どうやら金はあるらしい   作:おずわるどー

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本作は『EA SPORTS FC 26』の監督キャリアモードを原案としたフィクションです。

実際のプレイ記録を基に、選手の移籍交渉やクラブ経営、試合の舞台裏を創作しています。実在する選手・クラブの作中での言動や出来事はフィクションです。

物語は2025/26シーズンから始まります。


【2025/26・第01話】赤い街の売却

七度目だった。

 

欧州の頂点に立つのは、これで七度目だった。

 

試合終了の笛が鳴った瞬間、エドワード・ヘイルは動かなかった。

 

周囲では控え選手たちがピッチへ飛び出し、スタッフが互いの肩を抱き、赤いユニフォームの選手たちが芝生に崩れ落ちていた。スタジアムの一角からは、何万人もの声が一つになった歌が響いている。

 

それでもヘイルは、テクニカルエリアの白線の内側に立ったままだった。

 

「ボス!」

 

背後から誰かに抱きつかれた。

 

「七回ですよ! 七回!」

 

「知っている」

 

「七年連続ですよ!」

 

「それも知っている」

 

「だったら、もう少し喜んでください!」

 

ヘイルはようやく振り返った。

 

長年チームを支えてきたコーチが、子供のような顔で笑っていた。

 

「喜んでいるさ」

 

「とてもそうは見えません」

 

「顔に出ないんだ」

 

「初優勝のときは泣いていたでしょう」

 

「余計なことを覚えているな」

 

二人は笑った。

 

二〇三四年五月。

 

ブリストル・アスレティックFCは、UEFAチャンピオンズリーグ七連覇を達成した。

 

それは、もはや奇跡という言葉では説明できない記録だった。

 

最初の優勝は衝撃だった。二度目は偶然ではないことの証明とされた。三度目には王朝と呼ばれ、四度目には他クラブの経営者たちが、その成功を再現する方法について真剣に議論し始めた。

 

五度目になると、欧州の新聞はブリストルを倒せるクラブを探す記事を書いた。

 

六度目には、ブリストルが敗れた場合の見出しを用意していた。

 

そして七度目。

 

試合前のテレビ番組で、ある解説者が言った。

 

「もはや、彼らが優勝しても驚きはありません」

 

ヘイルはその言葉が嫌いだった。

 

驚きがないのなら、なぜ自分たちはこれほど疲れているのだろう。

 

なぜ、試合前には今でも胃が痛くなるのだろう。

 

なぜ、決勝の前夜に眠れない選手がいるのだろう。

 

勝利が当然とされることほど、勝利から遠いものはない。

 

ピッチでは若い選手たちが優勝杯の周囲に集まり始めていた。数年前まで育成組織にいた選手もいる。移籍金の高さを批判されながら加入した選手もいる。かつては誰にも知られていなかった選手もいる。

 

そして、この場所にはもういない選手たちもいた。

 

最初の昇格を支えた選手。

 

出場機会を求めて移籍した選手。

 

クラブの成長についていけなかった選手。

 

クラブの成長を支えたからこそ、去らなければならなかった選手。

 

ヘイルは、その顔を一人ずつ思い浮かべることができた。

 

「エドワード!」

 

遠くから声がした。

 

振り返ると、ナディーム・アル=ラシードが立っていた。

 

かつて黒々としていた髪には白いものが増え、歩く速度も少し遅くなっていた。それでも、満足そうに笑う顔は九年前とほとんど変わっていない。

 

クラブのオーナー。

 

この途方もない物語を始めた男。

 

ヘイルが近づくと、アル=ラシードは両腕を広げた。

 

「約束を覚えているかね?」

 

「どの約束です?」

 

「ひどいな。私は一つしかしていないつもりだ」

 

「あなたは、ずいぶん多くのことを約束しましたよ」

 

「では、一番大きなものだ」

 

ヘイルは少し考えた。

 

それから笑った。

 

「世界で知られるクラブにする、でしたか」

 

「そうだ」

 

アル=ラシードは観客席を見上げた。

 

赤い旗が揺れている。

 

そこにはブリストルから来た人々だけではなく、世界中から集まったサポーターがいた。

 

「どうだね」

 

「達成しましたね」

 

「君のおかげだ」

 

「選手たちのおかげです」

 

「君は昔からそう言う」

 

「あなたも昔から、自分の功績を大きく見積もる」

 

アル=ラシードは声を上げて笑った。

 

「それくらいの権利はあるだろう。私はこのクラブを買ったんだぞ」

 

「ええ」

 

ヘイルは、九年前の夏を思い出した。

 

あのとき、自分は三十四歳だった。

 

トップチームの監督経験は一度もなく、プレミアリーグのクラブから声をかけられたこともなかった。

 

そんな男に、アル=ラシードは仕事を与えた。

 

理由は今でも、完全には分からない。

 

ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 

あの男には、最初から途方もない計画があった。

 

そして、それを実現するための資金も。

 

ヘイルは表彰台へ向かう選手たちを見送った。

 

九年前。

 

すべては、イングランド南西部の一つの街から始まった。

 

*

 

二〇二五年六月。

 

ブリストルは、フットボールだけで説明できる街ではない。

 

