七月十八日、金曜日。
リールの練習場で、アイユブ・ブアリはいつもと同じ棚へ鞄を置いた。
靴を履き替え、廊下を抜ける。治療室の前ですれ違ったスタッフが、ブリストルはどうだった、と尋ねた。悪くなかった、と答えると、男は頷き、そのまま歩いていった。
引き留める言葉も、早く決めろという言葉もなかった。
そのことが、少しだけ辛かった。
ここでは、自分が何者かを毎朝説明する必要がない。どちらの足でボールを受けたいか。身体をぶつけられた後、どこへ逃げるか。練習で無口になったとき、放っておくべきか、声をかけるべきか。周囲の人間は、そうしたことを知っている。
ピッチへ出ると、芝生はきれいに刈り揃えられていた。遠くで散水器が回っている。ブリストルで見たジムの古い器具や、狭い会議室を思い出した。
リールに残る方が、楽だから正しいのではない。
ここには、ここでしかできない仕事がある。
午前の練習で、ブアリは中盤の底に入った。センターバックから受け、右へ預ける。もう一度受け直すと、前方の選手が相手の背中から離れた。
縦へ通した。
受け手は一度で落とし、別の選手がその先へ運んでいく。誰も声を上げなかった。何度も繰り返してきた動きだった。
ブアリは次のパスコースを作りながら、その攻撃を追った。
自分は、ここでも成長できる。
ブリストルへ行く理由を探すために、リールの欠点を数える必要はなかった。
練習の最後、競り合いで身体を寄せられ、パスが短くなった。相手役に拾われる。ブアリは追いかけたが、ボールは先に外へ逃げていた。
監督から声が飛んだ。
受ける前の位置を、半歩ずらせ。
ブアリは手を上げた。
まだ、教わることがいくらでもある。その事実は、海を渡ったところで変わらないだろう。
*
昼食の後、代理人と会った。
テーブルには契約条件をまとめた紙が置かれていた。五年間。基本給。出場数とチーム成績に応じた報酬。代理人は、確定している提案と、まだ協議が必要な項目を分けて説明した。
ブアリは最後まで聞いた。
「条件がまとまらなければ、移籍は成立しない」
代理人が言った。
「君が行きたいと言っても、それだけで契約にはならない。逆に、クラブ同士が合意しても、君が断ることはできる」
「分かってる」
「今、どちらを望んでいる?」
ブアリは紙から顔を上げた。
ブリストルで見た練習を、また思い出した。アンカーへ寄せる相手。その背後へ動く右インサイドハーフ。外に立つウイングバック。
映像なら止められる。
実際のピッチでは、止められない。
自分が前へ通そうとする瞬間に、味方が違う方向へ走ることもある。身体をぶつけられ、思った場所へボールを置けないかもしれない。そこで中央を空ければ、後ろの選手が走らされる。
ヘイルは、自分に判断を任せたいと言った。
それは、自分の好きなようにプレーしてよい、という意味ではなかった。
「ブリストルに行きたい」
代理人はすぐにはペンを取らなかった。
「現地を見た後も?」
「見たから」
ブアリは答えた。
「施設が今のままでも、あそこでやりたい。新しい建物ができるまで待ちたいわけじゃない」
「監督のためか?」
少し考えた。
「監督がいなかったら、行こうとは思わなかった。でも、それだけじゃない」
窓の外を車が通った。ブアリは通り過ぎるまで、その音を聞いていた。
「ボールを受けた後だけじゃなくて、受ける前に周りを動かす仕事をしたい。自分が出したパスで、次に誰がどこへ行くか。そこまで、あのチームで覚えたい」
「リールでもできるだろう」
「うん」
否定すると、自分の言葉ではなくなる気がした。
「ここで少しずつ任されるのを待つこともできる。でも、向こうでは、今からそれを作る。僕も、その中に入りたい」
代理人は紙を手元へ引き寄せた。
「では、その意思を伝える。条件については、私がもう一度確認する」
「その前に、家に電話してもいい?」
「もちろん」
父親は二度目の呼び出しで出た。
決めた、と伝えると、何を、と聞き返された。
「ブリストルへ行く」
電話の向こうで物音がした。父親が椅子を引いたらしかった。
「そうか」
「うん」
「お母さんにも、自分で話せよ」
「分かってる」
それから、少し沈黙があった。
ブアリは、もう一度理由を説明しようとした。
「あのチームで――」
「帰ってから聞く」
父親が言った。
「今夜は、お前が話すことが多そうだからな」
