閲覧の際はご注意願います。
また、実写映画「ストリートファイター・ザ・ムービー」における設定(ダンとケンの同居生活など)を一部取り入れていますが、映画の世界観に準拠しているわけではありません。
キャラクターの精神的な崩壊やシリアスな描写が含まれるため、原作の公式設定を重視される方は閲覧にあたりご留意ください。
※ この作品はpixivにも掲載しています。
【ダン 視点】
熱気と罵声、そしてむせ返るような汗と血の匂いが、薄暗い闘技場の空気を重く淀ませていた。
十三歳になる火引弾は、客席の最前列に近い片隅で、膝の上の拳を白くなるほど握りしめていた。リングの上で対峙しているのは、ムエタイの帝王と畏怖される巨漢・サガットと、弾の父である火引強だ。
世間の格闘技ファンや好事家たちは、火引強という男を「どんな苦境に立たされても最期まで立派に戦い抜く、ガッツのあるファイター」だと持て囃していた。弾自身も、今日この会場に足を踏み入れるまでは、そう信じようとしていたのだ。家にろくに金も入れず、母がどれほど苦労して日々の糧を繋いでいるかも顧みず、ただ己の闘争本能の赴くままに強者へと噛みついて回る父。それでも、リングの上でだけは誇り高い英雄なのだと信じたかった。
だが、鈍い衝撃音が会場に響き渡った瞬間、その脆い幻想は呆気なく砕け散った。
サガットの放った重い一撃が、強の顎を正確に捉えたのだ。強の身体は糸の切れた人形のように宙を舞い、マットの上に激しく叩きつけられた。ピクリとも動かない。誰の目にも、勝敗は明らかだった。
サガットは大きく息を吐くと、倒れ伏した強を一瞥し、「勝った」と確信して無防備に背を向け、リングを降りようと歩み出した。帝王なりの、敗者に対する敬意と慈悲だったのだろう。これ以上の追撃は不要だと判断したのだ。
客席からは溜息と、勝者を讃える歓声が上がり始めていた。しかし、弾だけは息を呑んで凍りついた。
弾の座っている観客席の角度からは、マットに突っ伏した父の顔が、あまりにも残酷なほどよく見えていたのだ。
強の意識は、落ちてなどいなかった。
マットに頬を擦りつけ、全身の力を抜いて死んだふりを装いながら、その片目だけがギラリと濁った光を宿して細められていた。去りゆくサガットの無防備な背中を測るように、唇の端が卑しく歪んでいる。
(……嘘だろ、親父)
弾の喉の奥で、声にならない悲鳴がひりついた。
親父にはお袋がいる。十三になる息子⋯⋯俺もいる。ここで負けを認めて大人しく担架で運ばれれば、少しの恥と怪我だけで、また家族の元へ生きて帰れるはずだ。それなのに、この男は――意識がなくなったふりをして、相手の油断を突く奇襲の隙を伺っている。そんな真似をすれば、あの誇り高き帝王がどれほどの激昂をもって報復するか、格闘家の端くれならば分からないはずがないのに。
次の瞬間、強は弾かれたように跳ね起き、背後からサガットへと襲いかかった。
「ぐあああっ!?」
サガットの苦悶の咆哮が会場を引き裂く。強の指先が、振り向きざまのサガットの右目を深く抉り取っていた。鮮血がリングの床に飛び散り、観客席がパニックに近いどよめきに包まれる。
隻眼を押さえたサガットが、凄まじい形相で強を見下ろした。そこには単なる怒りだけでなく、冷徹な理解があった。『この男は、どちらかが死ぬまでは決して納得しない種類の格闘家だ』――そう判断したサガットの全身から、一切の迷いが消えた。
やめろ、と叫ぶ暇すらなかった。
やむなく放たれた帝王の全力の反撃は、もはや試合ではなく処刑だった。骨の砕ける乾いた音が幾度も二人の間で交わされる。
やがて、最後の音が響きわたった。再びマットに沈んだ火引強は、今度こそ二度と動かなかった。
弾は立ち上がることもできず、ただ開いたままの目でリングの上の骸を見つめていた。
なんだ、あれは。
あんなカスみたいな、卑劣で、みっともない戦い方はなんだ。母さんも俺も捨てて、家族の明日なんて一顧だにせず、ただ自分の意地と殺意だけのために死ぬ確率の最も高い戦法を選んで、勝手に死にやがった。父親失格だ。どこがガッツあるファイターだ。ただの、家族を顧みないクズじゃないか。
吐き気がせり上がってくる。父への軽蔑と、置き去りにされた絶望と、目の前の死体の生々しさが、十三歳の少年の脳髄を許容量を超えて焼き焦がしていく。
――ピシリ、と。
頭の中で、何かが決定的にひび割れる音がした。
『……ちがう』
弾の瞳から、急速に焦点が失われていく。
『違う。親父は……最期まで立派に戦ったんだ。なのに、あのサガットが……親父の不意をついて、卑怯にも殺したんだ……!』
そうでなければ、あまりにも惨めすぎた。自分の父親がただのクズだったなどと認めてしまえば、残された自分と母の人生そのものが汚泥に塗れてしまう。だから弾の心は、自らを守るために記憶を塗り潰した。
サガットへの燃えるような復讐心という「わかりやすい嘘」で、心のひび割れを無理やり塞いだのである。
【リュウ 視点】
人里離れた深い山奥、滝の轟音と風の音だけが響く古びた道場に、その少年がやってきた日のことを、リュウはよく覚えている。
当時のリュウは十歳だった。物心ついた頃から師であるゴウケンに養育され、この道場で寝起きし、拳を磨く日々を送っていたリュウにとって、ゴウケンは師であると同時に実質的な父親そのものだった。
そんな静かな二人きりの暮らしの中に、三歳年上の少年――火引弾が入門してきたのである。
「……火引弾だ。よろしく頼む」
入門の挨拶を述べた十三歳のダンは、眉間に深い皺を寄せた、ひどく気難しそうな少年だった。
年上とはいえ、入門順で言えばリュウが兄弟子で、ダンが弟弟子にあたる。生まれて初めて「同世代の仲間」ができたリュウは、最初のうちこそ胸を躍らせて話しかけたが、ダンはとにかく冗談というものが通じない性格だった。
リュウが少しでも気を利かせたつもりで軽口を叩けば、「言っている意味がわからない。稽古の邪魔だ」と素っ気なく返され、道場の掃除一つとっても、雑巾の絞り方から日誌の書き方に至るまで、驚くほど几帳面で理屈っぽかった。
最初の半年ほどは、互いにどう距離を測っていいかわからず、道場にはどこかぎこちない空気が流れていた。だが、同じ釜の飯を食い、同じ滝に打たれ、並んで拳を突き出す日々が一年、二年と重なっていくうちに、ダンの張り詰めていた肩の力は少しずつ抜けていった。
ある冬の朝、リュウが寝ぼけ眼で道着を裏返しに着て出てきたときのことだ。
いつものように小言が飛んでくるかと思いきや、掃除の箒を持っていたダンが、ふっと口元を緩めて小さく吹き出したのである。
「……お前、拳の筋はいいのに、そういうところは本当に抜けてるな」
「う、うっかりしただけだ!」
顔を赤くして道着を直したリュウを見て、ダンはまた小さく笑った。派手な笑い方ではなかったが、冬の陽だまりのように静かで、不器用な優しさが滲む笑顔だった。
その頃からだ。リュウがこの「年上の弟弟子」のことを、心から好ましく思うようになったのは。
不器用で気難しいけれど、頼めば嫌な顔をしつつも丁寧に型の崩れを見てくれるし、リュウが稽古で足を挫けば、何も言わずに冷たい濡れ手拭いを持ってきてくれる。リュウにとってダンは、初めてできた友人であり、少し頼りになる兄のような存在になりつつあった。
ただ一つ、幼いリュウにも気がかりなことがあった。
ダンは時折、リュウの目が届かないと思っている場所で、何かに追い立てられるような暗い焦燥を顔に浮かべることがあったのだ。夜遅く、誰もいない道場の裏手で、まるで目の前の敵を抉り殺さんばかりの凄まじい形相で立ち木に拳を叩き込んでいる姿を、リュウは何度か目撃していた。
(ダンは、何をあんなに焦っているんだろう……?)
