ダニエル・マーサーが家を出たのは、いつもより二十分ほど早い時間だった。
玄関で靴紐を結んでいると、キッチンから妻が声をかけてきた。
「今日は遅くなる?」
「分からない。新しい監督と話すことになってる」
「何を?」
「来季のことだろうな」
妻はそれ以上聞かなかった。代わりに、テーブルの上に置いてあった車の鍵を取って渡してくれた。
マーサーは三十二歳になっていた。ブリストル・アスレティックに入団して九年。移籍してきた当時は、試合に出られるならどこでもよかった。チャンピオンシップのクラブに拾ってもらえたことが嬉しく、最初の契約書に署名するときには手が震えたものだった。
今では主将を任され、スタジアムの売店では自分の名前が入ったユニフォームを見かける。
だが、契約は来年の六月で切れる。
新しいオーナーが来た。
新しい監督が来た。
大金を使って若い選手を集めるらしい、という話も聞こえている。
マーサーは車のエンジンをかけた。
自分が二十三歳だった頃、三十二歳のセンターバックを見て何を思っていただろう。
経験がある。頼りになる。
それから、もう長くはない。
おそらく、そんなところだった。
練習場の駐車場へ着くと、見慣れた小型車が一台、先に止まっていた。
ルイス・ハーパーの車だった。
ハーパーは二十歳。クラブの育成組織で育ち、昨季ようやくトップチームで十二試合に出場した。先発は三度だけ。本人はもっと試合に出たいと考えているし、マーサーもそれを知っていた。
「おはようございます」
ハーパーが声をかけてきた。
「早いな」
「面談なんで。遅れたくなくて」
「俺もだ」
二人は建物へ向かった。
ハーパーはいつになく口数が少なかった。普段なら、昨夜見た試合の話や、新しいスパイクの話をしてくる。今日は廊下に入るまで、何も言わなかった。
「緊張してるのか」
マーサーが尋ねると、ハーパーは笑った。
「まあ、ちょっと」
「別に取って食われるわけじゃないだろ」
「そうですけど。新監督、若い選手をたくさん獲るって聞いたんで」
「俺は年寄りをたくさん獲るって聞きたいね」
ハーパーが吹き出した。
マーサーはそのまま歩いた。
自分も同じように不安だとは、わざわざ言わなかった。
*
エドワード・ヘイルが最初に話したのは、主将のマーサーだった。
マーティン・コールも同席している。会議室の机には三本の水が置かれ、窓の向こうでは用具係が練習用のマーカーを並べていた。
「昨季の試合は、すべて見ました」
ヘイルが言った。
「全部ですか」
「はい」
「大変だったでしょう」
「いえ。参考になりました」
マーサーは少し笑った。
昨季のブリストルは、昇格を争うには勝点が足りず、残留を心配するほど悪くもなかった。勝てそうな試合を落とし、負けそうな試合で引き分ける。何かが決定的に悪いわけではないが、どこか足りない。
選手にとっても、歯がゆい一年だった。
ヘイルはパソコンで映像を再生した。
昨季のアウェーゲーム。相手の右サイドから長いボールが入り、マーサーが中央から外へ引っ張り出される。相手のフォワードは先に落下地点へ入り、マーサーが身体を寄せるより早くボールを収めた。
「この場面ですが」
ヘイルが言いかけたところで、マーサーは画面を指した。
「右サイドバックが戻れてないんですよ」
映像を戻すと、確かにそうだった。
ブリストルの右サイドバックは、攻撃参加した直後にボールを奪われていた。マーサーはその背後を埋めるために走り、中央から離れている。
「ここで俺が出ないと、相手はそのまま前を向く。だから行ったんです」
「分かります」
「で、出たら出たで、真ん中が空く」
マーサーは椅子に背中を預けた。
「去年は、ああいうのが多かったですね」
ヘイルは何も言わず、もう一度映像を見た。
その沈黙が、マーサーには少し意外だった。
新監督というものは、たいてい自分の考えを説明したがる。特に若い監督はそうだ。古いやり方を変える、もっと攻撃的になる、選手には高い強度を求める。似たような言葉を、マーサーはこれまで何度も聞いてきた。
ヘイルは画面を止め、別の試合を開いた。
今度はゴール前の守備だった。相手のクロスに対し、マーサーが先に身体を入れて競り勝つ。クリアした後も、味方の位置を確認しながらラインを押し上げていた。
「こういうプレーは、今季も必要です」
