杜陵遺誡録   作:gurugurux5

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001_単身アパートにおける侵入事案

二〇〇八年の五月十二日。 杜陵大学に通う僕、北川ケイスケの生活圏は、下宿先のある杜陵市の中心部周辺で完結していた。

古い町並みと、近くを流れる中川のせせらぎ。日中は初夏の日差しが心地よいが、日が落ちると事態は一変する。

川面から吹き上がる湿った夜風が容赦なく体温を奪い、コンクリートの照り返しなどない路地裏は、川の湿気をたっぷりと吸ったじっとりとした冷気に支配されるのだ。

僕が暮らしているのは、川沿いに建つよくある軽量鉄骨アパートの二階角部屋だ。 玄関のたたきはひどく狭く、靴が2〜3足しか置けない。

僕は昔からの習慣で、脱いだ靴のつま先を、外のドアへ向けるようにきっちりと揃えてから部屋に上がっていた。

最初の異変は、五月半ばの小雨が降る朝に起きた。

玄関へ向かうと、たたきに置かれたスニーカーが部屋の内側を向いていたのだ。

まるで、外から何者かが上がり込んできて、そのまま脱ぎ捨てたような不自然な向き。

寝ぼけて自分で蹴飛ばしたのだろうか。

首を傾げながら靴を履き直した。

だが二日後の朝、今度は向きが変わっていただけではなかった。

右足のインソールの上に、親指ほどの大きさの、つるりとした丸い小石がひとつ置かれていたのだ。

川原の浅瀬で、冷たい水に洗われて角が取れたような、白っぽい小石。

気味の悪さに背筋を冷やしながら、僕は小石をつまみ出してゴミ箱へ放り込んだ。

だが、異変は終わらなかった。

少しずつ「前進」し始めたのだ。

翌朝、スニーカーはたたきの段差を越え、廊下のクッションフロアの上に置かれていた。

つま先は僕の寝室側を向き、小石は二つに増えていた。

その次の朝には、さらに一歩進んで、狭いキッチンの流しの前。

小石は三つになっていた。

誰かが毎晩、確実に部屋の奥へと歩みを進めている。

自分の最も無防備なテリトリーが侵食されていく恐怖に耐えかね、僕はその夜、アパートで寝ることを放棄した。

薄気味悪くなったスニーカーに足を入れる気になれず、ベランダにあったサンダルをつっかけて外へ出た。

そしてスタジオ練習用に買ったICレコーダーを玄関のたたきに伏せて録音状態にし、深夜の街へ自転車で逃げ出したのだ。

たどり着いたのは、アパートからは少し離れたネットカフェだった。

白々しい蛍光灯の下で、温かいコーヒーを何杯もおかわりしながら夜を明かした。

翌朝。

外へ出ると、梅雨の気配を孕んだ夜明けの風がじわじわと体温を奪っていく。

すっかり冷え切った体で、僕は恐る恐るアパートへ戻った。

部屋の奥まで確認する勇気はなく、玄関の床に仕掛けたレコーダーだけをひったくるように回収すると、今度は安心できる大学のサークル棟へ向かった。

誰もいない軽音部室のパイプ椅子に座り、震える指でイヤホンを繋ぐ。

レコーダーの音声を早送りで再生しメーターが動く箇所を探す。すると、無音の底から、不意にメーターが跳ね上がった。

経過時間は『03:03:15』。

少し巻き戻し、再生を押す。

ピチャリ、と至近距離で水滴の落ちる音がした。

そして、マイクのすぐ間近から、ズズ……という冷たい吐息の音が吹き込まれていた。

そこから、ザッ、とクッションフロアへ上がる音が続く。

続いて、ぺたり、ぺたりと、濡れた皮膚が床を踏みしめる湿った足音が、玄関からゆっくりと部屋の奥、六畳間の方へと遠ざかっていくのがステレオ録音で生々しく拾われていた。