いつか聞いてみよう。もっと自分が強くなって、ダンと対等に肩を並べられるようになったら、その胸の裡にある苦しさを打ち明けてもらおう。十代になったばかりのリュウは、そんなふうに無邪気に明日を信じていた。
しかし、その「いつか」は永遠に訪れなかった。
ある朝、リュウが小鳥のさえずりで目を覚ましたとき、隣の布団はすでに冷え切っていた。
最初は早朝稽古にでも出たのかと思った。だが、道場にも、炊事場にも、裏の滝壺にも、ダンの姿はどこにもなかった。荷物が消えている。いつも几帳面に整頓されていた私物も、道着も、すべてが綺麗さっぱりなくなっていた。書き置きの一枚すら残されてはいなかった。
「師匠! ダンが……ダンがどこにもいないんです!」
血相を変えて師の居室へ駆け込んだリュウに、ゴウケンは腕を組んだまま、岩のように動かない表情で告げた。
「ダンは破門にした。今朝方、山を下りさせた」
「は……破門!? な、なんでですか! ダンは何も悪いことなんか……!」
詰め寄るリュウの質問に、ゴウケンは要領を得ない短い言葉を返すばかりで、核心には決して触れようとしなかった。納得できずに食い下がるリュウを、ゴウケンの雷のような一喝が制した。
「リュウよ。ダンのことは、死んだと思え」
リュウは息を呑み、立ち尽くした。ゴウケンは厳しい目を細め、さらに残酷な言葉を続けた。
「よいか。もしもこのあと、我が道場に新たな入門者が来たとしても――その者に、ダンのことは決して打ち明けるな。この山に火引弾という男がいたこと自体、お前の胸の奥底に封じ込めよ!」
「し、師匠……っ」
十二歳になったばかりのリュウにとって、それはあまりにも理不尽で、あまりにも残酷な仕打ちだった。
昨日まで隣で笑い、共に汗を流していた初めての友人を、影すら踏ませてもらえぬまま奪われ、「死んだと思え」と命じられる。理由すら与えられない喪失感に、リュウは道場の冷たい床に膝をつき、声も出せずに唇を噛みしめた。
去っていったダンとすれ違うかのようにして、その少年が道場の門を叩いたのは、それから間もなくのことだった。
「よう! 俺はケン。ケン・マスターズだ! 今日からよろしくな!」
輝くような金髪を揺らし、屈託のない笑顔で手を差し出してきた少年に、十二歳のリュウは目を瞬かせた。
ケンは十一歳で、リュウより一つ年下だった。母親の家系がこの暗殺拳の遠縁にあたるという縁での入門だったが、驚くべきはその父系の出自である。なんと、世界中の経済を動かしていると言っても過言ではない超巨大企業グループ「マスターズ財団」の直系――つまり、正真正銘の大富豪の御曹司だというのだ。
山奥で泥にまみれて育ったリュウは、そのキラキラとした出自と洗練された立ち居振る舞いを前にした時点で、早くも若干の劣等感を抱かずにはいられなかった。
だが、そんなリュウの警戒や引け目を、ケンは持ち前の底抜けの明るさでいとも容易く吹き飛ばしてしまった。
「うわっ、なんだこの滝! 冷てえ!! 師匠、これ本当に人間が入るもんなのかよ!?」
「つべこべ言わずに肩まで浸かれ、ケン!」
「へいへい! おっとリュウ、お前そんな真面目な顔でよく平気だな! よーし、どっちが長く入ってられるか勝負だぜ!」
ケンは本当に、驚くほど「いいやつ」だった。
大金持ちの坊ちゃんだからといって鼻にかけるようなところは微塵もなく、失敗すれば豪快に笑い飛ばし、美味い飯を食えば全力で喜び、あっという間に山の道場へと馴染んでいった。
騒がしくて、明るくて、太陽みたいな少年だった。
ケンが隣でギャーギャーと騒ぎ立て、冗談を言い合いながら稽古に励む日々の中で、リュウは自分の胸にぽっかりと空いていた暗い隙間――ダンという生涯で初めての友人を突然失った生々しい傷跡が、少しずつ温かいもので埋められ、癒えていくのを感じていた。
けれど、傷が癒えることと、記憶が消えることは同じではない。
ある雨上がりの昼下がり、稽古の合間に道場の隅で休んでいたときのことだ。ケンが何の気なしに、古い文机の上に積んであった過去の記録台帳をパラパラとめくり始めた。
「ん? ……こりゃなんだ? リュウ、知ってるよな?」
ケンの指し示したページを見て、リュウの心臓がドクリと嫌な音を立てて跳ねた。
そこにある日付の当番日誌が、そしてまた別の日付の当番日誌が、墨汁をぶちまけたように真っ黒に塗り潰されていたのである。
リュウには、その下に何が書かれていたのか、誰が書いたものなのか、痛いほどわかっていた。几帳面で字の綺麗だったダンが、当番の日に丁寧な楷書で書き残していた記録だ。師匠が、ダンの痕跡を消すために塗り潰したに違いなかった。
『もしもこのあと入門者が来たとしても、その者にダンのことは打ち明けるな!』
ゴウケンの厳命が、鎖のようにリュウの喉を締め上げる。何も知らないケンが、不思議そうに首を傾げてリュウの顔を覗き込んだ。
「おい、リュウ? どうしたんだよ、急に黙り込んで」
「いや……俺には……なんとも……」
目を逸らし、絞り出すようにそう答えるのが、リュウには精一杯だった。ケンは「ふうん、師匠が墨でもこぼしたのかね」とあっさり納得して台帳を閉じたが、リュウの胸の奥には、消化しきれない鉛のような重りが冷たく沈殿していた。
そうこうしているうちに、季節は巡り、ケンと共に過ごす歳月は三年を越えていた。
十五歳になったある夕暮れ、リュウは道場の縁側で汗を拭いながら、隣で大の字に寝転がって笑うケンを見つめた。
(……いつの間にか、ダンよりも長い時を、ケンと共にしているな)
ふとそんな感慨がよぎる。ダンと過ごしたのは二年足らず。ケンと過ごした時間は、とうにそれを追い抜いていた。それでも、かつての友の面影は消えることなく、リュウの心の暗い水底にずっと静かに潜み続けていた。
そんな平穏な修行の日々が、血と暴力によって唐突に打ち砕かれたのは、ある嵐の夜のことだった。
道場を揺るがすほどの禍々しい殺気と共に現れた男――師の弟であり、拳の極致を求めて修羅の道へと堕ちたゴウキが、ゴウケンへと襲いかかったのだ。
リュウとケンが駆けつけたときには、すでに決着はついていた。
雷鳴が轟く中、ゴウキは冷酷に背を向けて闇の中へと去り、後には絶命したゴウケンの亡骸だけが残されていた。息を吹き返すことなどない、完全なる死だった。
「師匠……っ! 師匠おおおっ!!」
リュウとケンは、冷たくなっていく師の亡骸に取りすがり、声を上げて慟哭した。育ての親であり、絶対的な導き手であった巨木を失い、二人の少年は幾日も涙を流し、小さな墓標の前で深く師を悼んだ。
やがて涙が枯れ、葬儀の後始末が落ち着いた頃。
リュウは人気のなくなった道場を見渡し、内心で静かに覚悟を決めていた。
(保護者であり師であった方が居なくなったのだ。ケンはきっと、アメリカのマスターズ家に帰るのだろう)
また、一人になる。ダンがいなくなり、師匠がいなくなり、そしてケンも本来の華やかな世界へと帰っていく。自分は一人でこの山に残り、師の遺した拳を守っていくしかないのだと、リュウは自分に言い聞かせていた。
しかし。このマスターズ家の御曹司という男は、リュウの想像を遥かに超えてワガママ度数が高く、そして一味違っていたのである。
「よーし! 決めたぜ、リュウ!」
ある朝、荷物をまとめた大きなダッフルバッグを肩に担ぎ、ケンが突き抜けるような青空の下でニッと笑った。
「師匠が生きてた頃に言っていた……世界武者修行! やってみっかあ!」
リュウは思わずポカンと口を開け、目の前の親友を凝視した。
(……嘘だろ……何言ってんだこいつ……)
師匠が死んだばかりで、自分たちはまだ十五歳と十四歳の未成年だぞ。実家に帰ればふかふかのベッドと温かい食事と莫大な資産が待っているというのに、なぜ好き好んで野宿同然の武者修行に飛び出そうというのか。
だが、ケンの瞳には一点の曇りもなかった。結局、その強引で太陽のような熱量に押し切られる形で、二人は山を下り、世界中を飛び回る武者修行の旅へと出発することになったのである。
旅に出てからの一年間は、刺激と発見、そして互いへの密かな焦燥の連続だった。
見知らぬ異国の街へ降り立つたび、リュウはケンの圧倒的な社交性に舌を巻いた。ケンは言葉の訛りや文化の違いなどまるで気にせず、酒場の荒くれ者だろうが路地裏の老人だろうが、あっという間に懐へ飛び込んで仲良くなってしまう。宿の交渉も、ストリートファイトの対戦相手の確保も、ケンが一声かければ面白いように道が開けた。
(ケンはすごいな。どこに行っても、誰としゃべっても、すぐに相手の懐にはいる。俺にはとても真似できない……)
不器用で寡黙なリュウは、そんなケンの眩しさに、道場時代からの劣等感をさらに深くしていた。
【ケン 視点】
だが、その当のケンが、リュウの背中を見るたびにどれほど激しい劣等感に胸を焦がしていたかを、リュウ自身は知る由もなかった。
異国の安宿の中庭で、十四歳のケンは壁に背を預け、黙々と正拳突きを繰り返すリュウの姿を睨むように見つめていた。
百回、五百回、千回。
何の面白みもない、ただ空気を突くだけの地味で退屈な反復訓練だ。要領がよく、一度見聞きした技術ならすぐに身体操作のセンスで形にできてしまうケンにとって、そうした基礎練は真っ先に手抜きをしたくなる退屈な作業でしかなかった。
けれど、リュウは違った。
雨が降ろうが、移動で疲れ果てていようが、リュウはどんな地味で退屈な反復訓練も決して嫌がらない。まるでお経でも唱えるかのように、一撃一撃の重心と呼吸を確かめながら、飽きることなく何時間でも続けられるのだ。
その差は、旅先での実戦において残酷なほど明確に現れていた。
先日のストリートファイトでもそうだった。ケンが持ち前の勘の良さと派手な大技で相手を圧倒しかけたものの、足運びの基礎を雑にした隙を突かれて不覚を取り、落としてしまった試合がある。その同じ相手と戦ったリュウは、華やかさこそないものの、岩盤のように揺るがない基礎の積み重ねで相手の攻めをすべて受け止め、最後には危なげなく完全に勝ち切ってみせたのだ。
(……くそっ)
ケンは奥歯を噛みしめ、自分の拳を見下ろした。
(リュウのやつは、俺が基礎の手抜きのせいで落とすような試合も、絶対に勝ち切る。……俺は今まで、要領のよさこそが才能だと思っていたのに!)
道場にいた頃も、旅に出たばかりの頃も、自分は天才なのだとどこかで自惚れていた。一度見れば何でもできる自分のほうが、不器用なリュウよりずっと先を行けると思っていた。
だが、一年間隣で旅をして、思い知らされた。
(俺は、天才なんかじゃなかった。……本当に恐ろしいほどの才能があるのは、リュウのほうじゃないか……!)
