用意されていた部屋には窓がなかった。
壁面に固定された端末と資料を広げるための机があり、入口に近い側だけは椅子が退けられて、代わりに幅のある頑丈な腰掛けが置かれている。ヴァレリウスはその造りと扉までの距離を確かめると、盾を壁際へ寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。剣と拳銃は帯びたままだったが、手はどちらにも触れていない。
フェンが退室して扉が閉じると、艦の駆動音が床を通じて微かに伝わってきた。ここまで案内される間に感じた振動よりも小さく、規則正しい響きだった。
「始める前に一つ確認しておきたい」
ケルシーが端末へ手を添え、彼の兜を見上げた。
「君の説明を後からこちらの都合で解釈し直すことがないよう、会話は記録させてもらう。我々の発言も同様に残すが、差し支えないか」
「異存はない。私も、我が装甲の記録機能を用いよう」
「分かった。では、始めよう」
アーミヤが机の中央へ端末を置くと、陸地と国境を描いた地図が表示された。
「先に、私たちから説明しますね。キャンプの皆さんから聞いたお話と重なるところもあると思いますが、違っていることや分かりにくかったことがあれば、遠慮なく確かめてください」
「承知した。私も事情を理解せぬまま話を進めるつもりはない」
重々しい返答にアーミヤは小さく頷き、地図へ指を向けた。
テラと呼ばれる世界に幾つもの国家が存在し、それぞれに異なる統治機構を持つこと、天災から逃れるために都市そのものを移動させていること。その動力であり、産業の基盤でもある源石と、源石を媒介として行使される技術、アーツについても、彼女は一つずつ言葉を選びながら説明していった。
ヴァレリウスの問いは、やがて地図の上にある国境から、そこで暮らす者たちの動きへ移っていった。移動都市はどれほどの頻度で進路を変えるのか、天災の予測を担うのはどのような組織なのか、そして、都市の外へ取り残された住民を回収する制度は存在しないのか。
「国や都市によって異なる」
最後の問いにはケルシーが答え、地図の一角へ視線を落とした。
「避難の仕組みが整っている場所もあれば、費用を支払えない者や、行政上の保護を失った者が置き去りにされる場所もある。都市が移動できることと、住民の全てが避難できることは、残念ながら同じではない」
「……先ほどの野営地は、その後者というわけか」
「はい。怪我で動けなくなった方もいますが、それ以前に感染者であるという理由で十分な保護を受けられなかった方もいました」
アーミヤの声が僅かに沈み、膝の上へ揃えていた手に力が入った。
「感染の拡大を防ぐための隔離なのか。それとも、追放そのものを目的としているのか――その区別は、なされているのか」
ヴァレリウスは慰めも非難も交えずに尋ねた。その問いを聞いたアーミヤは一度唇を結び、顔を上げて答えた。
「隔離という言葉で、追放を正当化している場合があります。その人の症状や、どうすれば周りの人と一緒に暮らせるのかを調べようともしないで、感染者だからというだけで……」
そこで言葉を整えるように息をついた彼女の手へ、ヴァレリウスの視線が向かった。黒い袖口とその指にある装具を、赤いレンズが捉える。
「……汝も感染者なのか」
「はい。私もそうです」
アーミヤは手を隠さず、彼をまっすぐに見返した。
「ロドスには感染者も非感染者もいます。治療を受けている人も、働いている人も、私たちと一緒に戦う人もいて……全員がここで生活しているんです」
「だが、治療法は確立していないと聞いた」
「鉱石病を完全に治す方法は現時点では存在しない」
答えを引き継いだケルシーの声には、曖昧さがなかった。
「進行を抑え、症状を管理し、合併する問題へ対処するために研究と臨床を続けている。身体に結晶が見えるというだけで直ちに接触を断つべきだとは判断しないが、危険性の存在しない病として扱うこともできない」
具体的な感染経路と曝露を避けるための基本的な措置が説明されると、ヴァレリウスは老人たちから聞いた内容と照らし合わせ、異なる箇所や不明瞭だった点を確かめた。
彼女たちは病の危険を否定しているのではなく、その危険を把握したうえで、病を持つ者の生活を維持しようとしているらしい。
「なるほど……医療という範疇だけでは済まぬ、ということか」
「薬が届いても、住む場所を奪われてしまったら治療は続けられませんから。働くことも、十分に食べることもできなくなって……それでも病気は進んでいきます」
アーミヤは野営地の方角を思い浮かべるように目を伏せた。
「私たちはそういうところも変えていきたいんです。治療を受けるために、生きていられる場所まで諦めなくていいように」
ヴァレリウスの脳裏にも、救護班の運び込んだ薬剤と具のほとんど浮いていない煮物が蘇った。
「国家を持たぬ組織が、その役割を引き受けるのか」
「我々だけで全てを成し遂げられるとは考えていない。各地の機関や企業と契約を結び、協力を得ているが、同時に、患者と職員を守るための武装も維持している」
ケルシーはそこで彼の腰の剣へ目を向けた。
「救護班に護衛が必要だった理由は、君にも理解できるだろう」
「ああ。医療に従事する者を他の全ての者も尊重するとは限らぬだろうな」
ヴァレリウスはそう答え、地図から二人へ視線を戻した。
「では、次を確かめたい。汝らが人間と呼ぶ者たちの身体的な差異についてだ。耳、角、尾――これらは後天的な改変ではなく、生まれながらの特徴なのか」
「基本的にはその通りだ。種族による違いはあるが、全ての特徴が全員に同じ形で現れるわけではない」
「同一の行政区画に複数の種族が居住することも常態なのだな」
「はい、ロドスもそうです」
アーミヤは背筋を伸ばし、先ほどよりもはっきりとした声で続けた。
「国や場所によって種族への偏見はあります。でも、私たちはそういう違いだけで誰かを治療や保護の対象から外したりはしません」
その強調が何に向けられているのか、ヴァレリウスにも分かった。野営地で彼が最初に何を問うたのかも、救護班から伝えられているのだろう。
