日本国召喚×ふしぎの海のナディア―ネオ・アトランティス異世界転移― 作:ネオ・アトランティス
第一章 文明圏の外側
神聖ミリシアル帝国海軍第一魔導艦隊との遭遇から数時間後、ネオ・アトランティスの試験艦隊は相手の艦隊が確認された海域から十分な距離を取り、当初の調査航路へと復帰していた。
艦艇に損傷はなく、乗員にも負傷者は出ていない。相手からの呼び掛けに応じず、煙幕を利用して離脱した判断は、少なくとも今回の任務において、不要な衝突を避けるという目的を果たしていた。
相手側が追撃に移った様子もなく、離脱後の周辺海域に新たな船影が現れることもなかった。
それでも、艦橋に漂う緊張は、遭遇前と同じ状態には戻っていなかった。
それまでの調査では未知の海底地形や正体の分からない遺跡、既知の資料と一致しない自然環境などが発見されていた。しかし、所属を名乗る外国の軍事組織と海上で直接遭遇し、相手から明確に呼び掛けられたのは初めてのことだった。
彼らが転移した世界には、ネオ・アトランティスとは異なる国家が存在し、独自の軍事組織を運用している。その事実は、もはや推測ではなかった。
相手の艦艇には、ネオ・アトランティス側の既存の分類だけでは整理しきれない特徴があった。呼び掛けに使われた装置も、聞き取った名称も、相手の技術体系や組織構造を理解するには情報が足りない。何より、神聖ミリシアル帝国と名乗った艦隊が、なぜあの海域にいたのかが分からなかった。
通常の哨戒だったのか、遠方への調査任務だったのか。それとも、彼らが自国の勢力圏と認識する海域を航行していたにすぎないのか。いずれも考えられるが、どれか一つを裏付ける材料はない。
相手が名乗った国家名と艦隊名は記録できても、その背後にある地理や政治関係までは見えていなかった。
転移から半年の月日が経過し、ネオ・アトランティスは自勢力圏の再建を進める一方、周辺の海岸線や島嶼、海流、海底の起伏などを調べ、少しずつ新たな環境の把握に努めてきた。
しかし、その成果は世界全体から見れば、ごく限られた範囲にすぎない。自分たちが利用できる土地や施設を整え、周辺の海域をある程度把握できたとしても、それだけで世界の中における自らの位置を知ったことにはならなかった。
今回の遭遇はその当然の事実を改めて突きつけた。自分たちが知らない国家が存在することは分かった。だが、その国家がどれほど遠くに位置し、どのような国々と関係を持ち、どこまでの海域を活動範囲としているのかは分からない。
試験艦隊は遭遇時の記録を保全しながら、調査航海を続けた。目的は相手を敵と定めて追跡することでも、正体を確かめるために再接触を試みることでもない。自分たちが転移した世界の地理と社会を把握し、今後の行動を判断するための基礎情報を集めることだった。
そして、次に調査範囲を広げるべき場所として浮かび上がったのは、これまでの偵察範囲よりもさらに外側に広がる外洋だった。
*
ネオ・アトランティス中枢基地の司令室には試験艦隊から送られた遭遇報告と、これまでに作成された周辺海域の調査図が並べられていた。
壁面を占める大きな図面には確認済みの海岸線や島々、海底地形、航行中に観測された海流の情報が記されている。調査が進んだ区域には細かな記録が集まっていたが、そこから少し離れるだけで、地図は推定線と広い空白に変わった。
描かれているのは世界の全体像ではない。ネオ・アトランティスが実際に観測した情報をつなぎ合わせた暫定的な調査図だった。
ガーゴイルは机上の報告書を手に取り、記載された内容を一つずつ確認していた。遭遇時刻と位置、相手の艦艇について観測された特徴、呼び掛けの内容、離脱時の状況。それぞれの項目は、直接確認できた事実と、観測結果から導かれた推測とに分けて整理されている。
読み終えたガーゴイルは報告書を机上へ置き、傍らに控える情報管理部門責任者へ目を向けた。
「今回の遭遇について、記録の整理は済んでいるのだろうな?」
