日本国召喚×ふしぎの海のナディア―ネオ・アトランティス異世界転移― 作:ネオ・アトランティス
神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊と、ネオ・アトランティスの試験艦隊が互いの姿を確認してから、すでに相応の時間が経過していた。
両艦隊の間には、依然として一定の距離が保たれている。海上を進む未知の艦艇群は整然とした隊列を崩すことなく航行を続けていた。互いの存在を認識しているにもかかわらず、どちらも不用意に距離を詰めようとはしない。
海面には波が寄せては返し、風が吹き抜けていく。その穏やかな景色とは裏腹に、双方の艦内では緊張が静かに高まりつつあった。
見張り員たちは望遠鏡越しに相手の動きを追い、士官たちは報告された情報を照合し、各艦の指揮官は次の判断を慎重に見定めている。明確な敵対行動は確認されていない。
しかし、相手の正体が分からない以上、警戒を緩めることもできなかった。
神聖ミリシアル帝国側にとって、前方の艦隊は所属も目的も不明な存在だった。船体の形状、甲板上の構造物、艦艇同士の配置。そのいずれにも、既知の国家が運用する艦艇と一致する特徴は見当たらない。
識別標章や所属を示す旗印も確認できず、蓄積された軍事情報と照合しても、正体を特定する手掛かりは得られなかった。
一方、ネオ・アトランティス側も、遭遇した艦隊の国家名や軍事組織名を把握していなかった。相手の船体には未知の特徴が見受けられたものの、外見だけで技術水準や武装、動力機関の仕組みを推し量ることは難しい。
視認できる情報と、そこから導き出せる推測との間には、依然として大きな隔たりがあった。
未知の世界へ転移してから、半年。
ネオ・アトランティスは失われた基盤の再建を進める一方、新たな環境への適応と、この世界に存在する文明や国家の調査にも着手していた。地理を把握し、海洋環境を調べ、活動に適した地域を探る。
そして、周辺にどのような勢力が存在し、どの程度の技術や軍事力を有しているのかを明らかにする。そうした調査の積み重ねこそが、今後の活動方針を定めるための基礎となる。
今回の試験艦隊も、その調査活動の一環として派遣された部隊だった。
任務の主眼は、未知の海域に関する情報収集と、発見した文明の実態を把握することにある。他国の軍事組織と遭遇する可能性も、当然ながら想定されていた。
しかし、少なくとも今回の航海に、積極的な交戦を目的とする命令は含まれていない。情報を得ることと、無用な危険を冒すことは別問題であり、相手の正体が分からない段階で不用意に事態を悪化させるのは、調査任務の本旨からも外れていた。
そして今、試験艦隊は、この世界にどのような国家が存在するのかを知るための、最初の具体的な手掛かりと向き合っていた。
神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊。その旗艦『ロト』の艦橋では、司令官レッタル・カウランが望遠鏡を構え、前方の艦隊を観察していた。
レンズの先に映るのは、見慣れない船体を持つ複数の艦艇だった。船体の輪郭も、甲板上に設けられた構造物も、神聖ミリシアル帝国海軍が運用する魔導艦とは明らかに異なっている。
艦艇ごとの大きさや配置には一定の規則性があり、無秩序に集まった船団ではなく、何らかの指揮系統の下で運用されている艦隊であることがうかがえた。
それにもかかわらず、目立った装飾や識別標章は見当たらない。船体の特徴だけで所属を判断することもできず、相手がどのような国家に属しているのかを推測する材料は乏しかった。
レッタルは望遠鏡を下ろし、艦橋の傍らに立つ艦長タグスへ視線を向けた。
「タグス、相手の様子はどうだ?」
問いかけを受けたタグスは、手元の報告を確認してから顔を上げた。
「現在も隊列を維持したまま航行しております。こちらの存在には気づいているはずですが、接近や通信など、積極的に接触を試みる動きは確認できておりません」
「所属を示す旗印や、識別できる標章は?」
「確認できておりません。船体の特徴についても、我が軍が把握している国家の艦艇と一致するものは見つかっておりません」
「そうか……」
レッタルは短く応じ、再び望遠鏡を覗き込んだ。
相手の艦隊には、目立った混乱も、こちらへ攻撃を仕掛けようとする明確な動きも見られない。各艦は一定の間隔を保ち、隊列を乱すことなく進んでいる。その様子だけを見れば、少なくとも現時点で敵対行動を取っているとは言い難かった。
だが、敵対していないことと友好的であることは同じではない。相手がこちらの出方をうかがっている可能性もあれば、何らかの目的を持って接近してきた可能性もある。現段階では、どのような解釈にも確たる根拠が欠けていた。
第一文明圏において強大な地位を占める神聖ミリシアル帝国であっても、この世界のすべてを把握しているわけではない。既知の国家や海域については相応の情報が蓄積されている一方、調査が行き届いていない地域には未発見の勢力や、従来の知識では説明できない存在が潜んでいる可能性が残されている。
見慣れない艦艇と遭遇したからといって、ただちに敵と決めつけるのは早計だ。しかし、正体を確認せず、そのまま見過ごすわけにもいかなかった。
「こちらから呼びかける。魔導拡声器を準備しろ」
レッタルが決断を下すと、タグスは間を置かず通信担当者へ指示を出した。
「魔導拡声器の使用準備を開始しろ。装置の作動状態と伝達方向を確認。相手に確実に声が届くよう調整するんだ」
「承知しました!」
命令を受けた担当者たちは、甲板に設置された魔導拡声器の点検を始めた。魔導機関との接続を確認し、装置の作動状態を確かめながら、遠方の艦艇へ音声を届けるための調整を進めていく。
レッタルは艦橋内の様子を一瞥すると、装置の準備状況を自ら確認するため、甲板へと移動した。
そこでは、見張り員アレシオス・ヴェルナーが望遠鏡を手に、前方の艦隊を監視していた。彼は司令官の姿に気づくと、姿勢を正しながら報告する。