「……帝国の分類を、そのままこの地へ適用できぬことは認識している」
「その分類については、後で詳しく聞かせてもらおう。君が誰を敵と見なすのかは、こちらにとって看過できない問題だ」
ケルシーの声が一段低くなり、赤いレンズと彼女の視線が正面から重なった。
「無論だ。私を迎える側として、確かめねばならぬことだろう」
話題が宇宙へ及ぶと、説明する側が入れ替わった。
ヴァレリウスは星系の位置を特定するための資料がないことを再確認した後、二夜にわたって観測した星々の異常を伝えた。ケルシーは途中で彼を止め、観測の方法と誤差を除外した手順について尋ね、その答えを聞く間、端末へ添えた指を動かさなかった。
「……観測手段を変えても、同じ軌跡が得られたのだな」
「そうだ。装置の不調だけでは説明がつかぬ」
「その記録も後で確認したい。ただ、今この場で君の故郷までの位置関係を示すことはできない」
慎重に選ばれた返答だったが、空の異常そのものを説明する言葉は続かなかった。
「……そうか。承知した」
ヴァレリウスは僅かに顎を引いた。望んでいた答えではないにせよ、根拠のない方角を示されるよりはよい。
「ならば、今度はこちらのことを話そう。まず、帝国は一つの惑星に存在する国家ではない」
人類が星々へ進出し、数えきれぬ世界へ居住地を築いてきたこと、現在の帝国がその広大な領域を統べていることを、彼は語り始めた。
夜空に見える星の光は、その先に人間の暮らす場所があることを示しているのだという。
「キャンプでは……百万を超える世界、とお話しされたそうですね」
アーミヤは端末の地図から顔を上げ、確かめるように問いかけた。
「その百万というのは、本当に星の数なんですか?」
「帝国に属する人類世界の数だ」
「その一つ一つに、国や都市があって、人々が暮らしている……?」
「単一の都市が地表の広範囲を覆う世界もあれば、農産物の生産へ機能を集中した世界もある。高度に工業化された世界から、部族社会に留まる世界まで――それら全てが、帝国の一部だ」
ケルシーの指がようやく端末の画面へ触れた。ただし、入力を始めるまでにはほんの短い間があった。
百万という数を、彼は地図の縮尺でも示すように口にしていた。距離も、輸送も、補給も、その尺度の下で成立しているという説明をテラの国家の延長として処理することはできない。
「……その領域を統べる中心は、どこにある」
「
テラという名に、アーミヤの耳が僅かに動いた。彼女が傍らへ目を向けても、ケルシーはヴァレリウスを見据えたまま落ち着いた声を崩さなかった。
「こちらのテラと同一かどうかは、名称だけでは判断できない」
「私も同じ結論に達している」
「君の知るテラの周辺天体や地理も、後で照合しよう。今は帝国と君の所属について続けてくれ」
ヴァレリウスは頷き、皇帝に仕えて人類の敵と戦うアデプトゥス・アスタルテスと、その一翼を担うウルトラマリーン戦団について語った。マクラーグを故郷とする戦士たちの中で、自らも数世紀にわたって奉仕を続けてきたのだという。
「数世紀も……ずっと、戦ってこられたんですか?」
アーミヤは、声に出してから彼の装甲を見た。
長命な者の存在自体が全く未知というわけではない。それでも、目の前の男が語った歳月はそのほとんどが戦歴だった。幾世代もの人々が生まれては死んでいく間、戦場に立ち続けていたのだと考えると、装甲へ残る傷の見え方まで変わるようだった。
「……一つ、聞かせてほしい」
ケルシーが彼の肩から兜へ視線を移した。
「その巨体と身体能力だが、君は生まれながらにその身体を持っていたのか?」
「否。私は人間として生まれ、選抜と改造を経てアスタルテスとなった」
「生体への介入で、そこまでの変化を……」
ケルシーはそこで言葉を切り、改めて彼の全身を見た。声音に混じった僅かな驚きと好奇心はすぐに収まったが、観察する目の鋭さは増していた。
「体格のみならず、身体能力もその処置によって得られたということだな」
「大きく括れば、その理解でよい。ただし、詳細には我が戦団の秘事に関わるものがある」
「今、全てを開示しろとは言わない。だが、通常の人間を前提とした判断が君には適用できない可能性があることは覚えておこう」
ヴァレリウスは了承し、暫く考えてから両手を兜の側面へ添えた。短い音と共に密閉が解かれると、アーミヤは僅かに身を起こしたものの、動かずに待った。
持ち上げられた兜の下から現れたのは幾つもの傷痕を持つ男の顔だった。角も獣の耳もなく、厚い骨格と常人には比べるべくもない首が装甲の襟へ続いている。
アーミヤは一瞬だけ目を見開き、それから初めて直接向けられた彼の眼差しを受け止めた。
「君が転移する直前まで、戦闘中だったことは聞いている」
ケルシーの問いかけにはそれまでと違う慎重さがあった。
「何と戦っていた?」
「ティラニッド――群巣艦隊ベヒモスに属する、異種族の侵攻群だ」
ヴァレリウスは兜を脇へ置いた。音声装置を介さない声は幾分か響きが異なり、その低さが今は直接二人へ届いていた。
「連中は銀河の外から来襲し、幾つもの世界を滅ぼした後、我が故郷へ到達した。私は戦闘兄弟たちと共に防衛線にいた」
「侵攻の目的は、領土なんでしょうか。それとも、資源を奪うために……?」
「捕食だ」
問いの途中へ置かれた言葉に、アーミヤの唇が止まった。
「人間だけを食らうのではない。動植物も、利用可能な有機物も、世界を満たす生命そのものを奪い、全てを消費し尽くせば、次の世界へ向かう」
ヴァレリウスの眉間に深い皺が刻まれた。
「対話は不可能だ。交渉のために近づいた人間も殺され、奴らを構成するバイオマスの一部となる」
「世界の……生命そのものを?」
端末の縁を握るアーミヤの指が強張った。都市を明け渡せば助かるのでも、財を差し出せば時間を買えるのでもなく、そこに生きていること自体が襲われる理由になるという。
彼女が言葉を失っている間に、ケルシーが尋ねた。
「君の故郷での戦闘は、まだ終わっていないのか」
「……私が離れた時点では、続いていた」
返答までの僅かな間と、机の上で握られた彼の手を見て、アーミヤはようやく故郷へ帰るという言葉の重さを悟った。
