杜陵遺誡録   作:gurugurux5

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013_市街地建造物における影の目撃事案

一九八五年五月。杜陵市の外れにある古い商店街。

 

夕刻になると、軒先に並んだ植木鉢に水が撒かれ、魚を焼く煙や惣菜屋の揚げ物の匂いが風に乗って漂ってくる。

その一角に、古びた木造の店舗と住居が一体になった金物卸売商があった。

店内には大小の工具や金具、真鍮の部品が所狭しと並び、油と鉄の匂いが染み付いている。

 

店を営む夫婦は、どちらも内気で人付き合いが苦手だった。

気の利いた世辞も言えず、商売が上手いわけでもなかったが、毎日丁寧に店先を掃き清め、並んだ工具の埃を払うその生活を深く愛していた。

 

やがて、商店街に大規模な土地買収計画が持ち上がる。

長年連れ添った近隣の店主たちは次々と立ち退きに応じ、シャッターを下ろしていった。

馴染みの看板が一つ、また一つと消えていく中、金物屋の夫婦だけは首を縦に振らなかった。

金が欲しかったわけではない。ただ、二人のすべてであるこの場所を手放すことがどうしてもできなかったのだ。

 

そんな孤立無援の夫婦のもとへ、杜陵大学の学生たちがやってきた。

彼らは「不当な立ち退き反対」を掲げ、夫婦の店を拠点にして反対運動を始めた。

夫婦は、自分たちのつたない言葉に真剣に耳を傾けてくれる若者たちに一筋の希望を見た。

お茶を淹れ、ささやかな菓子を出し、彼らの活動を静かに見守った。

 

だが、学生たちは決して一枚岩ではなかった。

純粋に夫婦を助けようと奔走する者がいる一方で、運動そのものを自己実現の場や、自らの思想をひけらかすための道具として利用する者たちも混ざっていた。

熱を帯びた学生たちの声高な理念や主張の中で、夫婦が守りたかった「ささやかな日常」という個人的な願いは、次第に置き去りにされていった。

 

五月の終わり。

反対運動に参加していた一部の学生と、開発関係者側との間で暴力沙汰が発生した。

それを境に、潮が引くように学生たちは店に寄り付かなくなった。

夫婦が何度ダイヤルを回しても、電話に応じる者はいない。

かつて熱心にビラを配っていた若者たちの姿も、寄り合いの場となっていた居間の賑わいも、幻のように消え去った。

立ち退きに応じた元店主たちも、面倒を避けて夫婦を遠ざけた。

 

それでも、夫婦は誰も責めなかった。

翌日も、そのまた翌日も、以前と同じようにシャッターを開け、店先を掃き清め、工具の埃を払った。

彼らがまた顔を出してくれるのを、誰も来なくなった店で静かに待ち続けた。

 

やがて、金物屋のシャッターは下ろされたままとなり、夫婦は消息を絶った。

開発業者に口封じとして殺害されたという噂や、失意のうちに夜逃げしたという噂だけが無責任に囁かれたが、真相を知る者は誰一人いなかった。

店は取り壊されてしばらく空き地となり、その後、真新しい白い壁のテナントビルが建設された。

 

そしていつしか、その何もない真っ白な外壁に、男女二人の大きな人影が現れるようになった。

 

*

 

二〇〇八年九月八日。

 

駅前の大衆居酒屋は、酒と煙草の匂い、そして大学生たちの熱気で充満していた。

杜陵大学と北東科学技術大学の合同ライブが無事に終わり、その打ち上げの席。私はグラスのウーロン茶を片手に、周囲の喧騒から少し距離を置いて座っていた。

 

酒が進むにつれ、話題は自然と怪談めいた噂話へと流れていった。

「旧商店街の外れに、新しめの白いビルがあるの知ってる? あそこの壁に、夜になると男女の大きな影が浮かぶらしいんだよ」

誰かが口火を切ると、別の学生が身を乗り出した。

「あー、それ聞いたことある。昔あそこに金物屋があってさ。立ち退きに反対した夫婦が業者に殺されて、その怨念が壁に焼き付いてるんだろ?」

「いや、夜逃げしたって話だぜ」

「違う違う、当時の学生が最後まで夫婦を匿って支援した、美談の記念碑的な何かだって聞いたけど」

飛び交う無責任な噂話を、私はただ黙って聞き流していた。

 

その事案について、私は以前から記録として知っている。

一九八五年に起きた立ち退き騒動と、それに介入した学生運動。そして現在、あの白いテナントビルに現れるという男女の影。

目撃証言は確かに存在する。だが、目撃者の条件や、なぜ影が現れるのかといった背景には不明な点が多すぎた。

 