ヘイルはそう言って、ホワイトボードへ向かった。
そこには3-1-4-2の磁石が並んでいた。
「中央のセンターバックとして考えています」
「真ん中ですか」
「ええ」
マーサーは布陣を眺めた。
両側のセンターバックは、相手がサイドへ出てきたときに広い範囲を守らなければならない。自分の足が以前ほど速くないことは、誰よりも本人が分かっている。中央でラインを管理する役割なら、経験を生かせるかもしれない。
「先発ですか」
マーサーは尋ねた。
「競争になります」
ヘイルの返事は早かった。
マーサーはコールへ目を向けた。
「センターバックも獲るんですね」
「検討してる」
「何人?」
「まだ決まってない」
「なるほど」
マーサーは両手を膝の上に置いた。
九年間、このクラブでプレーしてきた。怪我を抱えたまま試合に出たこともある。若い選手が失敗したときには、代わりに記者の前へ出たこともある。
それでも、新しい監督が来れば、また一から競争が始まる。
理屈は分かる。
分かることと、面白いと思うことは違った。
「俺は、まだ試合に出たいです」
マーサーが言った。
「もちろんです」
「若い選手の面倒を見るのは構いません。でも、それだけのために残るつもりはない」
ヘイルは頷いた。
「そのつもりで考えています」
マーサーは監督の顔を見た。
表情からは、どこまで本気なのか分からなかった。
「それと、一つだけ」
「何でしょう」
「このリーグは、映像で見るよりずっと荒いですよ」
コールが少し笑った。
マーサーは続けた。
「冬場のアウェーなんか、ピッチが重くて、パスがまともに転がらないこともある。相手の九番がずっと身体をぶつけてきて、後半になったら二人目まで入ってくる。そういう試合でも、同じサッカーをやるんですか」
ヘイルは窓の外へ目を向けた。
雨上がりの練習場は、ところどころ色が濃くなっていた。
「そのときにできるサッカーをします」
「なるほど」
「ただ、できることを増やしたいんです」
マーサーはそれ以上聞かなかった。
会議室を出ると、廊下でハーパーとすれ違った。
「どうでした?」
「普通だよ」
「何か言われました?」
「真ん中で使うかもしれないってさ」
「いいじゃないですか」
「そうなるといいけどな」
マーサーは肩を軽く叩いてやった。
「お前も、言いたいことは言ってこいよ」
*
ハーパーの面談は、マーサーより長くなった。
昨季の十二試合。そのうち先発は三試合。ヘイルはすべての出場場面を確認していた。
ハーパーは攻撃的なミッドフィールダーとして育てられてきたが、トップチームでは中央の二列目や、守備的な位置で使われることもあった。本人はどこでも出るつもりだったし、実際にそう伝えてきた。
ただ、試合に出ると、つい難しいパスを選んでしまう。
目立ちたいからだった。
ボールを奪い、前を向き、誰も気づいていないコースへパスを通す。そういうプレーを一度成功させれば、次の試合でも使ってもらえるのではないか。ベンチに座り続けた若者がそう考えるのは、無理もなかった。
ヘイルは昨季のホームゲームを再生した。
ハーパーが中央でボールを受け、右足で縦パスを狙う。味方のフォワードは動き出していたが、相手センターバックが先にコースへ入った。
ボールを奪われ、相手のカウンターが始まる。
ハーパーは走って戻ったものの、相手のパスはすでに中央を通過していた。
「これ、覚えていますか」
「はい」
「なぜ、前へ出したんですか」
ハーパーは画面を見た。
「通ると思ったので」
「本当に?」
責めるような言い方ではなかった。
ハーパーは少し考えた。
「……通したかったんです」
コールは机の上でペンを転がした。
ヘイルは映像を数秒戻した。
「ここで左へ預けていたら、次はどうなったと思います?」
ハーパーは画面に身を寄せた。
左には味方のサイドバックがいた。相手の右サイドハーフは、中央を警戒して内側へ寄っている。
「左から運べたかもしれません」
「そうですね」
ヘイルはそこで再生を止めた。
「前へのパスが悪いわけじゃありません。ただ、急ぐ必要がない場面もあります」
ハーパーは頷いた。
自分でも分かっていたことだった。
昨季の終盤、途中出場した試合でパスミスをした後、ベンチから大きな声で名前を呼ばれた。その後はボールを受けるたび、次に何をすべきか考えるより先に、失敗しないことを考えていた。
