだった。
鏡面に、部屋の窓と、二人の男が戻っている。
コルベールは、しばらくそこを見つめていた。
青銅が崩れる様子が、まだ目の奥に残っていた。
だが、ここにあるのは、書物をめくる音だけだった。
オスマンが、机の古書を開き直していた。
『始祖ブリミルの使い魔たち』。
傍らには、コルベールの持ってきた紙がある。
「……どれ。もう一度、こちらを見ようかの」
促され、コルベールは机の前へ戻った。
つい先ほど、ここへ来たときには、まだ人間の使い魔が魔法で戦うところを見ていなかった。
フェニアのライブラリーで見つけた図。
昨日の記憶から描いた刻印。
その二つを抱えて、相談に来たのだ。
最初は、ロングビルも部屋にいた。
コルベールが召喚の件だと切り出すと、オスマンは彼女へ席を外すよう告げた。
扉が閉まり、足音が遠ざかるのを待ってから、紙を広げた。
「契約の際、左手に刻まれた文字です」
古書の該当箇所を示す。
オスマンは、そのときも、すぐには返事をしなかった。
図と写しを並べ、文字の角と、線の向きを確かめていた。
その途中で、扉が叩かれた。
ロングビルが、外から決闘の知らせを告げたのだ。
ギーシュ・ド・グラモンと、ミス・ヴァリエールの使い魔。
コルベールが立ち上がりかけると、オスマンは、まず場の様子を確かめると言った。
ロングビルを下がらせ、壁の鏡へ杖を向ける。
映った広場では、一体の青銅が、男と向き合っていた。
そこから、七体が動かなくなるまで。
二人は、同じ鏡を見ていた。
コルベールは、古書の脇へ紙を寄せた。
「私が写した方には、記憶違いがあるかもしれません。しかし、主要な形と並びは、こちらの図によく似ています」
「うむ」
オスマンの指が、古い文字のそばで止まる。
「ガンダールヴ、か」
口にすると、書物の中だけにあった名が、部屋へ残るようだった。
始祖ブリミルに仕えた、伝説の使い魔。
あらゆる武器を使いこなしたという、その名を、コルベールも幼い頃から知っている。
それに似た文字が、昨日、一人の男の手に現れた。
「召喚されたのが人間であったことも、気になります」
コルベールは言った。
「普通の使い魔とは、確かに違います。先ほどの魔法も……」
言いかけて、鏡へ目を向けた。
もう、広場は映っていない。
オスマンは、続きを待っていた。
「……少なくとも、私の知る術の使い方ではありませんでした」
コルベールは、言い直した。
「最初の人形を包んだものも、あの杖の現れ方も。火や氷に見える現象はありましたが、それだけで、我々と同じ系統の術だとは申せません」
「そうじゃな。杖を出す前にも、術は使っておった」
「ええ。右手で指を鳴らすような仕草をした後、人形が止まりました。その後も手を動かし、破片を下ろしています」
紙の上の左手の図へ、視線を戻す。
あの場で、刻印そのものがどうなっていたかまでは見えなかった。
袖に隠れた手の甲を、鏡から読み取れたわけではない。
「ですが、ここに書かれているのは、武器を扱う力です」
コルベールは、古書の一節を指した。
「人形を砕いた魔法や、氷で動きを封じたことが、この伝承の力に当たるのかは……」
「まだ、わからん」
オスマンが続けた。
コルベールは頷いた。
確かめたいことが増えている。
図を見つけたときより、今の方が、答えを言いにくかった。
「杖も、戦うための道具ではあります。しかし、杖を使ったというだけでは」
「剣でも槍でも、自在に扱えたことにはならぬな」
老人の目が、古書から上がった。
「まして、あの魔法が昨日の契約で生じたものかどうか。我々は、契約前のあの男が術を使うところを見ておらん」
「はい。召喚と契約の際には、あのような魔法を行使していませんでした」
「使えなかったのとは、違う」
「おっしゃるとおりです」
コルベールは、椅子へ座り直した。
図の一致。
目撃した魔法。
その間を埋めるものが、まだ足りない。
「ルーンが関わっているとしても、どこからが本人の力なのか……」