その質問を受けた情報管理部門責任者は頷きながら手元の資料をに目を向けながら頷いた。
「はい。相手が名乗った神聖ミリシアル帝国という国家名と、第一魔導艦隊という部隊名は、直接聞き取った情報として記録しております。また、呼び掛けに使用された装置、確認できた艦艇の外形、相手の行動についても、それぞれ項目を分けて整理しました。確認できた事実と、そこから導き出した推測も混同しないようにしております」
情報管理部門責任者は持っている資料を開き、記録の区分を示した。国家名と部隊名は相手が自ら名乗ったものとして扱える。一方、艦艇の性能や通信装置の仕組み、相手の目的、活動海域の位置づけについては、まだ確定情報として扱える段階ではなかった。
ガーゴイルはその区分に目を通してから、わずかに頷いた。
「よろしい。では、我々が現在までに把握している周辺海域について、改めて報告するのだ」
情報管理部門責任者は頷きながら報告を開始する。未知の国家が関わっているとあって司令室は沈黙に満ち、情報管理部門責任者の声だけが響く。
「これまでの偵察では、海岸線、島嶼、海底地形、海流などの基礎情報を収集しております。一部では人工構造物や遺跡も発見され、調査と分析を継続中です。ただし、偵察範囲そのものは限られております。既知の海域から離れた外洋については、地形も船舶の往来も、十分には把握できておりません」
報告を聞きながら、ガーゴイルは壁面の地図を見渡した。転移直後に比べれば、手元にある情報は増えている。航行可能な海域の一部は記録され、海岸線や島々の位置関係も少しずつ明らかになっていた。
だが、調査線はまだ途切れ途切れで広い空白を埋めるには程遠い。ある島から次の島までの距離が分かったところで、その先に大陸があるのか、別の島々が続くのか、あるいは長大な外洋が横たわっているのかは、実際に調べなければ分からなかった。
「つまり、我々が把握しているのは、自勢力圏と、その周辺の一部に限られるということだな」
「その通りです。今回の遭遇によって、我々が十分に調査していない海域でも、国家の軍事組織が活動していることが確認されました」
「神聖ミリシアル帝国と名乗った艦隊が、あの海域にいた理由は依然として不明だ。定期的な巡回なのか、何らかの調査任務なのか、あるいは自国の勢力圏から離れた海域を航行していたのか。現時点では、どれも可能性の域を出ん」
ガーゴイルは地図の一角に指を置いた。そこは試験艦隊が相手を発見した海域に近い位置だったが、周囲の地形は十分に分かっておらず、ほかの国家との位置関係も把握されていない。
一度遭遇したという事実から分かるのは、その時点で相手の艦隊がその海域に存在していたということだけだ。どこから来たのか、どこへ向かっていたのか、その海域をどのような目的で利用していたのか。
いずれも、現時点の記録だけでは確定できない。目の前に現れた艦隊の存在を、周辺一帯の地理や政治状況を示す証拠として扱うには、材料があまりにも少なかった。
「我々の転移した海域そのものが、既存の文明圏から大きく離れた場所に位置している可能性もある」
その言葉に情報管理部門責任者は地図から顔を上げた。他の幹部達もガーゴイルの発言を受けて視線を彼に向ける。
「文明圏から、ですか?」
「そうだ。神聖ミリシアル帝国という国家が存在する以上、この世界には我々の知らない国家や、一定の政治的、文化的なまとまりが存在している可能性がある。だが、あの艦隊が活動していた海域が、そのまとまりの中心に近いのか、外縁に当たるのか、それとも大きく離れた外洋なのかは分からん」
ガーゴイルは言葉を切り、地図の空白へ目を移した。調査済みの範囲を示す線は、未知の区域を囲い込むにはあまりにも短い。自分たちが転移した地点を中心に世界が広がっていると考えること自体、根拠のない思い込みにすぎなかった。
「我々の転移地点が、その文明圏の外側にある可能性もある、ということですね」
