二〇〇七年六月四日の夕暮れだった。 梅雨入りを控えた杜陵市は、川面から立ち上る湿気に包まれ、風にはまだ春の名残の冷たさがあった。
中川の河川敷を歩いていた男は、夏草の根元に転がる青い球体を見つけた。 拾い上げると、指先に硬くざらついた感触が伝わる。 まだ六月に入ったばかりだというのに、枝から落ちたらしい未成熟なオニグルミの実だった。
「ずいぶん気の早い実だな」
子供の頃、秋になると川原でクルミを拾い集め、石で割って遊んだ記憶が蘇る。 男はなんとなく捨てるのが惜しくなり、ポケットにしまってアパートへ持ち帰った。
「ただいま、っと。……少し泥がついてるな」
男は洗面所で青い実を水洗いし、水気を軽く切ってから、玄関の棚の上に置いた。 その時点では、ただの固い木の実にしか見えなかった。
異変が起きたのは、翌六月五日の朝だった。 出勤しようと玄関に向かった男は、棚の上に目をやり、足を止めた。
「……え?」
昨日まで緑色だった果皮が黒ずんで裂け、内側の硬い殻までが真っ二つに割れていた。 その隙間から、白くぬめった太い芽が顔を覗かせている。
「なんだこれ……洗った水を吸って、一晩で芽が出たのか?」
カナヅチで叩いても容易には割れないはずの殻が、内側から食い破られたように裂けている。 気味が悪くなり、男はゴミ集積所へ捨てようと無造作に右手を伸ばした。
指先が白い芽に触れた、その瞬間だった。
ぴたり、と実が親指と人差し指の腹に張り付いた。
「っ、なんだ!? おい、離れろ!」
慌てて手を振ったが、皮膚に接着されたように動かない。 左手で引き剥がそうとした途端、割れた殻の隙間から無数の白い根が溢れ出し、指の皮膚へ食い込んでいった。
「う、うわああっ! なんだよこれ、やめろ!」
皮膚がぷつぷつと裂け、白い繊維状の根が肉の奥へと潜り込んでいく。 男は玄関のたたきに膝をつき、右手を壁へ打ち付けた。
だが、激痛はなかった。 代わりに、手首から肩、そして頭の芯へと、ぬるい蜜を流し込まれたような痺れが広がっていく。
「あ……あれ……? なんだ、これ……すごく、気持ちがいい……」
荒い息をついていた男の口から、ふっと力が抜けた。 恐ろしかったはずの侵食が、いつしか母親に頭を撫でられているような、甘く抗いがたい安心感へと変わっていた。 仕事の疲れも、将来への不安も、すべてがどうでもよくなる。このまま委ねてしまえばいい。
男は目を閉じた。 どれほどの時間が経ったのか。ハッと我に返って右手を見つめると、傷ひとつなく、青い実も白い根も跡形もなく消え失せていた。
それから約一年が過ぎた、二〇〇八年六月二十三日。 この一年間、男はかつてないほど穏やかで幸福な日々を送っていた。 職場で理不尽な叱責を受けても腹は立たず、ただ生きているだけで胸の奥から温かな喜びが湧き上がってくる。
だが、その日の午後、デスクに向かっていた男は、突然耐え難い喉の渇きに襲われた。
「ごほっ、ごほっ……水が、飲みたい……」
給湯室へ駆け込み、コップの水を立て続けに五杯飲み干した。しかし、渇きは少しも癒えない。 それどころか、あの川の水辺へ行けと命じるような衝動が、身体の奥底から突き上げてきた。
「おい、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ」
通りかかった同僚が声をかけた。
「ああ……ちょっと、外の空気を吸ってくる……」
「おい、待てって! 早退するなら課長に――」
制止も耳に入らず、男はオフィスを飛び出した。 蒸し暑い街を、革靴を引きずりながら歩く。向かう先は、一年前に青い実を拾った中川の河川敷だった。
土手を降り、湿った草の匂いが立ち込める河原へ足を踏み入れると、少し離れた場所に、枝葉を大きく広げたオニグルミの木が見えた。
「あそこだ……あそこへ行けば、楽になれる……」
夏草をかき分けて木の根元へたどり着き、ざらついた幹に手をついた瞬間だった。
頭蓋骨を内側から叩き割られるような激痛が走り、猛烈な吐き気が込み上げた。