「司令、相手の隊列に変化はありません。現在も一定の間隔を保って航行しています」
「分かった。引き続き監視を続けろ。船体や甲板上の構造物に変化があれば、すぐに報告するんだ」
「了解しました」
アレシオスは短く返答し、再び望遠鏡を覗き込んだ。
レッタルは魔導拡声器の前に立ち、正面の艦隊へ顔を向けた。相手がこちらの言葉を理解できるのか、それすら確証はない。言語が通じたとしても、呼びかけに応じる意思があるとは限らない。
それでも、まずはこちらの所属を明らかにし、相手がどのような反応を示すのかを確かめる必要があった。少なくとも、何の接触も試みずに相手の意図を推測し続けるよりは、得られる情報があるはずだった。
担当者が装置の状態を確認し、準備完了を告げた。
「魔導拡声器、使用可能です!」
「よし。始めろ」
装置が作動すると、内部に魔力が流れ込み、低い駆動音が響いた。担当者が伝達状態を確認し、装置が正常に稼働していることを報告する。
レッタルは一度だけ前方の艦隊を見据え、それから声を張り上げた。
「前方を航行する未確認艦隊に告げる! 我々は神聖ミリシアル帝国海軍、第1魔導艦隊である! 貴艦隊の所属および航行目的を明らかにし、直ちに応答せよ! 繰り返す! こちらは神聖ミリシアル帝国海軍、第1魔導艦隊である! 貴艦隊の所属と航行目的を明らかにせよ!」
魔導拡声器から放たれた声は、風と波の音を越えて海上を渡り、前方の試験艦隊へと届いていった。
レッタルは装置から離れず、相手の反応を待った。
数秒、あるいはそれ以上の時間が過ぎる。
しかし、返答はなかった。
未知の艦隊は隊列を崩すことも、進路を大きく変えることもなく、依然として航行を続けていた。呼びかけに気づいていないのか、言葉を理解できないのか。
それとも、こちらの存在を認識したうえで、意図的に応答を避けているのか。
レッタルは目を細めた。いずれも可能性としては考えられるが、現時点では判断する材料がない。最初の呼びかけは相手の反応を引き出すどころか、未知の艦隊が依然として沈黙を保っているという事実を確認させただけだった。
*
ネオ・アトランティスの試験艦隊。
前方の艦艇を監視していた見張り員が、海上から響いてきた声に顔を上げた。
「何だ、今の声は!?」
突然の音声に、艦橋にいた将兵たちが一斉に反応した。風と波の音が絶えない海上であるにもかかわらず、その声は内容を聞き取れるほど明瞭だった。
単に遠方から人間が叫んでいるのではない。何らかの装置を介し、こちらへ向けて意図的に音声を伝えていることは明らかだった。
見張り員は前方の艦隊へ視線を向け直し、声の発生源を確かめようとする。声が聞こえたという事実だけでは装置の仕組みまでは分からない。だが、相手がこちらに何らかの意思を伝えようとしていることは、疑いようがなかった。
「前方の艦隊からと思われます! こちらに向けて呼びかけています!」
「内容を確認しろ。聞き取れた言葉を整理して報告するんだ!」
士官の指示を受け、音声を聞き取っていた通信担当者が記録を確認しながら報告した。
「相手は神聖ミリシアル帝国海軍、第1魔導艦隊と名乗っています! こちらの所属と航行目的を明らかにし、応答するよう要求しています!」
報告が終わると、艦橋内の空気が変わった。
それまで正体不明だった相手が、初めて自らの所属を明らかにしたのである。国家名だけでなく、海軍の艦隊名まで確認できたことは今後の調査を進めるうえで重要な情報だった。
単なる未知の艦艇群ではなく、少なくとも自らを特定の国家に属する軍事組織として名乗る相手がこの海域に存在している。その事実は試験艦隊が収集してきた情報の意味を大きく変えるものだった。
「神聖ミリシアル帝国……。それが相手の名乗った国家名か」
士官は、聞き取った名称を確かめるように呟いた。
「はい。艦隊名についても、第1魔導艦隊と名乗っていました」
通信担当者は記録した内容を改めて確認してから答えた。
士官は前方へ視線を戻した。相手の艦艇は、こちらと同様に隊列を保ったまま航行している。少なくとも、呼びかけと同時に攻撃を開始したわけではない。しかし、こちらに応答を求めている以上、相手が今後どのような行動を取るかは分からなかった。
転移後、ネオ・アトランティスは新たな環境の調査を続けてきた。地理情報を収集し、海洋環境を調べ、今後の活動に利用できる地域を探る。そうした調査の積み重ねによってこの世界の実態を少しずつ把握しようとしていた。
だが、他国の軍事組織から直接呼びかけられ、具体的な国家名を確認するという事態は単なる地理調査とは意味が異なる。相手の存在を記録するだけでなく、接触の目的や今後の対応についても検討しなければならない。
応答するにせよ応答しないにせよ、その判断は今後の調査活動に影響を及ぼす可能性があった。
「魔導艦隊、か……。名称だけでは、相手の技術体系までは分からんな」
士官はそう口にすると、通信担当者へ指示を出した。
「今の呼びかけを正確に記録しろ。相手が名乗った国家名と艦隊名、それから、こちらに要求した内容を可能な限り一言一句正確に残すんだ。聞き取れた事実と、こちらの推測を混同するな」
「了解しました!」
「それから、この情報を空中戦艦第二号機へ送れ。相手の所属と呼びかけの内容を伝え、今後の対応について本部の判断を仰ぐ」
「了解!」
通信担当者は直ちに連絡を開始した。
試験艦隊の上空では、空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』が周辺海域を監視しながら随伴していた。試験艦隊から送られた報告は、秘匿通信を通じて同艦の指揮区画へと伝達されていく。
通信士は受信した内容を確認し、艦内の責任者へ向き直った。
「艦長、試験艦隊から報告です。前方の艦隊が、魔導拡声器と思われる装置を使用して呼びかけてきたとのことです」
「内容は?」
「相手は神聖ミリシアル帝国海軍、第1魔導艦隊と名乗っています。こちらの所属と航行目的を明らかにするよう要求してきたそうです」
