七月九日、水曜日。
リールの郊外では、朝から細かな雨が降っていた。
アイユブ・ブアリは、クラブの練習施設へ向かう車の助手席で、携帯電話に届いたメッセージを読み返していた。
午後三時。
イングランドのクラブとのオンライン面談。
代理人から送られてきた予定表には、そう記されている。
ブリストル・アスレティック。
名前は知っていた。イングランドの二部リーグに所属するクラブで、最近、新しいオーナーに買収されたらしい。代理人から最初に話を聞いたときは、正直なところ、それ以上の関心を持たなかった。
彼には、リールでの生活がある。
下部組織から育てられ、昨季はトップチームで出場機会を得た。監督からの評価も悪くない。欧州大会に出場するクラブで、十八歳の選手がこれほど恵まれた立場にいることは、決して当たり前ではなかった。
にもかかわらず、代理人は今回の話を断らなかった。
理由は、移籍金だった。
六千万ポンド。
その数字を初めて聞いたとき、ブアリは笑ってしまった。
「僕に?」
代理人は冗談を言っている様子ではなかった。
「正確には、クラブ間で話し合われている評価額だ。まだ合意したわけじゃない」
「それでも高すぎる」
「そう思うか?」
「思うよ」
ブアリは自分の能力に自信を持っていた。
ボールを受ける前に周囲を確認すること。相手の重心が移動する瞬間を見つけること。味方が次に使える場所を考えながらパスを選ぶこと。
そうした技術では、同年代の選手に簡単には負けないつもりだった。
だが、六千万ポンドという金額は、そうした自信とは別の場所に存在していた。
それは期待というより、まだ経験したことのない責任の大きさに思えた。
「どうして僕なんだろう」
車を運転していた父親が、前を向いたまま答えた。
「それを今日、聞いてみればいい」
ブアリは携帯電話の画面を消した。
その通りだった。
まだ何も知らない。
少なくとも、話を聞く前に断る理由はない。
*
ブリストルでは、午前中の練習が予定より十五分ほど長引いていた。
エドワード・ヘイルは、選手たちがピッチを離れるのを見送りながら、手元のノートに書き込みを加えていた。
右サイドの守備。
中央の距離。
アンカーの立ち位置。
練習の最後に行った十一対十一では、同じ問題が三度起きている。
右ウイングバックのジェームズ・ウォードが相手のサイドバックへ寄せる。右センターバックがその背後を埋める。中央のマーサーが横へずれる。
その結果、ペナルティーエリアの手前に空間が生まれた。
ベン・ケンドールは、その空間を埋めるために何度も走らされていた。
「監督」
振り返ると、マーサーが立っていた。
「最後の場面ですけど、ベンが中央へ残るなら、俺がもう少し右へ出た方がよくないですか」
ヘイルは少し考えた。
「相手が一人なら、それでいいと思います。ただ、二人目が入ってくると難しいですね」
「じゃあ、ウォードを出さない?」
「それも一つの方法です」
マーサーは眉を寄せた。
「一つ、ですか」
「まだ答えを決めたくないんです」
ヘイルはノートを閉じた。
「相手の配置によって、正解が変わると思います。今日の映像を見てから、明日もう一度試しましょう」
マーサーは頷いた。
「分かりました」
主将が去った後、ヘイルはしばらくピッチを眺めていた。
アンカーに何を求めるのか。
その問いは、ここ数週間、彼の頭から離れなかった。
ケンドールは悪い選手ではない。むしろ、守備の判断については信頼できる。危険な場所を見つけ、そこを埋める能力は十分にある。
しかし、ヘイルが目指すチームでは、守備を整えるだけでは足りなかった。
中央で相手を引きつける。
プレスを外す。
味方が前進するための時間を作る。
その一つの判断によって、周囲の十人の仕事が変わる。
ブアリには、それができる可能性がある。
少なくとも、映像を見る限りでは。
ヘイルは時計を確認した。
午後三時まで、あと三時間ほどだった。
*
面談の開始十分前、マーティン・コールが会議室へ入ってきた。
ヘイルはすでにノートパソコンを開いていた。
「準備は?」
