二〇〇八年の五月二十六日。
杜陵市の底冷えする冬が完全に去り、代わりにじっとりとした湿気が街を覆い始める時期。走り梅雨の重たい雲が、空を低く塞いでいた。
杜陵大学の事務棟にある財務課のオフィスは、古い建物のせいか空調の効きが悪く、常に紙の束と埃、そして湿った空気の匂いが充満している。
三十四歳になる僕、栗栖コウタの日常は、山積みになった書類と睨み合うことで消費されていく。
「またか……」
手元のクリップボードに挟まれた、くちゃくちゃに丸められた跡のあるレシートの束を見て、僕は重いため息をついた。
提出者は、教育学部の講師である菊地フタバ。学生時代からの腐れ縁の友人だ。何度「経費の申請は月をまたぐな」「領収書は綺麗に伸ばして台紙に貼れ」と怒っても、のらりくらりと躱されて、結局こうして月末ギリギリにゴミのような束を押し付けてくる。
苛立ちを紛らわすように、僕は首の骨を鳴らし、ふと窓の外へと視線を向けた。
灰色の雲の下、杜陵市の北西にそびえる杜陵山が、ガラス越しにぼんやりと見えている。
標高はそれほど高くない、なだらかな稜線を描く山だ。だが、僕には昔から、あの山がただの自然の地形には見えなかった。
巨大な、全身が緑色の女性が、こちらに向けて土下座をするように深く体を丸め、うずくまっている。
比喩ではない。木々の配置や尾根の形がそう見せるというレベルではなく、はっきりと「緑の女」がそこにいるように視えるのだ。
僕が杜陵大学の学生だった頃――軽音学部に所属し、あの忌まわしい『杜陵遺誡録』というノートの管理を押し付けられていた二年間も、彼女はずっとそこにうずくまっていた。
当時の僕は、部室の片隅で古びた記録ノートを開きながら、窓の外の山をよく眺めていた。
不思議なことに、僕がノートを管理していた三年生から四年生にかけての二年間、僕の周囲の人間にはただの一度も怪異による被害が起きなかった。部員たちは平穏に過ごし、誰一人欠けることなく卒業していった。
だから僕は、あのノートに書かれた数々の不条理なルールも、どこか遠い作り話のように感じていたのだ。
ただ、あの「うずくまる緑の女」だけは、常に視界の端にいた。
学生時代、彼女の顔は地面に擦り付けられるように、完全に下を向いていた。
だが。
ここ最近、彼女は動いている。
ほんの少しずつ、数年かけて、這いつくばったまま首を捻り、杜陵大学の――いや、僕のいる建物の方向へと、その巨大な顔を向けてきているのだ。
数日前までは横顔の輪郭が見える程度だった。だが今日は、鼻筋のような隆起と、閉じられた眼窩のくぼみのようなものが、はっきりとこちらを向いているのが分かる。
胃の腑のあたりに、じっとりとした冷たい汗が滲む。
気のせいだ、山の木々が風で揺れているだけだ。そう自分に言い聞かせようとしたが、視界の端にこびりつく強烈な気配は、日に日に質量を増していた。
僕はたまらず席を立ち、タバコの箱を掴んで事務室を逃げ出した。
*
コンクリートの壁に囲まれた、薄暗く風通しの悪い喫煙所。
私――及川は、口にくわえたタバコに火をつけようと、使い捨てのライターを擦った。
だが、虚しい火花が散るだけで、一向に火はつかない。オイルが完全に切れている。
舌打ちをしてライターをゴミ箱へ放り捨てた時、重たい足取りで一人の男が入ってきた。
財務課の職員である栗栖。今年で三十四歳になるという、猫背気味のくたびれた男だ。
彼は、私が管理している『杜陵遺誡録』の、過去の管理者の一人だ。
私が生まれる前からサークル棟に遺されているあのノートには、歴代の管理者たちの筆跡が残っている。栗栖の時代のページは、他の世代に比べて極端に記述が少ない。彼が管理していた二年間だけは、なぜか周囲の学生たちに怪異の被害が及ばなかったらしい。
「火、ありますか」
私が抑揚のない声で尋ねると、栗栖は少し驚いたように私を見た後、ズボンのポケットを探った。
彼が差し出してきたのは、どこかの居酒屋のロゴが入った、紙箱のマッチだった。
私はそれを見た瞬間、反射的に一歩後ずさっていた。
「……ライターは、ないんですか」
「えっ? ああ、切らしちゃってて。マッチじゃ駄目?」
「……要りません」
私は小さく首を振って拒絶した。
マッチが嫌いなのだ。火がつく瞬間の、あの硫黄が焦げる鼻を突く匂い。そして何より、静寂を切り裂く「シュッ」という擦過音が、暗がりから『不確かなものたち』の視線を一斉に引き寄せるような気がして、昔からどうしても受け付けない。
過去に、無知な誰かが暗闇でマッチを擦った瞬間に起きた惨劇の記憶が、今も私の奥底にこびりついている。
私がタバコを箱に戻すと、栗栖は気まずそうにマッチを使い、自分のタバコに火をつけた。
紫煙を吐き出しながら、彼がぽつりとこぼす。
「及川さん、だっけ。君、今あのノート管理してるんだよね」
「そうですけど。……何か」
「……山が、動いてる気がするんだよ」
心臓の奥が、ヒヤリと冷え切った。
「杜陵山が、うずくまった女に見えるんだ。昔から。でも、最近……その女が、こっちに顔を向けてきている」
私は、彼の言葉をノートの記述と記憶の中で照合した。