彼の戦闘兄弟も、故郷の住民も、今なお侵攻群に晒されている。この部屋で自分たちが話している間も、防衛線には彼が盾を構えていたはずの場所があるのだ。
「……そう、だったんですね」
それ以上の言葉を足せなかったアーミヤへ、ヴァレリウスは一度だけ顎を引いた。慰めを求める様子はなくとも、その返答を退けることはしなかった。
少し間を置いてから彼女は尋ねた。
「その侵攻を食い止めることができれば、故郷は安全になるんですか?」
「今回の敵からは、守れる」
「……また、別の敵が来るかもしれないんですね」
「常にその可能性へ備える。故郷への危機が去れば、次は救援を要する別の世界へ向かうことになろう」
「その戦いはいつから続いているんですか」
「帝国は一万年に及ぶ年月を戦い続けている」
アーミヤが息を呑み、ケルシーも今度は彼の顔を見直した。
「一万年……」
「無論、全ての世界で常に砲火が交わされているわけではない。だが、銀河のいずこかでは、常に人類が戦っている。報告が届いた時には、既に援軍を送る先が失われていることさえあるのだ」
アーミヤは問いかけた時に思い浮かべていた年月を飲み込んだ。一人の生涯や一つの国家の歴史では到底収まらない歳月にどれだけの者が生まれ、子を残し、あるいはそれも叶わず死んでいったのか、数えることすらできなかった。
「……君がいた戦線もその中の一つということか」
「そうだ。我が故郷だけが、救援を必要としているわけではない」
自身の戦場を唯一の危機として語らないことが、二人にはかえって重かった。
それ以後、アーミヤの問いは軍の編成よりも、その下で生きる者たちへ向けられた。兵士でない人々はどのように暮らし、これほど多くの世界を維持するために、何を負担しているのか。
ヴァレリウスは、帝国へ捧げられる貢納について説明した。食糧や鉱物、工業製品に加え、兵員もまた各世界に割り当てられた義務の一つであり、徴集された者は故郷を遠く離れた戦場へ送られるという。
「その人たちは……戻ってこられるんですか?」
「戻る者もいる。だが、全ての兵に元の世界への帰還を保証することはできぬ」
続きを待つアーミヤの目を彼は避けなかった。
「輸送手段も、戦局も、全員を故郷へ戻すことを前提として動いてはいない」
「市民の生活よりも、供出の履行が優先されることもある――そう理解していいのか」
ケルシーが尋ねると、ヴァレリウスは静かに頷いた。
「そのような世界は存在する。帝国が広大であることは、各地の統治が等しい水準にあることを意味しない」
「統治の水準が低いから起きるのか。それとも、制度のうえで許されているのか……どちらだ?」
彼は女の顔を見た。何が起きるかという説明を聞いたうえで、何が許されるのかを改めて問うている。
「……帝国への義務を果たしている限り、惑星の統治者には広い裁量が認められる」
「そうか」
ケルシーの眉が僅かに寄ったが、それ以上、すぐに言葉は続かなかった。
その制度の下で繁栄する都市もあるのだろう。しかし、必要な量を送り出す仕組みさえ維持されていれば、飢えも過労も圧政も、その世界の内側へ閉じ込められうる。百万という巨大な数が、そこで暮らす人間の安全まで保証しているわけではなかった。
「君の戦団もそのような統治を行うのか」
「我らは帝国の全行政を統括しているわけではない。我が戦団が重んじるのは統治される領域の安定と生産だ。民を無為に疲弊させ、都市の機能を損なうことを優れた統治と呼ぶつもりはない」
その言葉には初めて明確な誇りが滲んだ。自らの故郷とそれを支えてきた者たちへの評価については、曖昧にする気がないらしい。
「だが、ほかの世界で起きていることを全て止めるわけではない。我らにも戦力と権限の限界がある。望めば全てを正せるというのならば、苦労はせぬ」
低く落とされた声に逃げようとする響きはなかった。止められないことを知りながら、それでも帝国のために戦うという男の姿を二人は記憶に留めた。
「労働の一部には
「サーヴィター……それは、どういうものですか?」
「生体と機械を組み合わせた従僕だ。用途に応じて肉体を加工し、必要な器具を組み込む」
「負傷者の身体機能を補う義肢の類か」
ケルシーの問いに、ヴァレリウスは首を振った。
「それとは異なる。通常、人格を担う高次の機能は除去あるいは抑制され、限られた作業を反復するために用いられる」
ケルシーの指が止まり、それまで僅かながら変化していた表情から動きが消えた。
「……元は人間ということか」
「そうだ。培養された肉体が基材となる場合もあれば、刑罰として改造を施される者もいる」
「刑罰で……人を、そんなふうに?」
アーミヤの声が掠れ、彼女は一度息を吸い直した。
「待ってください。その人の意思はどうなるんですか? 何をしたいとか、何をされたくないとか、そういうことも……」
「作業に不要とされた機能は、保持されぬ」
問い直された理由を測りかねるように、ヴァレリウスは彼女の顔を見た。その反応がアーミヤには答えそのものと同じほど衝撃だった。
自分の手を見下ろすと、指が僅かに曲がった。握ることも、誰かへ差し伸べることも、怖くなって引っ込めることもできる――そのどれを選ぶか決めている自分自身を、取り去られてしまうのだという。
残された身体が動いていることを生きていると呼んでよいのか、すぐには分からなかった。
「……ロドスでは、行いません」
顔を上げたアーミヤの声は、先ほどよりもはっきりしていた。
「人を、その人がいなくなるように作り変えて道具として働かせることは、絶対に」
「汝らの施設に導入せよと、勧めているわけではない」
「はい、それは分かっています。ヴァレリウスさんは私たちの質問に答えてくださったんですよね」
アーミヤは強張った指をゆっくりと開いた。
「ですが、ここに来ていただく以上、私たちがどう考えているかも伝えなくてはいけないと思いました」
ヴァレリウスが黙って彼女を見つめると、ケルシーが静かに言葉を継いだ。
「犯罪への処罰と患者への治療は、ここでは別のものだ。苦痛を訴えることも拒むこともできなくしたからといって、その後の扱いまで正当になるという考えは採らない」
