二〇〇八年八月四日
八月に入ってからも、杜陵市では夏真っ盛りの暑い日々が続いていた。
昨夜のうちに強い雨が降ったこともあり、今日の空気は朝から肌にまとわりつくように蒸し暑い。
商店街から少し外れた道路沿いに、俺の実家である個人商店『秋田サイクル』はある。
夏休みで帰省していた俺――秋田ソウタは、店先のパイプ椅子に座って店番をしていた。
百円ライターでタバコに火をつけ、紫煙を吐き出しながらぼんやりと店内を眺める。
油とゴムの匂いが染みついた薄暗い店内に並んだ自転車をなんとなく目で追っていて、俺はふと手を止めた。
見慣れないママチャリが、一台紛れ込んでいる。
昨日までは間違いなく無かったはずの自転車だ。
灰皿にタバコを押し付け、近づいて検分する。
泥除けのあたりに、うちの店で購入したことを示す黄色いステッカーが貼られていた。
客が修理にでも持ち込んだのかと思ったが、俺には預かった覚えがない。
それに、フレームのどこを探しても防犯登録のシールが貼られていなかった。
「なあ親父、表の自転車って何?」
店の奥にある作業場へ声をかけると、新聞を読んでいた親父は顔も上げずに短く答えた。
「直しておけ」
それだけ言うと、あとは黙り込んでしまった。
仕方なく自転車を引き出し、状態を確かめる。
チェーンが外れていたのでとりあえず元の位置にはめ直し、少し抜けていたタイヤに空気を入れておいた。
他に壊れているところもなさそうだったが、どうせ暇だったので、ウエスでフレームの汚れを綺麗に磨いておいた。
外に出しっぱなしにしておくのも不用心だと思い、店の商品の並びに混ぜて店内に収めておく。
翌朝。
シャッターを開けようと店に出ると、昨日直しておいたはずの自転車が忽然と消えていた。
夜のうちにシャッターが開けられた形跡もない。
不思議には思ったが、俺が起きる前に親父が客へ引き渡したのだろうと考え、その時は深く気に留めなかった。
しかし、二日後の木曜日。
昼過ぎに店へ出ると、またしても見覚えのない自転車が店内に増えていた。
今度の自転車には、うちの黄色いステッカーすら貼られていない。
もちろん、防犯登録もなかった。
「親父、また知らない自転車があるんだけど。これ、誰が持ってきたんだよ」
店の奥へ詰め寄ると、親父は工具をいじる手を止め、小さく息を吐いた。
「……続くのは珍しいな」
「珍しいって、どういうことだよ」
「いいから直しておけ」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、親父は背中を向けた。
俺がどれだけ問い詰めても、親父は頑なに口を閉ざしたままだった。
*
金曜日の昼下がり。
私――及川ヒカリは、蒸し暑いアスファルトの照り返しに目を細めながら、商店街から外れた道路沿いを歩いていた。
先月、三十七年ゼミの鳴き声とともに起きた現実の改変によって、私のバイクは最初から存在しなかったことになった。
トラックに轢かれた事故そのものを無かったことにしてくれた怪異には感謝すべきなのかもしれないが、どうせなら免許くらいは残してくれてもよかったのにと思わないでもない。
これから自動車の免許を取りに行くつもりではあったが、取り急ぎの移動手段がどうしても必要だった。
バスだけでは不便も多く、私は渋々、自転車を買いにキャンパスから少し離れた個人商店『秋田サイクル』を訪れたのだった。
この店を知ったのは、以前に『杜陵遺誡録』の前管理者である都筑先輩から紹介されたことがあったからだ。
在学中にこの店で自転車を買ったという都筑先輩は、雑談のついでに、この店にまつわる奇妙な噂話を教えてくれていた。
ところが、開け放たれた店の入り口に足を踏み入れると、中では店主らしき壮年の男性と、若い男が激しい言い合いをしていた。
「だから、誰が置いていったのか教えろって言ってんだよ!」
「店を継ぐなら教えてやる……」
店番をしていたらしい若い男が声を荒らげ、店主が苦虫を噛み潰したような顔で睨み返している。
私が入り口で立ち尽くしていると、店主に気づいたのか、男がバツが悪そうに口をつぐんだ。
「……すみません。自転車を見に来たんですが、出直した方がいいですか」
私が尋ねると、店主は額の汗をタオルで拭い、小さく首を振った。
「いや、構わんよ。息子が騒いでいただけだ」
しかし、息子と呼ばれた同世代の男――ソウタは納得していない様子で、私と父親を交互に見た。
「突然、自転車が増えて次の日には無くなるとか異常だろ」
店主が眉間に深い皺を寄せて黙り込むのを見て、私は店内に並べられた自転車を一瞥し、口を開いた。
「……少し前に、うちの大学の都筑という先輩から、このお店を紹介されて来た及川です。その時、誰が置いたか分からない自転車が混じるっていう話も、ご主人から少しだけ聞きました」
私の言葉に、店主がハッとしたように顔を上げた。
「都筑……ああ、二年ほど前までよくパンク修理に来ていた、あのよく喋る学生か。……そうか、あの子と一緒に来た子か」
当時は、見知らぬ自転車が混じるという程度の話しかわからず、都筑さんからは「怪異かどうかは分からないが念のため」と引き継ぎを受けた事案だった。
ソウタが怪訝そうに眉をひそめる横で、店主は観念したように深い溜め息をついた。
そして、ソウタと私を交互に見やると、「信じるかどうかは任せるが」と前置きをしてから、ぽつりぽつりと詳細を語り始めた。
