七月一日の朝、ブリストルには細かい雨が降っていた。
マーティン・コールがレッドクリフ・グラウンドへ着いたとき、駐車場にはまだ半分ほどしか車がなかった。七月とはいえ、雨の中では古いスタジアムの外壁も灰色に沈んで見える。正面玄関の脇には、クラブの新しい所有者を歓迎する横断幕が残されていた。掲げられてから二週間ほど経つはずだが、雨を吸った布は端から少し垂れ下がっていた。
コールはそれを見上げ、肩に掛けた鞄を持ち直した。
オーナーが替わり、監督が替わった。次は選手が替わる番だった。
昨夜、新監督のエドワード・ヘイルから送られてきたメールには、六人の補強候補と、戦術についての資料が添付されていた。候補の年齢は十七歳から二十二歳まで。所属先には、ドイツやフランス、イタリアの一部リーグで戦うクラブが並んでいる。
その中には、今のブリストル・アスレティックよりはるかに大きなクラブもあった。
金があるという噂は、すでに欧州中の代理人へ伝わり始めている。昨日だけで、コールの携帯電話には十一件の売り込みが入った。かつて一度も連絡を寄越さなかった代理人まで、親しげに彼をファーストネームで呼ぶようになっていた。
それなのに、新監督が欲しがっているのは、誰かが売り込みに来た選手ではない。
今の所属先が手放したがらない選手ばかりだった。
会議室へ入ると、ヘイルはすでに来ていた。窓際に立ち、ピッチの方を眺めている。
「おはようございます」
「ああ。早いな」
「少し確認したいことがあったので」
机の上には、選手の映像を再生するためのパソコンと、印刷された資料が積まれていた。ホワイトボードには十一個の磁石が並んでいる。
3-1-4-2。
コールはその数字を見て、椅子に腰を下ろした。
「昨日も聞いたが、本当にこれでいくんだな」
「基本形は」
「基本形、か」
コールは鞄から眼鏡を取り出した。
このクラブが昨季まで採用していたのは、四人のディフェンダーを並べる、ごく一般的な布陣だった。新監督が就任して数日でそれを変えるという。しかも、単に三人のセンターバックを並べれば済む話ではないらしい。
ヘイルはホワイトボードの中央にある磁石を指した。
「ここが重要です」
最終ラインの前に置かれた、一つだけの磁石だった。
「アンカーか」
「はい。左右のインサイドハーフには、前にも後ろにも走ってもらいます。相手のペナルティエリアに入ることもあれば、こちらの最終ラインの前まで戻ることもある。その間、中央の基準になるのがこの選手です」
「二人とも上がったら、真ん中が空くだろう」
「だから、同時に上がる場面は選ばなければいけません」
ヘイルは二つの磁石を動かし、片方を少し後ろへ残した。
説明自体は筋が通っていた。ただ、コールには気になることがあった。
「相手が4-2-3-1だったら?」
ヘイルが顔を上げる。
「相手のトップ下は、アンカーの周辺を使ってくる。こっちのウイングバックが相手のサイドバックへ出たら、その背後にはウイングが走る。右のセンターバックが外へ引っ張られれば、中央は二人で守ることになる」
「そこはインサイドハーフにも戻ってもらいます」
「戻れる距離にいればな」
コールは相手の攻撃を想定し、磁石を一つ動かした。
「こういう場面は何度もあるぞ。特にチャンピオンシップでは、相手は遠慮なく背後へ蹴ってくる」
ヘイルは少し考えてから、最終ラインの位置を下げた。
「最初から高く構える必要はありません。守備では5-3-2にして、ボールを奪ったところから前へ出ます」
「それなら分かる」
コールは頷いた。監督が机上の理想だけで押し切ろうとしているわけではないらしい。
ただし、ピッチで実行するのは磁石ではなく人間だった。戦術を理解できても走れない選手がいる。走れても、試合の終盤には判断が遅れる選手がいる。昨季までサイドハーフだった選手に、自陣のゴール前まで戻る仕事を要求すれば、不満も出るだろう。
そのあたりは、明日から始まる選手面談で確かめるしかなかった。
