ゼロの使い魔 ~星海より来たりし者~   作:すらはん

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第5話「失われた楽園」

本塔へ続く回廊に入っても、広場の騒ぎは、まだ二人についてきていた。

 

「本当に、七体とも?」

 

背後で、誰かが言った。

 

「氷を使ったんだろう?」

 

「火もだって」

 

ルイズは前を向いたまま、鞄の紐を握り直した。

 

先ほどまで広場へ走っていた生徒が、今度は、こちらへ目を向けて足を緩める。

 

自分を見る者もいた。

 

だが、その目はすぐ、隣の男へ移っていった。

 

「……みんな、見てるわね」

 

「そうだな」

 

エメトセルクは、窓の向こうの塔を見ていた。

 

「あまり気にならないの?」

 

「その度に立ち止まっていては、次の教室へ着かんだろう」

 

もっともなことを言われ、ルイズは口を閉じた。

 

階段の前で、別の少年が二人へ顔を向けた。

 

「ルイズ。ギーシュが負けたって、本当なのか?」

 

「本当よ」

 

返事は、すぐに出た。

 

「わたしの使い魔が勝ったの」

 

言ってから、少し胸を張りすぎた気がした。

 

エメトセルクは何も言わない。

 

少年の方は、彼の空の右手を見ていた。

 

「杖を使わなかったって、聞いたけど」

 

「途中から、使っていたわよ。何でも、聞いた話だけで決めないで」

 

「じゃあ、どこに持ってるんだ?」

 

ルイズは、足を止めかけた。

 

つい先ほど、自分も尋ねたことだった。

 

あの杖は光になって消えた。

 

それを、そのまま話してよいものか。

 

迷ううちに、エメトセルクが口を開いた。

 

「少なくとも、階段を塞いで説明する話ではなさそうだ」

 

少年が、慌てて身体を引く。

 

ルイズは、その脇を通った。

 

「……わたしが呼んだんだから、わたしに聞けば何でもわかると思ってるのよ」

 

踊り場で言うと、エメトセルクが顔を向けた。

 

「お前自身も、少々そう思ってはいなかったかね?」

 

「何よ」

 

否定しようとして、やめた。

 

教室の扉は、もう見えている。

 

中へ入ると、キュルケがこちらを見た。

 

隣の席では、タバサが本を開いている。

 

「あら。もう少し、つかまっているかと思ったわ」

 

「誰に?」

 

「話を聞きたい方々に、よ」

 

キュルケの視線が、エメトセルクへ動いた。

 

「わたしも、氷や雷までお使いになるとは伺っていなかったもの」

 

「広場で見たばかりのものを、もう一度ここで使ってほしいという話なら断るぞ」

 

「あら、そこまでは。あの炎のお話には、少し興味があるけれど」

 

「授業が始まるのよ」

 

ルイズが言うと、キュルケは軽く肩をすくめた。

 

「はいはい。ご主人は忙しいわね」

 

タバサが、本から顔を上げた。

 

エメトセルクの右手を見てから、彼の後ろの通路へ目を向ける。

 

教師が、教科書を抱えて入ってきていた。

 

キュルケも椅子へ向き直る。

 

ルイズは席へ着き、鞄を開いた。

 

生徒たちの囁きが、ようやく、授業の支度をする音に変わっていく。

 

それでも後ろを振り返る目は、しばらく途絶えなかった。

 

エメトセルクは壁際の椅子へ腰を下ろした。

 

広場では、何をするかを見る者がいた。

 

ここでは、何者なのかを知りたがっている。

 

どちらへも、今すぐ答えるつもりはなかった。

 

彼は、教師の開いた本へ目を向けた。

 

*

 

少し前、まだ午後の授業が始まる前の学院長室では、遠見の鏡から広場の景色が消えたところだった。

 

鏡面に、部屋の窓と、二人の男が戻っている。

 

コルベールは、しばらくそこを見つめていた。

 

青銅が崩れる様子が、まだ目の奥に残っていた。

 

だが、ここにあるのは、書物をめくる音だけだった。

 

オスマンが、机の古書を開き直していた。

 

『始祖ブリミルの使い魔たち』。

 

傍らには、コルベールの持ってきた紙がある。

 

「……どれ。もう一度、こちらを見ようかの」

 

促され、コルベールは机の前へ戻った。

 

つい先ほど、ここへ来たときには、まだ人間の使い魔が魔法で戦うところを見ていなかった。

 

フェニアのライブラリーで見つけた図。

 

昨日の記憶から描いた刻印。

 