互いに相手の中に「自分にない輝き」を見て、静かに劣等感を燃やし合う十五歳と十四歳。そんな危うい均衡を抱えたまま、二人の旅は二年目へと差し掛かっていた。
【リュウ 視点】
事件が起きたのは、東南アジアに近い雑多な港町の、熱気とゴミの臭いが入り混じる歓楽街を通りかかったときだった。リュウが十六歳、ケンが十五歳になった年のことである。
路地裏の空き地にロープを張っただけの即席リングの周りに、黒山の人だかりができていた。下品な笑い声と、小銭が飛び交う賭けの怒号が響いている。
「おっ、ストリートファイトやってるぜ、リュウ! ちょっと覗いていこうぜ!」
ケンの誘いに頷き、二人は野次馬の隙間からリングを覗き込んだ。
大柄なストリートファイターの向かい側に立っている男を見て、リュウは最初、自分の目がバグったのかと思った。
目がチカチカするような、どぎついピンク色の道着を着た男だった。しかも、その男はまるでマトモに戦っていなかった。
「ヒャッホー!! どしたぁ! よゆーっす! かかってきなァ!!」
よくわからない甲高い奇声を発しながら、リングの上を意味もなく前転したり、後転したり、うさぎのようにピョンピョンと跳ね回ったりしている。構えも隙だらけで、格闘技のセオリーなど欠片もありはしない。どう見ても正気の沙汰ではなかった。
観衆はそんなピンク色の男を指差し、「またあのピエロだ!」「いいぞ、もっと跳ねろ!」とゲラゲラ笑い転げている。
「……なんだあいつ? ふざけてんのか?」
隣でケンが呆れたように呟いた。だが、リュウの耳にその声は届いていなかった。
跳ね回るピンクの狂人が、くるりとこちらを向いてニカッと下品に笑った瞬間。リュウの全身の血液が、一気に逆流して凍りついた。
その顔に――どうしようもないほど、見覚えがあった。
几帳面で、冗談が苦手で、いつも眉間に皺を寄せていて、それでも冬の朝にふっと優しく笑ってくれた、あの三歳年上の弟弟子。
「――ダン!!! いったいなにをやっているんだ!!??」
腹の底から絞り出したリュウの絶叫が、歓楽街の喧騒を切り裂いた。
リングの上で跳ね回っていたピンクのバカが、ビクリと肩を震わせ、ゼンマイが切れた人形のようにピタリと静止した。
「……え?」
無防備に立ち止まったその顔面に、対戦相手の大男の容赦ないフックがめり込んだ。
ドゴッ、と鈍い音がしてダンが吹き飛ぶ。さらに起き上がろうとしたところに、蹴りと拳の雨が情け容赦なく降り注いだ。ダンは防御すらろくにせず、ボロ雑巾のようにボコボコに殴り倒されていく。
「ギャハハハ! ぶっ飛ばされたぞ!」「最高だぜ、ピンクの兄ちゃん!」
客はみな、その凄惨なリンチを「愉快な見世物」として手を叩いて楽しんでいた。
せり上がってくる猛烈な吐き気を、リュウは奥歯が砕けるほど噛みしめてこらえた。
(目を逸らすな……! ここで見なかったことにして立ち去ったら、俺は一生、自分を許せなくなる……!)
いつの日か、「もっと真面目にやれば強くなれたはずなのに」などと安全な場所から後悔するような真似だけは、絶対にしたくなかった。こんな残酷な見世物にされるダンを、見捨てることなど到底できなかった。
試合終了のゴングが鳴り、大男が勝ち誇って去った直後、リュウはロープを飛び越えてリングへ乱入した。笑っている観客たちを睨みつけて黙らせ、マットに転がるダンの身柄を強引に引き受けると、よろめきながら立ち上がったダンの頬を――渾身の力で思いっきりビンタした。
パァン!! と、先ほどのパンチよりも乾いた破裂音が路地裏に響き渡った。
「おいリュウ!? お前、いきなり何すんだ! 暴力じゃねえか!!!」
慌てて追いかけてきたケンが目を丸くして叫ぶ。
だが、頬を真っ赤に腫らして尻餅をついたダンは、鼻血を拭いながらゆっくりと顔を上げると、焦点の合わない目をパチパチと瞬かせた。
「……おろ? 誰かと思やあ、リュウ坊じゃあねえの? ……どした? 元気してたか?」
リュウの胸が、雑巾のように強く絞られた。
こんなクルクルパーの狂人になり果てて、見世物にされてボコボコに殴られ、さらには再会した弟弟子にいきなりビンタされたというのに――この男の口から真っ先に出たのは、自分への怒りではなく、「他者への心配」だったのだ。
なんという、どうしようもないほど脆く、優しい性情なのか。
「なんだこいつは? おいリュウ、知り合いなのかよ!? どういうことだ?」
詰め寄るケンの問いかけを、リュウは完全に無視した。説明している余裕などない。事態があまりにも緊急すぎた。リュウは無言でダンの襟首を掴んで引きずり起こすと、そのまま自分たちが泊まっている路地裏の安い宿屋へと無理やり連行した。
ギシギシと軋む階段を上り、安宿の狭い一室にダンを押し込むなり、リュウはダンの両肩を掴んで激しく揺さぶった。
「応答しろ! お前、自分の名はわかるか?!」
「えっ、火引弾っス」
ケロリとした間の抜けた声で、ダンが答える。リュウは顔を歪め、声を震わせた。
「お、お前はそんな性格ではなかったはず……っ! まあいい! おい、お前は我が道場で覚えた技を、全て忘れたのか???」
先ほどのリングで、ダンは殴られる合間に奇妙な構えから不恰好な拳を繰り出していた。あれは暗殺拳の型に似ていながら、威力もリーチも完全に死んでいる代物だった。
その問いを投げかけた瞬間。
ヘラヘラと笑っていたダンの目から、すっと全てのハイライトが消え失せた。
底なしの古井戸を覗き込むような、ぞっとするほど暗い瞳。ダンは抑揚のない、壊れたレコードのような声で呟いた。
「わざ……使ってんじゃん。こーりゅーけんだの、がどーけんだの」
「お前っ! わざと『使えない技』に貶めているな!? いったいなんの……ため……」
言いかけたところで、リュウの言葉が詰まった。
脳裏に、四年前のあの朝の光景が蘇る。
原因は知らない。だが、師であるゴウケンは、まだ十五歳だったダンを「破門」の一言で道場から放逐し、日誌を黒く塗り潰し、「死んだと思え」と切り捨てたのだ。
恨んでいても、おかしくはない。
暗殺拳の技をわざと滑稽で無価値なクズ技に作り変え、ピンクの道着を着て世間の笑い者になることで、自分を捨てた道場と暗殺拳そのものを嘲笑し、復讐しているのではないか。
だとしたら――破門もされず、師匠の愛を一身に受けて道場に残った自分のことは。
「お前は……」
リュウの声が、十六歳の少年のものとは思えないほど細く震えた。
「お前は……この俺のことも、恨んでいるのか?」
部屋の片隅で成り行きを見守っていたケンが、息を呑む気配がした。
ダンの目は、相変わらず何も映していなかった。間違いなく正気ではない。心はどこか遠くで粉々に砕け散っている。しかし、その唇から紡ぎ出された言葉だけは、恐ろしいほど理路整然としてハッキリしていた。
「なんで? テメーを恨んでなんかいいことが起こるのか? まあ妬ましいとは思ってたけど。オレよりずっと才能があるし。でも、それと恨み節って違うくないっスか?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が、リュウを貫いた。
恨んではいない。ただ妬ましかっただけだ、と。これほど無惨に壊れてなお、ダンはリュウ個人に悪意を向けることすらしていなかった。
自分が勝手に踏み込み、勝手にビンタし、勝手に「恨まれているのではないか」と怯えただけ。目の前にいるかつての友の、あまりにも深すぎる傷と狂気の底を覗き込んだ瞬間、十六歳のリュウの心は急速に軋み、限界を迎えた。
受け止めきれない。
こんな残酷な現実を、どう扱えばいいのか、今の自分にはまるっきりわからない。
その夜、疲れ果てたダンがベッドの隅で丸まって眠りについた後、リュウはいたたまれなさに耐えかねて、震える手で紙切れに短い書き置きを残した。
『ケンへ。すまない。マスターズの医療で、彼をどうにかできないだろうか』
それだけを机の上に置くと、リュウは自分の荷物を掴み、眠るケンとダンを残して、逃げるように夜の街へと飛び出していった。まだ十六歳の少年だったリュウには、壊れてしまった友の人生を背負い込むだけの器など、どこにもなかったのである。
【ケン 視点】
翌朝、窓の隙間から差し込む白々しい陽光と、外を走る三輪タクシーのやかましいエンジン音で、ケンは目を覚ました。
「……んあぁ……よく寝たぜ……」
硬い簡易ベッドの上で大きく伸びをしながら、ケンは隣のベッドへと視線を向けた。いつもなら、自分よりずっと早く起きたリュウが、狭い部屋の隅で黙々とストレッチをしているはずの時間だ。
しかし、そこにリュウの姿はなかった。
それどころか、部屋の隅に置かれていたはずのリュウのダッフルバッグも、予備の道着も、綺麗さっぱり消え失せている。代わりに、剥き出しの木製テーブルの上に、一枚のメモ用紙が小石で重しをされて置かれていた。
「……あ? なんだこりゃ」
寝ぼけ眼をこすりながら起き上がったケンは、その紙切れをひったくるようにして手に取った。そこには、見慣れたリュウの不器用で生真面目な筆跡が、どこかひどく乱れた調子で綴られていた。
『ケンへ。すまない。マスターズの医療で、彼をどうにかできないだろうか』
「……………………は?」
ケンは紙切れを持ったまま、数秒間完全にフリーズした。
裏返してみる。何も書いていない。もう一度表を見る。やはり同じことしか書いていない。
すぐさま窓を開け放ち、眼下の雑多な路地を見下ろしたが、白い道着を着た親友の背中などどこにも見当たらなかった。あの生真面目で、一度決めたことはテコでも動かさないはずのリュウが、まさかの夜逃げ――いや、敵前逃亡をかましたのである。
「お、おいおい、嘘だろリュウの野郎……! 俺を置いてバックレやがったのかよ!?」
思わず頭を抱えたケンの背後で、ガサゴソとシーツの擦れる音がした。
振り返ると、部屋の隅の床に敷かれた毛布の山から、ド派手なピンク色の道着を着たままの男が、鳥の巣のようにボサボサの頭を掻きむしりながらムクリと起き上がったところだった。
昨日の殴られ傷で片方の頬を青紫に腫らしたその男と、立ち尽くすケン。
安宿の狭い一室に、見事なまでに取り残された財閥の御曹司と、素性不明のピエロである。
気まずい沈黙が数秒流れた後、ケンは引きつった顔でメモ用紙を握り潰し、目の前の男へとビシッと指を突きつけた。
「えっ……? と、とりあえず、テメーは誰だ?」
昨日の今日で、リュウからは何の説明も受けていないのだ。道場時代の知り合いらしいということは分かったが、なぜリュウがここまで取り乱し、挙句の果てにこんな訳のわからない男を自分に押し付けて逃げたのか、ケンにはさっぱり理解が追いついていなかった。
するとピンクの男は、腫れた頬をポリポリと掻きながら、ひどく間の抜けた調子で首を傾げた。
「それはこっちのセリフっチ! ええ〜、火引弾、だけど、……あれ? うん、火引弾だ」
その瞬間、ケンの眉がピクリと動いた。
(……なんで今、自分の名前を言い淀んだ……?)