エイヴォン川に架かる橋を渡れば、古い倉庫を改装した店が並び、その向こうには新しいオフィスビルが建っている。港町として発展した歴史は街の至るところに残っているが、そこに暮らす人々が過去ばかりを見ているわけではなかった。

 

大学があり、企業があり、音楽があり、芸術がある。

 

休日には観光客が街を歩き、夜になればパブの前に人が集まる。

 

古いものを大切にしながら、新しいものを受け入れる。

 

それがブリストルという街だった。

 

ただし、フットボールについては少々事情が違った。

 

ブリストル・アスレティックFC。

 

赤と白を身にまとうこのクラブは、長い歴史を持ちながら、イングランドの頂点からは遠ざかっていた。

 

本拠地レッドクリフ・グラウンドは、決して豪華なスタジアムではない。

 

収容人数は約二万七千人。近代化された設備と、昔ながらの窮屈な通路が同居している。売店にはいつも行列ができ、試合終了後の出口はひどく混雑する。

 

それでも、長年通うサポーターたちにとっては特別な場所だった。

 

祖父に連れられて初めて訪れた試合。

 

父親と口論しながら帰った敗戦。

 

知らない隣席の男と抱き合った劇的な逆転勝利。

 

そこには、勝敗とは別のものが積み重なっていた。

 

だが、思い出だけでプレミアリーグには上がれない。

 

クラブは近年、チャンピオンシップの中位を行き来していた。

 

優れた選手がいないわけではない。育成組織から有望な若手も出てくる。指導者たちも努力している。

 

しかし、上位クラブとの差は簡単には埋まらなかった。

 

良い選手を育てれば、より豊かなクラブが買いに来る。

 

補強に成功しても、次の夏には主力が抜ける。

 

昇格を目指して投資を増やせば、失敗したときの財政的な負担が重くなる。

 

プレミアリーグへ昇格したクラブが巨額の放映権収入を得る一方、そこへ届かないクラブは限られた収入で戦い続ける。

 

その格差は、順位表に書かれた数字以上に大きかった。

 

六月十七日。

 

そんなクラブに、一つのニュースが届いた。

 

ブリストル・アスレティックFCが、海外投資家グループへの経営権譲渡について基本合意に達したという。

 

買収を主導するのは、ナディーム・アル=ラシード。

 

六十二歳。

 

湾岸地域を拠点に、物流、インフラ、不動産、ホテル事業などを展開する実業家だった。

 

その名前を聞いてすぐに顔を思い浮かべられる英国人は、それほど多くなかった。

 

しかし、彼が関わる事業を調べれば、話は違った。

 

港湾施設。

 

物流拠点。

 

商業不動産。

 

欧州各地のホテル。

 

いくつもの会社を通じて、相当な規模の資産を動かしている人物だった。

 

もっとも、個人資産の正確な額を知る者は少ない。

 

経済誌に掲載される推計も、保有企業の評価方法によって大きく変わる。

 

それでも、少なくとも一つのことは分かった。

 

普通のフットボールクラブのオーナーとは、資金力の桁が違う可能性がある。

 

ブリストル・クロニクルの編集部では、そのニュースを巡って朝から議論が続いていた。

 

「また外国の金持ちですか」

 

若い記者が言った。

 

「また、というほどブリストルには来ていないだろう」

 

そう返したのは、トーマス・ウェインだった。

 

五十代半ば。

 

二十年以上にわたってブリストルのフットボールを取材してきた地元記者である。

 

クラブが昇格を逃した夜も、監督が解任された朝も、経営陣が財政改善を訴えた記者会見も、彼は現場にいた。

 

若い記者はパソコンの画面を見た。

 

「でも、良い話じゃないですか。これだけ資金力のある人なら、補強だってできます」

 

「できるだろうな」

 

「スタジアムも改修できる」

 

「それもできる」

 

「だったら何が問題なんです?」

 

ウェインはコーヒーカップを置いた。

 

「何を買ったつもりなのか、まだ分からん」

 

「クラブでしょう?」

 

「本当にそれだけか?」

 

若い記者は首をかしげた。

 

ウェインは、買収を発表した投資グループの事業一覧を開いた。

 

「この男は物流と不動産で大きくなった。ブリストルは港があり、交通網があり、大学があり、成長している街だ」

 

「それが?」

 

「フットボールクラブは街の顔になる。海外の人間に、街の名前を覚えさせるには便利だ」

 

「悪いことじゃないでしょう」

 

「悪いこととは言っていない」

 

ウェインは画面を閉じた。

 

「だから取材するんだ。良いことか悪いことか、まだ分からないからな」

 

その日の午後、クラブの公式発表が出ると、サポーターたちは一斉に反応した。

 

歓迎する者もいた。

 

警戒する者もいた。

 

大金持ちが来たところで、ピッチに立つのは十一人だと冷めたことを言う者もいた。

 

それでも、パブで交わされる会話の中心は、ほとんど同じだった。

 

「いくら使えるんだ?」

 

「誰を買うんだ?」

 

「監督はどうする?」

 

フットボールクラブの買収が決まったとき、人々が最初に気にするのは、大抵そういうことだった。

 