「可能性の一つだ。だが、まだ判断する材料が足りん。神聖ミリシアル帝国の艦隊があの海域に存在した。それが確認できた事実だ。その事実だけで、周辺一帯が文明圏の内部にあると判断するのは早計だろう」
情報管理部門責任者は頷いた。「文明圏」という言葉は、現時点では未知の世界を整理するための仮の枠組みにすぎない。国家同士の交流や交易、文化的な共通性、軍事的な結び付きがどの程度存在するのか。それらを調べないうちから、世界に明確な境界があると決めつけることはできなかった。
「逆に、我々の周辺海域が文明圏の外縁に位置し、そのさらに外側に、まだ発見されていない国家が存在している可能性もある。あるいは、既存の文明圏から遠く離れた場所に、独立した国家が点在しているのかもしれん」
調査部門責任者はガーゴイルの発言を聞きながら自身が把握している情報、そしてネオ・アトランティスが手に入れた海域情報を纏めながら思案する。
「…………どれも否定はできませんね。我々が今まで文明と接触していなかったと考えると辻褄が合います」
そう、ネオ・アトランティス大陸近海を大規模調査してもその他文明を発見出来なかった事から考えて既存の文明圏から離れているのは間違いない事実である。
情報管理部門責任者はその発言を受けながら資料を確認し返答を行った。
「しかし、かの国以外に文明が存在すると決まった訳ではありません。もちろん他にも文明が存在する可能性はありますが、現時点では我々が把握している国家の数が少な過ぎます」
その2人の議論を静かに聞いていたガーゴイルは指を鳴らし話を中断させた。議論を行っていた2人は口を閉じてガーゴイルへと視線を向ける。
他の幹部達の視線も自分に集まった事を確認したガーゴイルは自身の見解を述べる。
「その通り、かの神聖ミリシアル帝国以外の国家が存在する可能性も存在しない可能性……そのどちらも無視は出来ない。我々の正確な位置情報すら定かではない以上、何方か答えを出す事は出来ん」
ガーゴイルが求めているのは、根拠の乏しい仮説から一つを選び、それを前提に行動することではなかった。
未知の情報が多いのであればまずは未知の範囲そのものを減らす必要がある。地理を把握し、国家の所在を確認し、観測した事実と推測を分ける。その積み重ねが、今後の方針を定めるための土台となる。
「だからこそ、調べる必要がある。今後の行動を決める前に、まずは我々がどこにいるのかを把握しなければならん」
ガーゴイルは調査部門責任者へ向き直り、机上の報告書を指先で軽く叩いた。
「試験艦隊には、現在までの偵察範囲よりさらに外側に位置する海域の調査を命じろ。既知海域の延長線上だけではなく、可能な範囲で別方向にも調査範囲を広げるのだ」
「了解しました」
調査部門責任者が頷き、部下と方針を協議しながら司令室から退室する。その様子を確認したガーゴイルは情報管理部門責任者へと視線を向ける。
「それと、今回遭遇した神聖ミリシアル帝国の艦隊についても引き続き情報を整理しておけ。相手の艦艇や通信手段については、確認できた特徴だけを記録し、未確認の性能を勝手に補うな」
情報管理部門責任者が頷いたのを確認してからガーゴイルは言葉を続けた。
「調査中に同国の艦隊を再発見した場合も、不用意に接近することは許さん。相手の能力も目的も分からん以上、こちらから新たな接触を試みる必要はない。まずは周辺の状況を把握することを優先しろ」
情報管理部門責任者は頷きなからメモを取り、今後の方針を協議する為に内容をまとめている。未知の国家を調査部門が探る足掛かりとなる為、詳細含めて事細かに情報を整理していった。
今回の神聖ミリシアル帝国との遭遇が戦闘に至らなかったからといって、相手が友好的であるとは判断できない。反対に、呼び掛けに応じなかったというだけで、敵対勢力と決めつけることもできなかった。情報が不足している以上、どちらの評価にも飛びつくべきではない。