記憶喪失なのか、それとも何か後ろ暗い事情でも抱えているのか。
実のところ、この男、生まれたときの事情で二つの国の籍を持っていたのである。それがもうすぐ二十歳になる十九歳の今、どちらかの籍が失効するとかしないとかいう面倒な時期に差し掛かっているのであった――などという複雑な事情を、今のケンが知る由もない。ただ、目の前の男がどこか決定的に「ズレている」ことだけは肌で感じ取れた。
ケンはもう一度、手の中のリュウの書き置きに目を落とした。
(マスターズの医療でどうにかできないだろうか、って……こいつ、別に大怪我してるわけじゃねえよな? 昨日の打撲だって、数日すりゃ治る程度だし……)
この時のケンは、まだ十五歳だった。
恵まれた環境で育ち、自身の肉体とセンスだけを信じて真っ直ぐに生きてきた少年には、人間の心がどれほど脆く、そして一度壊れた精神がどれほど奇妙な形で表出するのかという「精神の病」への理解が決定的に浅かったのである。
だからケンは、目の前でヘラヘラと笑いながら鼻をほじりそうな勢いでぼーっとしているダンのことを、病気だとは露ほども思わず、単に「こういうめちゃくちゃ変わった性格のやつ」なのだとあっさり見なした。
「ま、いいか! リュウのやつがあそこまで気にするってことは、まんざら赤の他人ってわけでもねえんだろ。おい、アンタ! 火引弾って言ったな。とりあえずハラ減ったし、アンタのねぐらに案内しろよ!」
「え〜? オレんち? なーんにも無えぞぉ?」
「いいから行くぞ! 宿代だってタダじゃねえんだからな!」
こうして、逃亡した親友の尻拭いのような形で、十五歳の御曹司と十九歳のピエロによる奇妙な共同生活が幕を開けた――のだが。
三十分後、港町のさらに奥まったスラム街にあるボロアパートの一室に足を踏み入れた瞬間、ケンは玄関先で絶句した。
「……………………」
足の踏み場がない、という言葉すら生ぬるい惨状だった。
いつ食べたのかもわからないテイクアウトの空き容器が地層のように積み重なり、その隙間から得体の知れないカビが生えている。洗濯されていない衣類が湿った塊となって部屋の隅に転がり、窓ガラスは手垢と埃で曇りきって外の光すらろくに通さない。生ゴミの酸っぱい臭いと、淀んだ汗の臭いが鼻腔を容赦なく殴りつけてくる。
絵に描いたような、完全なるセルフネグレクトの成れの果てだった。
「……とんだ汚い部屋だな!! これじゃモテねえだろ!! 顔面以前の問題だぜ!!」
ケンの怒声がボロアパートの薄い壁をビリビリと震わせた。
しかし、当の部屋主であるダンは、ゴミの山をひょいと跨いで部屋の真ん中にあぐらをかくと、心底めんどくさそうに唇を尖らせた。
「うるせえなっ! 男の一人暮らしなんざ、寝る場所がありゃ上等だろうが!」
「上等なわけあるかボケ!! こんな豚小屋みてえな場所で寝起きしてたら、健康な人間だって腐っちまうぜ! ほら立て、ダン! 窓を全部開けろ! ゴミ袋買ってきて片っ端から捨てるぞ!!」
「ええ〜っ、やだよぉ、めんどくせえ……」
「つべこべ言うな! 俺がここに住む以上、こんなゴミ溜めは絶対に許さん!!」
そこからの数日間は、格闘技の修行よりも遥かに過酷な「生活再建の死闘」だった。
ケンは嫌がるダンの首根っこを引っ掴んで大通りに連れ出し、大袋のゴミ袋とデッキブラシ、洗剤、そしてまともなシーツや食器を買い込んだ。腐ったゴミを片付け、床を水拭きし、カビの生えた布団を叩き捨てて新しいものに買い替える。
「おいダン! そっちの隅っこ、まだ埃が残ってるぜ!」
「こ、こまけえなこの金持ち坊ちゃんが……っ! 少しぐらい埃があったほうが落ち着くんだっての!」
「口を動かす暇があったら手を動かせ! 終わったら美味い肉でも食いに行くぞ!」
ギャーギャーと騒ぎ立て、文句を言い合い、時には箒とハタキで小競り合いを演じながら、二人はチマチマと、しかし着実に「人間らしい生活」の土台を組み立て直していった。
【ダン 視点】
奇妙なガキに居座られたものだ、とダンは最初、ぼんやりとした頭で思っていた。
それまでのダンにとって、世界とは「自分を殴りつけてくるか、自分を指差して笑うか、あるいは自分を邪魔者として切り捨てるか」のどれかでしかなかった。
汚れた部屋で腐った飯を食い、ピンクの道着を着てリングでピエロを演じ、小銭を稼いではまた泥のように眠る。そんな日々の中で、自分の心がどこにあるのかさえ分からなくなっていたのに、突然転がり込んできた金髪の少年――ケンは、ダンのそんな淀みきった日常を土足で踏み荒らし、勝手に風穴を開けてしまった。
「おいダン、また野菜残してんじゃねえか! ちゃんと食わねえとスタミナ落ちるぜ!」
「ダン、道着の袖がほつれてるぞ。ほら、脱げよ、洗濯ついでに縫っといてやるから」
「なんだよその覇気のない顔は! しゃっきりしろ、しゃっきり!」
うるさい。とにかくお節介で、距離感がバグっていて、やかましい。
だが、そのやかましさは不思議と痛くなかった。
「他人が、自分のことを当たり前に想ってくれる」
ただそれだけのことが、どれほど温かく、どれほど得難いものであるかを、ダンはケンと並んで安い定食屋の飯を食うたびに、掃除された清潔なシーツに潜り込むたびに、少しずつ思い出していった。
バラバラに砕け散り、狂気という名の糊でデタラメに貼り合わされていたダンの精神が、穏やかな日常の繰り返しの中で、カチャリ、カチャリと本来の場所へと戻り始めていた。
そして心が修復されていくということは、同時に、かつて自分が耐えきれずに蓋をした「記憶」の封印が解けていくということでもあった。
ある静かな夜、隣でケンが豪快な寝息を立てているのを聞きながら、ダンは暗闇の中で天井を見つめ、すべての真実をハッキリと思い出していた。
(……ああ、そうだ。思い出した)
なぜ、自分の記憶はあんなふうに都合よく壊れていたのか。
それは、あのリングの上で見た父親――火引強の戦い方が、卑劣で、正視に耐えかねるほどにみっともなかったからだ。
負けたふりをして相手の油断を誘い、背を向けたサガットの片目を後ろから抉り取るという外道の所業。そして何より、家に残してきた妻と息子のことなど一顧だにせず、ただ自分のちっぽけな意地のために最も殺される確率の高い戦法を選び、家族を捨てて勝手に死んでいった、あの「父親失格」の態度。
(親父は、英雄なんかじゃなかった。ただの、家族を顧みないクズだったんだ。そしてあの時のサガットの反撃は……卑怯な不意打ちなんかじゃない。ほとんど正当防衛だった……)
それを認めるのが怖くて、十三歳の自分は「立派な父が卑怯なサガットに殺された」という嘘の記憶を作り上げた。
そして、その嘘の復讐心を抱えたまま入門した暗殺拳の道場で、今度は「精神」が決定的に壊れたのだ。
クズだった実の父親の代わりに、今度こそ自分の「父親」になってくれるかもしれないと期待した師匠・ゴウケン。不器用なりに道場の規則を守り、リュウの良き兄貴分になろうと努めながら、それでも夜の闇の中でサガットへの殺意を燃やし続けていた日々。
だが、あの朝、ゴウケンに呼び出されて突きつけられたのは、自分のありさまに対する完全なる否定と、有無を言わせぬ放逐だった。
(師匠にとっては、物心つく前から育ててきたリュウは、実の息子のようなものだったんだ)
暗闇の中で、ダンの唇に自嘲的な笑みが浮かぶ。
(そこへいくと、俺はどうだ。復讐心に目を血走らせ、殺意が剥き出しの危ういガキだ。そんな人間がずっと傍に居れば、なにが起こるかわからなかった。純粋なリュウが、俺の持つ悪に染まるかもしれなかった……。なんのこっちゃない。俺が師匠に「父親」の幻像を見ていたのは、ただの一方的な思い込みだったんだ。師匠にとっての息子はリュウだけで、俺は、息子を守るために排除すべき「他所のガキ」に過ぎなかった……)
火引弾という人間は、人生で二回、父親に捨てられたのである。
一回目は、家族より自分の闘争本能を選んだ実の父に。
二回目は、実の息子同然の愛弟子を守るために自分を切り捨てた、師という名の父に。
普通ならば、ここまで残酷な真実をすべて思い出してしまったら、世界を呪って闇落ちし、文字通りの復讐鬼と化してもおかしくはないところだろう。
しかし――三年近い月日をかけて、隣でガーガーと寝息を立てている金髪の悪友に心を耕されていた火引弾という男は、そこらの人間とは一味違っていた。
ダンは布団の中でゴロンと寝返りを打ち、窓から見える夜空を見上げて、鼻から大きく息を吐き出した。
(……ま、親父も師匠も、どっちももう死んでるしな!!!)
死人に文句を言ったところで、返事があるわけでもない。
(今更あの二人に責任は問えねえよな!!! よーし!!! 過去がどうだろうと、これからはなんとかかんとか、自力でやってくしかねえか〜〜っ!!!)
