二〇〇八年の五月十二日。
杜陵市内の繁華街にある美容室は、昼下がりを迎えて客足が途絶えていた。
美容師として働く二十六歳の美浦ミウは、バックルームで休憩を取ろうとフロアを横切ったとき、ふと足を止めた。
一番端にある五番のカットチェア。その足元の床に、黒い髪の束が落ちていた。
「ハルカちゃん、今日五番使った?」
タオルを畳んでいた後輩のハルカに声をかけるが、彼女は不思議そうに首を振った。
「使ってないですよ? 今日は午前中からずっと三番と四番しか回してないですし」
「だよね……髪が落ちてる」
風で飛んできたのだろうか。ミウはほうきとちりとりを手に取り、見知らぬ誰かの髪の毛を掃き集めた。
その時は、互いに特段気に留めることもなく、日常の些細な違和感として処理してしまった。
*
翌日の火曜日は定休日だった。
明けて水曜日の朝。開店準備のためにシャッターを開け、フロアの清掃を始めようとしたハルカが、鋭い声を上げた。
「オーナー、絶対誰か店に忍び込んでますよ!」
ミウが駆けつけると、ハルカは五番のチェアを指差して立っていた。
床には、月曜日と同じように黒い髪の束が散らばっていた。
「たしかに月曜の閉店前、私がこの周りも綺麗に掃いたんですよ!」
「防犯カメラの録画には、特に怪しいやつは映ってなかったけどなぁ……」
出勤してきたオーナーは首を捻りながらも、気休めのように手を打った。
「とりあえず、もう一度カメラの映像をしっかり見ておくから。二人は開店準備をお願いね」
一瞬の不穏な空気は、オーナーの現実的な鶴の一声によって強制的に断ち切られた。
その日はそれ以上何も起きなかった。
その後も、数日に一度のペースで五番チェアの周りに「覚えのない髪の毛」が落ちていることがあった。
だが、直接的な実害は何一つない。気味が悪いと思えたのは最初だけで、忙しい業務に追われるうちに、ミウもハルカも次第に慣れきってしまった。
いつしか五番チェアの髪の毛は、誰も気に留めない「少しだけ歪な日常」として美容室の風景に完全に溶け込んでいった。
*
四ヶ月が過ぎた、九月某日の午後。
ミウは、客として来店した杜陵大学四年の及川ヒカリの髪をカットしていた。
彼女は無口で愛想のない客だが、通い慣れていることもあり、ミウはハサミを動かしながら音楽や卒業後の進路など他愛のない世間話を振っていた。
その流れで、ふと不思議な体験の話題になった。
霊感など全くないミウだったが、数ヶ月前から続くあの現象を思い出し、ふと口に出してしまった。
「そういえば、うちの店でも変なことがあるのよね。使っていないはずの席の周りに髪が落ちてたり、定休日の翌朝に出勤してくると、誰もいないはずなのに髪の毛が落ちていることがあって」
鏡越しに、及川の三白眼がすっと細められた。
「……この店で、ですか?」
及川が静かに食いついた瞬間、フロアの奥から鋭い視線を感じた。
鏡の隅に映るオーナーが、ミウをきつく睨みつけていた。客商売で変な噂を立てるな、という無言の圧力だった。
ミウは気まずく微笑み、慌てて言葉を濁した。
「あ、ごめんね。つい言っちゃったけど、気のせいだと思うし。他のお客さん怖がらせちゃうから内緒でお願いね。何かの影響があるわけでもないし、ただ髪の毛が落ちてるだけだから……ね?」
「……内緒ですね」
及川はそれ以上踏み込まず、淡々と頷いた。
カットが終わり、会計を済ませて店を出る間際。及川は振り返り、少し硬い敬語でミウに囁いた。
「見ないふり、触らないふりが一番らしいですよ。例え姿を見ても、絶対に目を見てはダメです」
*
及川のその奇妙な警告が、逆にミウの意識を五番チェアへと強烈に縛り付けてしまった。
その日の閉店作業中。
フロアのモップ掛けをしていたミウとハルカは、意を決してオーナーを問い詰めた。
「オーナー、五番の髪の毛のことなんですけど……防犯カメラの映像、見ておくって言ってませんでした?」
「あぁ、見たよ」
「何が映ってたんですか?」
オーナーはレジ締めの手を止め、重いため息をついた。
「何も映ってなかった。……風でどこかに溜まった毛が出てきているだけだろ」
「いや、そんな量じゃないですよ! 普通にカットした丸々一人分の量が落ちているときもあるじゃないですか」
「そうだったかな……」
「教えてくれないと、明日からもう来ないですよ、私」
ハルカも「私もです」とモップを握りしめて同調した。
沈黙が下りた。
やがて、オーナーは疲れ切った声でぽつりと言った。
「ただ本当に、何も映ってないんだ。何もない空間から、髪の毛が落ちてくる。それだけだ」
「え?」
「見たければ見せてやる。何もない空間から、今まさにハサミでカットされたように、毛束が落ちてくるんだ。どうなってるのか、さっぱりわからん」
「ここって、訳あり物件なんですか?」
「いや、聞いてない。そもそも十年やってて初めてだ、こんなこと」
ふと、三人の視線が同時に無人の五番チェアへ向いた。
見てはダメだという及川の警告を、ミウは完全に破っていた。
夕闇が迫る薄暗いフロアの端。五番チェアの上の何もない虚空で、ふわり、と黒い髪の束が宙を舞った。
見えないハサミに切り落とされたように、毛束が音もなく床へ降り注ぐ。
三人は声も出せず、ただその異常な光景を見つめていた。
その日を境に、オーナーは突然店を閉め、地元へと帰ってしまった。
直接的な危害や凄惨な事件は何も起きなかった。ただ、「それ」がそこにあるという異常を明確に認識してしまったことへの根源的な恐怖だけが、彼らから日常を奪い去った。
その後、居抜きで何度か別の美容室が入ったものの、どれも数ヶ月ですぐに閉店した。
杜陵市の繁華街の片隅で、そのテナントは現在も空き店舗のまま放置されている。
【事例025】特定商業テナントにおける空間異常事案
【症状】
・無人の空間において、人間の毛髪と思われる束が断続的に発生・落下する。
・事象は定休日等で完全に密室状態にある空間でも進行する。
・直接的な物理的危害は確認されていない。
【対処法】
・実害がない段階においては、事象を「見ないふり」「触らないふり」でやり過ごすことが可能と推測される。
・明確に事象を視認し、異常を日常として許容できなくなった場合、当該空間を放棄する以外に対処法はない。
【備考】
・当該テナントは現在空き物件となっている。内部調査の予定はない。