どうやら金はあるらしい   作:おずわるどー

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【2025/26・第08話】返事のない週末

七月十一日、金曜日。

 

マーティン・コールの机には、二種類の資料が置かれていた。

 

一つは、アイユブ・ブアリの移籍に関するもの。

 

もう一つは、レッドクリフ・グラウンドの修繕計画だった。

 

両者の金額には、比較するのが馬鹿らしくなるほどの差がある。

 

ブアリの移籍金は、総額六千万ポンドに達する可能性がある。

 

一方、スタジアムの屋根の雨漏りを修理する費用は、そのごく一部にすぎなかった。

 

しかし、後者を軽視できるわけではない。

 

雨漏りは実際に起きている。

 

観客席の一部では、雨天時に水が落ちてくる場所がある。設備の更新が必要な区画もあり、老朽化した配管については、応急処置を繰り返してきた。

 

ピーター・グレイは、そうした問題を何年も見続けていた。

 

「修理だけなら、今月中に着手できます」

 

グレイは図面を広げた。

 

「ただし、屋根を将来的に改修するなら、同じ場所に二度手を入れることになります」

 

「つまり?」

 

「今すぐ直す部分と、後でまとめて工事する部分を分けたいんです」

 

コールは図面を見た。

 

「オーナーは拡張も考えている」

 

「聞いています」

 

「それを踏まえて、どこまで修理すべきか」

 

グレイは少し考えた。

 

「観客の安全に関わるところは、計画を待てません」

 

「当然だ」

 

「それ以外は、先に調査した方がいいでしょう。拡張するにしても、既存の構造がどこまで使えるか分かりませんから」

 

コールは頷いた。

 

新オーナーの構想は大きい。

 

スタジアムの拡張。

 

練習施設の更新。

 

アカデミーへの投資。

 

海外での知名度向上。

 

国際的なスポンサーの獲得。

 

しかし、構想が大きいほど、実行には順序が必要になる。

 

「まず、緊急修繕を進めてくれ」

 

コールが言った。

 

「拡張の方は、専門家に調査を依頼する。数字が出てから判断しよう」

 

グレイは頷いた。

 

「助かります」

 

「何が?」

 

「これまで、問題を報告しても、予算がないと言われることが多かったので」

 

コールは苦笑した。

 

「今度は予算があっても、やることが多すぎる」

 

「それでも、ないよりはいいですよ」

 

グレイは図面をまとめた。

 

コールは、その言葉を否定しなかった。

 

*

 

同じ日の午後。

 

ブアリは、リールの練習を終えて帰宅していた。

 

代理人から電話が入ったのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。

 

「ブリストルから連絡があった」

 

「何て?」

 

「面談の感想を聞きたいそうだ」

 

ブアリはソファに座った。

 

「悪くなかったって伝えて」

 

「それだけ?」

 

「うん」

 

代理人は少し黙った。

 

「アイユブ。向こうは、君が移籍を考える意思があるか知りたがっている」

 

「考えてはいるよ」

 

「なら、そう伝えていいんだな」

 

「でも、まだ決めてない」

 

「分かってる」

 

ブアリは窓の外を見た。

 

庭には、夕方の光が差していた。

 

「ねえ」

 

「何だ?」

 

「ブリストルって、どんな街?」

 

代理人は少し笑った。

 

「調べれば出てくるだろう」

 

「そうじゃなくて」

 

ブアリは言葉を探した。

 

「住む場所として、どうなのかなって」

 

代理人は、今度はすぐに答えなかった。

 

「実際に行ってみるのが一番だろうな」

 

「そうだよね」

 

「興味があるのか?」

 

ブアリは少し考えた。

 

「ある。でも、移籍したいかは分からない」

 

「それでいい」

 

電話を切った後、ブアリは携帯電話でブリストルの街並みを調べた。

 

港。

 

古い建物。

 

丘の上に並ぶ住宅。

 

川に架かる橋。

 

写真だけでは、生活の様子までは分からなかった。

 

レッドクリフ・グラウンドの写真も見つかった。

 

大きなスタジアムではない。

 