驚くほどあっけらかんと、ダンの胸の中で黒い澱が弾けて消えた。
もちろん、一度粉々に壊れた心が、魔法のように元通りの無傷な状態に完治するわけではない。現代のどんな優れた医学をもってしても、砕けたガラスの器から継ぎ目を消すことはできないのだ。
だからダンは、自分の心を「ツギハギに修復した状態」のまま、上手に付き合って生きていくことに決めたのである。
それから間もなくして、ケンとの共同生活が丸三年を数え、ダンが二十二歳になった頃のことだった。
すっかり記憶と正気を取り戻したダンの脳裏に、ふと、十九歳のあの日に言い淀んだ「ある重大な事務手続き」の記憶が蘇った。
(……あ。そういえば俺、二重国籍のまま放置してなかったか……?)
嫌な予感を抱えつつ、ダンは滞在先の街にあった日本の役所(領事館)へとふらっと立ち寄り、自分の戸籍に関する書類を引き出してみた。
エアコンの効いた静かな窓口の前で、ダンは受け取った一枚の書類をじっと見つめた。
そこには、あまりにも無慈悲で事務的なゴシック体で、『失効』の二文字が躍っていた。
成人を迎えてから定められた期限内に国籍選択の手続きを行わなかったため、日本側の国籍が自動的に失われ、「火引弾」という戸籍上の名前は公的には消滅していたのである。残っているのは、もう一方のルーツである中国側の本名――『路 雷(ルー レイ)』という名義だけだった。
役所の自動ドアを出て、強い日差しの下で書類を折りたたんだダンは、顎に手を当てて少しだけ考えた。
(……うーん。「路 雷」ねえ。まあ悪かないけど、やっぱり「火引弾」のほうが言い慣れてるし、周りからも呼ばれ慣れてるんだよなあ)
今更ケンや周囲の連中に「今日からルー・レイと呼べ」と訂正して回るのも、ひどく面倒くさい。
(よし! 決めた! 「火引弾」は、今日から俺の「仕事用の名義(ビジネスネーム)」ってことにしておこう!!)
実に柔軟というか、いい加減というか、ツギハギの心を持つ男らしい切り替えの早さであった。
そのまま書類を懐にねじ込み、ケンと二人で暮らす安いアパートへと帰ると、部屋の中でトレーニングチューブを引っ張っていた十八歳のケンが、すっかり慣れた調子でヒョイと片手を挙げて出迎えてくれた。
「よっ!! 朝からどこ行ってたんだよ、ダン。なんだ? 税金の滞納でもしてたか?」
「ま、そんなトコー」
ヒラヒラと手を振って、ダンはいつものおちゃらけた笑顔で軽口を返した。
(本当は税金の滞納どころの問題ではないのだが……まあ、いちいちこいつに言ってもしょうがないからな……)
この頃には、ダンの人格は一つの完成されたスタイルとして落ち着いていた。
他人と接する表向きの性格は、どこまでも軽薄で騒がしい「おちゃらけた道化」。しかしその一皮むいた内心は、十代の頃と変わらない「気難しい理屈屋」。
もっとも、人間の内心と表面が同じでないこと自体は、世間を見渡せば当たり前のことではある。ただ、ダンの場合、その表と裏のギャップがここまで極端にズレまくっているのは――やはり一度心が壊れた病理ゆえ、といったところなのだろう。
「おっ、そうだ、ケンちゃ〜ん! そろそろテレビつけろよ、例のタイトルマッチの時間だぜ!」
ダンに言われて、ケンは部屋の隅に置かれたやっすいブラウン管のテレビジョンの電源を入れた。
ジジッ、というノイズの後に映し出されたのは、何万人もの観客で埋め尽くされた巨大スタジアムの熱狂だった。この世界において「格闘技」というものは、単なるスポーツの一ジャンルを超え、世界中の人間が熱狂し莫大なマネーが動く最高峰のエンターテインメントとして君臨している。
そして今、その最高峰のハレ舞台の中央で対峙していたのは――ムエタイの帝王・サガットと、白い道着に赤いハチマキを締めた青年・リュウだった。
「お。相手はムエタイのていお〜じゃん。リュウのやつ、どうすんのかね?」
テレビの前にあぐらをかき、煎餅をかじりながらダンは呑気な声を上げた。
画面の向こうで、隻眼の巨漢が凄まじい威圧感を放って構えている。かつての自分の父親を殺した男だ。だが、その顔を画面越しにどれだけ見つめても、今のダンの胸には不思議なほど復讐心というものが一切湧いてこなかった。
(……本当に、不思議な気分だな。あんなに憎んでいたはずの帝王の顔を見ても、何とも思わねえや。……まあ、もし俺にリュウやケンみたいな格闘の才があれば、一人の格闘家として「あの高みに挑戦したい」とは思ったかもしれないな。が、それも俺の器じゃ到底届かないだろう……ま、別に構いはしないが)
執着を手放した理屈屋の内心は、驚くほど静かで凪いでいた。
しかし、隣の男はまるで凪いでなどいなかった。
「…………っ」
ソファの端に腰掛けたケンが、さっきから腕を組み、眉間に深い皺を寄せて、ひどいしかめっ面で画面を睨みつけているのだ。その全身から滲み出るピリピリとした焦燥感に、ダンはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて茶々を入れた。
「お? なんだよケンちゃん、元相棒がハレ舞台に出てるからってやっかんでんの? なさけな〜」
「やかましいっ!」
間髪入れず、ケンの手から飲みかけのジュースの瓶が弾丸のような速度で飛んできた。
(あぶな!!!)
ダンは内心で悲鳴を上げつつも、元・暗殺拳門下生としての反射神経をフル稼働させ、顔面スレスレのところでそのガラス瓶を片手でバシッとキャッチした。
「おっとっと! あぶねえなあ、八つ当たりはやめな〜? 部屋が汚れたら掃除すんのはオレちゃんなんだぞ。ま、試合なんて最後までどー転ぶかわからんし……」
なだめるように言いながら、ダンが再びテレビへと視線を戻した、その時だった。
画面の中で、サガットの猛攻に追い詰められていたリュウの雰囲気が、一瞬にして変貌した。
テレビのスピーカー越しでも肌が粟立つような、黒く濁った禍々しい気配。次の瞬間、リュウは大地を蹴り、サガットの分厚い胸板へと――防御ごと肉体を抉り貫くような、渾身の昇竜拳をぶちかましたのである。
ゴシャアッ!! と、テレビのマイクが拾ったのは、およそスポーツの試合ではあり得ない、肉と骨が砕け散る凄惨な音だった。サガットの巨体が血しぶきを上げながら吹き飛び、白目を剥いてマットに沈む。
ダンの手から、煎餅がポロリと落ちた。
(――殺し手じゃねえか!!!!)
ダンの背筋に、氷水を浴びせられたような悪寒が走った。
(えっ!? アレ生きてる??? おいおい冗談じゃねえぞ、あれは道場で一番最初に「対人でこれだけは使うな」って教わる角度のやつだろうが! 流石にかつての兄弟弟子が、世界中のカメラの前で人殺しになるのは……流石にマズいんじゃねえのか!?)
今のダンにとっては、かつての宿敵である帝王サガットの生死そのものよりも、「リュウの手が人殺しとして汚れやしないか」ということのほうが、比較にならないほど重大な問題だった。かつて「殺意が危険だから」という理由でリュウから引き剥がされたダンが、誰よりもリュウの魂の純潔を案じているのだから、運命とは皮肉なものである。
スタジアムが異様な静寂と混乱に包まれ、医療班がリングへ雪崩れ込む。やがて、血まみれのサガットがわずかに指先を動かし、なんとかギリギリ一命を取り留めているらしいことが実況の絶叫によって伝えられたところで、中継はプツリとスタジオへ切り替わった。
(……ふぅーっ、あぶねえ……生きてたか……)
ダンが胸を撫で下ろし、安堵の溜息を吐いてちらりと横のケンを見た。
ケンは立ち上がりもせず、拳を膝の上で血が滲むほど強く握りしめたまま、消えた中継画面を食い入るように見つめていた。その美しい横顔は、親友の勝利を祝う気持ちなどではなく、一人の格闘家としての純粋で猛烈な「嫉妬」の炎で真っ赤に燃え上がっていた。
それを見たダンは、表向きの笑顔を消さぬまま、心の中で深く、長く溜息を吐いた。
(……あー、めんど。これだから格闘家ってのは、心身をすり減らすばっかりで割に合わん商売なんだよ……。この金持ちの坊やも、こんな血生臭い世界にこだわらずに、さっさと舞台から降りて実家の家業を継ぐ気にならんもんかね)
だが、ケンのあの燃えるような瞳を見れば、答えなど聞くまでもなかった。
(……ま、ならないか。こいつは、あいつと一度真正面から決着でもつけねえと、一生ここから降りられねえんだろうな……)
やれやれ、と心の中で肩をすくめながら、ダンはキャッチしたジュースの瓶をテーブルに置き、無言で立ち尽くすケンの背中をポンと軽く叩いた。
それからさらに三年の月日が流れ、リュウが二十二歳になる頃には、彼の名は世界中の格闘家の間で畏敬の念をもって語られるようになっていた。
特定の道場も持たず、スポンサーもつけず、ただ己の拳一つで強者を求めて世界中を放浪する『孤高の格闘家』。サガットを下したあの一戦以来、リュウは文字通り生ける伝説への階段を駆け上がっていた。
一方、二十一歳になったケンもまた、決してリュウの影に埋もれていたわけではない。
もともと持っていた抜群の要領のよさ、戦況を一瞬で読み切る野生の勘のよさ、そしてどんなアクロバティックな体勢からでも必殺の蹴りを叩き込める天賦の身体操作センス。それらが二十代を迎えた肉体の充実と噛み合い、ケンはアメリカの格闘技界を中心に華々しい戦績を積み上げていた。
燃えるような赤い道着と、華麗にして苛烈なファイトスタイル、そして誰もが知る世界最高峰の財閥の血統。
巷のメディアやファンたちは、そんなケンのことを熱狂とともにこう持て囃した――『紅蓮の御曹司』、と。
が!!!
