杜陵遺誡録   作:gurugurux5

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翅の生えた人型の目撃事案

二〇〇一年一月一日。

東京都内、黄色い電車が停まる町の駅前。私、喜連リョウタ(三十二歳)は、同い年の恋人である九段ヨウコと初詣の帰りに歩いていた。

正月特有の静かな熱気と、屋台の匂いが残る駅前の冷たい空気。自宅のアパートまでは徒歩で十分程度の道のりだ。他愛のない新年の抱負を語り合っていた最中、ヨウコの足がふいに止まった。

 

「ねえ、あれ……」

ヨウコの視線は、シャッターが降りた駅前のパチンコ屋の軒先を向いていた。

「え? なに?」

「あの人……」

「誰もいないよ?」

私がそう答えた瞬間、ヨウコは私のコートの袖を強く引っ張り、無言のまま走り出した。

ヒールの音を響かせて駆け出し、アパートの自室にたどり着くと、私を押し込むようにして鍵とチェーンをかけた。肩で息をするヨウコの顔は青ざめていた。

 

「どうしたの?」

「人が、何か立っていたの! 向こう側が透けて見えた!」

「え? なに? お化け?」

「わからない! けど、ナニカがいたの! 羽アリみたいな透けた翅の生えた、裸の男が……」

ヨウコはパニックを起こしたように両手で顔を覆った。彼女はオカルト的なものが好きというわけでもなく、どちらかと言えば現実主義だった。ホラー映画よりも恋愛ドラマを好むタイプの彼女が、そんな作り話をするとは思えなかった。彼女の震える声には確かな信憑性があった。

しかし、何も見えなかった私には、彼女を抱きしめて落ち着かせることしかできなかった。

 

その日から、ヨウコの様子が少しずつ変わっていった。

仕事の帰りが遅くなり、家を空けることが増えた。会話は減り、上の空でどこかを見つめていることが多くなった。

休日のはずの今日、彼女は朝から出かけ、日が沈む頃にようやく帰ってきた。

 

「ねぇ、最近どこ行ってるの?」

「どこも」

「帰るのだって遅いし、週末もいつの間にかいなくなってるし」

「私にはやることがあるの」

ヨウコは真っ直ぐに私の目を見た。

「世界を救うのは、私にしかできないの」

その目に宿る熱は、私の知っている現実主義のヨウコの目ではなかった。何かに取り憑かれたような、陶酔した光。彼女は「彼」の羽音のような声が聞こえると語り始め、私には聞こえないその低い震動に悦びを見出しているようだった。

その後、口論の末にヨウコは家を飛び出し、そのまま消息を絶った。

 

*

 

二〇〇八年九月二十二日、月曜日。

私は三十九歳になっていた。ヨウコを探すのも諦め、彼女の記憶を忘れかけていた頃、私はテレビのワイドショーで彼女を見た。

『杜陵市郊外の山林に野営する新興宗教団体。終末思想に備える信者たち』

画面の奥、信者たちの中心に立っていたのは、ヨウコだった。

七年の歳月が流れているはずなのに、画面越しの彼女の姿は、三十二歳のあの冬の日から全く老けていなかった。時が止まったようなその姿を見た瞬間、猛烈な自責の念が私を襲った。

どうしてあの時、彼女の話を信じて引き止めなかったのか。あの見えない「ナニカ」から、ヨウコを守れたのではないか。

未練などとうの昔に消えていた。ただ、純粋な罪悪感だけが私を杜陵市へと向かわせた。

 

同じ頃、杜陵大学経済学部四年・城崎ショウタ。

ゼミ室でワイドショーをワンセグケータイで眺めながら、城崎はゼミ仲間の及川と角掛に話しかけていた。

「いつかの白装束を思い出すな……」

「そうね」と及川が気乗りしない声で返す。

「怪異よりよっぽど怖いよな」

「彼らが崇めているものが怪異かもね」

「例のノートに書いてんの?」

城崎の言葉に、及川はノートパソコンから顔を上げずに冷たく返した。

「まさか。私の想像」

「近いし、ドライブがてら見に行こうぜ。肝試しにさ」

「やめなさい。触らぬ神に祟りなしだから」

及川の冷徹な警告に、城崎は「はいはい」と軽く受け流し、好奇心だけで車のキーを回した。

 

*

 