血の気が引いた。

その時、部室のスチール扉が嫌な音を立てて開いた。

午前十時。入ってきたのは、経済学部四年の及川先輩だった。

僕は藁にもすがる思いで立ち上がり、昨夜からの経緯と録音の内容を必死に捲し立てた。

だが、及川先輩は使い込まれた分厚いノートPCを開きながら、ひどく面倒くさそうに言った。

「ふうん。で?」

「で、って……部屋に何かいるんです! どうせ警察に言っても信じてもらえないし……」

「私に言われてもね」

彼女は画面から視線も外さず、カタカタとキーボードを叩き始めた。

完全に聞き流されている。部室の冷たい空気に、僕は自分がひどく滑稽な人間に思えてきた。

これ以上ここにいても無駄だ。

諦めて荷物をまとめ、部室を出ようとドアノブに手を掛けた時だった。

タイピングの音を響かせたまま、及川先輩が背後で淡々と言った。

「何かあれば、また部室に来なさい」

*

コンクリートが外の冷気を吸い込むサークル棟の軽音部室の扉を開けると、後輩の北川がパイプ椅子の上で青ざめていた。

北川は、私の顔を見るなりICレコーダーを握りしめて必死の形相で捲し立てた。

「靴に小石が……どんどん部屋の中に入ってきて……たまらず家を飛び出してネットカフェに逃げ込んだんです。録音したら、足音と、水滴が落ちる音がして……!」

要領を得ない震え声を脳内でソートする。

下ノ橋町のアパート。川沿い。靴の中に小石。

前進する足音と水音。

ああ、あれか。

私はノートPCを立ち上げ、自身が管理するテキストサイトのソースコードを開きながら、彼の言葉を適当に聞き流した。

「ふうん。で?」

「で、って……部屋に何かいるんです!」

ここで同情を引くような態度をとれば、彼は私に「お祓い」や「解決」を求めてくるだろう。

だが、あの中川にいる不確かなものたちに能動的に逆らえば、代償を払うのはこちらだ。

過去のノートにも、不用意に粗塩で追い払おうとして行方不明になった学生の記録がある。

私自身も過去に、無知ゆえに大切な人間を喪った。

だからこそ「犠牲者の記録」をデータベース化して警告を発し続けているが、私は決して霊能者ではない。

絶望した顔で背を向け、ドアノブに手を掛けた北川の背中に向けて、私は画面を見たまま声をかけた。

「何かあれば、また部室に来なさい」

彼がアパートから逃げ出したところで、無意味だ。

怪異はそこに住む者を「標的」として認識し、部屋の中でじっと帰りを待っている。

今日、彼は必ず現実を突きつけられる。

夕方。

案の定、北川は泣きそうな顔で再び部室へ転がり込んできた。

昼間、様子を見にアパートの奥へ入った彼は、自分の寝床の傍までスニーカーが到達しているのを見てしまったらしい。

私はPCのキーボードから手を離し、彼を冷たく見据えて指示を出した。

「今夜、枕元に綺麗な水でも置いてあげなさい」

「え……?」

「それと――部屋に入ってきても、絶対に見ようとしないこと。見たら、向こうもあんたを『認識』するから。やり過ごすことだけ考えなさい」

*

その日の夕方、僕は再び軽音部室へ駆け込み、及川先輩にすがりついた。

昼間、恐る恐るアパートの奥へ足を踏み入れた僕が見たのは、部屋の最奥――敷きっぱなしの万年床に向けて揃えられた僕のスニーカーだった。

逃げたところで、そいつは僕の寝床まで到達し、そこで帰りを待っていたのだ。

僕は及川先輩の冷ややかな指示通りにするしかなかった。

夜。

水道水を満たしたガラスのコップを一つ枕元に置き、部屋の蛍光灯を消して布団に潜り込んだ。

時刻は午後十一時。あとは暗闇の中で、得体の知れないものが来るのを待つしかない。

午前三時。

すうっと、部屋の空気が張り詰めるように冷え込んだ。

窓は閉め切っているのに、川底の泥と、古い水が混ざり合ったような生臭い匂いが鼻をつく。

ぴちゃ。

耳元で、水滴の落ちる音がした。

ぎし……と、重みで床がきしむ。

そして、僕の足元が、ずしりと深く沈み込んだ。

誰かが、そこに腰掛けたのだ。

布団越しに、奥羽山脈の雪解け水のように冷たい川の水を直接押し当てられたような凶悪な冷気が、足先からじわりと這い上がってくる。

ガチガチと奥歯が鳴りそうになるのを、必死に食いしばって耐える。

見たい衝動と、本能的な恐怖がせめぎ合う。

薄目を開ければ、そこに何がいるのか分かる。

だが、及川先輩の「絶対に見るな」という鋭い警告が頭の中で警鐘を鳴らし続けていた。

視認すれば、向こうも僕を「いる」と認識してしまう。

僕は掛け布団を握りしめて強く目を閉じ続けた。

足元からは、かすかに濡れた衣擦れの音と、コップの水をすするような気配、そして安堵したような深い吐息が漏れていた。

朝の光が薄いカーテンを透かしたとき、足元の重みはふっと消えていた。

泥の匂いも嘘のように消え去っている。

恐る恐る起き上がると、枕元に置いたコップの水は、まるで何日も放置して干からびたかのように一滴残らず空になっていた。

これで、おさまったんだ。

憑き物が落ちたような安堵の息を吐きかけたその時――布団の周りの光景に、僕は息を呑んだ。

寝所を取り囲むように、三足の靴が、こちらに向けてきっちりと揃えられていたのだ。

枕元には玄関にあるはずの僕のスニーカー。

左手側には、新たに出現した泥まみれのパンプス。

右手側には、水を吸って革のふやけた古い男物のビジネスシューズ。

水を出してやり過ごしたことで、怪異が去ったわけではなかった。

むしろ、もてなされたことでこの部屋を「居心地のいい宿」として認識し、別の者たちまで呼び寄せてしまったのだ。

それぞれの靴の中には、冷たく濡れた十円玉が一枚ずつ、まるで一晩の宿代のようにぽつんと残されていた。

あやかしを追い出すことは、もうできない。

僕は今日、百円ショップでガラスのコップを二つ買い足した。

見えない同居人たちのために水を三杯汲んで、今夜も布団の真ん中に身を縮めるのだ。

*

『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』 更新日:二〇〇八年五月十八日

【事例014】単身アパートにおける侵入事案

【症状】 玄関の靴が部屋の内側を向き、中に水と川原の小石が置かれる。不在時であっても靴の位置は部屋の奥へと前進し、最終的に家主の寝所に到達する。深夜帯に水音や足音、泥の異臭を伴う。

【対処法】 深夜三時頃に気配が生じた場合、枕元に真水を供え、決して目を開けずに朝までやり過ごすこと。いかなる理由があろうと、対象を視認してはならない。

【備考】 一度招き入れた場合、以降は靴の中に十円硬貨が残されるようになる。翌晩以降は、供える水の杯数を対象の数(靴の数)に合わせること。粗塩などを用いた能動的な除霊等の試みは極めて危険(過去に撃退を試みた該当者は現在も消息不明)。

 

 

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