どうやら金はあるらしい   作:おずわるどー

7 / 22
【2025/26・第07話】十八歳の選択

七月九日、水曜日。

 

リールの郊外では、朝から細かな雨が降っていた。

 

アイユブ・ブアリは、クラブの練習施設へ向かう車の助手席で、携帯電話に届いたメッセージを読み返していた。

 

午後三時。

 

イングランドのクラブとのオンライン面談。

 

代理人から送られてきた予定表には、そう記されている。

 

ブリストル・アスレティック。

 

名前は知っていた。イングランドの二部リーグに所属するクラブで、最近、新しいオーナーに買収されたらしい。代理人から最初に話を聞いたときは、正直なところ、それ以上の関心を持たなかった。

 

彼には、リールでの生活がある。

 

下部組織から育てられ、昨季はトップチームで出場機会を得た。監督からの評価も悪くない。欧州大会に出場するクラブで、十八歳の選手がこれほど恵まれた立場にいることは、決して当たり前ではなかった。

 

にもかかわらず、代理人は今回の話を断らなかった。

 

理由は、移籍金だった。

 

六千万ポンド。

 

その数字を初めて聞いたとき、ブアリは笑ってしまった。

 

「僕に?」

 

代理人は冗談を言っている様子ではなかった。

 

「正確には、クラブ間で話し合われている評価額だ。まだ合意したわけじゃない」

 

「それでも高すぎる」

 

「そう思うか?」

 

「思うよ」

 

ブアリは自分の能力に自信を持っていた。

 

ボールを受ける前に周囲を確認すること。相手の重心が移動する瞬間を見つけること。味方が次に使える場所を考えながらパスを選ぶこと。

 

そうした技術では、同年代の選手に簡単には負けないつもりだった。

 

だが、六千万ポンドという金額は、そうした自信とは別の場所に存在していた。

 

それは期待というより、まだ経験したことのない責任の大きさに思えた。

 

「どうして僕なんだろう」

 

車を運転していた父親が、前を向いたまま答えた。

 

「それを今日、聞いてみればいい」

 

ブアリは携帯電話の画面を消した。

 

その通りだった。

 

まだ何も知らない。

 

少なくとも、話を聞く前に断る理由はない。

 

*

 

ブリストルでは、午前中の練習が予定より十五分ほど長引いていた。

 

エドワード・ヘイルは、選手たちがピッチを離れるのを見送りながら、手元のノートに書き込みを加えていた。

 

右サイドの守備。

 

中央の距離。

 

アンカーの立ち位置。

 

練習の最後に行った十一対十一では、同じ問題が三度起きている。

 

右ウイングバックのジェームズ・ウォードが相手のサイドバックへ寄せる。右センターバックがその背後を埋める。中央のマーサーが横へずれる。

 

その結果、ペナルティーエリアの手前に空間が生まれた。

 

ベン・ケンドールは、その空間を埋めるために何度も走らされていた。

 

「監督」

 

振り返ると、マーサーが立っていた。

 

「最後の場面ですけど、ベンが中央へ残るなら、俺がもう少し右へ出た方がよくないですか」

 

ヘイルは少し考えた。

 

「相手が一人なら、それでいいと思います。ただ、二人目が入ってくると難しいですね」

 

「じゃあ、ウォードを出さない?」

 

「それも一つの方法です」

 

マーサーは眉を寄せた。

 

「一つ、ですか」

 

「まだ答えを決めたくないんです」

 

ヘイルはノートを閉じた。

 

「相手の配置によって、正解が変わると思います。今日の映像を見てから、明日もう一度試しましょう」

 

マーサーは頷いた。

 

「分かりました」

 

主将が去った後、ヘイルはしばらくピッチを眺めていた。

 

アンカーに何を求めるのか。

 

その問いは、ここ数週間、彼の頭から離れなかった。

 

ケンドールは悪い選手ではない。むしろ、守備の判断については信頼できる。危険な場所を見つけ、そこを埋める能力は十分にある。

 

しかし、ヘイルが目指すチームでは、守備を整えるだけでは足りなかった。

 

中央で相手を引きつける。

 

プレスを外す。

 

味方が前進するための時間を作る。

 

その一つの判断によって、周囲の十人の仕事が変わる。

 

ブアリには、それができる可能性がある。

 

少なくとも、映像を見る限りでは。

 

ヘイルは時計を確認した。

 

午後三時まで、あと三時間ほどだった。

 

*

 

面談の開始十分前、マーティン・コールが会議室へ入ってきた。

 

ヘイルはすでにノートパソコンを開いていた。

 

