実際のプレイ記録を基に、選手の移籍交渉やクラブ経営、試合の舞台裏を創作しています。実在する選手・クラブの作中での言動や出来事はフィクションです。
物語は2025/26シーズンから始まります。
七度目だった。
欧州の頂点に立つのは、これで七度目だった。
試合終了の笛が鳴った瞬間、エドワード・ヘイルは動かなかった。
周囲では控え選手たちがピッチへ飛び出し、スタッフが互いの肩を抱き、赤いユニフォームの選手たちが芝生に崩れ落ちていた。スタジアムの一角からは、何万人もの声が一つになった歌が響いている。
それでもヘイルは、テクニカルエリアの白線の内側に立ったままだった。
「ボス!」
背後から誰かに抱きつかれた。
「七回ですよ! 七回!」
「知っている」
「七年連続ですよ!」
「それも知っている」
「だったら、もう少し喜んでください!」
ヘイルはようやく振り返った。
長年チームを支えてきたコーチが、子供のような顔で笑っていた。
「喜んでいるさ」
「とてもそうは見えません」
「顔に出ないんだ」
「初優勝のときは泣いていたでしょう」
「余計なことを覚えているな」
二人は笑った。
二〇三四年五月。
ブリストル・アスレティックFCは、UEFAチャンピオンズリーグ七連覇を達成した。
それは、もはや奇跡という言葉では説明できない記録だった。
最初の優勝は衝撃だった。二度目は偶然ではないことの証明とされた。三度目には王朝と呼ばれ、四度目には他クラブの経営者たちが、その成功を再現する方法について真剣に議論し始めた。
五度目になると、欧州の新聞はブリストルを倒せるクラブを探す記事を書いた。
六度目には、ブリストルが敗れた場合の見出しを用意していた。
そして七度目。
試合前のテレビ番組で、ある解説者が言った。
「もはや、彼らが優勝しても驚きはありません」
ヘイルはその言葉が嫌いだった。
驚きがないのなら、なぜ自分たちはこれほど疲れているのだろう。
なぜ、試合前には今でも胃が痛くなるのだろう。
なぜ、決勝の前夜に眠れない選手がいるのだろう。
勝利が当然とされることほど、勝利から遠いものはない。
ピッチでは若い選手たちが優勝杯の周囲に集まり始めていた。数年前まで育成組織にいた選手もいる。移籍金の高さを批判されながら加入した選手もいる。かつては誰にも知られていなかった選手もいる。
そして、この場所にはもういない選手たちもいた。
最初の昇格を支えた選手。
出場機会を求めて移籍した選手。
クラブの成長についていけなかった選手。
クラブの成長を支えたからこそ、去らなければならなかった選手。
ヘイルは、その顔を一人ずつ思い浮かべることができた。
「エドワード!」
遠くから声がした。
振り返ると、ナディーム・アル=ラシードが立っていた。
かつて黒々としていた髪には白いものが増え、歩く速度も少し遅くなっていた。それでも、満足そうに笑う顔は九年前とほとんど変わっていない。
クラブのオーナー。
この途方もない物語を始めた男。
ヘイルが近づくと、アル=ラシードは両腕を広げた。
「約束を覚えているかね?」
「どの約束です?」
「ひどいな。私は一つしかしていないつもりだ」
「あなたは、ずいぶん多くのことを約束しましたよ」
「では、一番大きなものだ」
ヘイルは少し考えた。
それから笑った。
「世界で知られるクラブにする、でしたか」
「そうだ」
アル=ラシードは観客席を見上げた。
赤い旗が揺れている。
そこにはブリストルから来た人々だけではなく、世界中から集まったサポーターがいた。
「どうだね」
「達成しましたね」
「君のおかげだ」
「選手たちのおかげです」
「君は昔からそう言う」
「あなたも昔から、自分の功績を大きく見積もる」
アル=ラシードは声を上げて笑った。
「それくらいの権利はあるだろう。私はこのクラブを買ったんだぞ」
「ええ」
ヘイルは、九年前の夏を思い出した。
あのとき、自分は三十四歳だった。
トップチームの監督経験は一度もなく、プレミアリーグのクラブから声をかけられたこともなかった。
そんな男に、アル=ラシードは仕事を与えた。
理由は今でも、完全には分からない。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
あの男には、最初から途方もない計画があった。
そして、それを実現するための資金も。
ヘイルは表彰台へ向かう選手たちを見送った。
九年前。
すべては、イングランド南西部の一つの街から始まった。
*
二〇二五年六月。
ブリストルは、フットボールだけで説明できる街ではない。
