どうやら金はあるらしい   作:おずわるどー

14 / 22
【2025/26・第14話】六番の荷物

 八月六日、水曜日の朝、ベン・ケンドールは、いつもの道を通って練習場へ向かった。

 

 途中で信号に引っかかった。工事用の柵の向こうで、作業員が舗装の継ぎ目を見ている。

 

 その道を、ブアリにも教えた。

 

 朝は地図に出るより時間がかかる。

 

 自分がここへ通わなくなることを、そのときはまだ決めていなかった。

 

 代理人から届いた連絡には、今日の午後、移籍先の担当者と直接話せると書かれていた。相手は同じチャンピオンシップのウェルドンFCだった。

 

 本人の起用について監督から説明したいという。

 

 まだ契約はない。メディカルチェックも残っている。コールからは、条件がまとまるまではクラブの選手として過ごしてくれと言われた。

 

 ケンドールも、そのつもりだった。

 

 練習場へ着くと、ロッカールームにはクルーニーとウルンが並んでいた。昨日来たばかりのエル・マリもいる。

 

 名前を覚える前に、自分が出ていくことになるかもしれなかった。

 

「おはよう」

 

 ケンドールが言うと、三人が顔を上げた。

 

 自分の練習着を取り、席に座る。

 

 その上の六番は、まだ自分のものだった。

 

 *

 

 その朝、ヘイルは四人のアカデミー選手をトップチームの練習へ呼んでいた。

 

 全員を昇格させるためではない。トップチームでは、個別に調整する選手と、開幕に向けて負荷を抑える選手がいた。練習に必要な人数を揃えながら、若い選手の反応を見る機会にしたかった。

 

 リードは、その説明を受けた後も、参加者の選び方を尋ねた。

 

「足りない位置へ、人を入れるだけですか」

 

「今日は中盤と前線を見たいです」

 

「なら、本人には、何を見たいかも伝えてください」

 

 ヘイルは頷いた。

 

 ノア・プライスは、そのうちの一人だった。

 

 十七歳。地元の学校に通いながらクラブで育ち、右の中央からボールに関わることを得意としている。ボールを止める足元は柔らかいが、相手が寄せる前に、もう一度周りを見る癖が足りなかった。

 

 アカデミーでは、受けてからでも間に合った。

 

 トップチームでは、最初のパスが足に入る前から相手の身体が近かった。

 

 プライスは無理に前を向き、ケンドールへボールを渡してしまった。

 

 奪われた、という感触すら薄かった。

 

 自分が触るつもりの場所へ、先に相手の足があった。

 

「もう一回」

 

 ケンドールがボールを返した。

 

 プライスは顔を上げた。

 

「ここから?」

 

「そう。もらう前に一回見ろ。受けてからじゃ、俺がいるぞ」

 

 練習は続いた。

 

 次は前を向かず、一度戻した。ケンドールは追ってこない。プライスは空いた場所へ動き、もう一度受ける。

 

 今度は前を向けたが、次のパスが弱く、右の外で待つウォードへ届かなかった。

 

 ウォードが相手に身体を寄せ、どうにかタッチラインの外へ出した。

 

「あ、すみません!」

 

 プライスが追いかけようとすると、ウォードが手で止めた。

 

「いいから残れ! 次はもう少し強く。俺の足、そんなに遅く見えるか?」

 

 プライスは頷いた。

 

 自分より小さな失敗をしている選手は、周りに見当たらない気がした。

 

 しかし、隣の区域ではウルンが味方と同じ場所へ入り、ヘイルに呼ばれていた。エル・マリはオコンネルの声で走り直し、ブアリも前へ出るのを止められている。

 

 誰も、ただ上手いから好きにしてよいとは言われていなかった。

 

 *

 

 練習の終わり、ヘイルはプライスを呼んだ。

 

「今日は、いつ前を向けるかを見ました」

 

 プライスは頷いた。

 

「いや、ほとんど……。受けたら、もう人がいて。もっと先に見たつもりだったんですけど」

 

「最初より、戻して受け直す場面は増えました。ただ、次を見つける前にボールを持つと、やはり捕まります」

 

「はい」

 

「明日は、アカデミーの練習で、受ける前に何を見たかを確認してください。ベルにも伝えておきます」

 

 アカデミーコーチのライアン・ベルは、少し離れたところで待っていた。

 

 プライスは、明日もここへ来るのではないと分かり、少しだけ顔を落とした。

 

 ヘイルはそれに気づいた。

 