ブアリは笑った。
電話を切っても、緊張はなくならなかった。
しかし、もう返事を待っている側ではなかった。
*
マーティン・コールが連絡を受けたとき、机の上にはウォードの契約資料が開かれていた。
一年の延長を基本とするクラブの案と、二年を求める代理人の返答。出場数による延長条件をどう扱うかについて、まだ折り合っていない。
ブアリの代理人は、本人が移籍を望んでいると告げた。
コールは椅子へ深く座り直した。
「本人の最終的な意思として、受け取っていいんだな」
確認すると、相手は肯定した。
「分かった。ありがとう。では、残っている条件を詰めよう」
通話を終えた後、コールは手帳に日付を書いた。
七月十八日。
本人、移籍を希望。
短い一行だった。ここへ辿り着くまでに何度電話をかけたか、もう数えていない。
ヘイルへ連絡すると、監督は練習映像を見ているところだった。
『決めてくれたんですね』
「ああ。ただし、まだ選手を一人獲得したわけじゃない」
『分かっています』
「メディカルも、契約も、登録の手続きも残ってる。リールとの文書も、これからだ」
電話の向こうで、ヘイルが息を吐いた。
『でも、嬉しいですね』
コールは手帳を閉じた。
「それは、俺もだ」
*
フィリップ・デュモンは、本人の意思をすでに聞いていた。
その日の午後に始まった協議では、総額より、どの金額を確実な支払いとして扱うかが問題になった。
固定五千五百万ポンド。
追加報酬は最大五百万ポンド。
コールがその構成を示すと、デュモンは追加分の条件を一つずつ確認した。
「本人が活躍しても、君たちのチーム成績によっては払われない項目がある」
「だから、出場実績に連動する部分も入れてある」
「出場の数え方は?」
先発だけなのか。途中出場を含むのか。対象となる大会はどこまでか。
話は、数字の下に並ぶ小さな文字へ移った。
コールの隣では、担当者が修正箇所に印をつけていた。ある条件を直せば、別の条件との重複を確かめなければならない。口頭では同じ意味に聞こえた言葉が、契約書では違う支払いを生むことがある。
支払い時期についても、リール側は早い入金を求めた。
コールは複数年に分けた案を崩さず、初回分と後年の支払期限を調整した。分割を認めてもらう以上、相手が支払いの確実性について確認してくるのは当然だった。
デュモンが書面を確認するため、協議は一度中断した。
コールは冷めたコーヒーを飲んだ。
机の端で携帯電話が震えている。別の代理人だった。画面を伏せると、財務担当者が資料を差し出した。
移籍金だけではなかった。
給与。契約に伴う費用。出場数に応じた支出。そして、ほかの補強に残す余地。
「支払いを後へ送っても、今季の負担が同じだけ減るわけではありません」
担当者が言った。
「分かってる」
コールは答えた。
それでも、表を最初から読み直した。
銀行から出ていく金の予定と、クラブの成績を評価する数字は、同じ紙の上では済まない。何より、来季の支払いは、来季になれば消えてくれるものではなかった。
昇格できなかった場合の欄に、指を置いた。
その予測でも支えられるかを確かめてから、次のページをめくった。
アル=ラシードとの確認は、夕方になった。
オーナーは、ブアリが自分で移籍を選んだと聞いて頷いた。
「ならば、こちらも約束を果たさなければならないな」
「契約に書いたことと、クラブとして説明した計画があります」
コールは答えた。
「施設の完成時期は約束していません。ですが、何も進めなくていいという意味にはなりません」
「調査は?」
「グレイが専門家と調整しています。緊急修繕は別に進めています」
アル=ラシードは、選手の契約資料から目を離した。
「そちらの報告も、次に見せてくれ」
コールは手帳へ書き足した。
補強の承認を得ても、仕事は一つも減った気がしなかった。
*
七月十九日の午前、ヘイルはケンドールを呼んだ。
練習前だった。窓の外では、用具係がボールを数えている。
「ブアリ本人から、移籍したいという返答がありました」
ケンドールは頷いた。
「決まったんですか」
「最終手続きが残っています。成立する前に、あなたには僕から伝えたかった」
ヘイルはそう言ってから、椅子の背へ身体を戻した。
先日の練習で二人を引き合わせたとき、ケンドールには選ぶ時間がなかった。突然、自分のプレーについて、獲得候補の選手から意見を聞くことになった。
