八月九日、土曜日。
ネイサン・ベルは、朝食の途中で携帯電話を見た。
佐々木彩玄の加入が正式に発表されていた。
足元の技術に優れた日本人ゴールキーパー。パルマーレから加入。クラブの新しい構想にふさわしい選手だという。
ベルは画面を閉じた。
今日、自分が先発することは決まっている。新しいキーパーは、開幕戦の登録に間に合わない。
だから、気にする必要はない。
そう考えること自体、もう気にしているということだった。
妻が向かいの椅子から顔を上げた。
「何時に出る?」
「あと二十分」
「子どもたちは後で連れていく」
ベルは頷き、残ったパンを食べた。
今日の試合へ備えることと、来週の自分の位置を考えることを、同時にやる必要はない。
まず、今日だった。
*
レナルト・カールンが契約書に署名した部屋からは、スタジアムへ向かう人々が見えた。
赤いシャツ。子どもの手を引く父親。売店の前で話す若者たち。
自分も、この日の試合に出たかった。
しかし、登録は間に合わないと事前に説明されていた。加入日と、出場できる日が同じになるわけではない。
代理人は、ミュンヘン・ロイヤルとの契約条件の確認を終え、書類を閉じた。将来売却時の利益配分と優先交渉権について、最後まで文言を確かめていた。
カールン自身は、ヘイルとの面談で聞いた右インサイドハーフの仕事を考えていた。
前を向ける場所は多い。
ただ、その場所を守るために戻る距離も長い。
ミュンヘンでは、狭いところで相手を外せば褒められた。同じことを、雨の降るイングランドの二部リーグで、何度も身体をぶつけられながらできるのか。
早く試したかった。
「今日は、どこで見るんですか」
職員へ尋ねると、席を案内すると答えられた。
カールンは窓の下を見た。
ピッチへ出るために来た日に、客席へ座る。
それは少し、落ち着かなかった。
*
佐々木は、控え室で移動用の上着を受け取った。
クラブのエンブレムがついている。袖を通し、サイズを確認する。隣では職員が、翌日の予定を説明していた。
メディカルチェック、署名、撮影。朝から続いた手続きは、ようやく終わっていた。
ベルとは、まだ短い挨拶しか交わしていない。
同じポジションの選手と会うときは、いつも少し難しかった。歓迎されることと、競争することは、別々に起きる。
ベルは握手し、今日の試合は上から見ると全体が分かると言った。
佐々木は礼を言い、相手の手を離した。
その手の指には、古い傷がいくつもあった。
イングランドでどんなボールが飛んでくるか、映像では見ていた。それでも、そこで何年も守ってきた手を見ると、映像とは違うことを考えた。
午後、席へ案内されると、隣に若い選手がいた。
「レナルト」
手を差し出され、佐々木も名乗った。
二人とも、今日加わった。
どちらも、今日は出られない。
「右のあそこ。僕は、あそこでやるって。今日は座ってろって言われたけど」
カールンは右の中盤を指した。
佐々木は頷いた。
「僕は、一つしかないです。あそこですね」
ゴールを指すと、カールンが笑った。
*
午後二時四十五分。
ロッカールームで、ヘイルは話を終えた。
長くは話さなかった。練習してきた守備の距離と、前線から寄せる向きを確認し、相手が中央を閉じたら、急いでそこを通さないよう伝えた。
ブアリは靴紐を締め直した。
六番のシャツを着ている。
昨日まで布の上にあった数字が、今日は自分の背中にある。父親が客席で見つけるのは、この数字だろう。
隣でクルーニーが立ち上がり、何度か足を動かした。コリンズは目を閉じ、息を吐いている。
マーサーが全員を見た。
「最初の一本、取るぞ! ふわっと入るなよ。いいな!」
選手たちが立った。
通路へ出ると、音が変わった。
