七月三日、木曜日。
レッドクリフ・グラウンドの西スタンドには、雨漏りする場所が三つあった。
うち一つは、クラブの施設担当者が毎年のように修理を申請している箇所だった。春先に一度塞いだはずだが、先週の雨でまた水が落ちてきた。客席の上に張り出した屋根は、外から見ればそれほど傷んでいない。問題は、雨が降ると初めて分かる。
マーティン・コールは、その話を聞きながら階段を上がっていた。
「応急処置は?」
「済ませました。ただ、次に強い雨が降れば分かりません」
施設担当のピーター・グレイは、手すりの錆びた部分を避けながら答えた。
「ここだけじゃないんです。東側の通路も排水が悪い。売店の裏では配管を交換したいと言われていますし、アウェー側のトイレは、もう何年も前から……」
「分かった、ピーター」
コールは途中で遮った。
「全部、今日の資料に入ってるんだな?」
「ええ。写真もあります」
「なら、それを見せよう」
グレイは納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
スタンドの最上段に着くと、ピッチ全体が見渡せた。
緑の芝生を囲む赤い客席。屋根の支柱。照明塔。バックスタンドの向こうに連なる街並み。
この景色を、コールは嫌いではなかった。
ただ、これからやってくる男が同じように考えるとは思えなかった。
ナディーム・アル=ラシード。
クラブの新しい所有者は、午後一時に到着する予定だった。
秘書から送られてきた会議の議題は、わずか三行しかなかった。
スタジアムの収容人数。
改修および拡張の可能性。
今後の投資計画。
コールは三行目が気に入らなかった。
今後、という言葉には、いくらでも仕事を詰め込める。
「監督は?」
グレイが尋ねた。
「午前中は選手と話してる。午後の会議には来る」
「サッカーの監督が、屋根の話を聞いてどうするんです?」
「俺もそう思う」
コールは時計を見た。
まだ十時前だった。
新監督の面談は、ちょうど始まった頃だろう。
*
エドワード・ヘイルは、前日の夜に二十七人分の選手資料をもう一度読み直していた。
九人と面談を終えた時点で、最初に考えていた評価にはすでにいくつか修正が入っている。
数字や映像からは分からなかった事情があった。
ダニエル・マーサーは、中央のセンターバックとして使える可能性が高い。ルイス・ハーパーには、もう少し試合に出る時間を与えてみたい。ジェームズ・ウォードは、右ウイングバックへの転向に前向きだった。
ただ、ウォードの契約は来年で切れる。
その問題は、ヘイルには解決できない。
今朝最初に面談したのは、昨季左サイドバックとして二十九試合に出場したマシュー・エリスだった。
二十六歳。左利き。身長はそれほど高くないが、走力があり、クロスの精度も悪くない。
ヘイルは、彼を左ウイングバックとして考えていた。
「走る距離は増えます」
説明すると、エリスはすぐに頷いた。
「それは大丈夫です」
「ただ、戻る位置が変わります。今までは四人の最終ラインに戻っていましたが、今季は五人になる。相手の右ウイングをどこまで追うか、判断が必要です」
エリスはホワイトボードを見た。
「この位置なら、前にいる時間も増えますよね」
「ボールを持っているときは、そうです」
「じゃあ、悪くないですね」
ヘイルは少し笑った。
エリスは、昨日のウォードよりも新しい役割への抵抗が少ないようだった。
もともとサイドバックとしてプレーしていたため、守備の基本的な位置取りを理解している。左足で縦へ運び、クロスを入れられることも、ヘイルの構想に合っていた。
問題は、相手のウイングとサイドバックを一人で見なければならない場面だった。
ヘイルは練習メニューの余白に、エリスの名前を書き込んだ。
午後からは、実際にピッチで確認できる。
面談が終わると、エリスは立ち上がった。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「左ウイングバックも、補強するんですか?」
ヘイルはペンを置いた。
「候補は探しています」
「そうですか」