責任者は報告を聞き、観測情報へ視線を落とした。前方にいる艦艇の外形や隊列については、すでに一定の情報が集まっている。しかし、武装や動力機関、通信手段の詳細については、まだ分からないことが多かった。
「神聖ミリシアル帝国……。相手は国家名と軍事組織名を明らかにしてきたわけか」
「はい。ただし、相手の艦艇の性能や、魔導拡声器の仕組みについては不明です。現状で確認できているのは、視認できる外形と隊列、それに今回の呼びかけの内容が主となります」
「分かった。こちらから独自に判断を下すことは避けよう。本部へ報告し、ガーゴイル様の指示を仰ぐ」
「了解しました」
空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』は、秘匿通信によってネオ・アトランティス中枢基地へ連絡を送った。
未知の世界において、初めて具体的な国家名を確認した。その情報は、現場の判断だけで処理するには重要すぎる。相手がこちらに所属の開示を求めてきた以上、応答するか否かも含め、今後の方針を慎重に決定する必要があった。
*
ネオ・アトランティス中枢基地通信区画では、空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』から届いた報告が、担当者によって整理されていた。
報告書には、遭遇した艦隊の外観や隊列、相手が使用した音声伝達装置、そして神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊という名称が記録されている。
相手の要求についてもこちらの所属と航行目的を明らかにするよう求められたことが、確認できた事実として記載されていた。
担当者は内容に不備がないことを確かめると、報告書を携えてガーゴイルのもとへ向かった。
室内では、ガーゴイルが転移後の調査報告に目を通していた。ネオ・アトランティスは再建と研究を並行して進めなければならず、限られた資源と人員を効率的に運用する必要がある。各地から集まる情報を整理し、重要度に応じて優先順位をつけることは組織の再建を進めるうえでも欠かせない作業だった。
通信担当者は入室すると、敬礼した。
「ガーゴイル様。空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』から緊急報告が入っております」
その言葉を受けたガーゴイルは手元の資料から顔を上げた。定例連絡の時刻と重なってはいる。
しかし、報告に緊急の扱いが付されている以上、通常の調査報告とは異なる事態が起きたことは察せられた。
「……よろしい。報告を開始し給え」
ガーゴイルは静かに命じた。最悪の事態も想定しながら、担当者の報告に耳を傾ける。
「試験艦隊が前方の艦隊と遭遇しました。相手は魔導拡声器と思われる装置を用いて呼びかけ、自らを神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊と名乗ったとのことです。こちらの所属と航行目的を明らかにするよう要求しております」
「神聖ミリシアル帝国……」
ガーゴイルは報告された名称を静かに繰り返した。
これまでの調査によって、この世界に複数の文明や国家が存在する可能性は十分に想定されていた。しかし、実際に接触してきた軍事組織から具体的な国家名を得たことには、確かな意味がある。
推測の域を出なかった存在が、今や報告書に記録できる具体的な対象となったのだ。
彼は担当者から報告書を受け取り、記載された内容に目を通した。そこに書かれているのは確認できた事実と、現場からの報告に基づく暫定的な判断である。相手の規模や能力について、確定的な情報はまだない。
「相手の艦隊について、ほかに判明したことはあるか?」
「現時点では、艦艇の外形と隊列を確認できた程度です。武装や動力機関の詳細は不明です。また、魔導拡声器と思われる装置についても、作動原理は分かっておりません」
「相手の呼びかけに対する、試験艦隊の対応は?」
「現場では応答を行っておりません。本部の判断を仰ぐため、空中戦艦第二号機へ報告を送っております」
「よろしい」
ガーゴイルは報告書を机上に置き、指先を組んで考え込んだ。
相手は国家名と軍事組織名を名乗り、こちらの所属と航行目的を明らかにするよう要求してきた。海上で正体不明の艦隊と遭遇した際の対応としては、不自然なものではない。
相手の立場からすれば、所属も目的も分からない艦艇群を警戒するのは当然だろう。だが、こちらにとっても、今すぐ自らの正体を明かす理由はなかった。
ネオ・アトランティスは、転移後の環境に適応し、技術基盤を再建している最中にある。バベルの塔第二号炉の完成と、二十四基のしもべの星の再配備は、大きな前進だった。
失われた力を取り戻すための基盤は着実に整いつつあり、今後の活動を支える見通しも少しずつ立ち始めている。
しかし、それは、この世界に存在するあらゆる勢力に対して、無条件に優位を確信してよいという意味ではない。
相手の艦艇がどの程度の戦闘能力を持ち、どのような技術を利用しているのか。国家としてどれほどの規模を有し、周辺諸国とどのような関係を築いているのか。
それらは、これから明らかにしていかなければならない情報だった。
先日の演説で、ガーゴイル自身が構成員たちに告げた言葉が脳裏をよぎる。
──己の力を過信することなく、相手の実力を正確に見極めるのだ。
未知の相手を前にして必要なのは、威圧でも、性急な交戦でもない。相手の実態を見極め、自らの目的を達成するために何をすべきかを判断することだった。
今回の接触において、こちらが得たものは国家名と艦隊名、そして相手が音声による呼びかけを行ったという情報に限られている。
これだけで相手の技術水準や軍事力を測ろうとするのは、判断材料が不足していた。
反対にこちらの所属や航行目的を明らかにすれば、相手に与える情報は増える。相手がどのような国家であり、どれほどの力を持つのか分からない以上、今の段階で自らの情報を渡す必要はない。