エイヴォン川に架かる橋を渡れば、古い倉庫を改装した店が並び、その向こうには新しいオフィスビルが建っている。港町として発展した歴史は街の至るところに残っているが、そこに暮らす人々が過去ばかりを見ているわけではなかった。
大学があり、企業があり、音楽があり、芸術がある。
休日には観光客が街を歩き、夜になればパブの前に人が集まる。
古いものを大切にしながら、新しいものを受け入れる。
それがブリストルという街だった。
ただし、フットボールについては少々事情が違った。
ブリストル・アスレティックFC。
赤と白を身にまとうこのクラブは、長い歴史を持ちながら、イングランドの頂点からは遠ざかっていた。
本拠地レッドクリフ・グラウンドは、決して豪華なスタジアムではない。
収容人数は約二万七千人。近代化された設備と、昔ながらの窮屈な通路が同居している。売店にはいつも行列ができ、試合終了後の出口はひどく混雑する。
それでも、長年通うサポーターたちにとっては特別な場所だった。
祖父に連れられて初めて訪れた試合。
父親と口論しながら帰った敗戦。
知らない隣席の男と抱き合った劇的な逆転勝利。
そこには、勝敗とは別のものが積み重なっていた。
だが、思い出だけでプレミアリーグには上がれない。
クラブは近年、チャンピオンシップの中位を行き来していた。
優れた選手がいないわけではない。育成組織から有望な若手も出てくる。指導者たちも努力している。
しかし、上位クラブとの差は簡単には埋まらなかった。
良い選手を育てれば、より豊かなクラブが買いに来る。
補強に成功しても、次の夏には主力が抜ける。
昇格を目指して投資を増やせば、失敗したときの財政的な負担が重くなる。
プレミアリーグへ昇格したクラブが巨額の放映権収入を得る一方、そこへ届かないクラブは限られた収入で戦い続ける。
その格差は、順位表に書かれた数字以上に大きかった。
六月十七日。
そんなクラブに、一つのニュースが届いた。
ブリストル・アスレティックFCが、海外投資家グループへの経営権譲渡について基本合意に達したという。
買収を主導するのは、ナディーム・アル=ラシード。
六十二歳。
湾岸地域を拠点に、物流、インフラ、不動産、ホテル事業などを展開する実業家だった。
その名前を聞いてすぐに顔を思い浮かべられる英国人は、それほど多くなかった。
しかし、彼が関わる事業を調べれば、話は違った。
港湾施設。
物流拠点。
商業不動産。
欧州各地のホテル。
いくつもの会社を通じて、相当な規模の資産を動かしている人物だった。
もっとも、個人資産の正確な額を知る者は少ない。
経済誌に掲載される推計も、保有企業の評価方法によって大きく変わる。
それでも、少なくとも一つのことは分かった。
普通のフットボールクラブのオーナーとは、資金力の桁が違う可能性がある。
ブリストル・クロニクルの編集部では、そのニュースを巡って朝から議論が続いていた。
「また外国の金持ちですか」
若い記者が言った。
「また、というほどブリストルには来ていないだろう」
そう返したのは、トーマス・ウェインだった。
五十代半ば。
二十年以上にわたってブリストルのフットボールを取材してきた地元記者である。
クラブが昇格を逃した夜も、監督が解任された朝も、経営陣が財政改善を訴えた記者会見も、彼は現場にいた。
若い記者はパソコンの画面を見た。
「でも、良い話じゃないですか。これだけ資金力のある人なら、補強だってできます」
「できるだろうな」
「スタジアムも改修できる」
「それもできる」
「だったら何が問題なんです?」
ウェインはコーヒーカップを置いた。
「何を買ったつもりなのか、まだ分からん」
「クラブでしょう?」
「本当にそれだけか?」
若い記者は首をかしげた。
ウェインは、買収を発表した投資グループの事業一覧を開いた。
「この男は物流と不動産で大きくなった。ブリストルは港があり、交通網があり、大学があり、成長している街だ」
「それが?」
「フットボールクラブは街の顔になる。海外の人間に、街の名前を覚えさせるには便利だ」
「悪いことじゃないでしょう」
「悪いこととは言っていない」
ウェインは画面を閉じた。
「だから取材するんだ。良いことか悪いことか、まだ分からないからな」
その日の午後、クラブの公式発表が出ると、サポーターたちは一斉に反応した。
歓迎する者もいた。
警戒する者もいた。
大金持ちが来たところで、ピッチに立つのは十一人だと冷めたことを言う者もいた。
それでも、パブで交わされる会話の中心は、ほとんど同じだった。
「いくら使えるんだ?」
「誰を買うんだ?」
「監督はどうする?」
フットボールクラブの買収が決まったとき、人々が最初に気にするのは、大抵そういうことだった。
*