その二つを抱えて、相談に来たのだ。

 

最初は、ロングビルも部屋にいた。

 

コルベールが召喚の件だと切り出すと、オスマンは彼女へ席を外すよう告げた。

 

扉が閉まり、足音が遠ざかるのを待ってから、紙を広げた。

 

「契約の際、左手に刻まれた文字です」

 

古書の該当箇所を示す。

 

オスマンは、そのときも、すぐには返事をしなかった。

 

図と写しを並べ、文字の角と、線の向きを確かめていた。

 

その途中で、扉が叩かれた。

 

ロングビルが、外から決闘の知らせを告げたのだ。

 

ギーシュ・ド・グラモンと、ミス・ヴァリエールの使い魔。

 

コルベールが立ち上がりかけると、オスマンは、まず場の様子を確かめると言った。

 

ロングビルを下がらせ、壁の鏡へ杖を向ける。

 

映った広場では、一体の青銅が、男と向き合っていた。

 

そこから、七体が動かなくなるまで。

 

二人は、同じ鏡を見ていた。

 

コルベールは、古書の脇へ紙を寄せた。

 

「私が写した方には、記憶違いがあるかもしれません。しかし、主要な形と並びは、こちらの図によく似ています」

 

「うむ」

 

オスマンの指が、古い文字のそばで止まる。

 

「ガンダールヴ、か」

 

口にすると、書物の中だけにあった名が、部屋へ残るようだった。

 

始祖ブリミルに仕えた、伝説の使い魔。

 

あらゆる武器を使いこなしたという、その名を、コルベールも幼い頃から知っている。

 

それに似た文字が、昨日、一人の男の手に現れた。

 

「召喚されたのが人間であったことも、気になります」

 

コルベールは言った。

 

「普通の使い魔とは、確かに違います。先ほどの魔法も……」

 

言いかけて、鏡へ目を向けた。

 

もう、広場は映っていない。

 

オスマンは、続きを待っていた。

 

「……少なくとも、私の知る術の使い方ではありませんでした」

 

コルベールは、言い直した。

 

「最初の人形を包んだものも、あの杖の現れ方も。火や氷に見える現象はありましたが、それだけで、我々と同じ系統の術だとは申せません」

 

「そうじゃな。杖を出す前にも、術は使っておった」

 

「ええ。右手で指を鳴らすような仕草をした後、人形が止まりました。その後も手を動かし、破片を下ろしています」

 

紙の上の左手の図へ、視線を戻す。

 

あの場で、刻印そのものがどうなっていたかまでは見えなかった。

 

袖に隠れた手の甲を、鏡から読み取れたわけではない。

 

「ですが、ここに書かれているのは、武器を扱う力です」

 

コルベールは、古書の一節を指した。

 

「人形を砕いた魔法や、氷で動きを封じたことが、この伝承の力に当たるのかは……」

 

「まだ、わからん」

 

オスマンが続けた。

 

コルベールは頷いた。

 

確かめたいことが増えている。

 

図を見つけたときより、今の方が、答えを言いにくかった。

 

「杖も、戦うための道具ではあります。しかし、杖を使ったというだけでは」

 

「剣でも槍でも、自在に扱えたことにはならぬな」

 

老人の目が、古書から上がった。

 

「まして、あの魔法が昨日の契約で生じたものかどうか。我々は、契約前のあの男が術を使うところを見ておらん」

 

「はい。召喚と契約の際には、あのような魔法を行使していませんでした」

 

「使えなかったのとは、違う」

 

「おっしゃるとおりです」

 

コルベールは、椅子へ座り直した。

 

図の一致。

 

目撃した魔法。

 

その間を埋めるものが、まだ足りない。

 

「ルーンが関わっているとしても、どこからが本人の力なのか……」

 

「あるいは、今見た力のほとんどが、元から備わっていたものかもしれん」

 

オスマンは、紙を置いた。

 

「伝承の方に、書かれていないことがある可能性も、捨てる必要はない。じゃが、今、足りない箇所を都合よく書き足しては、調べる意味がなくなる」

 

コルベールは、自分が本へ挟んできた紙の端を押さえた。

 

伝説に似た刻印がある。

 

それは、確かめるべき大きな手掛かりだった。

 

だが、それで、目の前の人物について知ったつもりにはなれなかった。

 

「……本人に、伺ってみるべきでしょうか」

 

「いずれは、な。何を尋ねるか、こちらも考えておくべきじゃろう」

 

オスマンは髭を撫でた。

 

「あの男は、契約の際、どうしておった?」

 