こちらの存在を知られること自体は避けられないとしても、護衛戦力や本来の目的まで知られることは避けるべきだった。
「空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』から試験艦隊へ命令を伝達しろ。戦闘はせず、直ちにその海域から離脱するよう伝えるのだ」
ガーゴイルは明確な口調で命じた。担当者が返答する前に、さらに指示を付け加える。
「それと、相手への応答も不要だ。現時点で、こちらの所属や航行目的を明らかにする必要はないのだからね」
担当者は姿勢を正し、了承の意を示した。
「承知しました」
担当者が退出しようとしたところで、ガーゴイルは呼び止めた。
「待ち給え。護衛戦力の秘匿を最優先とせよ。空中戦艦とガーフィッシュⅡ型の存在を相手に知られるな。試験艦隊が目視されたこと自体は、すでに避けられん。だが、それ以上の情報を与える必要はない」
「はっ」
「煙幕を使用し、その間に離脱しろ。試験艦隊だけでなく、ガーフィッシュⅡ型も協力させるのだ。相手の視界を遮り、こちらの動きを把握できない状況を作れ」
「承知しました」
ガーゴイルは一度言葉を切り、報告書へ視線を落とした。
「ただし、無用な交戦は許可しない。今回の目的は、この世界の情報を収集することだ。敵対関係を築くことでも、こちらの能力を誇示することでもない。全艦を無事に帰還させ、今回得られた情報を持ち帰ることを最優先とせよ」
「了解しました。直ちに伝達いたします」
通信担当者は深く敬礼し、退出した。
室内に静けさが戻ると、ガーゴイルは報告書を手元に引き寄せた。
神聖ミリシアル帝国海軍、第1魔導艦隊。
その名称は、ネオ・アトランティスがこの世界で確認した、具体的な国家と軍事組織の手掛かりとなった。だが、名称を知っただけで相手の実力を理解したつもりになることはできない。
こちらが正体を明かさずに離脱することは、相手からすれば不可解な行動に映るかもしれない。だが、現段階では接触を続けることによって得られる利益よりも、こちらの情報を不用意に明かす危険のほうが大きい。
まずは距離を取り、得られた情報を整理する。そのうえで、今後どのように接触するべきかを検討すればよい。
今回の遭遇は、あくまで調査の出発点にすぎなかった。
*
空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』司令区画では本部からの命令を受信した通信士は内容を確認すると、艦内の責任者へ報告した。
「本部より命令です。試験艦隊は戦闘を行わず、直ちに離脱。相手への応答も行わず、煙幕を使用して護衛戦力の秘匿を維持するようにとのことです」
「了解した」
責任者は短く答え、観測情報に表示された試験艦隊の位置を確認した。
相手の艦隊は依然として前方にいる。試験艦隊が視認されている以上、これ以上の接近を避け、相手に新たな情報を与えずに離脱することが最優先となる。
護衛戦力の存在を悟られれば、今回の調査で得られるはずだった情報上の優位が損なわれるおそれもあった。
「試験艦隊とガーフィッシュ各艦へ伝達しろ。煙幕展開後、隊列を維持して離脱する。こちらは上空から周辺を監視し、相手に存在を察知されない位置を保つ」
「了解!」
通信士が命令を送ると、試験艦隊との連絡回線が確立された。
空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』は相手の艦隊から容易に視認されない位置を保ちながら、海上の状況を監視し続けた。
現段階ではこちらから攻撃を仕掛ける必要はない。相手の能力が分からない以上、不要な行動によって事態を複雑にするべきでもなかった。
ガーゴイルの命令は明確だった。交戦せず、正体を明かさず、任務を継続できる状態を維持したまま離脱する。
そのためには海上の試験艦隊と海中の護衛戦力、そして上空から監視を続ける空中戦艦が、それぞれの役割を確実に果たさなければならない。
責任者は観測情報から目を離さず、試験艦隊の準備状況を確認した。
「各艦の動きに注意しろ。煙幕の展開から離脱まで、隊列が乱れないように監視を続けるんだ」
「了解しました!」
空中戦艦は静かに任務を続けた。
*
試験艦隊旗艦の通信室で本部からの命令を受信した担当者は、すぐさま艦橋へと向かった。
「本部から命令が届きました! 交戦は禁止。相手への応答も行わず、煙幕を使用して離脱せよとのことです!」
報告を受けた士官は、即座に頷いた。
「了解した。各艦へ伝達しろ。これより離脱を開始する。隊列を維持したまま進路を変更し、煙幕の展開準備を急げ」
「了解!」
命令は艦隊内へと伝達され、各艦は離脱に向けた準備を始めた。
前方には神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊が依然として存在している。相手はすでにこちらの姿を視認し、魔導拡声器を用いて所属と航行目的を明らかにするよう要求してきた。
こちらが応答を行わない以上、相手が警戒を強める可能性は十分にある。だからこそ、離脱は迅速かつ確実に行わなければならなかった。
煙幕を展開するだけでは十分ではない。各艦が互いの位置を把握し、隊列を崩すことなく離脱できなければ、かえって動きを制限されるおそれがある。
「相手の動向は?」
士官が見張り員へ尋ねると、見張り員は望遠鏡から目を離さずに答えた。
「現在も隊列を維持しています。こちらへ急接近する様子はありませんが、引き続き監視を続けているものと思われます」
「分かった。煙幕展開の準備を続けろ。各艦は相互の位置を確認し、隊列を崩すな」
「了解しました!」
各艦では煙幕発生装置の点検が進められた。装置の作動状態を確認し、展開時の手順を再確認する。艦橋では各艦の準備状況が集約され、離脱に移るための最終確認が行われていた。
海中に展開しているガーフィッシュⅡ型二十隻にも、空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』を介して同様の命令が伝達される。