当の本人にとって、そのキャッチコピーは地雷以外の何物でもなかったのである。
「――ふざけるなっ!!!」
現在拠点にしているアメリカ西海岸のそこそこ小綺麗なアパート……むろん、家賃はケンのファイトマネーから出ている。そのリビングで、ケンはスポーツ新聞をビリビリに引き裂いて床に叩きつけた。
「俺はもう、十代の頃から実家の支援なんて一セントだって受けてない! なにが『御曹司』だ! どいつもこいつも親の看板ばっかり見やがって! 格闘家としての俺の拳を見やがれってんだ!!」
激しい貧乏ゆすりをしながら怒り狂うケンを前に、キッチンのカウンターでコーヒーを淹れていた二十五歳のダンは、表情筋をピクリとも動かさずに内心で白目を剥いた。
(……クソ面倒な癇癪キタ〜)
月に三回は発生する恒例行事である。ダンはすぐさま顔に「おちゃらけた三枚目」の笑みを貼り付けると、マグカップを片手にヒョコヒョコと歩み寄った。
「まあまあ、落ち着けってケンちゃん。み〜んな、世の中ってのは、自分より恵まれた生まれを妬む奴は多いからな。お前が実家の金に頼らず、自分の拳一つで血反吐を吐きながら金を稼いでる……かどーかなんて、記事を書く連中や野次馬にゃどーでもいいんだろ」
「ちっ……! 胸糞悪いぜ……! 見てろよ、いつか絶対に、誰も文句が言えねえくらい格闘家として目にもの言わせてやるっ……!」
マグカップをひったくるように受け取り、グビグビと熱いコーヒーを煽るケンを見やりながら、ダンは心の中で容赦ない毒を吐き散らしていた。
(いや、お前はさっさと格闘家なんか辞めて実家に帰れよ……。マスターズ・グループ全体の時価総額をご存知ねえのか? お前がリングで顔を腫らして稼ぐファイトマネーなんざ、お前の親父さんが寝返り打つ間に動く配当金の端数以下だろうがよ……)
などと冷めきったツッコミを胸の裡で連発しながらも、ダンはケンの散らかした新聞紙の切れ端をサッと拾い集め、ついでにケンの肩の凝り具合を目でチェックしてトレーニングメニューの微調整を考えるなど、実に甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
実際、共同生活が六年目に突入したこの頃には、二人の生活における家政のほぼ全てをダンが一人で回すようになっていた。
もっとも、あの道場時代の「几帳面だった火引弾」がそのまま家政夫になったわけではない。大人になり、程よく力が抜けた現在のダンには、怠惰なピエロ生活を経たからか「面倒くさがり」の気性がしっかりと備わっていた。
たとえば、ベランダから取り込んだ洗濯物の山を前にしたとき。
(……うーん。これ、一枚ずつ取り込んで、綺麗に畳んで、わざわざタンスの引き出しに仕舞うの、クソ面倒だな……。どうせ明日か明後日にはまた着るんだし、ハンガーに吊ったまま部屋の鴨居……アメリカ式住宅のこの段差って鴨居なのか?? まあここんトコに掛けておくか)
たとえば、試合前でケンの気が立っており、自分もデータ収集で疲れている日の夕食後。
(……わざわざ油汚れのついた食器をスポンジで洗って拭くの、面倒だな……。よし、お互い精神に余裕がないときは、思い切って全部使い捨ての紙皿と割り箸で済ますか……)
たとえば、週末の掃除の時間。
(……風呂場とトイレとキッチン、水回りだけは手抜きするとカビだの悪臭だので後から酷いことになるから毎日やるとして、そこ以外の部屋の隅の埃なんかは、多少サボったとて死にゃしねえよな……。年末の大掃除にまとめて回してもいいか……)
といった具合の、実に合理的というかズボラというか、絶妙なラインの家事レベルであった。
決して家事の仕上がりそのものが悪いわけではない。飯は栄養バランスが取れていて美味いし、水回りはピカピカだし、着る服に困ることもない。ただ、部屋のあちこちにハンガーごと吊るされたTシャツや、食器棚の横に積まれた業務用ペーパープレートの束から、家政担当者の(ああ、面倒だな……)という無言の意識がじわりと滲み出ているだけなのである。
そんなある種安定したと言える二人の日常に、巨大な嵐の影が差し始めたのは、それから間もなくのことだった。
世界中のトップファイターたちを招集する大規模な『世界格闘家大会』の開催が発表されたのである。
だが、それは表向きの華やかな興行の顔に過ぎなかった。その裏では、麻薬や兵器売買、さらには非道な人体実験を繰り返す巨大犯罪組織『シャドルー』が暗躍しており、組織の総帥であるベガが、自身の強大すぎる精神力――サイコパワーを受け止めるための「次なるスペアボディ」として、孤高の格闘家・リュウの肉体に目をつけているというきな臭い情報が裏社会を駆け巡っていたのだ。
この頃には、ダンは自身が表のリングに上がることを完全にやめ、ケンの専属マネージャー兼セコンドとして、徹底的に裏方へと回っていた。
大会へのエントリー手続き、移動の飛行機やホテルの手配、各国の危険な対戦相手たちのファイトスタイルの映像分析とデータ作成、さらには試合に向けたケンの減量やコンディション管理に至るまで、全ての雑務をダンが一手に引き受けて取り仕切っていたのである。
大会の本戦会場に向かうための中継地、ヨーロッパの古いホテルの一室で、ダンがノートパソコンとビデオテープの山に囲まれて対戦相手のデータをまとめていた夜のことだ。
ベッドの上に寝転がり、天井にボールを投げてはキャッチしていたケンが、ぽつりと不機嫌極まりない声でぼやいた。
「……リュウの野郎は、あれから俺に手紙の一通もよこさない……」
パソコンのキーボードを叩いていたダンの指が、ピタリと止まった。
六年前のあの港町で夜逃げして以来、リュウからは本当に絵葉書の一枚すら届いていなかった。向こうもこちらも住所不定の放浪の身といえばそれまでだが、置いていかれた側からすればたまったものではない。
(……うわぁ、面倒すぎる。この二人のこじれた関係のフォローなんて、一番したくねえんだけどなぁ……)
内心で頭を抱えつつも、ダンはクルリと椅子を回転させ、いつものおどけた調子で両手を広げてみせた。
「まあまあ! あんな筆不精の堅物のことなんざ気にすんなって! 手紙がなんだ、今のケンちゃんの隣には、オレのよ〜な楽しくて騒がしいやつが四六時中居るだろっ! それで我慢しな!」
「お前とリュウじゃ、ジャンルが違いすぎるだろうが……っ」
ケンは呆れたように吹き出しつつも、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
だが、運命の歯車は、そんな軽口で誤魔化しきれるほど甘くはなかった。
数日後、大会の前哨戦が行われる会場のロッカールーム裏の通路で。手続きを終えたケンとダンは、向こうから歩いてきた白い道着の青年――リュウと、鉢合わせるようにして再会したのである。
六年ぶりの再会だった。
お互い二十代になり、背も伸び、肩幅も逞しくなり、一流の格闘家としての凄みを纏っている。しかし、いざ目の前に立つと、かつての逃亡の気まずさと、長すぎた空白の歳月が壁となり、二人は「おう」「……ああ」と短い言葉を交わしたきり、ひどくぎこちない沈黙の中で立ち尽くしてしまった。
リュウがバツが悪そうに視線を逸らし、「……俺はもう行く。試合があるからな」と背を向けて歩き出そうとした、その瞬間。
隣で固まっているケンの背中を、後ろに控えていたダンが、渾身の力で前へと突き飛ばした。
「うわっ!? な、なんだよダン!」
よろめいたケンの耳元で、いつもの道化の仮面をかなぐり捨てたダンが、見たこともないほど必死な形相で吠えた。
「なに突っ立ってんだボケ!! あいつはお前の親友だ!! この機を逃したら、お前らは一生会えねえかもしれねえんだ! ……縁が切れるかもしれねえぞ!? それでいいのか!? ごちゃごちゃ考えてねえで、今すぐ追いかけろ! 会いに行け!!」
通路中に響き渡るような、懸命すぎるアシストだった。
ハッと息を呑んだケンが、立ち止まって振り返ったリュウの目を見る。だが、その直後、会場の奥から異様な爆発音と黒煙が上がり、シャドルーの私兵たちが会場を封鎖したことで、二人は再び引き裂かれるようにして混乱の渦中へと巻き込まれていった。
大会の裏に隠されたシャドルーの基地へと乗り込んだケンとダンを待っていたのは、悪夢のような光景だった。
最深部のホールで、総帥ベガの放つ赤黒いサイコパワーの瘴気に呑み込まれ、自我を失って暴走しているリュウの姿があったのだ。
「リュウ!? おい、どうしたんだよリュウ!!」
呼びかけるケンに、血走った目で振り向いたリュウが、唸り声とともに殺意の塊のような波動拳を放つ。間一髪で回避したケンの耳に、リュウの苦悶に満ちたうわ言が響いた。
『ケン……お前は、なんでも持っている……! 格闘家としての華も、誰からも愛される対人関係の才も、そして戻ろうと思えばいつでも戻れる実業家としての莫大な未来も……! 俺には、拳しかないのに……なんでもできるお前が、羨ましい……妬ましい……っ!!』
ケンは目を見開いた。
自分がずっとリュウの「揺るぎない基礎と才能」に嫉妬していたように、あの孤高で完全無欠に見えたリュウもまた、自分の持つ「華やかさと器用さ」に激しい劣等感と嫉妬を抱いていたのだ。そしてその人間くさい心の隙間に、ベガのサイコパワーが巧妙に付け込み、リュウの精神を内側から食い破って殺意の傀儡へと変えていたのである。
「……バカ野郎が!!」
ホールの瓦礫を蹴り砕き、ケンは全身に紅蓮の闘気を纏って真っ直ぐにリュウへと突っ込んだ。
「俺がどれだけお前のその不器用な真っ直ぐさに嫉妬してたか、知りもしねえくせに!! 勝手に一人で背負い込んで、そんな得体の知れねえ悪党の言いなりになってんじゃねえぞ、リュウーーッ!!」
放たれるリュウの殺意の拳を、ケンは紙一重で潜り抜け、己の持てるすべての技術と、十代の頃から積み重ねてきた想いのすべてを乗せた渾身の拳を、親友の顔面へと真正面から叩き込んだ。