ガーゴイルは再び地図へ目を向けた。そこに広がる空白は単なる未記入部分ではない。まだ把握していない地形や国家、そして自分たちの想定から外れた勢力が存在している可能性を示していた。
「我々が知るべきなのは、一つの国家だけではない。この世界そのものだ。海域の先に何が存在するのか、どのような国家があり、どのような勢力が活動しているのか。可能な限り情報を集めろ」
「はっ!」
情報管理部門責任者が敬礼して退出すると、司令室には再び静けさが戻った。
ガーゴイルはしばらく地図を見つめていた。転移によって、以前の地理的な前提も、外部世界との関係も失われた。ネオ・アトランティスが持つ技術や軍事力がどれほどのものであろうと、自分たちが置かれた世界の全体像を知らないままでは、それらをどこへ向けるべきか判断できない。
まずは、知らないことを知らないままにしておかないこと。そのための調査は、まだ始まったばかりだった。
*
同日、試験艦隊では新たな調査計画に基づく準備が進められていた。
神聖ミリシアル帝国との遭遇を受け、調査対象はこれまで確認した海域の周辺からさらに外側の外洋へと広げられることになった。目的は特定の国家を探し出すことではない。既知の地理情報が及ばない範囲を調べ、海岸線や島々の分布、船舶の往来、人工物の有無を確認することにある。
航海計画の策定には、これまでの観測記録が持ち寄られた。海流や水深の変化、航行中に確認した島影、海底の起伏。どれも新たな海域を調べるうえで役に立つ情報ではあるが、未調査の外洋を安全だと保証するものではない。
それでも、既存の記録を照合し、危険を予測できる範囲を少しでも広げておくことには意味があった。
試験艦隊の旗艦では航海士が新たな航路図を広げていた。紙面にはこれまでの航路が細い線で記され、その先に調査予定区域が描き加えられている。既知の地形情報がほとんどないため、予定航路は厳密に固定されていなかった。航行中に得られた情報に応じて、針路を修正できる余地が残されている。
「今回の調査区域は、これまでに確認した海域の外縁から、さらに沖合へ進んだ範囲になります。既存の海図に記載されている地形情報は、ほとんどありません」
航海士は海図の端を押さえ、調査済みの区域と未調査区域の境目を示した。その先では、船が安全に通れる水深も、途中に陸地が存在するかどうかも分からない。航行中の観測を積み重ね、危険が確認されれば針路を変更する必要があった。
「それなら、これまでの情報だけを前提に航路を組むのは危険だな」
艦長は海図を見下ろしながら答えた。最短距離を進むことに固執するよりも、観測を続けながら慎重に前進する方が、今回の任務には適している。探索範囲を広げることが目的であり、未知の海域を急いで通過することが目的ではなかった。
「まずは周辺の海流と海底地形を確認し、問題がない範囲で航行を続けます。陸地や船舶を確認した場合も、ただちに接近せず、一定の距離を保って情報を収集します」
航海士は航路図の脇に、観測項目をまとめた書類を置いた。海岸線の形状、人工物の有無、船舶の種類や進行方向。陸地を発見した場合は、目視できる範囲の地形を記録し、既存の情報と照合する。何が確認できたのかを整理する作業と、それが何を意味するのかを推測する作業は、明確に分ける方針だった。
「よし。今回は探索範囲の拡張が目的だ。新たな国家との接触や、相手の領域へ進入することを目的にしているわけではない。その点を各艦にも徹底させろ」
「了解しました」
艦長は窓の外へ目を向けた。
艦の周囲では、波が船体に沿って流れ、後方へ白い航跡を残していた。水平線には薄い雲がかかっているだけで、目立った陸地も船影もない。見慣れた海の風景は、これから向かう場所について何も教えてはくれなかった。
神聖ミリシアル帝国の艦隊と遭遇したことで自分たちの知らない国家が存在することは明らかになった。しかし、あの艦隊がどこから来たのか、その進路の先に何があるのかは依然として不明だった。
