二〇〇八年七月七日の夕方。
杜陵大学の三年である僕――櫻田ソウマは、日課にしている城址公園の散歩道を歩いていた。
梅雨明け前の湿った空気が、高く積まれた石垣の苔を黒々と濡らしている。
夕暮れの薄闇が迫る石垣沿いに、鬱蒼とした大木が並んでいた。
そのうちの一本の根元に、小さな白い塊があるのに気づいたのは、本当にたまたまだった。
最初は、誰かが落としたティッシュか何かだと思った。
だが、足を止めて見下ろすと、それは樹皮の窪みに張られた数センチほどのクモの巣だった。
よくある同心円状の網ではない。
薄い包帯やガーゼを何枚も幾重にも重ねたような、異様なほど高密度で真っ白な膜状の巣だった。
「変わったクモもいるもんだな」
僕は特に気にも留めず、そのまま石垣沿いの道を通り過ぎた。
二日後の水曜日の夕方。
同じ道を歩いていた僕は、視界の端をよぎった妙な白さに足を止めた。
あの大木の根元だった。
月曜日に見た時は数センチしかなかったはずの白い巣が、わずか二日で直径二十センチほどにまで急激に広がっていた。
周囲の黒土や枯れ葉を強引に巻き込みながら、綿菓子を押し潰したように分厚く肥大化している。
どう見ても、普通の虫が作る巣ではなかった。
じっとりとした気味の悪さを感じ、僕はその日は近づかずに足早に立ち去った。
しかし、翌木曜日の夕方。
講義を終えた僕は、どうしてもあの白い塊がどうなったのか気になり、再び大木の根元を確かめに行ってしまった。
巣は、前日よりもさらに分厚く盛り上がっていた。
そして、その中央に三つのくぼみ――目と口のような穴がぽっかりと空いていた。
真っ白な布の向こう側から、人間が苦悶の表情で顔を押しつけ、声にならない叫びを上げているように見えた。
背筋がひやりと粟立つ。
「なんだよ、これ……」
あまりの不気味さに、明日大学で友人たちに見せようとポケットから携帯電話を取り出した。
二つ折りの本体を開き、カメラを起動して木の根元に向ける。
息を呑んだ。
肉眼で見ている時よりも、携帯の粗い液晶画面を通したほうがコントラストと陰影が強調され、余計にはっきりとした「苦悶の顔」が浮かび上がっていたのだ。
薄暗い画面の中で、三つの黒い穴がこちらを見上げている。
うまくピントが合わず、僕は無意識のうちに携帯を構えたまま、その巣へ顔を近づけた。
その瞬間だった。
「……スゥ……フシュー……」
中央の口のような穴の奥から、音が漏れた。
風の音ではない。
締め切った病室で聞くような、粘り気のある生臭い病人の呼吸音だった。
直後、生温かい呼気が僕の頬にじわりと触れた。
「う、うわあっ!」
全身の毛穴が一気に開くような悪寒に襲われ、僕はシャッターも切らずに携帯を握りしめたまま、一目散に公園から逃げ出した。
下宿先のアパートへ転がり込み、鍵を閉めて荒い息を整える。
震える手で握りしめていた携帯電話に目を落とした僕は、そこで凍りついた。
背面の小さなカメラのレンズ部分に、あの白い膜のようなものがべったりと張り付いていた。
あの時、顔を近づけた拍子にくっついてしまったのか。
慌ててティッシュで拭い取ろうとしたが、ねっとりとした湿り気を帯びていて、レンズの上で伸びるばかりで少しも剥がれない。
洗面所へ駆け込み、濡らしたタオルで強くこすった。落ちない。
お湯をかけてみた。食器用の洗剤を垂らして爪でカリカリと引っ掻いてみた。
それでも、レンズを覆う白い膜は、まるでガラスそのものに溶け込んでいるかのように微動だにしなかった。
自分の持ち物に得体の知れないナニカがこびりついている。
その恐怖に怯えながら、僕は一睡もできずに朝を迎えた。
*
金曜日の昼休み。
学生食堂は、講義を終えた学生たちの喧騒と揚げ物の匂いで満ちていた。
私――経済学部四年の及川ヒカリは、同じゼミの角掛ミオに連れ出され、窓際の席で遅めの昼食をとっていた。
「それでね、昨日のサークルの飲み会なんだけどさ――」
向かいの席で明るく喋り続ける角掛の声を聞き流しながら、私はうどんの割り箸を割った。
その時、通路を挟んで二つ隣のテーブルから、やけに上ずった男子学生の声が聞こえてきた。
「だから本当なんだって! 城址公園の木の下に、人間の顔みたいな白いクモの巣があったんだよ! 近づいたら、その口から生臭い息を吹きかけられて……!」
「はいはい、見間違いだろ。お前、最近バイトのシフト入れすぎなんだって」
「じゃあ昨日の写メ見せろよ。撮ろうとしたんだろ?」
「いや、だから怖くて逃げたから写真は撮れてないんだけど……!」
周囲の友人たちがゲラゲラと笑い飛ばす中、訴えていた男子学生は悔しそうに口をつぐんだ。
