チェルノボーグ事変Ⅰ
Hope is the first step on the road to disappointment.
――希望とは、失望へと至る道の第一歩である
チェルノボーグへ突入したロドスの部隊は、打ち合わせていた街区まで来ると二手に分かれた。アーミヤとドーベルマンはヴァレリウスを伴い、ドクターの眠る石棺がある施設へ。ハルデンはAce小隊と行動隊E2に加わり、護送隊が戻る際に使う経路の確保へ回る。
数日前に都市へ入っていたクロウと六名は、潜伏を続けながら施設の周囲を見張っている。Scoutも残る隊員を率いて別の経路から市内に入り、クロウたちと報告を交わしつつ受け持ちの街区へ進んでいた。
ふと、通りの先で窓硝子が割れた。
アーミヤが壁際に足を止めると、後ろを歩いていたオペレーターが肩から提げた折り畳み式の担架を手で押さえる。しばらく耳を澄ませてみたが、向かいの店で開いたままの扉がときおり風に押されて壁を叩くだけだった。
石棺のある施設まではあと一つ角を曲がれば着く。先頭のドーベルマンが後ろへ手を上げ、列が壁際へ寄るのを待ってからヴァレリウスは通信を入れた。
「クロウ、施設の手前まで来た――周囲の敵情を報告せよ」
『表通りに一隊、裏手にも武装した連中が集まっている。もう一隊は北の通りを移動中だ』
「互いに連絡は?」
『そこまでは掴めていない。だが、どの隊も角を一つ回れば敷地に進入が可能だ。連中が動き始めたら、正面と裏口を同時に押さえられる』
「我々から最も近いのは」
『表通りの一団だ、今の位置なら施設の入口を横切らずに接触できる』
ドーベルマンが地図を広げる。施設へ続く道の反対側には荷捌き場があり、そこを抜ければ表通りへ出られる。クロウたちが先に入って、実際に通れると確かめた道だった。ヴァレリウスの指が、荷捌き場から南へ折れる路地までを辿る。
「承知した、裏手と北の隊が動いたら知らせよ」
通信を切ると、彼は指を置いたままアーミヤへ兜を向けた。
「アーミヤ、汝は護送隊と施設へ突入せよ。私は重装隊を預かり、表通りの敵を引き受ける」
「ですが……そこへ出たら、ヴァレリウスさんたちが見つかってしまいます」
「見つけさせるのだ。此処から南へ退けば、奴らが私を追う間は汝らの道が空く――裏手の隊まで動いたら、施設を出る経路は選び直せ」
アーミヤはもう一度地図に目を落とす。彼が示した路地は南へ延びており、石棺のある施設とは離れていく一方だ。どちらへ行くにも、今のところは同じ角の陰にいられる。その先へ踏み出す者が決まれば、あとは互いの報告を信じて進むことになる。
「……分かりました。ドクターを確保したらすぐにお知らせします、合流は予定していた地点で」
「了解した」
「重装と狙撃はヴァレリウスにつけ、搬送担当と呼ばれた者は私と来い」
ドーベルマンは地図を畳みながら隊員を振り返り、返事の揃ったところでヴァレリウスに目を戻した。
「こちらが出る時刻は分かり次第伝える。そちらの退路が塞がれそうなら、早めに知らせてくれ」
搬送担当が彼女の後を追い、担架の端が角の向こうへ消える。最後に振り返ったアーミヤの目には、ヴァレリウスが背から大きな盾を外し、左腕へ据えるところまでが見えていた。
彼のもとに残ったのは重装を含めて八名。うち二人の狙撃オペレーターには表通りを見下ろせる二階の窓を示し、六人を伴って荷捌き場を横切る。先を歩くヴァレリウスの足音は、通りへ近づくにつれてよく響いた。間もなく、向こうで交わされていた話し声が止む。