*

 

買収が正式に完了したのは、六月の終わりだった。

 

レッドクリフ・グラウンドの記者会見室には、普段よりはるかに多くの報道陣が詰めかけた。

 

地元紙だけではない。

 

全国紙。

 

経済メディア。

 

スポーツ専門チャンネル。

 

湾岸地域から訪れた記者もいた。

 

アル=ラシードは濃紺のスーツを着て現れた。

 

胸元には、まだ新品らしいクラブのピンバッジがついていた。

 

その隣に座ったのは、マーティン・コール。

 

新たにスポーツディレクターへ就任した男だった。

 

四十代後半。

 

選手の発掘、契約交渉、クラブ間の調整に長く携わってきた人物である。

 

現役時代に華々しい実績があったわけではない。

 

テレビの解説席で見かける顔でもない。

 

だが、移籍市場で働く人間の間では、面倒な交渉相手として知られていた。

 

要求は細かい。

 

譲歩は遅い。

 

そして、契約書の文言を最後まで確認する。

 

それがコールの評判だった。

 

アル=ラシードは、用意された声明を読み上げた。

 

クラブの歴史を尊重すること。

 

地域社会との関係を大切にすること。

 

育成組織と施設への投資を進めること。

 

そして、長期的な成功を目指すこと。

 

ここまでは、珍しい内容ではなかった。

 

新しいオーナーの会見では、ほとんど決まり文句のように使われる言葉である。

 

だが、アル=ラシードは原稿を閉じた後、会場を見渡して言った。

 

「私は、このクラブを英国で知られるクラブにしたいのではありません」

 

記者たちの手が止まった。

 

「世界で知られるクラブにしたいのです」

 

少しの沈黙があった。

 

それから、カメラのシャッター音が響いた。

 

「ブリストルという街には、世界に知られる価値があります。このクラブもまた、その価値を持つべきだと私は考えています」

 

前列の記者が手を挙げた。

 

「具体的には、プレミアリーグへの昇格が目標ということでしょうか」

 

「当然、重要な目標です」

 

「いつまでに?」

 

「できる限り早く」

 

「来シーズンですか?」

 

「それが実現するなら、素晴らしいことです」

 

曖昧な答えだった。

 

記者は追及しようとしたが、別の手が挙がった。

 

トーマス・ウェインだった。

 

「ブリストル・クロニクルのウェインです」

 

アル=ラシードはうなずいた。

 

「どうぞ」

 

「あなたの投資グループは、フットボール以外にも複数の事業を手がけています。今回の買収は、ブリストル周辺での不動産開発や商業投資と関係していますか?」

 

「私たちは、都市の成長とスポーツの発展には相乗効果があると考えています」

 

「それは、関係があるという意味ですか?」

 

「将来、地域にとって有益な事業機会があれば検討するでしょう。しかし、クラブの競争力を高めることが第一です」

 

「競争力を高めるために、地域の何かを犠牲にする可能性は?」

 

会場が静かになった。

 

アル=ラシードはウェインを見た。

 

「例えば?」

 

「チケット価格です。スタジアム周辺の土地利用です。昔からこのクラブを支えてきた人々が、同じように通い続けられるのか」

 

アル=ラシードは少し考えた。

 

「私は、成功したクラブが地域から切り離されるべきだとは思いません」

 

「では、価格を据え置くと約束できますか?」

 

「将来のあらゆる価格について、今日ここで約束するのは無責任でしょう」

 

ウェインは表情を変えなかった。

 

「なるほど」

 

「ですが、一つ約束できます」

 

アル=ラシードは続けた。

 

「このクラブを、今よりも大きな存在にします」

 

ウェインはメモを取った。

 

その約束が、誰にとっての大きさを意味するのか。

 

それは、まだ分からなかった。

 

*

 

記者会見の終了後、コールはオーナーと二人きりになった。

 

会議室には、片づけられていない水のボトルと資料が残っている。

 

アル=ラシードは窓際に立ち、スタジアムを見下ろしていた。

 

「どうだった?」

 

「会見ですか?」

 

「そうだ」

 

「悪くありません」

 

「ずいぶん控えめな評価だ」

 

「記者に気に入られるためにクラブを買ったわけではないでしょう」

 

アル=ラシードは笑った。

 

「君は私に厳しいな」

 

「仕事ですから」

 

「それで、監督は?」

 

コールは椅子に座った。

 

「候補者は何人かいます。チャンピオンシップで実績のある監督も、プレミアリーグでコーチを務めていた人間も」

 

「例の若い男は?」

 

コールの表情が曇った。

 

「本気ですか?」

 

「私は冗談でクラブを買わない」

 

「エドワード・ヘイルには、トップチームの監督経験がありません」

 

「知っている」

 

「チャンピオンシップで指揮を執ったこともない」

 

「それも知っている」

 

「プロクラブの監督として、試合中の交代を決めた経験すらないんですよ」

 

「だが、選手を見る目がある」

 

「分析官としては、です」

 

アル=ラシードは振り返った。

 

「君が最初に彼の名前を挙げたのだろう?」

 

コールは口を閉じた。

 

確かに、ヘイルの名前を候補者リストに加えたのは自分だった。

 