コルベールは、昨日の草原を思い返した。

 

人間が現れたという騒ぎの中で、男は、教師である自分へ状況を尋ねていた。

 

使い魔の役割。

 

契約によって、何を求められるのか。

 

説明を聞いた後で、自ら受け入れると答えた。

 

「従うという言葉だけでは、納得しない方でした。ですが、話を聞こうとしない相手でもありません」

 

「ふむ」

 

「こちらの常識をご存じないことはあります。儀式の後には、生徒たちが浮いて帰る術を、私へ尋ねておいででした」

 

「その者が、あれだけの魔法を使う」

 

オスマンは、少し目を細めた。

 

「奇妙な話じゃのう」

 

面白がる声ではあった。

 

だが、すぐに、窓の下の広場へ視線を移す。

 

人影が、校舎へ戻っていくところだった。

 

「ギーシュ本人を傷つけずに、勝負を終えた。人形を壊したときも、破片を見物人へ飛ばしてはおらん」

 

「ええ。最後に凍った人形を下ろしたときも、ゆっくりと」

 

「自分の力を、ただ振り回したい者のやり方には見えんかった」

 

コルベールも、そこには頷けた。

 

一体目が砕けたときには、思わず身を乗り出した。

 

その後、破片が同じ場所へ降りていくのを見て、ようやく息をついたのだ。

 

「ただ、決闘の発端までは、鏡に映っておりません」

 

「そうじゃな。噂が大きくなる前に、何があったかは確かめねばなるまい。グラモンの息子のことも、ミス・ヴァリエールのこともな」

 

オスマンは、机の端の書類を寄せた。

 

「教師たちにも、生徒の決闘へ注意するよう伝えておこう。今度も誰も怪我をせず済むとは、限らんからの」

 

「承知しました」

 

それならば、コルベールにもするべきことがあった。

 

見たことを整理すること。

 

見ていない発端を、当事者から確かめること。

 

刻印について、さらに資料を探すこと。

 

古書の名を、ただ広めることではなかった。

 

「それと、このルーンの件は、しばらく内密にしておくのじゃ」

 

老人の声が低くなる。

 

コルベールは、顔を上げた。

 

「……王室への報告は、保留ということでしょうか」

 

「まだ、あの者をガンダールヴだと報告することはできん」

 

オスマンは、図を伏せなかった。

 

そこへ書かれた線を、もう一度見た。

 

「珍しい人間の使い魔が、珍しい魔法を使った。そこまでは、広場にいた者も知っておる。じゃが、伝説の名を付ければ、同じ話では済まなくなる」

 

「宮廷が、関心を持つと」

 

「関心だけならよいがの。王宮には、戦を望む者もおる」

 

コルベールの指が止まった。

 

「真偽を確かめるより先に、どこへ連れてゆけば役に立つかを考える者が、出てこんとも限らん。召喚した娘も、無関係ではいられまい」

 

オスマンは、背もたれへ身を預けた。

 

「我々が知らぬことを、名前一つで解決したことにはできんよ」

 

しばらく、二人とも話さなかった。

 

窓の外で、午後の鐘が鳴る。

 

コルベールは、やがて頷いた。

 

「まずは、こちらで確かめます。本人へ何かを強いることも、いたしません」

 

「うむ。使い魔だからという理由で、話を聞かずに済ませるわけにもいくまい」

 

オスマンは、今度は少し口元を緩めた。

 

「昨日の契約からして、そういう相手ではなさそうじゃしな」

 

コルベールも、僅かに息を吐いた。

 

それは確かに、よくわかっていた。

 

写しと本を、机の上で揃える。

 

ガンダールヴの可能性。

 

そこへ書き加えるには、まだ慎重であるべき言葉だった。

 

彼は図を確かめられるよう紙を挟み、古書を閉じた。

 

*

 

夕食を終えて部屋へ戻ると、ルイズは鞄から錬金の教科書を出した。

 

朝、石へ向けて唱えた呪文が、そこにある。

 

いつもなら、読み直すのは失敗した箇所を探すためだった。

 

今日は、余白のある紙を一枚寄せた。

 

教卓の上にあった石。

 

その周りへ置かれていたもの。

 

思い出せるところから、書いてみる。

 

二行ほどで、ペンが止まった。

 

力を込める前に、何を考えていたか。

 

どの瞬間から、いつもと違っていたか。

 

書こうとすると、うまく言葉にならなかった。

 

「……そこは、そんなに見つめても埋まらんぞ」

 

窓際から声がした。

 

