虚無の曜日の朝、ルイズは鏡の前で襟元を直していた。
袖の端を整え、髪へ櫛を通す。
制服は、衣装箪笥の中に残してあった。今日は、王都へ出かけるための服を着ている。
腰のあたりへ手を添えてから、もう一度鏡を見る。
「……よし」
窓際で、紙を畳む音がした。
エメトセルクが、椅子から顔を上げていた。
「ずいぶん時間がかかるものだな」
「女の子の身支度には、時間がかかるのよ」
「そうか。では、あと一刻ほど待てばいいか?」
「もう終わったわよ!」
ルイズは振り返った。
男は、畳んだ紙をしまってから立ち上がる。
召喚されたときと同じ、黒を基調とした装束だった。
学院で何度も見たはずなのに、外へ連れ出すとなると、少し気になった。
「……あなた、その格好で行くつもり?」
「何か問題でも?」
「目立つじゃない」
「今さらだろう」
ルイズは、言い返しかけた。
確かに、服を変えたところで、この背丈まで隠せるわけではない。
廊下で振り返られるのも、もう珍しくなかった。
「……そうね」
彼女は鞄を手に取った。
中の財布を確かめる。何でも買ってやれるほど、入っているわけではない。
けれど、今日は、まず見に行くのだ。
次の休日に案内すると約束してから、何度か授業を受け、その日になった。
行き先を決め直す必要はなかった。
「行きましょう。馬も、用意してもらっているから」
「ああ。案内を頼もう」
エメトセルクが扉を開け、身体をずらした。
ルイズは先に廊下へ出た。
今日は、授業を告げる鐘が鳴らない。
階段の窓から、春の光が差していた。
*
厩舎のそばでは、二頭の馬が待っていた。
一頭は、ルイズが乗るための馬。
もう一頭は、骨太で、背の広い、大柄な馬だった。
手綱を持つ厩務員が、二人を認めて頭を下げる。
「ミス・ヴァリエール。ご用意できております」
「ありがとう。二頭とも、帰りまで借りるわ」
エメトセルクは、自分に用意された馬へ近づいた。
いきなり鞍へ手を掛けず、まず首のそばへ立つ。
馬が鼻先を動かした。
彼はその動きを待ってから、鞍の位置と腹帯へ目を向けた。
「こちらは、どうでしょう。大きめの鞍にしてありますが」
厩務員が尋ねる。
「ああ。少し、鐙を合わせさせてもらおう」
エメトセルクは、革の長さを確かめた。
隣で、ルイズが自分の馬へ跨がる。
彼も乗ると、長い脚が馬の脇へ下りた。
一度腰を落ち着け、鐙から足を外す。
ルイズは、笑いそうになった。
「……やっぱり、短かったのね」
「見ればわかるだろう」
「もう少し、小さくなれないの?」
「馬具を直す方が、よほど手間は少ないと思うが」
厩務員が、僅かに顔を伏せた。
笑ったのかもしれない。
ルイズは聞かなかったことにし、手綱を持ち直した。
エメトセルクは鐙を調整してもらい、足を入れ直す。鞍へ無理な力を掛けず、馬が一歩動くのを確かめた。
「これでよい。助かった」
「お気をつけて」
二人は、それぞれの馬を進めた。
並んだ蹄が、学院の敷地を横切っていく。
門を抜けるところで、ルイズが振り返った。
「まずは、この道をまっすぐよ」
「承知した」
大きな馬の歩調が、彼女の隣へ揃う。
二頭は、街道へ向かった。
*
キュルケが窓を開けたのは、部屋へ風を入れようと思ったからだった。
下では、休日に出かける生徒たちが歩いている。
その向こうで、馬の頭が動いた。
二頭。
片方へ乗っている桃色の髪を見つけ、彼女は窓枠へ手を置いた。
「……あら」
ルイズだった。
隣には、黒い装束の男がいる。
エメトセルクが、長い脚を鞍の下へ落ち着けていた。
二人は、門を出ていく。
「お出かけなのね」
キュルケは、身を少し乗り出した。
そんな予定を、ルイズから聞いてはいなかった。
もちろん、知らせてくれる間柄でもない。
だが、エメトセルクまで一緒に行くとなると、見送るだけでは少し惜しかった。
彼が自分から知りたいものは、何なのか。
先日、廊下で聞いた返事を思い出す。
ここでは見られない魔法か、珍しい品か。
それとも、ただルイズの買い物についていくだけなのか。
門の向こうへ、二頭の馬が小さくなっていく。
キュルケは、窓から離れた。
鏡の前で髪をひと撫でし、鞄を取る。
寝台のそばのフレイムが、頭を上げた。
「少し、行ってくるわ」
彼女はそう告げ、部屋を出た。
向かったのは、厩舎ではなかった。
タバサの部屋の前で、扉を叩く。
しばらく待ったが、返事はない。
「タバサ。わたしよ」
もう一度呼ぶと、ようやく中から短い声がした。
「……何?」
扉を開けると、少女は本を読んでいた。
窓の光が、青い髪と、開いた頁へ落ちている。
目だけをこちらへ向け、すぐに本へ戻した。
キュルケはそのそばへ進んだ。
「お願いがあるの。今、ルイズたちが出かけたところを見たのよ」
頁が、一枚めくられた。
「……たち?」
「エメトセルクと、馬に乗って。どこへ行くのかしらね」
「……知らない」
「ええ。わたしも、知らないの」
キュルケが笑うと、タバサの指が止まった。
顔が、僅かに上がる。
「それで、後を追ってみたいの。シルフィードに、乗せてもらえないかしら」
少女は、すぐには答えなかった。
本へ目を落とす。
指を添えていた行を読み終え、またキュルケを見た。
「……馬は?」
「今から用意していたら、離されてしまうでしょう。空からなら、道も見えるわ」
タバサは、少しだけ眉を動かした。
わかっている、という顔だった。
それでも、本は閉じない。
キュルケは、椅子の横で身を屈めた。
「授業もないし、少しだけ付き合って。彼、何に興味を持つのか、見てみたいのよ」
「……また、彼」
「気になるのよ」
返事に迷いはなかった。
タバサは、友人を見つめた。
キュルケは、自分がこういう顔をすると、簡単には諦めないことを知られていると思った。
だが、本を取り上げたりはしなかった。
少女が返事をするのを待つ。
やがて、タバサの目が窓へ動いた。
青い空。
風で揺れる木々。
それから、本へ戻った。
「……待って」
キュルケの顔が明るくなる。
タバサは、読んでいたところへ栞を挟んだ。
本を閉じて立ち上がり、鞄へ入れる。
「ありがとう、タバサ」
「……帰ったら、読む」
「ええ。邪魔はしないわ」
タバサは、一度だけ彼女を見た。
その目に、キュルケが小さく笑う。
少女は扉ではなく、窓へ向かった。