ただし、それは監督候補としてではない。

 

育成部門と分析部門を統括できる人材を探していたとき、知人から紹介された名前だった。

 

彼の作成した若手選手の評価資料は、コールの興味を引いた。

 

年齢別の成長曲線。

 

試合出場時間と負荷管理。

 

ポジション変更によるパフォーマンスの変化。

 

特に印象的だったのは、選手の現在の能力と将来の可能性を、明確に分けて評価していたことだった。

 

優れた十七歳が、必ずしも優れた二十三歳になるとは限らない。

 

逆に、十七歳で目立たない選手が、二十三歳で一流になることもある。

 

当たり前の話だ。

 

だが、クラブの補強会議では、その当たり前がしばしば忘れられる。

 

ヘイルの資料は、その危うさを執拗なほど指摘していた。

 

「優秀な分析官です」

 

コールは言った。

 

「監督とは別の仕事です」

 

「監督に必要なものは何だね?」

 

「選手の管理、戦術、試合中の判断、スタッフの統率、メディア対応。それに、負けたときに責任を負う覚悟です」

 

「では、その男に聞いてみよう」

 

「何を?」

 

「自分にできると思うかどうかを」

 

コールは深いため息をついた。

 

「それで決めるんですか?」

 

「まさか」

 

アル=ラシードは楽しそうに言った。

 

「君にも見極めてもらう」

 

*

 

エドワード・ヘイルが最初の電話を受けたのは、ロンドン郊外にあるスポーツ研究施設だった。

 

三十四歳。

 

大学ではスポーツ科学と統計学を学び、その後は育成年代の指導とパフォーマンス分析に携わってきた。

 

華々しい選手経歴はない。

 

有名クラブの監督を務めたこともない。

 

ただ、選手の成長について考える時間だけは、人より長かった。

 

ヘイルは、才能という言葉をあまり信用していなかった。

 

もちろん、才能が存在しないと思っているわけではない。

 

十代の選手たちを見ていれば、身体能力にも技術にも、明らかな差があることは分かる。

 

しかし、十七歳の時点で優れていることと、二十五歳で優れていることは同じではない。

 

その間には、何千時間もの練習がある。

 

試合に出られるかどうかという問題がある。

 

怪我もある。

 

指導者との相性もある。

 

生活環境もある。

 

そして、本人の選択がある。

 

ヘイルは、そのすべてを含めて選手を評価したかった。

 

だからこそ、現場での指導と分析の仕事を行き来してきた。

 

だが、トップチームの監督になることについては、慎重だった。

 

勝利を求められる場所では、選手の将来よりも次の土曜日が優先される。

 

それが悪いことだとは思わない。

 

プロフットボールは、勝たなければ成立しない仕事だからだ。

 

ただ、自分の考えを実践できる環境があるのかどうか。

 

その確信を持てずにいた。

 

電話の相手は、マーティン・コールと名乗った。

 

「ブリストル・アスレティックのスポーツディレクターだ」

 

「存じています」

 

「少し話をしたい」

 

「分析部門の件でしょうか」

 

「いや」

 

短い沈黙があった。

 

「監督の件だ」

 

ヘイルは手元のペンを止めた。

 

「……監督?」

 

「そうだ」

 

「トップチームの?」

 

「他にどこの監督がいる」

 

「育成年代かと」

 

「トップチームだ」

 

ヘイルは少し考えた。

 

「間違い電話ではありませんか?」

 

「私もそう思いたいところだ」

 

コールの声には、冗談めいた響きがなかった。

 

「一度、ブリストルに来てくれ」

 

「私の経歴は確認されていますか?」

 

「確認したから電話している」

 

「監督経験がありません」

 

「知っている」

 

「それでも?」

 

「それでもだ」

 

ヘイルは窓の外を見た。

 

練習場では、若い選手たちが小さなゴールを使ってトレーニングをしていた。

 

「分かりました」

 

そう答えたとき、彼はまだ、何を引き受けることになるのか理解していなかった。

 

*

 

面談の日、ヘイルは予定より四十分早くブリストルに到着した。

 

時間があったので、クラブの周辺を歩いた。

 

レッドクリフ・グラウンドの外壁には、過去の名場面を写した大きな写真が掲げられていた。

 

古いユニフォーム。

 

満員のスタンド。

 

昇格を喜ぶ選手たち。

 

ヘイルは、その一つの前で足を止めた。

 

写真の中の選手たちは、誰もが心から笑っていた。

 

当たり前だ。

 

昇格した瞬間の写真なのだから。

 

しかし、ヘイルが考えたのは別のことだった。

 

この写真の中にいる選手のうち、何人が次のシーズンも主力だったのだろう。

 

何人が上のカテゴリーで通用したのだろう。

 

何人が、新しい選手の加入によって居場所を失ったのだろう。

 

昇格は成功だ。

 

だが、クラブが成功すればするほど、そこにいる全員が幸福になるとは限らない。

 

「ヘイルさんですか?」

 

声をかけられた。

 

振り返ると、クラブの職員らしい女性が立っていた。

 

「そうです」

 

「お迎えに来ました。少し早いですね」

 