買収が正式に完了したのは、六月の終わりだった。
レッドクリフ・グラウンドの記者会見室には、普段よりはるかに多くの報道陣が詰めかけた。
地元紙だけではない。
全国紙。
経済メディア。
スポーツ専門チャンネル。
湾岸地域から訪れた記者もいた。
アル=ラシードは濃紺のスーツを着て現れた。
胸元には、まだ新品らしいクラブのピンバッジがついていた。
その隣に座ったのは、マーティン・コール。
新たにスポーツディレクターへ就任した男だった。
四十代後半。
選手の発掘、契約交渉、クラブ間の調整に長く携わってきた人物である。
現役時代に華々しい実績があったわけではない。
テレビの解説席で見かける顔でもない。
だが、移籍市場で働く人間の間では、面倒な交渉相手として知られていた。
要求は細かい。
譲歩は遅い。
そして、契約書の文言を最後まで確認する。
それがコールの評判だった。
アル=ラシードは、用意された声明を読み上げた。
クラブの歴史を尊重すること。
地域社会との関係を大切にすること。
育成組織と施設への投資を進めること。
そして、長期的な成功を目指すこと。
ここまでは、珍しい内容ではなかった。
新しいオーナーの会見では、ほとんど決まり文句のように使われる言葉である。
だが、アル=ラシードは原稿を閉じた後、会場を見渡して言った。
「私は、このクラブを英国で知られるクラブにしたいのではありません」
記者たちの手が止まった。
「世界で知られるクラブにしたいのです」
少しの沈黙があった。
それから、カメラのシャッター音が響いた。
「ブリストルという街には、世界に知られる価値があります。このクラブもまた、その価値を持つべきだと私は考えています」
前列の記者が手を挙げた。
「具体的には、プレミアリーグへの昇格が目標ということでしょうか」
「当然、重要な目標です」
「いつまでに?」
「できる限り早く」
「来シーズンですか?」
「それが実現するなら、素晴らしいことです」
曖昧な答えだった。
記者は追及しようとしたが、別の手が挙がった。
トーマス・ウェインだった。
「ブリストル・クロニクルのウェインです」
アル=ラシードはうなずいた。
「どうぞ」
「あなたの投資グループは、フットボール以外にも複数の事業を手がけています。今回の買収は、ブリストル周辺での不動産開発や商業投資と関係していますか?」
「私たちは、都市の成長とスポーツの発展には相乗効果があると考えています」
「それは、関係があるという意味ですか?」
「将来、地域にとって有益な事業機会があれば検討するでしょう。しかし、クラブの競争力を高めることが第一です」
「競争力を高めるために、地域の何かを犠牲にする可能性は?」
会場が静かになった。
アル=ラシードはウェインを見た。
「例えば?」
「チケット価格です。スタジアム周辺の土地利用です。昔からこのクラブを支えてきた人々が、同じように通い続けられるのか」
アル=ラシードは少し考えた。
「私は、成功したクラブが地域から切り離されるべきだとは思いません」
「では、価格を据え置くと約束できますか?」
「将来のあらゆる価格について、今日ここで約束するのは無責任でしょう」
ウェインは表情を変えなかった。
「なるほど」
「ですが、一つ約束できます」
アル=ラシードは続けた。
「このクラブを、今よりも大きな存在にします」
ウェインはメモを取った。
その約束が、誰にとっての大きさを意味するのか。
それは、まだ分からなかった。
*
記者会見の終了後、コールはオーナーと二人きりになった。
会議室には、片づけられていない水のボトルと資料が残っている。
アル=ラシードは窓際に立ち、スタジアムを見下ろしていた。
「どうだった?」
「会見ですか?」
「そうだ」
「悪くありません」
「ずいぶん控えめな評価だ」
「記者に気に入られるためにクラブを買ったわけではないでしょう」
アル=ラシードは笑った。
「君は私に厳しいな」
「仕事ですから」
「それで、監督は?」
コールは椅子に座った。
「候補者は何人かいます。チャンピオンシップで実績のある監督も、プレミアリーグでコーチを務めていた人間も」
「例の若い男は?」
コールの表情が曇った。
「本気ですか?」
「私は冗談でクラブを買わない」
「エドワード・ヘイルには、トップチームの監督経験がありません」
「知っている」
「チャンピオンシップで指揮を執ったこともない」
「それも知っている」
「プロクラブの監督として、試合中の交代を決めた経験すらないんですよ」
「だが、選手を見る目がある」
「分析官としては、です」
アル=ラシードは振り返った。
「君が最初に彼の名前を挙げたのだろう?」