留め金を外して押し開くと、朝の風が部屋へ入ってくる。
タバサは外へ顔を向け、短く口笛を吹いた。
やがて、塔の外を青い影が横切った。
風竜のシルフィードだった。
*
タバサは、翼の動きを確かめて窓枠へ足を掛けた。
鞄を身体へ寄せ、そのまま外へ身を躍らせる。
キュルケも、ためらわず後へ続いた。
落下する二人の下へ、青い背が滑り込む。
シルフィードは二人を空中で受け止めると、大きく翼を動かした。
塔から離れながら、なめらかに高度を上げていく。
キュルケは背びれへ掴まり、身体を低くした。
隣では、タバサがいつもの顔で姿勢を整えている。
「……本当に、早いのね」
タバサは、街道へ目を向けた。
「……どっち?」
キュルケが、門から続く道を指した。
「あちらへ行ったわ」
タバサは、シルフィードの首へ手を添えた。
「馬二頭。この道」
風竜が、そちらへ首を向けた。
鼻先が少し上がる。
タバサは、その顔を見て付け足した。
「食べちゃダメ」
キュルケが、思わず笑った。
「見つけても、追いつきすぎない方がよさそうね」
タバサが頷き、使い魔へ告げる。
「……離れて、ついていって」
シルフィードは短く鳴いた。
建物の間では見えなかった道が、上からなら、畑と村の間を縫って続いている。
少し先に、二つの小さな影があった。
荷車ではない。
間を空けずに進む、二頭の馬。
シルフィードが、そちらへ首を向けた。
「……あれ」
タバサが指す。
片方の馬上に、黒い服が見えた。
キュルケは目を凝らし、笑みを浮かべた。
「見つけたわね」
高度を保ったまま、風竜が進む。
下の二頭へ影を落とすほど近づくことはせず、道の続く先から、その行く方を追った。
タバサは進む先を一度確かめると、鞄から本を取り出した。
背びれへ身体を預け、栞を抜いて頁を開く。
キュルケは、その横で街道へ目を戻した。
*
街道の両側には、畑が広がっていた。
春の風に、伸び始めた緑が揺れる。
農夫が腰を伸ばし、通り過ぎる騎馬へ顔を向けた。ルイズの服装を見て頭を下げる。
彼女が軽く頷くと、男は仕事へ戻った。
少し先では、荷車が道の端へ寄っていた。
車輪の脇を通る際、エメトセルクは馬の歩みを緩めた。
荷を押さえていた商人が、一度彼を見上げる。
驚いた顔をしたが、ルイズへ目を戻し、道を譲った。
「……荷を運ぶのは、いつもこの道なのか?」
エメトセルクが尋ねた。
「王都へ向かうなら、よく使うでしょうね。荷車も通れるもの」
ルイズは、前の道を見た。
「雨の後は、もう少し時間がかかるけど」
「この辺りの道を、直すのは?」
「領主の仕事よ。王都へ入るところは、王国の方でも面倒を見るでしょうけど……詳しくは、知らないわ」
彼は頷き、車輪の残した跡へ目を向けた。
大きな穴は、石や土で埋められている。
だが、どこも同じように整えられているわけではなかった。
「道ばかり見ていて、面白いの?」
ルイズが聞いた。
「人と荷が、どこを通るのかは気になる」
「武器屋への道が気になるの?」
「そちらは、お前を当てにしている」
「だったら、ちゃんとついてきてよ」
ルイズは少し胸を張った。
彼の視線が、畑へ戻る。
小さな集落。
働く人々。
遠くに見える風車。
学院の中で聞いた身分の違いが、こちらでは、別の形で見えていた。
「この国では、魔法を使わない者が、政務に関わることもあるのかね?」
「平民が?」
「ああ。商人の話を聞いたり、町の用事を取りまとめたりする者もいるのだろう?」
ルイズは、少し考えた。
「そういう仕事なら、いるわ。でも、領地や国を治めるのは、貴族よ」
「軍を率いるのも?」
「もちろん。メイジは、戦場でも大切な役目を持つんだから」
声には、いつもの誇りがあった。
エメトセルクは、その声を聞いてから、道の先へ目を向けた。
魔法の力を持つことと、人を率いる立場にあること。
学院でも見た結びつきが、この国の仕組みにも続いているらしい。
ただ、ルイズが知る範囲の説明だけで、国の隅々までわかったつもりにはなれない。
荷を運ぶ商人にも、畑を耕す者にも、それぞれ言い分はあるだろう。
「……昔の仕事の癖なの?」
ルイズが、ふと思い出したように尋ねた。
彼が、こちらを見る。
「何がだ?」
「人をまとめたりしていたって。そういうことも、見ていたのかしらと思って」
「座って報告を待つだけでは、わからないこともあるのでな」
「王都の武器屋へ行くのにも?」
「武器だけが、そこまで独りで歩いていくわけではあるまい?」
ルイズは荷車へ目を戻した。
布で覆われた荷が、ゆっくり揺れている。
「……あなたって、どこへ行っても調べ物になるのね」
「不満かね?」
「別に。たまには景色も、見ればいいと思っただけ」
「今、見ているとも」
ルイズは、少し呆れた顔をした。
男の口元が僅かに動く。
馬の歩調は、彼女から離れずにいた。
*
王都の城壁が見えた頃には、街道を行く人が増えていた。
塔と、その下に重なる屋根。
荷車が列を作り、旅人たちが道の脇を歩いている。
ルイズは、城壁を指した。
「見えてきたわ。トリスタニアよ」
エメトセルクは顔を上げた。
「ほう」
学院の塔とは、違う眺めだった。
人の声が重なり、門の方から、車輪の軋む音が届いてくる。
二人は馬の歩みを落とし、前を行く荷車の後ろへついた。
門のそばで、衛兵がルイズへ顔を向ける。
彼女が行き先と家名を告げると、相手の声が丁寧になった。
短いやり取りの後、二人は門を通った。
「……家名の効力は、大きいようだな」
エメトセルクが言う。
「ヴァリエール家は、公爵家なんだから」
ルイズは、少し誇らしげに答えた。
そこからは、人の流れへ注意を戻す。
「この先は、馬を預けて歩くわよ。道が狭いところもあるから」
「ああ。その方がよさそうだ」
門に近い預かり所で、二人はそれぞれ馬を下りた。
ルイズが帰りまでの預かりを頼む。
エメトセルクも、自分の馬の首へ手を置いてから、手綱を渡した。
二頭が奥へ引かれていくのを確かめ、彼女の隣へ戻る。
「では、案内を頼もうか」
ルイズは鞄を持ち直した。
「こっちよ」
通りには、店が並んでいた。
パンを焼く匂い。
革製品を掲げた店先。
客へ声を掛ける商人と、その声を避けるように歩く者。
エメトセルクは、道を塞がないよう歩きながら、ひとつずつ見ていた。