レユニオンの一団は、まだこちらに背を向けていた。手前の兵が振り向いたところで、青い装甲がまっすぐ近づいてくる。男は言葉も出ないまま傍らの仲間の腕を掴み、引かれた者まで揃って顔を上げた。巨人を見上げて一歩退く者がいる一方、列の中ほどではもう武器を抜く音がしている。
「な、何だあのデカブツは!?」
「盾を上げろ! 後ろにもいるぞ!!」
ヴァレリウスの左右にロドスの重装が広がると、それを見たレユニオンの前列も盾を構える。間を縫って後ろから杖が突き出され、その先に集まったアーツの光が、火球となって通りを渡った。
ストームシールドが傾く。火は表面へ届く寸前で潰れて左右へ散り、脇の壁に貼られていた紙を熱で縮ませた。続いて飛んだ矢は、一本が青い肩甲を叩いて折れ、残りは両隣の盾へ突き立つ。それだけの攻撃を受けても巨人は立ち位置を変えず、次の火球が来るまでに距離を詰めようとした味方の前へ、右腕を横に出した。
「止まれ、我々の任務は奴らを施設から遠ざけることだ。ここから南へ引く、こちらを追わせ続ければ十分だ」
「……今なら押し返せそうですが」
「一隊ずつ潰して回ればこちらが消耗する。その間に街区中から増援を呼ばれては厄介だ――奴らが追ってくる速さに合わせて退け」
重装の一人が盾越しに敵を見てから、荷捌き場の奥を振り返る。
「あそこの壁までですね?」
「そうだ、右から移れ。隣の盾が動くまでは互いの脇を空けるな」
右端の二人が先に退いた。それを見たレユニオンの前列は、あと少しで盾を割れるとでも思ったのか、後ろに声をかける暇も惜しんで足を速める。ヴァレリウスは左側の者を先に通し、盾に打ち込まれた長柄を押し返してから続いた。敵が角を回ってみれば、逃げたはずの重装がもう奥の壁を背にして並んでいる。
押しても動かぬ列に痺れを切らした何人かが、立ち止まった味方を押しのけて脇の搬入口へ回った。そこだけは三人が並んで踏み込める幅があり、左端のオペレーターがそちらへ盾を向けた時には、鉤のついた長柄が上縁に掛かっている。引かれた盾に身体まで持っていかれ、踏ん張った靴が敷石を擦った。
「左、下がれ!」
「盾が……っ、引かれてます!」
ヴァレリウスが長柄を掴むや、先ほどまで盾を引いていた兵の方が、仲間の列を横切ってよろめいた。鉤が外れたところへ隣の者が盾を差し入れ、後ろへ回った隊員が重装の肩を抱えて引き戻す。その二人を通してからヴァレリウスが前へ立てば、開きかけた幅はストームシールド一枚で塞がった。
その時、通りの向こうで放棄された車両の荷台が鳴る。弓兵が一人、後ろの車輪を足場によじ登り、こちらを見下ろして弓を持ち上げていた。前列で盾をいくら揃えても、あの高さからなら後ろにいるロドスの隊員まで見通せる。
ヴァレリウスが盾を上げようとした時には、二階の窓から矢が飛んでいた。弓兵は張りかけた弦から手を離し、弓ごと荷台の向こうへ転がり落ちる。続こうとした兵も車両の縁に二本目の矢が突き立つのを見て、伸ばした手を引っ込めた。
「上はこちらで見ます! 次はどこへ?」
「南の角だ、地上から先に通す――移れる時に合図を寄越せ」
ほどなく二階の窓から手が出た。地上の重装が順に下がる中、先ほど盾を取られかけたオペレーターは階段の出口まで来ると足を止め、二人の射手が追いつくまでそこで盾を構えていた。下りてきた一人が彼の肩を叩き、三人揃ってヴァレリウスの後を追う。