「あるいは、今見た力のほとんどが、元から備わっていたものかもしれん」
オスマンは、紙を置いた。
「伝承の方に、書かれていないことがある可能性も、捨てる必要はない。じゃが、今、足りない箇所を都合よく書き足しては、調べる意味がなくなる」
コルベールは、自分が本へ挟んできた紙の端を押さえた。
伝説に似た刻印がある。
それは、確かめるべき大きな手掛かりだった。
だが、それで、目の前の人物について知ったつもりにはなれなかった。
「……本人に、伺ってみるべきでしょうか」
「いずれは、な。何を尋ねるか、こちらも考えておくべきじゃろう」
オスマンは髭を撫でた。
「あの男は、契約の際、どうしておった?」
コルベールは、昨日の草原を思い返した。
人間が現れたという騒ぎの中で、男は、教師である自分へ状況を尋ねていた。
使い魔の役割。
契約によって、何を求められるのか。
説明を聞いた後で、自ら受け入れると答えた。
「従うという言葉だけでは、納得しない方でした。ですが、話を聞こうとしない相手でもありません」
「ふむ」
「こちらの常識をご存じないことはあります。儀式の後には、生徒たちが浮いて帰る術を、私へ尋ねておいででした」
「その者が、あれだけの魔法を使う」
オスマンは、少し目を細めた。
「奇妙な話じゃのう」
面白がる声ではあった。
だが、すぐに、窓の下の広場へ視線を移す。
人影が、校舎へ戻っていくところだった。
「ギーシュ本人を傷つけずに、勝負を終えた。人形を壊したときも、破片を見物人へ飛ばしてはおらん」
「ええ。最後に凍った人形を下ろしたときも、ゆっくりと」
「自分の力を、ただ振り回したい者のやり方には見えんかった」
コルベールも、そこには頷けた。
一体目が砕けたときには、思わず身を乗り出した。
その後、破片が同じ場所へ降りていくのを見て、ようやく息をついたのだ。
「ただ、決闘の発端までは、鏡に映っておりません」
「そうじゃな。噂が大きくなる前に、何があったかは確かめねばなるまい。グラモンの息子のことも、ミス・ヴァリエールのこともな」
オスマンは、机の端の書類を寄せた。
「教師たちにも、生徒の決闘へ注意するよう伝えておこう。今度も誰も怪我をせず済むとは、限らんからの」
「承知しました」
それならば、コルベールにもするべきことがあった。
見たことを整理すること。
見ていない発端を、当事者から確かめること。
刻印について、さらに資料を探すこと。
古書の名を、ただ広めることではなかった。
「それと、このルーンの件は、しばらく内密にしておくのじゃ」
老人の声が低くなる。
コルベールは、顔を上げた。
「……王室への報告は、保留ということでしょうか」
「まだ、あの者をガンダールヴだと報告することはできん」
オスマンは、図を伏せなかった。
そこへ書かれた線を、もう一度見た。
「珍しい人間の使い魔が、珍しい魔法を使った。そこまでは、広場にいた者も知っておる。じゃが、伝説の名を付ければ、同じ話では済まなくなる」
「宮廷が、関心を持つと」
「関心だけならよいがの。王宮には、戦を望む者もおる」
コルベールの指が止まった。
「真偽を確かめるより先に、どこへ連れてゆけば役に立つかを考える者が、出てこんとも限らん。召喚した娘も、無関係ではいられまい」
オスマンは、背もたれへ身を預けた。
「我々が知らぬことを、名前一つで解決したことにはできんよ」
しばらく、二人とも話さなかった。
窓の外で、午後の鐘が鳴る。
コルベールは、やがて頷いた。
「まずは、こちらで確かめます。本人へ何かを強いることも、いたしません」
「うむ。使い魔だからという理由で、話を聞かずに済ませるわけにもいくまい」
オスマンは、今度は少し口元を緩めた。
「昨日の契約からして、そういう相手ではなさそうじゃしな」
コルベールも、僅かに息を吐いた。
それは確かに、よくわかっていた。
写しと本を、机の上で揃える。
ガンダールヴの可能性。
そこへ書き加えるには、まだ慎重であるべき言葉だった。
