異世界魔王の救世譚 〜ダンジョンが出現した現代日本で、なぜか人類を救っています〜 作:ミラキ
――敗北。
その事実を認めるまでに、どれほどの時間が必要だっただろうか。
砕けた玉座の破片が、かつて壮麗だった魔王城の床に散らばっている。天井は崩落し、壁には無数の亀裂が走り、窓の向こうに広がる空は夕焼けと黒煙に染まっていた。
俺の足元には、赤黒い血が広がっている。
その血が俺自身のものだと理解するまで、わずかな時間も要らなかった。
「……終わりです、魔王」
剣を構えた女が、静かな声で告げた。
セレスティア・アルヴェイン。
人類と神々が生み出した、歴代最強の勇者。
幾度となく俺の軍勢を退け、配下の将を討ち、ついには魔王城の最深部までたどり着いた女だ。
その白銀の鎧は傷だらけで、金色の髪には煤が付着している。呼吸も荒く、剣を握る手も震えていた。
それでも、彼女の瞳には迷いがない。
対する俺は、立っているのがやっとだった。
「……見事だ、勇者」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
俺は魔王だ。
幾百年ものあいだ魔族を統べ、幾多の戦場で敵を屠り、数え切れないほどの人間に恐れられてきた存在である。
その俺が、たった一人の人間に敗れようとしている。
屈辱か・・・いや、違う。
当然悔しさはある。だが、それ以上に奇妙な感覚があった。
目の前の女は、俺を倒すためだけにすべてを捧げてきた。その執念も、積み重ねた努力も、最後まで折れなかった意志も、俺は戦いを通じて理解していた。
認めざるを得ない。こいつは、俺を倒すに値する敵だった。
「あなたが築いたものは、ここで終わります。魔族と人間が争い続ける時代も、ここで終わらせます」
「そうか」
俺は笑った。
笑う余裕など、どこにもなかったはずだ。それでも笑わずにはいられなかった。
「ならば、最後に一つ教えておこう」
「……何です?」
「俺は、まだ死ぬつもりがない」
セレスティアの表情が変わった。
俺は残された魔力を、身体の奥底から引きずり出した。
肉体が滅びようとも、魂を別の世界へと逃がすことが出来る。
今の力で成功する保証はない。
逃げた先に何があるのかも分からない。
そもそも、世界と世界の境界を越えた魂が、まともな形を保てるかどうかさえ不明だった。
だが、この場にとどまれば確実に死ぬ。
ならば、選択肢は一つしかなかった。
「待ちなさい!」
勇者が踏み込む。
白銀の剣が振り下ろされるより早く、俺の身体から赤黒い光が溢れた。
「ソウルエスケープ!」
視界が反転する。
音が消え、重力が消え、肉体を構成する感覚すら遠ざかっていく。
最後に見えたのは、俺を真っ二つにしたまま立ち尽くす勇者の姿だった。
死者に王冠は必要ない。
だが、生き延びた者には次の一手を考える権利がある。
そう自分に言い聞かせながら、俺は世界の狭間を漂った。
どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。
やがて、遠ざかっていた感覚が戻ってきた。
魂の輪郭が定まり、そこに肉体が再構成されていく。骨格が形を取り、筋肉が生まれ、皮膚が覆い、血が巡る。失われていたはずの身体が、魂の記憶を頼りに再び形作られていく。
だが、すべてが元どおりになったわけではなかった。
魔力はほとんど残っていない。
かつてなら指先一つで城壁を吹き飛ばせたというのに、今の俺には自分の身体を維持するだけで精いっぱいだった。
それでも、肉体を取り戻せたのは幸運だ。
俺は手を握り、開いた。
指は五本。腕も脚もある。視界も正常。呼吸もできる。
ただし、衣服だけは再現されなかった。
当然か。
衣服は俺の魂ではない。転移に巻き込めなかったものが消失するのは、想定の範囲内だ。
そんなことを考えているうちに、足元の感触が変わった。
硬い岩肌。
湿った空気。
鼻をつく、獣じみた臭い。
俺はゆっくりと目を開いた。
そこは、天然の洞窟に似た場所だった。
天井は高く、壁面には淡い青色の光を放つ鉱石が埋まっている。地面には見慣れない草が生え、奥へ続く通路は闇に沈んでいた。
そして、離れた場所から人間の声が聞こえた。
「いやあああっ!」
悲鳴。
続いて、何かが地面を蹴る音。
俺は反射的に顔を向けた。
そこには、奇妙な生物がいた。
狼に似ている。
だが、体躯は牛ほどもあり、全身を覆う黒い毛の隙間から、赤い光が漏れている。
口から覗く牙は、通常の狼のそれとは比べものにならないほど長かった。
そして、その怪物の前に、一人の少女が倒れていた。
怪物が前脚を持ち上げる。
少女は逃げようとしているが、恐怖で身体が動かないらしい。
無視してもいいが・・・人間の方が話はできそうだ。
魔力は殆どないが、身体の動かし方まで忘れたわけではない。
怪物の前に滑り込み、振り下ろされた前脚を片腕で受け止める。
「ほう・・・」
鈍い衝撃。
なるほど。俺の世界でいう下級程度か。
俺は少女を背後にかばい、怪物を見下ろした。
「悪いが、そいつを殺されると困るからな」
怪物が唸り、俺は口の端を吊り上げた。
「ゆえに、見逃してやる理由もない」