二〇〇八年七月二十一日。
「ジ……ジジ……」
夏休み初日、朝食をすませ紅葉寮の談話室で東雲とテレビを見ていると、三十七年ゼミの話題が流れてきた。
三十七年ゼミは、その名の通り三十七年周期で地上に出てくる周期ゼミの一種らしい。
喉の奥を引っ掻くような、「ジ……ジジ……」という不揃いで掠れた声で鳴く。
北米の十三年ゼミや十七年ゼミのように空を埋め尽くすほど大発生するわけでもなく、鳴き声も地味で、なんとも冴えない虫だ。
「ジ……ジジ……」
ブラウン管の向こう側からだけではない。
窓のすぐ外、寮の裏手にある木立からも、全く同じ濁った音が降ってきていた。
「先輩、あれって怪異ですか?」
「まさか。ただのセミ。ちょっと寿命が長いだけの、ただの虫」
「そうなんですね。なんで三十七年なんだろ」
「知らない。素数の周期を使って、天敵の大量発生と重なるのを避けてるって説なら聞いたことあるけど」
「天敵も大変ですね……」
「なんで」
「だって、大好物が三十七年に一度しか出てこないんですよ? 私なら絶望してますね」
「もしかしたら、三十七年ゼミがナニかの天敵なのかもしれない。その年は他のセミが減るらしいから」
青いソーダアイスをくわえながら、その日の互いの予定を確認してみたものの、二人とも何もない一日だった。
「どっか行きませんか?」
暇を持て余した東雲の提案に、私は軽く頷いてしまった。
その選択が、奇妙な一日を招くということを知らないままに。
*
ワイドショーを見たあと、いつものように東雲と駐輪場に向かう。
東雲は普段自転車やバスで移動をしているため、二人で出かけるときは天気が良ければバイクの後ろに東雲を乗せている。
U字ロックを外していると、
「私もバイクの免許取ろうかな……」
「先に取るべきは車の免許でしょ。免許とって、車を買って、私を運びなさい。デカい車がいい」
U字ロックの鍵をポケットに入れ、東雲にヘルメットを渡す。
「ジ……ジジ……」
セミが鳴くほどに夏の暑さを感じ、出かけるのが嫌になってくる。
東雲をバイクに乗せ、川を越えた先にある大型ショッピングセンターに向かう。信号待ちで止まると脚に挟んだエンジンからの熱と、太陽の熱に焼かれ、暑さから意識が遠くなってきた。
バイクで出かけたことを後悔する。素直にバスに乗ればよかったと……。
信号が変わり、クラッチを握りギアを一速に入れて走り出す。
後ろで東雲が何か言っているが、フルフェイスに阻まれてよく聞こえず、適当な相づちを打ってしまった。
ギアを上げようとクラッチを握りこんだ瞬間、信号を無視したワゴン車が側方から突っ込んできた。訳がわからないまま身体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる。
手も足も動かない。息をしようとするがうまく吸えない。
視線だけで東雲を探すが見える範囲にはいないようだ。
人がこちらに近づき何かを言っているが、頭に入ってこない。ただ、あの地味な音だけがハッキリと聞こえてきた……
「ジ……ジジ……」
気がつくと私は東雲とバスに乗っていた。
「先輩どうしました? すごく変な顔してますよ」
東雲が笑いながら携帯で私の顔を撮ろうとしてくる。
「さっきまでバイクに乗っていた気がして……」
「バイクなんか乗れたんですか? さては、寝ぼけてますね」
東雲はそう言いながら満面の笑みでこちらを見てくる。
パンツのポケットを上からなぞると、U字ロックの鍵がたしかに入っているのが分かる。
東雲とワイドショーを見たあと、連れ立って駐輪場に行った。そこでの会話が鮮明に思い出される。
あの時、U字ロックの鍵をポケットに入れた。
私が困惑するのをよそに、バスはショッピングセンターに着いた。
何かが起きた。それだけは確かだった。杜陵遺誡録には、思い違いや、記憶違いと簡単に片付けられてしまいそうな記録が掃いて捨てるほど残されている。
それらが私に与えてくれる教訓は「全てを疑え。ただし決して気取られるな。」である。
平静を装い、東雲とショッピングセンター内を歩く。