「準備は?」

 

「できています」

 

「何を話すつもりだ」

 

「まず、彼の昨季のプレーについて」

 

「褒めるのか?」

 

「問題点も話します」

 

コールは椅子を引いた。

 

「最初の面談で?」

 

「はい」

 

「なかなか勇気があるな」

 

「向こうは、自分がどう評価されているか知りたいはずです」

 

「それはそうだが」

 

コールは机の上の資料を確認した。

 

戦術配置図。

 

ブアリのプレー映像。

 

昨季の出場記録。

 

そして、ブリストルの中期的なチーム編成計画。

 

「一つだけ、忘れないでくれ」

 

コールが言った。

 

「今日は契約をまとめる場じゃない。向こうにも選ぶ権利がある」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

ヘイルは顔を上げた。

 

「僕が説明して、彼が納得しなければ、それまでです」

 

コールは小さく頷いた。

 

「それならいい」

 

午後三時ちょうど。

 

画面に三人の人物が映った。

 

中央に座っているのがブアリだった。

 

若い。

 

十八歳だと分かっていても、実際に顔を見ると、ヘイルはその年齢を改めて意識した。

 

簡単な挨拶を交わした後、コールがクラブの概要を説明した。

 

新しいオーナー。

 

プレミアリーグ昇格という目標。

 

若い選手を中心としたチーム作り。

 

ブアリは静かに聞いていた。

 

時折、代理人が確認の質問を挟む。

 

その後、ヘイルの番になった。

 

「まず、あなたの昨季の試合を何試合か見ました」

 

ブアリが頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「その中で、気になった場面があります」

 

ヘイルは画面を共有した。

 

リールの試合映像だった。

 

ブアリがセンターバックからボールを受ける。

 

相手のフォワードが背後から寄せてくる。

 

ブアリは身体を半分開き、左足でボールを逃がした。

 

そのまま前方へパスを通す。

 

映像が止まった。

 

「ここです」

 

ヘイルはブアリの背後にいた相手選手を指した。

 

「この選手が来ることを、いつ確認しましたか」

 

ブアリは少し考えた。

 

「センターバックがボールを持ったときです」

 

「受ける直前ではなく?」

 

「はい。直前には、前を見ていました」

 

ヘイルは頷いた。

 

「そうだと思いました」

 

次の映像を再生する。

 

同じように中央でボールを受ける場面だった。

 

今度はブアリが相手に囲まれ、ボールを失った。

 

そこからカウンターを受けている。

 

「これは?」

 

ブアリは画面を見た。

 

「パスを出すのが遅かった」

 

「なぜ?」

 

「前に味方が見えていたからです。出せると思いました」

 

「僕もそう思います」

 

ヘイルは映像を数秒戻した。

 

「ただ、受ける前に右側を見ていれば、別の選択肢があったかもしれません」

 

画面の端で、味方のサイドバックが動いていた。

 

ブアリは黙って映像を見た。

 

「この選手が先に動いていたんですね」

 

「そうです」

 

「気づかなかった」

 

「だから、あなたに興味を持ちました」

 

ブアリは顔を上げた。

 

「失敗したからですか?」

 

「いえ。失敗の理由が、修正できるものだと思ったからです」

 

ヘイルは配置図へ画面を切り替えた。

 

三人のセンターバック。

 

その前に一人のアンカー。

 

さらに前方へ、二人のインサイドハーフと両ウイングバック。

 

前線には二人のフォワード。

 

3―1―4―2。

 

「この中央に、あなたを置きたいと考えています」

 

ブアリはしばらく画面を見ていた。

 

「一人ですか」

 

「基本的には」

 

「守備では?」

 

「両ウイングバックが下がって、5―3―2になります」

 

「攻撃のとき、僕の横には誰が?」

 

「状況によります。インサイドハーフが下りることもありますし、センターバックが持ち上がることもあります」

 

ブアリは少し身を乗り出した。

 

「僕が相手のプレスを受けたら?」

 

ヘイルは別の配置図を開いた。

 

「そこが重要です」

 

右インサイドハーフが中央へ近づく。

 

相手の中盤が引き寄せられる。

 

その背後に空間ができる。

 

ブアリが前を向けば、そこへパスを通せる。

 

「ただし、毎回これを選ぶ必要はありません。相手が中央を閉じるなら、外を使います」

 

「僕がボールを失ったら?」

 

「危険です」

 

ヘイルは即答した。

 

「だから、失ってはいけない場所を理解する必要があります。あなたの判断だけではなく、周囲の配置も含めて」

 

ブアリは画面から目を離さなかった。

 

