二〇〇八年の五月十九日。 杜陵市の隣に位置する幣掛町(ぬさかけちょう)の朝は、まだどこか肌寒い、湿った風がよく似合う。
初夏が近づきつつあるとはいえ、朝晩の冷え込みが残るこの季節、大学四年である私、角掛ミオの通学はもっぱら車だった。
実家から杜陵大学までは、車で三十分ほどの距離。
夜露で濡れたフロントガラスをワイパーで拭い、少しだけヒーターを効かせた古い軽自動車に乗り込むのが、私の毎朝の儀式だ。
ダッシュボードに置いたカラフルな携帯音楽端末から、コードを伸ばしてシガーソケットの機器に繋ぐ。
FMトランスミッター。
微弱な電波を飛ばし、車のラジオを通して好きな音楽を聴くための小さな機械だ。
ラジオの周波数を合わせると、少しこもったような、独特のアナログな温かみを持った音質で、お気に入りの女性ボーカルの曲が車内に響き渡る。
少しだけつけたヒーターの埃っぽい匂いと、密閉された空間。
車内は、私だけの完璧な城だった。
最初の違和感に気づいたのは、日がどっぷりと暮れた帰りの車中だった。
いつものように音楽を流し、暗い県道を走っていた時のことだ。
スピーカーから流れるボーカルの声の裏側に、かすかに別の音が混ざっている気がした。
サーッというFM特有のホワイトノイズの奥。
まるで、曲に合わせて誰かがハミングをしているような、微かな声。
ふんふん、ふふん。
最初は、ラジオの混信かと思った。
近隣のトラックの無線か何かが、トランスミッターの電波に干渉したのだろうと。
私は特に気にも留めず、そのままハンドルを握り続けた。
だが、その「混信」は、翌日も、その次の日も続いた。
そして、特定の曲――ゆったりとしたバラードが流れる時にだけ、決まってその声が聞こえてくることに気づいてしまった。
ふふん、ふふふん……。
若い女の声のような、あるいは性別も年齢もないような、不思議な声。
決して音程を外すことなく、ボーカルのメロディにぴったりと寄り添うように口ずさんでいる。
それはまるで、助手席に誰かが座って、ご機嫌に歌っているかのようだった。
気のせいだ。きっと、そういうコーラスが入っている曲なんだ。
そう自分に言い聞かせようとした。
だが、ある夜。
信号待ちで車を停めた時、曲の合間の完全な無音の瞬間に。
『……いい曲』
スピーカーからではなく、すぐ左耳の横で。
助手席の空間そのものから、かすかな呟き声が聞こえた。
心臓が跳ね上がり、全身の毛穴が粟立った。
横を向く勇気はなかった。
ただ前だけを凝視し、青信号になった瞬間にアクセルを強く踏み込んだ。
誰かが、私の車に乗っている。
*
ゼミの発表準備が終わり、サークル棟の軽音部室で及川が一人、古いノートPCのキーボードを叩いていた時だった。
「ねえ及川さん、ちょっと聞いてよ!」
ノックもなしに扉を開けて転がり込んできたのは、同じゼミの角掛ミオだった。
彼女は、いつもこうだ。
私がどれだけ冷淡に相槌を打とうが、画面から目を離さなかろうが、一切気にする素振りもなく一方的に話し続けてくる。
その無遠慮な明るさは鬱陶しくもあるが、妙な図太さがあって、完全には拒絶しきれない相手でもあった。
「どうしたの。顔色が悪いけど」
画面から視線を外さずに尋ねると、角掛はパイプ椅子を勝手に引き寄せ、私の隣に座り込んだ。
「車の中がおかしいの。音楽聴いてると、絶対誰か一緒に歌ってるの! しかも昨日、『いい曲』って声まで聞こえて……」
怯えた声でまくしたてる角掛の話を、私は脳内でデータベースと照合する。
車内という密室。
FM電波を介した音声の混入。
同調するハミング。
この杜陵市周辺には、水場や暗がりだけでなく、無数の「迷子」が漂っている。
その多くは、温かい場所や、居心地の良い空間に引き寄せられる。
角掛の車に入り込んだそれは、彼女が作り出した「音楽の流れる温かい密室」を、ひどく気に入ってしまったのだろう。
過去の記録にも似た事例はある。
無理に追い出そうとして塩を撒いたり、怒鳴りつけたりした結果、走行中にハンドルを持っていかれて事故を起こしたケース。
私は手を止め、初めて角掛の方を向いた。
「悪いものじゃないわ。それ」
「えっ?」
「あんたの車の空間と、その曲が気に入って居座ってるだけよ。変にお祓いだの何だのって騒ぎ立てる方が危険」
私は再び画面に視線を戻し、淡々と言い渡した。
「素直に聞いとけばいい。……もしくは、あんたも一緒に歌えばいいわ」
「一緒に歌うって……そんなの、怖すぎるよ!」
「拒絶するから怖いのよ。自分の車に、音楽の趣味が合う同乗者が増えたって思いなさい。そうすれば、何もされないから」