彼は図を確かめられるよう紙を挟み、古書を閉じた。
*
夕食を終えて部屋へ戻ると、ルイズは鞄から錬金の教科書を出した。
朝、石へ向けて唱えた呪文が、そこにある。
いつもなら、読み直すのは失敗した箇所を探すためだった。
今日は、余白のある紙を一枚寄せた。
教卓の上にあった石。
その周りへ置かれていたもの。
思い出せるところから、書いてみる。
二行ほどで、ペンが止まった。
力を込める前に、何を考えていたか。
どの瞬間から、いつもと違っていたか。
書こうとすると、うまく言葉にならなかった。
「……そこは、そんなに見つめても埋まらんぞ」
窓際から声がした。
エメトセルクが、椅子に座っている。
「わかってるわよ」
ルイズは、紙へ目を戻した。
「前のときも思い出しておくって、言ったでしょう」
「ああ」
「前は、もっと小さかった気がするの。爆発が。でも、使った呪文は、同じだったはずで……」
そこで、また止まる。
彼は続きを急かさなかった。
ルイズは、確かなものだけを一つ書いた。
今朝は、石を金属に変えようとした。
それで、石も教卓も壊れた。
そこは、覚えている。
「……あなたは」
ペンを置いて、顔を向ける。
「もう、何かわかったの?」
エメトセルクは、左手を持ち上げていた。
甲にある文字は、もう光っていない。
「わかったことと、まだ決められないことがある」
「たとえば?」
「最初の人形を、あそこまで壊すつもりはなかった」
ルイズは、椅子へ向き直った。
広場で聞いた、少々力が入りすぎたという言葉を思い出す。
あれは、ただの皮肉ではなかったらしい。
「……足を止めるだけで、よかったってこと?」
「ああ」
「朝の魔法も?」
「近くの者へ飛ぶ破片を止めるために使った。だが、面の強さも、広がりも、考えていたものとは違った」
ルイズは、自分の書いた紙を見た。
望んだものとは違う結果。
それなら、わかる気がした。
だが、自分の爆発と同じだと言うのも、違う気がする。
彼は、飛んだものを留め、落ちるものを下ろしていた。
その後の氷も、雷も、観客へは向けなかった。
「だったら、杖を使った方は?」
「道具を変えれば、何もかも元どおり、とはいかなかったな」
エメトセルクは、甲の文字へ目を戻した。
術をまとめるときの、知っている手応え。
そこへ、別の力が加わる。
守る面にも、縛る力にも、氷や炎にも。
ただ、同じだけ増えたと考えればよいものではなかった。
彼は、まだ静かなままの文字を見た。
熱と変化が重なったことは、何度か確かめた。
何が、どこまで関わっているか。
それは、手を眺めているだけでは決まらない。
「……その文字のせいなの?」
ルイズが尋ねた。
「疑う理由はある。だが、まだ答えにはできん」
左手が下りる。
彼は、何かを唱えたり、指を鳴らしたりはしなかった。
ルイズも、自分の杖へは手を伸ばさない。
机の端に置いたまま、教科書を閉じた。
「図書館は、明日の午前の授業が終わってから案内するわ」
「頼むとしよう」
「午前の授業の後なら、少し時間があるはずだから」
言ってから、ルイズは紙を本へ挟んだ。
「……使い魔のことを調べるだけじゃないわよ。わたしの方も、見たい本があるんだからね」
「承知している。私の文字だけを探して、帰るつもりはないさ」
ルイズは、少しだけ顔を上げた。
エメトセルクは、もう窓の外を見ていた。
彼に見えないところで、本を鞄へしまう。
「だったら、明日も勝手に、どこかへ行かないでよ」
「行き先は、今決めたばかりだが」
「……そうね」
つい、いつもの言い方になった。
それを聞いて、彼の口元が僅かに動く。
ルイズは立ち上がり、寝間着を取りに行った。
朝の爆発。
教室の片付け。
昼の決闘。
思い返すと、もう半日くらい余分に過ごした気がする。
エメトセルクが窓へ向き直っている間に着替え、ルイズはベッドへ入った。
彼の椅子は、昨夜と同じ窓際にある。
背へ掛けてあった毛布を、本人が膝へ引いた。
「……おやすみ」