「で、六人か」
コールが資料を開くと、ヘイルはパソコンの画面を切り替えた。
「まず、前線から見てください」
最初に映ったのは、フランスの二部リーグの試合だった。
エリ・ジュニオール・クルーニー。
昨季、ロリアーヌで二十二得点を挙げた若いストライカーである。
コールは彼の名前をよく知っていた。むしろ、知っているからこそ、候補表を見たときには眉をひそめた。
「ボーンベリーが二月に買ったばかりだぞ」
「ええ。夏から合流する予定です」
「つまり、まだ一試合も使っていない」
ヘイルは答えず、映像を再生した。
右サイドから攻撃が始まる。クルーニーは相手センターバックの背後へ走ろうとするが、パスは出ない。味方がいったんボールを戻すと、彼も足を緩めた。
その次の動きがよかった。
相手の視線がボールへ向いた瞬間、クルーニーは守備者の肩の後ろへ滑り込んだ。短いクロスが届き、右足で合わせる。
ゴールが決まるまで、ほとんど時間はかからなかった。
「もう一度」
コールが言うと、ヘイルは映像を戻した。
若いストライカーの足が止まるところを見た。走り出しより、止まり方が巧みだった。相手を一度動かしておいて、次の一歩で置き去りにしている。
「なるほどな」
コールは眼鏡を外した。
「それで、ボーンベリーに何と言うつもりだ?」
「まず起用計画を確認したいです」
「向こうの計画を聞いたところで、売ってくれるとは限らん」
「分かっています」
ヘイルは次の映像を開いた。
今度はドイツの試合だった。ジャン・ウルン。ニュルンベルガーで頭角を現し、フランクフェルトへ移籍した若い攻撃的選手である。
ウルンはクルーニーと違い、相手の最終ラインに張りついていなかった。少し下がってボールを受け、身体を半分だけ開いて前を向く。シュートも打てるが、味方が走る時間を作ることにも長けている。
二人を並べたらどうなるか。
コールにも想像はできた。
クルーニーが背後へ走り、ウルンが手前へ降りる。センターバックがウルンについてくれば、その後ろに空間が生まれる。ついてこなければ、ウルンが前を向く。さらにインサイドハーフが遅れて入ってくる。
面白い組み合わせだった。
問題は、どちらも今のブリストルに来る理由が乏しいことだ。
「ウルンの代理人とは話せるかもしれん。ただ、フランクフェルトは安く売らないぞ」
「移籍金の準備はできます」
「金だけの話じゃない」
コールは資料を指で叩いた。
「選手には選手の時間がある。あの年齢で、欧州大会に出られるクラブから二部リーグへ移るんだ。給料を倍にすればいい、という話でもない」
ヘイルは少し黙った。
コールはその横顔を見ていた。
若い監督には、選手を駒として扱う人間もいる。ベテラン監督にもいる。欲しい選手の名前を並べ、獲れなかったらフロントのせいにする。
ヘイルがそういう男かどうかは、まだ分からない。
「二人とも必要なんです」
やがてヘイルが言った。
「二人でなければ駄目だという意味ではありません。ただ、あの役割を別々の選手に求めるなら、候補の基準は変えたくないです」
コールは小さく頷いた。
「なら、代案も用意してくれ。今の二人は、どちらも難しい」
午前中は、その後も映像が続いた。
ミュンヘン・ロイヤルのレナルト・カールンは、まだ十七歳だった。左足の扱いが柔らかく、狭い場所でも相手の足が届かない位置へボールを置ける。ヘイルは彼をインサイドハーフとして育てたいらしかったが、コールには疑問があった。
「これだけ技術があるなら、前の方で使った方がいいんじゃないか」
「それも選択肢です」
「でも君は、両方のインサイドハーフに走らせるんだろう」
「はい」
「この子が九十分、守備に戻り続けられるか?」
ヘイルはすぐには答えなかった。
映像のカールンは、ボールを持っているときには確かに魅力的だった。だが、失った直後の動きはまだ一定していない。追いかける場面もあれば、味方に任せる場面もある。