今回の航海で、その答えが得られる保証もない。それでも、調査を続けなければ、分からないという状態から抜け出すこともできなかった。
「……この先に何があるのか、まずはそれを確かめる必要があるな」
艦長の言葉に、航海士は短く頷いた。命令が各艦へ伝達されると、燃料や機関、観測機器の状態が改めて点検され、潜水艦部隊との連絡手順も確認された。準備は一つずつ進み、艦隊は未知の外洋へ向かうための態勢を整えていった。
*
準備を終えた試験艦隊は既知海域の外縁を離れ、さらに沖合へと進出した。
各艦は互いの位置を確認しながら針路を保ち、周囲の海面と空を監視していた。第二航空戦艦『デウス・エクス・マキナ』は上空から広い範囲を観測し、ガーフィッシュⅡ型潜水艦二十隻は水中から海底地形や水深の変化を調べていた。
異なる位置から得られた情報を照合し、水上からは見えない海底の特徴や、潜水艦だけでは把握しにくい広域の変化を補い合う。それが今回の調査の基本だった。
外洋へ出たからといって、すぐに未知の国家や陸地が見つかるわけではない。海上には目印となる地形がなく、水平線の向こう側を一望することもできない。艦隊が進める範囲と、実際に観測できる範囲には限界がある。だからこそ、航行と観測を繰り返し、記録を積み重ねていく必要があった。
航海開始から数時間が経過しても、周囲に陸地らしいものは確認できなかった。空を横切る鳥や海面近くを泳ぐ海洋生物は見られたものの、船舶や人工物を示すものはない。海底の測定結果にも、これまでの観測範囲と明確に異なる特徴は現れていなかった。
艦橋では観測員が定期的に測定結果をまとめ、航海士へ報告していた。数値は航路図の脇に書き加えられ、過去の資料と照合される。新しい発見がないことは、調査が無意味であることを示してはいなかった。異常が確認されない区域を記録することも、未知の海域を把握するための成果の一つだった。
「現在までに、航行を妨げるような異常は確認されていません。海底地形に大きな起伏はなく、海流についても、これまでの調査範囲から極端に外れた数値は出ておりません」
報告を受けた艦長は測定結果を一通り確認してから頷いた。現時点では、航行を中断する理由は見当たらない。だが、過去の記録と大きな違いがないことは、この先も同じ状況が続くという保証にはならなかった。調査範囲が広がるほど、これまでの経験だけでは判断できない状況に遭遇する可能性も高くなる。
「引き続き観測を続けろ。海域の状況が安定しているからといって、警戒を緩める必要はない」
「了解しました」
観測員は持ち場へ戻り、艦橋には機器の作動音と、乗員たちが必要な情報を交わす声が続いた。艦隊は予定された針路を維持しつつ、海面、空中、水中から得られる情報を確認していく。
航行が進むにつれて、既知の海域は次第に遠ざかっていった。航路図に記された調査済みの地形は後方に残り、進行方向には依然として広い空白が続いている。
地図の上ではわずかな距離に見えるその空白も、実際に埋めるには時間と労力を必要とした。
ネオ・アトランティスは転移以来、自勢力圏の再建と周辺環境の把握に力を注いできた。既存の施設を再び機能させ、必要な物資や生産基盤を整えることは、組織を維持するうえで欠かせない。
その一方で、外部世界の情報が乏しいままでは、将来の判断に必要な前提そのものが欠けてしまう。自分たちの近くに何があるのかだけでは足りない。その先にどのような陸地や社会があり、どのような勢力が活動しているのか。
そこまで把握して初めて、自分たちがこの世界の中でどの位置にあるのかを考えることができる。
艦隊の前方には、まだ十分な調査が行われていない海が広がっていた。
*
その頃、ネオ・アトランティス中枢基地では試験艦隊の進出状況を確認する定時報告が続いていた。
司令室へ届けられた資料には航行位置や海底の測定結果、海流の変化などが逐次記録されていた。新たな陸地や船舶を確認したという報告は、まだない。調査は計画どおり進んでいるものの、現時点で世界の地理を大きく書き換えるような情報は得られていなかった。