「お、おえええっ! げほっ、うあああっ!」
男は泥の上に両手をつき、激しくえずいた。喉の奥を押し広げ、硬い塊が次々とせり上がってくる。 口から吐き出されたのは、胃液にまみれた大量の青いオニグルミの実だった。
十、二十、三十――自分の胃袋に収まっていたとは思えないほどの数が滝のように溢れ出し、夏草の根元を埋め尽くしていく。
すべてを吐き出したところで、男の意識はぷつりと途切れた。
「おいっ、そこの人! 大丈夫ですか!? 誰か、救急車を!」
通行人の叫び声を遠くに聞きながら、男は泥の上へ倒れ込んだ。
次に目を覚ましたのは、日が暮れかけた病院のベッドの上だった。 巡回に来た医師が、カルテを手に歩み寄ってくる。
「気がつきましたか。河川敷で倒れていたんですよ。気分はどうですか?」
「先生……俺は、あそこで、青い実を山ほど吐いて……」
医師は不思議そうに首を傾げた。
「青い実? 救急隊の報告では、吐瀉物は少量の胃液だけだったそうですよ。検査も異常はありません。脱水と一時的な脳貧血でしょう。念のため今夜は様子を見て、明日には退院できますよ」
「そんなはずは……」
医師が出ていくと、薄暗い病室には消毒液の匂いと静寂だけが残された。 男はゆっくりと上半身を起こし、胸元に手を当てた。
身体はどこも痛くない。喉の渇きも消えている。 それなのに、この一年間、心を温かく満たしていた多幸感が、跡形もなく消え失せていた。
「ああ……う、ううっ……なんでだよ……なんで、こんなに寂しいんだ……」
何ひとつ失った記憶はないのに、胸の真ん中に底なしの穴が空いている。 男はシーツを握りしめ、夕闇の迫る病床で、声を殺して震え続けていた。
*
翌六月二十四日の昼下がり。 杜陵大学のサークル棟にある軽音部室は、梅雨時の湿気を吸ったコンクリートの壁に囲まれ、底冷えする空気が澱んでいた。 パイプ椅子に座り、ノートパソコンで『環境安全ガイド』のHTMLを黙々と手打ちしていた及川ヒカリは、ノックもなしに開いたドアへ冷たい視線を向けた。
「及川先輩、お疲れさまです! ちょっとこれ、見てくださいよ!」
入ってきたのは、同じ紅葉寮に住む一年生の東雲リョウだった。 東雲は屈託のない笑顔を浮かべ、右手のひらに乗せた小さな緑色の球体を差し出した。
「今朝、中川の橋の近くで見つけたんです。青いオニグルミの実ですよ! まだ六月なのに珍しいですよね」
その実を一瞥した瞬間、及川の指がキーボードの上で止まった。 普段は感情の揺れを見せない及川の顔が、露骨に歪む。
「……あんた、それ。素手で拾ったの?」
低く張り詰めた声に、東雲は目を瞬かせた。
「え? はい。草むらにいっぱい転がってたから、綺麗なのを選んで……」
「殻が割れてたり、白い芽が出たりしてないでしょうね」
「は、はい。ただの固い実ですけど……先輩、なんでそんな怖い顔してるんですか?」
及川は机の脇に積んであった古い大学ノート――歴代の管理人が怪異の記録を書き継いできた『杜陵遺誡録』の一冊に手を伸ばした。
「いいから、今すぐそれを捨ててきな。部室のゴミ箱じゃないよ。外のゴミ箱に捨てて、すぐ石鹸で手を洗ってくること」
「ええっ!? なんでですか、ただのクルミですよ!?」
「それはオニグルミじゃない。オニグルミに似た寄生性の怪異だ。手遅れになりたくなかったら、一秒でも早く手放しな」
及川の真剣すぎる剣幕に、東雲の顔から笑みが消えた。
「ひっ……わ、わかりました! すぐ捨ててきます!」
東雲は青い実を握りしめ、部室を飛び出した。
「な、なんなのよもう……! 気味が悪い、早く捨てなきゃ!」
外まで出る余裕もなく、東雲は階段の踊り場にある自販機コーナーで足を止めた。 そこには青いポリバケツの一般ゴミ箱と、飲料容器の回収箱が並んでいた。 焦りで手元が狂った東雲は、確認もせず、ペットボトル回収箱の丸い投入口へ青い実を放り込んだ。
コトン、と乾いた音がした。 東雲は自分がどちらの箱に捨てたのかも気づかないまま、トイレへ駆け込んで両手を洗い、部室へ戻った。