コールは口を閉じた。
確かに、ヘイルの名前を候補者リストに加えたのは自分だった。
ただし、それは監督候補としてではない。
育成部門と分析部門を統括できる人材を探していたとき、知人から紹介された名前だった。
彼の作成した若手選手の評価資料は、コールの興味を引いた。
年齢別の成長曲線。
試合出場時間と負荷管理。
ポジション変更によるパフォーマンスの変化。
特に印象的だったのは、選手の現在の能力と将来の可能性を、明確に分けて評価していたことだった。
優れた十七歳が、必ずしも優れた二十三歳になるとは限らない。
逆に、十七歳で目立たない選手が、二十三歳で一流になることもある。
当たり前の話だ。
だが、クラブの補強会議では、その当たり前がしばしば忘れられる。
ヘイルの資料は、その危うさを執拗なほど指摘していた。
「優秀な分析官です」
コールは言った。
「監督とは別の仕事です」
「監督に必要なものは何だね?」
「選手の管理、戦術、試合中の判断、スタッフの統率、メディア対応。それに、負けたときに責任を負う覚悟です」
「では、その男に聞いてみよう」
「何を?」
「自分にできると思うかどうかを」
コールは深いため息をついた。
「それで決めるんですか?」
「まさか」
アル=ラシードは楽しそうに言った。
「君にも見極めてもらう」
*
エドワード・ヘイルが最初の電話を受けたのは、ロンドン郊外にあるスポーツ研究施設だった。
三十四歳。
大学ではスポーツ科学と統計学を学び、その後は育成年代の指導とパフォーマンス分析に携わってきた。
華々しい選手経歴はない。
有名クラブの監督を務めたこともない。
ただ、選手の成長について考える時間だけは、人より長かった。
ヘイルは、才能という言葉をあまり信用していなかった。
もちろん、才能が存在しないと思っているわけではない。
十代の選手たちを見ていれば、身体能力にも技術にも、明らかな差があることは分かる。
しかし、十七歳の時点で優れていることと、二十五歳で優れていることは同じではない。
その間には、何千時間もの練習がある。
試合に出られるかどうかという問題がある。
怪我もある。
指導者との相性もある。
生活環境もある。
そして、本人の選択がある。
ヘイルは、そのすべてを含めて選手を評価したかった。
だからこそ、現場での指導と分析の仕事を行き来してきた。
だが、トップチームの監督になることについては、慎重だった。
勝利を求められる場所では、選手の将来よりも次の土曜日が優先される。
それが悪いことだとは思わない。
プロフットボールは、勝たなければ成立しない仕事だからだ。
ただ、自分の考えを実践できる環境があるのかどうか。
その確信を持てずにいた。
電話の相手は、マーティン・コールと名乗った。
「ブリストル・アスレティックのスポーツディレクターだ」
「存じています」
「少し話をしたい」
「分析部門の件でしょうか」
「いや」
短い沈黙があった。
「監督の件だ」
ヘイルは手元のペンを止めた。
「……監督?」
「そうだ」
「トップチームの?」
「他にどこの監督がいる」
「育成年代かと」
「トップチームだ」
ヘイルは少し考えた。
「間違い電話ではありませんか?」
「私もそう思いたいところだ」
コールの声には、冗談めいた響きがなかった。
「一度、ブリストルに来てくれ」
「私の経歴は確認されていますか?」
「確認したから電話している」
「監督経験がありません」
「知っている」
「それでも?」
「それでもだ」
ヘイルは窓の外を見た。
練習場では、若い選手たちが小さなゴールを使ってトレーニングをしていた。
「分かりました」
そう答えたとき、彼はまだ、何を引き受けることになるのか理解していなかった。
*
面談の日、ヘイルは予定より四十分早くブリストルに到着した。
時間があったので、クラブの周辺を歩いた。
レッドクリフ・グラウンドの外壁には、過去の名場面を写した大きな写真が掲げられていた。
古いユニフォーム。
満員のスタンド。
昇格を喜ぶ選手たち。
ヘイルは、その一つの前で足を止めた。
写真の中の選手たちは、誰もが心から笑っていた。
当たり前だ。
昇格した瞬間の写真なのだから。
しかし、ヘイルが考えたのは別のことだった。
この写真の中にいる選手のうち、何人が次のシーズンも主力だったのだろう。
何人が上のカテゴリーで通用したのだろう。
何人が、新しい選手の加入によって居場所を失ったのだろう。
昇格は成功だ。
だが、クラブが成功すればするほど、そこにいる全員が幸福になるとは限らない。
「ヘイルさんですか?」
声をかけられた。
振り返ると、クラブの職員らしい女性が立っていた。
