七月二十三日、水曜日。
アイユブ・ブアリが練習施設へ着いたとき、駐車場にはまだ空きが多かった。
ケンドールに言われたとおり、早く出てきた。途中で車が詰まったが、運転していたクラブの職員は慌てなかった。毎朝こうなのかと尋ねると、今日はまだいい方だと言われた。
玄関を入り、昨日覚えた廊下を曲がる。
ロッカールームの扉を開けたところで、食堂に先に寄るべきだったのかと思った。中にはマーサーが一人で座っている。
「早いな」
「道が混むと聞いたので」
「誰に?」
「ケンドールです」
マーサーは頷いた。
「朝飯は?」
「ホテルで」
「なら、ちょうどいい。まだ誰も捕まらないからな」
ブアリは鞄を下ろした。隣の席へ腕を広げないよう、昨日置いた靴の位置を少し直す。マーサーは脚を伸ばし、足首をゆっくり回していた。
「昨日は眠れたか」
「あまり」
「ホテルのベッドか?」
「携帯を見ていたら、遅くなりました」
祝福のメッセージが届き続けた。返事をしようとして画面を開くと、自分の写真と移籍金が並んだ記事が目に入った。英語の文章を最後まで読んでから、別の記事も開いた。
マーサーは足を床へ戻した。
「それは、ベッドを替えても駄目だな」
ブアリは笑った。
主将は、それ以上、新聞の話をしなかった。
*
午前の練習は、短いパス交換から始まった。
ブアリは二度、声をかけるのが遅れた。名前を知っていても、遠くにいる顔とすぐには結びつかない。ボールを渡してほしいのに、相手がこちらを見ない。手を上げたときには、すでに別の選手へ出ていた。
リールなら、受けたい場所へ入るだけでよかった。
ここでは、自分が何をしようとしているかを、周りはまだ知らない。
練習が中央での前進を確かめるメニューへ移ると、少し落ち着いた。
三人のセンターバックが横に開く。その前にブアリが立ち、さらに前へ左右のインサイドハーフ。外にはウイングバック、最前線には二人のフォワードがいる。
相手役は、まず中央への道を閉じた。
マーサーが右センターバックへ出す。ブアリは相手フォワードの背中から外れ、右足側へ受ける場所を作った。パスが来ると同時に、ハーパーが前へ走る。
その動きは見えていた。
ブアリは一度、ボールを右へ置いた。寄せてきた相手の足が止まる。その脇を通すつもりで蹴った。
ハーパーは、もう半歩先へ出ていた。
ボールは彼の後ろを抜け、相手役の中盤に拾われた。
ブアリが追う。中央を閉じるより先に足を伸ばし、かわされた。マーサーが前へ出て、ようやく攻撃が止まった。
「戻れ、もう一度だ」
主将が声を出した。
ヘイルは笛を吹かず、続けさせた。
同じ形がもう一度来た。今度はブアリが早く離し、ハーパーが足元へ受ける。右へ展開すると、ウォードが外を走っていた。
低いクロスが入った。
フォワードの一人がニアへ入り、もう一人は少し遅れて中央へ来る。ボールは守備者に当たり、外へ転がった。
ブアリは次の位置へ戻りながら、ハーパーを見た。
彼もこちらを見ていたが、何も言わなかった。
*
そのフォワードは、アダム・コリンズといった。
二十七歳。昨季も前線の競争に加わっていた選手で、相手のセンターバックへ身体を当ててから、短く下りて受けることを好んだ。
新監督の二人のフォワードについての説明を聞いたとき、自分にできる仕事はあると思った。
一人が下りれば、もう一人が背後へ走る。
問題は、誰かが下りた瞬間に、もう一人が必ず走れるわけではないことだった。自分が競り合った後に振り向くと、隣の選手は同じ高さでボールを待っている。ボールが手前へ来なければ、裏へ走っても無駄になる。
今日の練習では、中央から来るパスの強さが変わった。
足元へ入りそうに見えたボールが、少し先を通る。
コリンズは追い、相手の足に触られて外へ逃げた。
「そこまで走る?」
振り返って尋ねると、ブアリが近づいてきた。
「相手がついてくると思って」
「俺に?」
「はい。下りた後、もう一度向こうへ出るかと」
コリンズは相手センターバックの位置を見た。
「今のは、一回こっちへ欲しかったな。身体を入れてからなら、次へ出せる」
ブアリは頷いた。