エメトセルクが、椅子に座っている。

 

「わかってるわよ」

 

ルイズは、紙へ目を戻した。

 

「前のときも思い出しておくって、言ったでしょう」

 

「ああ」

 

「前は、もっと小さかった気がするの。爆発が。でも、使った呪文は、同じだったはずで……」

 

そこで、また止まる。

 

彼は続きを急かさなかった。

 

ルイズは、確かなものだけを一つ書いた。

 

今朝は、石を金属に変えようとした。

 

それで、石も教卓も壊れた。

 

そこは、覚えている。

 

「……あなたは」

 

ペンを置いて、顔を向ける。

 

「もう、何かわかったの?」

 

エメトセルクは、左手を持ち上げていた。

 

甲にある文字は、もう光っていない。

 

「わかったことと、まだ決められないことがある」

 

「たとえば?」

 

「最初の人形を、あそこまで壊すつもりはなかった」

 

ルイズは、椅子へ向き直った。

 

広場で聞いた、少々力が入りすぎたという言葉を思い出す。

 

あれは、ただの皮肉ではなかったらしい。

 

「……足を止めるだけで、よかったってこと?」

 

「ああ」

 

「朝の魔法も?」

 

「近くの者へ飛ぶ破片を止めるために使った。だが、面の強さも、広がりも、考えていたものとは違った」

 

ルイズは、自分の書いた紙を見た。

 

望んだものとは違う結果。

 

それなら、わかる気がした。

 

だが、自分の爆発と同じだと言うのも、違う気がする。

 

彼は、飛んだものを留め、落ちるものを下ろしていた。

 

その後の氷も、雷も、観客へは向けなかった。

 

「だったら、杖を使った方は?」

 

「道具を変えれば、何もかも元どおり、とはいかなかったな」

 

エメトセルクは、甲の文字へ目を戻した。

 

術をまとめるときの、知っている手応え。

 

そこへ、別の力が加わる。

 

守る面にも、縛る力にも、氷や炎にも。

 

ただ、同じだけ増えたと考えればよいものではなかった。

 

彼は、まだ静かなままの文字を見た。

 

熱と変化が重なったことは、何度か確かめた。

 

何が、どこまで関わっているか。

 

それは、手を眺めているだけでは決まらない。

 

「……その文字のせいなの?」

 

ルイズが尋ねた。

 

「疑う理由はある。だが、まだ答えにはできん」

 

左手が下りる。

 

彼は、何かを唱えたり、指を鳴らしたりはしなかった。

 

ルイズも、自分の杖へは手を伸ばさない。

 

机の端に置いたまま、教科書を閉じた。

 

「図書館は、明日の午前の授業が終わってから案内するわ」

 

「頼むとしよう」

 

「午前の授業の後なら、少し時間があるはずだから」

 

言ってから、ルイズは紙を本へ挟んだ。

 

「……使い魔のことを調べるだけじゃないわよ。わたしの方も、見たい本があるんだからね」

 

「承知している。私の文字だけを探して、帰るつもりはないさ」

 

ルイズは、少しだけ顔を上げた。

 

エメトセルクは、もう窓の外を見ていた。

 

彼に見えないところで、本を鞄へしまう。

 

「だったら、明日も勝手に、どこかへ行かないでよ」

 

「行き先は、今決めたばかりだが」

 

「……そうね」

 

つい、いつもの言い方になった。

 

それを聞いて、彼の口元が僅かに動く。

 

ルイズは立ち上がり、寝間着を取りに行った。

 

朝の爆発。

 

教室の片付け。

 

昼の決闘。

 

思い返すと、もう半日くらい余分に過ごした気がする。

 

エメトセルクが窓へ向き直っている間に着替え、ルイズはベッドへ入った。

 

彼の椅子は、昨夜と同じ窓際にある。

 

背へ掛けてあった毛布を、本人が膝へ引いた。

 

「……おやすみ」

 

「ああ」

 

短い返事を聞き、ルイズは燭台の火を消した。

 

暗くなった部屋に、二つの月の光が残る。

 

しばらくは、鞄へしまった紙のことを考えていた。

 

書き残したことが、ほかにもあったはずだ。

 

だが、目を閉じているうち、机も、箒も、青銅も、少しずつ遠ざかっていった。

 

*

 

最初に感じたのは、風だった。

 

温かい。

 

花の香りを含んだ風が、頬を撫でていく。

 

ルイズは、ゆっくり目を開けた。

 

青い空があった。

 

見上げていたはずの天蓋は、どこにもない。

 