「はあ、はあ……せ、先輩、捨ててきました……手も洗いました……」
「どこに捨てたの。まさか植え込みや土の上じゃないでしょうね」
「ち、違いますよ! 廊下のゴミ箱です! ……あの、先輩、あれは一体何なんですか?」
及川はパソコンの画面に視線を戻し、淡々と口を開いた。
「三十年近く前の記録に、似た事例が残ってる。人間を『種子の運び屋』として利用する怪異だよ」
「運び屋……?」
「拾った時点ではただの固い実だけど、水気や湿気を吸うと一晩で殻を割って白い芽を出す。その状態で素手で触れると、根が皮膚から侵入して寄生するらしい」
東雲は自分の右手を見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「寄生されるとどうなると思う? 死にはしない。むしろ逆で、約一年間、痛みも不安も感じない強烈な多幸感を与え続けられる。体内で種子を育てるための麻酔みたいなものだね。そして一年後の梅雨時、河川敷のオニグルミの木の下へ歩かされて、増えた種子をすべて吐き出させられる」
及川は冷ややかに告げた。
「役目を終えた人間には、多幸感は残らない。最後に待っているのは、理由のわからない強烈な喪失感だけだ。あんたが拾ったのは、昨日あたり、どこかの宿主が吐き出したばかりの種子だろうね」
「そんな……」
「とにかく、水気のある場所に捨てるのは厳禁だ。乾いた一般ゴミなら、そのまま回収されて焼却される。……本当に、普通のゴミ箱に捨てたんだよね?」
「えっ……? あ、はい! もちろんです!」
東雲は反射的にうなずいた。 自分がパニックのあまり、飲み残しの液体が溜まったペットボトル回収箱へ放り込んでしまったことなど、夢にも思っていなかった。
*
数日後の六月下旬。 杜陵大学の四年生である男子学生は、サークル棟の階段下で、リクルートスーツのネクタイを苦しげに緩めていた。 手にした携帯電話には、今朝届いたばかりの不採用通知が表示されている。
「くそっ……また駄目かよ。これで三十社目だぞ……」
周囲が次々と内定を決めていく中、自分だけが取り残されている。ここ数週間はまともに眠れず、胃の奥がずっとしくしくと痛んでいた。 一時間後には、駅前の貸し会議室で集団面接が控えている。
学生はぬるくなったスポーツ飲料を飲み干すと、自販機コーナーの回収箱へ歩み寄った。 回収箱の内部には、梅雨の蒸し暑さと飲み残しの液体による湿気がこもっていた。 東雲が放り込んだ青い実は、ペットボトルの山の中で水分をたっぷりと吸い、すでに殻を割っていた。
学生は空のペットボトルを丸い投入口へ押し込んだ。 その拍子に、投入口の内側に引っかかっていた白い芽に、右手の指先が触れた。
「……っ、痛えな。プラスチックのバリか?」
指を引き抜こうとした瞬間、暗い穴の奥から白く湿った塊が手のひらに吸い付いた。
「えっ……なんだこれ!? 取れない、なんだよこの白い根っこは!」
声を上げたのも束の間、白い根は手のひらの皮膚へ潜り込んでいった。 だが、恐怖は一秒も続かなかった。
「あ……あれ……?」
きりきりと痛んでいた胃が、嘘のように軽くなる。 胸を押し潰していた不採用への恐怖も絶望も、頭の中心から湧き上がる甘く温かな感覚に溶かされていった。
「ふふ……なんだこれ。俺、なんであんなに悩んでたんだろう」
手のひらには、もう何の痕跡も残っていなかった。 学生は晴れやかな笑みを浮かべ、面接会場へと向かった。
一時間後、駅前のビルで集団面接が始まった。 控え室で隣に座った女子学生に声をかけると、彼女はすぐに連絡先を教えてくれた。 面接室に入ってからも、他の学生が緊張で言葉を詰まらせる中、自分だけは流れるように志望動機を語ることができた。
『素晴らしい! 君のような人材を、我が社はぜひ採用したい!』
中央の面接官が身を乗り出し、笑顔で自分を絶賛している――学生の目には、そんな光景が鮮明に見えていた。