分かっていない、という顔ではなかった。ただ、すぐには何かを答えなかった。
ヘイルが二人を呼んだ。
「アダムが足元へ来るとき、もう一人には背後へ動いてもらいます。今のは二人ともボールへ近づいていました」
「俺が走り直すんですか」
コリンズが尋ねた。
「その場合もあります。ただ、今は近づいたままでよかった。もう一人の動きが必要でした」
コリンズは前線の相棒へ手を上げた。
「次、俺が下りるからな」
再開した攻撃では、ブアリから足元へ通った。コリンズは守備者を背に受け、右のハーパーへ落とした。
ハーパーが前を向く。
もう一人のフォワードは走っていた。しかし、落としたボールが少し後ろへずれた分だけ、パスが遅れた。
笛が鳴った。オフサイドだった。
コリンズは手を上げたまま、息を吐いた。
形は分かる。
その中へ、自分の足で入らなければならなかった。
*
給水の時間、ハーパーがブアリの横へ来た。
「最初の、遅かった?」
「僕が持ち直したから」
「あれ、俺はもう出ると思ったんだ」
ブアリは水を飲み、キャップを閉めた。
「相手がもう少し来ると思ってた。来たら、その横を通そうとした」
「俺は待ってた方がいい?」
ブアリはピッチを見た。
そうしてほしいと言えば、次は待ってくれるだろう。しかし、いまの質問へ頷くと、前へ走る合図まで自分一人で決めることになる。
「僕を見て、出るのをやめないでほしい」
「じゃあ、走るよ」
「うん。そのとき、名前を呼んでくれる?」
ハーパーは一瞬だけ眉を上げた。
「見るのは得意なんだろ」
「名前が聞こえると、もっと分かる」
ハーパーは笑った。
「分かった」
次の練習で、彼の声が二度聞こえた。
一度目には出せなかった。二度目には、先に顔を上げられた。
*
同じ午前、コールはウォードの代理人と会っていた。
机に置かれた契約案には、まだ署名がなかった。
「本人は、新しい役割に取り組んでいます」
代理人が言った。
「それは見ている」
「だからこそ、クラブにも考えてほしい。試合へ出れば次の年がある、という条件では、家族の予定は立てにくい」
コールは資料を閉じなかった。
一年の延長と、出場数に応じたさらに一年。クラブにとっては、働きに見合った合理的な提案だった。
だが、試合へ出すかどうかを決めるのはクラブの監督である。
怪我をしなくても、走れなくならなくても、新しい選手が来れば出場数は減る。選手が自分で満たそうとしても、満たせるとは限らない条件だった。
「二年を保証すれば、本人は残るんだな」
「その意思です」
「給与の希望も含めて、もう一度こちらで検討する。今日、返答はできない」
代理人は頷いたが、帰る支度はしなかった。
「昨日の発表を見ました」
「だろうな」
「金がないから一年なんだ、とは説明できません」
「俺も、そうは言っていない」
コールは少し強く答えた。
言ってから、声を落とした。
「ただ、誰かを獲得した金額を基準に全員の契約を決めれば、来年も同じことになる」
「ジェームズは、ブアリと同じ待遇を求めていません」
代理人は契約案を指した。
「一年先を、もう一年見たいだけです」
コールは返事をせず、ペンを取った。
交渉の余地を検討する、と書く。それが相手の求める答えにならないことは分かっていた。
*
練習の後半、ブアリは相手役へ移った。
アンカーにはケンドールが入る。
ヘイルは二人を同時に中盤の底へ置かなかった。まず、同じ位置でそれぞれが周囲とどう動くかを確認したかった。
ケンドールは受ける前に一度、ハーパーへ声をかけた。
「今は来るな。そこにいろ」
右インサイドハーフが足を止める。相手役の中盤も、ついていくのか残るのかを迷った。
ケンドールは中央で受けず、マーサーへ左を指した。
ボールは左センターバックを経由し、エリスへ渡った。相手の右サイドの選手が外へ出たところで、ケンドールが中央に受け直した。
今度は前へ出せた。
ブアリは寄せる側にいた。
ボールへ近づいたときには、すでに相手の視線が外を向いていた。足を出すのをやめ、中央へ戻る。
攻撃はそこで急がず、もう一度最終ラインへ戻った。
自分なら、右へ通したかもしれない。