ガーフィッシュⅡ型二十隻は潜航状態を維持したまま、試験艦隊の動きに合わせて位置を調整した。各艦はそれぞれの配置を確認し、煙幕展開の合図を待つ。海上の艦艇だけでなく、護衛を担う潜水艦も含めて、離脱の準備は着実に進んでいた。
試験艦隊の艦橋では、各艦から届いた報告が順次読み上げられた。
「各艦、準備完了!」
「ガーフィッシュ各艦との連携も確立しています!」
士官は報告を聞き終えると、前方の艦隊を一度だけ確認した。相手はまだこちらを視認できる位置にいる。
これから煙幕を展開すれば、相手がどのような反応を示すかは分からない。呼びかけを無視して離脱することが相手の警戒を強める結果になる可能性もある。
だが、命令はすでに下されている。ここで判断を先延ばしにする理由はなかった。
「よし。煙幕を展開しろ!」
合図とともに、試験艦隊の各艦から煙幕が放出された。
白い煙が海面に広がり、艦艇の周囲を覆い始める。風に流された煙は徐々に範囲を広げ、船体の輪郭を曖昧にしていった。
複数の艦から放出された煙が重なり、視界を遮る白い層が海上に形成されていく。
それと同時に海中のガーフィッシュⅡ型二十隻も煙幕の展開を開始した。各艦は潜航状態を維持したまま、海面に煙幕を生じさせ、試験艦隊の周囲に広がる煙を補強していく。
煙幕は一か所に留まらず、複数の地点から広がっていった。海上を漂う煙が互いに重なり合い、試験艦隊を包み込むように視界を遮っていく。
艦艇の姿を隠すだけでなく、どこからどの方向へ移動しているのかを外部から判別しにくくするための措置だった。
「煙幕、展開中!」
「各艦、離脱を開始します!」
報告を受けた士官は、すぐに次の指示を出した。
「よし。隊列を維持しろ。互いの位置を見失うな。護衛との連携も切らすな!」
「了解!」
試験艦隊は隊列を保ちながら進路を変更した。各艦は相互の位置を確認し、煙幕に包まれた海域から離れていく。
相手に進路を読まれないよう、艦隊全体の動きを調整しながら、可能な限り速やかに距離を取ろうとしていた。
煙幕の広がりに伴い、前方の艦隊の姿は次第に見えにくくなっていった。こちらから相手を視認することも難しくなるが、それは相手からこちらを視認することも困難になったことを意味する。
自らの視界も制限される以上、各艦が連携を保ちつつ隊列を乱さないことが重要だった。
上空の空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』は試験艦隊の離脱状況を確認しながら、その動きに合わせて位置を調整した。
相手の艦隊から視認されないよう警戒を続け、護衛戦力の秘匿を維持する。
海中のガーフィッシュⅡ型二十隻も、試験艦隊の移動に合わせて隊形を変更した。煙幕を展開した海域に留まることなく、潜航状態を保ったまま離脱を支援する。
海面は次第に白い煙で覆われていった。
先ほどまで明瞭に見えていた艦影は、船体の輪郭から順に曖昧になり、やがて煙の向こうへと消えていく。試験艦隊の艦橋でも、前方の視界が急速に悪化していた。
「煙幕展開、完了!」
「離脱を継続します!」
士官は報告を受け、周囲の状況を確認した。
「よし。各艦、現在の隊列を維持しろ。護衛との連携を切らすな。相手の動きに変化があれば、直ちに報告しろ」
「了解!」
試験艦隊は煙幕の中を進み、神聖ミリシアル帝国艦隊との距離を広げていった。
彼らにとって今回の遭遇は交戦を目的とするものではない。未知の国家と接触したことは重要な成果だったが、そのために護衛戦力の存在を明かし、不要な危険を冒す必要はなかった。
まずは離脱し、今回得られた情報を持ち帰る。
それが、現時点で最も確実な選択だった。
*
神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊、旗艦『ロト』。
前方に広がり始めた煙幕を目にして、見張り員アレシオス・ヴェルナーが声を上げた。
「司令! 前方の艦隊が煙幕を展開しました!」
「何だと?」
レッタル・カウランは即座に望遠鏡を構えた。
確かに、未知の艦隊の周囲から白い煙が立ち上がっている。しかも、煙は一か所から発生しているのではなかった。
複数の地点から広がり、互いに重なり合いながら海面を覆っている。レッタルは望遠鏡の焦点を調整し、煙の向こう側にあるはずの艦艇を捉えようとした。
しかし、白い煙は急速に視界を遮り、船体の細部どころか、艦隊全体の配置さえ把握しにくくなっていく。
「煙の発生源は複数あります! 相手の艦影が急速に見えにくくなっています!」
アレシオスの報告に、艦橋内の将兵たちが緊張を強めた。
それまで隊列を崩さずに航行していた相手が、突然、煙幕を展開したのである。
単なる偶発的な現象ではない。少なくとも、こちらの視界を遮る結果になることを承知したうえで行っている可能性が高かった。
「タグス、どう見る?」
レッタルが問いかけると、タグスは前方の海域を見つめながら答えた。
「こちらの呼びかけに応じず、煙幕を展開した以上、接触を避けようとしている可能性が高いと思われます。ただし、所属を隠したいのか、何らかの理由で交渉を拒んでいるのかまでは判断できません」
タグスの言葉を聞き、レッタルは眉を寄せた。
相手はこちらが所属を名乗り、航行目的を明らかにするよう要求したにもかかわらず、一切の返答を行っていない。そのうえ、煙幕を展開して自らの姿を隠そうとしている。
少なくとも、相手がこちらとの積極的な接触を望んでいないことは明らかだった。しかし、接触を避ける理由までは分からない。
警戒心が強いのか、何らかの秘密を抱えているのか、あるいは単にこちらと関わる意思がないのか。いずれも可能性にすぎず、現時点で断定できるものではなかった。
「もう一度、呼びかける必要があるな……。こちらが神聖ミリシアル帝国海軍であることを改めて伝え、直ちに応答するよう要求する。魔導拡声器を再び用意するんだ」
「承知しました」
タグスは担当者へ指示を出した。