「難しそうですね」

 

「難しいと思います」

 

「それを十八歳に任せるんですか」

 

「十八歳だから任せるわけではありません」

 

ヘイルは少し間を置いた。

 

「あなたに、その能力があると思うからです」

 

会議室が静かになった。

 

ブアリは、その言葉にすぐには返事をしなかった。

 

*

 

面談が始まって四十分ほど経った頃、代理人が出場時間について尋ねた。

 

コールが答えようとしたが、ヘイルが先に口を開いた。

 

「主力候補として考えています。ただし、毎試合の先発を約束することはできません」

 

ブアリが尋ねた。

 

「今、そのポジションには誰がいるんですか」

 

「ベン・ケンドールという選手です。二十八歳で、昨季も主力でした」

 

「彼は移籍するんですか」

 

「現時点では決まっていません」

 

「僕が加入したら?」

 

ヘイルは少し考えた。

 

「競争になります」

 

ブアリは画面の向こうで眉を上げた。

 

「六千万ポンドでも?」

 

コールがわずかに姿勢を変えた。

 

ヘイルは答えた。

 

「移籍金は、クラブがあなたを獲得するために支払うものです。試合に出る資格を買うものではありません」

 

ブアリは黙った。

 

ヘイルは続けた。

 

「ただ、あなたを控え選手として獲得したいわけでもありません。僕はあなたがチームを変えられると考えています。そのために必要なことは、できる限り支援します」

 

「昇格できなかったら?」

 

「来季も昇格を目指します」

 

「監督が代わったら?」

 

今度はコールも答えなかった。

 

ヘイルは一度だけ視線を落とした。

 

「それは、僕には保証できません」

 

ブアリが少し笑った。

 

「正直ですね」

 

「できない約束をしても、あなたのためにはならないと思います」

 

面談は一時間を少し超えた。

 

最後にコールが、今後の手続きについて説明した。

 

契約条件の協議は、本人が移籍に関心を持った場合に進める。

 

所属クラブとの交渉も、まだ完了していない。

 

ブアリは頷いた。

 

「ありがとうございました」

 

ヘイルが答えた。

 

「こちらこそ。質問があれば、また聞いてください」

 

通信が切れた。

 

コールは椅子に背中を預けた。

 

「どう思う?」

 

ヘイルは少し考えた。

 

「興味は持ってくれたと思います」

 

「来ると思うか?」

 

「分かりません」

 

「そうだろうな」

 

コールは画面に残った配置図を見た。

 

「向こうには、断る理由がいくらでもある」

 

ヘイルは頷いた。

 

そのことは、最初から分かっていた。

 

*

 

面談を終えたブアリは、練習施設の廊下を歩いていた。

 

代理人が隣にいる。

 

「どうだった?」

 

「面白かった」

 

「監督が?」

 

「戦術が」

 

ブアリは携帯電話を取り出し、送られてきた資料を開いた。

 

3―1―4―2。

 

中央に、自分の名前がある。

 

「ただ、分からないことも多い」

 

「例えば?」

 

「本当に、あのクラブでできるのかな」

 

代理人は答えなかった。

 

ブアリは続けた。

 

「映像では、いいチームに見える。でも、まだ何もできてないんでしょう?」

 

「新しい監督だからな」

 

「選手も変わる」

 

「ああ」

 

「昇格できるかも分からない」

 

「そうだ」

 

ブアリは画面を閉じた。

 

「だったら、僕が行く理由は何なんだろう」

 

代理人は少し考えた。

 

「それを決めるのは、私じゃない」

 

「分かってる」

 

「今の段階で、答えを出す必要もない」

 

ブアリは頷いた。

 

その夜、彼はリールの昨季の試合を見返した。

 

自分が出場した試合だった。

 

欧州大会。

 

大きなスタジアム。

 

相手は経験豊富な選手ばかりで、ボールを持つ時間さえ簡単には与えてくれない。

 

それでも、自分はここで成長してきた。

 

なぜ、この環境を離れる必要があるのか。

 

答えは出なかった。

 

ただ、ブリストルの監督が見せた一つの場面だけは、何度も頭に浮かんだ。

 

ボールを受ける前に、右を見る。

 

相手が動く。

 

その背後に、別の道が開く。

 

ブアリは映像を止めた。

 

自分が知らなかった選択肢が、まだある。

 

それは少しだけ、魅力的だった。

 

だが、魅力的であることと、移籍を決めることは違う。

 

翌日、代理人へ連絡することにした。

 

まずは、もう少し話を聞きたい。

 

それだけを伝えるつもりだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。