しかし、ケンドールのチームはボールを持ち続けていた。
その後、相手役が奪って前へ蹴ると、ケンドールは追いかけなかった。先に中央の受け手へ身体を寄せ、パスを外へ向けさせた。
ブアリは走りながら、その距離を見た。
相手に触れられるほど近くなく、前を向かれても届かないほど遠くない。
先週、見学していた場所からは分からなかった距離だった。
*
昼食の席で、ウォードは携帯電話を伏せていた。
代理人との話は、まとまらなかった。妻へは、まだ返事待ちだと送った。既読になったが、返答はまだ来ていない。
隣ではエリスが、午前の練習について話していた。
「中央が持てると、こっちは上がれる。でも、上がってから戻されると、かなり遠いな」
「そうだな」
ウォードは答えた。
自分の側でも同じだった。ブアリが中央で相手を引きつければ、右の外に時間が生まれる。それはありがたい。
ただ、出るつもりで走り始め、パスが出ないと、次の戻りは長くなる。
「あいつ、見てるところはいいよ」
ウォードは言った。
「でも、俺がどこから走ってきたかまでは、まだ知らない」
エリスはフォークを止めた。
「こっちも、どこで離すか知らないしな」
二人は少し笑った。
ブアリは向かいの席で、職員から翌日の送迎について説明を受けていた。話が終わるまで、食事に手をつけていない。
ウォードは伏せた電話を横へずらした。
「アイユブ」
呼ぶと、若者が顔を上げた。
「明日、右を見てくれ。俺が走り出す前に、一度手を上げるから」
ブアリは頷いた。
「分かりました」
電話が震えた。
ウォードは画面を見ず、食事を続けた。
*
午後、コールはレッドクリフ・グラウンドへ戻った。
西スタンドの一部には、作業に使う区画が設けられていた。グレイは通路へ入ってきたコールを見ると、話しかけるより先に、足元を指した。
「そっちは避けてください。道具を置いています」
コールは立ち止まった。
屋根の緊急修繕と、大規模な改修に向けた調査。二つの作業は別だったが、現場で人を入れる日程は同じグレイの手帳に書かれていた。
「開幕までに、全部片づくのか」
「全部というのは?」
「雨漏りだよ」
グレイは屋根を見上げた。
「今回、手を入れる箇所は決めています。ただ、水は見えている場所から入るとは限りません。塞いだ後、確認が必要です」
「分かった。発表文に、修繕完了と書かせないようにする」
グレイは少し笑った。
「まだ頼まれていませんけどね」
「そのうち来る」
コールは携帯電話を取り出した。
新加入選手の撮影に使った同じスタジアムで、今日は工具の音がしている。こちらの写真は、大きな見出しにはならないだろう。
それでも、開幕の日には誰かがこの下へ座る。
施設の予算表を確認し、必要な返事を送った。
*
七月二十四日の練習で、ヘイルは一度だけ、長く止めた。
相手役のパスが中央へ入り、ブアリが前へ出た。その脇へもう一人が走り込む。ハーパーは外の選手を追っており、中央へ戻れない。
右センターバックが出ると、マーサーの前に二人が残った。
「アイユブ、少し戻ってください」
ヘイルはボールのあった位置を指した。
ブアリが戻る。
「ここで、相手に近づきすぎました。あと二歩、待てばよかった」
ブアリはハーパーの位置を見た。
「ルイスが戻れると思いました」
「彼は右へ行っています」
「その前に、中央へ来るかと」
ハーパーが手を上げた。
「俺は、外を見ろと言われてました」
ヘイルは答えかけて、やめた。
昨日から、ハーパーにはウォードの背後を助けることを強く求めていた。一方でブアリには、相手が悪い向きで受けるなら、前へ出てよいと説明していた。
二つを同時に行えば、空く場所がある。
「そうですね」
ヘイルはハーパーへ頷いた。
「今のは、僕の説明を整理しましょう」
ブアリの位置まで歩き、そこから前線を見た。相手役の選手たちは、止まったまま待っている。
この距離なら、届くと思うだろう。
届くことと、出てよいことは違った。
「右が外を助けている間は、中央を先に閉じてください。前へ出るのは、左のインサイドハーフが中へ寄ってからにします」