「道が混むと思っていたので」

 

「今日は空いていました?」

 

「ええ。思ったより」

 

女性は笑った。

 

「では、ご案内します」

 

ヘイルはもう一度、壁の写真を見た。

 

それから、スタジアムの中へ入った。

 

*

 

会議室には、コールとアル=ラシードが待っていた。

 

「エドワード・ヘイルです」

 

ヘイルが手を差し出すと、アル=ラシードは立ち上がって握手した。

 

「ナディーム・アル=ラシードだ。来てくれてありがとう」

 

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」

 

「街はどうだった?」

 

「少し歩きました」

 

「気に入ったかね?」

 

「まだ判断するには早いですが、良い街だと思います」

 

アル=ラシードは笑った。

 

「君は何でも慎重に判断するのだな」

 

「そういう仕事をしてきましたので」

 

三人が席に着くと、コールが資料を配った。

 

クラブの現状。

 

選手の年齢構成。

 

契約満了が近い選手。

 

財務状況。

 

過去数シーズンの成績。

 

ヘイルは一枚ずつ目を通した。

 

「率直に聞こう」

 

アル=ラシードが言った。

 

「君は監督になりたいか?」

 

「はい」

 

「なぜ、今までならなかった?」

 

「適切な機会がなかったからです」

 

「このクラブなら適切だと思うか?」

 

「まだ分かりません」

 

コールが顔を上げた。

 

アル=ラシードは、むしろ楽しそうだった。

 

「正直だな」

 

「判断材料が足りません」

 

「何が必要だ?」

 

ヘイルは資料を机に置いた。

 

「まず、クラブが何を目指しているのかです」

 

「プレミアリーグへの昇格だ」

 

「それは目標の一つでしょう」

 

「ほう」

 

「昇格した後は?」

 

アル=ラシードは笑みを深くした。

 

「残留する」

 

「その後は?」

 

「上位を目指す」

 

「その後は?」

 

コールが口を挟んだ。

 

「君は、どこまで聞くつもりだ?」

 

「どこまで考えているのか、知りたいんです」

 

アル=ラシードは椅子に深く座った。

 

「では、答えよう」

 

少しの間があった。

 

「世界一だ」

 

ヘイルは黙っていた。

 

「驚かないのかね?」

 

「驚いています」

 

「そうは見えない」

 

「顔に出にくいので」

 

アル=ラシードは声を上げて笑った。

 

「世界一だぞ。イングランド二部のクラブが」

 

「はい」

 

「馬鹿げていると思わないか?」

 

「目標としては、別に」

 

「ほう?」

 

「ただ、目標と計画は違います」

 

アル=ラシードの笑みが止まった。

 

ヘイルは続けた。

 

「世界一になりたいというクラブは、いくらでもあります。問題は、そのために何をするかです」

 

「君ならどうする?」

 

「まず、勝てるチームを作ります」

 

「当然だな」

 

「ただし、来年だけ勝てるチームではありません」

 

ヘイルは資料の中から、選手の年齢構成を示したページを取り出した。

 

「チャンピオンシップからプレミアリーグへ上がるために、経験豊富な選手を集める方法はあります。短期的には合理的です」

 

コールがうなずいた。

 

「実際、そういうクラブは多い」

 

「しかし、昇格した後には別の問題が起きます。プレミアリーグで戦うために、もう一度チームを作り直さなければならない」

 

「それは避けられないこともある」

 

「もちろんです。ただ、最初からその先を見据えることはできます」

 

ヘイルは言葉を選んだ。

 

「二部で戦える選手を集めるのではなく、将来、一部の上位で戦える選手を集める。そして、その選手たちを二部で成長させる」

 

コールは腕を組んだ。

 

「簡単に言うな」

 

「簡単ではありません」

 

「上位で戦える若手が、なぜ二部に来る?」

 

「そこが、私たちの仕事になるでしょう」

 

「移籍金を払えば来ると?」

 

「いいえ」

 

ヘイルは首を振った。

 

「金だけでは来ません」

 

アル=ラシードが尋ねた。

 

「では、何が必要だ?」

 

「理由です」

 

「理由?」

 

「その選手が、ここでプレーする理由です」

 

ヘイルは続けた。

 

「出場機会かもしれません。戦術的な役割かもしれません。成長できる環境かもしれません。あるいは、自分を必要としていると感じられることかもしれない」

 

「それを用意すれば、選手は来るのか?」

 

「全員は来ません」

 

「それでは困るな」

 

「全員が来る必要もありません」

 

アル=ラシードは、しばらくヘイルを見つめていた。

 

「面白い」

 

小さく、そう言った。

 

「だが、私はスターも欲しい」

 

ヘイルは顔を上げた。

 

「スターですか」

 

「そうだ。世界中の人間が名前を知っている選手だ。若く、才能があり、これからの時代を代表するような選手を三人。欲を言えば五人だ」

 

コールが目を伏せた。

 

おそらく、この話は初めてではないのだろう。

 

ヘイルは少し考えた。

 

「有名な選手を獲得すること自体は、悪いことではありません」

 

「そうだろう」

 

「ただし、名前を基準に選ぶなら、私は必要ありません」

 

