七月十六日、水曜日。
ブリストルの空は、朝から曇っていた。
アイユブ・ブアリが空港を出たとき、最初に感じたのは、思っていたよりも涼しいということだった。
フランスの七月とは少し違う。
風に湿り気があり、空には低い雲が流れている。
迎えの車の前で待っていたのは、マーティン・コールだった。
「ようこそ、ブリストルへ」
コールは手を差し出した。
ブアリは握手を返した。
「ありがとうございます」
隣には父親と代理人がいる。
今回の訪問は、まだ正式な移籍手続きではない。
メディカルチェックも、契約書への署名も予定されていなかった。
クラブを見て、話を聞く。
それだけのために、ブアリは海を渡ってきた。
コールは荷物を車に積みながら、今日の予定を説明した。
午前中に練習施設を訪問する。
昼食の後、監督と話す。
午後にはスタジアムを案内する。
その後の時間は、本人と家族の希望に任せるつもりだった。
「街も見ておきたいだろう?」
コールが尋ねた。
「はい」
「観光案内は得意じゃないが、少なくとも迷子にはしない」
父親が笑った。
ブアリも少しだけ表情を緩めた。
車が走り出す。
窓の外には、低い建物が並んでいた。
新しい住宅。
古い商店。
坂道。
赤い煉瓦の壁。
ブアリは、その景色を静かに眺めていた。
リールとは違う。
ただ、何が違うのか、まだうまく言葉にはできなかった。
*
練習施設に到着したのは、午前十時前だった。
最初に目に入ったのは、思っていたよりも小さな建物だった。
二階建てのクラブハウス。
その奥に練習用のピッチが並んでいる。
最新の設備を備えた欧州の強豪クラブを想像していたわけではない。
それでも、ブアリは少し意外に思った。
「ここがトップチームの施設ですか?」
「そうだ」
コールは隠さなかった。
「今のところはね」
入口では、施設担当のピーター・グレイが待っていた。
年配の男だった。
大柄ではないが、長年屋外で働いてきた人間らしい、しっかりした身体つきをしている。
「グレイです。施設の管理をしています」
「よろしくお願いします」
ブアリが答えると、グレイは頷いた。
「まず、中を見ましょう」
廊下には、クラブの歴史を紹介する写真が並んでいた。
古い集合写真。
昇格を祝う選手たち。
満員のスタンド。
ブアリは一枚の写真の前で足を止めた。
白黒の写真だった。
選手たちが泥だらけのユニフォームを着ている。
「いつの写真ですか?」
グレイは顔を近づけた。
「ずいぶん昔だな。私がここへ来る前です」
「長く働いているんですか?」
「ええ。あなたが生まれるより前から」
ブアリは少し驚いた。
グレイは笑った。
「そんな顔をしなくてもいいでしょう」
施設の中を案内される。
ロッカールーム。
治療室。
トレーニングジム。
分析用の会議室。
必要なものは揃っていた。
しかし、広くはない。
ジムの一部には、古い器具も残っている。
ブアリは、リールの施設を思い出した。
向こうの方が、設備は整っている。
その事実を否定する必要はなかった。
「新しい施設を作るんですか?」
ブアリが尋ねた。
コールは頷いた。
「計画はある」
「いつ完成しますか?」
「まだ決まっていない」
ブアリは顔を上げた。
コールは続けた。
「新しいオーナーは、練習施設とアカデミーへの投資を考えている。ただし、どこに何を建てるか、いくらかけるか、まだ調査している段階だ」
「じゃあ、今はこのまま?」
「当面はそうなる」
グレイが口を挟んだ。
「使えないわけじゃありませんよ」
「もちろん」
コールが答えた。
「ただ、もっとよくできる」
グレイは頷いた。
「それは間違いありません」
ブアリは二人のやり取りを聞いていた。
立派な完成予想図を見せられるよりも、少し安心した。
少なくとも、ここにいる人たちは、現状を理解しているらしい。
*
練習場では、トップチームの選手たちが午前のトレーニングを行っていた。
ヘイルは、ブアリの姿に気づくと、コーチへ短く指示を出してから近づいてきた。
「来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ」
画面越しに見たときより、監督は少し若く見えた。
ブアリは、三十四歳だと聞いていた。
トップチームの監督としては、かなり若い。
ヘイルは父親と代理人にも挨拶した。
「まず、練習を見ていきますか?」
ブアリは頷いた。
ピッチでは、中央の狭い区域を使ったトレーニングが行われていた。
三人のセンターバック。
その前に一人のアンカー。
左右に配置されたインサイドハーフ。
ボールを持つ側は、相手のプレスを外して前方へ運ぶ。
失った側は、すぐに中央を閉じる。
ブアリはしばらく見ていた。
やがて、中央でボールを受けた選手が、相手に寄せられて後方へ戻した。
その瞬間、右インサイドハーフが前方へ走った。
しかし、パスは出なかった。
「今の」
ブアリが小さく言った。
ヘイルが振り返った。
「何か?」
「右の選手が動いたとき、前へ出せたと思います」
ヘイルは頷いた。
「僕もそう思います」
「でも、アンカーは後ろへ戻した」
「はい」
「なぜですか?」
ヘイルはピッチを見た。
「本人に聞いてみましょう」
ブアリは少し驚いた。