「現時点では分かりません」
「それなら、育成に時間がかかる前提だな」
コールは候補表の余白に、細く線を引いた。
十七歳の選手を獲得すること自体は悪くない。しかし、チームが必要とする仕事をまだできない選手に、大きな移籍金を使うべきかどうかは別だった。
ましてミュンヘン・ロイヤルは、自分たちの育成組織から出てきた有望株を簡単に手放すクラブではない。
昼休みになっても、コールの頭には移籍金の数字が残っていた。
食堂でサンドイッチを買い、廊下の窓からピッチを見た。芝生の上では用具係がラインを引き直している。スタンドの屋根から雨水が落ち、誰もいない客席に細い筋を作っていた。
ここでプレーするために、あの若者たちを呼ぶ。
そう考えると、少し妙な気分になった。
コールはこのスタジアムを嫌いではなかった。だが、欧州の強豪クラブの施設を見慣れた選手にとって、レッドクリフ・グラウンドが魅力的に映るとは限らない。
新しいオーナーは、いずれスタジアムを拡張すると言っている。
いずれ、という言葉は便利だった。
今のところ、客席は二万七千ほどしかない。
午後、会議室へ戻ると、ヘイルは四人目の映像を準備していた。
サイード・エル・マリ。
ケルンベルクに所属する若いアタッカーだった。
左サイドでボールを受けると、相手に向かって迷いなく仕掛ける。最初の数歩が速い。重心の低いドリブルで守備者を揺さぶり、内側へ入ってシュートを打つ。
攻撃の映像だけなら、文句はなかった。
「左ウイングバック?」
コールが尋ねると、ヘイルは頷いた。
「順足で使いたいと言ってなかったか」
「基本的にはそう考えています」
「この選手は右足の方が得意だろう」
ヘイルは別の映像を開いた。
エル・マリが左サイドでボールを失う。相手の右サイドバックが前へ運び、さらにその外側をウイングが走る。エル・マリは追いかけるものの、途中で味方の守備者へ対応を任せた。
コールは画面を止めた。
「ここだな」
「ええ」
「これをやられたら、左のセンターバックはたまらんぞ」
ウイングバックは攻撃の選手であると同時に、守備では最終ラインの一員になる。高い位置から戻りきれなければ、3バックの外側を何度も攻められる。
エル・マリにその仕事を覚えさせることはできるかもしれない。だが、得意なプレーを削ってまで守備の負担を増やすことが、本人の成長にとって正しいかは分からなかった。
「本人が望むなら、考えてもいい」
コールはそう言った。
「ただし、今の段階では左ウイングバックの第一候補にはしない。左利きで、最初からあの位置を守れる選手も探そう」
ヘイルは反論しなかった。
その代わり、候補表に何かを書き加えた。
五人目の選手は、二人の意見が最も早く一致した。
アイユブ・ブアリ。
リール・ユナイテッドでプレーする若いミッドフィールダーだった。
十七歳の誕生日に、マドリード・レアルとの欧州大会へ先発した。コールもその試合を見ていた。大きな舞台だったが、ブアリは必要以上に急がなかった。
映像の中で、相手の前線が二人がかりで寄せてくる。ブアリは一度身体を開き、遠くへ蹴ると見せてから、近くの味方へ短いパスを通した。
次の場面では、相手の攻撃的ミッドフィールダーが中央へ入り込もうとする。その動きに合わせてブアリが数歩ずれ、パスの道を塞いだ。ボールには触れていない。それでも相手は攻撃の向きを変えざるを得なかった。
ヘイルは何も言わず、映像をもう一度流した。
「これか」
コールが呟く。
「はい」
3-1-4-2のアンカー。
両インサイドハーフが前へ出るなら、その背後に残る選手は、攻守の両方で判断を誤れない。センターバックの前で相手を止めるだけでは足りず、ボールを奪った後には攻撃の方向を決める必要がある。
ブアリには、その役割を担える可能性があった。
ただ、まだ若い。身体をぶつけられたときの強さも、試合の流れを九十分通して管理する力も、これから身につける部分が多い。