理屈を超えた、魂からの友情。その火力による一撃だった。
ドゴォン!! と凄まじい衝撃波がホールを揺らし、リュウの身体から赤黒いサイコパワーの呪縛がガラス細工のように砕け散る。その後、二人は息もつかせぬ連携で黒幕であるベガを打ち倒し、崩壊する基地から辛くも脱出を果たしたのだった。
戦いが終わった夕暮れ時。
基地を見下ろす風通しの良い緑の丘の上で、ボロボロに傷ついた道着のリュウとケンは、どちらからともなく歩み寄り、互いの健闘と六年越しの和解を確かめ合うように、ガシッと暑苦しいハグを交わした。
「……悪かったな、ケン。あの時は、その……黙っていなくなって」
「ったく、本当だぜ! 手紙くらいよこせってんだ、この大バカ野郎!」
夕陽に照らされながら、少年時代に戻ったかのように笑い合い、肩を叩き合う二人の若き英雄。
その少し後ろ、丘の下の風が吹く木陰で、スーツ姿にサングラスをかけた裏方の男――ダンは、腕を組んでその光景を静かに見守りつつ、まるで苦労して育てた息子たちの晴れ姿を見る父親のように、ウンウンと満足げに深く頷いていた。
あの一件で心のわだかまりを完全に吹き飛ばしたケンとリュウが、再びかつて以上の固い絆で結ばれた親友へと戻ってから、数ヶ月後のことだった。
ある時はリュウがケンのアパートへとふらりと訪ねてきて拳を交え、またある時はケンがリュウの滞在先へと気軽に電話をかけて軽口を叩き合う。互いの才能を認め合い、高め合う二人の姿を、ダンはいつものように洗い物……半分は紙皿だったが。とにかく洗い物をしながら横目で見つめていた。
(……うん。これだけしっかり繋がり直したなら、もう、この二人の縁が切れることはあるまい)
ダンの胸の奥にずっと居る「気難しい理屈屋」が、静かに、しかし確信をもってそう判断を下した。
自分が道化として、あるいは世話焼きの裏方として、この二人の間に立ってつっかえ棒をする役目は、もうすっかり終わったのだ。
それから数日後の、よく晴れた朝のことである。
トレーニングから戻ってきたケンがアパートのドアを開けると、部屋の中は驚くほど綺麗に片付いていた。いつもなら鴨居(?)に吊るしっぱなしになっているはずの洗濯物はすべて丁寧に畳まれてタンスに収められ、キッチンの紙皿の束も消え、水回りから部屋の隅々に至るまで、塵一つ残さず完璧に掃除されている。
「おっ、なんだよダン、今日はやけに気合入れて掃除したんだな――って、おい、ダン?」
返事はない。
ケンは部屋の奥へと足を踏み入れ、そして立ち尽くした。
ダンが使っていた部屋から、荷物が消えていた。服も、日用品も、パソコンも、すべてがなくなっている。慌てて自分のデスクの引き出しを開け、これまでの試合の契約書やマネージャーとしての登録書類、アパートの共同名義の控えなどを引っ張り出してみたが――そこには、ダンの名前も、筆跡も、写真の一枚すら残されてはいなかった。
のちに連絡を受けたリュウも駆けつけ、二人で八方手を尽くして行方を探したが、結果は同じだった。そもそも公的な記録の上では、「火引弾」という日本人は何年も前に戸籍ごと失効して消滅していたのだ。
火引弾は、ケンの前からも、リュウの前からも、忽然と消えた。
まるで、最初からそんな男はこの世に存在していなかったのだ、とでも言うかのような完璧な消え方だった。煙のごとくかき消えて、かつて彼らが共に泣き、笑い、同じ釜の飯を食ったという証拠は、リュウとケンの手元にはどこにも残っていなかった。
ただ、綺麗に整頓された部屋の空気と、二人の胸の奥に深く刻まれた、あの少し騒がしくて、どうしようもなく優しかった男の記憶だけを除いては。
【ケン 視点】
塵一つ残さず磨き上げられたアパートのリビングは、かつて居たはずの人間の気配を削ぎ落としていた。六年間という歳月をかけて二人で積み上げてきたはずの生活の匂いが、強迫的なまでの掃除によって根こそぎ漂白されていた。
急報を受けて駆けつけたリュウは、空っぽになったダンの部屋の入り口に立ち、そのあまりにも見事なもぬけの殻ぶりを前にして、深い溜息とともに呻いた。
「……またか! あの男はいつもこうだ!」
その言葉を聞いた瞬間、ケンの全身が怒りと混乱でわなわなと小刻みに震え出した。
手の中に握りしめていた、ダンの名前だけが綺麗に切り抜かれたアパートの契約書の控えが、クシャリと音を立てて潰れる。ケンは血走った目でリュウへと詰め寄った。
「『いつも』ってどういう意味だよ! おいリュウ、お前、あいつのこの手口に心当たりがあんのか!? ……あ、そういえば……あいつ、酒を飲んだときに『昔はリュウ坊と同門だったんだぜ〜』なんてヘラヘラ笑ってやがったことがあったな……! アレ、あのバカのいつもの適当な冗談じゃあなかったのかよ!」
ケンにとっては、六年前にあの東南アジアの港町でリュウがダンを宿に連れ込み、翌朝メモ一枚残して逃亡したあの日から、すべてが謎のままだったのだ。ダンに過去を問い詰めても「いやぁ、昔のことは忘れちゃったっスよ〜!」と軽薄な笑顔でかわされ続け、再会したリュウともシャドルーとの死闘や和解のドタバタで、ゆっくり昔話をする暇などなかった。
ケンに胸倉を掴まれそうな勢いで迫られ、リュウはバツが悪そうに視線を落とすと、重い口を開いた。
あの山奥の道場で、かつて「火引弾」という三歳年上の気難しくも優しい弟弟子がいたこと。ある朝、書き置き一つ残さず突然姿を消し、師であるゴウケンから「死んだと思え」「後から来る入門者にも決して話すな」と厳命されたこと。そして道場の記録台帳の黒塗りのページが、すべてダンの書いた当番日誌だったこと。
すべてを聞き終えたケンは、開いた口が塞がらなかった。
「な……なんだよ、それ……。じゃあ、あの黒塗りの日誌は、ダンが書いてたもんだったのかよ……。っていうか、その時は師匠に追い出されたんだろうが! なんで今回は、自分の意思でここまで徹底的に証拠を消してトンズラしてんだよ!!」
「わからん……。だが、俺たちを本気で撒こうとしていることだけは確かだ」
二人はその日のうちに、あらゆるツテを辿ってダンの行方を追い始めた。
マスターズ財団の情報網すら一部拝借し、ようやく突き止めたのは、「火引弾」という日本国籍がすでに失効しているという事実と、彼が元々は香港にルーツを持つ人間であり、幼少期から十代初めまで彼の地で暮らしていたという断片的な記録だけだった。
「香港だ! あいつ、行く当てがなくなったなら、生まれ故郷に戻ってるかもしれねえ!」
居ても立ってもいられず、ケンはリュウを引き連れて即座に飛行機へと飛び乗った。
しかし、二人が降り立った香港の街は、彼らの淡い期待を嘲笑うかのように巨大で、猥雑で、混沌としていた。
空を覆い尽くすほど無数に突き出した極彩色のネオン看板と、洗濯物が万国旗のように翻る薄暗い路地裏。絶え間なく響く広東語の怒号、中華鍋を振るう油の匂い、そして湿り気を帯びた熱気。
記録に残っていた、かつてダンと両親が暮らしていたはずの古い集合住宅の区画へと辿り着いたとき、ケンは呆然と足を止めた。
そこには、古びたアパートなど影も形もなかった。
巨大なクレーンが何基もそびえ立ち、古い街並みはすでに跡形もなく取り壊され、真新しいガラス張りの商業ビルへと生まれ変わるための再開発工事が、耳を劈くような重機の轟音とともに進められていたのである。
近隣の古い商店の主人や、路地裏の老人たちに片っ端から聞き込みをしても、「ああ、昔そんな日本人とのハーフの親子がいた気もするがね」「母親が亡くなってからは誰も知らんよ」「もう十年以上前の話だ」と、砂を掴むような答えしか返ってこない。
激しく変わり続けるその街は、かつてそこに「火引弾」という少年が暮らしていた名残など、欠片も残してはいなかった。
夕暮れのビクトリア・ハーバーを見下ろす人気のない防波堤で、ケンは鉄の手すりを拳でガツンと殴りつけた。
「――なんなんだあいつは!」
海風に向かって吐き捨てた声は、自分でも驚くほど惨めに掠れていた。
六年だ。六年もの間、あのボロアパートから始まって、飯を食い、掃除の仕方で喧嘩をし、試合の戦略を練り、バカ話をして笑い合ってきたのだ。それなのに、どうしてあんなふうに、最初から自分たちの人生に居場所なんてなかったみたいな顔をして消えられるのか。
すると、隣で黙って夕陽に染まる海を見つめていたリュウが、静かに口を開いた。
「あいつは……俺とお前が元の仲に戻れば、それでいいと考えているはずだ」
ケンは弾かれたように顔を上げ、リュウを睨みつけた。
「……どういう意味だ?」
リュウはすぐには答えず、まるでズキズキと痛む頭痛をこらえるかのように、右手で自身の額を強く押さえた。その指先が微かに震えている。やがてリュウは、絞り出すような低い声で言った。
「あいつは、『親友は、人生を支え合う友人は、この世に一人で十分だろう』と……心の底から、そう思っているんだ」
「……は?」
「俺にはお前がいて、お前には俺がいる。二つの魂が固く結びついているなら、そこに三人目の入り込む余地などないし、必要もない。……自分がずっとお前の隣に居座り続ければ、お前と俺の本当の絆の邪魔になる。あいつは、本気でそう計算して、自分の足で舞台から降りたんだ」
ケンの喉から、ヒュッと息が漏れた。
言葉を失い、文字通り絶句するしかなかった。
なんだ、そのふざけた理屈は。友達の定員が一人までだと誰が決めた。リュウが大切な親友であることと、ダンがかけがえのない相棒であることは、ケンの中では何一つ矛盾などしていなかったのに。
だが、思い返せば思い返すほど、ダンのあのいつも一歩引いたような笑顔や、リュウとの再会をあれほど必死にアシストした理由が、すべてその残酷な計算の上に成り立っていたのだと嫌でも理解できてしまう。
(あいつは……最初から、俺とリュウを繋ぎ直すための「接着剤」か「つっかえ棒」くらいのつもりで、俺の隣にいたってのかよ……!)