会議室が静かになった。

 

コールがゆっくり顔を上げた。

 

アル=ラシードはヘイルを見た。

 

「どういう意味だね?」

 

「有名な選手を集めたいだけなら、広告代理店に相談した方が早いということです」

 

コールが小さく咳払いをした。

 

ヘイルは構わず続けた。

 

「私は、十一人がどう機能するかを考えたい。そこに有名な選手が入るなら歓迎します。でも、知名度のために戦術を変えるつもりはありません」

 

アル=ラシードは黙っていた。

 

数秒。

 

十数秒。

 

やがて、笑い始めた。

 

「君は、私が怖くないのか?」

 

「怖いですよ」

 

「そうは見えない」

 

「ただ、ここで同意しても、後で困るのはお互いでしょう」

 

アル=ラシードはコールを見た。

 

「どう思う?」

 

コールは少し考えた。

 

「監督として成功するかは分かりません」

 

「うむ」

 

「ただ、言っていることは筋が通っています」

 

「君も随分と慎重だな」

 

「慎重な人間を呼んだのは、あなたです」

 

アル=ラシードは再び笑った。

 

「よろしい。では、君の考えるフットボールを聞こう」

 

*

 

ヘイルはホワイトボードの前に立った。

 

十一個の磁石を並べる。

 

最終ラインに三人。

 

その前に四人。

 

さらに一人。

 

そして、最前線に二人。

 

「三―四―一―二です」

 

コールが言った。

 

「三バックか」

 

「はい」

 

「チャンピオンシップで?」

 

「チャンピオンシップでも、です」

 

ヘイルは磁石を動かした。

 

「守備時には両翼が下がり、五―三―二に近い形を作ります。中央を閉じ、相手を外へ誘導する」

 

「攻撃では?」

 

「両翼を高く押し上げます。後方は三人を基本に、中央の二人が攻撃の起点になる。前線には、二人のストライカーと、その背後で仕事をする選手を置く」

 

「攻撃時は三―二―五か」

 

「状況によりますが、基本的には」

 

コールは磁石を見た。

 

「両翼の負担が大きい」

 

「ええ」

 

「中央の二人にも相当な能力が必要だ」

 

「そうですね」

 

「後ろの三人は、広い範囲を守らなければならない」

 

「その通りです」

 

「ずいぶん贅沢な戦術だな」

 

「安く済ませる方法も考えます」

 

「そういう問題じゃない」

 

ヘイルは少し笑った。

 

「この形にこだわる理由があります」

 

「聞こう」

 

「二人のストライカーを置きたいんです」

 

アル=ラシードが口を開いた。

 

「なぜ?」

 

「相手のセンターバックに、常に二つの問題を与えられるからです」

 

ヘイルは前線の磁石を指さした。

 

「一人がボールを受けに下がれば、もう一人が背後を狙える。片方が外へ流れれば、もう片方が中央に残る。相手が三バックなら、それぞれの守備者に違う判断を迫ることもできます」

 

「一人の優秀なストライカーでは駄目なのか?」

 

「駄目ではありません。ただ、私が作りたいのは、個人の能力に頼り切らない攻撃です」

 

「それでも、最後に点を取るのは個人だろう」

 

「もちろんです」

 

ヘイルはうなずいた。

 

「だから、優秀な個人が必要です」

 

コールが苦笑した。

 

「結局、高くつくじゃないか」

 

「そうかもしれません」

 

「そうかもしれない、じゃない」

 

「でも、完成された選手を十一人買うよりは、将来性のある選手を見つけて育てる方が、長い目では合理的です」

 

コールはしばらくホワイトボードを見ていた。

 

「若手を集めるのはいい。だが、負けが続いたらどうする?」

 

「修正します」

 

「戦術を?」

 

「必要なら」

 

「選手を?」

 

「必要なら」

 

「自分の考えが間違っていたと認められるか?」

 

ヘイルは即答しなかった。

 

それから言った。

 

「間違っていると分かったなら、認めます」

 

「分からなかったら?」

 

「分かるまで調べます」

 

コールは、ようやく小さく笑った。

 

「分析官らしい答えだ」

 

「褒め言葉として受け取ります」

 

「好きにしろ」

 

*

 

面談は、予定していた時間を大幅に超えた。

 

昼食を挟み、クラブの育成方針、練習施設、スカウト体制、既存選手の契約状況について話し合った。

 

ヘイルは何度も質問した。

 

監督が練習計画をどこまで決められるのか。

 

育成年代の選手をトップチームに引き上げる際、誰が最終判断するのか。

 

移籍候補の選定に、分析部門はどこまで関与するのか。

 

補強に失敗した場合、既存選手の起用を優先できるのか。

 

コールは一つずつ答えた。

 

答えられない質問については、確認すると約束した。

 

アル=ラシードは、時折口を挟んだ。

 

その多くは、クラブの将来についてだった。

 

施設の拡張。

 

海外での知名度。

 

国際的なスポンサー。

 

そして、世界中から選手が集まるクラブにするという構想。

 

ヘイルは、そのすべてに賛成したわけではなかった。

 

ただ、少なくともオーナーが何を望んでいるのかは理解できた。

 