「魔導拡声器を再作動させろ。伝達状態を確認し、司令の呼びかけを相手に届けるんだ」
「了解しました!」
担当者が装置を再び作動させる。レッタルは煙幕に覆われつつある前方へ顔を向け、声を張り上げた。
「前方の未確認艦隊に告げる! こちらは神聖ミリシアル帝国海軍、第1魔導艦隊である! 貴艦隊の所属と航行目的を明らかにせよ! こちらの呼びかけに応答しない場合、貴艦隊を不審船団として扱わざるを得ない! 直ちに応答せよ!」
魔導拡声器から放たれた声が、海上へと響き渡った。
レッタルは言葉を切り、相手の反応を待った。
だが、返答はなかった。
煙幕はさらに広がり、相手の艦影を覆い隠していく。呼びかけが届いているのか、それとも相手が意図的に無視しているのか。現場から確認する手段はなかった。
レッタルは視線を動かし、周囲の状況を確かめた。相手の艦隊は依然として視界の先にいるはずだが、煙幕のせいで、その位置を正確に把握することは難しくなっていた。
そのとき、魔力探知装置を監視していたセレナ・オルフィスが報告した。
「司令、周辺の魔力反応に特別な変化はありません。前方の艦隊についても、明確な魔力反応を確認できていません」
「煙幕によって探知に影響が出ているのか?」
レッタルが尋ねると、セレナは表示を確認しながら慎重に答えた。
「現時点では判断できません。煙幕と魔力探知の関係についても、確かなことは分かっておりません。少なくとも、目視による追跡が困難になっていることは確かです」
「そうか……」
レッタルは望遠鏡を下ろし、腕を組んだ。
相手の船体はこれまでに確認したことのない形状をしていた。所属は不明で、動力機関との関係も分からない。
こちらが二度にわたって呼びかけても応答せず、煙幕を利用して姿を隠そうとしている。不可解な点は多い。
だが、情報が不足しているからこそ、慎重に判断しなければならなかった。
「司令、追跡命令を出しますか?」
タグスが尋ねた。
レッタルはすぐには答えなかった。
煙幕の中に相手の艦隊が残っている可能性はある。今なら追跡を開始することで、相手の進路を突き止められるかもしれない。
しかし、視界が制限された状況で不用意に接近すれば、相手の位置を見失うだけでなく、予期せぬ事態に遭遇する危険もある。
相手がどのような武装を持ち、どれほどの戦闘能力を有しているのかさえ分かっていないのだ。煙幕の向こうに何があるのか、どこまで広がっているのか、相手がどのような手段で離脱しようとしているのか。
そのいずれも確かめられていない状態で艦隊を進ませるのは、危険を伴う判断だった。正体の分からない相手を追うために、こちらが先に危険を冒す必要はない。
「いや、待て。現時点で相手の所属も能力も分かっていない。煙幕の中へ艦隊を突入させるのは危険だ」
「では、現在の位置を維持しますか?」
「そうだ。各艦は隊列を維持し、周囲への警戒を続けろ。相手がどのように動くのか、まずは確認する。無理な追跡は行うな」
「了解しました」
タグスは艦隊内へ命令を伝達した。
レッタルは再び望遠鏡を構えたが、視界の先には白い煙が広がるばかりだった。
神聖ミリシアル帝国海軍の呼びかけに応じない未知の艦隊。彼らが何を考え、なぜ所属を明らかにしないのかは分からない。
ただ、相手がこちらとの接触を避けるため、意図的に煙幕を展開した可能性が高い。それが、この時点で導き出せる判断だった。
*
煙幕の中から離脱した試験艦隊は神聖ミリシアル帝国艦隊との距離を着実に広げていた。
試験艦隊旗艦の艦橋では後方を監視していた見張り員が報告を行った。
「後方の艦隊は、煙幕の向こう側に留まっています。こちらを追跡している様子は確認できません」
「了解した。各艦、現在の隊列を維持しろ。護衛艦との連携も継続する」
士官は周囲の状況を確認しながら、各艦の航行状態を把握していた。
離脱は順調に進んでいる。各艦は大きく隊列を崩すことなく移動し、ガーフィッシュⅡ型二十隻も海中から支援を続けていた。
上空では空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』が引き続き周辺海域を監視し、相手の艦隊が追跡に転じた場合にも対応できるよう警戒を解いていない。
だが、現段階では相手がどのような判断を下したのかを確実に知る手段はなかった。追跡してこないからといって、こちらへの警戒を解いたと考えるのは早い。
相手が煙幕の中で状況を見極めている可能性もあれば、追跡そのものを危険と判断した可能性もある。
「現在、相手の艦隊を視認できる範囲にはありません」
報告を聞いた士官はわずかに息をついた。
「よし。十分な距離を確保するまで警戒を続けろ。今回の遭遇については、確認できた事実と推測を分けて記録するんだ」
「了解しました」
士官はもう一度だけ各艦の位置を確認した。
今回の遭遇によって、ネオ・アトランティスは神聖ミリシアル帝国という国家名と、その海軍に第1魔導艦隊が存在することを確認した。
一方で、相手の軍事力や技術体系については依然としてほとんど分かっていない。無理に接触を続けても、得られる情報が増えるとは限らない。
むしろ、相手にこちらの能力や護衛体制を知られる危険があった。今回の任務で優先すべきなのは相手の正体をその場で突き止めることではなく得られた情報を確実に持ち帰り、次の調査につなげることだった。
「引き続き、周辺への警戒を怠るな。任務を中断する必要はないが、今回の相手については本部の指示があるまで慎重に扱う」
旗艦艦長の命令を聞いた副官は敬礼しながら後退していく。
試験艦隊は航行を続け、遭遇した海域から離れていった。
やがて、後方の海域に広がっていた煙幕も艦隊の視界から遠ざかっていく。
相手の艦隊が追跡している様子はない。空中戦艦とガーフィッシュⅡ型二十隻についても、存在を知られた形跡は確認されていなかった。
*
神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊旗艦『ロト』の艦橋ではレッテルか険しい顔をしながら突如現れた演目を眺めていた。