荷捌き場を出たところで、背後の足音が一度途切れた。入口に残った二人が南と施設の方角を見比べている。ヴァレリウスが角の内側から一歩だけ出ると、たちまち向こうで声が上がり、ためらっていた兵も武器を握り直して走り出した。
「まだ引けるぞ、次の路地へ」
そうして戦う場所を一つずつ南へずらしていった。敵が角の向こうで列を整える間は、盾を支えていた腕を下ろせる。術師が出てくれば射手が先に矢を放ち、その間に地上の列が移る。追いつかれそうな者がいれば近くの重装が盾を寄せ、二人で下がってから、次の角で足の鈍くなった者と位置を代わった。
初めのうち、ヴァレリウスが口を開くたびに彼を振り返っていた八人も、そのうち互いの名を呼んで動くようになる。次に下がる者を通せば、後ろにいる仲間が必ず代わってくれる。それが分かってからは、一人が盾を動かすのを見て、もう一人が空く場所へ足を運ぶまでが早かった。
交戦から二十分余りで、クロウから短い報告が入る。北を移動していた一隊は施設から離れる方へ曲がり、裏手にいた集団はまだ動いていないという。ヴァレリウスはその報告をドーベルマンへ回し、さらに一つ角を退いて、次に盾を構える場所を見定めた。
通りを斜めに横切る補修の継ぎ目の先では、排水溝の蓋が半ば外れていた。盾を持つ二人が踏まずに通れるよう、ヴァレリウスが手で示すと、二人は足元を見て脇へ寄る。もう一つ角を越えれば敵からは姿を隠せるものの、予定の合流地点からも離れてしまう。向こうから追ってくる足音を聞きながら彼が次の退き方を考え始めた頃、最初の火球を受けてからおよそ三十分が経とうとしていた。
『こちらドーベルマン、ドクターを確保した! アーミヤと施設を出る、予定の地点で合流できるか?』
「可能だ、先に向かってくれ。我々も間もなく動く」
『了解した、合流地点で待つ』
通信を切って目を向ければ、敵の前列は盾を揃え直し、その後ろでは短弩を持った兵が射線を探している。ここで退けば、次の角まではあの盾列がついてくる。ヴァレリウスが味方を振り返ると、一番後ろの射手まで彼の方を見ていた。
「聞け、ドクターは確保された。先頭の前衛は私が潰す、武器を捨てた者は放っておけ――汝らは最後の角まで下がり、全員が揃うのを待て」
「り、了解しました! ですが、あの数をお一人で――」
言い終える前にヴァレリウスが踏み込む。角を出た時にはまだ十歩あった距離を、レユニオン兵が盾を構え直す間に詰め、相手の視界いっぱいに青い装甲が迫った。
パワーソードは鞘に収めたまま、鋼鉄の拳を盾の中央へ打ち込む。留め帯がちぎれ、腕から飛んだ盾が隣の兵の脚を払った。体勢を崩した先頭の兵を肩で押しのけると、今度は横合いから刃が振り下ろされる。それをストームシールドで受けて押し返し、返す盾の縁を肩口へ叩き込めば、刃を振った兵は足を浮かせて車止めの向こうへ落ちていった。
武器を取り落とした一人が座り込んで頭を庇う。ヴァレリウスはその脇を抜け、崩れた盾列の向こうで短弩を持ち上げた兵へ向き直った。
弩の先には、曲がり角へ退きつつあるロドスの射手がいる。前を行く重装はもう角の向こうへ入っており、ヴァレリウスが盾を射線へ入れるにも、間に一人分の距離があった。引き金に掛かった指が曲がる。その瞬間に手甲が兵の喉を打ち、敷石に短弩が落ちる音と重なって、射手の足音が角の向こうへ消えた。
兵は喉に手を当てて倒れ、息を引き込もうとした肩も、やがて動かなくなる。その傍を回ってなお前へ出ようとした二人を盾で押し返すと、一人は路肩へ転び、もう一人は背を向けて走った。前衛の列は崩れたが、後続は倒れた者の間に足場を探し、もう槍や鉈を握り直している。