それでも、何かを見せなければ次はない。
そう思うと、また難しいプレーを選んでしまう。
「今季は、どこで使うつもりですか」
ハーパーが尋ねた。
「インサイドハーフです」
ヘイルはホワイトボードの二つの位置を指した。
「どちらでもできるようになってほしい」
「攻撃的な方ですか?」
「両方とも攻撃に参加します。ただし、守備でもかなり走ってもらいます」
ハーパーは少し安心した。
自分の得意な位置がなくなるのではないかと心配していたからだ。
「出場機会はありますか」
「あります」
ヘイルはそう言った後、少し間を置いた。
「ただ、保証はできません」
ハーパーは頷いた。
保証がないことくらい、最初から分かっていた。
それでも、監督が自分の映像を見てくれている。昨季、何度も繰り返した失敗について、理由を聞いてくれている。
それは悪くない始まりだった。
面談が終わり、ハーパーが廊下へ出ると、マーサーはすでに練習場へ向かっていた。
ハーパーは窓からその背中を見た。
三十二歳の主将は、スタッフと何かを話しながら、ゆっくりと芝生の上を歩いていた。
自分はまだ二十歳だ。
時間はある。
だが、マーサーのように九年もこのクラブでプレーできるかどうかは、誰にも分からなかった。
*
午後の面談には、ジェームズ・ウォードが来た。
二十九歳の右サイドの選手だった。
昨季はリーグ戦三十八試合に出場し、チームの中でも出場時間が長い。足が特別速いわけではないが、上下動を惜しまない。試合の終盤になっても相手を追いかける姿勢は、コールも高く評価していた。
問題は契約だった。
ウォードの契約は来年の六月で満了する。代理人からは、二年の延長と給与の引き上げを求める連絡が来ていた。
コールは本人が座るのを待ち、契約書の話を切り出した。
「代理人とは話してる。希望も聞いた」
ウォードは頷いた。
「どうなりそうですか」
「まだ決めてない。監督の考えも聞きたい」
ヘイルは、昨季の映像を見せた。
ウォードが右サイドでボールを受け、相手サイドバックを引きつける。中央の味方へ預けた後、すぐに縦へ走り直す。折り返しのボールが入り、ウォードは低いクロスを送った。
ゴールにはならなかったが、いい攻撃だった。
「こういう走り方は、今季も必要です」
ヘイルが言った。
「ただ、守備ではもっと後ろまで戻ってもらうことになります」
「ウイングバックですか」
「はい」
ウォードは布陣を見た。
昨季は右サイドハーフとしてプレーしていた。後ろにはサイドバックがいた。新しい布陣では、自分の背後にいるのは右センターバックになる。
それだけでも、仕事はかなり変わる。
「守備の練習は必要ですね」
「そうですね。プレシーズンで確認します」
「走るのは平気です」
ウォードは言った。
「でも、相手の左ウイングと一対一になる場面は増えますよね」
「増えると思います」
「だったら、最初からその練習をやりたいです。試合で急にやれと言われても、たぶん難しい」
ヘイルは頷いた。
コールはそのやり取りを聞きながら、ウォードの資料に目を落とした。
二十九歳。契約満了まで一年。
今季の働き次第では、来年以降も十分に戦力になる。ただ、クラブがこれからどれほどの規模で補強を進めるのか、コール自身にも見通せていない。
長期契約を結べば、選手には安心が生まれる。
同時に、クラブには責任が生まれる。
「契約の件だけどな」
コールが言った。
「今の段階では、一年の延長を考えている。基本給は現状維持で、出場数に応じたボーナスをつける形だ」
ウォードの表情が少し変わった。
「二年は難しいですか」
「今すぐは約束できない」
ウォードは水のボトルに手を伸ばしたが、蓋を開けなかった。
「代理人とは、二年で話してたんです」
「聞いてる」
「子どもが、来年から学校なんですよ」
コールは頷いた。
ウォードには小さな子どもが二人いる。クラブのイベントに家族で来たとき、コールも会っていた。
「引っ越すなら、早めに決めたいんです。残れるなら残りたいですし」
ウォードは淡々と話した。
年俸の額だけではない。
家を買うか、借り続けるか。子どもをどこの学校へ通わせるか。家族にとって、契約の一年は短くない。
コールは机の上で手を組んだ。
「分かってる。だから、今ここで返事を急がせるつもりはない。代理人とも続けて話す」
ウォードは少し考え、頷いた。