「見学の日のことですが」
ヘイルが続けた。
「あそこで、あなたの判断を彼の前で確認しました。先に、あなたと話すべきだったと思っています」
ケンドールは監督を見た。
「気持ちのいいものではなかったですね」
「はい」
「向こうは、俺がやらなかったパスを出せると言う。監督は、その選手を欲しがっている。何を答えても、言い訳に聞こえそうでした」
ヘイルは頷いた。
どちらの判断にも理由がある。
あの日、自分はそう説明した。それで公平になったつもりだった。
「配慮が足りませんでした」
ケンドールは机へ視線を落とした。
「彼が悪いわけじゃありません」
「分かっています」
「それで、俺はどうなるんですか」
ヘイルは用意していた練習計画を脇へ置いた。
「アンカーとして競争してもらいます。あなたの守備は必要です。先週の試合で中央を閉じた判断も、評価は変わりません」
「でも、欲しいのは前へ出せる選手でしょう」
「それも必要です」
ケンドールは口元を少し動かした。
「俺にできないことをできる選手が来る。それは分かります。俺ができることを、彼もできるかは、まだ分からない」
「その通りです」
「なら、練習で見てください」
ヘイルは答える前に、一度頷いた。
「そうします」
ケンドールが出ていった後、ヘイルは練習計画を戻した。
そこには、新加入選手のために確認したい項目が並んでいた。受ける位置。インサイドハーフとの距離。ボールを失った後の中央の守り方。
その下へ、ケンドールの名前も書き入れた。
同じ練習に参加させるだけでは、十分ではない。自分が何を見ようとしているのかを、先に決めておく必要があった。
*
週末を通じて文書の修正が続き、二十一日にはクラブ間の条件がまとまった。
固定五千五百万ポンド、追加最大五百万ポンド。
ブアリとの五年契約も、署名前の確認へ進んだ。出場数とチーム成績による報酬を整理し、昇格後の給与の扱いについて、本人側と文言を確かめる。
コールは、出場機会についての説明が契約の保証にすり替わっていないことも確認した。
大きな金を支払うことと、選手へ何を約束するかは、別々に決めなければならなかった。
夜、ブアリは自室で鞄へ服を入れた。
先週と同じ鞄だった。あのときは、二日分の荷物で足りた。今回はホテルで過ごす期間も、その先に必要なものも、まだ実感が湧かない。
母親が、畳んだ服を持って入ってきた。
「全部、持っていかなくてもいいでしょう」
「うん。分かってる」
ブアリは一枚取り出し、また戻した。
母親は何も言わず、鞄の脇へ服を置いた。
机にはリールの写真が残っていた。ここを離れると決めてから、それまで気にも留めなかったものが目に入る。棚の傷。使わなくなった古いイヤホン。遠征から帰るたび、鍵を置いていた場所。
ブリストルで何をしたいかは、言葉にできた。
ここを離れて寂しくないかと聞かれたら、答えは違った。
「来週、電話するよ」
ブアリが言うと、母親は顔を上げた。
「今週もしていいのよ」
ブアリは笑い、鞄のファスナーを閉めた。
*
七月二十二日、火曜日。
メディカルチェックの部屋で、ブアリは検査の説明を聞いていた。
立つ。横になる。膝を曲げる。過去の負傷について答える。
来るまでに考えていたのは、署名する瞬間や、監督との再会だった。実際には、知らない天井を見ながら指示を待つ時間が長かった。
携帯電話は鞄に入れたままだった。
検査が終わっても、すぐに契約書が出てくるわけではない。担当者から、確認が済むまで待つよう告げられた。
父親は廊下の椅子に座っていた。
「どうだった」
「たぶん、大丈夫」
「たぶん?」
「僕が決めることじゃないから」
父親は頷き、隣の席から荷物をどけた。
二人でしばらく座った。
遠くの部屋から、プリンターの動く音が聞こえていた。
*
コールが最終確認を終えたのは、昼を回ってからだった。
メディカルの報告が揃い、必要書類が机へ並べられた。登録に関する担当者は別室で作業を続けている。
代理人は、ブアリへ契約書をもう一度示した。
説明を受けた箇所を確認し、署名欄を開く。
ブアリはペンを持った。
昨日までなら、取りやめるという返答も自分のものだった。
ここへ名前を書けば、明日からの練習や、週末の選考や、誰かが自分へ出すパスが、生活の中へ入ってくる。