そこでヴァレリウスは、味方に避けさせた排水溝へ目を落とした。半ば外れた蓋から斜めに延びる補修の継ぎ目を見て取ると、溝の縁めがけて装甲靴の踵を振り下ろす。
鈍い音が足元から走り、継ぎ目に沿って敷石が割れた。跳ね上がった蓋が支えを失って溝へ落ち、その縁から敷石が二枚、三枚と崩れていく。駆け出しかけていた兵は、亀裂が通りの半ばまで走ったところで足を止めた。勢いのまま溝を飛び越えようとした者もいたが、着地するはずの敷石まで傾くのを見て、慌てて後ろへ下がる。
ヴァレリウスは盾を敵に向けたまま数歩退き、角を回る。先ほど彼を呼び止めかけたオペレーターがそこにいて、こちらへ口を開いたものの、視線はまだ割れた通りを離れていなかった。
「い、今のは……」
「全員いるか」
問われてようやく仲間の方を向いたオペレーターが、遅れて人数を数える。本人を数に入れるのを忘れたらしく、隣から声をかけられて、はっと顔を上げた。
「は、はい! 八名とも揃っています!」
「よし、アーミヤたちと合流する。歩きながら負傷を報告せよ」
盾を左脇へ戻し、ヴァレリウスが歩き出すと、八人もほどなく後に続いた。最後尾の重装が角を離れる頃、崩れた溝の向こうでは、ようやく誰かが負傷者を通りの脇へ寄せるよう叫んでいた。
それより少し前、施設の北側では、クロウが残る部隊の動きを追っていた。
北の通りを移動していた一隊が交差点を渡り、施設から離れる方へ曲がっていく。その最後尾まで見届けてからヴァレリウスへ報告を入れ、クロウは壁際に身体を寄せた。クロージャの工房で仕立てた弩は背にあり、その上から垂らした外套には、肩を預けた壁と同じ色の煉瓦が並んでいる。
次に一隊の姿が見えるとすれば、二つ先の交差点だろう。そちらに注意を戻したところで、カクテルの声が入った。
『クロウさん、西の路地から別の一団が来ます。先頭に一人、後ろに五人……窓と屋根の縁を、一つずつ見てきています』
「こちらに気づいたか」
『恐らくまだです。ただ、一人が同じ窓の下から動きません。奥を見張るふりをして、向かいの建物を見てるみたいです』
クロウが頭を僅かにずらすと、路地に積まれた木箱の向こうで、人影が一つ次の角へ移るのが見えた。足を下ろす場所を先に選び、窓硝子の手前では身を低くして、向かいからその姿が見えぬように歩く。後続も、前の者を見失わぬだけの間を空けて同じ道を来ている。カクテルが先に見つけてくれなければ、もっと近くまで足音を聞くことさえなかっただろう。
カメレオン・クロークには、肩の張り出した部分にまで煉瓦の目地が映っていた。クロウ一人なら、外套を壁に沿わせて立っているだけで、あの一団を真横に通せる。だが、連中がカクテルたちのいる窓の下を過ぎ、さらに階段の裏まで見ていくとなると話は変わる。潜伏中の六人がそこから移るには、向かいの建物から見通せる場所を横切らねばならなかった。
「……あのまま来れば此方を探られる。奥の搬入口へ誘い込むぞ、俺が先頭を押さえる。後ろの五人は報告を入れる前に制圧したい」
『ここでやり過ごすなら、階段の組を先に動かすしかありませんね』
スリンカーの返答に、少し遅れてミミの声が重なる。
『今降りたら角にいる奴に見られます……搬入口の方なら、こっちから先に回れます!』
「よし、動け。武器と通信機を確保して、可能な限り生かして拘束しろ」
