In the grim darkness of the far future,there is only war.
――希望なき暗黒の遠未来、残されたのは戦争のみ
巨人の膝が離れた場所に深い窪みが残った。
青い装甲に付着していた砂が金色の縁飾りを伝って零れ落ちる。重なり合う装甲板の内側で駆動機構が低く唸り、巨大な身体がゆっくりと起き上がった。左腕には厚い盾。右手には、通常の人間であれば両手でも持て余すほどの長剣が握られている。
アウルス・ヴァレリウスは、剣を下ろさぬまま周囲を見渡した。
吹きつける風に煤と乾いた土の臭いが混じっている。荒野には無数の亀裂が走り、地中から押し出された黒い結晶が、砕けた岩盤の間に突き立っていた。遠くには何かの建造物らしい残骸もあったが、地表を引きずられたように倒壊し、その用途を判別できる形を保っていない。
つい先ほどまで、彼の前にあったのは要塞の外郭だった。
砲撃に震える防壁。通信網を埋め尽くす戦闘報告。断続的に途絶していく友軍の識別信号と、その向こうから押し寄せる異種族の群れ。故郷マクラーグを襲った群巣艦隊ベヒモスは人間の肉も、戦闘兄弟の遺体も、区別することなく呑み込もうとしていた。
ヴァレリウスは、その前に立っていたはずだった。
盾の縁で怪物の顎を砕き、振り下ろされた鉤爪を剣で断つ。視界の隅では別の戦闘兄弟が包囲を受けていた。
彼を援護するために踏み込んだ、その直後。淡い光が戦場の輪郭を覆った。爆発にしては音がなく、閃光にしては温度がなかった。剣を握る感触だけを残して足元が失われ、次にそれを取り戻した時には彼はこの荒野で片膝をついていた。
「……各隊、応答せよ」
兜の内側で、通信帯が順番に切り替わる。
戦団の戦術通信。惑星防衛軍の周波数。近隣の帝国軍部隊が受信できる共通回線。装甲内部の通信機は正常に作動し、送信記録も残されている。だが応答する者は一人もいなかった。
「こちらウルトラマリーン戦団、
彼は救難識別信号を起動し、装甲の状態を確認した。直前の戦闘による損耗は残っている。肩当てには鉤爪の痕が走り、盾の表面にも幾つもの傷が刻まれていたが、即座に戦闘不能へ繋がる損傷はない。
友軍との情報リンクだけが空白になっていた。現在地の照合にも失敗、記録された地形と周囲を走査して得られた地形が一致しない。ここがマクラーグのどの区域であるかを示す情報は何一つ存在しなかった。
ヴァレリウスは暫くその場に留まり、周囲からの攻撃を待った。
敵の転移装置か、異常な空間現象か。混沌による幻惑である可能性も捨てられない。姿を見せない敵へ注意を向けながら、視覚情報と装甲の観測結果を繰り返し比較する。
風は吹き続け、やがて砂に半ば埋もれていた金属片を岩へ打ちつける。それ以外には何も起きなかった。
彼は最後にもう一度だけ通信を送り、荒野へ足を踏み出した。
最初の一日は地形と通信の確認に費やされた。
高所へ上がり、周辺を走査する。人工物らしい反応を捉えれば近づき、残骸の内部に生存者や記録媒体がないか調べる。遠くに見えた塔は根元から折れており、そこへ繋がっていたはずの道も巨大な地割れによって断たれていた。
残骸には文字が残されていた。薄い金属板へ記されたそれは彼の知る帝国の標準的な表記とも故郷で用いられていたものとも異なっている。だが、読めない文字だけで異種族の支配域と断定することはできなかった。帝国に属する惑星の文化も言語も、全てが統一されているわけではない。
問題は、他の徴候まで見つからないことだった。
軍用通信も、行政施設の識別も、航行用の信号もない。発見した機械の残骸には見慣れた規格と一致しない部分が多かった。何より行く先々に存在する黒い結晶が彼の装甲に未知の反応を返し続けている。