「そうです」
「お迎えに来ました。少し早いですね」
「道が混むと思っていたので」
「今日は空いていました?」
「ええ。思ったより」
女性は笑った。
「では、ご案内します」
ヘイルはもう一度、壁の写真を見た。
それから、スタジアムの中へ入った。
*
会議室には、コールとアル=ラシードが待っていた。
「エドワード・ヘイルです」
ヘイルが手を差し出すと、アル=ラシードは立ち上がって握手した。
「ナディーム・アル=ラシードだ。来てくれてありがとう」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
「街はどうだった?」
「少し歩きました」
「気に入ったかね?」
「まだ判断するには早いですが、良い街だと思います」
アル=ラシードは笑った。
「君は何でも慎重に判断するのだな」
「そういう仕事をしてきましたので」
三人が席に着くと、コールが資料を配った。
クラブの現状。
選手の年齢構成。
契約満了が近い選手。
財務状況。
過去数シーズンの成績。
ヘイルは一枚ずつ目を通した。
「率直に聞こう」
アル=ラシードが言った。
「君は監督になりたいか?」
「はい」
「なぜ、今までならなかった?」
「適切な機会がなかったからです」
「このクラブなら適切だと思うか?」
「まだ分かりません」
コールが顔を上げた。
アル=ラシードは、むしろ楽しそうだった。
「正直だな」
「判断材料が足りません」
「何が必要だ?」
ヘイルは資料を机に置いた。
「まず、クラブが何を目指しているのかです」
「プレミアリーグへの昇格だ」
「それは目標の一つでしょう」
「ほう」
「昇格した後は?」
アル=ラシードは笑みを深くした。
「残留する」
「その後は?」
「上位を目指す」
「その後は?」
コールが口を挟んだ。
「君は、どこまで聞くつもりだ?」
「どこまで考えているのか、知りたいんです」
アル=ラシードは椅子に深く座った。
「では、答えよう」
少しの間があった。
「世界一だ」
ヘイルは黙っていた。
「驚かないのかね?」
「驚いています」
「そうは見えない」
「顔に出にくいので」
アル=ラシードは声を上げて笑った。
「世界一だぞ。イングランド二部のクラブが」
「はい」
「馬鹿げていると思わないか?」
「目標としては、別に」
「ほう?」
「ただ、目標と計画は違います」
アル=ラシードの笑みが止まった。
ヘイルは続けた。
「世界一になりたいというクラブは、いくらでもあります。問題は、そのために何をするかです」
「君ならどうする?」
「まず、勝てるチームを作ります」
「当然だな」
「ただし、来年だけ勝てるチームではありません」
ヘイルは資料の中から、選手の年齢構成を示したページを取り出した。
「チャンピオンシップからプレミアリーグへ上がるために、経験豊富な選手を集める方法はあります。短期的には合理的です」
コールがうなずいた。
「実際、そういうクラブは多い」
「しかし、昇格した後には別の問題が起きます。プレミアリーグで戦うために、もう一度チームを作り直さなければならない」
「それは避けられないこともある」
「もちろんです。ただ、最初からその先を見据えることはできます」
ヘイルは言葉を選んだ。
「二部で戦える選手を集めるのではなく、将来、一部の上位で戦える選手を集める。そして、その選手たちを二部で成長させる」
コールは腕を組んだ。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「上位で戦える若手が、なぜ二部に来る?」
「そこが、私たちの仕事になるでしょう」
「移籍金を払えば来ると?」
「いいえ」
ヘイルは首を振った。
「金だけでは来ません」
アル=ラシードが尋ねた。
「では、何が必要だ?」
「理由です」
「理由?」
「その選手が、ここでプレーする理由です」
ヘイルは続けた。
「出場機会かもしれません。戦術的な役割かもしれません。成長できる環境かもしれません。あるいは、自分を必要としていると感じられることかもしれない」
「それを用意すれば、選手は来るのか?」
「全員は来ません」
「それでは困るな」
「全員が来る必要もありません」
アル=ラシードは、しばらくヘイルを見つめていた。
「面白い」
小さく、そう言った。
「だが、私はスターも欲しい」
ヘイルは顔を上げた。
「スターですか」
「そうだ。世界中の人間が名前を知っている選手だ。若く、才能があり、これからの時代を代表するような選手を三人。欲を言えば五人だ」
コールが目を伏せた。
おそらく、この話は初めてではないのだろう。
ヘイルは少し考えた。