「今日で評価が決まったわけではありません」

 

「はい。……また、呼んでもらえますか?」

 

 言ってから、プライスは口を閉じた。まだ今日の評価を聞いている途中だった。ヘイルは、リードと次の機会を決めると答えた。

 

 ベルと並んで戻る途中、コーチが尋ねた。

 

「どうだ、速かったろ」

 

「ボールもですけど、人が。まだ受けてないのに、もう次へ行くから」

 

「それが見えたなら、明日は先に動く練習だ」

 

 ベルは頷いた。

 

「それを見て帰れれば、今日は無駄じゃない」

 

 プライスは、練習着の袖についた芝を払った。

 

「もう一回来たいです」

 

「じゃあ、明日からだ。今日の話だけで一週間食ってくなよ」

 

 ベルは、トップチームの監督へ出す報告書へ、本人がそう言ったことも書いておこうと思った。

 

 *

 

 午後、ウェルドンの監督は、ケンドールへ中盤の二つの位置を示した。

 

 ブリストルのように一人で中央の基準になるのではなく、隣の選手と距離を揃え、相手のトップ下へ入る道を閉じる。

 

 ボールを奪った後は、近くの味方へ確実につけてほしい。

 

 ケンドールは説明を聞き、相手の中盤が左右に開いたときはどちらが出るのかと尋ねた。

 

 監督は、そこを決めるために自分が欲しいと答えた。

 

 先発の保証はなかった。

 

 しかし、自分が何を評価されているかは、はっきりしていた。

 

 帰りの車で、代理人から感想を聞かれた。

 

「向こうは、俺が何をする選手か見てた」

 

「行きたいか?」

 

 ケンドールは窓の外へ目を向けた。

 

「……ああ。進めてくれ」

 

 少し間を置いた。

 

「ただ、ブリストルでやれなくなったから行く、と言われるのは面白くないな」

 

「それは、誰に?」

 

「俺に」

 

 代理人は返事をしなかった。

 

 ケンドールも、答えを求めたわけではなかった。

 

 新しい監督の要求と、自分の得意なことが少し違う。それを理解することと、悔しくないことは別だった。

 

 それでも、自分を必要としている別のチームがある。

 

 そこへ行く理由を、敗北だけで説明する必要はないはずだった。

 

 *

 

 その日の夜、プライスは家で、トップチームの練習着について母親に聞かれた。

 

「借りたものは、返してきたんでしょうね」

 

「返した。用具係が数えてた」

 

「なら、よかった」

 

 母親は、食卓に皿を置いた。

 

 プライスは、今日のことを話そうとしていた。ブアリと同じピッチに立ったこと。マーサーの声が思っていたより大きかったこと。最初のパスを失ったこと。

 

 しかし、母親が最初に気にしたのは、借りたものを返したかどうかだった。

 

 少し笑ってしまった。

 

「何?」

 

「いや。今日、すごい選手とやったんだよ」

 

「知ってる。朝から三回聞いた」

 

 母親も笑った。

 

 プライスは椅子へ座り、ようやく話し始めた。

 

 相手が来る前に見ろと言われた。見るつもりだった。でも、ボールが来るとそちらだけ見てしまう。

 

「嫌なことを言われた?」

 

「言われてない。分かってることが、できないだけ」

 

 自分で口にすると、今日の失敗は少し小さくなった。

 

 才能が足りないと決められたわけではない。何をできなかったか、言えるだけだった。

 

 母親は皿を自分の方へ引いた。

 

「じゃあ、明日も練習?」

 

「うん。下のチームで」

 

「下って、いつものチームでしょう」

 

 プライスは黙った。

 

 今日一度だけ上へ行ったことで、戻る場所を下と呼んでいた。

 

 バレットもモリスも、明日はそこにいる。

 

「そう。いつもの」

 

 言い直して、食事を始めた。

 

 寝る前、ベルから短い連絡が届いた。翌日の練習で確認することが三つ書かれている。

 

 トップの選手と撮った写真は、一枚もなかった。

 

 代わりに、その文章をもう一度読んだ。

 

 *

 

 翌朝、リードはベルへ、参加者の評価を示した。

 

 プライス以外にも三人行かせた。中には、緊張してほとんど声を出せなかった選手もいた。

 

「次は同じ四人ですか」

 

 ベルが聞いた。

 

「必要な位置による。ただ、呼ばれなかった選手へも、何を見て決めたかは話そう」

 

 リードは答えた。

 