彼の服と背丈へ、振り返る目がある。
ルイズは、一度その様子を見てから、前へ出た。
「言ったでしょう。目立つって」
「お前の責任で、通行人へ説明して回る必要はないぞ」
「そんなこと、しないわよ」
彼女は、狭い路地へ曲がる前に、後ろを確かめた。
「武器屋は、この先」
人の流れが、少し薄くなる。
看板の下に、剣や槍の形が見えた。
エメトセルクの目が、そちらへ向く。
ルイズは、一軒の店の前で止まった。
古びた木の扉。
窓の向こうには、幾つもの武器が並んでいる。
「……ここよ」
男が、看板を見上げた。
「随分と、年季が入っているな」
「武器屋なんて、そんなものよ。ほら、入るわよ」
ルイズが扉へ手を掛ける。
軋んだ音がし、二人の姿が店内へ消えた。
*
少し離れた通りの角で、キュルケは足を止めた。
「……武器屋なのね」
タバサも、古い看板へ目を向ける。
二人は、王都の手前でシルフィードを下りていた。
道の先へ向かう馬二頭を空から確かめてから、街の外の、人通りを避けた場所へ下りたのだ。
門の近くへ歩いてきたとき、大きな馬を預ける男の姿が見えた。
そこからは、振り返られてもすぐ目に入らないよう、通りの向こう側を歩いてきた。
「何か、買うつもりなのかしら」
キュルケが言うと、タバサは小さく首を傾げた。
「……見るだけかも」
「そうね。今のところは、わからないわ」
キュルケは、扉の閉まった店を眺めた。
彼が武器を持たなければ困るとは、思えない。
杖も、自分で用意していた。
それでも、自分から覗きに行くものなら、気になる。
隣の店先へ視線を移し、キュルケは少し身を引いた。
「わたしたちも、後で見せていただきましょうか」
タバサが、彼女を見た。
「……待つ?」
「ええ。今、入ったら、ルイズが賑やかにしてくれるでしょう?」
タバサは、返事をしなかった。
ただ、通りを見渡し、店の扉が見える場所へ移った。
キュルケも、その隣へ並ぶ。
二人が何を見て出てくるのか。
それを確かめてからでも、遅くはなかった。
*
武器屋の扉が閉まると、通りの喧騒が幾分遠ざかった。
薄暗い店内には、鉄と革、それに古い木材の匂いが漂っている。壁には大小様々な剣が掛けられ、槍や斧が天井近くまで並べられていた。
磨き上げられた刀身がある一方、錆の浮いた古い武器も無造作に置かれている。
エメトセルクは店内を見渡しながら、ゆっくりと歩き始めた。
「……なるほど。随分と種類があるな」
「そうでしょう?」
ルイズは得意げに答えた。
「王都の武器屋なんだから、当然よ」
店の奥の帳場には、パイプをくわえた五十がらみの男がいた。
入ってきた二人を、胡散臭そうに眺める。
「……何かご用で?」
「剣を見に来たのよ」
ルイズが答えると、男は彼女へ目を戻した。
上等な仕立ての衣服と、その立ち居振る舞いに気づいたらしい。
パイプを口から離し、帳場から出てきたときには、商売人らしい笑みを浮かべていた。
「これはこれは、貴族のお嬢様で。何かお探しで?」
「剣を見せてもらいたいの」
「剣でございますか。もちろん、ございますとも!」
店主は愛想よく笑った。
だが、ルイズの後ろに立つエメトセルクを見上げた途端、その笑みが少し引きつった。
「……おやまあ」
視線が上へ、さらに上へと動く。
「こりゃまた、随分と大きなお連れ様で」
「この人はわたしの使い魔よ」
「使い魔?」
店主は目を丸くした。
「人間の使い魔とは、珍しいことで……」
「その話はもういいわ。それより、剣を見せてちょうだい」
「へ、へい!」
店主は慌てて棚へ向かった。
エメトセルクは、その様子を眺めながら口を開いた。
「先に断っておくが、私は武器を必要としているわけではない」
店主の動きが止まった。
「……へ?」
「この土地の武器や製造技術に興味があってな。特に、魔法的な性質を持つものがあれば見てみたい」
店主は一瞬困惑したものの、すぐに商売人らしい笑みを取り戻した。
「なるほど! それなら、とっておきがございますよ!」
店主が最初に持ち出したのは、立派な装飾を施された長剣だった。
革張りの鞘には金属細工が施され、柄には宝石が埋め込まれている。
「こちらは貴族の方にも人気の品でしてね。腕のいい職人が鍛えた上物でございます」
ルイズは剣を見つめた。
「綺麗ね」
「でしょう? お嬢様のお連れ様にも、よくお似合いかと」
エメトセルクは剣を受け取り、鞘から抜いた。
刀身が燭台の光を反射する。
彼は刃の形状と重心を確かめ、軽く角度を変えた。
「……ふむ」
「いかがです?」
「装飾は見事だ。だが、実用性という点では少々疑問が残るな」
店主の笑みが固まった。
「と、おっしゃいますと?」
「柄の装飾が握りを妨げる。重心も、見た目を優先しているように感じられる」
エメトセルクは剣を鞘へ戻した。
「儀礼用としてなら悪くないが、戦場へ持ち込むものではあるまい」
店主は目を瞬かせた。
「……お客さん、剣にお詳しいんで?」
「多少はな」
「へえ……」
店主は改めて男を見上げた。
ただの大男ではないらしい。
「でしたら、こちらはいかがでしょう」
今度は、装飾を抑えた実用的な剣を取り出した。
エメトセルクはそれも確かめた。
鍛造の痕跡。
刃の厚み。
握りの構造。
そして、魔法的な加工が施されているかどうか。
いくつかの剣を見比べた後、彼は店主へ尋ねた。
「魔法を施した武器はないのか?」
「もちろんございます。ただし、そちらはお値段が張りますぜ」
「構わん。見せてくれ」
店主は嬉しそうに頷いた。
「へい!」
奥の棚から取り出された剣は、それまでのものとは明らかに異なっていた。
刀身には細かな文様が刻まれ、柄には魔法的な加工を思わせる装飾がある。
エメトセルクは、それを慎重に観察した。
微弱ながら、周囲とは異なる力の性質が感じられる。
ただし、それが刀身そのものに由来するのか、刻まれた文様によるものなのかまでは判断できなかった。
「……興味深い」
店主は得意げに胸を張った。
「こちらは魔法の力が込められた品でしてね。普通の剣とは一味違います」
「具体的には?」
「刃の切れ味がよく、丈夫で、長持ちするという話でございます」
「という話?」
エメトセルクが問い返した。
店主は一瞬言葉に詰まった。
「い、いや、もちろん上等な品には違いありませんぜ!」