夕刻、ヴァレリウスは浅い谷の入口で足を止めた。
地中から斜めに突き出した結晶は彼の脚ほどの太さがあった。表面は硝子に似た光沢を持ち、その内部へ走査波を向けると通常の鉱物として処理できない反応が返ってくる。
兜内部に表示された照合結果を読み、彼は剣先を僅かに下げた。
「記録に該当なし、か」
結晶の根元には細かな破片が堆積している。風が吹くと、その一部が土と共に舞い上がった。
ヴァレリウスは破片へ手を伸ばさず、観測だけを行った。
未知の物質を発見した際、それが危険であると判断するまで触れないという姿勢は臆病さに由来するものではない。異種族の兵器や混沌に汚染された物品の中には、最初の接触だけで取り返しのつかない結果を招くものがある。今は異常を生じた装備を交換することも、技術の専門家へ解析を委ねることもできなかった。
彼は結晶の位置と観測結果を保存し、地形図へ印を加えた。もはやここが帝国の支配領域でない可能性を真剣に考慮すべき段階だ。
日が沈むと、荒野の色は急速に失われた。
ヴァレリウスは岩の張り出した場所へ立ち、初めて夜空を長く見上げた。見慣れた星座はない。故郷と異なる空が頭上へ広がっていること自体は、他の惑星へ赴いた経験のある彼にとって驚くべきことではなかった。
それでも、眺め続けるうちに違和感が生じた。
彼は一つの明るい星を基準とし、近くにある幾つかの光点を記録した。装甲の観測機能へ追跡を任せ、暫く地表の走査を行った後、再び空へ視線を戻す。
光点の一つが予測した位置から外れていた。
大気による揺らぎや浮遊する粉塵の影響を除外して再測定する。次の記録では別の光点が僅かにずれた。互いの位置関係を保って動くはずの星々が、ある部分だけ引き留められたように静止し、時間を置いてから追いつくように移動する。
兜内部の観測記録へ、不自然な軌跡が増えていった。
ヴァレリウスは視覚装置を切り替えた。異なる観測方法を用いても、光点の位置は同じだった。自身の首や身体の僅かな動きによる誤差を補正してなお異常は消えない。
「……自然の運行ではないな」
呟きは兜の中だけに響いた。
巨大な人工構造物が視界へ干渉しているのか。空そのものに何らかの投影が施されているのか。あるいは、自分が見ているもの全体が現実の姿を保っていないのか。だが、今はそれを確かめる手段すら存在しなかった。
彼は上空の観測を継続させたまま剣の柄を握り直した。穏やかに瞬く光の下で、荒野だけがいつまでも静かだった。
さらに一日が過ぎた頃、地表の様子が変わり始めた。
砕けた車輪。布を巻いた支柱。砂へ沈みかけた小さな履物。いずれも長い間放置されていたものではなく、比較的新しい足跡がその間を縫って続いていた。
そして、装甲のセンサーが複数の生体反応を捉えた。距離は数百メートル。岩山に挟まれた窪地へ集中している。反応の数は数十、大きさにはばらつきがあり、幾つかは他と比べて著しく小さかった。
ヴァレリウスは歩調を落とし、風下へ回った。
岩の稜線を越えた先に粗末な野営地が見えた。
破損した荷台と、ばらばらの布を繋ぎ合わせた天幕が並んでいる。中央では小さな火が焚かれ、その上に煤けた鍋が吊るされていた。外周に築かれた障害物は車軸や折れた柵を積み上げた程度のものに過ぎない。
その間を、人型の者たちが歩いていた。
最初に目へ入ったのは、頭部から長い耳を伸ばした老人だった。次いで、片側の角が途中で折れた大柄な男が鍋の近くへ薪を運んでくる。その後ろでは、獣の尾を持つ女が布へ包んだ何かを抱えながら天幕へ入っていった。
ヴァレリウスはその場に留まり、視界を拡大した。