「……考えの相違は、理解した」
彼はそれを承認や改悛の言葉へ変えなかった。アーミヤも頷かせようと追及することはせず、ただ机の上へ戻した自分の手を見た。
ここで驚きや嫌悪を示したからといって、遠い世界の制度が消えるわけではない。それでも、何も言わずに聞き終えてしまうことは彼女にはできなかった。
暫くの沈黙の後、ケルシーが記録へ目を落とし、話題を戻した。
「それほどの規模の社会を星々の間で維持しているというのなら、輸送経路についても聞いておきたい。通常の空間を航行するだけで必要な往来に間に合うのか?」
「否。長距離の星間航行には、〈歪み〉の空間を通る」
現実の空間とは異なる領域を航行することで、遠く隔たった星々の間を行き来するのだと、ヴァレリウスは説明した。ただし、その領域は人類のために整えられた安全な通路ではない。
「航路は変動し、時間の経過も、常に外部と一致するとは限らぬ。消息を絶つ船もあれば、ようやく辿り着いた時には救うべき世界が既に失われている船もある」
「……時間まで一致しないのか」
ケルシーが僅かに目を細めた。その顔を見たヴァレリウスは、彼女が何を考えたのか察したように続けた。
「私がこの地へ至った原因としても、可能性の一つではある。だが、あの現象を既知の航行と同じものだと断定するだけの根拠はない」
「君自身の力で再現することはできないのだな」
「できぬ。できるのであれば、私はとうに故郷へ戻っている」
低い声に滲んだ切実さを聞いて、アーミヤは彼の顔を見た。帰還を阻んでいるのは地図や知識の不足だけではなく、どれほど資料を集めても、それだけでは届かない場所なのかもしれなかった。
ヴァレリウスはそこで背筋を伸ばし、それまでよりも声を落とした。
「そして、その領域と結びついた脅威がある。汝らが私をここへ留めるかどうか判断するのであれば、その概要は知っておくべきだろう」
彼の声音が変わったことに、二人とも気づいていた。
「ただし、詳細な儀式や呼びかけの文言を話すことはない。知ること自体に危険が伴うものもある」
「……概要を聞こう」
ケルシーが答え、机の中央に置かれた端末へ一度視線を落とした。
「だが、その危険を理由に我々へ判断の放棄を求めることは認めない。それは先に伝えておこう」
「判断に要する情報を渡すために、話しているのだ」
僅かに硬くなった声を収めるように、ヴァレリウスは一呼吸置いた。
「〈
病人へ救いを約束し、虐げられた者へ報復の力を与え、死を恐れる者へ死を免れる道を示すもの。その約束が助けを求めた人間のために果たされるとは限らず、肉体も意志も、場合によっては死後さえも、代価から逃れられないのだという。
ヴァレリウスは必要な範囲に言葉を留めていたが、救済について語っている時にも、その眼差しは戦場の敵を見据える者の厳しさを失わなかった。
「弱さだけを狙うのではない。忠誠も、探究も、同胞を救いたいという願いすら、連中には付け入る足場となりうる」
「誰かを助けたいという気持ちまで……」
アーミヤの声が小さくなり、ヴァレリウスは彼女を見た。
「ゆえに、差し出された救済をその言葉だけで受け取ってはならぬ。敵がこちらの切実さを知らず、ただ恐ろしい姿で現れるだけだと考えるべきではない」
アーミヤは唇を結び直した。助けたいと願うことそのものを禁じられたわけではないと理解しても、その願いを知られているという警告は容易に胸から離れなかった。
ケルシーは机の上へ置いていた手を引き、彼の言葉を吟味した。
用いられる語彙には宗教的な響きがあり、それがどこまで現象の正確な記述であるのかはまだ判断できない。しかし、理解の及ばない現象が理解の及ばないまま人を死なせることもある以上、言葉の印象だけで切り捨てることはできなかった。
「その力に触れた者が周囲へ被害を広げる場合もあるのか」
「ある。一人の人間が、都市や世界を破滅させる入口となることすらある」
「本人がそれを望んでいなくても?」
「望んだか否かで、結果が変わるとは限らぬ」
アーミヤは静かに息を吸った。
「それなら、助けを求めていただけの人が何も知らないまま、周りの人たちまで……」
「知らぬことは被害を防ぐ盾にならぬ。外見だけで安全を保証することもできない」
ヴァレリウスの視線が彼女の手袋を一瞬だけ捉えた。
「汝らから説明された病と、私が今語った脅威とを、同じ基準で扱うことは適切ではないのだ」
「源石についても、当初はその可能性を考えていたのか」
ケルシーの問いに彼は躊躇わず頷いた。
「未知の物質であり、肉体へ侵入する――最初から除外する理由はなかったが、源石が混沌に由来すると確認したわけではない」
「では、アーツは?」
「同様だ。似て見えるというだけで、同一の力だと判定はせぬ」
「その点は明確にしておこう」
ケルシーの目が鋭くなり、声にも僅かな圧が加わった。
「警戒することは禁じない。だが、こちらの術者を未確認の分類だけで処置することは認められない」
「私はまだそのような行動を取っていない」
「ああ。だからこそ、取る前に話している」
二人の視線が机を挟んで重なっても、アーミヤはどちらかを宥めようとはしなかった。ここで曖昧に済ませることのできない話だと、彼女にも分かっていたからだ。
「……侵食が都市の規模を超えてしまったら、どうするんですか」
ヴァレリウスが少女へ顔を向けると、彼女は緊張した面持ちのまま答えを待っていた。
「封鎖、鎮圧、汚染源の排除――残された手段と、被害の性質による」
「それでも、止められなかったら?」
「回復が不可能であり、周辺世界への脅威を看過できぬと判断されれば……惑星そのものを処分する場合がある」
アーミヤの口が僅かに開き、ケルシーの視線が彼の目元へ据えられた。
「惑星を、処分する――具体的には何を行う」
「地表の生命を根絶する。以後、その世界が敵の足場にも、増殖の資源にもならぬように」
アーミヤは返事をしなかった。都市を砲撃することを大きく言い換えたのかと思い、机の上の地図へ目を落としてから、ようやくその意味を理解した。