エリスは頷いた。
それだけだった。
ドアが閉まった後、ヘイルはしばらく椅子に座っていた。
選手は、新しい監督がどこで自分を使おうとしているかを知りたがる。
そして、それと同じくらい、自分の代わりに誰が来るのかを気にしている。
ヘイルは昨日、コールが言っていたことを思い出した。
まだ獲れるかどうかも分からない選手の名前を、今いる選手に話す必要はない。
だが、補強を考えていないふりをするのも違う。
結局、今日も曖昧な返事になった。
次の面談まで、あと五分あった。
ヘイルは窓を開けた。
練習場から、ボールを蹴る音が聞こえてきた。
*
午後一時七分。
アル=ラシードは、予定より七分遅れてスタジアムへ到着した。
黒い車から降りてきた彼は、白いシャツに紺色のジャケットを着ていた。六月の買収発表で見たときよりも、ずっと普通の経営者に見える。
コールは正面玄関で出迎えた。
「ようこそ」
「マーティン。元気そうだな」
「おかげさまで」
「監督は?」
「会議室にいます」
「よし。まずスタジアムを見たい」
コールは一瞬、秘書の方を見た。
会議は一時半からの予定だった。
アル=ラシードは気にしていない様子で、玄関の奥へ歩き始めた。
「ここには何人入る?」
「公式には約二万七千人です」
「全部埋まるのか?」
「試合によります」
「プレミアリーグへ上がったら?」
「今よりは増えるでしょう」
「では、足りなくなるな」
まだ昇格していない。
コールはそう言おうとして、やめた。
この男にとって、昇格は達成すべき目標ではなく、すでに予定表に書き込まれた出来事なのかもしれなかった。
スタンドへ出ると、アル=ラシードはしばらく黙ってピッチを眺めた。
風が強く、客席の間を抜けてきた空気がジャケットを揺らした。
「古いな」
最初の感想は、それだった。
「そうですね」
「だが、悪くない」
アル=ラシードは手すりに触れた。
「ここで何年、試合をしている?」
コールが答える前に、施設担当のグレイが説明を始めた。
スタジアムの歴史。過去の改修。収容人数の変遷。今の設備が抱えている問題。
グレイは話し始めると止まらなかった。
コールは途中で遮ろうとしたが、アル=ラシードが手で制した。
そのまま、すべて聞いていた。
雨漏りの話になったときには、実際に問題の箇所まで歩いていった。
「修理にはいくらかかる?」
グレイが金額を答える。
「それなら、なぜ直さない?」
グレイはコールを見た。
コールは肩をすくめた。
「予算の問題です」
「そうか」
アル=ラシードは少し考えた。
「今日中に見積書を出してくれ」
グレイの表情が変わった。
「今日ですか?」
「できるだろう?」
「ええ。もちろん」
「なら、まずそこからだ」
アル=ラシードは再びピッチへ目を向けた。
「新しいスタジアムを建てる話は、その後にしよう」
コールは思わず彼を見た。
「建てるんですか?」
「まだ決めていない」
アル=ラシードは笑った。
「だから、これから話す」
*
会議室には、スタジアムの図面が広げられていた。
ヘイルは一時半より少し早く入り、端の席に座っていた。
施設担当者、財務担当者、コール、オーナーの秘書。そしてアル=ラシード。
人数のわりに、部屋は狭かった。
最初に説明したのは財務担当者だった。
現在の収容人数、平均入場者数、年間の試合開催日数、飲食と物販の収益。改修を進めた場合の概算費用。拡張工事を行う際の制約。
アル=ラシードは資料をめくりながら、時折質問した。
「この数字は、チャンピオンシップでの売上か?」
「はい」
「プレミアリーグへ上がった場合の予測は?」
「別紙にあります」
「年間の維持費は?」
「こちらです」
話は予定より早く進んだ。
だが、ヘイルには途中から分からない数字が増えてきた。
建設費の償却、営業日以外の施設利用、周辺交通への影響、自治体との協議。
サッカーの監督として参加したものの、発言する機会はほとんどなかった。
アル=ラシードは、ある図面の上で手を止めた。
「この土地は誰のものだ?」
施設担当者が答える。
「クラブが保有しています。ただし、周辺の一部は別です」