「トップの人数が足りたら終わる仕組みにはしたくない。月ごとに、誰を何のために参加させるか決めたい」

 

 ベルは頷いた。

 

 長年、やりたいと思っていた仕事だった。新たな分析スタッフが入れば、参加後の映像も揃えられる。

 

 一度の見学のような機会が、次に向けた練習へ変わる。

 

 そのためには、選手を呼ぶ日だけでなく、戻った日の仕事が必要だった。

 

 ベルは自分の予定表を開き、面談の時間を書き込んだ。

 

 *

 

 八月七日、木曜日。

 

 ウォードは練習前、コールの部屋へ呼ばれた。

 

 二年という希望について、クラブが再検討していることを告げられた。

 

 ただし、まだ正式な提案はまとまっていない。

 

「またですか。いや、待ちましたよ、ずっと。もう開幕ですよ?」

 

 ウォードは椅子に座ったまま言った。

 

 コールは頷いた。

 

「そうだ」

 

「明後日、試合なんです。家でも、また待ってくれって言うんですか」

 

「ジェームズ、そこは分かってる。だから今日は、返事を出す期限を決める」

 

 ウォードは一度、息を吐いた。

 

 怒鳴るために来たのではない。けれど、何度も同じ返事を持って帰ることには疲れていた。

 

「で、先発したら進むんですか? 勝ったら? どこを待ってるのか、俺には分からないんです」

 

「一試合で決めるつもりはない」

 

「じゃあ、何試合です?」

 

 コールは答えなかった。

 

 それが、今の提案の問題だった。

 

「曖昧にしているのは分かってる。こちらから、期限を示すべきだな」

 

 彼は手帳を開いた。

 

「今月中に、更新条件への最終回答を出す。代理人にも同じことを伝える」

 

 ウォードは頷いた。

 

 望んだ契約ではなかった。

 

 ただ、次にいつ聞けばいいかだけは、初めて決まった。

 

「お願いします」

 

 部屋を出ると、廊下の先からケンドールが歩いてきた。

 

 二人は顔を見合わせた。

 

「そっちは?」

 

 ウォードが聞いた。

 

「明日になると思う」

 

「そうか」

 

 ケンドールは頷いた。

 

 ウォードは、残るための話をしてきた。ケンドールは、去るための話をしている。

 

 同じ部屋へ入っても、持ち帰るものは違った。

 

 *

 

 開幕戦の準備では、ネイサン・ベルがゴールを守った。

 

 三十歳。昨季からのキーパーだった。前へ出て高いボールを処理する判断には自信があるが、短いパスを左右へ振り分ける新しい要求には、まだ慣れていない。

 

 ヘイルは、右と左のセンターバックを開かせ、中央へブアリを置いた。

 

 ベルが右へ渡す。相手役のフォワードが斜めに寄せる。右センターバックのジョージ・フェンウィックは、中央を見た後、キーパーへ戻した。

 

 ベルは遠くへ蹴った。

 

 クルーニーが競り、ボールが外へ流れる。

 

 ヘイルが一度止めた。

 

「今は左へ出せましたね」

 

 ベルは逆側を見た。

 

「いや、左は見えてましたよ。そいつも来てたでしょう。持ち替えたら、俺の足元でぶつかります」

 

 相手役の位置を指す。

 

「左へ持ち替えたら、そこまで詰められると思った」

 

 ヘイルは頷いた。

 

 足元の技術だけで解決する問題ではない。戻すパスがベルの身体に近すぎ、最初の一歩を逆側へ出せなかった。

 

 フェンウィックを呼び、戻す場所を半歩外へ変えさせた。

 

 次はベルが左へ出せた。

 

 だが、相手が強く追ってきた次の場面では、また遠くへ蹴った。

 

 ヘイルは止めなかった。

 

 クルーニーが頭でそらし、ウルンが拾う。ハーパーが近づき、ボールが中央へ戻った。

 

 ベルはゴールの前で両手を上げた。

 

 あれも、攻撃になる。

 

 監督がそれを認めたことが、少し安心につながった。

 

 佐々木彩玄の獲得が進んでいることは、すでに聞いていた。新しいキーパーの技術に合わせて、自分まで同じ蹴り方を求められるのではないかと思っていた。

 

 今日は、自分の選んだ長いボールからも、攻撃が続いた。

 

 *

 

 八月八日、金曜日。

 

 ケンドールのウェルドンへの移籍が正式に決まった。

 

 メディカルと契約の確認を終え、夕方、ブリストルの練習施設へ荷物を取りに戻った。

 