少なくとも、リールで見慣れた景色とは違う。

 

それでも、観客席はピッチに近かった。

 

満員になれば、相当な迫力があるだろう。

 

ブアリは写真を拡大した。

 

赤いシャツを着たサポーターたちが、肩を組んで歌っている。

 

自分がそこでプレーする姿は、まだうまく想像できなかった。

 

*

 

七月十二日、土曜日。

 

ブリストル・アスレティックは、近隣の下部リーグに所属するクラブと非公開の練習試合を行った。

 

ヘイルが就任してから、初めての本格的な実戦形式の試合だった。

 

結果よりも確認したいことがある。

 

それは、監督だけでなく、選手たちにも伝わっていた。

 

試合開始前、ヘイルはホワイトボードに配置を書いた。

 

3―1―4―2。

 

中央のセンターバックはマーサー。

 

右ウイングバックにはウォード。

 

左ウイングバックはエリス。

 

右インサイドハーフにはハーパー。

 

そして、アンカーにはケンドールが入る。

 

「今日は、練習してきたことを試してください」

 

ヘイルが言った。

 

「失敗しても構いません。ただ、何をしようとして失敗したのかは、試合後に確認します」

 

ウォードが頷いた。

 

マーサーは、守備陣の選手たちに短く声をかけた。

 

試合が始まった。

 

最初の十分間、ブリストルはボールを保持した。

 

ケンドールがセンターバックからボールを受ける。

 

右へ展開する。

 

相手が寄せてくる。

 

今度は左へ。

 

エリスが高い位置で受け、クロスを送った。

 

ボールは相手センターバックに弾き返された。

 

ヘイルは手元のノートに書き込んだ。

 

悪くない。

 

ただ、少し遅い。

 

相手が前から激しく寄せてこないため、今は問題になっていない。

 

しかし、チャンピオンシップでは、同じようにボールを持てるとは限らなかった。

 

十五分を過ぎた頃、ハーパーが中央へ近づいた。

 

ケンドールがボールを受ける。

 

相手の中盤が寄せる。

 

ハーパーはその背後へ動き直した。

 

ケンドールが縦パスを通す。

 

ハーパーは一度で前を向き、右サイドへ展開した。

 

ウォードが走る。

 

クロス。

 

中央のフォワードが頭で合わせた。

 

ボールはゴールの左へ外れた。

 

ベンチから小さな拍手が起きた。

 

ヘイルは、ハーパーの動きを見ていた。

 

この一週間で、彼はボールを受ける位置を少しずつ変えている。

 

以前は、相手の守備ラインの間へ早く入りすぎることが多かった。

 

今は、アンカーがボールを持ったときに一度近づき、相手の中盤を動かしてから前へ走る場面が増えている。

 

もちろん、まだ失敗も多い。

 

だが、失敗の種類が変わり始めていた。

 

前半三十二分。

 

相手のカウンターを受けた。

 

ウォードが高い位置へ出ていたため、右サイドの背後に空間がある。

 

右センターバックが外へ走る。

 

マーサーが中央へ残り、ケンドールが相手のパスコースを塞いだ。

 

相手のフォワードは、中央へボールを運べない。

 

結局、右サイドから無理にクロスを入れた。

 

マーサーが頭で跳ね返す。

 

「いいぞ!」

 

主将の声が響いた。

 

ヘイルは時計を確認した。

 

三十二分。

 

今の守備は、前日の練習で何度も失敗した形だった。

 

それが今日は成立している。

 

相手の水準が違うことは考慮しなければならない。

 

それでも、選手たちが互いの動きを理解し始めていることは確かだった。

 

*

 

試合は二対〇で終わった。

 

後半に入ってから、ブリストルは二度ゴールを奪った。

 

一点目は右サイドからのクロス。

 

二点目は、相手のパスを中央で奪ってからの速攻だった。

 

ヘイルは勝利そのものを大きく評価していなかった。

 

相手は格下であり、プレシーズンの練習試合でもある。

 

ただ、得られたものはあった。

 

ウォードは右ウイングバックとして、守備での距離感を少しずつ掴み始めている。

 