日が暮れた十九時頃。

杜陵市の山林にある教団の敷地前で、私、喜連リョウタは、すくむ足をたたきながら自分を鼓舞していた。報道陣の姿はすでに消え、昼間の喧騒は嘘のように静まり返っている。

中に入ろうとする私に、若者が声をかけてきた。

「中に入るんですか!?」

「あぁ……」

「やめたほうが良いですよ。触らぬ神に……ってやつです」

「触っちまった知人を助けなきゃならんくてな」

「大事な人なんですか?」

「どうだろうな。もう忘れたよ」

「お気をつけて……」

城崎という若者は、少し離れた場所でタバコに火をつけ、携帯電話で記念撮影を始めた。

私は一人、教団の敷地へ足を踏み入れた。

 

敷地の奥には、サーカスのような巨大なテントが張られていた。見張りの信者の姿はなく、異様なほど容易に近づくことができた。

ヨウコと面と向かって話をつける。その覚悟で正面の入口を堂々と開け放ち、声を張り上げようとした。

しかし、私の声は喉の奥で凍りついた。

 

テントの中心。無数の信者たちが土下座をし、何かに必死に祈りを捧げていた。

その円陣の中央で、ヨウコが「脱皮」をしていた。

全裸のヨウコの背中が縦に裂け、中から新しい、ぬめり気を帯びた真っ白な肌がせり出してきている。彼女はまるで羽化する昆虫のように、自身の古い皮をずるずると脱ぎ捨てていた。艶めかしくも、圧倒的に人外の吐き気を催す光景だった。

彼女が七年間歳をとっていなかったのは、時間を止めていたのではない。定期的に古い皮を脱ぎ捨てて、別のナニカへと変態を繰り返していたからだろう。

 

私は声も出せず、後ずさりし、全速力で敷地を逃げ出した。

教団の入口でタバコをふかしていた城崎の元へ血相を変えて走り寄り、叫んだ。

「逃げるぞ!」

「え!?」

「車を貸せ、運転してやる!」

私は半ば強引に城崎を助手席に押し込み、キーを奪ってエンジンを吹かした。シートベルトをする間もなく、車を急発進させる。

バックミラーを見ると、林道の奥から白い大型SUVがハイビームで辺りを照らしながら猛スピードで追ってきた。

「どうしたんですか!」

「見ちまった……」

「何を……」

私はそれ以上話さなかった。話せば、狂気に引きずり込まれそうだった。

山の斜面に沿った細い道を猛スピードで走り抜ける。後ろのSUVはクラクションをけたたましく鳴らし、威嚇するように追走してくる。だが、命がけでアクセルを踏み込むうちに、徐々に距離が空いていった。

「あきらめたか……」

街灯のあるエリアまで逃げ切ると、SUVのライトは見えなくなっていた。

杜陵市内のファミレスにたどり着くまで、車内にはただ重い沈黙だけが続いていた。

 

*

 

ファミレスの明るい照明の下で、私はポテトをあてにビールを流し込んだ。震える手を誤魔化すようにグラスを煽る。

「で、何を見たんですか?」

城崎が身を乗り出して聞いてきた。

「ヨウコだ」

「九段ヨウコ?」

城崎はワイドショーで連呼されていた名前を口に出した。

「声がデカい……知人だ……」

「すみません……」

私は周囲を一瞥し、口外しないことを条件に、テントの中で見たあの異様な脱皮の光景を語った。彼女はもう人間ではなくなっていたと。

話を聞き終えた城崎は青ざめ、生唾を飲んで窓の外へ視線を逸らした。

深夜のファミレスの黒い窓ガラス。外を見た城崎が小さく息を呑んだのが分かった。

「どうかしたか?」

「いえ……なんでもないです」

問い詰めると、観念したようにつぶやいた。

「窓の外に、翅の生えた女が見えた気がして…」

その日、俺たちは日が完全に昇るまでファミレスを出ることができなかった。

 

二ヶ月後、九段ヨウコが衰弱死したとのニュースが流れ、ワイドショーでは教団からも人が減り始めていると有識者を名乗るコメンテーターが解説をしていた。

 

ただ、時折聞こえる特異な翅音が、この物語がまだ終わっていないことを俺に伝えている。

 

 

 

『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』

更新日:二〇〇八年九月二十五日

【事例027】翅の生えた人型の目撃事案

【症状】

翅の生えた男の目撃を境に、羽音や声が聞こえるようになる。

次第に自身を中心としたコミュニティを作るようになるが目的は不明。

【対処法】

コミュニティ形成エリアへの接近および干渉を厳禁とする。彼らはすでに常識の埒外に存在しており、説得は困難と思われる。

【備考】

潜入を試みた部外者(一般男性および学生)は追撃を振り切り生還したが、その後、コミュニティのテリトリーから離れた地点で翅の生えた女を目撃した。

 

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