白い雲の下へ、緑の大地が広がっている。

 

足元には、白い石の道。

 

その脇を澄んだ水が流れ、小さな花が、水面へ影を落としていた。

 

「……何、ここ」

 

ルイズは振り返った。

 

寝台も、窓もなかった。

 

あるのは、広い庭園と、遠くの白い建物だけだった。

 

歩き出しかけ、足を止める。

 

その建物の向こうにも、大地があった。

 

空の途中に。

 

雲の上へ浮かぶ島が、いくつも並んでいる。

 

それぞれに緑があり、細い塔や、不思議な形の構造物が立っていた。

 

「……浮いてる」

 

アルビオンの浮遊大陸なら、知っている。

 

だが、ここがそうだとは、すぐには思えなかった。

 

見たことのないものが、多すぎる。

 

鮮やかな羽の鳥が、水の上を滑るように飛んだ。

 

その向こうを、首の長い獣がゆっくり歩いている。

 

草の間には、花びらに似た翼を持つ、小さな生き物もいた。

 

風を受けて飛び上がり、すぐ近くへ降りる。

 

ルイズは、少し身を引いた。

 

だが、生き物は彼女を気にした様子もなく、葉の陰へ隠れた。

 

「夢、よね……?」

 

自分は、学院の部屋で眠ったはずだった。

 

そう思えば、辻褄は合う。

 

それなのに、水の流れる音まで、こんなにはっきり聞こえる。

 

ルイズは、石の道の先を見た。

 

人が歩いていた。

 

黒い、ゆったりとした長衣。

 

顔へ仮面を掛けた者もいる。

 

生きている人間の手が袖から出て、話しながら、庭園の一角を示していた。

 

背は、皆、ずいぶん高い。

 

ルイズは、その姿へ見覚えがあると思った。

 

昨日、草原に立っていた男も、あんな服を着ていた。

 

「……まったく。少しは、真っ直ぐ目的の場所へ向かえないものかね」

 

声がした。

 

振り向く。

 

黒い長衣の男が、道を歩いてきていた。

 

銀灰色の髪。

 

金色の目。

 

眉を寄せ、隣の相手を見ている。

 

「エメトセルク?」

 

ルイズは、思わず呼んだ。

 

男は、顔を上げなかった。

 

その隣で、別の男が笑っていた。

 

同じように背が高く、黒い服を纏っている。

 

穏やかな顔立ちに、楽しそうな目。

 

彼は、歩く速さを変えずに答えた。

 

「道は、合っているよ。せっかくエルピスまで来たんだ。景色を見ながらでも、いいじゃないか」

 

「私が見に来たのは、ヘルメスの仕事ぶりだ。庭の美しさを褒めるためではない」

 

「ああ。その仕事が、こうして目の前にあるとも言えるけれどね」

 

男の手が、緑の広がりへ向いた。

 

エメトセルクは、そちらを一度見た。

 

「エルピスの所長としての仕事だけで、ファダニエルの座を任せてよいか、決められるわけではあるまい」

 

「次の十四人委員会の一員となるかもしれないんだものね。君が厳しく見るのも、わかっているさ」

 

「ならば、案内も、そのつもりで頼みたいものだな」

 

「おや。しているつもりだよ、ハーデス」

 

ルイズは、眉を寄せた。

 

誰のことだろう。

 

目の前には、二人しかいない。

 

呼ばれた方は、その名を訂正することもなく、小さく息を吐いていた。

 

「……ちょっと。エメトセルク!」

 

ルイズは、二人へ駆け寄った。

 

「聞こえてるんでしょう?」

 

声は、水音に混じって消えた。

 

男は隣の相手へ、また何か言いかけている。

 

ルイズは、その袖へ手を伸ばした。

 

指が、黒い布へ届く。

 

そのまま、すり抜けた。

 

「……え?」

 

手を引き、自分の指を見る。

 

何も触れた感じがしなかった。

 

袖も、腕も、そこにあるのに。

 

二人は、ルイズのそばを通り過ぎていく。

 

彼女にぶつかることも、避けることもなかった。

 

ルイズは、その場で口を閉じた。

 

無視しているのではない。

 

こちらが、見えていないらしい。

 

声も、聞こえていない。

 

夢なら、そういうこともあるのだろうか。

 

わからないまま、二人の後を追った。

 

道の脇で、小さな獣が立ち止まっていた。

 

四本の脚。

 

背には、花のような器官がある。

 

それが揺れるたび、淡い光の粒が、草の上へ落ちていた。

 