耳を澄まし、その場にふさわしくない声が聞こえてこないか、人ごみに怪異がまざってないか注意深く歩く。
「なんか、いましたか?」
注意深く歩いていると、私の様子に気づいた東雲が顔をしかめる。
「いや、何もない」
「だったら、楽しみましょう。夏休みですよ」
その後、東雲の服を見たり、アコギの弦を買ったりといつも通りの日常が過ぎていく。
結局、何も起こらなかった。
気を張りすぎていたせいか、ショッピングセンターを出るときには注意力が散漫になっていた。
「ねぇねぇ」
「なに?」
私の右側から東雲の声がし、袖を引っ張られる。迂闊にも、私はそちらを向いてしまった。
左側に東雲がいるにも関わらず……
そこに佇むナニカと目が合う。全体的に白く輝いているように見えるが、東雲の姿をしている。
その刹那、全身に耐え難い重力がかかり膝をついてしまう。
一切の音が消え、耳鳴りだけが残る。だが、それどころではない。
東雲は大丈夫だろうか。
意識が朦朧としだしたとき、枯れたようなあの鳴き声が聞こえてきた。
「ジ……ジジ……」
*
気がつくと寮の談話室で東雲とテレビを見ていた。
テレビではローカル局のアナウンサーがうんざりとした表情を隠さず、いまだに明けない梅雨について説明をしていた。
「先輩、梅雨が明けないのって怪異のせいですかね?」
「……」
「どうしました?」
「今日は何日で、今は何時?」
「何言ってるんですか。夏休み初日、二十一日じゃないですか。朝からうだうだして、もう十六時過ぎですよ」
「私たちバイクで出かけたよね?」
「バイクなんか乗れたんですか? さては寝ぼけてますね」
「ショッピングセンターでの買い物は……」
「え? 雨だから出かけたくないって言ったの先輩じゃないですか」
朝からの出来事、バイクでの事故やショッピングセンターでの買い物、そして帰り道に出会った怪異までも無かった事になっていた。
たしかに私は今日二度も、死を覚悟した。
抗う気すら起きない状況だった。
からかう東雲を放置し考察をする。
何があったのか、どのような被害を受けたのか。
東雲が夕飯の話をしだしたとき、ふと気づいた。あの陰鬱な鳴き声が聞こえない。
「三十七年ゼミ……」
「何ですか、その怪異みたいな長生きゼミ」
「え? 朝ワイドショーで一緒に見たでしょ?」
「見てないですよおばあちゃん。おばあちゃんはバイクを持ってませんし、今日は出かけてません。ましてや三十七年ゼミなんて化け物みたいにご長寿な虫も初耳です」
「誰がおばあちゃんだって?」
東雲の話をいなしながら、仮説を立てる。
三十七年ゼミに怪異が混じっていた、もしくは三十七年ゼミ自体が怪異であった。
そしてセミに擬態したソレは、発生した事実を捻じ曲げるのではないか。
白昼夢や幻覚ではない事をポケットに入った鍵が示している。
ただ、現実だと思っているこの状況が白く発光するあの怪異が見せている幻覚であることを否定することはできない……。
*
『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』
更新日:二〇〇八年七月二十一日
【事例021】周期性昆虫の鳴声知覚事案
【症状】
三十七年周期等の特異な周期で発生するとされる昆虫の鳴声(喉を引っ掻くような不揃いで濁った音)が知覚される環境下において発生する。
致死的な事故や未知の怪異との遭遇など、不可逆的な事態に直面した瞬間、当該鳴声とともに既成事実の改変が発生する。
一方で、当事者の主観的記憶および改変前の行動に起因する一部の携行物品(鍵等の無機物)のみがそのまま残留し、周囲との重大な認識の齟齬を生じさせる。
【対処法】
不明。ただし、該当する周期性昆虫は存在そのものが消失しており、特段の対処は不要。
【備考】
本件は管理者本人の実体験に基づく暫定記録である。
事案収束後、該当する昆虫の鳴声および関連報道の記録は一切確認できなくなっている。
また、二度目の改変直前に目撃された「白く発光する同伴者の姿をしたナニカ」の正体、および事実改変が及ぼす不可逆的な影響については現在も未解明。