ミミともう一人が先に移り、壁沿いの荷車を寄せて、奥へ抜ける脇道を塞いだ。反対側の通路では、カクテルが開いていた扉を内側から引く。あとに残るのは右に折れる路地が一本、その突き当たりには、長く使われていない搬入口がある。見通しの利く通りを避けて進む者なら、まずその路地を選ぶはずだ。
六人が曲がり角と搬入口の間に分かれると、クロウも路地へ続く壁のくぼみに立った。肩からずれた外套を引き寄せれば、煉瓦の色は裾まで移り、足元に出ていた黒い装甲も壁の影に沈む。
やがて、黒い上着を纏った女が彼の前を横切っていった。後ろの五人が追いつくのを待つ間に一度だけ閉じた扉へ目をやり、次に荷車のある脇道へ視線を移す。壁際から斜めに延びる車輪の跡は、埃をかぶった車体に比べて随分と新しい。車輪に押された砂がまだ細く盛り上がり、その上には誰の足跡もついていなかった。
女の歩みが止まる。
「……クラウンスレイヤー?」
すぐ後ろの男が声を落として尋ねると、彼女は片腕を出し、自分の前へ行かせまいとその胸を押さえた。車輪の跡から入ってきた角へ目を戻し、最後尾がまだ通りを見通せる位置にいるか確かめる。その僅かな間にも、彼らの通ってきた道には、壁に沿って近づく者がいた。
「――下がれ! 罠だ、来た道を戻るんだ!!」
最後尾が振り返って通信機へ手を伸ばす。そこへ壁際からカクテルが出て腕を取り、押し返そうとした男が壁に肩をぶつけた。ほとんど同時に反対側でも靴音が鳴り、抜き放たれた刃が一度だけ煉瓦を擦る。
クラウンスレイヤーは武器を抜いて部下の方へ向き直った。その時、すぐ後ろで煉瓦の目地が歪む。
壁の色が横へずれ、そこから見上げるほど背の高い、黒い装甲の巨人が身を起こす。外套の表面を走っていた模様が肩から途切れ、その上で腕が振り上げられた。目に入った刃は、彼女の持つ武器よりもずっと長い。
――あれだけの巨体が、腕を伸ばせば届くところにいた。
気づくまでの一瞬で、刃はもう振り下ろされていた。クラウンスレイヤーは眼を見開き、とっさに腰を沈める。肩へ届く寸前で身体を捻り、そのまま相手の左脇へ抜けようとした。すぐ先には腕を取られた部下がいる。あと一歩踏み込めば、押さえている奴の背に自分の刃が届く。
その一歩を踏む先に、クロウの腕があった。
コンバットナイフは、彼女の肩を追うより先に止まっている。腰を切り返そうとしても間に合わず、横から伸びた手に手首を取られ、そのまま敷石へ引き倒された。刃が石を打って指から外れ、滑っていく。空いた手を伸ばすより早く腕を背へ回され、引き抜こうとしたところで肩が軋んだ。
「くッ、放せッ!!」
頭の上でナイフを鞘に戻す音がして、クラウンスレイヤーは敷石に頬をつけたまま顔を横へ向けた。部下の一人は壁際で膝をつき、もう一人は倒れた木箱の傍で押さえられている。奥の三人も武器を失い、最後尾が使おうとした通信機は、カクテルの足元に転がっていた。
誰かが低く呻く。彼女は声のした方へ目を凝らし、倒れた部下の背が浅く上下するのを見て、ようやく詰めていた息を吐く。
「五名、押さえました。誰も外には出ていません」
手近な兵の腕を固定したスリンカーが、報告を終えてからクロウの足元を見た。
「……正直、あの短い間に全員生かして捕らえろと言われるとは思いませんでした」
「情報が欲しかった。ここを通りがかっただけにしては、随分とよく周りを見ていたからな」
その声を聞きながら、クラウンスレイヤーは先ほどの刃を思い返す。自分が身体を捻った時には、切っ先はすでに止まっていた。左へ踏ませるだけなら、最後まで振り抜く必要はない。自分から選んだつもりでいた逃げ道に手を伸ばされ、今は頭上で部下の数まで読み上げられている。腹が立つほど力の入っていない手甲が、まだ彼女の腕を押さえていた。