穏やかな男が、足を緩める。

 

「これは、どう思う?」

 

「背のものが、目立ちすぎるな」

 

「美しくはあるだろう?」

 

「目立つことが、あれ自身の役に立つならな」

 

エメトセルクは、獣の動きを見ていた。

 

「これだけ光を散らして、どれほど長く動けるのか。維持に使うエーテルも、少なくはなさそうだ」

 

「そこは、観察の続きが必要だね」

 

男は、屈んで獣へ顔を寄せた。

 

触れようとはしない。

 

草を踏み分けて離れていくのを、そのまま見送っている。

 

「申請されたイデアを見るだけでは、わからないこともある。何を食べ、ほかの生き物と、どう暮らすか。ここでは、そういうところまで試しているんだ」

 

「形にした時点で、よしとするわけにはいかんからな」

 

「そうとも。管理局から送り出した案が、ここでどんな結果になるか。ワタシにも、気になることは多いよ」

 

「創造物管理局の局長なら、当然だろう」

 

エメトセルクの返事に、男は顔を上げた。

 

「君に、そんなに期待されていたとはねえ」

 

「仕事の話をしている」

 

「もちろん。今も、仕事の話だよ」

 

軽く返し、彼は立ち上がった。

 

ルイズは、獣の消えた草むらを見た。

 

イデア。

 

エーテル。

 

聞き慣れない言葉が続く。

 

だが、形にした、生き物を試す、と言っていた。

 

あの獣も、誰かが作ったということなのだろうか。

 

石を金属へ変えるのとは、まるで違う。

 

しかも、二人にとっては、できるかどうかを驚く話ではないらしかった。

 

「……そんな魔法が、あるの?」

 

尋ねても、返事はなかった。

 

エメトセルクが、少し先で足を止めた。

 

獣の背にあった光を、まだ目で追っている。

 

「美しさだけで、済むものではない。創るなら、その存在が何を必要とし、何へ影響するかまで考えるべきだ」

 

穏やかな男は、今度は笑わなかった。

 

「うん。だから、ヘルメスの仕事を見てほしいと思っているよ」

 

返事の後に、短い間があった。

 

「君が知りたいのは、問題があるときに、彼がどう判断するかでもあるだろう?」

 

「ああ」

 

エメトセルクは、静かに答えた。

 

「案の数だけを見に来たのではない」

 

男が頷く。

 

それから、二人はまた歩き始めた。

 

ルイズも、少し遅れて続いた。

 

さっき聞いた名前を、頭の中で辿る。

 

ヘルメスという人の、仕事を見に来た。

 

ファダニエルという座に、任せてよいか。

 

それがどういう立場なのかまでは、わからない。

 

だが、ただ、庭を見に来た二人ではないのだ。

 

道の先で、黒衣の一人が、二人へ会釈した。

 

彼らも足を止め、庭園の一角を見ながら話している。

 

穏やかな男が尋ね、相手が指を折って答えた。

 

エメトセルクは黙って聞き、最後に一つ問い返す。

 

ルイズは、その横顔を見上げていた。

 

学院の先生へ話を聞いていたときと、少し似ている。

 

知りたいことがあると、ただ不機嫌なだけではなくなる。

 

それに、この場所では、向こうから彼へ頭を下げる者がいる。

 

かつては、貴族に近い立場にいた。

 

昨日、そう聞いた。

 

本当なら、こういう姿だったのだろうか。

 

けれど、それも、夢の中で考えていることにすぎなかった。

 

二人が歩き出す。

 

道の先が、少しずつ高くなっていた。

 

「ヒュトロダエウス」

 

エメトセルクが、隣の男を呼んだ。

 

ルイズは顔を上げた。

 

長い、不思議な名前だった。

 

呼ばれた男は、ごく普通に振り返る。

 

「何だい?」

 

「まさか、この後も寄り道を増やすつもりではないだろうな」

 

「君が、あの生き物を見たいと言わなければね」

 

「先に足を止めたのは、お前だ」

 

「でも、最後まで見ていたのは、君だった」

 

エメトセルクは、すぐには答えなかった。

 

ヒュトロダエウスの口元へ、笑みが戻る。

 

「ほら。案内は、役に立っているだろう?」

 

「そういうことにしておけば、気が済むのかね」

 

「君が認めてくれれば、なお嬉しいけれど」

 

ルイズは、思わず口元を押さえた。

 

何だか、おかしかった。

 

自分なら、もう言い返していたかもしれない。

 

だが、隣の男は、言い返されるところまで楽しんでいるようだった。

 

