七月十一日、金曜日。
マーティン・コールの机には、二種類の資料が置かれていた。
一つは、アイユブ・ブアリの移籍に関するもの。
もう一つは、レッドクリフ・グラウンドの修繕計画だった。
両者の金額には、比較するのが馬鹿らしくなるほどの差がある。
ブアリの移籍金は、総額六千万ポンドに達する可能性がある。
一方、スタジアムの屋根の雨漏りを修理する費用は、そのごく一部にすぎなかった。
しかし、後者を軽視できるわけではない。
雨漏りは実際に起きている。
観客席の一部では、雨天時に水が落ちてくる場所がある。設備の更新が必要な区画もあり、老朽化した配管については、応急処置を繰り返してきた。
ピーター・グレイは、そうした問題を何年も見続けていた。
「修理だけなら、今月中に着手できます」
グレイは図面を広げた。
「ただし、屋根を将来的に改修するなら、同じ場所に二度手を入れることになります」
「つまり?」
「今すぐ直す部分と、後でまとめて工事する部分を分けたいんです」
コールは図面を見た。
「オーナーは拡張も考えている」
「聞いています」
「それを踏まえて、どこまで修理すべきか」
グレイは少し考えた。
「観客の安全に関わるところは、計画を待てません」
「当然だ」
「それ以外は、先に調査した方がいいでしょう。拡張するにしても、既存の構造がどこまで使えるか分かりませんから」
コールは頷いた。
新オーナーの構想は大きい。
スタジアムの拡張。
練習施設の更新。
アカデミーへの投資。
海外での知名度向上。
国際的なスポンサーの獲得。
しかし、構想が大きいほど、実行には順序が必要になる。
「まず、緊急修繕を進めてくれ」
コールが言った。
「拡張の方は、専門家に調査を依頼する。数字が出てから判断しよう」
グレイは頷いた。
「助かります」
「何が?」
「これまで、問題を報告しても、予算がないと言われることが多かったので」
コールは苦笑した。
「今度は予算があっても、やることが多すぎる」
「それでも、ないよりはいいですよ」
グレイは図面をまとめた。
コールは、その言葉を否定しなかった。
*
同じ日の午後。
ブアリは、リールの練習を終えて帰宅していた。
代理人から電話が入ったのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。
「ブリストルから連絡があった」
「何て?」
「面談の感想を聞きたいそうだ」
ブアリはソファに座った。
「悪くなかったって伝えて」
「それだけ?」
「うん」
代理人は少し黙った。
「アイユブ。向こうは、君が移籍を考える意思があるか知りたがっている」
「考えてはいるよ」
「なら、そう伝えていいんだな」
「でも、まだ決めてない」
「分かってる」
ブアリは窓の外を見た。
庭には、夕方の光が差していた。
「ねえ」
「何だ?」
「ブリストルって、どんな街?」
代理人は少し笑った。
「調べれば出てくるだろう」
「そうじゃなくて」
ブアリは言葉を探した。
「住む場所として、どうなのかなって」
代理人は、今度はすぐに答えなかった。
「実際に行ってみるのが一番だろうな」
「そうだよね」
「興味があるのか?」
ブアリは少し考えた。
「ある。でも、移籍したいかは分からない」
「それでいい」
電話を切った後、ブアリは携帯電話でブリストルの街並みを調べた。
港。
古い建物。
丘の上に並ぶ住宅。
川に架かる橋。
写真だけでは、生活の様子までは分からなかった。
レッドクリフ・グラウンドの写真も見つかった。
大きなスタジアムではない。
少なくとも、リールで見慣れた景色とは違う。
それでも、観客席はピッチに近かった。
満員になれば、相当な迫力があるだろう。
ブアリは写真を拡大した。
赤いシャツを着たサポーターたちが、肩を組んで歌っている。
自分がそこでプレーする姿は、まだうまく想像できなかった。
*
七月十二日、土曜日。
ブリストル・アスレティックは、近隣の下部リーグに所属するクラブと非公開の練習試合を行った。
ヘイルが就任してから、初めての本格的な実戦形式の試合だった。
結果よりも確認したいことがある。
それは、監督だけでなく、選手たちにも伝わっていた。
試合開始前、ヘイルはホワイトボードに配置を書いた。
3―1―4―2。
中央のセンターバックはマーサー。
右ウイングバックにはウォード。
左ウイングバックはエリス。
右インサイドハーフにはハーパー。
そして、アンカーにはケンドールが入る。
「今日は、練習してきたことを試してください」
ヘイルが言った。
「失敗しても構いません。ただ、何をしようとして失敗したのかは、試合後に確認します」
ウォードが頷いた。
マーサーは、守備陣の選手たちに短く声をかけた。