「そうか」
エメトセルクは剣を戻した。
「では、実際の性能を確かめるには、別の手段が必要というわけだな」
店主は苦笑した。
「いやはや、手厳しいお客さんだ」
その横で、ルイズは値札を見て顔を強張らせていた。
「……ちょっと」
「何だ?」
「これ、すごく高いわよ」
「そうだろうな」
「そうだろうな、じゃないわよ!」
ルイズは財布の中身を思い浮かべた。
公爵家の娘とはいえ、自由に使える金が無制限にあるわけではない。
しかも、エメトセルクは剣を必要としていない。
興味があるというだけで、これほど高価な品を買うのはためらわれた。
エメトセルクも、彼女の様子から事情を察した。
「買う必要はない。見せてもらえれば十分だ」
「でも……」
「必要のないものに大金を払うほど、私は物好きではないぞ」
ルイズは少しだけ安心した。
そのときだった。
『おいおい、何だい。随分と偉そうな客が来たもんだな』
突然、店の奥から声が響いた。
ルイズは振り返った。
「……え?」
店主も顔をしかめた。
「ああ、また始まりやがった」
エメトセルクは声のした方へ視線を向けた。
奥の棚には、古びた武器がいくつも積み重ねられている。
その中から、再び声がした。
『さっきから聞いてりゃ、あれが駄目だの、これが気に入らねえだの。ずいぶん注文の多い旦那じゃねえか』
ルイズは目を見開いた。
「だ、誰!?」
『ここだよ、ここ!』
声は、確かに武器の山から聞こえていた。
エメトセルクは棚へ近づいた。
そして、一本の古い剣へ目を留めた。
長い刀身。
錆の浮いた表面。
飾り気のない柄。
見た目だけなら、先ほどの剣とは比較にならないほど粗末な品だった。
「……ほう」
エメトセルクは、その剣を見下ろした。
「今、喋ったのはお前か?」
『おうよ!』
剣が答えた。
『やっと気づいたか、でっかい旦那!』
ルイズは思わず後ずさった。
「け、剣が喋った!?」
『見りゃわかるだろ、お嬢ちゃん』
「な、何よ、その言い方!」
『おっと、気の強いお嬢ちゃんだな!』
剣は愉快そうに喋り続けた。
店主は額に手を当てた。
「まったく……また余計なことを!」
エメトセルクは、古びた剣をじっと見つめていた。
驚きよりも、興味の方が勝っていた。
意思を持つ物品。
言葉による意思疎通。
そして、明らかに自発的な反応。
古代世界にも、創造魔法によって生み出された様々な存在がいた。
だが、目の前の剣がどのような原理で意思を持っているのかは、まだわからない。
「……面白い」
エメトセルクは手を伸ばした。
「少し調べさせてもらおうか」
『おいおい、旦那。いきなり何をする気だ?』
「別に分解するわけではない。安心しろ」
『……本当だろうな?』
「気になるなら、先に聞こう。持ち上げても構わんか?」
『先にそう言えよ。落とすんじゃねえぞ!』
エメトセルクは、左手で柄を握り、剣を持ち上げた。
その瞬間、左手の甲に刻まれた文字が、わずかに熱を帯びた。
「……?」
彼は動きを止めた。
だが、障壁や、決闘での魔法を使ったときとは、手応えが違った。
光もない。
魔法の出力が増大するような感覚もない。
ただ、微かな熱が一瞬だけ生じた。
剣を握ったこととの関係も、今の一度では判断できない。
「……ふむ」
エメトセルクは左手へ視線を向けた。
剣が声を上げた。
『……お?』
「何だ?」
『……旦那、あんた「使い手」か?』
「使い手、だと?」
剣は、言葉を探すようにしばらく黙った。
『そう思ったんだが……どうしてだか、うまく思い出せねえ』
「理由も説明できんのか」
『……悪かったな。まあ、細けえことは後だ!』
エメトセルクは、わずかに笑った。
「随分といい加減な奴だな」
『剣に細けえこと求めるなよ!』
「喋る剣が、それを言うか」
ルイズは二人のやり取りを呆然と眺めていた。
「……店主」
エメトセルクが声をかけた。
「こいつは何だ?」
店主は苦々しい顔をした。
「インテリジェンスソードでさあ。意思を持って喋る、珍しい剣でございます」
「インテリジェンスソード?」
ルイズが聞き返す。
「ええ。魔法の力で意思を持つ剣です。もっとも、こいつは口が悪くてねえ」
『うるせえな、親父!』
剣が反論した。
『客の前で悪口言うんじゃねえよ!』
「お前が余計なことを喋るからだろうが!」
店主は剣を睨みつけた。
エメトセルクは、そのやり取りを興味深そうに眺めていた。
少なくとも、単純な命令に従うだけの道具ではない。
相手の言葉を理解し、自分の判断で応答している。
「……お前、名前はあるのか?」
『おう!』
剣は得意げに答えた。
『デルフリンガーってんだ!』
「デルフリンガー、か」
エメトセルクはその名を繰り返した。
「随分と古い剣のようだな」
『まあな。長いこと生きてる……いや、剣だから生きてるってのも変か?』
「自分でもわからんのか?」
『細けえことは気にすんな!』
エメトセルクは小さく笑った。
「なるほど。お前の性格は大体わかった」
『おいおい、まだ会ったばっかりだろ!』
「それだけ喋れば十分だ」
デルフリンガーは一瞬黙った。
そして、愉快そうに笑うような声を上げた。
『ははっ! 旦那、なかなか面白えな!』
エメトセルクは剣の表面へ視線を落とした。
錆びた刀身。
古い柄。
そして、内部に感じられる微弱な魔法的な性質。
だが、その構造は単純ではなかった。
少なくとも、彼が知る一般的な魔法道具とは異なる。
「……店主」
「へい?」
「こいつは、いつからここにある?」
「さあ……随分と前からでございますね。詳しい来歴まではわかりませんが」
「製作者は?」
「それも、はっきりとは……」
エメトセルクは頷いた。
「そうか」
答えが得られないこと自体は、珍しくない。
むしろ、古い魔法道具ならば当然のことだった。
問題は、その価値をどう判断するかだ。
「……ルイズ」
「何よ?」
「こいつを買っても構わんか?」
ルイズは目を丸くした。
「……え?」
エメトセルクはデルフリンガーを持ち上げた。
「この剣だ。少々、興味がある」
「これを?」
ルイズは、錆びた刀身を見つめた。
先ほどの美しい剣とは、まるで違う。
見た目だけなら、古道具屋に置かれていてもおかしくない代物だった。
「……本当に、これでいいの?」
「ああ」