そして、エメトセルクも、やめろと言う割には、相手を置いて歩いていかない。

 

二人の足取りは、同じ速さで続いていた。

 

*

 

坂の上で、庭園が開けた。

 

二人が足を止めたので、ルイズも、その少し後ろへ立つ。

 

眼下には、水の流れが見えた。

 

花々の間を抜け、白い道のそばを通り、木々の陰へ続いている。

 

その先に、浮いた大地。

 

こちらの島の縁からも、遠くの緑からも、鳥が飛び立っていた。

 

あんなところを、歩いてみたい。

 

そう思いながら、ルイズは足元を見た。

 

自分の意思で来た場所でもない。

 

あの二人が、次にどこへ行くのかさえわからなかった。

 

「……いい場所だね」

 

ヒュトロダエウスが言った。

 

エメトセルクは、すぐには答えなかった。

 

風に長衣の裾が揺れる。

 

草の上を、小さな影が走っていった。

 

やがて、彼も景色へ顔を向けたまま、口を開いた。

 

「……悪くはない」

 

「おや。素直な感想だ」

 

「わざわざ聞き直すな」

 

「聞き直してはいないよ。珍しいから、覚えておこうと思ってね」

 

エメトセルクが、隣を見た。

 

ヒュトロダエウスは、まだ楽しそうだった。

 

その顔をしばらく見てから、彼は、呆れたように目を戻した。

 

「景色を褒めるより、こちらをからかう方が大事か」

 

「両方とも、できるからね」

 

「欲張りな奴だ」

 

声には、苛立ちがなかった。

 

ルイズは、そっと顔を上げた。

 

エメトセルクの口元が、ほんの少し緩んでいる。

 

誰かを言い負かしたときの笑いとも、こちらが言葉に詰まるのを見たときとも、少し違った。

 

隣の男が何か言う。

 

彼が、短く返す。

 

それだけで、会話が途切れずに続いている。

 

ルイズが昨日から知っている彼は、何かを尋ねられて答えることが多かった。

 

どこから来たのか。

 

何ができるのか。

 

どうして、言うことを聞かないのか。

 

ここでは、二人とも、そんなことを確かめなくても話せるらしい。

 

「……友達、なのね」

 

小さく言った。

 

聞こえないことは、もうわかっていた。

 

それでも、二人を見ていると、そう口にしてみたくなった。

 

ヒュトロダエウスが庭の一角を指した。

 

エメトセルクは、それにつられて顔を向ける。

 

何を見つけたのか、ルイズも見たかった。

 

背伸びをする。

 

そのとき、足元の白い道が、薄くなった。

 

「……あれ?」

 

草の輪郭が、風の中へほどけていく。

 

遠くの島も、雲も、白く霞んだ。

 

ルイズは、前へ手を伸ばしかけた。

 

だが、その先にいる二人は、こちらを振り返らない。

 

並んでいた。

 

同じものを眺め、まだ、話していた。

 

声の最後までは、聞き取れなかった。

 

*

 

ルイズは、目を開けた。

 

見慣れた天蓋があった。

 

寝台の縁から垂れた布。

 

枕の下の、少し冷えた感触。

 

身体を起こすと、毛布が膝へ落ちた。

 

窓の外は、まだ暗い。

 

空の端だけが、薄く明るくなり始めていた。

 

「……夢」

 

口にしてみる。

 

部屋の空気は、あの庭園より冷たかった。

 

だが、花の匂いは、まだ思い出せる。

 

白い道の曲がり方も、空に浮いていた大地も。

 

あの、背に花を乗せたような獣も。

 

ルイズは、額へ手を添えた。

 

あんなものを、自分はどこかで見たことがあっただろうか。

 

本に、描いてあったのかもしれない。

 

けれど、思い当たる頁はなかった。

 

エルピス。

 

男が、そう呼んでいた。

 

その名前と一緒に、二人の顔が浮かぶ。

 

ハーデスと、ヒュトロダエウス。

 

聞き慣れない名なのに、妙にはっきり覚えていた。

 

ルイズは、窓際へ顔を向けた。

 

エメトセルクが、椅子で目を閉じている。

 

膝には、召喚した日に渡した毛布。

 

腕は、毛布の上へ下りていた。

 

夢の中で見た顔と、同じだった。

 

ただ、ここには、隣で笑う男がいない。

 

「……ねえ」

 

呼びかけようとして、声を止めた。

 

何と尋ねればよいのか。

 

あなたは、違う名前で呼ばれていたの?