 誰もいない時間を選ぶつもりだったが、マーサーは残っていた。

 

「で、明日から向こうで出るのか?」

 

「俺が決めていいならな」

 

「お前が決めたら、四十六試合出るだろ」

 

 二人は笑った。

 

 ケンドールは練習着を畳み、持ち帰るものとクラブへ返すものを分けた。古いテーピングが鞄の底から出てきた。使いかけのボトルもある。

 

 どれも、大きな思い出の品ではなかった。

 

 それでも、全部捨てて出ていく気にはなれなかった。

 

 マーサーは手伝わず、隣へ座った。

 

「十一月、行くぞ」

 

「知ってる。調べた」

 

「真ん中、空けとけよ」

 

「お前らが、まだそこしか通せないなら閉じるよ。練習しとけ」

 

 ケンドールはファスナーを閉めた。

 

 ヘイルが入ってきた。

 

 監督は、これまでの練習と試合への貢献について礼を言った。新しいクラブでも健闘を祈ると続けた。

 

 ケンドールは頷いた。

 

「監督も」

 

 それから、自分の席を見た。

 

「あそこ、今のままだと走りますよ。誰を置いても」

 

 ヘイルが顔を上げた。

 

「一人にしないでやってください。それは、お願いします」

 

 ヘイルは一度、黙った。

 

「そうします」

 

 ケンドールは握手し、鞄を持った。

 

 廊下でブアリに会った。

 

 若者はすでに話を聞いていたらしく、足を止めた。

 

「ありがとうございました」

 

「礼を言われるほど、一緒にやってないだろ」

 

「道は教わりました。おかげで、まだ一度も遅れていません」

 

 ケンドールは笑った。

 

「それは、役に立ったか」

 

「はい」

 

「それなら、一つは役に立ったな」

 

 握手した。

 

 ブアリは、頑張ってくださいと言いかけたが、その言葉が競争相手を送り出すための言葉に聞こえそうで、少し迷った。

 

 ケンドールは先に手を離した。

 

「また試合で会おう」

 

「はい」

 

 ブアリは、その背中が玄関を出るまで見ていた。

 

 *

 

 六番を渡されたのは、その後だった。

 

 用具係が、番号を確認した練習用具と一緒に説明した。開幕のシャツも用意するという。

 

 ブアリは頷き、六という数字に触れた。

 

 空いていたから、自分に来た。

 

 しかし、最初から空いていたわけではない。

 

 ロッカールームの隣の席は、まだ少し片づけた跡が残っていた。ケンドールが置いていた靴の底から落ちた小さな土が、床に乾いている。

 

 ブアリは自分のシャツを畳み直した。

 

 明日、この数字でピッチへ出る可能性がある。

 

 そのときにケンドールのように守れるかは、番号が替わっただけでは分からなかった。

 

 *

 

 最後のミーティングで、ヘイルは開幕戦の先発を伝えた。

 

 ゴールキーパーはベル。

 

 三人のセンターバックは、右からフェンウィック、マーサー、オコンネル。

 

 アンカーにブアリ。右ウイングバックはウォード、左はエリス。右インサイドハーフにハーパー、左にマーク・ドイル。

 

 前線はクルーニーとコリンズ。

 

 ウルンとエル・マリはベンチからの起用を考えると告げた。

 

 コリンズは、自分の名前を聞いたとき、少し遅れて顔を上げた。

 

 ヘイルは目を合わせた。

 

「今日までに合わせた動きから始めます。途中で替える可能性もありますが、最初の仕事はこの十一人に任せます」

 

 コリンズは頷いた。

 

 移籍について考えていることは、なくならなかった。

 

 それでも、明日の午後三時には、このクラブのために走る。

 

 ヘイルは相手の配置を示した。

 

 ノースゲート・シティ。

 

 相手の名前が入っただけで、ホワイトボードの矢印は、昨日までの練習より重く見えた。

 

 ミーティングの後、ブアリは携帯電話を開いた。

 

 父親から、明日スタジアムへ行くと届いていた。

 

 先発だよ、と書いた。

 

 送信する前に、一度だけ読み直した。

 

 それから、六番になった、と付け加えた。

 

 返信は、少ししてから届いた。

 

 見つけやすくなったな。

 

 ブアリは画面を見て笑い、ロッカーの前へ戻った。明日の用具をもう一度確認する。背番号がついたからといって、忘れ物まで誰かが見つけてくれるわけではなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。