「ああ」
短い返事を聞き、ルイズは燭台の火を消した。
暗くなった部屋に、二つの月の光が残る。
しばらくは、鞄へしまった紙のことを考えていた。
書き残したことが、ほかにもあったはずだ。
だが、目を閉じているうち、机も、箒も、青銅も、少しずつ遠ざかっていった。
*
最初に感じたのは、風だった。
温かい。
花の香りを含んだ風が、頬を撫でていく。
ルイズは、ゆっくり目を開けた。
青い空があった。
見上げていたはずの天蓋は、どこにもない。
白い雲の下へ、緑の大地が広がっている。
足元には、白い石の道。
その脇を澄んだ水が流れ、小さな花が、水面へ影を落としていた。
「……何、ここ」
ルイズは振り返った。
寝台も、窓もなかった。
あるのは、広い庭園と、遠くの白い建物だけだった。
歩き出しかけ、足を止める。
その建物の向こうにも、大地があった。
空の途中に。
雲の上へ浮かぶ島が、いくつも並んでいる。
それぞれに緑があり、細い塔や、不思議な形の構造物が立っていた。
「……浮いてる」
アルビオンの浮遊大陸なら、知っている。
だが、ここがそうだとは、すぐには思えなかった。
見たことのないものが、多すぎる。
鮮やかな羽の鳥が、水の上を滑るように飛んだ。
その向こうを、首の長い獣がゆっくり歩いている。
草の間には、花びらに似た翼を持つ、小さな生き物もいた。
風を受けて飛び上がり、すぐ近くへ降りる。
ルイズは、少し身を引いた。
だが、生き物は彼女を気にした様子もなく、葉の陰へ隠れた。
「夢、よね……?」
自分は、学院の部屋で眠ったはずだった。
そう思えば、辻褄は合う。
それなのに、水の流れる音まで、こんなにはっきり聞こえる。
ルイズは、石の道の先を見た。
人が歩いていた。
黒い、ゆったりとした長衣。
顔へ仮面を掛けた者もいる。
生きている人間の手が袖から出て、話しながら、庭園の一角を示していた。
背は、皆、ずいぶん高い。
ルイズは、その姿へ見覚えがあると思った。
昨日、草原に立っていた男も、あんな服を着ていた。
「……まったく。少しは、真っ直ぐ目的の場所へ向かえないものかね」
声がした。
振り向く。
黒い長衣の男が、道を歩いてきていた。
銀灰色の髪。
金色の目。
眉を寄せ、隣の相手を見ている。
「エメトセルク?」
ルイズは、思わず呼んだ。
男は、顔を上げなかった。
その隣で、別の男が笑っていた。
同じように背が高く、黒い服を纏っている。
穏やかな顔立ちに、楽しそうな目。
彼は、歩く速さを変えずに答えた。
「道は、合っているよ。せっかくエルピスまで来たんだ。景色を見ながらでも、いいじゃないか」
「私が見に来たのは、ヘルメスの仕事ぶりだ。庭の美しさを褒めるためではない」
「ああ。その仕事が、こうして目の前にあるとも言えるけれどね」
男の手が、緑の広がりへ向いた。
エメトセルクは、そちらを一度見た。
「エルピスの所長としての仕事だけで、ファダニエルの座を任せてよいか、決められるわけではあるまい」
「次の十四人委員会の一員となるかもしれないんだものね。君が厳しく見るのも、わかっているさ」
「ならば、案内も、そのつもりで頼みたいものだな」
「おや。しているつもりだよ、ハーデス」
ルイズは、眉を寄せた。
誰のことだろう。
目の前には、二人しかいない。
呼ばれた方は、その名を訂正することもなく、小さく息を吐いていた。
「……ちょっと。エメトセルク!」
ルイズは、二人へ駆け寄った。
「聞こえてるんでしょう?」
声は、水音に混じって消えた。
男は隣の相手へ、また何か言いかけている。
ルイズは、その袖へ手を伸ばした。
指が、黒い布へ届く。
そのまま、すり抜けた。
「……え?」
手を引き、自分の指を見る。
何も触れた感じがしなかった。
袖も、腕も、そこにあるのに。
二人は、ルイズのそばを通り過ぎていく。
彼女にぶつかることも、避けることもなかった。
ルイズは、その場で口を閉じた。
無視しているのではない。
こちらが、見えていないらしい。