「買えるのか?」
「所有者との交渉が必要です」
「なら、調べてくれ」
コールはメモを取った。
こういう調子で、仕事が増えていく。
アル=ラシードは最後に、ヘイルへ顔を向けた。
「エドワード。君はどう思う?」
突然話を振られ、ヘイルは少し姿勢を正した。
「スタジアムについてですか?」
「ああ」
ヘイルは図面を見た。
新しいスタジアムの案には、現在よりはるかに大きな客席が描かれている。ピッチの周囲には広い通路があり、商業施設の区画も設けられていた。
「今のスタジアムは、選手との距離が近いですね」
「それがいいのか?」
「はい。少なくとも、試合をする側からすれば」
アル=ラシードは頷いた。
「では、拡張するときも残そう」
コールが顔を上げた。
「何をです?」
「距離だよ」
アル=ラシードは図面の客席を指した。
「大きくするのはいい。だが、遠くから眺めるだけの場所にはしたくない」
財務担当者が何かを書き留めた。
ヘイルは、少し意外に思った。
この男はもっと単純に、大きく、新しく、豪華なものを欲しがるのだと思っていた。
しかし、アル=ラシードは古いスタジアムの問題を聞き、修理の見積もりを求め、客席とピッチの距離を気にしている。
もちろん、それがどこまで本気なのかは分からない。
だが、少なくとも図面の上だけで決めるつもりはないらしかった。
会議は午後三時を過ぎて終わった。
アル=ラシードは席を立ち、コールへ言った。
「補強の方は?」
「動いています」
「何人決まりそうだ?」
「まだ交渉を始めたところです」
「そうか」
オーナーはヘイルを見た。
「君が欲しい選手は、獲れそうか?」
ヘイルは答えに迷った。
クルーニーはボーンベリーFCが手放す気を見せていない。ウルンもブアリも、所属クラブとの交渉は難航するだろう。カールンはまだ若く、エル・マリには守備面の課題がある。佐々木彩玄についても、GKコーチの評価を待っている。
現時点では、何も決まっていない。
「簡単ではありません」
ヘイルはそう答えた。
アル=ラシードは笑った。
「それは分かっている」
「ですが、必要な選手は明確です」
「なら、進めてくれ」
それだけだった。
金額の上限も、期限も、細かな条件も言わなかった。
コールは、その方がかえって難しいと感じた。
*
午後四時半。
練習場では、初めての本格的な戦術練習が始まっていた。
ヘイルは選手たちを集め、3-1-4-2の配置を説明した。
センターバックが三人。
アンカーが一人。
左右のインサイドハーフとウイングバックが四人。
前線に二人。
説明は短かった。
選手たちは磁石を見た後、ピッチへ出た。
最初は、ボールを使わずに立ち位置を確認するだけだった。相手が右へ展開したら、どこまでスライドするか。ウイングバックが前へ出たとき、センターバックはどこを守るか。アンカーが相手のトップ下へ寄せたとき、インサイドハーフはどの位置まで戻るか。
五分ほどで、問題が出た。
右ウイングバックに入ったウォードが相手の左サイドバックへ出る。相手はその背後へボールを運んだ。
右センターバックが外へ走る。
中央にいたマーサーが、空いた場所を埋めようと左へ寄った。
その瞬間、相手のフォワードが中央へ入ってきた。
「止めて」
ヘイルが笛を吹いた。
選手たちが足を止める。
ヘイルはウォードのところへ歩いた。
「今の場面、相手のサイドバックへ出るのは悪くありません。ただ、出る前に後ろを見てください」
ウォードは振り返った。
右センターバックとの距離が、思ったより開いていた。
「俺がもう少し待てばよかったですか?」
「相手のボールの持ち方によります。今は前を向かれていなかったので、急がなくてもよかった」
ウォードは頷いた。
次に、ヘイルはマーサーへ声をかけた。
「中央はどうでした?」
「俺が外へ寄った時点で、九番が中に入ってきました」
「そうですね」
「右のセンターバックがもっと早く戻れるなら、俺は残れます。でも、あの距離だと厳しい」
ヘイルは配置を少し変えた。
右のインサイドハーフに入っていたハーパーを、数歩後ろへ下げる。
「今度はここから始めましょう」