向かいに座っていた角掛が、ぴたりと箸を止めて私を見た。
彼女もかつて怪異に巻き込まれた当事者だ。今の話がただの笑い話ではないと直感したのだろう、私に向かって小さく目配せをしてきた。
やがて友人たちが食器を下げて席を立ち、その男子学生がテーブルに一人残された。
私は席を立ち、彼の隣へ歩み寄った。
「さっきの話、詳しく聞かせて」
声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。目の下には濃い隈ができている。
「え……あんた、誰?」
「経済学部四年の及川。あなたは?」
「あ、僕は三年の櫻田ですけど……さっきの話って、公園の巣のことですか?」
「そう。笑わないから、最初から順番に話して」
私が向かいの席に腰を下ろすと、櫻田という後輩は戸惑いながらも、城址公園の石垣沿いで見つけた白い膜の巣のこと、日ごとに肥大して顔のような穴が空いたこと、そして生温かい呼吸音のことを一気にまくしたてた。
「……それだけじゃないんです。これ、見てください」
櫻田はポケットから携帯電話を取り出し、裏面を私に向けた。
小さなカメラレンズの表面に、ガーゼを濡らして貼り付けたような白い膜がこびりついている。
「昨日の夜、水でもお湯でも洗剤でも洗ったんです。なのに、どれだけこすっても絶対に取れないんですよ」
隣から覗き込んだ角掛が、「うわ、なにこれ……」と小さく息を呑んだ。
私はレンズの膜から視線を外し、脳内で『杜陵遺誡録』の古い記述を検索した。
樹木の根元に張る高密度の白い膜。三つの穴。呼気。
そして、洗っても落ちない繊維。
「……推測だけど、それはクモの仕業じゃない」
私は感情を乗せずに淡々と言った。
「クモじゃなくて、クモの巣そのものに似た怪異ね」
「え……? 虫じゃなくて、巣のほうが本体ってことですか?」
櫻田と角掛が揃って困惑した顔を見合わせる。
「過去の記録に似た事例がある。ソレは、巣の一部が付着した相手を、時間をかけて少しずつ取り込んでいく性質があるらしい」
櫻田の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
「と、取り込まれるって……じゃあ、この携帯を捨てればいいんですね!? 今すぐ解約して捨ててきます!」
腰を浮かせかけた櫻田を、私は冷ややかに見上げた。
「携帯を捨てても意味がないよ。巣が付着しているのは、携帯じゃなくてあなた」
「……え?」
「もし携帯のガラスに物理的な汚れがついているなら、洗剤や爪で削れば剥がれるはず。それがどうやっても落ちないのは、ソレがあなた自身に憑いてるからじゃないかしら。」
昨日の夜、どれだけ洗っても膜がびくともしなかった事実が、私の仮説に嫌な説得力を与えたのだろう。
櫻田は携帯を握りしめたまま、唇を小刻みに震わせた。
「じゃあ……僕はどうすればいいんですか」
「物理的に剥がせないなら、別の受け皿へ巣を移すしかない。市販のドリームキャッチャーを買っておいで。手に入らなければ、木の枠に糸を張って網目状のものを自作してもいい」
「ドリームキャッチャー……あの、輪っかに網が張ってある飾りですか?」
「そう。その網目の部分に、あなた自身の『涙』を染み込ませるんだ。目薬や水じゃダメ。必ず自分の目から出た涙をつけること。それを、その携帯と一緒に黒いごみ袋へ入れて、空気が入らないように固く縛って三日間放置して」
なぜ涙なのか、どういう原理で移るのかまでは、過去のノートにも書かれていない。
だが、かつて生き延びた人間がそう記している以上、それが唯一の境界線だ。
「三日経って袋を開けたとき、レンズの膜が消えてドリームキャッチャーのほうに巣が張っていれば、あなたからは離れたことになる」
「そ、それで終わりですか? 巣が移ったドリームキャッチャーは、燃えるゴミにでも出せば……」
「絶対に捨てちゃダメだよ」
私は強く釘を刺した。
「燃やしたり、ゴミに出して収集車で潰したりしたら、移した巣がまたあんたのところへ戻ってくる可能性がある。携帯を取り出したら、黒い袋の口をもう一度固く縛って、光が当たらないクローゼットの奥にしまい込みな。……卒業してこの街を出るまで、二度と開けて見ないようにね」
普通なら、頭のおかしい作り話だと一蹴されるような内容だ。
だが櫻田は、レンズに張り付いた白い膜を一度見つめると、青い顔で何度も深くうなずいた。
*
学食で及川先輩と別れたその足で、僕は商店街の雑貨店へ走り、手のひらサイズのドリームキャッチャーを購入した。
輪の中にクモの巣のような網が張られ、下に白い羽根がぶら下がっている安物だ。