「できています」
「何を話すつもりだ」
「まず、彼の昨季のプレーについて」
「褒めるのか?」
「問題点も話します」
コールは椅子を引いた。
「最初の面談で?」
「はい」
「なかなか勇気があるな」
「向こうは、自分がどう評価されているか知りたいはずです」
「それはそうだが」
コールは机の上の資料を確認した。
戦術配置図。
ブアリのプレー映像。
昨季の出場記録。
そして、ブリストルの中期的なチーム編成計画。
「一つだけ、忘れないでくれ」
コールが言った。
「今日は契約をまとめる場じゃない。向こうにも選ぶ権利がある」
「分かっています」
「本当に?」
ヘイルは顔を上げた。
「僕が説明して、彼が納得しなければ、それまでです」
コールは小さく頷いた。
「それならいい」
午後三時ちょうど。
画面に三人の人物が映った。
中央に座っているのがブアリだった。
若い。
十八歳だと分かっていても、実際に顔を見ると、ヘイルはその年齢を改めて意識した。
簡単な挨拶を交わした後、コールがクラブの概要を説明した。
新しいオーナー。
プレミアリーグ昇格という目標。
若い選手を中心としたチーム作り。
ブアリは静かに聞いていた。
時折、代理人が確認の質問を挟む。
その後、ヘイルの番になった。
「まず、あなたの昨季の試合を何試合か見ました」
ブアリが頷いた。
「ありがとうございます」
「その中で、気になった場面があります」
ヘイルは画面を共有した。
リールの試合映像だった。
ブアリがセンターバックからボールを受ける。
相手のフォワードが背後から寄せてくる。
ブアリは身体を半分開き、左足でボールを逃がした。
そのまま前方へパスを通す。
映像が止まった。
「ここです」
ヘイルはブアリの背後にいた相手選手を指した。
「この選手が来ることを、いつ確認しましたか」
ブアリは少し考えた。
「センターバックがボールを持ったときです」
「受ける直前ではなく?」
「はい。直前には、前を見ていました」
ヘイルは頷いた。
「そうだと思いました」
次の映像を再生する。
同じように中央でボールを受ける場面だった。
今度はブアリが相手に囲まれ、ボールを失った。
そこからカウンターを受けている。
「これは?」
ブアリは画面を見た。
「パスを出すのが遅かった」
「なぜ?」
「前に味方が見えていたからです。出せると思いました」
「僕もそう思います」
ヘイルは映像を数秒戻した。
「ただ、受ける前に右側を見ていれば、別の選択肢があったかもしれません」
画面の端で、味方のサイドバックが動いていた。
ブアリは黙って映像を見た。
「この選手が先に動いていたんですね」
「そうです」
「気づかなかった」
「だから、あなたに興味を持ちました」
ブアリは顔を上げた。
「失敗したからですか?」
「いえ。失敗の理由が、修正できるものだと思ったからです」
ヘイルは配置図へ画面を切り替えた。
三人のセンターバック。
その前に一人のアンカー。
さらに前方へ、二人のインサイドハーフと両ウイングバック。
前線には二人のフォワード。
3―1―4―2。
「この中央に、あなたを置きたいと考えています」
ブアリはしばらく画面を見ていた。
「一人ですか」
「基本的には」
「守備では?」
「両ウイングバックが下がって、5―3―2になります」
「攻撃のとき、僕の横には誰が?」
「状況によります。インサイドハーフが下りることもありますし、センターバックが持ち上がることもあります」
ブアリは少し身を乗り出した。
「僕が相手のプレスを受けたら?」
ヘイルは別の配置図を開いた。
「そこが重要です」
右インサイドハーフが中央へ近づく。
相手の中盤が引き寄せられる。
その背後に空間ができる。
ブアリが前を向けば、そこへパスを通せる。
「ただし、毎回これを選ぶ必要はありません。相手が中央を閉じるなら、外を使います」
「僕がボールを失ったら?」
「危険です」
ヘイルは即答した。
「だから、失ってはいけない場所を理解する必要があります。あなたの判断だけではなく、周囲の配置も含めて」