「相手が後ろを向いていても?」
「まずは。それで間に合わない場面を、次に確認します」
ブアリは頷いた。
すべての場面に使える決まりではない。だが、今日の全員が同じことを考えるためには、一つ必要だった。
再開後、ブアリは一度、出かけて足を止めた。
相手は前を向いたが、中央へ運べず外へ渡した。
マーサーがラインを上げた。
ヘイルは今度は止めなかった。
*
七月二十六日、土曜日。
カーデン・ローヴァーズとの練習試合で、ブアリは後半から出場した。
三部に所属する相手は、前線から二人で寄せてきた。練習で相手役をしていた選手たちより、当たりが強く、ボールが外へ出ても再開が早かった。
前半のアンカーはケンドールだった。相手が中央を狙っていると分かると、無理に受けず、センターバックから外へ逃がす。ブリストルは一度危ないクロスを入れられたが、失点せずに折り返した。
後半の最初、ブアリは背中へ身体を当てられた。
前を向こうとした足から、ボールが少し離れる。相手が拾い、シュートまで行った。
キーパーが止めた。
ブアリはゴールの方へ戻り、短く手を上げた。
ヘイルはベンチを出かけたが、マーサーが先に声をかけていた。
「最初は返せ。もう一回もらえる」
次に中央で受けたとき、ブアリは一度マーサーへ戻した。そのまま立ち止まらず、相手フォワードの反対側へ移る。
戻ってきたパスは、さっきより受けやすかった。
ハーパーが名前を呼ぶ。
ブアリは右へ通した。ハーパーが前を向き、ウォードが手を上げる。
外へ出た。
ウォードは相手の左サイドバックへ向かい、縦に行くと見せて中央へ戻した。追いついてきたハーパーが低く蹴り、コリンズがゴール前へ足を出した。
入った。
コリンズは転がったまま、右腕を上げた。
ブアリが作ったのは、最初のパス一本だった。アシストにもならない。
しかし、ウォードが戻る途中でこちらへ親指を立てた。
ブアリは、同じように手を返した。
試合は一対一で終わった。終盤、相手のクロスから同点にされた。
ブアリは中央のこぼれ球を警戒しており、ゴール前へ入ってくる相手を一度、背中の外へ逃がした。誰の対応だったのか、試合中にははっきりしなかった。
マーサーが口を開きかけ、閉じた。
「映像で見よう」
それだけ言った。
*
試合後、ヘイルはブアリを呼び止めた。
失点の場面について、どこを見ていたかを確かめる。ブアリは中央を指した。監督は、その位置からだとゴール前の選手が見えにくかったはずだと言った。
「下がりすぎですか」
「位置と、身体の向きです。月曜日に確認しましょう」
ブアリは頷いた。
ロッカールームへ戻ると、コリンズが靴を脱いでいた。
「得点、おめでとうございます」
「ありがとう」
「あの位置まで、入るんですね」
コリンズは顔を上げた。
「入るよ。フォワードだからな」
ブアリが少し困った顔をすると、彼は笑った。
「冗談だ。足元へもらった後なら、もう一回走れる。それは覚えておいてくれ」
「はい」
コリンズは鞄から携帯電話を出した。画面を見た途端、表情が少し変わった。
ボーンベリーの若いストライカーとの交渉が再開するらしい。
メッセージを送ってきたのは、クラブの外にいる知人だった。本当かどうかと尋ねられても、コリンズには答えられない。
今日、点を取った。
来週も同じ場所に立てるかは、分からなかった。
彼は画面を消し、もう片方の靴を脱いだ。
*
夕方、コールの電話には、ボーンベリーFCの担当者が出ていた。
「八月にまたと言っただろう」
「君が先に連絡をくれたんじゃないか」
コールが答えると、相手は短く笑った。
クルーニーの起用計画について、改めて話せる。
それが用件だった。
「売却を考えるという意味か」
「条件による。本人の話も聞かなければならない」
「分かった。月曜日に時間を取ろう」
電話を切り、コールは試合の報告を開いた。
得点者の欄に、コリンズの名前がある。
次に、補強候補の資料を開いた。
クルーニーの昨季の得点数は二十二。今日の一得点と比べてよい数字ではなかった。
ただ、同じ前線の枠へ入る。
コールは両方の資料を閉じず、翌週の予定を書き始めた。