地図の一部が失われるのではなく、そこに描かれたどの土地へ逃げても助からないということだった。
「……そこに住んでいる人たちも、全員ですか」
「退避が可能であれば行う。だが、時間と経路が残されていなければ救出は断念される」
「まだ、生きている人がいると分かっていても……?」
「……そうだ」
返答の短さにアーミヤの肩が強張った。ヴァレリウスは脅すような口調を使わず、誇ることも、声を荒らげることもなかったが、そのためにかえってこれが実際に命じられる行為なのだと伝わってきた。
「
アーミヤは端末から手を離した。名も顔も知らない何億もの命を実感できる数へ置き換えることなどできなかったが、つい先ほど運び込まれた患者の顔なら思い浮かべることができた。
寝台へ横たわっていた人も、布人形を抱えていた子供も、まだ生きている。助かるかもしれないその人たちへ、治療をする意味はもうないと告げる場面が望んでもいないのに浮かんできた。
誰かがその人たちの生きる世界ごと失わせると決めたならば、差し出せる薬も、運び出すための担架も、何の役にも立たなくなってしまう。
「……君が話しているのは、通常の疫病に対する一律の対応ではないな」
ケルシーの声は抑えられていたものの、語尾には硬さがあった。
「そうではない」
「だが、被害を受けていない人間まで殺す決定が制度として存在している」
「その世界を失うことで、さらに多くの世界を守るためだ」
「その判断が誤っていた場合は?」
ヴァレリウスの眉が動いた。すぐに返事がなかったのを見て、ケルシーは彼から視線を外さず続けた。
「権限を持つことと、誤らないことは別だ。敵の工作も、報告の遅延も、政治的な思惑もあるだろう。君が説明した規模の組織にそれらが存在しないとは考えにくい」
「……判断を誤れば、その損失は取り戻せぬ」
低く返った声には容易に踏み込まれたくないという厳しさがあったが、問いそのものを拒む言葉は続かなかった。
「故に、安易に下すべき命令ではない」
「安易でなければ……正しいことに、なるのでしょうか」
アーミヤが顔を上げた。その声は小さく、けれど、聞き流せるほど曖昧なものではなかった。
問いが酷であることは彼女自身も分かっていた。全員を助けられない場面も、誰かを守るために相手の命を奪わなければならない場面も知っており、それを忘れたまま一人も失うなと命じるつもりはなかった。
「私たちにも助けられなかった人がいます。間に合わなかったことも、ほかの人を守るために、目の前の誰かと戦わなくてはいけなかったことも……あります」
最後の言葉が僅かに揺れ、彼女は膝の上で手を握り直した。
「でも、助けられなかったことをもう考えなくていい理由にはしたくありません。その判断しか残っていなかったのなら、どうしてそこまで追い込まれてしまったのかも、忘れたくないんです」
「それを考えたところで、次の侵攻が止まるわけではないぞ」
「……はい。分かっています」
アーミヤは一度目を伏せ、それから彼を見つめ直した。
「だから、考えながら、次には間に合う方法を探したいんです。同じことを仕方がなかったと繰り返すだけにはしたくありません」
ヴァレリウスは答えずに少女を見た。机へ戻された小さな手はまだ強張っており、その声には既に失った者を思う重さがあった。
甘いと切り捨てるにはその痛みは明らかだった。しかしそれだけで帝国の置かれた現実に対する答えになるとも彼には思えなかった。
「我らが一つの戦場で判断を遅らせている間に、別の場所で援軍を待つ者が死ぬ。敵は我らが納得するまで待ちはせぬ。救いたいという願いがあろうとも、そのための時間まで与えられるわけではないのだ」
ヴァレリウスの声が低く響いた。
「それはこの大地でも同様だ」
ケルシーが静かに応じた。彼女はアーミヤへ一度だけ目を向けると、再びヴァレリウスを見据えた。
「救援の出発を遅らせれば死ぬ者がおり、情報が揃うまで待てない場面もある。だからこそ、何を知っていて、何を推測しているだけなのかを区別しなければならない」
ヴァレリウスの手が、机の上で僅かに動いた。
「君の世界にそのような決断を要する脅威が存在する可能性は否定しない。だが、その存在をもってあらゆる圧政や殺戮まで正しいとすることはできないだろう」
彼の顎が目に見えて固くなった。皇帝の帝国を、異郷の者が裁いている――そう捉えることは容易であり、長く仕えてきたものを僅かな説明だけで量られたくはなかった。
それでも目の前の女が問うているのは、ここにいる彼の行動原理でもある。自らの共同体へ迎えようとしている武装者が、どのような理由で誰に刃を向けるのか。それを確かめることは指導者として至極当然のことだった。
「……私は帝国の全ての統治者が誤らぬと述べた覚えはない。だが覚えておけ、汝らの想像よりも我らの戦乱は巨大で、して残酷だ」
「ならば、こちらの懸念も理解できるはずだ」
ケルシーは声を強めなかったがその眼差しには譲る気配がなかった。
「君を迎えることによって、君の世界の処刑権までこの艦へ持ち込まれることになってはならない」
暫くの間、駆動音だけが室内に残った。ヴァレリウスは机の上の地図を見てから、二人へ顔を戻した。
「我らの原則は人類の存続である」
「その人類に私たちは入りますか」
間を置かず返された問いに、彼の視線がアーミヤへ移った。少女の長い耳とその傍らにいる女の耳が目へ入り、野営地で見た角や尾、皮膚へ露出した結晶も思い出された。
「現時点で、汝らを帝国の認可された亜人種として確認することはできぬ」
「では、認められなければ……私たちは、敵になるんですか?」
「帝国の規定は、異種族を人類と同等の権利を有する隣人として扱うことを前提としていない」
アーミヤの耳が僅かに伏せられたが、その目は彼から逸れなかった。
「相手が話し合おうとしていても、ですか」
ヴァレリウスはこの問いをティラニッドの説明で退けることができないと理解した。少女が問うているのは、世界を食い尽くす侵攻群のことではない。
「人類の領域と将来を異種族の善意へ委ねることはできぬ。それが、帝国の立場だ」
「そのために、相手が襲ってくる前に滅ぼすこともある――そういうことか」