骨格の基本構造は人間に近い。道具を使い、互いに言葉を交わし、負傷者と思われる者へ水を運んでいる。だが、耳、角、尾といった組み合わせに特徴に一致する人類亜種の記録はすぐには見つからなかった。
――未知の亜人種か、人間に酷似した異種族か。
皮膚に生じた黒い結晶も気にかかった。腕や首筋から外へ露出している者がいる一方、衣服の下へ隠している者もいる。先ほどまで観測していた鉱物と類似する反応であった。
既知の帝国領であればまずは周辺部隊へ報告し、現地行政による認可の有無を確かめるべき状況である。
しかし、通信は途絶していた。
ヴァレリウスは自らの武装と、窪地の周辺を確認した。この集団を相手にした場合の戦闘結果を恐れてはいない。だが武力を行使して得られるものが明確でないうえ、装甲や武器に新たな損耗を生じさせれば、今後の活動へ影響する。目の前の者たちがこの土地で生き延びるための唯一の情報源である可能性も高かった。
彼は剣を低い位置へ保ち、盾で身体の正面を覆いながら斜面を下り始めた。
最初に巨人を見つけたのは、水を運んでいた少年だった。桶を抱えたまま動かなくなった彼へ近くの女性が声をかける。少年は答えず、野営地の外へ顔を向けた。
女もその視線を追った。
そして、青い装甲に覆われた巨体が岩の間から現れる。
大人の男よりも遥かに高い頭部。全身を包む分厚い甲冑には金色の装飾が施され、肩へ刻まれた紋章も、胸元の意匠も見覚えがない。左腕の盾は人間一人を隠せるほど大きく、右手には青白い光を帯びた剣があった。
誰かが息を吸い損ねたような声を漏らした。
「……中へ早く。子供を中へ入れろ」
低く押し殺した声が、天幕の間へ伝わっていく。
鍋の近くにいた者たちが立ち上がり、寝床から身を起こせる者も外を覗いた。幼い者や歩行の難しい者が奥へ下がる間に、動ける男たちが前へ出る。手にしているのは薪割り用の斧や短い槍、修理に使う鉄棒だった。
彼らの中で最も大柄な片角の男が先頭へ立った。その手には柄の途中へ布を巻いた斧がある。握り締めた指の節は白くなっていた。
「止まれ」
男は声を張ろうとし、途中で喉を詰まらせた。
「それ以上、来ないでくれ。ここに戦える奴なんかいない」
ヴァレリウスは足を止めた。
両者の間には、十数メートルほどの距離が残されている。男はその場から動かず、巨人の剣と盾を交互に見た。
「……あんたは何者だ」
「私はウルトラマリーン戦団のオナーガード、アウルス・ヴァレリウスである」
片角の男は、返答を待つように彼を見上げた。
それが名乗りの全てだと理解するまでに、僅かな間があった。
「……軍人、なのか?」
「アデプトゥス・アスタルテス――皇帝陛下の死の天使だ」
男の眉間へ皺が寄る。傍らの老人を見たが、長い耳を持つ老人も小さく首を振るだけだった。
ヴァレリウスは反応を記録し、問いを続けた。
「この惑星が属する星系の名を答えよ。加えて問う、汝らは帝国行政によって認可された亜人種か」
今度の沈黙はさらに長かった。
「……何だって?」
「星系名と、汝らの分類を問うている」
「場所を聞いているのか? だったら、南へ行けば大きな道がある。そこからなら……いや、待ってくれ。亜人っていうのは、俺たちのことか……?」
「他にこの場で該当する者がいるか」
片角の男は斧を握り直した。刃を上げたわけではないが、背後へ隠れていた人々の気配がさらに強張る。
「俺たちは人間だ。病気にはなってるが、それだけだ」
彼の袖口から黒い結晶が覗いていた。
ヴァレリウスは視線をそこへ向けたものの、すぐに男の顔へ戻した。
「所属する行政機構は」
「……俺たちは、ここにいていいと言われた。町を離れろと言った連中にも、こっちへ来れば邪魔にはならないだろうってな。それすら追いやられるなら、これ以上どこへ行けっていうんだ!?」