「――ですから、御社のパンフレットを見た瞬間、風がとても甘くて、地面の下で僕たちの根っこがひとつに繋がっていると確信したんです。世界はこんなにも愛に満ちていますから、僕が御社に入るのは宇宙の摂理なんです、ふふっ」
室内は凍りついていた。 うっとりと目を細めて支離滅裂な言葉を並べる学生に、中央の面接官が険しい顔でペンを置いた。
「……君、さっきから何を言っているんだね? 質問は『我が社で活かせるあなたの強み』だよ。ふざけているのかね?」
冷たい叱責が部屋に響いた。 隣の女子学生は青ざめ、肩を震わせていた。控え室で一方的に携帯電話を突きつけられ、恐怖のあまり適当な番号を教えて逃げてきたのだ。
それなのに、当の男子学生は頬を紅潮させ、満面の笑みで深々と頭を下げた。
「ありがとうございます! そのように高く評価していただけて、本当に感謝いたします! 骨を埋める覚悟で頑張ります!」
「なっ……君、話を聞いているのか!?」
「はいっ! 本当に幸せです、ありがとうございます、ふふっ、あはははは!」
恍惚とした笑顔で礼を述べ続ける姿に、面接官たちは言葉を失い、他の就活生たちは気味の悪さに眉をしかめた。
面接は途中で打ち切られた。 学生が鼻歌交じりにビル裏の路地へ出てきたとき、背後から怒鳴り声が飛んだ。
「おい! ちょっと待てよ、お前!」
同じグループだった長身の男子学生が、顔を真っ赤にして掴みかかってきた。
「面接の場でなんだよ、あのふざけた態度は! お前が変なことばっかり口走るせいで、こっちまで質問の時間が削られたじゃねえか! ここ俺の第一志望だったんだぞ!」
「え? いやあ、お互い最高の面接だったね!」
「なっ……お前、人の話聞いてんのか!?」
逆上した学生が右拳を振り上げ、男の頬を殴りつけた。 鈍い音が響き、男はアスファルトに倒れ込んだ。切れた唇から血が顎を伝って滴り落ちる。
「くそっ……冷やかしなら最初から来んじゃねえよ!」
殴った学生が拳を握りしめて見下ろすと、男はゆっくりと顔を上げた。 血まみれの唇が、三日月のように吊り上がっていた。
「……え?」
「不思議だなあ。全然痛くないや。むしろ、君の熱意が真っ直ぐ伝わってきて、胸がぽかぽかするよ」
男は血を垂らしたまま立ち上がると、携帯電話を取り出し、殴った相手に差し出した。
「君のおかげで、今日がもっと素晴らしくなったよ。よかったら連絡先交換しませんか? これからずっと、親友になれそうな気がするんだ」
殴った学生は、血のついた歯を見せて笑うその瞳に、底なしの狂気を見た。
「う、うわっ……なんだこいつ、頭おかしいぞ! ち、近づくな!」
足音を乱して逃げ去っていく背中を見送りながら、男は首を傾げた。
「あ、行っちゃった。照れてるのかな、ふふっ」
誰もいなくなった路地で、男は血を拭おうともせず、梅雨の晴れ間の青空を見上げた。 胸の奥からは、温かな多幸感がこんこんと湧き出し続けている。
「ああ……世界は、なんて素晴らしいんだろう」
*
『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』 更新日:二〇〇八年六月三十日
【事例019】中川水系周辺における擬態種子の経皮寄生事案
【症状】 オニグルミの未成熟果に酷似した怪異。湿潤環境下で発芽した個体に素手で接触すると、皮膚組織内に侵入・寄生する。 寄生後、約一年間にわたり、宿主に強力な鎮痛作用と多幸感をもたらし、現実認識に異常をきたす場合がある。 約一年後、激しい口渇や頭痛、嘔吐を伴い、河川敷のオニグルミ樹木周辺で大量の疑似種子を体外へ排出させられる。排出後、宿主は原因不明の強烈な喪失感と精神的虚脱に陥る。
【対処法】 発芽した実には絶対に素手で触れないこと。 発見時は、他者が触れないよう隔離し、乾燥状態を保った上で焼却処分すること。湿気のある場所(水回り、排水口等)への投棄を厳禁とする。
【備考】 異常な多幸感や対人認識の乖離などの行動異常が報告されているが、寄生成立後の外科的・内科的な摘出方法は現時点で判明していない。