彼は、フットボールクラブを単なる投資商品として見ているわけではない。

 

かといって、純粋なサポーターとして買収したわけでもない。

 

ブリストルという街と、クラブの価値を一緒に高めようとしている。

 

その構想が実現すれば、大きな成功になるかもしれない。

 

だが、クラブと街の利益がいつも一致するとは限らない。

 

そこには、いずれ衝突が生まれるだろう。

 

ヘイルはそう感じた。

 

もっとも、今の彼には、それより先に考えなければならないことがあった。

 

本当に、この仕事を引き受けるのか。

 

*

 

午後四時を過ぎた頃、コールが最後の資料を取り出した。

 

「契約条件について話そう」

 

ヘイルは姿勢を正した。

 

契約期間は三年。

 

二〇二八年六月末まで。

 

基本年俸は百万ポンド。

 

チャンピオンシップからの昇格を達成した場合、五十万ポンドのボーナス。

 

プレミアリーグ優勝で百万ポンド。

 

チャンピオンズリーグ優勝で百五十万ポンド。

 

ヘイルは最後の二項目を見て、少し眉を上げた。

 

「これは、必要でしょうか」

 

コールが答えた。

 

「何が?」

 

「プレミアリーグとチャンピオンズリーグの優勝ボーナスです」

 

「優勝したら払う」

 

「今は二部ですよね」

 

「そうだ」

 

「三年契約ですよね」

 

「そうだ」

 

「ずいぶん先の話では」

 

コールは肩をすくめた。

 

「払うことになったら、私も喜ぶさ」

 

アル=ラシードが笑った。

 

「私は、もっと早く払うことになると思っているがね」

 

ヘイルは契約書を見つめた。

 

三年間。

 

監督経験のない自分に与えられる期間としては、決して短くない。

 

しかし、クラブを根本から変えるには、十分とも言えない。

 

それでも、ここまでの条件を提示されて断る理由は、少なくとも待遇面にはなかった。

 

「一つ、確認したいことがあります」

 

ヘイルが言った。

 

「何だね?」

 

アル=ラシードが尋ねた。

 

「選手の獲得についてです」

 

コールが顔を上げた。

 

「続けてくれ」

 

「補強候補の選定と、戦術的な適合性の判断には、私とマーティンが責任を持ちたいと思っています」

 

「当然だろう」

 

アル=ラシードが言った。

 

「ただし、最終的な承認権はクラブにある」

 

「それは理解しています」

 

「では、問題ないな」

 

「もう一つあります」

 

ヘイルは続けた。

 

「知名度を理由に、選手の獲得を決めないことです」

 

アル=ラシードは、ゆっくりとヘイルを見た。

 

「まだ、その話をするのかね」

 

「重要なので」

 

「私はスターが欲しいと言った」

 

「はい」

 

「君は、スターが嫌いなのか?」

 

「好きですよ」

 

ヘイルは答えた。

 

「ただ、使い道のないスター選手は嫌いです」

 

コールは思わず顔を上げた。

 

その言い方は、少しばかり危険だった。

 

相手は、このクラブを買ったばかりの大富豪である。

 

しかも、目の前の若い男は、まだ契約書に署名すらしていない。

 

だが、アル=ラシードは怒らなかった。

 

むしろ、面白そうに笑った。

 

「君は本当に、私に遠慮しないな」

 

「今のうちに確認しておいた方がいいと思いまして」

 

「監督になった後では遅いと?」

 

「お互いに」

 

コールは口元を押さえた。

 

笑いをこらえるためだった。

 

アル=ラシードはしばらく考えた。

 

それから、コールへ目を向けた。

 

「マーティン。君はどう思う?」

 

「補強方針については、監督と私が主導するのが合理的です」

 

「有名な選手は?」

 

「戦術に合えば、もちろん獲得します」

 

「合わなければ?」

 

「別の選手を探します」

 

アル=ラシードは二人を交互に見た。

 

「二人とも、私の金を使う立場なのに、随分と強気だな」

 

「だからこそです」

 

コールが答えた。

 

「無駄にはできません」

 

会議室に、少しの沈黙が落ちた。

 

やがて、アル=ラシードはうなずいた。

 

「いいだろう」

 

ヘイルは顔を上げた。

 

「補強候補は君たちが選ぶ。交渉はマーティンが進める。最終的な承認はクラブが行う。私は、君たちが必要だと言う選手に金を出す」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 

アル=ラシードは人差し指を立てた。

 

「結果は求める」

 

「もちろんです」

 

「昇格だ」

 

「はい」

 

「そして、その先も」

 

ヘイルは少し笑った。

 

「そこまで考えて、引き受けます」

 

コールが契約書を差し出した。

 

「では、署名を」

 

ヘイルはペンを取った。

 

一度、契約書の最初のページを見た。

 

クラブの名前。

 

自分の名前。

 

契約期間。

 

そして、監督という役職。

 

それは、長い間、自分には縁のないものだと思っていた言葉だった。

 

ヘイルは署名した。

 

アル=ラシードが立ち上がり、手を差し出した。

 

「ようこそ、ブリストルへ」

 

「よろしくお願いします」

 

二人は握手した。

 