男の声に恐怖へ混ざるものがあった。背後の老人が杖をつき、一歩だけ前へ出る。
「お若いの、少し待ちなさい」
老人は巨人を見上げた。彼自身も恐れていたが、先ほどから交わされている言葉の中に、自分たちが怯えている理由とは別のものを感じ取ったらしい。
「あんたが言う帝国というのは、どこの国のことだね。ウルサス帝国かい?」
「人類の帝国だ」
「聞かない名だね。それは……どこかの国の名かい?」
「百万を超える人類世界を統べる、皇帝陛下の帝国である。まさか汝らは、帝国を知らぬのか?」
老人の耳がゆっくりと傾いた。背後で誰かが小さく何かを囁く。冗談だと言うには、目の前の巨人はあまりにも厳粛だった。
「……その、人類世界というのは」
「人類が居住する惑星を指す」
「……星のことかね」
「そうだ」
老人は空を見上げ、次にヴァレリウスを見た。
「星に、人が住んでいると?」
ヴァレリウスは答える前に老人の顔を観察した。無知を装っている者の反応には見えない。問いを理解しようとしているにもかかわらず、そもそもの前提を共有できずにいる。
「汝らは、この惑星の外へ到達する航行手段を保有していないのか」
「空を飛ぶ乗り物はある。わしらが乗れるようなものではないが……星まで行く船など、聞いたこともない」
片角の男も戸惑ったように口を開いた。
「どこかで頭でも打ったのか? それとも、俺たちをからかってるのか?」
「否」
短い返答の後、ヴァレリウスは黙った。
彼らは戦団を知らない。帝国の存在も、人類が複数の惑星へ居住している事実も知らない。頭を打ったのではないかと問う男の声音にも、駆け引きの響きはなかった。
周囲に帝国の信号がない理由は、通信妨害だけでは説明できなくなっていた。
未だ発見されていない人類世界。あるいは、それ以上に遠い場所。
いずれにせよ、今ここで敵を作る利益はない。
ヴァレリウスの指が剣の起動装置から離れた。刀身を覆っていた青白い光が消え、低く響いていた唸りも止まる。彼が剣を鞘へ収めるまで、男たちは息を詰めてその動きを見つめていた。
「……汝らと交戦する意思はない」
巨大な盾も、身体の脇へ下げられた。
「私は、この土地について何も知らぬ。自らの所属部隊から切り離され、帰還するための情報を必要としている」
「……本当に追い払いに来たわけじゃないのか?」
「そのような命令は受けていない。汝らを排除すべき理由も、現時点では確認していない」
安心させるには、少しばかり厳めしい答えだった。
それでも、剣を収めたという事実は大きかった。片角の男はまだ斧を手放さなかったが、柄を握る位置を変えて刃を下へ向けた。
老人が乾いた唇を動かす。
「何を知りたい?」
「まず、この惑星の名だ」
老人は困ったように周囲を見た。あまりにも当然すぎることを問われ、かえって答えを迷ったらしい。
「……テラだよ。ここはテラだ」
青い巨人が動きを止めた。僅かな変化だったが、それまで静かだった彼の様子が変わったことは老人にも理解できた。
「テラ、と言ったか」
「ああ。それがどうかしたのかね」
兜の赤いレンズが老人を見下ろしていた。
背後にいる者たちが再び身を固くするが、巨人の手が剣へ戻ることはなかった。
「……
ヴァレリウスは周囲の荒野と遠くに残る黒い結晶を見た。
皇帝の御座所。人類発祥の世界。目の前に広がる土地との間には、名称以外に結びつくものがない。人類の聖地がこのような姿になったと考えるより、同じ名を持つ別の世界と考える方が今の段階では妥当だった。
「……一先ずは同名の土地として扱おう。次に、地表へ広く存在する黒い結晶について聞きたい。汝らの身体にも、同質の反応がある」
その言葉に片角の男は袖口を押さえた。
「おいおい……アンタ、あれを知らないのか?」