時間の経過とともに、海上を覆っていた煙幕は徐々に薄れていった。
白い煙が風に流され、視界が少しずつ開けていく。先ほどまで艦影を覆い隠していた煙が晴れ始めると、アレシオス・ヴェルナーは再び望遠鏡を構え、前方の海域を確認した。
「司令! 煙幕が薄れてきました!」
「相手の艦隊は見えるか?」
レッタルが問いかけると、アレシオスは望遠鏡を動かし、海面から水平線の彼方まで慎重に視線を走らせた。
「確認します……」
しばらくの間、彼は黙って前方を観察していた。
しかし、どこにも艦影はなかった。
「……司令、前方に艦影はありません!」
「何だと?」
レッタルは望遠鏡を受け取り、自ら前方を確認した。
確かに、未知の艦隊が航行していた海域には、もはや船影が見当たらない。煙が晴れるにつれて視界は開けていくが、先ほどまで確実に存在していた艦艇群の姿は、どこにも確認できなかった。
レッタルは望遠鏡を下ろし、タグスへと視線を向けた。
「タグス、周辺海域を確認しろ。相手がどちらへ向かったのか、何か手掛かりはないか?」
「ただちに確認します」
タグスは各艦からの報告を集め、周辺海域の状況を確認した。しかし、未知の艦隊の位置を特定できる情報は得られなかった。
煙幕によって視界を遮られていた間に、相手は十分な距離を取ったものと考えられたが、進路も移動距離も確定できない。
「司令、相手は煙幕を展開した後、そのまま離脱したものと思われます。現時点では、艦隊の所在を確認できておりません」
「魔力探知はどうだ?」
セレナ・オルフィスが装置の表示を確認し、報告した。
「周辺海域に、特別な魔力反応は確認できません」
レッタルは望遠鏡を下ろし、しばらく黙って海を見つめた。
相手は煙幕を利用し、こちらの視界が制限されている間に離脱した。少なくとも、そのように考えるのが自然だった。
だが、どの程度の距離を移動したのか、どちらの方向へ向かったのか、正確なところは分からない。煙幕が晴れた時点で、相手の姿はすでに消えていた。
「……見事に姿を消したものだな」
レッタルの声には、警戒とわずかな苛立ちが混じっていた。
こちらが名乗ったにもかかわらず、相手は一切応答せず、煙幕を展開して離脱したのである。単に接触を望まなかったのか、それとも、こちらに知られたくない事情があったのか。
いずれにせよ、今の情報だけで相手の意図を断定することはできない。不可解な行動であることは確かだが、不可解であるというだけで敵対的だと判断するわけにもいかなかった。
「司令、追跡を再開しますか?」
タグスが確認するように尋ねた。
レッタルは首を横に振った。
「いや、今から追っても、相手の位置を特定できる保証はない。まずは今回の遭遇を記録し、上層部へ報告する。相手の正体が分からない以上、憶測だけで結論を出しても意味はない」
「承知しました」
「相手の艦艇の特徴、隊列、確認できた進行方向、煙幕を展開した際の状況を、可能な限り詳しく記録しろ。こちらが二度にわたって所属と航行目的を明らかにするよう要求したこと、相手が一切応答しなかったことも忘れずに記載するんだ」
「了解しました」
レッタルはさらに周囲を見渡した。
「今後、同じ特徴を持つ艦艇を発見した場合には、今回の記録と照合する。所属不明の艦隊として扱い、正体が判明するまでは警戒を怠るな」
「承知しました」
神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊は未知の勢力との遭遇によって新たな情報を得た。しかし、それは相手の国家や軍事力を理解するには、あまりにも限られたものだった。
彼らが確認できたのは、見慣れない艦艇群が存在し、こちらの呼びかけに応じず、煙幕を利用して姿を消したという事実にすぎない。
その背後に、上空から海上を監視する空中戦艦が存在していたことも、海中に二十隻もの潜水艦が潜んでいたことも、知る由はなかった。
*
ネオ・アトランティス中枢基地内部の司令室に試験艦隊からの続報が届いたのは離脱が順調に進んでいることが確認された後だった。
通信担当者は受信した報告を整理し、ガーゴイルのもとへ運んだ。
「ガーゴイル様。試験艦隊から続報です。煙幕を利用した離脱は成功し、神聖ミリシアル帝国艦隊との交戦は発生しておりません。空中戦艦第二号機とガーフィッシュⅡ型二十隻についても、相手に存在を知られた形跡はありません」
「そうか」
ガーゴイルは短く答え、報告書に目を通した。
試験艦隊は無事に離脱した。相手は煙幕の中へ踏み込むことなく、追跡も行わなかったらしい。今回の接触は、戦闘を伴うことなく終わった。
彼は報告書を読み進め、相手の行動を一つずつ確認した。こちらの呼びかけに応じなかったこと、煙幕を展開した後に離脱したこと、そして相手が追跡を行わなかったこと。いずれも重要な情報ではあるが、それぞれの理由までは分からない。
「よろしい。試験艦隊には、そのまま任務を継続させろ。ただし、今回の遭遇を軽視してはならん」
「はっ」
「相手は神聖ミリシアル帝国と名乗った。現段階で確認できたのはその名称を用いる軍事組織が存在するという事実だ。国家の規模や軍事力、技術体系については、まだ何も断定できん」
ガーゴイルは報告書を机上に置いた。
「今回の情報を基礎資料に加えろ。相手の艦艇の外形、隊列、呼びかけの内容、使用した装置についてそれぞれ整理しておくのだ」
「承知しました」
「それから、魔導という名称についても調査項目に加えろ。彼らが自らの艦隊にその名を冠している以上、何らかの意味があるはずだ。だが、名称だけで技術の水準を判断するな。実際の能力と、彼ら自身の認識は区別して考える必要がある」
「はっ」
ガーゴイルは椅子の背にもたれ、思考を巡らせた。
転移から半年。ネオ・アトランティスは、この世界における活動基盤を少しずつ整えてきた。バベルの塔第二号炉の完成と、しもべの星二十四基の再配備によって、科学技術を運用するための基盤は一段と強固になった。