ガーゴイルは報告書に目を通し、壁面の地図と照合した。艦隊の位置を示す記録はこれまでの調査範囲から少しずつ離れている。地図上では、航路の先に広大な空白が残されたままだった。
「現在のところ、新たな陸地や人工物は確認されていないようだな」
「はい。これまでに送られた報告では、陸地や船舶を確認したという記録はありません」
調査部門責任者は資料を確認しながら答えた。調査を始めてからの時間を考えれば、目立った成果がないこと自体は不自然ではない。海域の広さに比べて、艦隊が実際に観測できる範囲は限られている。短時間で何かを発見できると期待する方が、現実的ではなかった。
「分かった。調査は継続させろ。現時点で成果がないからといって、探索を打ち切る理由にはならん」
「承知しました」
調査部門責任者は報告書をまとめ直し、次の定時報告に備えた。ガーゴイルはその様子を見届けてから、再び地図へ視線を戻した。
彼らが転移した地域は、広大な未知の世界の中にある。ネオ・アトランティス自身の勢力圏は存在するが、その外側にどれほどの国家や社会が広がっているのかは、まだ分かっていなかった。
神聖ミリシアル帝国という国家の存在は確認できた。しかし、その国がどれほどの領域を支配しているのか、どのような国々と交流しているのか、ほかにどのような勢力が存在するのかについては、判断できるだけの情報がない。
そもそも、ネオ・アトランティスが用いている「文明圏」という言葉も未知の世界を整理するために設けた仮の枠組みにすぎなかった。国家間の関係や文化的な共通性、交易の広がりなどを調べる前から、世界に明確な区分が存在すると決めつけることはできない。
ガーゴイルは地図の空白を眺めながら、今回の調査が持つ意味を考えていた。もし自分たちが文明圏の外側に転移していたのなら、周辺には既知の大国の影響をほとんど受けていない国家が存在するかもしれない。
反対に転移した海域そのものが、まだ把握できていない国家群の近くに位置している可能性もある。文明圏の外側という表現が、国家の存在しない場所を意味するとも限らない。大国の勢力が及ばない土地に、独立した社会が築かれていることも考えられた。
しかし、いずれも現段階では仮説にとどまる。神聖ミリシアル帝国の艦隊と一度遭遇したというだけで、その国の勢力圏や世界全体の構造を推定することはできない。
結局のところ、答えを得るには調査を続けるしかなかった。
*
航海開始からさらに時間が経過した頃、第二航空戦艦『デウス・エクス・マキナ』の観測区画で前方の海域に変化が確認された。
観測員は定められた間隔で水平線を確認し、装置に所持される情報をを記録していた。観測された情報は全て床面表示装置に記録され、そのままネオ・アトランティス中央司令室へと送信される。
床面表示装置へ表示される地図に目立った船影は現れず、空にも特筆すべき変化は見られない。
だが、海と空の境界に、これまでの観測では確認されていなかった輪郭が現れた。観測員は目を凝らし、観測装置の範囲をを慎重に調整した。
そして、観測装置は陸地らしき情報を更に観測していく。他の観測員達の情報と比較し、その輪郭は更に明確に浮かび上がっていく。
「艦長、前方に陸地らしきものを確認しました!」
床面表示装置に陸地らしき情報が表示され、その部分が分かりやすくマーキングされる。
「こちらです。遠方に陸地らしき輪郭が見えます。これまでの調査図には記録されていない地形です」
床面表示装置に表示されているマーキングされた地区へ、艦長は視線を向けた。距離があるため細部までは分からないが、見えている輪郭は一定の広がりを持ち、単なる雲の影とは異なっていた。
「どの程度の規模だ?」
「現時点では全容を確認できておりません。ただ、単独の小島というより、ある程度の広がりを持つ沿岸部である可能性があります」