「知らぬ」
「……源石だ、オリジニウム。そこら中に生えてるのも、俺の腕にあるのも」
ヴァレリウスは男が指した結晶を走査した。
先ほどの結晶への解析と同じ反応が返ってくる。
「肉体へ侵入しているのか」
「ああ、鉱石病っていうヤツだよ。オリパシーだ。聞いたことくらいは――」
男は途中で口を閉じた。巨大な甲冑の向こうから知っている者が見せる反応は返ってこなかった。見せつけるような嫌悪も、急に距離を取ろうとする動きもない。彼はただ説明を待っていた。
老人が杖を握り直し、静かに話し始めた。
源石は動力にも、工業にも使われること。天災の後にはその結晶や粉塵が広がること。身体へ取り込まれれば病になり、進行すると肉体の内部へ結晶が増えていくこと。
その病気を持った者が感染者と呼ばれること。
説明の途中で老人は何度か咳をした。傍らの男が言葉を引き継ぎ、天幕の近くにいた女も足りない部分を補った。
ヴァレリウスは、分からない言葉が出る度に確かめた。
天災とは何か。結晶へ近づくことと、病人へ近づくことは同じ危険を持つのか。症状が進んだ者はどのような状態になるのか。
最初は警戒しながら答えていた男の声が、次第に変わっていった。
――ここまで何も知らないことがあるのだろうか。
この土地で暮らしていれば源石と天災は避けて通れない。鉱石病を詳しく知らない者でも、感染者という呼び名くらいは知っている。
それを一つずつ、それも大真面目に聞き返してくる。老人は暫く巨人を見上げた後、片角の男へ目を向けた。
「……中へ入ってもらおう」
「爺さん……!!」
「このままじゃ、病人まで起きたままだ。あんたも斧を握って立っているのは辛いだろう」
男は答えず、自分の左脚へ視線を落とした。布で巻かれた膝の下から血が僅かに滲んでいる。
やがて彼は身体を横へずらした。
「道は狭い。それから、天幕には触らないでくれ。もう替えがないんだ」
「承知した」
ヴァレリウスは盾を身体へ引き寄せ、粗末な柵の間を通った。
野営地へ足を踏み入れると、外からは見えなかったものが次々と明らかになった。
薄い布の下に何人もの負傷者が寝かされている。敷かれているのは古い衣服や乾いた草で、地面からの湿気を防ぐものは少ない。入口近くの水桶へ布を浸している女は腕を吊っており、自由になる片手だけで作業をしていた。
食料を煮ている鍋は大きかったが、その中を掬う匙にはほとんど具が乗らない。
人々の視線が彼を追っていた。無論、近づいてくる者はいない。天幕から半分だけ顔を出していた子供も母親に肩を引かれると奥へ消えた。
ヴァレリウスは歩きながら、天幕の配置を見た。
「排水溝が寝床の上手を通っている。次に雨が降れば、汚水はこの区画へ入るぞ」
片角の男は、指された溝を見た。
「分かってる」
「炊事場も同じ流れの下にある。水の保管場所を移し、少なくとも溝を外側へ引き直す必要がある」
「……分かってるんだ」
男の声が少しだけ硬くなった。
ヴァレリウスが視線を戻すと、男は斧を天幕の支柱へ立てかけていた。片脚へ体重をかけられず、柱を掴んで身体を支えている。
「最初は上へ張ろうとした。そこの斜面なら水も来ないからな。だが、土を掘ったら源石が出た。それでこっちへ移した」
男は顎で野営地の奥を示す。
「溝を掘れる道具は先が欠けた鍬と、小さなシャベルが一本ずつだ。まともに歩ける奴は水を汲みに行くか、薪を拾いに出ている。俺も手伝うつもりだったが、この脚だ」
腕を吊った女が、桶から布を絞りながら言った。
「天幕を一つ動かすだけでも、中の人を外へ出さないといけないんです。昨日はそれをしている間に風が強くなって、一人具合を悪くして……」
彼女はそこで言葉を切り、絞った布を胸元へ抱えた。