声も、聞こえていない。
夢なら、そういうこともあるのだろうか。
わからないまま、二人の後を追った。
道の脇で、小さな獣が立ち止まっていた。
四本の脚。
背には、花のような器官がある。
それが揺れるたび、淡い光の粒が、草の上へ落ちていた。
穏やかな男が、足を緩める。
「これは、どう思う?」
「背のものが、目立ちすぎるな」
「美しくはあるだろう?」
「目立つことが、あれ自身の役に立つならな」
エメトセルクは、獣の動きを見ていた。
「これだけ光を散らして、どれほど長く動けるのか。維持に使うエーテルも、少なくはなさそうだ」
「そこは、観察の続きが必要だね」
男は、屈んで獣へ顔を寄せた。
触れようとはしない。
草を踏み分けて離れていくのを、そのまま見送っている。
「申請されたイデアを見るだけでは、わからないこともある。何を食べ、ほかの生き物と、どう暮らすか。ここでは、そういうところまで試しているんだ」
「形にした時点で、よしとするわけにはいかんからな」
「そうとも。管理局から送り出した案が、ここでどんな結果になるか。ワタシにも、気になることは多いよ」
「創造物管理局の局長なら、当然だろう」
エメトセルクの返事に、男は顔を上げた。
「君に、そんなに期待されていたとはねえ」
「仕事の話をしている」
「もちろん。今も、仕事の話だよ」
軽く返し、彼は立ち上がった。
ルイズは、獣の消えた草むらを見た。
イデア。
エーテル。
聞き慣れない言葉が続く。
だが、形にした、生き物を試す、と言っていた。
あの獣も、誰かが作ったということなのだろうか。
石を金属へ変えるのとは、まるで違う。
しかも、二人にとっては、できるかどうかを驚く話ではないらしかった。
「……そんな魔法が、あるの?」
尋ねても、返事はなかった。
エメトセルクが、少し先で足を止めた。
獣の背にあった光を、まだ目で追っている。
「美しさだけで、済むものではない。創るなら、その存在が何を必要とし、何へ影響するかまで考えるべきだ」
穏やかな男は、今度は笑わなかった。
「うん。だから、ヘルメスの仕事を見てほしいと思っているよ」
返事の後に、短い間があった。
「君が知りたいのは、問題があるときに、彼がどう判断するかでもあるだろう?」
「ああ」
エメトセルクは、静かに答えた。
「案の数だけを見に来たのではない」
男が頷く。
それから、二人はまた歩き始めた。
ルイズも、少し遅れて続いた。
さっき聞いた名前を、頭の中で辿る。
ヘルメスという人の、仕事を見に来た。
ファダニエルという座に、任せてよいか。
それがどういう立場なのかまでは、わからない。
だが、ただ、庭を見に来た二人ではないのだ。
道の先で、黒衣の一人が、二人へ会釈した。
彼らも足を止め、庭園の一角を見ながら話している。
穏やかな男が尋ね、相手が指を折って答えた。
エメトセルクは黙って聞き、最後に一つ問い返す。
ルイズは、その横顔を見上げていた。
学院の先生へ話を聞いていたときと、少し似ている。
知りたいことがあると、ただ不機嫌なだけではなくなる。
それに、この場所では、向こうから彼へ頭を下げる者がいる。
かつては、貴族に近い立場にいた。
昨日、そう聞いた。
本当なら、こういう姿だったのだろうか。
けれど、それも、夢の中で考えていることにすぎなかった。
二人が歩き出す。
道の先が、少しずつ高くなっていた。
「ヒュトロダエウス」
エメトセルクが、隣の男を呼んだ。
ルイズは顔を上げた。
長い、不思議な名前だった。
呼ばれた男は、ごく普通に振り返る。
「何だい?」
「まさか、この後も寄り道を増やすつもりではないだろうな」
「君が、あの生き物を見たいと言わなければね」
「先に足を止めたのは、お前だ」
「でも、最後まで見ていたのは、君だった」
エメトセルクは、すぐには答えなかった。
ヒュトロダエウスの口元へ、笑みが戻る。
「ほら。案内は、役に立っているだろう?」
「そういうことにしておけば、気が済むのかね」