試合が始まった。
最初の十分間、ブリストルはボールを保持した。
ケンドールがセンターバックからボールを受ける。
右へ展開する。
相手が寄せてくる。
今度は左へ。
エリスが高い位置で受け、クロスを送った。
ボールは相手センターバックに弾き返された。
ヘイルは手元のノートに書き込んだ。
悪くない。
ただ、少し遅い。
相手が前から激しく寄せてこないため、今は問題になっていない。
しかし、チャンピオンシップでは、同じようにボールを持てるとは限らなかった。
十五分を過ぎた頃、ハーパーが中央へ近づいた。
ケンドールがボールを受ける。
相手の中盤が寄せる。
ハーパーはその背後へ動き直した。
ケンドールが縦パスを通す。
ハーパーは一度で前を向き、右サイドへ展開した。
ウォードが走る。
クロス。
中央のフォワードが頭で合わせた。
ボールはゴールの左へ外れた。
ベンチから小さな拍手が起きた。
ヘイルは、ハーパーの動きを見ていた。
この一週間で、彼はボールを受ける位置を少しずつ変えている。
以前は、相手の守備ラインの間へ早く入りすぎることが多かった。
今は、アンカーがボールを持ったときに一度近づき、相手の中盤を動かしてから前へ走る場面が増えている。
もちろん、まだ失敗も多い。
だが、失敗の種類が変わり始めていた。
前半三十二分。
相手のカウンターを受けた。
ウォードが高い位置へ出ていたため、右サイドの背後に空間がある。
右センターバックが外へ走る。
マーサーが中央へ残り、ケンドールが相手のパスコースを塞いだ。
相手のフォワードは、中央へボールを運べない。
結局、右サイドから無理にクロスを入れた。
マーサーが頭で跳ね返す。
「いいぞ!」
主将の声が響いた。
ヘイルは時計を確認した。
三十二分。
今の守備は、前日の練習で何度も失敗した形だった。
それが今日は成立している。
相手の水準が違うことは考慮しなければならない。
それでも、選手たちが互いの動きを理解し始めていることは確かだった。
*
試合は二対〇で終わった。
後半に入ってから、ブリストルは二度ゴールを奪った。
一点目は右サイドからのクロス。
二点目は、相手のパスを中央で奪ってからの速攻だった。
ヘイルは勝利そのものを大きく評価していなかった。
相手は格下であり、プレシーズンの練習試合でもある。
ただ、得られたものはあった。
ウォードは右ウイングバックとして、守備での距離感を少しずつ掴み始めている。
エリスは左サイドで高い位置を取ることに抵抗がない。
ハーパーは、ボールを受ける前の動きが改善してきた。
マーサーは中央で周囲を動かし、守備陣の混乱を抑えている。
そして、ケンドールは堅実だった。
それが、ヘイルには少し悩ましかった。
ケンドールは悪い選手ではない。
むしろ、今日の試合ではチームを支えていた。
だが、ブアリが加入すれば、アンカーの序列は変わる可能性がある。
新しいオーナーが来たからといって、今いる選手の能力が急に低くなるわけではない。
それでも、より高い水準を目指すなら、誰かの立場は変わらなければならない。
ヘイルはノートを閉じた。
試合後、ケンドールが近づいてきた。
「監督、今日の出来はどうでした?」
「守備はよかったと思います。特に、相手が中央へ入ってきた場面ですね」
「ありがとうございます」
「ただ、ボールを受ける前にもう少し周りを見てほしいです。前へ出せる場面がいくつかありました」
ケンドールは頷いた。
「分かりました」
それだけ言って、彼はロッカールームへ戻っていった。
ヘイルはその背中を見送った。
ブアリの移籍が決まったら、彼にも説明しなければならない。
まだ決まってもいない移籍のことを考えている自分に、ヘイルは少し苦笑した。
*
日曜日の午後。
ブアリの父親は、息子の話を黙って聞いていた。
家族が集まった食卓には、昼食の皿が片づけられずに残っている。
ブアリは、ブリストルから送られてきた資料を開いていた。
新しいオーナー。
プレミアリーグ昇格を目指す計画。
若い選手を中心にしたチーム作り。
3―1―4―2の中央で、自分を起用する構想。
父親は最後まで説明を聞いた後、尋ねた。
「リールでは、来季も試合に出られるんだろう?」
「たぶん」
「監督からは何と言われている?」
「期待してるって」
「なら、なぜ出ていく?」
ブアリは少し考えた。
答えは簡単ではなかった。
リールはいいクラブだ。
下部組織から育ててもらい、トップチームでの機会も与えてくれた。
欧州大会にも出場できる。
これからも成長する環境はある。
それでも、ブリストルの話が頭から離れなかった。
「向こうでは、僕が中心になるんだ」
父親は頷いた。
「それは分かる」