艦長は床面表示装置に浮かび上がる地図を覗き込み、視界に入る地形を確かめた。確かに、水平線の向こうには陸地の輪郭が連なっている。これまでの調査範囲から離れた海域に、未知の陸地が存在していた。
「現在位置と観測方位を記録しろ。試験艦隊にも報告を入れろ。確認できる範囲を、できるだけ正確に残すんだ」
その命令を受け、報告は速やかに試験艦隊へ伝達された。艦橋では航海士が現在位置と観測方位を照合し、既存の調査図に新たな記録を書き加える準備を進めていた。
これまで空白だった区域に、初めて具体的な地形情報が加わろうとしていた。やがて、ほかの艦艇からも陸地の存在を確認したとの報告が届いた。
異なる位置からの観測結果を照合しても、陸地の輪郭は一致している。少なくとも、何らかの陸地が水平線の先に存在することは間違いなかった。
艦隊が観測を続けるにつれて、遠方の地形は少しずつ明瞭になっていった。低い山並みが沿岸部の奥に連なり、その手前には比較的平坦な土地が広がっている。海岸線の一角には港湾施設らしき構造物があり、その周囲にも複数の建造物が確認できた。
「確かに陸地だな……」
試験艦隊旗艦艦長は望遠鏡から目を離さずに呟いた。見えている海岸線は、これまで確認した小さな島々とは異なり、ある程度の距離にわたって続いている。ただし、視界に入る範囲だけでは、その陸地が大陸の一部なのか、大きな島なのかまでは判断できなかった。
「海岸線の形状を引き続き記録しています。現在位置から確認できる範囲では、沿岸部に平地が広がっているようです」
航海士は現在位置を示す記録と、観測員から届いた情報を照合していた。新たな陸地を発見したという事実は確かだが、地形の全容を把握するには観測を続ける必要がある。今の段階で地図を大きく描き換えるよりも、まずは確認できた輪郭を正確に残すことが重要だった。
「周辺に船舶はいるか?」
「現在のところ、確認できません」
「人工物は?」
「沿岸部と、その奥に建造物と思われるものが見えます。距離があるため、個々の構造や用途までは判別できません」
試験艦隊旗艦艦長は再び陸地へ視線を戻した。海岸線に沿っていくつかの建造物がまとまり、内陸へ向かって道のような線が伸びている。平地には規則的に区切られた土地も見え、自然の地形だけでは説明しにくい配置が確認できた。
沿岸部の一角には、船舶が出入りするための施設と思われる場所があった。その周辺には複数の建物が集まり、そこから内陸の建造物群へ向かって道が続いているように見える。
距離があるため用途を断定することはできない。それでも、陸地に人為的な活動が存在する可能性は高かった。
「人が暮らしている地域かもしれんな」
試験艦隊旗艦艦長の言葉に、観測員は記録を確認してから答えた。
「はい。建造物の配置に加え、農地と思われる区画も確認できます。一定の居住地が存在している可能性があります」
望遠鏡の視界には、区画ごとに分けられた土地と、その周囲に点在する建物が映っていた。さらに奥には集落らしきまとまりがあり、場所によっては建造物の周囲を囲うような壁も見える。自然の地形だけが広がる無人の土地ではなく、人々が生活している地域である可能性が高かった。
「規模は分かるか?」
「まだ判断できません。確認できる範囲では、沿岸部の施設や集落は比較的小規模に見えます。ただし、内陸部の全容は分かっておりません」
試験艦隊旗艦艦長はすぐには答えず、しばらく陸地を観察し続けた。港らしき施設、農地、建造物、それらをつなぐ道筋。個々の特徴は記録できても、それがどのような社会の一部なのかまでは分からない。
港が小さいからといって、その土地全体が小さいとは限らない。壁が見えるからといって、周辺で戦争が続いていると決まったわけでもない。
農地が広がっているからといって、住民の生活様式や経済の仕組みまで分かるわけではなかった。遠方から見える一部の景色だけで、その土地の実情を理解したつもりになることは避けるべきだった。