アパートの自室に戻り、黒いビニールのごみ袋を広げた。
問題は「涙」だった。
いざ泣こうと思っても、恐怖で喉が渇いているせいか、涙など一滴も出てこない。
祖父との死別を思い出すなど、なんとか悲しい思い出を絞り出し、充血した目の端から、じわりと熱い涙が溢れ出した。
それを逃さないようにドリームキャッチャーの網目を直接目元に押し当て、自分の涙をたっぷりと染み込ませた。
「よし……」
電源を切った携帯電話と、涙で湿ったドリームキャッチャーを黒いごみ袋の中に入れる。
中の空気を抜き、袋の口を二重、三重に固く結んだ。
それを部屋の隅に置き、僕は言われた通り丸三日間、一度も袋に触れずに過ごした。
土曜日も、日曜日も、黒い袋は部屋の隅で静かに沈黙していた。
そして三日後の月曜日の夜。
約束の時間が過ぎ、僕は震える手で黒い袋の結び目を解いた。
恐る恐る中を覗き込み、まず携帯電話をつまみ出す。
裏返してカメラのレンズを見た。
消えていた。
あれほどこすっても洗っても落ちなかった白い膜が、跡形もなく消え失せ、綺麗なガラス面が光を反射している。
安堵で大きく息を吐きかけた僕は、袋の底に残っているもう一つの物体を見て、息を詰まらせた。
ドリームキャッチャーが、異様な姿に変わり果てていた。
元々張られていた細い糸の網目など、もうどこにも見えない。
輪の内側全体に、あの城址公園で見たのとまったく同じ、ガーゼを何層も重ねたような分厚く真っ白な繊維の巣が、はっきりとわかるほどびっしりと張り巡らされていたのだ。
中央付近の分厚い綿のような塊が、微かに湿り気を帯びて蠢いた気がした。
僕は悲鳴を噛み殺し、携帯だけを抜き取ると、すぐさま黒いごみ袋の口を固く縛り直した。
そのままクローゼットを開け、一番奥の衣装ケースの裏側――絶対に光の届かない暗がりへと袋を押し込み、扉を閉めた。
これで終わった。
及川先輩の言った通り、あの怪異は僕の涙を吸ったドリームキャッチャーへと移り、封印されたのだ。
実際、それから数日が過ぎても、僕の身体に異常が現れることはなかった。
城址公園へ近づくのはやめたが、大学へ通い、友人と笑い合う平穏な日常が戻ってきた。
あの夜までは。
週末、部屋のベッドに寝転がりながら、僕は久しぶりに携帯電話のデータフォルダを開いた。
友人に送る画像を探そうと、保存されている写真を何気なくスクロールしていた時だった。
指が止まった。
三日前に学食で撮った、友人のふざけた顔の写真。
その画面の右下に、薄いガーゼを重ねたような、半透明の白い染みが写り込んでいた。
「……え?」
次の写真を見る。昨日の夕方、キャンパスの駐輪場で撮った写真。
構図も場所もまったく違うのに、画面のまったく同じ右下の位置に、同じ白い膜のようなものが重なっている。
嫌な汗が背中を伝った。
僕は親指を動かし、フォルダを過去へと遡った。
先週の写真。先月の写真。
さらには、あの城址公園であの巣を見つけるよりも前――春先に撮ったはずのサークルの集合写真や、実家の飼い犬の写真。
日時も、場所も、被写体もバラバラなすべての写真の同じ位置に、あの白い膜が張り付いていた。
しかも、古い写真へ遡るほど、その白い膜は少しずつ画面の中央へと広がり、濃くなっているように見えた。
一番古い写真の白い膜の中央には、目と口のような三つの暗い影が、うっすらと透けて見えていた。
部屋は静まり返っている。
視線の先には、固く閉ざされたクローゼットの扉がある。
僕は光る液晶画面を見つめたまま、そこから指を一ミリも動かすことができなかった。
*
『杜陵大学周辺 環境安全ガイド』
更新日:二〇〇八年七月十四日
【事例020】城址公園樹木周辺における膜状怪異の付着および転移処置事案
【症状】
樹木の根元等に、ガーゼや包帯を重ねたような高密度の白い膜状の巣が形成される。
近接・覗き込みを行うと、特有の呼気音を伴って対象者に付着する。
付着した膜は通常の洗浄や物理的剥離は不可能となる。放置した場合、対象者の生体組織を段階的に取り込む危険性がある。
【対処法】
付着が確認された機器そのものを破棄しても効果はない。
網目状の構造物(市販のドリームキャッチャー)に自身の涙を付着させ、該当機器とともに黒色のビニール袋へ入れて密閉し、三日間放置すること。
網目構造側への膜の転移が確認されれば、処置は完了となる。
【備考】
なお、転移後の構造物は破棄・焼却を行わず、黒色袋で遮光・密閉した状態のまま、暗所(クローゼット等の奥)にて恒久的に保管すること。構造物を破損させた場合、再付着を招く恐れがあるため厳禁とする。