「……貴様、随分と余裕綽々だな」
黒い兜がこちらを向く。彼女はその正面を睨みながら片肘を僅かに敷石へ寄せ、背へ回された腕にかかる力を探った。少し離れたところで、拘束具の留め金が鳴る。
「私が口を割るところまで算段に入れてるのか?」
クロウは答えず、敷石の上に開いていた彼女の指が、ゆっくりと握り込まれる。
「誰が、お前に情報を渡すものか」
睨み上げて言い切った口元から、白いものが漏れて敷石に落ちた。次の息で霧は足元を覆い、たちまち膝を越えてクロウの肩まで呑み込んでいく。さっきまで見えていた搬入口は輪郭から先にぼやけ、その手前に膝をついていた兵の姿まで白さに紛れた。
「霧がっ!? カクテル、そっちは……!」
ミミの声に返事が重なり、すぐ後ろでは壁を探った手が鉄扉を叩く。
「――全員、位置を保て! 押さえた相手から手を離すな」
クロウの声が飛んだ時には、クラウンスレイヤーは背へ回された腕の方へ自ら身体を捻っていた。肩に痛みが走るのを堪え、押さえの縁を抜けた手を胸へ引き寄せる。身体を起こした勢いで敷石を蹴ると、伸ばした手が暗い壁に触れた。
煉瓦の継ぎ目に沿って指を滑らせながら、入ってきた角の方へ進む。そこまで十歩もない。先に出口へ出てしまえば、部下のうち自分で動ける者を呼べる。足音を殺そうにも、急いで踏み出した靴は、敷石の上で一度だけ滑った。
一方、クロウの兜の内側では表示が切り替わっていた。肉眼で見る路地は端まで白い。その下に、熱源センサーの拾った人影がいくつも滲んでいる。壁際に重なった影がその場に留まる中、一つだけ離れた影が、身を低くして路地の入口へ向かっていた。足が敷石を擦る音もして、クロウは聞こえた方へ半歩出る。
クラウンスレイヤーが壁から手を離した瞬間、上着の背が強く引かれた。踵が敷石を擦り、前へ向かっていた身体が、そのまま霧の中へ引き摺り戻される。
「なッ――!?」
振り返って黒い腕に指を掛けても、引き剥がすより先に両腕を取られた。今度は手首を背で揃えたところへ拘束具が閉じ、身体を捻っても、さっきのように手は抜けない。
「……どうして私が見えた!? お前、何をした!」
息を切らして見上げる彼女の前で、黒い兜は動かなかった。クロウはまだ揺れる人影の表示を見ながら、壁際の隊員へ声をかける。
「カクテル、捕虜を数え直せ。ミミは負傷者の確認を頼む」
「……了解、見てきます」
霧が薄れるにつれて、搬入口の下から敷石の目地が見えてくる。六人は捕らえた兵を一人ずつ壁際へ移し、数を確かめたカクテルが指を五本立ててから、クロウの傍らにいる女を指した。
クラウンスレイヤーは腕を押さえられたまま、その列へ目を向ける。先ほど呻いた一人が、敷石に膝をついて身体を起こそうとしていた。横へ屈んだミミが肩に手を添え、息はできるかと尋ねる。男が一度咳き込んでから頷くまで、彼女はそちらを見ていた。
路地の入口からは、まだ新たな足音が聞こえてこない。スリンカーが拾い上げた通信機にも送信された形跡はなく、クロウは短く頷いてロドスの回線を開いた。
「こちらクロウ、偵察地点でレユニオンの一隊を拘束した。捕虜は六名、指揮官はクラウンスレイヤーと呼ばれていた。現在位置と移動に使える経路を送る」
回線が短く鳴る。応答を待つ間も、クロウは霧の残りが敷石を這う路地の入口を見張り続けていた。