エメトセルクは頷いた。
「少なくとも、先ほどの剣よりは調べる価値がある」
デルフリンガーが声を上げた。
『おっ! 旦那、俺を買う気か!』
「値段次第だな」
『何だよ、けちくせえな!』
「価値を確かめずに金を払うほど愚かではないのでな」
ルイズは、二人の会話を聞きながら少し考えた。
確かに、エメトセルクは剣を必要としていない。
だが、この剣には興味を示している。
それならば。
「……店主」
ルイズは顔を上げた。
「この剣、いくらなの?」
店主は、待ってましたとばかりに笑みを浮かべた。
「へい! そいつは珍しいインテリジェンスソードでございますからねえ……」
彼は少し考え、百エキューという値段を告げた。
ルイズは眉を寄せた。
「……高いわよ!」
「いやいや、お嬢様! 喋る剣なんて、そうそう手に入りませんぜ!」
「でも、こんなに錆びてるじゃない!」
『錆びてても喋るんだからいいだろ!』
デルフリンガーが口を挟んだ。
「お前は黙ってろ!」
店主が怒鳴る。
エメトセルクは、そのやり取りを静かに眺めていた。
そして、口を開いた。
「……店主」
「へい?」
「この剣が珍しいことは認めよう。だが、武器としての状態は良くない。しかも、来歴も製作者も不明だ」
店主は黙った。
「そのうえ、これほど口が悪い。普通の客なら敬遠するだろうな」
『おい、旦那!』
デルフリンガーが抗議した。
『本人の前で言うことかよ!』
「事実だろう?」
『ぐぬぬ……言い返せねえ!』
デルフリンガーの声に、店主が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「旦那、あんた商売人か何かかい?」
「似たようなことをしていた時期もある」
エメトセルクは平然と答えた。
「それで、どうする? このまま棚の奥で埃を被らせておくか、それとも適正な値段で引き取ってもらうか」
店主は腕を組んだ。
確かに、この喋る剣は長いこと売れ残っていた。
珍しい品ではある。
だが、見た目は悪く、口も悪い。客が興味を示しても、剣が余計なことを喋って台無しにしてしまう。
そのうえ、まともな武器として使えるかどうかも怪しい。
「……わかりましたよ」
店主は大きく息を吐いた。
「六十エキュー。それでどうです?」
ルイズは少し考えた。
決して安い買い物ではない。
だが、先ほど見せられた魔法の剣に比べれば、遥かに手が届きやすい値段だった。
「……もう少し安くならない?」
「お嬢様、勘弁してくださいよ! こっちだって商売なんですから!」
「でも、こんなに錆びてるのよ?」
「だから安くしてるんですって!」
二人のやり取りを聞きながら、エメトセルクはデルフリンガーを眺めていた。
「……お前自身はどうなんだ?」
『何がだい、旦那?』
「私についてくる気はあるのか、と聞いている」
デルフリンガーは一瞬黙った。
『……変なこと聞くんだな』
「意思があるのなら、本人の意向を聞くのが筋だろう」
『俺は剣だぜ?』
「それがどうした?」
デルフリンガーは、しばらく何も言わなかった。
やがて、少し調子を変えて答えた。
『……まあ、悪くねえな』
「ほう?」
『旦那、見た目は妙だし、言うことも難しくてよくわかんねえけどよ。少なくとも、退屈はしなさそうだ』
エメトセルクは薄く笑った。
「それはこちらの台詞だな」
『ははっ! 違えねえ!』
デルフリンガーは愉快そうに声を上げた。
ルイズは、そのやり取りを眺めていた。
目の前の男は、剣に対してまで対等に話しかけている。
普通なら、武器は使うものだ。
どれほど珍しい魔法の剣でも、持ち主が命令し、道具として扱う。
だが、エメトセルクは違った。
相手が喋るとわかった途端、その意思を確かめようとしている。
「……変なの」
ルイズは小さく呟いた。
しかし、不思議と嫌な気はしなかった。
結局、店主はさらに少しだけ値を下げた。
「五十五エキュー! これ以上は無理です!」
ルイズは財布を開き、中身を確かめた。
少し迷った末、顔を上げる。
「……いいわ。それで買う」
「へい! 毎度あり!」
店主は嬉しそうに手を差し出した。
ルイズは硬貨を数え、代金を支払った。
財布は随分と軽くなってしまったが、買えないほどではなかった。
店主はデルフリンガーを受け取り、帳場の台へ置いた。それから、古い鞘を探し始めた。
「こいつに合う鞘があったはずなんですがねえ……」
『おい、親父! ちゃんとしたのを寄越せよ!』
「うるせえ! 売れ残りのくせに注文が多いんだよ!」
『売れ残りって言うな!』
エメトセルクは、そのやり取りを聞きながら店内を見回した。
剣や槍。
盾。
そして、魔法的な加工を施された武器。
どれも興味深い。
だが、今はデルフリンガーの方が遥かに気になっていた。
意思を持つ剣。
その内部には、確かに何らかの魔法的な構造が存在している。
しかし、それがどのように意識を成立させているのかは、まだわからない。
「……おい、デルフリンガー」
『何だい、旦那?』
「お前、自分がいつ作られたか覚えているか?」
『さあなあ』
デルフリンガーは気のない声で答えた。
『随分と昔だった気はするんだが、はっきりしねえ』
「製作者については?」
『それも覚えてねえな』
「……なるほど」
エメトセルクは頷いた。
記憶の欠落。
あるいは、長い年月による情報の喪失。
どちらにせよ、興味深い現象だった。
『……旦那』
「何だ?」
『まさか、俺を調べるために買ったのか?』
「それ以外に何がある?」
『ひでえな!』
デルフリンガーは大げさに抗議した。
『せめて、俺の剣としての腕前に惚れたとか言ってくれよ!』
「錆びた刀身を見て、それを判断しろと?」
『……ぐっ!』
ルイズは、思わず吹き出した。
「ふふっ……!」
エメトセルクが振り返る。
「何がおかしい?」
「だって、あなたたち、なんだか似てるんだもの」
「……私と、これが?」
『おい、旦那! これって何だよ!』
デルフリンガーが抗議する。
ルイズは笑いながら答えた。
「どっちも口が悪くて、偉そうで、素直じゃないところ!」
エメトセルクは一瞬黙った。
そして、深々と息を吐いた。
「……まったく。随分な評価だな」
『はははっ! 旦那、言われてるぜ!』
「お前も含まれているんだが?」
『……あ』