「有名な選手を獲得すること自体は、悪いことではありません」
「そうだろう」
「ただし、名前を基準に選ぶなら、私は必要ありません」
会議室が静かになった。
コールがゆっくり顔を上げた。
アル=ラシードはヘイルを見た。
「どういう意味だね?」
「有名な選手を集めたいだけなら、広告代理店に相談した方が早いということです」
コールが小さく咳払いをした。
ヘイルは構わず続けた。
「私は、十一人がどう機能するかを考えたい。そこに有名な選手が入るなら歓迎します。でも、知名度のために戦術を変えるつもりはありません」
アル=ラシードは黙っていた。
数秒。
十数秒。
やがて、笑い始めた。
「君は、私が怖くないのか?」
「怖いですよ」
「そうは見えない」
「ただ、ここで同意しても、後で困るのはお互いでしょう」
アル=ラシードはコールを見た。
「どう思う?」
コールは少し考えた。
「監督として成功するかは分かりません」
「うむ」
「ただ、言っていることは筋が通っています」
「君も随分と慎重だな」
「慎重な人間を呼んだのは、あなたです」
アル=ラシードは再び笑った。
「よろしい。では、君の考えるフットボールを聞こう」
*
ヘイルはホワイトボードの前に立った。
十一個の磁石を並べる。
最終ラインに三人。
その前に四人。
さらに一人。
そして、最前線に二人。
「三―四―一―二です」
コールが言った。
「三バックか」
「はい」
「チャンピオンシップで?」
「チャンピオンシップでも、です」
ヘイルは磁石を動かした。
「守備時には両翼が下がり、五―三―二に近い形を作ります。中央を閉じ、相手を外へ誘導する」
「攻撃では?」
「両翼を高く押し上げます。後方は三人を基本に、中央の二人が攻撃の起点になる。前線には、二人のストライカーと、その背後で仕事をする選手を置く」
「攻撃時は三―二―五か」
「状況によりますが、基本的には」
コールは磁石を見た。
「両翼の負担が大きい」
「ええ」
「中央の二人にも相当な能力が必要だ」
「そうですね」
「後ろの三人は、広い範囲を守らなければならない」
「その通りです」
「ずいぶん贅沢な戦術だな」
「安く済ませる方法も考えます」
「そういう問題じゃない」
ヘイルは少し笑った。
「この形にこだわる理由があります」
「聞こう」
「二人のストライカーを置きたいんです」
アル=ラシードが口を開いた。
「なぜ?」
「相手のセンターバックに、常に二つの問題を与えられるからです」
ヘイルは前線の磁石を指さした。
「一人がボールを受けに下がれば、もう一人が背後を狙える。片方が外へ流れれば、もう片方が中央に残る。相手が三バックなら、それぞれの守備者に違う判断を迫ることもできます」
「一人の優秀なストライカーでは駄目なのか?」
「駄目ではありません。ただ、私が作りたいのは、個人の能力に頼り切らない攻撃です」
「それでも、最後に点を取るのは個人だろう」
「もちろんです」
ヘイルはうなずいた。
「だから、優秀な個人が必要です」
コールが苦笑した。
「結局、高くつくじゃないか」
「そうかもしれません」
「そうかもしれない、じゃない」
「でも、完成された選手を十一人買うよりは、将来性のある選手を見つけて育てる方が、長い目では合理的です」
コールはしばらくホワイトボードを見ていた。
「若手を集めるのはいい。だが、負けが続いたらどうする?」
「修正します」
「戦術を?」
「必要なら」
「選手を?」
「必要なら」
「自分の考えが間違っていたと認められるか?」
ヘイルは即答しなかった。
それから言った。
「間違っていると分かったなら、認めます」
「分からなかったら?」
「分かるまで調べます」
コールは、ようやく小さく笑った。
「分析官らしい答えだ」
「褒め言葉として受け取ります」
「好きにしろ」
*
面談は、予定していた時間を大幅に超えた。
昼食を挟み、クラブの育成方針、練習施設、スカウト体制、既存選手の契約状況について話し合った。
ヘイルは何度も質問した。
監督が練習計画をどこまで決められるのか。
育成年代の選手をトップチームに引き上げる際、誰が最終判断するのか。
移籍候補の選定に、分析部門はどこまで関与するのか。
補強に失敗した場合、既存選手の起用を優先できるのか。
コールは一つずつ答えた。
答えられない質問については、確認すると約束した。
アル=ラシードは、時折口を挟んだ。
その多くは、クラブの将来についてだった。
施設の拡張。
海外での知名度。
国際的なスポンサー。
そして、世界中から選手が集まるクラブにするという構想。
ヘイルは、そのすべてに賛成したわけではなかった。
ただ、少なくともオーナーが何を望んでいるのかは理解できた。