ヴァレリウスはもう一度、野営地を見た。
軍略のみならず統治・行政・政治に精通するウルトラマリーン戦団の彼にとって、配置上の不備は見過ごせないものだった。戦力を維持し、人員を生存させるための基本に反している。だが、指摘した箇所を修正するための資材も、作業へ回せる人間も、この場所には残されていないことも明らかだ。
地図の上で天幕を移すことと、病人を抱えて実際に運ぶことは違う。
彼は足元の溝へ視線を落とした。
「……使用可能な道具と、動ける者の数を後で教えよ。移設を前提とせずに、手を加えられる箇所を確認する」
片角の男が顔を上げた。
「見てくれるのか?」
「情報が不足した状態で、実行不能な指示を重ねるつもりはない」
男は暫く黙っていたが、やがて短く頷いた。
「……道具なら、奥の荷台にまとめてある」
ヴァレリウスはその方向へ歩き出そうとした。
ちょうどその時、強い風が天幕の間を抜けた。小さなぬいぐるみが地面を転がり、それを追って子供が一人、横手から飛び出してきた。擦り切れた布人形へ手を伸ばしたまま、巨人がいることを見ていない。
「駄目!! そっちは――」
母親らしき女性の声が上がった時には、ヴァレリウスは既に重心を変えていた。
踏み下ろそうとしていた装甲靴を外側へずらし、人のいない硬い地面へ置く。足元で小石が砕け、駆動機構が短い音を立てた。子供は頭上を覆った影に驚き、布人形を掴んだ姿勢のまま足をもつれさせた。地面へ両手をつき、その目前にある巨大な靴を見て動かなくなる。
母親が駆け寄ろうとしたが、その前にヴァレリウスの手が下りた。
女の顔が凍りつく。
だがその直後、巨大な手甲の指が子供の腋の下へ差し入れられた。力のかかる位置を確かめるようなごく短い間があった後、小さな身体が地面から引き起こされる。
ヴァレリウスは子供を立たせ、両足が地面へ着いたことを確認してから手を離した。
「……周囲を見て動け。歩いている者の足元へ飛び出すな」
子供は布人形を胸へ抱き、口を開いたまま彼を見上げていた。
「ご、ごめんなさい……」
「怪我はないか」
子供は慌てて首を振った。
「ならばよい。行け」
母親がその身体を抱き寄せた。子供の頭を胸へ押しつけたまま、巨人を見上げて何度か言葉を探す。
「すみません。本当に……ありがとうございます」
「子供のいる場所では進路を広く取るべきだった。こちらも注意しよう」
ヴァレリウスはそう答え、二人が道を離れるのを待った。
母親の手はまだ震えていたが、その震えを押さえるように子供の服を握り直すと、彼女は先ほどとは少し違う顔で青い装甲を見つめた。
近くにいた男がやっと息を吐く。
「……あんた、ちゃんと止まれるんだな」
「汝は、私を何だと思っている」
即座に返された問いに、男は困ったように口を閉じた。
少し離れた場所で誰かが笑いかけ、途中で咳へ変わった。張り詰めていた野営地の空気がその分だけ緩んだ。
ヴァレリウスが荷台の近くへ移ると、先ほどの母親が子供の手を引いて近づいてきた。
彼女は一定の距離を残して立ち止まり、迷いながら口を開いた。
「あの……この子に、触りましたよね」
「起こすために必要だった」
「それは、そうなんですけど」
母親は子供の襟元を直した。布の下へ隠れかけていた黒い結晶が、首筋に覗いている。
「怖く、ないんですか……? 私たちは、感染者なんですよ?」
ヴァレリウスは、その結晶と自らの手甲を順に見た。
「我が装甲は外気と内部を遮断し、有害物質への防護機構を備えている。先ほどの説明にある粉塵や体液が手甲へ触れただけで内部に侵入することはない。故に、恐れる必要は無い」
「……そういう、意味じゃなくて」
母親は俯いた。聞くべきではなかったのかもしれない。助けてもらった直後に、わざわざ嫌われる理由を思い出させるようなことを。