ルイズはとうとう声を上げて笑った。
やがて、店主が鞘を持って戻ってきた。
「お待たせしました。これでどうでしょう?」
古びてはいるが、デルフリンガーを収めるには十分な鞘だった。
エメトセルクは剣を受け取り、ゆっくりと鞘へ入れた。
まだ、口元までは収めない。
「……ふむ」
『おいおい、旦那。もう少し丁寧に扱ってくれよ』
「十分丁寧だろう」
『そうかねえ?』
「しまっている間も、喋るのか?」
『口まで隠されちまったら、無理だよ。話すなら、そこんとこは出してくれ』
「承知した」
彼は最後まで静かに収めた。
かちりと音がして、剣は黙った。
エメトセルクは剣を腰へ下げようとして、少し考えた。
自分の体格なら、長剣を持ち歩くこと自体は難しくない。
だが、戦闘のために必要なわけではない。
それに、常に腰へ下げておく理由もなかった。
「……まあ、しばらくは持って歩くか」
彼は鞘を手に取った。
ルイズは、その姿を見上げた。
「……どう?」
「何がだ?」
「気に入った?」
エメトセルクは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「少なくとも、退屈はしなさそうだ」
ルイズは満足そうに微笑んだ。
「だったら、よかったわ」
その言葉には、素直な喜びが混じっていた。
自分が選んだわけではない。
だが、自分が買った剣を、使い魔が気に入ってくれた。
それだけで、少し誇らしい気持ちになった。
「……ありがとう、ルイズ」
不意に、エメトセルクが言った。
ルイズは目を丸くした。
「……え?」
「代金を払ったのはお前だろう。礼くらいは言うさ」
「そ、そうよね!」
ルイズは慌てて胸を張った。
「主人なんだから、当然よ!」
エメトセルクは、それ以上何も言わなかった。
ただ、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
二人が武器屋を出ると、トリスタニアの通りには相変わらず多くの人々が行き交っていた。
ルイズは財布を鞄へしまい、満足そうに息を吐いた。
「……さて、次はどうする?」
エメトセルクが尋ねる。
「そうね。せっかく王都まで来たんだし、少し街を見て回りましょうか」
「構わん」
「でも、その前に……」
ルイズはデルフリンガーへ視線を向けた。
「その剣、重くない?」
「問題ない」
「本当に?」
「私の体格を見て、まだそんな心配をするのか?」
「だって、随分と長いんだもの」
鞘に収まった剣は、今は黙っている。
エメトセルクは一度その柄へ目を落とし、小さく笑った。
「歩きながらまで、あの調子で喋られても困るのでな」
「それは、そうね」
ルイズも、少し笑った。
二人と一本の剣は、王都の通りを歩き始めた。
その背後で、武器屋の扉がゆっくりと閉まった。
*
武器屋を離れた後、ルイズは自分の買い物を済ませた。
鞄へ小さな包みをしまい、また通りへ戻る。
エメトセルクは、露店の品へ目を向けていた。
金具を直す職人の手元。
並べられた刃物。
同じものでも、店によって仕上げが違う。
立ち止まるたびに説明を求めることはしなかったが、足を止めた理由は、ルイズにも少しわかるようになっていた。
彼女は、向かいの店から漂ってきた甘い匂いへ顔を向けた。
「……少し、休憩しない?」
エメトセルクが、彼女を見た。
「構わんが」
「あなたは平気そうだけど、わたしは疲れたわ」
「では、座れる場所を探すとしよう。帰りの馬に乗る体力まで、使い切られても困る」
「わかってるわよ」
通り沿いの小さな店で、二人は席を取った。
ルイズが腰を下ろし、ほっと息を吐く。
エメトセルクも、椅子へ長い脚を収めた。
デルフリンガーは、鞘に入れたまま、壁と椅子の間へ立てかける。
倒れないのを確かめてから、手を離した。
やがて、茶と焼き菓子が運ばれてきた。
ルイズは菓子へ手を伸ばし、途中で彼の方を見た。
「その椅子、狭くない?」
「今のところ、椅子の方も耐えてくれているようだ」
「壊さないでよ」
「私が望んで壊すと思っているのかね」
ルイズは、少しだけ笑った。
茶を一口飲む。
向かいでも、男が茶器を持ち上げた。
窓の外では、荷車が道を曲がろうとしていた。
手前の露店の品へ触れないよう、押す者が足を止める。
エメトセルクがそれを見ていると、ルイズもつられて目を向けた。
「また、難しいことを考えてるの?」
「曲がりきれるか、見ていただけだ」
「ふうん」
荷車は、少し戻ってから角を曲がった。
ルイズは茶器へ顔を戻す。
「たまには、普通に楽しめばいいのに」
「楽しんでいるとも」
エメトセルクは、平然と答えた。
その目が、足元の剣へ下りた。
彼は鞘を手元へ寄せ、口元が隠れなくなるところまで、静かに引き出した。
『……おう。やっと外かい』
「刃まで出すつもりはないぞ」
『見えてりゃ十分だよ。さっきから、いい匂いばかりしてやがる』
「剣に、食事は必要あるまい」
『そういう問題じゃねえんだって。旦那たちだけ楽しそうじゃ、つまらねえだろ』
ルイズは菓子を持つ手を止めた。
小さな声でも、剣から聞こえると、やはり変だった。
店の者が通り過ぎるのを待ち、顔を寄せる。
「……少し、静かにしてよね」
『はいはい。気の強いお嬢ちゃんだぜ』
「聞こえてるわよ」
エメトセルクは、二人の間へ目を動かした。
「何か、見ておきたいものでもあるのかね?」
『見てえもの、か。……そう言われると、すぐには浮かばねえな』
「以前の持ち主と、こうして街へ来たことは?」
デルフリンガーは、少し黙った。
『さあなあ。あったかもしれねえが、はっきりしねえ』
「そうか」
返事が終わる。
剣が、その先を待つように僅かな音を立てた。
『……それだけかい?』
「思い出せないものを、ここで急かしても仕方あるまい」
『旦那、本当に変わってんな』
「喋る剣に言われるとは、光栄だ」
デルフリンガーが、低く笑うような声を出した。
ルイズは、そのやり取りを聞きながら、菓子を一口食べた。
古い柄。
錆の残った、いまは鞘に隠れている刃。
買ったときの金額を、もう一度思い浮かべる。
安くしてもらったとはいえ、軽い買い物ではなかった。
「……ねえ」
エメトセルクが顔を上げた。
「本当に、その剣でよかった?」
「何だ。もう後悔しているのか?」