ハーパーは頷いた。
もう一度、同じ場面を繰り返す。
ウォードが前へ出る。
相手は背後を狙う。
今度はハーパーが先に外側へ走り、右センターバックが中央へ残った。
ボールは奪えなかったが、相手の前進を遅らせることはできた。
ヘイルは笛を吹かなかった。
そのまま続けさせた。
左サイドへボールが移る。
エリスが相手の右サイドバックへ出る。
今度は左のセンターバックが外へ引っ張られた。
ピッチの反対側から、マーサーの声が飛んだ。
「ルイス、戻れ! 真ん中だ!」
ハーパーは走った。
だが、少し遅かった。
相手のトップ下役が中央でボールを受け、シュートを放った。
ゴールの横へ外れたが、守備は崩れていた。
ヘイルはようやく笛を吹いた。
「もう一度」
選手たちは元の位置へ戻った。
その後も、似たような場面が続いた。
ウイングバックが前へ出すぎる。
インサイドハーフが戻りきれない。
アンカーが相手のトップ下についていくと、中央に穴が空く。
守備の形を整えようとすると、今度は前線の二人が孤立する。
最初の三十分で、ヘイルが思い描いていた動きはほとんど実現しなかった。
それでも、練習を止めるつもりはなかった。
マーサーは何度も声を出し、ウォードは走り直し、ハーパーは失敗するたびに位置を確かめていた。
夕方の風が、ピッチを横切っていた。
*
練習が終わったのは午後六時過ぎだった。
選手たちは疲れた顔で建物へ戻っていった。
ハーパーは最後まで残り、ウォードと何かを話していた。二人でピッチの右側を指し、先ほどの守備の場面を確認しているようだった。
ヘイルは遠くからその様子を見ていた。
コールが隣へ来た。
「どうだった?」
「難しいですね」
「見れば分かる」
コールは笑った。
「三日で完成すると思ってたのか?」
「いえ」
「なら、いいじゃないか」
ヘイルはピッチを見た。
今日の練習では、攻撃の形をほとんど確認できなかった。ボールを奪った後、前線へ運ぶ前にまた失う場面が多かった。
インサイドハーフは走り続けなければならない。
ウイングバックも同じだ。
そして、その負担を減らすためには、アンカーの判断が重要になる。
ヘイルは、ブアリの映像を思い出した。
相手の前線が寄せてきても、慌てずにボールを動かす若いミッドフィールダー。
あの選手がここにいれば、今日の練習は少し違っていただろうか。
そんなことを考えていると、コールが言った。
「明日、リール・ユナイテッドへ正式に問い合わせる」
ヘイルは顔を向けた。
「ブアリですか」
「ああ。向こうが話を聞くかどうかは分からんがな」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。値段を聞いたら、君も考え直すかもしれないぞ」
コールは携帯電話を取り出した。
画面には、何件もの未読メッセージが並んでいた。
代理人からの売り込み。
クラブからの返答。
契約更新についての問い合わせ。
そして、スタジアム改修の見積もり。
コールは一つずつ確認し、最後に携帯電話をポケットへ戻した。
「明日は何をやる?」
「今日の続きです」
「そうか」
「まず、守備の距離を合わせます。それから、ボールを奪った後の動きを確認したい」
「分かった」
コールは歩き出した。
数歩進んだところで、振り返った。
「エドワード」
「はい」
「明日も雨らしいぞ」
ヘイルは空を見た。
西の方から、濃い雲が近づいていた。
「そうですか」
「この辺じゃ、よくあることだ」
コールはそう言って、建物へ戻っていった。
ヘイルはもう少しだけピッチに残った。
芝生には、選手たちが何度も走った跡が残っている。
右サイドのタッチライン付近は、特に踏み荒らされていた。
今日一日で、チームが大きく変わったわけではない。
新しい選手も、まだ一人も来ていない。
それでも、ウォードは右の守備について質問し、ハーパーは自分の戻る位置を確かめ、マーサーは何度も味方へ声をかけていた。
ヘイルは足元のボールを拾い、用具入れへ戻した。
明日は、今日より少し長く練習できるだろう。
それくらいの見通しなら、今の彼にも立てられた。