彼は、フットボールクラブを単なる投資商品として見ているわけではない。
かといって、純粋なサポーターとして買収したわけでもない。
ブリストルという街と、クラブの価値を一緒に高めようとしている。
その構想が実現すれば、大きな成功になるかもしれない。
だが、クラブと街の利益がいつも一致するとは限らない。
そこには、いずれ衝突が生まれるだろう。
ヘイルはそう感じた。
もっとも、今の彼には、それより先に考えなければならないことがあった。
本当に、この仕事を引き受けるのか。
*
午後四時を過ぎた頃、コールが最後の資料を取り出した。
「契約条件について話そう」
ヘイルは姿勢を正した。
契約期間は三年。
二〇二八年六月末まで。
基本年俸は百万ポンド。
チャンピオンシップからの昇格を達成した場合、五十万ポンドのボーナス。
プレミアリーグ優勝で百万ポンド。
チャンピオンズリーグ優勝で百五十万ポンド。
ヘイルは最後の二項目を見て、少し眉を上げた。
「これは、必要でしょうか」
コールが答えた。
「何が?」
「プレミアリーグとチャンピオンズリーグの優勝ボーナスです」
「優勝したら払う」
「今は二部ですよね」
「そうだ」
「三年契約ですよね」
「そうだ」
「ずいぶん先の話では」
コールは肩をすくめた。
「払うことになったら、私も喜ぶさ」
アル=ラシードが笑った。
「私は、もっと早く払うことになると思っているがね」
ヘイルは契約書を見つめた。
三年間。
監督経験のない自分に与えられる期間としては、決して短くない。
しかし、クラブを根本から変えるには、十分とも言えない。
それでも、ここまでの条件を提示されて断る理由は、少なくとも待遇面にはなかった。
「一つ、確認したいことがあります」
ヘイルが言った。
「何だね?」
アル=ラシードが尋ねた。
「選手の獲得についてです」
コールが顔を上げた。
「続けてくれ」
「補強候補の選定と、戦術的な適合性の判断には、私とマーティンが責任を持ちたいと思っています」
「当然だろう」
アル=ラシードが言った。
「ただし、最終的な承認権はクラブにある」
「それは理解しています」
「では、問題ないな」
「もう一つあります」
ヘイルは続けた。
「知名度を理由に、選手の獲得を決めないことです」
アル=ラシードは、ゆっくりとヘイルを見た。
「まだ、その話をするのかね」
「重要なので」
「私はスターが欲しいと言った」
「はい」
「君は、スターが嫌いなのか?」
「好きですよ」
ヘイルは答えた。
「ただ、使い道のないスター選手は嫌いです」
コールは思わず顔を上げた。
その言い方は、少しばかり危険だった。
相手は、このクラブを買ったばかりの大富豪である。
しかも、目の前の若い男は、まだ契約書に署名すらしていない。
だが、アル=ラシードは怒らなかった。
むしろ、面白そうに笑った。
「君は本当に、私に遠慮しないな」
「今のうちに確認しておいた方がいいと思いまして」
「監督になった後では遅いと?」
「お互いに」
コールは口元を押さえた。
笑いをこらえるためだった。
アル=ラシードはしばらく考えた。
それから、コールへ目を向けた。
「マーティン。君はどう思う?」
「補強方針については、監督と私が主導するのが合理的です」
「有名な選手は?」
「戦術に合えば、もちろん獲得します」
「合わなければ?」
「別の選手を探します」
アル=ラシードは二人を交互に見た。
「二人とも、私の金を使う立場なのに、随分と強気だな」
「だからこそです」
コールが答えた。
「無駄にはできません」
会議室に、少しの沈黙が落ちた。
やがて、アル=ラシードはうなずいた。
「いいだろう」
ヘイルは顔を上げた。
「補強候補は君たちが選ぶ。交渉はマーティンが進める。最終的な承認はクラブが行う。私は、君たちが必要だと言う選手に金を出す」
「ありがとうございます」
「ただし」
アル=ラシードは人差し指を立てた。
「結果は求める」
「もちろんです」
「昇格だ」
「はい」
「そして、その先も」
ヘイルは少し笑った。
「そこまで考えて、引き受けます」
コールが契約書を差し出した。
「では、署名を」
ヘイルはペンを取った。
一度、契約書の最初のページを見た。
クラブの名前。
自分の名前。
契約期間。
そして、監督という役職。
それは、長い間、自分には縁のないものだと思っていた言葉だった。
ヘイルは署名した。
アル=ラシードが立ち上がり、手を差し出した。
「ようこそ、ブリストルへ」
「よろしくお願いします」
二人は握手した。
こうして、エドワード・ヘイルはブリストル・アスレティックFCの監督になった。
三十四歳。