だが、言葉を途中で取り消すこともできなかった。
「気持ちが悪いとか。近くに来てほしくないとか……そうは、思わないんですか」
ヴァレリウスはすぐには答えなかった。
問いの意図を把握するために、母親の顔とこちらを窺っている人々へ視線を向ける。荷台の傍にいた老人も、片角の男も、何も言わずに彼の返答を待っていた。
「……何故だ」
心底分からないという調子だった。
母親は僅かに顔を上げた。
「何故って、身体に、こんなものが……」
「病の症状であるとは先ほど説明された」
「はい」
「ならば、原因と感染経路を警戒する必要がある。肉体を侵食する物質である以上、取り扱いにも相応の注意を払うべきだろう」
そこで彼は子供の首筋から視線を外した。
「我らアスタルテスは恐怖を知らぬ。疫病や未知の身体侵食を危険として扱うことと、病人の姿を見て恐れ嫌悪することを同一視することは合理的ではない。汝は、私に何を恐れよと言っている」
母親は答えられなかった。
彼の声には慰めようとする柔らかさも、自分たちを庇うための熱もなかった。本当に問いの意味が分からず、説明を求めているようだった。
老人が杖の柄へ両手を重ねた。
「……あんたの故郷では病気になった人間を見ても、そんなふうに考えるのかね」
「病の性質と、周囲へ及ぼす危険による。全てを同じものとして扱う理由はない」
ヴァレリウスの返答は変わらなかった。
「汝らの説明によれば、会話やこの程度の接触だけで直ちに感染が生じるものではないのだろう。ならば、その事実に従って行動する」
老人はゆっくりと頷いた。納得したというよりは、巨人がどのような理屈でここに立っているのかを少しだけ理解したような動作だった。
母親は子供の肩へ手を置いたまま、深く頭を下げた。
「……そうですか」
それ以上を言おうとすると、声が崩れそうだった。彼女が子供を連れて天幕へ戻るのを見送ってから、片角の男が小さく鼻から息を吐いた。
「変な奴だな、あんた」
ぐるりと巨人の赤いレンズが彼へ向いた。
男は一瞬だけ肩を強張らせたものの、今度は目を逸らさなかった。
「いや……悪い意味じゃない」
「その評価に情報上の価値はあるのか」
「ないよ、多分な」
男の口元が、僅かに緩んだ。
まだ恐ろしい。近くへ立たれるだけで自分の身体があまりにも脆く思える。声も、問い方も、何かを命じることに慣れた者のそれだった。
それでも彼は剣を収めた。子供を避けて立ち止まり、転んだ身体を起こした。身体へ結晶が生えた人間を見ても追い払おうとはしなかった。
少なくともその三つは自分の目で確かめたことだった。
日が傾き始めると、野営地の中央で食事の分配が始まった。
薄い煮物が器へ注がれ、先に寝床へ運ばれていく。子供の分を取り分けた女が、残った量を見てから自分の匙を置いた。
片角の男がヴァレリウスを見上げ、何かを言いかけた。
「私の分を用意する必要はない」
言葉にされる前に巨人が答える。
「……そうもいかんだろう。何も出さずに、こっちばかり話して」
「現在の備蓄量は把握した。分配を変えるな」
男は鍋を見た後、少しだけ困った顔で頷いた。
ヴァレリウスは空になった荷台の脇へ立ち、老人から借りた地図を見ていた。紙には幾度も折り畳まれた痕があり、端の方は濡れて滲んでいる。そこへ記されているのは周辺の道と地名だけだったが、彼が初めて手に入れたこの土地で最初のまとまった情報だった。
「南の道までなら、歩いて半日ほどだ。ただ、わしらの足ではもっとかかる」
「車輌は利用可能か」
「その荷台を引いていたものがあった。天災の後で、動かなくなったがね」
老人は地図の隅を押さえた。
