移籍交渉において、金額が折り合ったからといって選手が手に入るわけではない。
所属クラブとの合意は、いくつもある関門の一つにすぎない。選手本人が移籍を望まなければ、どれほど高額なオファーも意味をなさず、本人が乗り気であっても、代理人が条件に納得しなければ話は進まない。
その点、マーティン・コールは自分の仕事をよく理解している。
移籍金を値切るだけが補強担当者の仕事ではない。相手のクラブが何を求めているのかを知り、選手が何を望んでいるのかを確かめ、その二つを自分たちの都合とすり合わせる。
もっとも、そんな理屈が通用する相手ばかりでもなかった。
七月七日、月曜日。
ブリストル・アスレティックのオフィスに届いたリール・ユナイテッドからの返答は、コールの予想を少し裏切るものだった。
五千万ポンドのオファーは拒否。
ただし、六千万ポンドを支払えば即座に合意する、という話でもない。
リール側は、選手の移籍意思を確認する前に、ブリストルの具体的な計画を知りたいという。
コールはメールを二度読んだ。
単に金額を引き上げたいのであれば、こんな要求は必要ない。選手の将来を心配しているのか、それとも買収されたばかりのクラブを信用していないのか。
おそらく両方だろう。
リールは欧州大会を戦うクラブであり、ブアリはそこで出場機会を得ている。わざわざイングランド二部へ送り出す以上、相応の理由が欲しいということか。
コールはヘイルに電話をかけた。
「リールが、うちの計画を説明しろと言ってきた」
『計画ですか』
「ブアリをどう使うのか。今季の目標は何か。そういう話だろうな」
『それなら説明できます』
ヘイルの返答は早かった。
コールは少し考え、午後に時間を取るよう伝えた。
選手を口説くための資料を作る。
監督にとっては初めての仕事かもしれないが、これから何度も必要になるだろう。
*
エドワード・ヘイルが就任してから、練習場では毎日のように同じ言葉が飛び交っていた。
幅を取れ。
中央を空けるな。
相手の身体の向きを見ろ。
前へ出るなら、後ろの選手に知らせろ。
選手たちは少しずつ、新監督が何を求めているのか理解し始めている。
しかし、理解することと、実際にできることは別だった。
月曜日の午前練習でも、ウォードは相手の左サイドバックに釣り出され、背後のスペースを使われていた。マーサーがカバーに向かえば、今度は中央が空く。相手のトップ下がそこへ入り込み、簡単に前を向いてしまう。
ヘイルは笛を吹いた。
選手たちが足を止める。
「ジェームズ、今の場面はどう見えていました?」
ウォードは汗を拭いながら、相手のサイドバックを指さした。
「前に出られると思ったんです。ボールが少し浮いたんで」
「相手のウイングは?」
「……見えてませんでした」
ヘイルは頷いた。
ウォードが前へ出た判断そのものは、必ずしも間違っていない。問題は、背後の選手を確認せずに動いたことだった。
右センターバックがカバーへ出る準備をしていれば、同じプレーでも成立したかもしれない。
だが、そこまでを一度に判断するのは簡単ではない。
これまでウォードは、主に右サイドの中盤でプレーしてきた。後方にはサイドバックがいて、守備で多少の判断を誤っても、誰かが穴を埋めてくれることが多かった。
今は違う。
3バックの外側を一人で守る時間がある。前へ走るだけではなく、戻るタイミングも自分で決めなければならない。
しかも、攻撃では高い位置を取ることを求められている。
ヘイルはウォードと右センターバックを呼び、二人の距離を確認した。
その間、ほかの選手たちは水を飲み、芝生に座って息を整えている。
マーサーが近づいてきた。
「監督、少しいいですか」
「はい」
「右が前に出るとき、俺がもう少し寄った方がいいんじゃないですか」
ヘイルはピッチを見た。
マーサーは中央のセンターバック。右へ寄れば、そのぶん中央に空間が生まれる。
「相手がワントップなら、それでもいいと思います。ただ、トップ下が入ってくると厄介ですね」
「アンカーにそこを見させる?」
「それも考えています」
マーサーは頷いた。
九年間このクラブでプレーしてきた主将にとって、新しい監督の要求は決して簡単なものではない。慣れ親しんだ4バックとは、守るべき場所も味方との距離も異なる。
それでも彼は、練習が終わるたびにヘイルのもとへやって来る。
質問の内容は具体的だった。
相手が二人のフォワードを並べた場合、中央のセンターバックはどちらを優先するのか。
ウイングバックが戻り切れなかったとき、外側のセンターバックはどこまで出てよいのか。
アンカーが相手のトップ下を追う場合、空いた場所を誰が埋めるのか。
ヘイルにとって、そうした質問はありがたい。
マーサーが納得すれば、ほかの選手にも伝わる。少なくとも守備陣の中では、彼の言葉がよく通る。
ただ、答えを持っていない質問もあった。
今日の練習で起きた問題の中には、実際の試合を経験しなければ判断できないものもある。
ヘイルは、それを隠すつもりはなかった。
*
午後一時半。
コールが会議室へ入ると、ヘイルはすでにノートパソコンを開いていた。
画面には、ブアリのプレー映像が並んでいる。
コールはその横へ座り、リールから届いたメールを見せた。
「向こうが欲しいのは、金額以外の理由だと思う」
ヘイルは文面を読み、少し考えた。
「本人に説明する資料ですか?」
「クラブにもな。向こうは今季も使うつもりの選手を売るんだ。少なくとも、どんなチームへ行くのかは知りたいだろう」
ヘイルは画面を切り替えた。
そこには、3-1-4-2の布陣図が表示されている。
中央のアンカーには、ブアリの名前。
コールはそれを見て、少し笑った。
「もう入れてあるのか」
「仮のものです」
「本人が見たら、どう思うかな」
「嫌がられなければいいんですが」
ヘイルはそう答え、説明を始めた。
ブアリに求める役割は、中央でボールを受け、攻撃の向きを決めること。守備では最終ラインの前を守り、相手のカウンターを遅らせる。
そのためには、周囲の選手も動かなければならない。
両インサイドハーフは、ブアリがボールを持ったときにパスコースを作る。ウイングバックは外側へ広がり、相手の守備を横に引き伸ばす。
ブアリ一人にすべてを任せるわけではない。
むしろ、彼の判断を生かすために、チーム全体の配置を整える。
コールは黙って聞いていた。
監督の説明は分かりやすい。
しかし、十八歳の選手を説得するには、それだけでは足りないだろう。
「出場時間は?」
「コンディションに問題がなければ、主力として考えています」
「毎週出すつもりか?」
「最初から全試合とは言えません。リーグ戦も長いですし」
「そこは正直に書こう。変に約束すると、あとで困る」
ヘイルは頷いた。
コールは続けた。
「それと、昇格できなかった場合