今回の任務で重要なのは、観測されたものを観測されたまま記録することだ。推測が必要な場合も、それが事実ではなく推測であることを明確にしなければならない。
「接近するべきでしょうか?」
航海士が試験艦隊旗艦艦長に尋ねた。距離を詰めれば、沿岸部の様子をより詳しく観測できる可能性はある。しかし、相手の存在を確認したばかりの段階で近づけば、こちらの存在に気づかれる危険も高くなる。相手がどのような国家に属するのか、どれほどの軍事力を持つのかも分かっていない。
試験艦隊旗艦艦長は艦隊の位置を示す記録へ一度目を落とした。今回の任務は未知の海域を調査することであって、新たな国家と接触することではない。観測の精度を上げるためだけに、不要な危険を増やす必要はなかった。
「いや、今は一定の距離を維持しろ。こちらの存在を知られる必要はない。まずは陸地の輪郭と、確認できる人工物の位置を記録するんだ。港湾施設、集落、道、農地、壁状の構造物。見えるものを分類しておけ」
「了解しました」
「それから、相手の技術水準については、観測できた事実だけを記録しろ。建造物の外観だけで文明の程度を決めつけるな。ここがどの国家に属するのかも、まだ分からん」
「承知しました」
命令を受けた観測員たちは、それぞれの持ち場で記録を続けた。陸地の輪郭は調査図へ書き加えられ、人工物らしき構造物の位置は、観測方位と距離の情報に沿って整理されていく。これまで空白だった海図には、新たな情報が少しずつ積み重なっていった。
試験艦隊は沿岸部から十分な距離を保ち、相手に気づかれないよう注意しながら観測を続けた。新たな陸地には、居住地と思われる建造物群があり、港湾施設らしき場所や農地、道、壁状の構造物が存在する。いずれも、これまでの調査では得られていなかった情報だった。
そこに人為的な活動があることは確からしい。しかし、どのような統治機構が存在するのか、住民がどのような種族なのか、どのような言語や文化を持つのかは分からない。軍事力や政治体制、歴史についても、判断の手掛かりはなかった。
ネオ・アトランティス側が確認できたのは未調査の外洋の先に陸地があり、そこに人々の生活の痕跡と思われるものが存在するということだけだった。
神聖ミリシアル帝国との遭遇によって、この世界に自分たちの知らない国家が存在することはすでに明らかになっている。だが、今回発見した陸地がその国家と関係しているのか、同じ文明圏に属しているのか、それとも全く異なる地域なのかは分からない。
未知の海域に新たな調査対象が見つかった。それ以上の結論を出すには、まだ情報が足りなかった。
*
海の向こうに広がるその陸地には、周囲の大国とは異なる歩みを続けてきた、小さな独立王国が存在していた。
その国の領土は広大ではない。沿岸部の港町と内陸の集落、農地、城塞などが、王国の人々の暮らしと統治を支えている。国土も人口も周囲の大国に比べれば小さく、広い地域の政治を左右するような立場にはなかった。
それでも、そこにはその土地なりの歴史と統治の仕組みがあり、人々は土地を耕し、港を利用し、家族や隣人と日々の生活を営んできた。
王国の人々は自分たちが暮らす土地の外にどれほど広い世界があるのかを、すべて知っているわけではない。ましてや、外洋の向こうから未知の艦艇群がこの海域へ進出してきたことなど、知る由もなかった。
海岸から離れた海上で、彼らの土地を遠くから観測する艦艇が存在していることも、その艦艇がどのような技術を持ち、何を目的に航行しているのかも、まだ誰も知らない。
一方、ネオ・アトランティス側も、そこに人々が暮らす陸地が存在することを確認したばかりだった。
遠方から見えた建造物や農地、港湾施設らしき構造物が示すのは、人為的な活動の痕跡だけである。その国がどのような歴史を歩み、どのような統治体制を持ち、何という名で呼ばれているのかを知る手掛かりは、まだ何一つ得られていなかった。
文明圏の外側に位置する、小さな独立国家。その国の名は、リューネル王国と言う。