署名した。
紙の上の文字は、いつもの自分の字だった。
コールが手を差し出した。
「ようこそ」
先週も、同じ言葉を聞いた。
今度は、握手の後に契約書の控えを渡された。
*
撮影に使う赤いシャツには、背番号が入っていなかった。
広報担当者から渡されると、ブアリは表側のエンブレムを見た。父親は少し離れたところで、携帯電話を構えている。
「番号は、まだ?」
ブアリが尋ねると、コールは頷いた。
「改めて相談する。六番はケンドールが使っている」
「はい」
ブアリはシャツの両肩を持った。
番号のない背中は、写真には写らなかった。
カメラの前へ立ち、言われた位置へ半歩ずれる。シャツを少し下げる。もう一枚。
その間にも、コールの携帯電話には連絡が届いていた。
発表文の最終確認。支払いに関する書類。別のクラブからの折り返し。
午後、正式加入が公表された。
クラブ史上最高額という言葉は、ほどなく多くの記事に使われた。
固定額と追加報酬を分けて書く媒体もあれば、最大六千万ポンドという数字だけを見出しに置く媒体もあった。
コールがオフィスへ戻ると、別件の代理人から新しい提案が届いていた。先週までの条件に、項目が一つ増えている。
彼は前のメールを開き、二つを並べた。
予想していたことだった。
予想していたからといって、受け入れる必要はない。
返信を書き始める前に、ウォードの代理人から届いた連絡も開いた。話し合いの日程についてだった。
コールは翌日の空いている時間を確かめた。
*
夕方、ブアリは練習施設へ戻った。
この日はチーム練習には加わらず、用具と翌日の予定を確認することになっていた。
ロッカールームには、まだ何人か残っている。
マーサーが立ち上がって手を差し出した。
「ダニエルだ。歓迎する」
「アイユブです」
「知ってる。今日は、お前の名前をずいぶん見た」
ブアリは少し笑った。
ハーパーは靴紐を結び直していた。挨拶を交わすと、先週、見学に来ていたな、と言った。
「右にいた選手ですよね」
「そう。ルイス」
顔と名前が結びつく。
前へ出せると思ったパスの、その先にいた選手だった。
「明日、よろしく」
ハーパーはそう言い、鞄を肩へ掛けた。
ケンドールは奥にいた。
ブアリが近づくと、彼は畳んでいた練習着を鞄へしまった。
「また会いましたね」
「そうだな」
短く握手した。
ブアリには、先週の会話の続きをどう始めればよいか分からなかった。あのパスのことを話すのも、違う気がした。
ケンドールが先に口を開いた。
「もう部屋は見つかったのか」
「まだホテルです」
「そうか。朝は道が混む。地図に出る時間より、少し早く出た方がいい」
「ありがとうございます」
「じゃあ、明日」
ケンドールは鞄を持って出ていった。
親しげではなかった。
しかし、ブアリがそこにいることを、なかったことにもしなかった。
用具係から練習着を受け取り、自分に割り当てられた場所へ置く。ロッカーの幅は、隣と同じだった。
ブアリは靴を出した。
明日、ここで履き替える。
*
廊下へ出ると、ヘイルが待っていた。
「長い一日でしたね」
「あまり動いていないのに、疲れました」
「明日は、少しずつ始めましょう」
監督は予定表を渡した。集合時刻。朝の確認。ピッチへ出る時間。
ブアリは紙を見た。
「最初から、全部の練習に入りますか」
「状態を確認して決めます。説明も必要ですし」
ヘイルは窓の外へ目を向けた。
練習場には、片づけられていないマーカーがいくつか残っていた。
「先週見ていた場所と、実際に立つ場所では、見えるものが違うと思います」
ブアリも外を見た。
「そうでしょうね」
「何か違ったら、言ってください」
ブアリは頷いた。
先週なら、そこから先は監督と選手たちの仕事だった。自分は見学者で、練習がうまくいかなくても、リールへ帰ることができた。
今は、ロッカールームに靴が置いてある。
「明日、どこへ顔を出すか考えてました」
ブアリが言うと、ヘイルは少し笑った。
「中央ですか」
「はい。センターバックが持ったときに」
「では、明日そこから確認しましょう」
ヘイルは別の部屋へ向かった。
ブアリはもう一度、予定表へ目を落とした。
集合時刻を、携帯電話に入れる。
それから父親に、終わったよ、とメッセージを送った。
玄関へ歩きながら、明日の朝、あの道がどれほど混むのかを考えていた。