理解できないという顔で固まる角掛に、私はそれ以上何も言わなかった。
怪異の理不尽さを前にして、人間の常識など何の役にも立たない。
角掛はまだ知らない。
受け入れること。
それが、この街で生き延びるための最も確実なルールだ。
*
及川さんの言うことは、いつもどこか狂っているけれど、絶対に正しい。
ゼミで彼女の底知れない正確さを見てきた私は、その言葉を信じることにした。
帰りの車内。
私は震える指で携帯音楽端末を操作し、あのバラードを流した。
しばらくすると、やはりホワイトノイズの奥から、微かなハミングが重なってきた。
ふんふん、ふふん。
怖い。
でも、及川さんは「一緒に歌え」と言った。
私はハンドルを強く握りしめ、引きつった声で、そのメロディに合わせて歌い始めた。
「……ラー、ララ、ラー」
すると、ハミングの声が、少しだけ弾んだように聞こえた。
私の声にすり寄るように、優しく、楽しげに重なってくる。
不思議な感覚だった。
恐怖は次第に薄れ、代わりに、見えない同乗者に対する奇妙な親近感のようなものが湧いてきた。
車内は暖かく、私たちは一緒に歌っている。
それは、悪くない帰り道だった。
それから数日後。
大学からの帰り際、駐車場で面倒な男に捕まった。
同じ学部の男で、以前から何度か食事に誘われては断っている相手だった。
彼は私が車の鍵を開けた瞬間、勝手に助手席のドアを開け、強引に乗り込んできたのだ。
「送ってよ。ついでにご飯でも行こうぜ」
「ちょっと、困るんだけど……」
私が抗議しても、男はヘラヘラと笑ってシートベルトを締めた。
不快感で胸が悪くなる。
ここは私の城なのに、土足で踏み荒らされたような気分だった。
エンジンをかけると、トランスミッターからいつもの曲が流れ始めた。
すると男は、ダッシュボードの端末に勝手に手を伸ばした。
「なんだこの暗い曲。もっとノリのいいやつにしようぜ」
男がボタンを押し、曲が強制的にスキップされた。
アップテンポの、騒がしい曲が車内に響き渡る。
その瞬間だった。
車内の空気が、凍りつくように冷たくなった。
五月だというのに、息が真っ白に染まるほどの季節外れで異常な冷気。
スピーカーから流れていた騒がしい曲が、ブツッ、と途切れ、激しいホワイトノイズが爆音で鳴り響いた。
ザーーーーーッ!!!
男が「うわっ」と耳を塞ぐ。
そのノイズの奥から、かつてないほどはっきりとした、低く、水底から響くような声が轟いた。
『 出 て い け 』
ガチャリ。
ロックしていたはずの助手席のドアが、内側から勢いよく開いた。
湿った初夏の夜風が車内に吹き込んでくる。
「ヒッ……!?」
男は悲鳴を上げ、転がり出るようにして車から這い出した。
そのまま、振り返りもせずに大学の方へと逃げ去っていく。
開け放たれた助手席のドア。
私はしばらく呆然としていたが、ゆっくりと身を乗り出し、開いたドアを引き寄せて閉めた。
バタン、と重い音がして、車内は再び密室に戻った。
震える手で端末を操作し、元のバラードの曲に戻す。
しばらくすると、サーッというノイズの奥から。
ふふん、ふふふん……。
機嫌を直したような、穏やかなハミングが聞こえてきた。
私は小さく息を吐き、車をスタートさせた。
及川さんの言う通りだ。
音楽の趣味が合う同乗者がいるのも、案外悪くないのかもしれない。
私は、見えない助手席の彼女と一緒に、夜の県道を走り出した。
*
『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』 更新日:二〇〇八年五月二十七日
【事例015】FM電波を介した音声の混入事案
【症状】 自動車の車内にて、カーステレオ(主にFMトランスミッター等の微弱電波)から流れる音楽に、未知の音声(ハミング、呟き等)が混入する。対象は特定の楽曲や車内の環境に執着を示す傾向がある。
【対処法】 音声に対して恐怖や拒絶を示してはならない。可能であれば同調する(一緒に歌う等)ことで、対象は無害化し、車内に定着する。無理な除霊や拒絶は、運転への直接的な物理干渉(事故)を招くため極めて危険である。
【備考】 対象を受け入れた場合、車内は対象にとっての「縄張り」となる。 その後、家主(運転手)の意に沿わない外部の人間が同乗し、対象の好む環境(音楽等)を破壊する行動をとった場合、対象は極めて強い排他性・攻撃性を示すことが確認された。 同乗者を乗せる際は、対象の機嫌を損ねないよう厳重な注意が必要である。