誰かの靴の音が、外から届く声に飲み込まれる。ブアリが見学に来た日は、こんな響きはなかった。
ノースゲート・シティの選手が横へ並んだ。
一人が、クルーニーを見上げる。
笑いながら何か言ったが、ブアリには聞き取れなかった。
午後三時、笛が鳴った。
*
最初の五分で、ベルは長いボールを三本蹴った。
ノースゲートは前から来ていた。
フォワードがマーサーへ寄せ、もう一人がブアリへ出る道を隠す。右へ渡せば、相手の左サイドの選手がフェンウィックへ走ってきた。
ベルは二度、逆側を見た。
出せなかった。
無理に通せば、中央で失う。
クルーニーへ蹴った最初のボールは、相手センターバックが跳ね返した。二本目はクルーニーが触ったが、その下にいる選手が遅れた。
ブアリが拾いに出た瞬間、相手の中盤が先に身体を入れた。
横へ渡される。
マーサーの声が飛んだ。
「戻れ、真ん中!」
ブアリは足を戻した。
相手の右ウイングがボールを持ち、エリスへ向かう。エリスは待ち、オコンネルが内側を閉じた。
ノースゲートは中央へ戻した。
ようやく、ブリストルの五人の最終ラインと、その前の三人が揃った。
ブアリは息を整えた。
ボールを受けるより先に、相手を止める仕事が来た。
*
十五分を過ぎ、コリンズが自分から少し下がった。
相手の守備的ミッドフィールダーの横へ立つ。ブアリが中央で受けると、その選手はコリンズとブアリを一度に見ようとした。
ハーパーは右で待った。
ブアリはコリンズへ出すと見せ、ハーパーへ通した。
ウォードが走る。
相手の左サイドバックが外へ出た。
ハーパーが中央へ運び、クルーニーへ渡した。若いストライカーは背中を押され、ボールを収めきれない。
相手が触り、外へ逃がした。
クルーニーは両手を広げたが、笛は鳴らなかった。
コリンズが近づいた。
「エリ! そいつが押す前に触れ!」
「触ったって!」
「もっと先だ。押されてから待ったら、毎回やられるぞ」
クルーニーは相手を見た。口元を噛み、今度は受ける直前に足を動かした。
次の場面では、相手とぶつかる前に足を出した。ボールは自分の近くへ落ち、コリンズへ預けられた。
スタンドが沸いた。
シュートではなかった。
それでも、攻撃が続いたことを、客席は喜んでいた。
*
前半四十分。
エリスが左の外で受けた。
相手は中央を閉じていた。ドイルが寄ってパスを受けると見せ、再び中へ戻る。その分だけ、エリスへ出る選手が遅れた。
左足で入れた。
クルーニーがニアへ走る。二人のセンターバックのうち、一人がついていった。
コリンズは、中央で一度止まった。
守備者がボールへ目を向けた瞬間、背中から離れる。
右足に当たったボールは、低くゴールへ入った。
コリンズは、音が大きくなった後に、決まったと分かった。
走ろうとしたところへハーパーが飛びついた。クルーニーも来る。マーサーは自陣に残り、拳を上げていた。
一対〇。
先発を告げられた昨日から、何度も考えた場面だった。
自分はまだ、ここで点を取れる。
ベンチでウルンが立ち上がり、拍手した。
その拍手も、コリンズには見えた。
*
ハーフタイム、ヘイルはクルーニーを最初に褒めた。
「ニアへ入ったことで、アダムの前が空きました」
クルーニーは頷いた。
「触りたかった顔してるな」
コリンズが聞いた。
「そりゃ、俺も取りたいよ! 一本くらい」
「俺の一本を取るな。次は俺が走るから、自分で決めろ」
二人は短く笑った。
監督は、後半に相手が人数を前へ出す可能性を説明した。ブアリの両脇へ入ってくる選手を、ハーパーとドイルが見失わないよう確認する。
ベルは水を飲みながら聞いていた。
高いボールには、最初の一声を早く出す。
相手がゴール前へ来ることは、分かっていた。
*
後半十八分、同点にされた。