 

あの場所を、知っているの?

 

言葉は、幾つも浮かんだ。

 

だが、そんなことを尋ねれば、どうしてそう思ったのかも話さなければならない。

 

自分が見た、夢のことを。

 

前に聞いた故郷の話を、自分が勝手に景色へ変えただけかもしれないのに。

 

ルイズは、毛布の端を引き寄せた。

 

「……何か、用か?」

 

窓際から声がした。

 

肩が跳ねる。

 

エメトセルクが、目を開けていた。

 

「起きてたの?」

 

「今、起きた。そんなところで座っていて、寒くはないのかね」

 

ルイズは、自分の肩へ毛布を掛けた。

 

「……平気よ」

 

「ならばよいが。まだ、鐘も鳴っておらんぞ」

 

彼は、窓の外へ目を向けた。

 

いつもの声だった。

 

少し面倒そうで、こちらが何をしているのか、わからないという顔をしている。

 

庭園の声と、重なった。

 

隣の男は、それを聞いて、楽しそうに返していた。

 

ルイズは、毛布を押さえる手へ目を落とした。

 

「ねえ、エメトセルク」

 

彼が、こちらを見る。

 

「今度は、何だ?」

 

「あなたって……」

 

途中で止まった。

 

その先へ、名前を続ける気にはなれなかった。

 

エメトセルクが、片眉を上げる。

 

急かすほどではない。

 

ただ、聞こえるところまで言えという顔だった。

 

ルイズは、一度、息を吸った。

 

「……友達、いるの?」

 

返事は、すぐには来なかった。

 

風が窓の外の枝を揺らす。

 

その音に気づくほどの間があってから、エメトセルクが口を開いた。

 

「……随分と、唐突な質問だな」

 

「べ、別に。ちょっと、気になっただけよ」

 

「そうか」

 

彼は、椅子の背へ静かに身を預けた。

 

ルイズは、次に何を言われるのかと思った。

 

自分にはいるのか、と聞き返されるのか。

 

余計なことを考えていないで眠れ、と言われるのか。

 

だが、彼は、どちらも言わなかった。

 

少しだけ目を細める。

 

こちらを見ていながら、何かを思い出したようにも見えた。

 

「……いたとも」

 

静かな返答だった。

 

「昔はな」

 

ルイズは、唇を僅かに開いた。

 

「……昔?」

 

「ああ」

 

それ以上の言葉は、続かなかった。

 

ただ、答えるのが不快だったという声でもない。

 

エメトセルクは窓へ目を戻し、膝の毛布の端を直した。

 

ルイズは、その手を見ていた。

 

夢では、隣の男へ何かを示していた。

 

そのときも、同じように大きな手だった。

 

本当に、あの人が友達だったのか。

 

それは、わからない。

 

けれど、友人がいたという言葉は、今、本人から聞いた。

 

故郷は、もう存在しない。

 

初めてこの部屋で聞いたことまで、思い出した。

 

なくなった国と、昔の友人。

 

二つが、どうつながるのかは知らない。

 

その友人が、今どこでどうしているのかも。

 

ルイズは、次の質問を口へ出さなかった。

 

「……そう」

 

少し間を置いて、答えた。

 

エメトセルクが、もう一度彼女を見る。

 

「それが、聞きたかったのか?」

 

「……うん」

 

頷いてから、ルイズは小さく首を振った。

 

「変なこと聞いたわね」

 

「まったくだ」

 

返事は、いつもの調子に近かった。

 

答えてくれたことへ、何か言おうとして、うまく見つからなかった。

 

「……もう少し、寝るわ」

 

「ああ」

 

彼は頷いた。

 

「明日――もう今日か。本を読む間に眠り込まれては、案内役がいなくなる」

 

「そんなこと、しないわよ」

 

「では、そのためにも休みたまえ」

 

言い返す代わりに、ルイズは枕へ頭を戻した。

 

毛布を肩まで引く。

 

エメトセルクも、また椅子へ身体を預けていた。

 

ルイズは、目を閉じた。

 

青空と、緑の大地。

 

白い道の先で、二人の男が並んでいる。

 

あの場所が本当にあったのか、今もわからない。

 

だが、思い出すのは、杖の現れる光でも、人形を砕いた魔法でもなかった。

 

誰かの言葉を待ち、呆れたように返しながら、その隣へ立っていた顔だった。

 

窓の方で、椅子が僅かに鳴った。

 

ルイズは一度そちらを見てから、毛布の端を握る手を、ゆっくり緩めた。

 

第1章 第5話 完

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