エリスは左サイドで高い位置を取ることに抵抗がない。

 

ハーパーは、ボールを受ける前の動きが改善してきた。

 

マーサーは中央で周囲を動かし、守備陣の混乱を抑えている。

 

そして、ケンドールは堅実だった。

 

それが、ヘイルには少し悩ましかった。

 

ケンドールは悪い選手ではない。

 

むしろ、今日の試合ではチームを支えていた。

 

だが、ブアリが加入すれば、アンカーの序列は変わる可能性がある。

 

新しいオーナーが来たからといって、今いる選手の能力が急に低くなるわけではない。

 

それでも、より高い水準を目指すなら、誰かの立場は変わらなければならない。

 

ヘイルはノートを閉じた。

 

試合後、ケンドールが近づいてきた。

 

「監督、今日の出来はどうでした?」

 

「守備はよかったと思います。特に、相手が中央へ入ってきた場面ですね」

 

「ありがとうございます」

 

「ただ、ボールを受ける前にもう少し周りを見てほしいです。前へ出せる場面がいくつかありました」

 

ケンドールは頷いた。

 

「分かりました」

 

それだけ言って、彼はロッカールームへ戻っていった。

 

ヘイルはその背中を見送った。

 

ブアリの移籍が決まったら、彼にも説明しなければならない。

 

まだ決まってもいない移籍のことを考えている自分に、ヘイルは少し苦笑した。

 

*

 

日曜日の午後。

 

ブアリの父親は、息子の話を黙って聞いていた。

 

家族が集まった食卓には、昼食の皿が片づけられずに残っている。

 

ブアリは、ブリストルから送られてきた資料を開いていた。

 

新しいオーナー。

 

プレミアリーグ昇格を目指す計画。

 

若い選手を中心にしたチーム作り。

 

3―1―4―2の中央で、自分を起用する構想。

 

父親は最後まで説明を聞いた後、尋ねた。

 

「リールでは、来季も試合に出られるんだろう?」

 

「たぶん」

 

「監督からは何と言われている?」

 

「期待してるって」

 

「なら、なぜ出ていく?」

 

ブアリは少し考えた。

 

答えは簡単ではなかった。

 

リールはいいクラブだ。

 

下部組織から育ててもらい、トップチームでの機会も与えてくれた。

 

欧州大会にも出場できる。

 

これからも成長する環境はある。

 

それでも、ブリストルの話が頭から離れなかった。

 

「向こうでは、僕が中心になるんだ」

 

父親は頷いた。

 

「それは分かる」

 

「リールでも試合には出られる。でも、チームの中心かと言われると、まだ違う」

 

「十八歳なんだから、当たり前だろう」

 

「うん」

 

ブアリは否定しなかった。

 

父親の言うことは正しい。

 

十八歳でトップチームの中心になれる選手など、そう多くない。

 

だが、ブリストルの新監督は、そこを任せたいと言っている。

 

しかも、ただ試合に出すという話ではない。

 

ボールをどこへ動かすか。

 

相手の守備をどう動かすか。

 

チーム全体の位置を、中央からどう整えるか。

 

その判断を任せたいという。

 

「失敗したら、どうする?」

 

父親が尋ねた。

 

「分からない」

 

「昇格できなかったら?」

 

「来季も昇格を目指すって」

 

「監督が代わったら?」

 

ブアリは資料から顔を上げた。

 

「それも聞いた」

 

「何と言っていた?」

 

「結果が出なければ、分からないって」

 

父親は少し笑った。

 

「正直な監督だな」

 

「うん」

 

ブアリも笑った。

 

その返答が、妙に印象に残っていた。

 

契約は三年ある。

 

しかし、結果が出なければ分からない。

 

普通なら、もう少し安心させるような言葉を選ぶのではないだろうか。

 

それでもヘイルは、できない約束をしなかった。

 

ブアリは、そこに少し信頼を感じていた。

 

「お前は、どうしたい?」

 

父親が尋ねた。

 

ブアリはしばらく黙った。

 

母親は何も言わなかった。

 