こうして、エドワード・ヘイルはブリストル・アスレティックFCの監督になった。

 

三十四歳。

 

トップチームの監督経験なし。

 

チャンピオンシップでの指揮経験なし。

 

それでも、世界一を目指すクラブの未来を託された。

 

その日の夜、監督就任のニュースが公表されると、サポーターたちは困惑した。

 

誰だ。

 

どこから連れてきた。

 

実績はあるのか。

 

本当に大丈夫なのか。

 

歓迎の声がなかったわけではない。

 

だが、少なくとも熱狂的な歓迎ではなかった。

 

地元紙のトーマス・ウェインは、就任発表を読みながら小さく首を振った。

 

「随分と思い切ったな」

 

机の上には、買収会見でのメモが残っていた。

 

世界で知られるクラブにする。

 

そう約束したオーナーが、最初に選んだ監督は、誰も知らない男だった。

 

ウェインは、その矛盾を記事の書き出しに使うことにした。

 

*

 

ヘイルが帰った後も、コールは会議室に残っていた。

 

机には、署名を終えた契約書の控えと、面談で使った資料が置かれている。

 

アル=ラシードは窓際に立ち、夕暮れのスタジアムを眺めていた。

 

「どう思う?」

 

オーナーが尋ねた。

 

「ヘイルですか?」

 

「そうだ」

 

コールは少し考えた。

 

「変わった男です」

 

「気に入らなかったか?」

 

「そういうわけではありません」

 

「では?」

 

「成功するかどうか、分かりません」

 

アル=ラシードは笑った。

 

「正直だな」

 

「ただ、少なくとも自分の考えを持っています」

 

「それは重要だ」

 

「ええ」

 

コールは資料をまとめ始めた。

 

「それにしても、ずいぶん大きな仕事になりました」

 

「まだ始まってもいない」

 

「だからです」

 

コールは言った。

 

「新しい監督を迎え、スカウト体制を整え、選手の契約を見直す。育成部門にも投資する。施設も改修する。やることはいくらでもあります」

 

「頼りにしているよ」

 

「それは結構ですが」

 

コールは手を止めた。

 

「補強について、一つ確認しておきたいことがあります」

 

「何だね?」

 

「具体的に、いくら使えるんです?」

 

アル=ラシードは振り返った。

 

「まだ見せていなかったか?」

 

「五年間の投資計画は拝見しました。ただ、初年度の補強予算については、最終的な数字をいただいていません」

 

「そうだったな」

 

アル=ラシードは机の端に置かれた封筒を取った。

 

「これだ」

 

コールは受け取った。

 

中には、数枚の紙が入っていた。

 

初年度の投資計画。

 

選手獲得費用。

 

契約関連費用。

 

そして、資金の拠出予定。

 

コールは一枚目を読んだ。

 

次に、二枚目。

 

それから、もう一度一枚目に戻った。

 

「……ナディーム」

 

「何だね?」

 

「これは、単位がポンドですか?」

 

「もちろん」

 

「桁を間違えているということは?」

 

「ない」

 

コールは数字を見つめた。

 

移籍市場には長く関わってきた。

 

金のあるクラブも、ないクラブも知っている。

 

見栄を張るオーナーも、予算を出し渋る経営者も見てきた。

 

移籍金を分割払いにしなければ選手を獲れないクラブもあれば、数千万ポンドの投資を平然と決めるクラブもある。

 

だからこそ、目の前の数字が何を意味するのかは分かった。

 

「本当に、この額を?」

 

「必要なら」

 

「初年度から?」

 

「そうだ」

 

「二部リーグのクラブですよ」

 

「知っている」

 

「収益との釣り合いは?」

 

「適用される財務規則の範囲で、資金の拠出方法も含めて専門家に確認させている。使える額と、今すぐ使うべき額は別だ。その判断は君たちに任せる」

 

コールは、もう一度資料に目を落とした。

 

無論、これだけの資金があれば何でもできるわけではない。

 

所属クラブが売却を拒めば、選手は獲れない。

 

選手本人が移籍を望まなければ、交渉は進まない。

 

給与を上げれば、更衣室の秩序が崩れることもある。

 

そして、どれほど高額な移籍金を払っても、選手が期待どおりに成長する保証はない。

 

そんなことは、誰よりもよく分かっていた。

 

だが。

 

少なくとも、これまで予算を理由に諦めてきた選手たちについて、もう一度考えることはできそうだった。

 

コールは封筒を閉じた。

 

世界一を夢見る富豪。

 

トップチームを率いたことのない三十四歳の監督。

 

そして、イングランド二部に所属する、赤いシャツの古いクラブ。

 

まともな計画には思えなかった。

 

成功する保証など、どこにもない。

 

ただ、一つだけ。

 

どうやら金はあるらしい。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作はFC26の監督キャリアで実際に進めたセーブデータを基にしています。ゲーム内での成績や選手の成長を尊重しつつ、移籍交渉やクラブ経営については現実のサッカー界を参考に再構成していく予定です。
次回から、最初の補強交渉が本格的に動き出します。
実在選手の2025年夏のデータをもとに記載していますが、ミスがあればご指摘いただけますと幸いです。
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