この店を始めたのは、ソウタの祖父にあたる人物だったという。
戦後まもなく、復員してきた祖父が趣味も兼ねて開いた小さな自転車屋だった。
店を開いてから間もなくして、稀に覚えのない自転車が在庫の中に混じるようになった。
それらは決まって、どこかしら壊れていたという。
誰かが勝手に置いていったのだろうが、そのうち持ち主が取りに来るだろうと思い、祖父は修理をして店内に置いておいた。
すると次の日には、修理したはずの自転車が跡形もなく消えていた。
やられた、と思ったものの、防犯カメラなど影も形もない時代だ。
祖父は泣き寝入りするしかなかった。
それから半年ほど経った頃、また覚えのない壊れた自転車が在庫に混じっていた。
血の気の多かった祖父は、今度こそ犯人をとっ捕まえてやると息巻き、修理を済ませた自転車を店に置いて夜中に張り込んだ。
深夜、軋む音を立てて店の戸が開いた。
暗がりの中で修理した自転車にまたがっていたのは、人間ではなかった。
小学生ほどの背丈しかない、全身が緑色の物の怪だったという。
だが、戦場帰りの祖父はひるむことなく、物の怪の前に飛び出して「修理代をよこせ!」と怒鳴りつけた。
すると、緑色の物の怪は祖父をじっと見返し、こう言い残して闇へ消えていったのだという。
――三代、面倒見てやる。
「……それが河童だったのか、山人だったのか、あるいは別のナニカだったのかは分からん。だが、そういう約束で、うちは三代あいつらの世話になることだけは決まってしまったんだ」
怪異と人が約束をする。杜陵遺誡録に限らず、昔から説話としてさまざまな形で残されている。
ただ、それが現在も有効なものとして残されている事案を目にするのは初めてだった。
「その怪異は、どのくらいの頻度で来るんですか。今までどんな風に『面倒』を見てもらったんですか」
私が一歩踏み出して詳しく聞こうとすると、店主は険しい顔で手を振った。
「やめておけ。お前さんも、これ以上首を突っ込むんじゃない」
店主はそれだけ言うと、逃げるように店の奥へと引っ込んでしまった。
残された店内には、気まずい沈黙が澱んでいた。
すると、横で話を聞いていたソウタが、真剣な目で私に声をかけてきた。
「なあ、あんた。今の話、どう思う? もしよかったら、今夜一緒に店に張り込んでみないか」
私は冷めた視線で彼を見返し、短く首を振った。
「やめておいた方がいい。お父さんの言う通り、ソレとは距離を取るべき」
「でも、そんな化け物の話なんて信じられるかよ」
「信じなくてもいいけど、確かめようとするのはやめな。向こうの領域に自分から足を踏み入れたら、ただでは済まないから」
私はそれだけ忠告すると、すっかり自転車を買う気が失せてしまい、何も買わずに店をあとにした。
*
その日の深夜。
俺はどうしても親父の話が信じられず、一人で店先に身を潜めていた。
昼間の女は「距離を取れ」と言っていたが、自分の家の店に得体の知れない連中が出入りしているのを、黙って見過ごすことなんてできなかった。
作業場の物陰で息を凝らし、じっと時計の針が進むのを待つ。
蒸し暑いはずの店内に、いつしか山奥の沢にでもいるような、冷たく湿った土の匂いが立ち込めていた。
午前二時を回った頃だった。
ガガッ、と重苦しい金属音が響き、閉め切っていたはずのシャッターが外から強引に持ち上げられた。
わずかに開いた隙間から、黒い影がぬるりと店の中へ入り込んでくる。
心臓が跳ね上がった。
俺は壁の手探りでスイッチを見つけ、店の明かりをつけようと強く押し込んだ。
カチ、カチ、と乾いた音が響くだけで、蛍光灯はつかない。
「悪いな三代目。明るいのは苦手なんだ」
暗闇の中から、ひどく明瞭な声が響いた。
子どもの背丈ほどの影が、俺が直しておいた自転車のすぐ脇に立っている。
声に敵意はなく、まるで昔からの知り合いにでも話しかけるように、気負うことなく俺へ接してくる。
「久々だな、こんなに大きくなったのか」
暗がりに目が慣れてくると、そいつの輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
俺は喉の奥を震わせながら、なんとか声を絞り出した。
「……俺を、知ってるのか」
「あぁ……」
ナニカは、本当に懐かしそうに細く息を吐いた。
「お前、店を継ぐのか」
「……まだ、決めてない」
「じいさまとの約束だ。面倒をみてやる。だから店を続けろ」
「面倒って、なんだ」
俺が問い返すと、緑色の影は暗がりの中で小さく首を傾げた。
「詳しく知る必要はない。ただ守ってやる、それだけだ」
「なにから……?」
俺の問いに、ナニカは答えなかった。
それ以上会話をするつもりはないらしく、そいつは修理された自転車を片手で軽々と肩に担ぎ上げると、シャッターの隙間から夜の闇へと帰っていった。
*
『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』
更新日:二〇〇八年八月八日
【事例023】特定実体との接触事案
【症状】
市街地外縁の修理店舗等において、所有者不明の損壊した軽車輌(自転車等)が無断で敷地内へ搬入される現象。
修繕を完了させた場合、夜間から未明にかけて特定の実体(緑色皮膚・小躯の異形)が回収に現れる。
【対処法】
夜間の回収時に張り込みや接触を試みる行為は推奨されない。
【備考】
継続中の事案であり、特定を防ぐため詳細を割愛。