しかし、技術基盤を再建することと、この世界の勢力関係を理解することは別の問題である。未知の国家がどのような政治体制を持ち、どの程度の軍事力を保有し、どのような技術を用いているのか。
それらを知らずに、今後の行動を決めることはできない。相手の名乗りを得たことは調査の前進ではあるが、それは相手を理解したことと同義ではなかった。
今回の遭遇は、その事実を改めて示していた。
「相手の国家について、可能な限り情報を集めろ。地理、政治体制、軍事力、技術体系、経済規模。調査によって確認できた事実と、そこから導き出した推測を混同するな」
「承知しました」
「我々が知っていることと、知らないことを明確に区別せよ。それができなければ、正しい判断など下せん」
ガーゴイルは言葉を切り、報告書に記された名称を見つめた。
「世界を知らずして、世界を支配することはできん。今回の接触は、そのための第一歩だ」
「はっ!」
通信担当者は敬礼し、命令を遂行するために退出した。
ガーゴイルは再び一人になった室内で、神聖ミリシアル帝国という名称を見つめていた。
その国家がどれほどの力を持つのか、どのような文明を築いてきたのか、現時点では分からない。
だが、少なくとも、この世界には自らを帝国と称し、魔導艦隊を編成して海上を航行する勢力が存在している。
それは、これからの調査において無視できない情報だった。
*
一方、神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊でも、遭遇記録の整理が進められていた。
旗艦『ロト』の艦橋では、レッタル・カウランがタグスから提出された報告資料に目を通していた。
そこには、未知の艦隊の外形、確認できた隊列、接近時の状況、そして煙幕を展開して離脱するまでの経過が記されている。
レッタルは記録の内容を確かめながら、今回の遭遇で得られた情報を整理していた。相手は複数の艦艇で構成された艦隊であり、隊列を維持して航行していた。こちらの呼びかけに応じることはなく、煙幕を展開した後、視界から姿を消した。
確認できた事実は、それだけだった。
「相手は、我らに対して最後まで一切応答しなかったな……」
レッタルが資料から目を上げ、ダクスを見据えながら言葉を続ける。
「こちらが先に名乗ったというのに、随分と警戒心の強い相手だ」
レッタルはそう口にしたものの、相手の意図を断定することは避けた。
単に接触を避けたかったのか。所属を知られたくなかったのか。それとも、こちらの要求に応じること自体を危険と判断したのか。どれも可能性としては考えられるが、確かな根拠はない。
相手がなぜ応答を拒んだのか、現段階では理由を特定できなかった。
「司令、今回の件について、今後の方針はいかがいたしますか?」
タグスの問いに、レッタルは報告資料を机上へ置いた。
「まずは正式な記録を残し、上層部へ報告する。相手の正体が分からない以上、憶測だけで結論を出しても意味はない」
「承知しました」
「それと、相手の艦艇についても、可能な限り詳しく記録しておけ。船体の形状、甲板上の構造、隊列の組み方。今後、同じ特徴を持つ艦艇に遭遇した場合、今回の記録と照合できるようにするのだ」
「了解しました」
レッタルは艦橋の窓から、広がる海を見渡した。
先ほどまで未知の艦隊が存在していた海域には、もはや何の痕跡も残っていない。相手は煙幕を利用して姿を消し、こちらの追跡を受けることなく離脱した。
その手際についても、相手の目的についても、今の段階では判断できない。
ただ、今回の遭遇によって、一つの事実が明らかになった。
神聖ミリシアル帝国が把握していない艦艇を運用する勢力が、この海域に存在している。
そして、その勢力は、神聖ミリシアル帝国海軍からの呼びかけに応じることなく、煙幕を利用して意図的に接触を避けた。
「……次に遭遇したときには、もう少し相手のことが分かるといいのだがな」
レッタルの呟きに、タグスは慎重に答えた。
「相手が再び姿を現すかどうかも、現時点では分かりません。ですが、今回の記録を残しておけば、次の遭遇に備えることはできます」
「そうだな。今は、それが最善だろう」
レッタルは、もう一度だけ前方の海域を見つめた。
未知の艦隊との接触は、戦闘もなく終わった。
しかし、それは相手の正体が明らかになったことを意味しない。今回の遭遇によって神聖ミリシアル帝国が得たのは所属不明の艦隊が実在し、こちらからの呼びかけを拒んだという情報だけだった。
相手の国家名も、目的も、軍事力も、依然として分からないままである。その一方で、ネオ・アトランティスもまた、神聖ミリシアル帝国という国家の存在を知ったばかりだった。
双方が得た情報は、まだ限られている。
神聖ミリシアル帝国は正体不明の艦隊が所属を明かさずに離脱したことしか知らない。ネオ・アトランティスも相手が神聖ミリシアル帝国海軍第1魔導艦隊と名乗ったことを確認したにすぎなかった。
両者は互いの存在を認識したものの、相手の本当の姿を理解するには至っていない。
神聖ミリシアル帝国の艦隊が見たのは、海上を航行する未知の艦艇群だけだった。その上空には空中戦艦第二号機『デウス・エクス・マキナ』が潜み、 海中にはガーフィッシュII型二十隻が展開していたが、その存在は最後まで知られることがなかった。
そして、煙幕の向こうへ消えた試験艦隊は、今回の遭遇によって得られた情報を携え、任務を続行する。
ネオ・アトランティスにとって神聖ミリシアル帝国はこの世界の実態を解き明かすための重要な手掛かりとなった。一方の神聖ミリシアル帝国にとっても、所属不明の艦隊はこれまでの認識だけでは説明できない存在として記録されることになる。
互いの名を知るには至らずとも、両者は確かに同じ海の上で接触した。その最初の遭遇は交戦も、交渉も、相互理解もないまま終わった。
しかし、双方の記録にはそれぞれがまだ知らない相手の存在が刻み込まれていた。
そして、彼らが再び相まみえるとき、今回の短い遭遇がどのような意味を持つことになるのか──その答えは、まだ誰にも分からなかった。