「違うわよ。ただ、もっと立派な剣の方が、よかったんじゃないかと思って」
彼は、手元へ視線を落とした。
「見た目の立派さと、物の価値は、必ずしも一致しない」
『おっ。旦那、俺の良さがわかってきたか!』
「ほかの剣と違い、随分と口数が多い」
『そっちかよ!』
ルイズは、思わず笑った。
エメトセルクも、僅かに口元を動かす。
「私は、この剣を選んだ。それで十分だろう」
ルイズは、一度彼を見た。
それから、デルフリンガーを見る。
自分が選んだものではなかった。
けれど、自分が支払った品を、この男は、ほかと比べて惜しんではいないらしい。
「……そうね」
彼女は頷いた。
デルフリンガーが、何か言おうと口を動かす。
エメトセルクが、先に尋ねた。
「しばらく、しまっていて構わんかね。茶を飲む間くらいは、静かにしていたい」
『へいへい。落とさねえでくれよ』
「ああ」
ゆっくりと鞘へ収める。
声が止んだ。
エメトセルクは剣を先ほどの場所へ戻し、茶器を取り直した。
ルイズも、残りの菓子へ手を伸ばす。
窓の外を行く人は、先ほどと入れ替わっていた。
足元には、買ったばかりの一本がある。
ルイズは一度そちらを見てから、今度は、もう何も尋ねなかった。
休憩を終えると、二人は店を出た。
エメトセルクはデルフリンガーを鞘に収めたまま携え、ルイズと門の近くへ戻る。
預けていた二頭の馬を引き取り、ルイズは自分の馬へ乗った。
エメトセルクも、大柄な馬の鞍の脇へ剣を固定する。
鞘が馬の脚へ触れないことを確かめ、鐙へ足を掛けた。
ルイズが手綱を整え、街道の先を見る。
二頭は並んで、学院へ続く道を歩き始めた。
*
ルイズとエメトセルクが武器屋を出た後、キュルケは、すぐには動かなかった。
古い鞘を持つ男と、その隣の少女が、通りを曲がるまで待つ。
こちらへ振り返ることはなかった。
「……買ったみたいね」
キュルケが言った。
タバサは、男の消えた角へ目を向けていた。
「武器が足りないようには、見えなかったけれど」
「……必要とは、限らない」
「ええ。使うためだけに選んだとは、限らないわね」
キュルケは、扉へ向かった。
追ってきた先が武器屋だったことも、古びた品を手に出てきたことも、少し意外だった。
ただ、そういう品へ関心があるなら。
こちらから見せてみたいものも、ここで見つかるかもしれない。
タバサを振り返る。
「入ってみましょう」
少女が頷いた。
二人は、同じ扉を押した。
鉄と革の匂いがする。
壁には剣や槍、棚には短剣と盾が並んでいた。
タバサは、歩ける幅を確かめてから中へ入る。
キュルケは、奥の帳場へ目を向けた。
「へい、いらっしゃい!」
帳場から店主が顔を出した。
そして、入ってきた二人を見るなり、商売人らしい笑みを浮かべた。
「おや、また貴族のお嬢様方で!」
「ごきげんよう」
キュルケは優雅に微笑んだ。
「さっき、大きな男の方がいらしたでしょう。どんな品を見ていらしたの?」
店主は、少し目を瞬かせた。
「お知り合いで?」
「ええ。武器にお詳しいようだから、何に興味を持たれたのかと思って」
「製法や、魔法を施したものについて、ずいぶんとお尋ねでしたよ」
「……なるほどね」
キュルケは、奥の棚へ目を向けた。
ただルイズの買い物を待っていただけではないらしい。
本人が、何を確かめていたのか。
先日、聞いてみたいと思ったことへ、少しだけ近づいた気がした。
「わたしたちにも、剣を見せていただけるかしら?」
「もちろんでございますとも!」
店主は揉み手をした。
「どのような剣をお探しで?」
「そうね……できれば、珍しい魔法のかかったものがいいわ」
「ほう!」
店主の目が輝いた。
「それでしたら、いくつか良い品がございますぜ!」
彼は早速、奥の棚へ向かった。
タバサはその間、店内を静かに見回していた。
磨き上げられた剣。
使い込まれた盾。
古い槍。
どれも、見た目だけでは価値を判断できない。
彼女は壁に掛けられた剣の一本へ目を留めた。
刃の形状は実用的だったが、装飾はほとんどない。
戦うための道具。
そういう印象を受ける剣だった。
一方、キュルケの関心は、店主が運んできた品物へ向けられていた。
「まずはこちらなど、いかがでしょう?」
店主が差し出したのは、装飾の施された長剣だった。
キュルケは鞘を眺めた。
「綺麗ね」
「でしょう? 貴族のお客様にも人気の品でございます」
「でも、普通の剣でしょう?」
「へ、へい。腕のいい職人が鍛えたものでして……」
「悪いけれど、もう少し特別なものが欲しいの」
キュルケは微笑みながら剣を返した。
店主は少し考えた。
「……でしたら」
彼は奥の棚へ戻った。
今度は、先ほどよりも慎重な手つきで、一振りの剣を取り出した。
「こちらはいかがでしょう?」
キュルケは、その剣へ目を向けた。
そして、わずかに眉を上げた。
「……あら」
それは、先ほどの剣とは明らかに違っていた。
鞘には丁寧な細工が施され、柄には美しい装飾がある。
ただ派手なだけではない。
全体の造りには統一感があり、細部まで手が掛けられていることが見て取れた。
店主は得意げに胸を張った。
「こいつは、とっておきでございます」
「へえ……」
キュルケは剣を受け取った。
鞘からゆっくりと抜く。
燭台の光を受け、刀身が静かに輝いた。
表面には細かな文様が刻まれている。
その線は単なる装飾にも見えたが、魔法的な加工を思わせる部分もあった。
「……これは?」
「ゲルマニアの錬金魔術師、シュペー卿が作った剣だと伝わっております」
キュルケの表情が変わった。
「シュペー卿?」
「へい。腕のいい錬金魔術師として知られる方でしてね」
店主は嬉しそうに説明を続けた。
「魔法の力が込められた上等な剣でございます。普通の剣とは切れ味も丈夫さも違う、という話でして」
キュルケは刀身を見つめた。
シュペー卿の名は、ゲルマニアの貴族である彼女にも聞き覚えがあった。
もっとも、目の前の品が本当にその人物の手によるものかどうかは、別の話だった。
「……本物なの?」
「もちろん、そのように仕入れ先から聞いております!」
「証明になるものは?」
店主は一瞬、言葉に詰まった。
「……いや、それが、正式な証書まではございませんで」
キュルケは小さく笑った。