「リール・ユナイテッドは手放したがらないだろうな」
「でしょうね」
「それでも、ここは本気で動くか」
「お願いします」
コールは候補表のブアリの名前を丸で囲んだ。
最後はゴールキーパーだった。
佐々木彩玄。
日本で育ち、ベルギーを経てイタリアのパルマーレへ渡った大型のゴールキーパーである。
ヘイルが最初に見せたのは、シュートストップではなかった。
相手のフォワードが二人で前から追ってくる場面で、佐々木はセンターバックからのバックパスを受ける。追い込まれているように見えたが、ボールを止めた位置がよかった。相手が寄せる方向とは逆へ一歩運び、右側の味方へ通した。
「足元はいいな」
コールが言う。
「3バックの後ろで使いたいです」
「だが、こっちのリーグではもっと蹴ってくるぞ」
ヘイルは次の映像を再生した。
高いクロスがゴール前へ入る。佐々木は飛び出しかけたが、相手選手と味方の間で動きが止まり、結局ゴールライン付近へ戻った。
クロスは別の守備者が弾き返したものの、処理は危うかった。
「ここは確認したいです」
ヘイルが言った。
「ハイボールへの対応ですね」
コールは腕を組んだ。
チャンピオンシップでは、相手が弱点を見つければ繰り返し狙ってくる。特にセットプレーは容赦がない。大柄な選手をゴール前へ集め、キーパーの動きを邪魔し、何度でもボールを放り込んでくる。
足元が巧みであることは魅力だが、それだけでゴールを守れるわけではない。
「GKコーチにも見せよう。獲得を考えるのは、その意見を聞いてからだ」
ヘイルは頷いた。
会議が終わったのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。
六人の名前が並んだ資料は、朝よりもずいぶん書き込みが増えていた。丸印、疑問符、別の候補を探すよう指示した欄。だが、正式なオファーを出せる選手はまだいない。
コールは鞄を閉じた。
「明日は今いる選手たちと話す。補強の前に、あいつらをちゃんと見ておかないとな」
「分かりました」
「特に主将のマーサーには時間を取る。君の戦術を聞いて、言いたいことが山ほどあるはずだ」
ヘイルは少し笑った。
「それは楽しみです」
「楽しめるといいがな」
コールは会議室を出た。
廊下を歩きながら、携帯電話を取り出す。最初に連絡したのは、ボーンベリーFCの補強担当者だった。
何度か呼び出し音が鳴り、相手が出た。
「マーティン? 久しぶりだな」
「ああ。忙しいところ悪い」
「新しいオーナーが来て、景気がいいらしいじゃないか」
「噂は早いな」
「で、誰が欲しい?」
「クルーニーについて聞きたい」
電話の向こうで、相手が笑った。
「おいおい。うちが買ったばかりだぞ」
「知ってる」
「まだプレシーズンも始まってない」
「だから、今季の起用計画を聞いてるんだ」
「売らないよ」
「ローンは?」
「それも考えてない」
即答だった。
コールは窓際で足を止めた。雨は上がっていたが、駐車場の水たまりには灰色の空が映っている。
「プレシーズンが終わっても同じか?」
「そこまでは分からない。監督がどう評価するかによる」
「なら、八月にまた電話する」
「期待するなよ」
「してないさ」
電話を切り、手帳に短く書いた。
クルーニー。現時点で売却・貸出意思なし。八月再確認。
それから次の番号を探した。
フランクフェルトの担当者には、昨年の冬に一度会っている。たしか、酒を飲まない男だった。夕食の席でワインを断り、炭酸水ばかり飲んでいたことを覚えている。
コールは番号を押した。
会議室の扉は、まだ開いたままだった。
中ではヘイルがホワイトボードの前に立ち、十一個の磁石を見つめている。名前が決まった選手は、一人もいない。
その夏、ブリストル・アスレティックが何人の選手を獲得するのか、コールにはまだ分からなかった。
ただ、これまでのどの夏よりも多くの電話をかけることになるだろうとは思っていた。
しばらくは貼り付けつつ、修正していきます