「で、その影を見るとどうなるの? 呪い殺されたりするわけ?」

後輩の一人が、面白半分に尋ねてくる。

「そういう話は聞かない。少なくとも、私が知っている範囲では」

私は感情を交えずに答えた。

影はそこに現れるだけで、誰かに近づいたり、危害を加えたりしたという具体的な被害報告は一件も確認されていない。

ただ、そこにいるだけだ。

 

私はグラスの水滴を指先で拭いながら、脳内で情報を整理した。

事の真偽や怪異の正体を断定するつもりはない。ただ、集まった噂と記録をすり合わせ、客観的な対処法をガイドに残すだけだ。

 

*

 

「及川さんって、普段からそういう記録を集めてるの?」

 

打ち上げの席で、俺は彼女に話しかけた。

及川さんは、同じ大学の学生たちに囲まれていても、どこか一歩引いたところにいるように見えた。

話しかければ応じてくれるが、相手に合わせて話を広げることはない。

その距離感が、かえって気になった。

 

「うん」

「一人で調べてるの?」

「そういうこともある」

「じゃあ、今度一緒に、そのビルを見に行かない?」

「ごめん、遠慮しとく。他にやることがあるから」

彼女は俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、テーブルの向こう側へ顔を向けた。

 

口を半開きにしたまま取り残された俺は、少しだけ苦笑してグラスの残りを飲み干した。

別に、断られたからといってひどく傷つくほどのことではない。怪談はあくまで、距離を縮めるための口実にすぎなかった。

 

打ち上げが終わるころには、白いビルの噂などほとんど忘れていた。

夜の街を歩いて帰宅する道すがら、駅へ向かう道から少し外れた旧商店街の端に差し掛かったときだった。

夜の街灯を受けて、白い外壁がぼんやりと浮かび上がっている建物があった。

周囲の建物よりも新しく、壁面には目立った汚れもない。

道路に面した一階には店舗が入っていたが、すでに営業を終え、ガラス戸の向こうは暗かった。

 

歩きながら何気なく壁を見上げた俺は、思わず足を止めた。

そこに、影があった。

 

壁の中ほどに、二つの大きな人影が並んでいる。

一つは男のような形をしていた。肩幅が広く、頭部は丸い。

もう一つは、男よりも少し小柄で、裾の広がった服を着ているように見えた。

 

二つの影は、壁に貼りついたまま動かない。

街灯はビルの反対側にある。車も通っていない。

壁の近くに、人が立っている様子もなかった。

それでも影は、そこにあった。

 

俺は、少しだけ後ずさった。

逃げ出そうとは思わなかった。怖くないと言えば嘘になるが、目の前で起きていることが、まだ現実の出来事として理解できていなかった。

あの噂は、本当だったのか。

 

そう考えたとき、打ち上げの席で聞いた話が頭の中でつながった。

二十三年前に消えた夫婦。

立ち退きに反対した学生たち。

そして、あの影。

 

俺は、もう一度壁を見た。

影は動かない。

男と女が並んで、ただそこに立っている。

 

その姿を見つめているうちに、俺は別のことを思い出した。

自分の父親は、杜陵大学の出身だった。

一九八五年当時、父親が何歳だったのか。大学で何をしていたのか。俺は詳しく聞いたことがなかった。

父親が、あの立ち退き運動に関わっていたという話も聞いたことはない。

もちろん、ただの偶然かもしれない。

 

けれど、もし。

もし父親が、あの場所に縁のある人間だったとしたら。

あの運動に参加して、そして、彼らを置き去りにした学生の一人だったとしたら。

 

「……まさか、うちの親も……」

声に出してから、俺は口を閉じた。

壁の影は、相変わらず動かなかった。

 

*

 

『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』

更新日:二〇〇八年九月十五日

 

【事例026】市街地建造物における影の目撃事案

 

【症状】

市内の旧商店街に所在する白色外壁のテナントビルにおいて、壁面に男女二名の人型の影が視認されるとの報告がある。

目撃者は、過去の土地利用や立ち退き運動に関係した人物、またはその親族である場合が多いとされるが、目撃条件の詳細は不明。

 

【対処法】

現時点で、目撃による具体的な被害は確認されていない。

影の正体や出現条件を確かめる目的で、夜間に当該建造物へ接近することは推奨しない。

 

【備考】

一九八五年五月、当該地域において土地買収に伴う立ち退き問題が発生した記録がある。

関係者とされる夫婦の消息については、確認できる資料が存在しない。

 

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