トップチームの監督経験なし。
チャンピオンシップでの指揮経験なし。
それでも、世界一を目指すクラブの未来を託された。
その日の夜、監督就任のニュースが公表されると、サポーターたちは困惑した。
誰だ。
どこから連れてきた。
実績はあるのか。
本当に大丈夫なのか。
歓迎の声がなかったわけではない。
だが、少なくとも熱狂的な歓迎ではなかった。
地元紙のトーマス・ウェインは、就任発表を読みながら小さく首を振った。
「随分と思い切ったな」
机の上には、買収会見でのメモが残っていた。
世界で知られるクラブにする。
そう約束したオーナーが、最初に選んだ監督は、誰も知らない男だった。
ウェインは、その矛盾を記事の書き出しに使うことにした。
*
ヘイルが帰った後も、コールは会議室に残っていた。
机には、署名を終えた契約書の控えと、面談で使った資料が置かれている。
アル=ラシードは窓際に立ち、夕暮れのスタジアムを眺めていた。
「どう思う?」
オーナーが尋ねた。
「ヘイルですか?」
「そうだ」
コールは少し考えた。
「変わった男です」
「気に入らなかったか?」
「そういうわけではありません」
「では?」
「成功するかどうか、分かりません」
アル=ラシードは笑った。
「正直だな」
「ただ、少なくとも自分の考えを持っています」
「それは重要だ」
「ええ」
コールは資料をまとめ始めた。
「それにしても、ずいぶん大きな仕事になりました」
「まだ始まってもいない」
「だからです」
コールは言った。
「新しい監督を迎え、スカウト体制を整え、選手の契約を見直す。育成部門にも投資する。施設も改修する。やることはいくらでもあります」
「頼りにしているよ」
「それは結構ですが」
コールは手を止めた。
「補強について、一つ確認しておきたいことがあります」
「何だね?」
「具体的に、いくら使えるんです?」
アル=ラシードは振り返った。
「まだ見せていなかったか?」
「五年間の投資計画は拝見しました。ただ、初年度の補強予算については、最終的な数字をいただいていません」
「そうだったな」
アル=ラシードは机の端に置かれた封筒を取った。
「これだ」
コールは受け取った。
中には、数枚の紙が入っていた。
初年度の投資計画。
選手獲得費用。
契約関連費用。
そして、資金の拠出予定。
コールは一枚目を読んだ。
次に、二枚目。
それから、もう一度一枚目に戻った。
「……ナディーム」
「何だね?」
「これは、単位がポンドですか?」
「もちろん」
「桁を間違えているということは?」
「ない」
コールは数字を見つめた。
移籍市場には長く関わってきた。
金のあるクラブも、ないクラブも知っている。
見栄を張るオーナーも、予算を出し渋る経営者も見てきた。
移籍金を分割払いにしなければ選手を獲れないクラブもあれば、数千万ポンドの投資を平然と決めるクラブもある。
だからこそ、目の前の数字が何を意味するのかは分かった。
「本当に、この額を?」
「必要なら」
「初年度から?」
「そうだ」
「二部リーグのクラブですよ」
「知っている」
「収益との釣り合いは?」
「適用される財務規則の範囲で、資金の拠出方法も含めて専門家に確認させている。使える額と、今すぐ使うべき額は別だ。その判断は君たちに任せる」
コールは、もう一度資料に目を落とした。
無論、これだけの資金があれば何でもできるわけではない。
所属クラブが売却を拒めば、選手は獲れない。
選手本人が移籍を望まなければ、交渉は進まない。
給与を上げれば、更衣室の秩序が崩れることもある。
そして、どれほど高額な移籍金を払っても、選手が期待どおりに成長する保証はない。
そんなことは、誰よりもよく分かっていた。
だが。
少なくとも、これまで予算を理由に諦めてきた選手たちについて、もう一度考えることはできそうだった。
コールは封筒を閉じた。
世界一を夢見る富豪。
トップチームを率いたことのない三十四歳の監督。
そして、イングランド二部に所属する、赤いシャツの古いクラブ。
まともな計画には思えなかった。
成功する保証など、どこにもない。
ただ、一つだけ。
どうやら金はあるらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作はFC26の監督キャリアで実際に進めたセーブデータを基にしています。ゲーム内での成績や選手の成長を尊重しつつ、移籍交渉やクラブ経営については現実のサッカー界を参考に再構成していく予定です。
次回から、最初の補強交渉が本格的に動き出します。
実在選手の2025年夏のデータをもとに記載していますが、ミスがあればご指摘いただけますと幸いです。