窓の外では、近所の子供たちがボールを蹴っている。

 

その音が、時折部屋まで聞こえてきた。

 

「行ってみたい」

 

ブアリは言った。

 

父親は頷いた。

 

「なら、そう伝えればいい」

 

「でも、二部だよ」

 

「知ってる」

 

「欧州大会もない」

 

「それも知ってる」

 

父親は椅子に背中を預けた。

 

「お前が選ぶんだ。俺たちが決めることじゃない」

 

ブアリは資料を閉じた。

 

少し考えてから、言葉を付け加えた。

 

「でも、移籍を決めたわけじゃないよ」

 

「分かってる」

 

「一度、見に行きたい」

 

母親が顔を上げた。

 

「ブリストルへ?」

 

「うん。実際に」

 

父親は頷いた。

 

「それがいいと思う」

 

ブアリは、もう一度資料を開いた。

 

そこには、赤いシャツを着た選手たちの写真が並んでいた。

 

誰がどんな人間なのか、まだ知らない。

 

監督とは画面越しに一度話しただけだ。

 

練習場がどんな場所なのかも、スタジアムがどんな匂いのする場所なのかも分からない。

 

そこで何年も暮らすことになるかもしれない。

 

それなのに、写真と映像だけで決めてしまうのは、何かが違う気がした。

 

その夜、ブアリは代理人へ電話をかけた。

 

「ブリストルに行きたい」

 

代理人は少し間を置いた。

 

「移籍するという意味か?」

 

「違う」

 

ブアリは答えた。

 

「まず、見に行きたいんだ」

 

*

 

七月十四日、月曜日。

 

午前八時十二分。

 

コールの携帯電話が鳴った。

 

画面には、ブアリの代理人の名前が表示されている。

 

コールはコーヒーを机に置き、電話に出た。

 

「おはよう」

 

相手は簡単な挨拶を済ませると、週末にブアリが家族と話し合ったことを伝えた。

 

そして、本人の希望を告げた。

 

ブリストル・アスレティックへの移籍に関心はある。

 

ただし、最終的な返答の前に、クラブを訪問したいという。

 

コールは椅子に座り直した。

 

「本人がそう言っているのか?」

 

代理人は肯定した。

 

練習施設とスタジアムを見たい。

 

監督とも、改めて直接話したい。

 

可能であれば、今週中に訪問したいという。

 

コールは手帳を開いた。

 

「分かった。こちらで調整しよう」

 

通話を終えた後、すぐにヘイルへ電話をかけた。

 

「エドワード」

 

『おはようございます』

 

「ブアリがブリストルに来たがってる」

 

電話の向こうで、少し間が空いた。

 

『本当ですか?』

 

「ああ。ただし、移籍が決まったわけじゃない」

 

『そうでしょうね』

 

「施設を見たいそうだ。君とも直接話したいと」

 

ヘイルは少し考えた。

 

『いつですか?』

 

「今週中に調整する」

 

『分かりました』

 

「もっと喜ぶと思ったんだが」

 

『嬉しいですよ』

 

ヘイルは少し笑った。

 

『ただ、まだ決まっていませんから』

 

コールは頷いた。

 

「そうだな」

 

電話を切った後、コールは施設担当のグレイへ連絡した。

 

今週、重要な来客がある。

 

スタジアムと練習施設を案内したい。

 

グレイは事情を聞いた後、少し考えた。

 

『どこまで見せるんです?』

 

「全部だ」

 

『改修前の場所も?』

 

「隠しても仕方ないだろう」

 

電話の向こうで、グレイが短く笑った。

 

『そうですね』

 

コールは受話器を置いた。

 

ブアリが来る。

 

ただし、移籍するためではない。

 

移籍するかどうかを決めるために。

 

机の上には、別の補強候補の資料が置かれていた。

 

ジャン・ウルン。

 

フランクフェルト所属、二十歳。

 

ブアリの返答を待っている間にも、移籍市場は止まらない。

 

コールは、その名前を丸で囲んだ。

 

まだ一人目さえ決まっていない。

 

それでも、次の交渉を始める必要があった。

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