ケルシーが確かめると、彼はまっすぐに答えた。
「ある」
アーミヤは息を止め、机の縁へ目を落としかけて、思い直したように彼の顔を見た。
つい先ほど子供を起こし、患者の担架を運んでいた人物が、別の選択をしていれば自分たちへ刃を向ける側に立っていたかもしれない。助けた時の行動が偽りだったわけでも、今の説明が冗談なのでもないという事実を、彼女は痛みと共に受け止めた。
ヴァレリウスは二人の表情を見渡し、少し間を置いて続けた。
「だが、汝らの分類は未確定だ。私への攻撃も人類へ敵対する行為も確認していない。汝らは負傷者を治療し、私の申し出を検討するためにこの場を設けた」
机の上へ置いていた大きな手がゆっくりと離れた。
「我らの戒律に照らしても、今ここで汝らを敵と定めるための確認は済んでいない。その空白を己の都合で埋めるつもりはない」
「……それでは、私たちはあなたの分類が決まるまで、一時的に人間として扱われるだけなんでしょうか」
アーミヤの声にそれまでとは違う硬さが宿る。
「ロドスの人たちは、皆ここで生きています。あなたが認めるかどうかを待って、命を持つわけではありません」
ヴァレリウスが僅かに眉を動かしても、彼女は言葉を引っ込めなかった。ケルシーも口を挟まず、机の向こうで二人を見ていた。
少女に対する見積もりを彼は改めなくてはならなかった。彼の話を信じたいあまり自らの立場まで差し出すような相手ではなく、庇護を求めてここへ来たのが誰であるかも忘れてはいないらしい。
「……汝らが自らの共同体を守るために条件を示すことは理解している」
ヴァレリウスは言葉を選び、先ほどよりも静かな声で答えた。
「私がその条件の下で滞在することに同意するかどうか。今定めるべきなのは、その点であろう」
アーミヤは暫く彼を見つめた後、ケルシーへ顔を向けた。ゆっくりと頷き返したケルシーは記録の画面を切り替え、取り決めに用いる文書を表示した。
艦内で治療を受ける者も、働く者も、これから定める言葉の意味を知らずに暮らしている。その安全を互いに都合よく受け取れる約束へ委ねるわけにはいかなかった。
「まず、私たちはあなたの帝国へ帰属するのではありません」
アーミヤは姿勢を正し、ヴァレリウスの顔を見た。
「ここで一緒に働くことになっても、それを皇帝陛下への忠誠や帝国の法律を受け入れたという意味にはしないでください」
「私もまた、戦団への誓約を他へ移すつもりはない」
「はい。それは求めません」
迷いのない返答にヴァレリウスの眉が僅かに上がった。アーミヤはその変化を見ながら続ける。
「私たちが約束してほしいのは、ここにいる仲間や患者を傷つけないことです。種族や、感染しているかどうか、それから信仰や出身を理由にその人を処罰しないと約束してください」
「直接の攻撃に対する自衛は別としてよいのだな」
「もちろんだ。ただし、君の警戒に触れたというだけの者を自衛の対象には含めない」
ケルシーが答え、文書の一節へ指を添えた。
「君が知る脅威の徴候を認めた場合は、速やかにこちらへ知らせてほしい。隔離や立ち入りの制限が必要なら協議するが、差し迫った攻撃への対処と予防を理由とする処刑は分けて考える」
「対処の遅れが被害を拡大させる場合もあるぞ」
「だからこそ、平時のうちに連絡経路と判断を担う者を決めておく。君が危険の根拠を説明し、こちらも検討できるようにしておくためだ」
ケルシーは端末を彼の方へ少し動かした。
「知らされていない脅威について、我々が正しく動くことはできない。同時に、説明されていない理由で艦内の誰かが君に殺されることも認められない。どちらも、滞在を認めた後になってから考えればよい問題ではないだろう」
「……ああ。その指摘は妥当だ」
ヴァレリウスは彼女の目を見て答えたが、アーミヤはまだ表情を緩めなかった。
「もう一度だけ確かめさせてください。ヴァレリウスさんの分類でどうなるかに関係なく、この艦で暮らす人として皆さんの安全を守る――そういう約束として、受け取っていいですか?」
彼は暫く少女を見つめ、その問いの意味を確かめるように口を閉じていた。
「私が引き受けた約定の保護対象を、後から勝手に変更するつもりはない。我が名において交わす誓約をそのようには扱わぬ」
アーミヤはゆっくりと頷き、強張っていた肩からほんの少し力を抜いた。
「……ありがとうございます。そのお約束を、信じましょう」
「では、我々が提供するものを提示しよう」
ケルシーは文書へ目を戻し、ロドス側の支援と協力の範囲について話し始めた。
ロドスはヴァレリウスを外部の協力者として庇護下に置き、滞在場所と必要な生活上の支援を用意する。その身元や出自に関する情報の公開は、本人と協議した範囲へ限り、帰還についても、入手できる情報の照合と適切な専門家への相談を支援する。
ただし、帰還経路の発見も、その実現も保証することはできない。
「故郷への道を用意できると言って、君を働かせるつもりはない。現時点で分からないことは分からないままだ。それを了承したうえで、ここへ滞在するか判断してほしい」
ケルシーはそこで顔を上げ、明確に告げた。
「承知している。調査を進めるための基盤を得ることが今の目的だ。成し遂げられぬ保証を、汝らへ求めはせぬ」
ヴァレリウスはそう答え、自らが提供できるものを示した。
「救護活動における護衛と、襲撃に対する防御。野営や輸送の安全確保も力になれるであろう。必要があれば、戦術上の助言も行う」
「いずれも事前に内容を確認してからの参加とする。出身や経歴を理由に、何も説明せず前線へ送ることはしない。逆に、君が独自に敵を定め討伐や処刑を始めることも認めない」
ケルシーは彼の返答を記録しながら続けた。
「無論だ。我らの戦いを汝らへ肩代わりさせるつもりもない」
ヴァレリウスの答えは、今度は素速かった。
「敵の追討や領域の征服を、この艦の活動へ持ち込むことはせぬ。任務として引き受けた範囲においてのみ協力しよう」
現場での指揮については、さらに確認が必要だった。数世紀の戦歴を持つ戦士の経験を無視することも、逆に彼が加わったことで既存の部隊の指揮を崩してしまうことも避けなくてはならない。