「今さら移ろうにも、寝かせている者を全員は運べん。それで、ここで待つことにした」
「何をだ」
「助けだよ。ロドス・アイランドというところが救護に来てくれるらしい」
老人はそう言い少しだけ顔を上げた。
ヴァレリウスはその名を記録した。
「どの国家に属する組織だ」
「国の軍じゃない。製薬会社だと聞いている。わしらのような感染者を診て、薬を作ったり、病気を調べたりしている人たちだ」
「医療と研究を行う組織ということか」
「まあ、その認識が正しいだろう。病気そのものを治す薬はまだない。それでも痛みを抑えたり、進み方を遅くしたりはできるそうだ。少しでも眠れるようになれば、それだけでも……」
老人の視線が、病人を寝かせた天幕へ向いた。
ヴァレリウスは紙の地図へ目を戻した。
「……その組織との連絡は取れているのか」
「一度だけだが。こっちの人数と、動けない者がいることは伝えた。最後の連絡では、この近くへ救護班を向かわせていると」
「野営地の位置は正確に伝達したか」
「天災の前の地図だから、少し違っているかもしれん。だが、あそこの岩山と折れた塔を伝えた。分かったと言っていたよ」
老人は遠くの稜線を指した。
それはヴァレリウスが一日目に確認した残骸だった。既に記録した地形と、紙の地図にある位置関係を照合する。多少のずれはあるものの、進入に使えそうな経路は絞れた。
「接近する者を監視する必要があるな。見張りは、道の方角を把握しているか」
「わしが見ていた。だが、暗くなるとどうにも……」
「以後は私が確認する」
老人の耳が動いた。
「……ここに残るのかね」
「そのロドス・アイランドと接触したい。汝らの位置を把握しているのであれば、私が無作為に都市を探すよりここで待つ方が確実だ」
源石を研究し、感染者を治療する組織。各地へ救護班を送り出せるだけの輸送手段と、情報網を持つ者たち。少なくともこの野営地より多くの設備と知識を有しているはずだった。
未知の結晶に覆われた大地。帝国へ繋がらない通信。自然の運行から外れた星空。
ここへ至った原因も、故郷へ戻る方法も、今のヴァレリウスには分からない。だが、この世界の物質と現象を研究する者へ接触することには明確な価値がある。
彼は地図を老人へ返した。
「ロドスが使用する車輌と識別標識を説明せよ。接近した際に、他の集団と区別する必要がある」
「ああ。分かる範囲でよければ」
老人は近くの荷物から連絡先を書き留めた紙を取り出した。そこに描かれた小さな標章を確かめながら、覚えていることを一つずつ話し始める。
野営地の奥では、先ほどの子供が天幕の隙間から顔を出していた。
青い巨人と目が合うと、一度引っ込み、少ししてからまた覗いた。今度は布人形だけが入口の外へ差し出された。
ヴァレリウスは子供の位置を確認し、通路から半歩だけ離れた。
説明を終えた老人がその動きを見ていたが、何も言わなかった。
やがて鍋の火が小さくなり、夜を越すための薪がその傍へ寄せられた。人々は薄い寝具へ戻り、外に残る者の数も減っていく。風を受けた天幕が継ぎ合わせた布を小さく鳴らしていた。
ヴァレリウスは野営地の入口へ立った。赤い光学レンズが岩山の向こうへ続く道を捉える。上空では昨夜と同じように星々が不自然な軌跡を描いていた。彼はその観測を止めずに救難識別信号の送信も継続させた。
巨人は盾を持つ腕の位置を変え、人の通れる幅を空けてから再び荒野へ視線を向ける。
「……皇帝陛下よ。如何にして我にこのような試練を与え給うたか」
彼の呟きは静かに夜風に消えていった。
まだ完全に決定した訳ではありませんが、リメイク前では出せなかった戦団も出したいと思っています。特に有名な戦団は特所を活かして登場させたいですね。
それはそうと利刃実装……まじ?