彼がノートを管理していた二年間、なぜ彼の周囲には何も起きなかったのか。
いくつかの可能性を考えた末、ひとつの仮説に行き着いた。
――彼自身が、もっと巨大な何かに目をつけられていたのではないか。
強いものの気配がある場所には、弱いものは近づかない。そう考えれば、少なくとも説明はつく。
もちろん、仮説にすぎない。あの山と彼の間に何があるのか、私にはわからない。
ただ、もしそうなら。
彼がこれまで何事もなく過ごしてきたことを、幸運と呼んでいいのかどうか。それだけは、わからなかった。
「……広島のご出身でしたよね」
「え? ああ、そうだけど」
「明日から一ヶ月ほど休暇をとって、実家に帰ってください」
私が真っ直ぐに彼の目を見て言うと、栗栖は呆れたように笑った。
「無理だよ。月末の処理が山積みだし、菊地のやつがまた面倒な領収書を……」
「なら、せめて」
私は彼の言葉を遮り、最も重要なルール(遺誡)を言い渡した。
「絶対に、目を合わせないでください」
「え……」
「向こうは、気づかれるのを待っています。顔がこっちを向いても、絶対に視界の中心に捉えちゃ駄目です。……視線が合えば、引っぱり込まれますよ」
それだけを言い残し、私は火のついていないタバコを握り潰して喫煙所を後にした。
忠告はした。だが、人間の意識というものは、見ないようにすればするほど、そこへ向かってしまうものだ。
彼がやり過ごせる確率は、極めて低い。
*
五月二十九日。
朝から降り続いていた雨が上がり、気温の上昇とともに、杜陵市特有のひどい湿気が街を包み込んでいた。
オフィスの空気は最悪だった。書類の紙が湿気を吸って重たくなり、ボールペンのインクの乗りも悪い。
僕は及川の忠告に従い、この三日間、窓の外を一切見ないようにして過ごしていた。
事務室のブラインドはすべて下ろし、蛍光灯の光だけでひたすら数字と向き合う。菊地フタバから追加で出された不備だらけの書類をさばくことだけを考え、脳のリソースを仕事で埋め尽くした。
午後三時。
空調の悪さと湿気に耐えかねた誰かが、「少し換気しますね」と言って、ブラインドの角度を調整し、窓を数センチだけ開けた。
ぬるい風が、室内に流れ込んでくる。
雨上がりのアスファルトの匂いに混じって、むせ返るような、濃密な土と苔の匂いが鼻を突いた。
(……土?)
大学の敷地内に、これほど強い土の匂いを放つ場所はない。
まるで、深い森の奥底、腐葉土の上に直接顔を押し付けられているような、息苦しいほどの青臭さ。
その匂いに気を取られたのが、致命的なミスだった。
ふと、意識の糸が切れ、僕は開いたブラインドの隙間から、窓の外へ視線を向けてしまった。
杜陵山。
うずくまっていた緑の女は、もう下を向いてはいなかった。
完全に首を持ち上げ、その巨大な顔の正面を、真っ直ぐにこちらに向けていた。
森の木々で形作られた輪郭ではない。
苔と泥と無数の葉が絡み合った、おぞましいほど巨大な女の顔。
ぽっかりと空いた漆黒の眼窩が、ブラインドの隙間からこちらを見つめる僕の両目を、寸分の狂いもなく捉えていた。
『 あ 』
視線が、合ってしまった。
その瞬間、室内の空気が一気に重力を増したようにのしかかってきた。
距離感が、狂う。
何キロも先にあるはずの山が、窓のすぐ外、手の届く距離まで迫ってきているような錯覚。
ベチャリ。
窓ガラスの全面に、巨大な濡れた葉のような、あるいは緑色の皮膚のようなものが、外側から張り付く音がした。
光が遮断され、事務室が暗闇に沈む。
「え……?」
「ちょっと、急に暗く……停電?」
同僚たちの戸惑う声が、遠く、水底から聞こえてくるようにくぐもって響く。
僕の耳にはもう、彼らの声は届いていなかった。
ズズ……ズズズ……。
窓枠の隙間から、大量の黒い泥と、濡れた青葉が、生き物のように這い入ってくる。
足元を見る。いつの間にか、オフィスのタイルカーペットは消え失せ、踏みしめる足首までが、ずぶずぶと冷たい腐葉土の中に沈み込んでいた。
逃げられない。
ここはもう、あの女の懐の中なのだ。
泥の匂いが肺を満たしていく中で、僕はただ、迫りくる巨大な緑の気配に目を閉じることしかできなかった。
*
『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』
更新日:二〇〇八年五月三十日
【事例016】杜陵山系における視線の交差および誘引事案
【症状】
杜陵山全体が、うずくまる巨大な女性の姿として視認されるようになる。対象は数年単位でゆっくりと顔を上げ、標的とした人間のいる方向へと顔を向ける。特異な土と苔の異臭を伴う。
【対処法】
対象の顔がこちらを向いたとしても、絶対に直視せず、視線を合わせてはならない。可能であれば対象の視界(杜陵市の領域内)から物理的に一ヶ月以上離脱することが望ましい。
【備考】
対象と完全に視線が一致した場合、物理的な距離の概念が崩壊し、標的の周囲の空間が対象の領域(腐葉土や泥の環境)へと急速に置換・浸食される。
一度視線が交差し、誘引が開始された後の生還例は現在確認されていない。該当職員のデスクに残された書類は、すべてひどい泥と湿気により判読不能となっていた。