ブアリは画面から目を離さなかった。
「難しそうですね」
「難しいと思います」
「それを十八歳に任せるんですか」
「十八歳だから任せるわけではありません」
ヘイルは少し間を置いた。
「あなたに、その能力があると思うからです」
会議室が静かになった。
ブアリは、その言葉にすぐには返事をしなかった。
*
面談が始まって四十分ほど経った頃、代理人が出場時間について尋ねた。
コールが答えようとしたが、ヘイルが先に口を開いた。
「主力候補として考えています。ただし、毎試合の先発を約束することはできません」
ブアリが尋ねた。
「今、そのポジションには誰がいるんですか」
「ベン・ケンドールという選手です。二十八歳で、昨季も主力でした」
「彼は移籍するんですか」
「現時点では決まっていません」
「僕が加入したら?」
ヘイルは少し考えた。
「競争になります」
ブアリは画面の向こうで眉を上げた。
「六千万ポンドでも?」
コールがわずかに姿勢を変えた。
ヘイルは答えた。
「移籍金は、クラブがあなたを獲得するために支払うものです。試合に出る資格を買うものではありません」
ブアリは黙った。
ヘイルは続けた。
「ただ、あなたを控え選手として獲得したいわけでもありません。僕はあなたがチームを変えられると考えています。そのために必要なことは、できる限り支援します」
「昇格できなかったら?」
「来季も昇格を目指します」
「監督が代わったら?」
今度はコールも答えなかった。
ヘイルは一度だけ視線を落とした。
「それは、僕には保証できません」
ブアリが少し笑った。
「正直ですね」
「できない約束をしても、あなたのためにはならないと思います」
面談は一時間を少し超えた。
最後にコールが、今後の手続きについて説明した。
契約条件の協議は、本人が移籍に関心を持った場合に進める。
所属クラブとの交渉も、まだ完了していない。
ブアリは頷いた。
「ありがとうございました」
ヘイルが答えた。
「こちらこそ。質問があれば、また聞いてください」
通信が切れた。
コールは椅子に背中を預けた。
「どう思う?」
ヘイルは少し考えた。
「興味は持ってくれたと思います」
「来ると思うか?」
「分かりません」
「そうだろうな」
コールは画面に残った配置図を見た。
「向こうには、断る理由がいくらでもある」
ヘイルは頷いた。
そのことは、最初から分かっていた。
*
面談を終えたブアリは、練習施設の廊下を歩いていた。
代理人が隣にいる。
「どうだった?」
「面白かった」
「監督が?」
「戦術が」
ブアリは携帯電話を取り出し、送られてきた資料を開いた。
3―1―4―2。
中央に、自分の名前がある。
「ただ、分からないことも多い」
「例えば?」
「本当に、あのクラブでできるのかな」
代理人は答えなかった。
ブアリは続けた。
「映像では、いいチームに見える。でも、まだ何もできてないんでしょう?」
「新しい監督だからな」
「選手も変わる」
「ああ」
「昇格できるかも分からない」
「そうだ」
ブアリは画面を閉じた。
「だったら、僕が行く理由は何なんだろう」
代理人は少し考えた。
「それを決めるのは、私じゃない」
「分かってる」
「今の段階で、答えを出す必要もない」
ブアリは頷いた。
その夜、彼はリールの昨季の試合を見返した。
自分が出場した試合だった。
欧州大会。
大きなスタジアム。
相手は経験豊富な選手ばかりで、ボールを持つ時間さえ簡単には与えてくれない。
それでも、自分はここで成長してきた。
なぜ、この環境を離れる必要があるのか。
答えは出なかった。
ただ、ブリストルの監督が見せた一つの場面だけは、何度も頭に浮かんだ。
ボールを受ける前に、右を見る。
相手が動く。
その背後に、別の道が開く。
ブアリは映像を止めた。
自分が知らなかった選択肢が、まだある。
それは少しだけ、魅力的だった。
だが、魅力的であることと、移籍を決めることは違う。
翌日、代理人へ連絡することにした。
まずは、もう少し話を聞きたい。
それだけを伝えるつもりだった。