「お願いします」
面談が終わった後、コールはしばらく契約書の資料を見ていた。
「どう思います?」
ヘイルが尋ねた。
「選手としては必要だ。ただ、二年後にどこまで使えるかは分からん」
「本人は残りたそうでしたね」
「そうだな」
コールは資料を閉じた。
新しいオーナーは、世界に知られる若い選手を三人、できれば五人欲しいと言っている。
だが、クラブにいるのは、未来のスター候補だけではない。
契約満了が近いベテランもいる。
試合に出たい若者もいる。
家族の生活を考えながら契約を待つ選手もいる。
その全員が、明日から同じ練習場へ集まる。
*
夕方、九人目の面談が終わった。
ヘイルは選手一覧を広げ、午前中に書いた評価を見直した。
二十七人のうち、今日話したのは九人。
四人の評価に手を入れた。
マーサーは中央センターバックの有力候補として残す。ハーパーはインサイドハーフの競争に加える。ウォードは右ウイングバックとしてプレシーズンで試す。
映像だけでは分からなかったことが、いくつもあった。
マーサーは、足が遅くなったことを自分で理解していた。そのうえで、守備の配置について具体的な意見を持っていた。
ハーパーは、技術が足りないからパスを失うわけではなかった。出場機会の少なさが、判断を急がせていた。
ウォードは、新しい役割を嫌がらなかった。むしろ、必要な練習を早く始めたいと考えていた。
ヘイルはペンを置いた。
「どうだった?」
コールが尋ねた。
「思っていたより、話せました」
「そりゃよかった」
「マーサーは、いい主将ですね」
「そうだよ」
コールは即答した。
「だから九年もいる」
そのとき、コールの携帯電話が鳴った。
ボーンベリーFCからだった。
朝に届いていた問い合わせへの返答らしい。
コールは画面を確認し、電話に出た。
話は短かった。
クルーニーについて、現時点では売却もローンも考えていない。プレシーズンでの評価が終わるまでは、起用計画も変わらない。
昨日、電話で聞いた内容と同じだった。
「分かった。ありがとう」
コールは通話を終えた。
「クルーニーですか」
ヘイルが尋ねる。
「ああ。今のところ動かない」
「そうですか」
「八月にもう一度聞く。それまでは別の候補も見よう」
ヘイルは頷いた。
コールは携帯電話を机に置いたが、すぐにまた通知が届いた。
今度はオーナーの秘書からだった。
明日の午後、スタジアム拡張についての会議を開きたいという。
コールは画面を見つめた。
「どうしました?」
ヘイルが尋ねる。
「明日、オーナーが来る」
「補強の話ですか」
「いや。スタジアムだ」
ヘイルは窓の外を見た。
レッドクリフ・グラウンドの古い客席が、夕方の光の中に並んでいた。約二万七千人を収容するスタジアム。ブリストルの人々にとっては長年親しんだ場所だが、オーナーの構想するクラブには小さすぎるらしい。
「もう拡張するんですか」
「少なくとも、話はしたいそうだ」
コールは椅子から立ち上がった。
「補強の電話もまだ山ほどあるのにな」
ヘイルは机の上の選手一覧を揃えた。
「明日の午前は、残りの面談ですね」
「そうだ。午後はオーナーの会議」
「分かりました」
コールは鞄を持ち、会議室の扉へ向かった。
廊下へ出る前に振り返ると、ヘイルはまだ座っていた。
「帰らないのか?」
「少しだけ、映像を見直します」
「マーサーのか?」
「ハーパーです」
コールは頷いた。
「遅くなるなよ」
扉を閉めると、廊下は静かだった。
選手たちはすでに帰り、清掃スタッフが遠くで掃除機をかけている。壁には昨季のチーム写真が掛かっていた。
コールはその前で足を止めた。
写真には、今日面談した選手たちも写っている。
主将のマーサーは中央に立ち、ハーパーは後列の端にいた。ウォードは前列で、隣の選手と肩を組んで笑っている。
来年の写真に、このうち何人が残っているだろう。
その答えを出すのも、自分の仕事だった。
コールは再び歩き始めた。
スタジアムの外へ出ると、雨は完全に上がっていた。西の空には細い夕焼けが見える。
駐車場の向こうでは、赤い横断幕が風に揺れていた。
新しい時代が始まる。
その言葉を口にするのは簡単だった。
だが、クラブが変わるということは、そこにいる人間の暮らしも変わるということだった。
コールは車の鍵を取り出した。
明日も、忙しくなりそうだった。