「そう。じゃあ、あなたの説明を信用するしかないのね」
「へ、へい……」
店主は困ったように頭を掻いた。
そのとき、タバサが口を開いた。
「……見せて」
キュルケは剣を差し出した。
タバサは慎重に受け取り、刀身を眺めた。
刃の厚み。
柄の造り。
重心の位置。
そして、表面に刻まれた文様。
彼女はしばらく観察した後、剣を鞘へ戻した。
「……悪くない」
キュルケが微笑んだ。
「あなたがそう言うなら、なかなかの品なのね」
「……造りは」
タバサは短く付け加えた。
「魔法の性能は、わからない」
「そうね」
キュルケも頷いた。
店主の説明が正しいなら、価値のある剣だろう。
だが、実際の性能まで確かめたわけではない。
それでも。
キュルケは、もう一度その剣を見つめた。
「……気に入ったわ」
「ところで、お値段はいかほど?」
キュルケが尋ねると、店主は待ってましたとばかりに笑みを浮かべた。
「そちらは大変貴重な品でございますから……新金貨で四千五百でございます」
普通の剣とは比較にならないほど高い。
キュルケは少しだけ目を細めた。
「……随分と強気ね」
「いやいや、お嬢様! それだけの価値がある品でございます!」
キュルケは笑みを深め、帳場へ一歩近づいた。
「でも、そのお値段では、せっかく気に入ったのに諦めるしかないわ」
声を少し落とし、身を寄せるように剣を台へ置く。
甘い香りが近づき、店主の視線が刀身から彼女の顔へ移った。
キュルケは、その反応を見逃さなかった。
「もう少し、お勉強していただけないかしら?」
「……お嬢様方は、どうしてこうも手厳しいんでしょうねえ」
店主は思わず呟いた。
「……お嬢様方?」
キュルケが聞き返す。
店主は慌てて首を振った。
「い、いえ! こちらの話でございます!」
つい先ほども、別の貴族の少女と、その連れの大男に散々値切られたばかりだった。
今日はどうにも、値段交渉の厳しい客が続くらしい。
「……まあ、いいわ」
キュルケは剣へ視線を戻した。
「それで、いくらまで下げられるの?」
店主が値を下げるたび、彼女は困ったように眉を寄せ、それでも名残惜しげに柄へ指を添えた。
買う気のある客を帰すのは惜しい。店主は帳場の品と彼女の顔を交互に見ながら、何度も値を考え直した。
キュルケもすぐには頷かず、声を柔らかくして最後の一押しをする。
「新金貨で千なら、今ここで決められるのだけれど」
店主はしばらく考え込んだ。
キュルケは微笑んだまま待った。彼に心を寄せているのではない。相手が答えたくなる間を選んでいるだけだった。
「……新金貨で千。それでお引き取りください」
キュルケはそれを聞き、満足そうに頷いた。
「……そうね。それなら買うわ」
彼女は小切手を書き、帳場へ差し出した。
店主は金額を確かめて受け取った。
「へい! ありがとうございます!」
店主は顔を輝かせた。
「贈り物でございますか?」
「ええ」
キュルケは微笑んだ。
「ちょっと気になる人がいるの」
「ほう! それはそれは!」
店主は嬉しそうに頷いた。
「さぞお喜びになるでしょうな!」
「そうだといいんだけど」
キュルケは小さく笑った。
その声には、普段の彼女には珍しい、わずかな迷いが混じっていた。
店主が剣を整えている間、キュルケは手元の文様をもう一度眺めた。
本人が、どんな反応をするのか。
そう考えると、自然と笑みが浮かんだ。
タバサは、その様子を静かに眺めていた。
「……嬉しそう」
「そう見える?」
「……うん」
キュルケは肩をすくめた。
「だって、楽しみなんだもの」
「……断られるかもしれない」
タバサの言葉に、キュルケは一瞬黙った。
そして、くすりと笑った。
「そうね。あの人なら、平気で断りそう」
彼女は、先日のやり取りを思い出した。
誘いをかけても、簡単には応じなかった男。
こちらの言葉に動揺するどころか、皮肉を返してきた。
普通なら、少しくらい腹を立ててもおかしくない。
だが、不思議と嫌な気にはならなかった。
むしろ。
「……だから、面白いのよ」
キュルケは静かに答えた。
タバサは何も言わなかった。
ただ、友人の横顔を見つめていた。
やがて、店主が剣を整えて戻ってきた。
美しい鞘を傷つけないよう、布が巻いてある。
「へい、お待たせいたしました」
キュルケは受け取り、その重みを確かめた。
「ありがとう」
軽い買い物ではなかった。
だが、後悔はしていない。
タバサが、包みへ目を向ける。
「……渡すの?」
「ここで追いかけて、押しつけるつもりはないわ」
キュルケは笑った。
「あの人にも、予定がおありでしょうから。学院へ戻ってから、顔を見て聞いてみる」
「……そう」
タバサは、小さく頷いた。
キュルケは、包みを抱え直した。
先ほどタバサに言われたことは、覚えている。
この品も、自分で確かめてから返事をするのだろう。
少し見ただけで、手放しに褒める姿は、かえって想像しにくかった。
それでも、この文様へ目を向けたとき、何を言うのかは聞いてみたい。
「ルイズは、どんな顔をするかしら」
キュルケが言うと、タバサは彼女を見上げた。
「……怒る」
「でしょうね」
キュルケの口元が、楽しそうに動く。
タバサは、それを見てから、短く付け加えた。
「ほどほどに」
「ええ。まずは、受け取っていただけるかどうかよ」
二人は店主へ別れを告げ、武器屋を出た。
通りの光が、剣を包む布へ当たる。
キュルケは、その端を少し直した。
中にある柄と鞘の美しさは、もう確かめた。
造りについては、タバサの意見も聞いた。
だが、この品を見た男の返事は、まだどこにもなかった。
「……さて、エメトセルク」
キュルケは、腕の包みへ目を落とした。
「あなたは、どんな顔をしてくれるのかしら」
タバサが、隣で歩き始めた。
キュルケも、その後へ続く。
剣はまだ、布に包まれたまま、彼女の腕の中にあった。
二人は王都の外へ向かった。
往路に下りた、人通りの少ない場所では、シルフィードが待っていた。
タバサが近づき、首へ手を置く。
キュルケは剣の包みを抱え直してから、その後に続いて背へ乗った。
布の端を押さえ、片手で背びれへ掴まる。
タバサが学院の方へ顔を向けると、風竜は翼を広げた。
王都の屋根が遠ざかっていく。
まだ渡していない贈り物を携え、二人も学院への帰路についた。
第1章 第7話 完