「君が認めてくれれば、なお嬉しいけれど」
ルイズは、思わず口元を押さえた。
何だか、おかしかった。
自分なら、もう言い返していたかもしれない。
だが、隣の男は、言い返されるところまで楽しんでいるようだった。
そして、エメトセルクも、やめろと言う割には、相手を置いて歩いていかない。
二人の足取りは、同じ速さで続いていた。
*
坂の上で、庭園が開けた。
二人が足を止めたので、ルイズも、その少し後ろへ立つ。
眼下には、水の流れが見えた。
花々の間を抜け、白い道のそばを通り、木々の陰へ続いている。
その先に、浮いた大地。
こちらの島の縁からも、遠くの緑からも、鳥が飛び立っていた。
あんなところを、歩いてみたい。
そう思いながら、ルイズは足元を見た。
自分の意思で来た場所でもない。
あの二人が、次にどこへ行くのかさえわからなかった。
「……いい場所だね」
ヒュトロダエウスが言った。
エメトセルクは、すぐには答えなかった。
風に長衣の裾が揺れる。
草の上を、小さな影が走っていった。
やがて、彼も景色へ顔を向けたまま、口を開いた。
「……悪くはない」
「おや。素直な感想だ」
「わざわざ聞き直すな」
「聞き直してはいないよ。珍しいから、覚えておこうと思ってね」
エメトセルクが、隣を見た。
ヒュトロダエウスは、まだ楽しそうだった。
その顔をしばらく見てから、彼は、呆れたように目を戻した。
「景色を褒めるより、こちらをからかう方が大事か」
「両方とも、できるからね」
「欲張りな奴だ」
声には、苛立ちがなかった。
ルイズは、そっと顔を上げた。
エメトセルクの口元が、ほんの少し緩んでいる。
誰かを言い負かしたときの笑いとも、こちらが言葉に詰まるのを見たときとも、少し違った。
隣の男が何か言う。
彼が、短く返す。
それだけで、会話が途切れずに続いている。
ルイズが昨日から知っている彼は、何かを尋ねられて答えることが多かった。
どこから来たのか。
何ができるのか。
どうして、言うことを聞かないのか。
ここでは、二人とも、そんなことを確かめなくても話せるらしい。
「……友達、なのね」
小さく言った。
聞こえないことは、もうわかっていた。
それでも、二人を見ていると、そう口にしてみたくなった。
ヒュトロダエウスが庭の一角を指した。
エメトセルクは、それにつられて顔を向ける。
何を見つけたのか、ルイズも見たかった。
背伸びをする。
そのとき、足元の白い道が、薄くなった。
「……あれ?」
草の輪郭が、風の中へほどけていく。
遠くの島も、雲も、白く霞んだ。
ルイズは、前へ手を伸ばしかけた。
だが、その先にいる二人は、こちらを振り返らない。
並んでいた。
同じものを眺め、まだ、話していた。
声の最後までは、聞き取れなかった。
*
ルイズは、目を開けた。
見慣れた天蓋があった。
寝台の縁から垂れた布。
枕の下の、少し冷えた感触。
身体を起こすと、毛布が膝へ落ちた。
窓の外は、まだ暗い。
空の端だけが、薄く明るくなり始めていた。
「……夢」
口にしてみる。
部屋の空気は、あの庭園より冷たかった。
だが、花の匂いは、まだ思い出せる。
白い道の曲がり方も、空に浮いていた大地も。
あの、背に花を乗せたような獣も。
ルイズは、額へ手を添えた。
あんなものを、自分はどこかで見たことがあっただろうか。
本に、描いてあったのかもしれない。
けれど、思い当たる頁はなかった。
エルピス。
男が、そう呼んでいた。
その名前と一緒に、二人の顔が浮かぶ。
ハーデスと、ヒュトロダエウス。
聞き慣れない名なのに、妙にはっきり覚えていた。
ルイズは、窓際へ顔を向けた。
エメトセルクが、椅子で目を閉じている。
膝には、召喚した日に渡した毛布。
腕は、毛布の上へ下りていた。
夢の中で見た顔と、同じだった。
ただ、ここには、隣で笑う男がいない。
「……ねえ」
呼びかけようとして、声を止めた。
何と尋ねればよいのか。
あなたは、違う名前で呼ばれていたの?