ノースゲートの左サイドバックが高い位置へ出る。ウォードは前の選手を追い、フェンウィックが外へ寄った。
ハーパーが戻る途中で、相手が早くクロスを入れた。
ベルは出かけたが、手前の選手が身体を入れたため、一歩止まった。
ボールはその上を越えた。
逆側の選手がオコンネルより先に頭を当て、ゴールへ押し込んだ。
一対一。
客席から、低い声が広がった。
ベルはゴールの中へ入り、ボールを拾った。
出るなら、最後まで出るべきだった。
しかし、あの位置で味方ごと倒してしまわずに触れたか。まだ、はっきりしなかった。
マーサーが近づいた。
「ネイト、顔上げろ! 次!」
ベルは片手を上げ、中央へ蹴った。
*
ヘイルは、ベンチへ一度戻った。
ウルンを入れることは考えていた。ただ、同点にされたから替えれば、それが修正なのか、ただの反応なのか、自分にも分からなくなる。
前線を見た。
コリンズは走っていたが、下りた後に前へ戻る速度が落ちている。相手の中盤は、彼を受け渡し、ブアリへ出やすくなっていた。
七十二分、ウルンを呼んだ。
「アダムに代わります。下りて、相手の中盤の横で受けてください。エリを一人にしないように」
ウルンは頷いた。
交代の表示を見たコリンズは、すぐには歩き出さなかった。
それから、タッチラインへ走った。
ウルンと手を合わせる。
「あいつ、背中から来るぞ」
相手の中盤を指した。
「見てた。ありがとう」
ウルンは肩越しに相手を確認し、ピッチへ入った。
コリンズはベンチへ座り、渡された上着を膝へ置いた。
点を取っても、替えられる。
自分でも、脚が重くなったことは分かっていた。
*
八十二分。
ブアリが中央で受けたとき、相手はまた前へ出てきた。
彼は一度、ベルへ戻そうとした。
ウルンが、相手の中盤の背中から右へ出た。
顔が見えた。
ブアリは縦へ通した。
ウルンは一度で返さず、右へ身体を開いた。相手センターバックが前へ出る。
クルーニーは、まだ走っていなかった。
守備者の肩がウルンへ向いた瞬間、斜めに出た。
パスが、その先へ転がった。
キーパーが出る。
クルーニーは今度は持ち直さなかった。
右足で低く蹴った。
ボールがキーパーの脇を抜け、ゴールの内側へ当たった。
「来た! 来たって!」
クルーニーはウルンを探して叫んだ。右からハーパーが飛びつき、背中を押す。
「決めたのは俺! お前のパスも、よかったけど!」
ウルンは少し遅れて来て、笑いながら肩を小突いた。
二対一。
客席でカールンが立ち上がった。
佐々木も拍手しながら、反対のゴールにいるベルを見た。キーパーは自分のペナルティエリアの端で、腕を一度上げていた。
まだ試合は終わっていない。
*
エル・マリが投入されたのは、八十五分だった。
エリスに代わって、左へ入る。
最初の仕事は、相手の右サイドバックとウイングが二人で上がってくるのを止めることだった。
攻撃するために来た。
しかし、今、必要なのは、相手へ簡単にクロスを上げさせないことだった。
オコンネルが内側から声をかける。
「サイード、一人だ! 中はこっち! 両方追うな!」
エル・マリは足を緩め、外の選手へ身体を向けた。
相手は中央へ戻す。
彼は戻るパスを追いかけかけ、止まった。
ブアリが中央を塞いでいた。
相手のボールは、もう一度外へ出た。
今度はエル・マリが先に近づき、足へ当てて外へ出した。
客席から拍手が来た。
ドリブルではなかった。
彼は息を吐き、スローインに備えて立ち直った。
最後のクロスは、ベルが両手で捕った。
マーサーが相手をゴールから離す。ベルはボールを胸へ抱え、そのまま地面へ倒れた。
起き上がるまでの数秒が、長かった。
笛が鳴った。
*
試合後、ベルは佐々木と再び握手した。
「最後のクロス、あの人が寄せる前に場所を取っていましたね。すごく早かったです」