引き受けた任務では現地の指揮系統と連携し、戦術上の問題があれば説明したうえで可能な限り先に調整する。急迫した危険へ即応した場合にも、その行動と理由を報告し、参加できない任務については出発前にその旨を伝える。
アーミヤは一つ一つ彼の返答を待ちながら話を進め、ヴァレリウスもまた、不明な点が残ったまま頷くことはしなかった。
「一つ。この文言では、武具の扱いまで汝らへ委ねるようにも取れる。それは認められぬ」
「……良いだろう。装備の所有と、実際に誰が触れるのかは分けて記そう」
「閲覧できる資料の範囲も先にお伝えしますね。帰還の調査に必要な情報でも、患者さんの記録など、そのままお渡しできないものがあります」
「理解している。我が戦団の秘事についても、同様に扱ってもらいたい」
立ち入れる区画と閲覧できる情報、互いの機密を求められた場合の対応についても確かめるうちに、机の上には幾度も修正された文書が残った。
ヴァレリウスは戦団の秘事と、ロドスで安全に過ごすために必要な危険の説明とを区別し、ロドスもまた、彼が情報を必要としていることを理由に施設や記録への無制限な接触を認めはしなかった。
彼に読み取れない文字については全文を読み上げ、説明と合意を音声にも残したうえで、後に翻訳を照合できるようにすることとなった。何もかもをその日のうちに解決することはできなくとも、未解決の箇所を曖昧なまま通り過ぎずに済む形へは、少しずつ近づいていた。
「……それから、もう一つ」
アーミヤの声にヴァレリウスが顔を上げた。少女はケルシーと一度視線を交わしてから、彼へ向き直った。
「ヴァレリウスさんが戦えなくなった時のことです」
「負傷した場合の取り決めか」
「はい。怪我をしたり、病気になったりして活動に協力できなくなっても……それだけを理由にあなたを艦の外へ出すことはありません」
ヴァレリウスの視線がアーミヤからケルシーへ移ったが、彼女は訂正することなく頷いた。
「滞在中の規則は守ってもらう。だが、戦力として役に立つかどうかだけで負傷者の居場所を取り上げることはしない」
「……汝らの負担は増えるぞ」
「治療の途中で放り出された人がどうなるかも、私たちは知っていますから」
アーミヤは文書の上へ目を落とした。その声には、先ほど帝国の制度を問うた時とは違う、静かな確かさがあった。
「キャンプにいた方たちの中にも、働けないから戻れなくなった方がいます。ここで同じことをしたくありません」
ヴァレリウスは少女の手と、その前に置かれた契約を見た。
この艦も無尽蔵に物資を生み出す場所ではない。燃料と人員を要し、武装を維持しながら別の用途へ回すこともできる空間を患者のために割いている。
彼女はその負担を知らずに話しているのではないのだろう。知ったうえで、どこまでを自らの義務として引き受けるのかを決めているのだ。
「……よかろう。その条件も、確かに聞き届けた」
アーミヤが顔を上げると、彼は先ほどまでよりも幾分ゆっくりと言葉を続けた。
「私も引き受けた任務を軽んじることはせぬ。汝らが庇護を与える以上、約した協力は果たす――その点に、疑いを持たせぬよう努めよう」
「はい。よろしくお願いします」
ようやく少女の表情に僅かな柔らかさが戻った。ケルシーは二人を見てから最後の修正を反映し、署名に先立って、契約の全文をもう一度読み上げた。
ヴァレリウスは自らの記録とも照合しながら不明な言い回しを確かめ、ケルシーはその都度答えた。アーミヤも彼が理解した内容とこちらの意図に食い違いがないか、急かすことなく問い返した。
全ての確認を終えると、アーミヤがロドスの代表として署名し、ケルシーが確認の欄へ名を記した。
差し出された筆記具を受け取ったヴァレリウスはその細さを確かめ、手甲の指で慎重に持ち直した。アーミヤが一瞬だけその手元を見守ると、紙の上へ二人の使うものとは異なる文字が刻まれていった。
Aulus Valerius
それが彼の名であることは、本人の声と共に記録へ残され、その署名をもってロドスは一人の異郷の戦士を庇護下へ迎えた。
複製された文書を受け取り、ヴァレリウスが任務の範囲と艦内の規則を改めて記録する間、アーミヤは手元の写しを揃えていた。やがて彼女は顔を上げ、今度は幾分ほっとした様子で呼びかけた。
「改めてよろしくお願いします。ヴァレリウスさん」
「ああ。こちらこそ、世話になる」
「故郷へ帰る方法を見つけられるように私たちも調べます。ただ……その前に、ここで無理をしすぎないでくださいね」
ヴァレリウスは少女を見つめ、やや間を置いて尋ねた。
「汝も、前線に立つのか」
「……はい。必要な時には」
彼の視線が黒い袖口へ下り、再び彼女の顔へ戻った。
「ならば、その忠告は汝自身にも向けるべきだな」
「え……」
アーミヤの目が丸くなり、隣からケルシーの声が続いた。
「その点については私も同意する。よく聞いておくといい、アーミヤ」
「……ケルシー先生まで」
困ったように顔を向けた少女をケルシーは平然と見返した。ヴァレリウスは笑わなかったが、先ほどまで互いを見極めていた時とは違う沈黙が短く三人の間に残った。
やがて彼は脇へ置いていた兜を取り、すぐに被ろうとはせずに低い声で言った。
「我が故郷、マクラーグにも子供がいる」
アーミヤは文書を揃える手を止めた。
「畑を耕す者も、学ぶ者も、家族を養う者もいる。我らが敵を討つのは、その全てを失わせぬためだ」
彼は二人へ顔を向けた。戦歴や帝国の制度を語っていた時よりも言葉を区切る間が長かった。
「汝らが語る生活を、私が理解できぬものだとは考えぬように」
アーミヤは答えを急がずにその言葉を受け止めた。
この男は自分にも理解できる暮らしを守るために戦ってきた。同時に、敵の側にいるという理由で同じように暮らす者を滅ぼすこともあるのだと、先ほど彼自身が語っていた。
子供を助けた手も、敵を討つための手も、今、同じ兜を握っている。どちらかだけを見て分かったつもりになることはできなかった。
「……はい。覚えておきます」
静かに答えたアーミヤを、ケルシーも遮らなかった。