「リールでも試合には出られる。でも、チームの中心かと言われると、まだ違う」
「十八歳なんだから、当たり前だろう」
「うん」
ブアリは否定しなかった。
父親の言うことは正しい。
十八歳でトップチームの中心になれる選手など、そう多くない。
だが、ブリストルの新監督は、そこを任せたいと言っている。
しかも、ただ試合に出すという話ではない。
ボールをどこへ動かすか。
相手の守備をどう動かすか。
チーム全体の位置を、中央からどう整えるか。
その判断を任せたいという。
「失敗したら、どうする?」
父親が尋ねた。
「分からない」
「昇格できなかったら?」
「来季も昇格を目指すって」
「監督が代わったら?」
ブアリは資料から顔を上げた。
「それも聞いた」
「何と言っていた?」
「結果が出なければ、分からないって」
父親は少し笑った。
「正直な監督だな」
「うん」
ブアリも笑った。
その返答が、妙に印象に残っていた。
契約は三年ある。
しかし、結果が出なければ分からない。
普通なら、もう少し安心させるような言葉を選ぶのではないだろうか。
それでもヘイルは、できない約束をしなかった。
ブアリは、そこに少し信頼を感じていた。
「お前は、どうしたい?」
父親が尋ねた。
ブアリはしばらく黙った。
母親は何も言わなかった。
窓の外では、近所の子供たちがボールを蹴っている。
その音が、時折部屋まで聞こえてきた。
「行ってみたい」
ブアリは言った。
父親は頷いた。
「なら、そう伝えればいい」
「でも、二部だよ」
「知ってる」
「欧州大会もない」
「それも知ってる」
父親は椅子に背中を預けた。
「お前が選ぶんだ。俺たちが決めることじゃない」
ブアリは資料を閉じた。
少し考えてから、言葉を付け加えた。
「でも、移籍を決めたわけじゃないよ」
「分かってる」
「一度、見に行きたい」
母親が顔を上げた。
「ブリストルへ?」
「うん。実際に」
父親は頷いた。
「それがいいと思う」
ブアリは、もう一度資料を開いた。
そこには、赤いシャツを着た選手たちの写真が並んでいた。
誰がどんな人間なのか、まだ知らない。
監督とは画面越しに一度話しただけだ。
練習場がどんな場所なのかも、スタジアムがどんな匂いのする場所なのかも分からない。
そこで何年も暮らすことになるかもしれない。
それなのに、写真と映像だけで決めてしまうのは、何かが違う気がした。
その夜、ブアリは代理人へ電話をかけた。
「ブリストルに行きたい」
代理人は少し間を置いた。
「移籍するという意味か?」
「違う」
ブアリは答えた。
「まず、見に行きたいんだ」
*
七月十四日、月曜日。
午前八時十二分。
コールの携帯電話が鳴った。
画面には、ブアリの代理人の名前が表示されている。
コールはコーヒーを机に置き、電話に出た。
「おはよう」
相手は簡単な挨拶を済ませると、週末にブアリが家族と話し合ったことを伝えた。
そして、本人の希望を告げた。
ブリストル・アスレティックへの移籍に関心はある。
ただし、最終的な返答の前に、クラブを訪問したいという。
コールは椅子に座り直した。
「本人がそう言っているのか?」
代理人は肯定した。
練習施設とスタジアムを見たい。
監督とも、改めて直接話したい。
可能であれば、今週中に訪問したいという。
コールは手帳を開いた。
「分かった。こちらで調整しよう」
通話を終えた後、すぐにヘイルへ電話をかけた。
「エドワード」
『おはようございます』
「ブアリがブリストルに来たがってる」
電話の向こうで、少し間が空いた。
『本当ですか?』
「ああ。ただし、移籍が決まったわけじゃない」
『そうでしょうね』
「施設を見たいそうだ。君とも直接話したいと」
ヘイルは少し考えた。
『いつですか?』
「今週中に調整する」
『分かりました』
「もっと喜ぶと思ったんだが」
『嬉しいですよ』
ヘイルは少し笑った。
『ただ、まだ決まっていませんから』
コールは頷いた。
「そうだな」
電話を切った後、コールは施設担当のグレイへ連絡した。
今週、重要な来客がある。
スタジアムと練習施設を案内したい。
グレイは事情を聞いた後、少し考えた。
『どこまで見せるんです?』
「全部だ」
『改修前の場所も?』
「隠しても仕方ないだろう」
電話の向こうで、グレイが短く笑った。
『そうですね』
コールは受話器を置いた。
ブアリが来る。
ただし、移籍するためではない。
移籍するかどうかを決めるために。
机の上には、別の補強候補の資料が置かれていた。
ジャン・ウルン。
フランクフェルト所属、二十歳。
ブアリの返答を待っている間にも、移籍市場は止まらない。
コールは、その名前を丸で囲んだ。
まだ一人目さえ決まっていない。
それでも、次の交渉を始める必要があった。