新しいキーパーが言った。
ベルは頷いた。
「その前に、一本やられた。出るなら出りゃよかったんだけどな」
失点のことだと、佐々木には分かった。
「上から見ていました。手前に二人いて、踏み切る道が変わったように見えました。そこを確認したいです」
「ああ」
「映像、見たいです」
ベルは一度、相手の顔を見た。
失敗を教えてくれ、という頼み方ではなかった。自分が明日から守る場所で、何が起きたかを知りたいのだろう。
「月曜日に見ると思う」
佐々木は頷いた。
ロッカールームの奥では、クルーニーが何度も同じゴールについて話していた。コリンズは自分のゴールより、その話を聞く方が長くなっていた。
ブアリは靴を脱ぎ、父親へ送る文章を打った。
勝ったよ。
それだけでは、何も伝わらない気がした。
どう書こうか考えていると、父親から先に届いた。
見ていた。
ブアリは携帯電話を置いた。
*
ブアリが父親と会えたのは、選手用の出口へ向かう前だった。
父親は、もう一度スタンドの方を見てから言った。
「ずいぶん近いな」
「先週も見たでしょう」
「人が入ると違う。お前がパスを戻すと、隣の人まで一緒に息を吐いていた」
ブアリは笑った。
前半、自分が無理をせず後ろへ出したとき、客席から声が来た。前へ出せという意味なのか、良かったという意味なのか、ピッチでは分からなかった。
「一回、カールンが手を上げてた」
父親が言った。
「見てたの?」
「隣の区画にいたからな」
ブアリは頷いた。
新しい選手がまた来た。二部へ来ると決めたとき、自分がその中心になるという説明を何度も聞いた。
しかし、今日の試合には、自分より目立つ仕事をした選手がいくつもいた。
コリンズが決め、ウルンが通し、クルーニーが勝ち越した。
そのことを、少しも残念には思わなかった。
「真ん中、どうだった」
父親が尋ねた。
「思ったより、人が来る」
「敵が?」
「味方も。みんな、受けられるところへ来てくれる。でも、同じところへ来ると出せなくなる」
父親は頷いた。
「それを決めるんだろう」
「僕だけじゃなくて。今日、ダンに戻せって言われた。あれで、一回楽になった」
ブアリは手に持った上着を畳み直した。
自分が何をしたいかを考えて、ここへ来た。
実際の最初の試合では、誰かに助けてもらったことの方が、すぐ言葉になった。
父親は肩へ触れた。
「お母さんにも、電話しろ。結果は知っているが、声を聞きたいそうだ」
「するよ」
別れてから、ブアリは一度だけスタジアムを振り返った。
まだ何人かのサポーターが、出口の近くで話していた。
次に彼らが来る日にも、自分は今日の位置で全部を理解しているわけではない。
それでも、また来てほしいと思った。
*
ヘイルが記者会見で最初に聞かれたのは、二人の新加入選手が決勝点を作ったことだった。
投資の効果が早くも出た、と記者は言った。
「いい連係でした」
ヘイルは答えた。
「ただ、その前にアダムが点を取りました。最後はネイサンが捕った。今日の勝利を説明するなら、その両方が要ります」
ウェインは手元へ書き込んだ。
「これで、昇格候補としての重圧は強くなりますね」
「まだ一試合です」
「その一試合に勝つために、かなり使いました」
「使いました。ただ、今日の一試合だけのために獲ったわけではありません。来週も使える形にする。それが、僕の仕事です」
会見を終えて戻る途中、ヘイルは携帯電話を見た。
リードから、プライスがアカデミーの試合で受ける前の確認を増やしていたと届いていた。
結果は引き分け。
報告書には、得点以外の場面が四つ添付されていた。
ヘイルは、明日見ます、と返した。
監督として初めて得たリーグ戦の勝点三は、まだ身体のどこかに残っていた。
それを味わいながらでも、次に見る映像は増えていく。