あの場所を、知っているの?
言葉は、幾つも浮かんだ。
だが、そんなことを尋ねれば、どうしてそう思ったのかも話さなければならない。
自分が見た、夢のことを。
前に聞いた故郷の話を、自分が勝手に景色へ変えただけかもしれないのに。
ルイズは、毛布の端を引き寄せた。
「……何か、用か?」
窓際から声がした。
肩が跳ねる。
エメトセルクが、目を開けていた。
「起きてたの?」
「今、起きた。そんなところで座っていて、寒くはないのかね」
ルイズは、自分の肩へ毛布を掛けた。
「……平気よ」
「ならばよいが。まだ、鐘も鳴っておらんぞ」
彼は、窓の外へ目を向けた。
いつもの声だった。
少し面倒そうで、こちらが何をしているのか、わからないという顔をしている。
庭園の声と、重なった。
隣の男は、それを聞いて、楽しそうに返していた。
ルイズは、毛布を押さえる手へ目を落とした。
「ねえ、エメトセルク」
彼が、こちらを見る。
「今度は、何だ?」
「あなたって……」
途中で止まった。
その先へ、名前を続ける気にはなれなかった。
エメトセルクが、片眉を上げる。
急かすほどではない。
ただ、聞こえるところまで言えという顔だった。
ルイズは、一度、息を吸った。
「……友達、いるの?」
返事は、すぐには来なかった。
風が窓の外の枝を揺らす。
その音に気づくほどの間があってから、エメトセルクが口を開いた。
「……随分と、唐突な質問だな」
「べ、別に。ちょっと、気になっただけよ」
「そうか」
彼は、椅子の背へ静かに身を預けた。
ルイズは、次に何を言われるのかと思った。
自分にはいるのか、と聞き返されるのか。
余計なことを考えていないで眠れ、と言われるのか。
だが、彼は、どちらも言わなかった。
少しだけ目を細める。
こちらを見ていながら、何かを思い出したようにも見えた。
「……いたとも」
静かな返答だった。
「昔はな」
ルイズは、唇を僅かに開いた。
「……昔?」
「ああ」
それ以上の言葉は、続かなかった。
ただ、答えるのが不快だったという声でもない。
エメトセルクは窓へ目を戻し、膝の毛布の端を直した。
ルイズは、その手を見ていた。
夢では、隣の男へ何かを示していた。
そのときも、同じように大きな手だった。
本当に、あの人が友達だったのか。
それは、わからない。
けれど、友人がいたという言葉は、今、本人から聞いた。
故郷は、もう存在しない。
初めてこの部屋で聞いたことまで、思い出した。
なくなった国と、昔の友人。
二つが、どうつながるのかは知らない。
その友人が、今どこでどうしているのかも。
ルイズは、次の質問を口へ出さなかった。
「……そう」
少し間を置いて、答えた。
エメトセルクが、もう一度彼女を見る。
「それが、聞きたかったのか?」
「……うん」
頷いてから、ルイズは小さく首を振った。
「変なこと聞いたわね」
「まったくだ」
返事は、いつもの調子に近かった。
答えてくれたことへ、何か言おうとして、うまく見つからなかった。
「……もう少し、寝るわ」
「ああ」
彼は頷いた。
「明日――もう今日か。本を読む間に眠り込まれては、案内役がいなくなる」
「そんなこと、しないわよ」
「では、そのためにも休みたまえ」
言い返す代わりに、ルイズは枕へ頭を戻した。
毛布を肩まで引く。
エメトセルクも、また椅子へ身体を預けていた。
ルイズは、目を閉じた。
青空と、緑の大地。
白い道の先で、二人の男が並んでいる。
あの場所が本当にあったのか、今もわからない。
だが、思い出すのは、杖の現れる光でも、人形を砕いた魔法でもなかった。
誰かの言葉を待ち、呆れたように返しながら、その隣へ立っていた顔だった。
窓の方で、椅子が僅かに鳴った。
ルイズは一度そちらを見てから、毛布の端を握る手を、ゆっくり緩めた。
第1章 第5話 完