会談を終えて立ち上がっても、聞いた話を部屋の中へ置いて出られるわけではなかった。アーミヤは契約の写しと記録を整理し、搬送された患者の状態を確認するために端末へ目を落とした。
画面に並ぶ名前の一つ一つに病状と担当する医療要員が結びついている。その具体的な文字を辿るうちにも、先ほど聞いた途方もない数が頭から離れなかった。
百万もの世界を統べる帝国と、人格を奪われた従僕、人の救いを求める心へ付け入る、未知の存在――ケルシーはそれらをいずれも確認の済んでいない情報として記録していた。
裏づけがない以上、全てを事実として扱うことはできない。だが、百万の世界を抱えながら、その一つに暮らす者たちを切り離す判断が存在するという説明を聞かなかったことにもできなかった。
ケルシーは契約の写しを閉じ、ゆっくりと息を吐いた。その僅かな疲労の表れを見た時にはヴァレリウスは既に兜を被り直しており、再び表情が青い装甲の奥へ隠れていた。
肩当てへ残る深い傷が室内の光を受けた。それを見たケルシーは目を細め、まだ確かめるべきことがあると判断した。
「待ってほしい、ヴァレリウス」
「……何か残っていたか」
「君の装甲と武具だ。これから、どう維持するつもりでいる?」
盾へ伸びかけていた彼の手が止まり、赤いレンズがケルシーへ向いた。
「このパワーアーマーの日常の点検と許される範囲での処置は、私にも行える」
「では、部品の交換が必要になった場合は?」
「本格的な修復には戦団の
「そうだ。装備の損耗を避ける必要があったことも、野営地で戦闘を選ばなかった理由の一つだと君は話していた」
ケルシーの視線が傷の走る肩当てへ向いた。
「契約を結んだからといってその問題が消えたわけではない。こちらに物資があっても、規格も材質も動力も分からない装備に何を用意すればよいかは判断できないだろう」
「……道理だ」
「同じことが君自身の身体にも言える」
ヴァレリウスが彼女へ向き直り、アーミヤも端末から顔を上げた。ケルシーは今度は肩の傷を見ず、彼の兜を見上げていた。
「君は改造を受けたと言ったな。何が通常の身体と異なるのか、我々はまだ知らない。負傷した君を前に、既知の人体を前提として止血や投薬を行ってよいかどうかも判断がつかないのだ」
「我らには常人に勝る自己回復能力がある。損傷に対する耐性も高められている」
「負傷しないとは言っていないだろう」
即座に返された言葉に、ヴァレリウスは口を閉じた。
「自力で回復できる範囲を超えた時には誰が判断する? 君が意識を失っていた場合、我々は何をしてよくて、何をしてはならない」
その問いにすぐ答えることはできなかった。
ティラニッドの鉤爪に穿たれた戦闘兄弟を彼は幾度も見てきた。装甲の中で血を失い、立っている力を保てなくなった者もおり、アスタルテスの肉体をもってしても死を遠ざけることには限界がある。
戦場には医術官がおり、帰還すれば装甲を診る技術者が待っていた。だが現在は、その両方を欠いた状態で自らが倒れた後のことまで考えなくてはならなかった。
「……通常であれば、我らの
ヴァレリウスはゆっくりと答えた。
「複数の移植器官と、常人とは異なる身体機能を熟知した者だ。……彼らであれば装甲の中で何が起きているかも把握できる」
「ならば、その者がいないことを前提に準備をしておく必要がある」
ケルシーは責めることなく言い、彼が答えるのを待つように少し間を置いた。
「君の身体へ無断で手を加えるという話ではない。可能な限りそうせずに済むよう、事前に情報を持っておきたいのだ。装甲についても同様だろう」
ヴァレリウスは胸元の装甲へ視線を下ろした。内部の機構は今も正常に動作していたが、その状態がいつまで続くのかを意思の強さだけで決めることはできなかった。
「……汝の指摘は正しい」
暫く考えた末に顔を上げると、その声には先ほどまでとは違う慎重さがあった。
「だが、機構も生理機能も公開できる範囲には限りがある。全てを開示し、分解や検査へ委ねることには同意できぬ」
「理解している。まずは担当する専門家と話し、何を確認できるのかを整理するところからでいい」
「技術に関しては誰が責任を持つ」
「クロージャだ。本艦の技術部門を取りまとめている。君の装備を実際に扱えるかどうかも含めて、彼女の見立てが必要だ」
ヴァレリウスはその名を記録し、続けて尋ねた。
「医療については?」
「ワルファリンに相談してほしい。長い臨床と研究の経験がある。まずは、君が話せる範囲の生理機能と装甲に備わる救命機能、既存の薬剤との適合について確認することになる」
ケルシーはそこで言葉を切り、改めて彼を見た。
「診察や試料の採取は説明を受けてから判断してくれ。君の同意しない処置を研究上の興味だけで認めることはない」
「お二人には、私たちから先に事情を伝えます」
アーミヤも頷き、ヴァレリウスへ声をかけた。
「分からないことがあっても、そのまま無理に進めないようにしますから。ヴァレリウスさんも、話せないことや触れてほしくないところがあれば、先に教えてください」
ヴァレリウスは二人を見た。先ほどまで人格を消して作られる従僕や世界を焼く命令について話していた相手が、今は彼自身の負傷を想定し、何を準備すべきか確かめている。
受け入れるという約束は、彼が倒れた後のことまで考える行為へ既に繋がっていた。自らが紙へ記した名にも同じだけの重さを持たせなくてはならなかった。
「クロージャと、ワルファリン……」
二つの名を口にしたヴァレリウスは、重々しく頷いた。
「両名との面談を求める。触れてよい箇所と開示できる事項は、私の方でも整理しておこう」
「分かった。こちらで手配しよう」
ケルシーの返答を聞いて、ヴァレリウスは盾を持ち直した。
故郷へ通じる航路はまだ見つかっていない。戦団の声は届かず、頭上にあるはずの星々すら彼の知る運行には従わなかった。
それでも、次に尋ねるべき相手の名は二つ増えていた。
ケルシーの40k世界への所見とか書こうなと思ったんですが、ヴァレリウスの証言だけで向こう側の世界のことを理解できるとは限らないのでもう少し先にしようと思います。