香港の海風が、立ち尽くす二人の間を虚しく吹き抜けていった。どれだけ探しても、どれだけ名前を呼んでも、あのピンク色の道化は二度と姿を現さなかった。
それから、五年の歳月が流れた。
二十代も後半に差し掛かり、世界の格闘技界における二人の名声は、もはや誰も揺るがすことのできない絶対的なものとなっていた。
リュウは特定の拠点を一切持たず、ただひたすらに「真の格闘家」としての高みを目指して世界各地の強者と拳を交え続け、そのストイックな生き様と圧倒的な強さから、生ける伝説としてますます盤石な風評を築き上げていた。
一方、アメリカに残ったケンは、ダンという裏方を失った穴を自ら埋めるように猛烈な勢いで公式戦のリングを席巻した。
そして今年、格闘技の本場であるアメリカの頂点を決める『全米格闘王選手権』において、前人未到の三連覇という輝かしすぎるほどの成果をあげたのである。燃え盛る炎のような昇龍拳で決勝の相手をマットに沈めた瞬間、スタジアムを埋め尽くした数万人の観衆から上がった歓声は、街全体を揺らすかのような熱狂だった。
さらに、この五年の間にケンの身に起きた大きな変化は、格闘技のタイトルだけではなかった。
全米格闘王として防衛戦を重ねるさなか、熱狂的なファンガールの一人として会場の最前列に足を運んでいた女性と出会い、激しい恋に落ちたのだ。
彼女の名は、イライザ。
雑誌の表紙を飾れば即座に完売し、彼女が身につけたドレスやメイクは翌日には街中の女性が真似をするという、トップモデルにして巷の絶対的なファッションリーダーである。そんな華やかな世界の頂点にいる美女が、どういうわけかリングの上で泥と汗にまみれて戦うケンに一目惚れし、ケンもまた、彼女の気さくで芯の強い笑顔にすっかり心を奪われてしまったのだ。
全米三連覇の祝勝パーティーから数日後の、よく晴れた日曜日の朝だった。
ロサンゼルスの高台にある、見晴らしの良いペントハウスの寝室。大きなキングサイズのベッドの上で、ケンはシルクのシーツを腰に巻きつけたまま上半身を起こし、手にした一通の分厚い封書をまじまじと見つめていた。
昨日、三連覇の祝賀という名目で、マスターズ財団の本社取締役会から速達で届いた定例の『召集令状』――すなわち、いい加減に格闘技という道楽を切り上げ、次期総帥として財団の経営陣に加われという正式な就任要請書および契約書である。
ここ数年、大きな大会が終わるたびに実家から送りつけられてきていた代物だった。
これまでのケンなら、封を切るなり中身もろくに読まずにビリビリに破り捨て、ゴミ箱へダンクシュートを決めていたはずの書類だ。
『なにが御曹司だ! 格闘家としての俺を見やがれ!』
かつて安いアパートで、コーヒーを淹れるダンを相手にそう息巻いていた自分の声が、耳の奥で蘇る。
しかし今、二十六歳になったケンは、その書類を破り捨てることなく、静かな目で条文の一つ一つを見つめていた。
ふと視線を上げ、窓の外に広がるカリフォルニアの抜けるような早朝の空を見る。
今頃、リュウはどこかの名もなき山奥か、あるいは異国の古びた寺院で、変わらず拳を突き出しているのだろう。あいつは、己の道を歩んでいる。
それはそれとして、二人の関係はかつてないほど穏やかで強固だった。普段は半年も、いや、一年も連絡を取らないことだってある。だが、もし自分が本気で呼んだら、あいつは地球の裏側からでもすぐに飛んでくるだろう。逆にリュウが自分を呼べば、何をおいてもすぐに駆けつける。そういう、言葉や距離を超えた絶対的な信頼関係だ。間違いなく、生涯におけるかけがえの無い親友である。
そして――ケンは視線を戻し、同じベッドの隣で、柔らかな朝の光の中で規則正しい寝息を立てているイライザの横顔を見つめた。
昨夜の甘い戯れの余韻を残すように、シーツから覗く彼女の白い肩と、黄金色の美しい髪が緩やかに波打っている。トップモデルとしての完璧な装いを脱ぎ捨て、自分の腕の中でだけ見せる、無防備で愛おしい素顔。
自分の人生に、「無二の配偶者」となるかもしれない女性が、確かに現れたのだ。
ケンは書類を片手に持ったまま、自嘲気味にふっと口の端を緩めた。
(……全米の公式試合からは、もう事実上の出禁を食らってるしな。まあ、三連覇もすりゃ、興行主からすりゃ「お前が出ると賭けが成立しねえからもう出るな」って言いたくなるのも当然か……)
殿堂入りという名の、体のいい締め出しである。すでにアメリカ国内の表舞台には、ケンの敵となり得る相手はいなくなっていた。
(だからといって、これから先、リュウのように家を捨てて世界中を放浪したいかというと……無理だな。俺は、なんだかんだ言ってこのアメリカの空気や街並みがまあまあ好きだ。愛着がある)
泥水をすすり、野宿を繰り返しながらただ拳の極致だけを求める求道者の生き方は、リュウだからこそ美しいのであって、自分の性に合っているとは到底思えなかった。
(それに……結婚、か)
ケンは眠るイライザの長いまつ毛や、きゅっと結ばれた桜色の唇を、慈しむような目で見つめた。彼女の細い指に指輪を嵌め、二人で温かい家庭を築く未来が、驚くほど自然な温度をもって胸に浮かんでくる。
(二十代の初め頃までは考えてもなかったが……結婚して所帯を持つような人間が、いつまでも定職にも就かずに世界をフラフラするべきじゃねえわな……)
愛する女を一人部屋に待たせて、血生臭いストリートファイトに明け暮れるなど、自分の思い描く「いい男」の流儀には反していた。彼女と、そしていつか生まれてくるかもしれない子供たちを、誰よりも幸せで安全な場所で守ってやりたい。
そのためには、自分がこれまで必死に拒絶してきた「マスターズ家の御曹司」という看板と莫大な権力を引き受けることが、最も確実で、大人としての道理に適った選択だった。
ケンは静かにベッドから抜け出すと、ガウンを羽織り、窓際のガラス製のローテーブルへと歩み寄った。
テーブルの上に『召集令状』を広げる。
備え付けの万年筆を手に取り、キャップを外す。
もう一度だけ、ベッドの上で幸せそうに微睡むイライザの寝顔を見つめてから――ケンは迷いのない筆致で、書類の署名欄に『Ken Masters』とサインをした。
自分の残りの人生を、自由気ままなリングの上から引きずり下ろし、巨大財閥の重役の椅子へと永遠に縛り付けるためのサインだった。
カチリ、と万年筆のキャップを閉める音が、静かな寝室にやけに大きく響いた。
サインを終えた書類をテーブルの上にそっと置いた、その直後だった。
「…………っ」
不意に、ケンの視界がぐにゃりと歪み、熱い雫がポタリと音を立ててガラスのテーブルの上に零れ落ちた。
一滴、また一滴と、止めようとしても止まらない涙が、ケンの頬を伝って次々と溢れ出してくる。
悲しいわけではなかった。イライザとの未来に後悔があるわけでもない。
ただ、サインを書き終えた瞬間、五年前のある日の記憶が――あの安いアパートで、リュウとサガットの死闘をテレビで観戦していたとき、隣で煎餅をかじりながら自分を見ていたダンの、あのどこか冷めた、それでいてすべてを見透かしたような瞳の記憶が、鮮烈に脳裏へとフラッシュバックしたのだ。
『この坊やも、さっさと舞台から降りて家業を継ぐ気にならんもんかね。ならないか。一度決着でもつけねえと……』
あの男は、言葉にこそしなかったが、いつもそういう目で自分を見ていた。
『お前は俺のような持たざる者とは違う』などと、ダンは勝手に考えていたのだろう。リュウと和解し、格闘家として満足いくまで暴れたら、きっといつかは満足すると信じていた。華やかな本来の世界へと帰るのだと計算していたに違いない。ちゃんとした家庭を持って、まっとうな大富豪として生きていく人間なのだと、勝手にダン自身の人生とケンの人生を切り離していたのだ。
だからあの男は、『俺がそばにいてはケンが「無頼の格闘家」の世界から足を洗えなくなる』とでも言わんばかりに、あんなふうに綺麗さっぱりと姿を消したのだ。
テーブルに両手をつき、肩を震わせて涙を流すケンの瞳は、今、焼けつくような激しい怒りに燃えていた。
「……ダン……火引弾! 俺の、もう一人の親友よ!」
歯を食いしばり、イライザを起こさないように声を殺したまま、ケンは胸の奥底で、今も世界のどこかで呑気に息をしているはずの男へ向かって叫んだ。
「なあ、見ろよ! 俺はリュウと仲直りして、全米チャンプになって、最高の女と出会って、そして今日、お前がいつも「実家に帰れよ」って顔で俺を横目で見てた通りに、財団を継ぐ書類にサインしたぞ!! なあ、お前は……お前は、こんな未来を望んでたのか??」
自分の人生から「火引弾」という最高に騒がしくて愛おしい相棒だけが綺麗に抜け落ちた、この完璧で幸福な未来を、あの男は夢見ていたというのか?
「だとしたら、お前は……お前は、最低だよっ……!!」
朝日の差し込む豪奢なペントハウスで、すべてを手に入れたはずの若き覇者は、ただ一人失われた友の名前を胸の中で呼び続けながら、いつまでも熱い涙を零し続けていた。