ヘイルは練習を止めなかった。
一つの区切りが終わるまで待ち、アンカーを務めていたケンドールを呼んだ。
「ベン、さっきの場面を覚えていますか」
「右へ出せたところですか?」
「そうです」
ケンドールは頷いた。
「見えていました。でも、相手のフォワードが寄せてきていたので、無理をしませんでした」
「なるほど」
ヘイルはブアリへ視線を向けた。
「あなたなら?」
突然話を振られ、ブアリは少し考えた。
「たぶん、右へ出します」
ケンドールがブアリを見た。
初めて、二人の視線が合った。
「相手が来ていたぞ」
ケンドールが言った。
「はい。でも、先に右を見ていれば、出せたと思います」
ケンドールはピッチを振り返った。
少し考えてから、頷いた。
「そうかもしれない」
ヘイルは二人を見た。
「どちらの判断にも理由があります」
ケンドールは頷いた。
「ただ、前へ出せる場面を増やしたいんです」
「分かっています」
ケンドールはそう答え、練習へ戻っていった。
ブアリは、その背中を見送った。
「彼がケンドールですか」
「そうです」
「いい選手ですね」
「ええ」
ヘイルは即答した。
「守備では、僕たちが求めることをかなり理解しています」
ブアリは少し黙った。
「僕が来たら、彼はどうなるんですか」
ヘイルはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「移籍するんじゃないんですか?」
「今の段階では、そういう話にはなっていません」
ブアリはピッチを見た。
ケンドールは再び中央でボールを受けていた。
今度は、右インサイドハーフへ縦パスを通した。
「僕が来ても、競争なんですね」
「はい」
ヘイルは答えた。
「ただ、あなたを獲得したい理由は変わりません」
ブアリは頷いた。
それは、オンライン面談でも聞いた言葉だった。
しかし、今は少し違って聞こえた。
目の前に、競争相手がいる。
自分が来れば、その選手の立場が変わるかもしれない。
移籍というものが、急に具体的な出来事になった気がした。
*
昼食の後、ブアリとヘイルは会議室で向かい合った。
父親と代理人は、別室でコールからクラブの中期計画について説明を受けている。
ブアリの希望で、監督とは二人で話すことになった。
「何を聞きたいですか?」
ヘイルが尋ねた。
ブアリは少し考えた。
「僕が来たら、何が変わりますか」
ヘイルはノートパソコンを開いた。
午前の練習映像が映っている。
「今のチームは、守備の位置を整えることについて、少しずつ理解が進んでいます」
「はい」
「ただ、ボールを奪った後の前進が安定していません」
ヘイルは映像を止めた。
「ここです」
ケンドールが中央でボールを受ける。
相手の中盤が寄せてくる。
ケンドールは後方へ戻した。
「これ自体は、間違いではありません」
ヘイルは続けた。
「ただ、相手が寄せてきた瞬間に、前方のスペースが空いています」
ブアリは頷いた。
「右の選手が使えます」
「そうです」
ヘイルは別の映像を開いた。
今度は、リールでのブアリのプレーだった。
同じように中央でボールを受ける。
相手が寄せる。
ブアリは身体を開き、縦パスを通した。
「あなたは、この判断ができます」
ブアリは映像を見ていた。
「でも、毎回できるわけじゃありません」
「もちろんです」
「失敗もします」
「知っています」
ヘイルは別の映像を再生した。
ブアリがボールを失い、相手にカウンターを許した場面だった。
「こういう失敗もあります」
ブアリは苦笑した。
「よく見ていますね」
「仕事ですから」
ヘイルも少し笑った。
「僕が求めているのは、失敗しない選手ではありません」
「じゃあ?」
「判断できる選手です」
ヘイルは画面を閉じた。
「安全なパスを選ぶべき場面もあります。リスクを取るべき場面もあります。その区別を、自分で考えられる選手が必要なんです」
ブアリは黙って聞いていた。
「あなたなら、その判断をチームの中心で担えると思っています」
「もし、できなかったら?」
「練習します」
「それでも、できなかったら?」
「別の方法を考えます」
ブアリは顔を上げた。
「僕を使わない?」
ヘイルは少し考えた。
「その可能性もあります」
沈黙があった。
「でも、あなたを獲得したいのは、今できることだけを評価しているからではありません」
ヘイルは続けた。
「三年後、五年後に、どんな選手になれるかを考えています」
ブアリは椅子に背中を預けた。
「リールでも、成長できます」
「そう思います」
「欧州大会にも出られる」
「はい」
「ここでは、二部リーグです」
「その通りです」
ヘイルは否定しなかった。
「だから、僕はあなたに来るべきだとは言いません」
ブアリは少し驚いた。
「言わないんですか?」
「僕は来てほしいと思っています。でも、あなたがリールに残る方がいいと考えるなら、それも理解できます」
ブアリはしばらく黙っていた。
やがて、尋ねた。
「監督は、どうしてここに来たんですか」
今度はヘイルが少し驚いた。
「僕ですか?」
「はい」
「監督経験がないのに、いきなり二部のクラブですよね」
ヘイルは小さく笑った。
「そうですね」
「怖くなかったんですか」
「怖かったですよ」
「それでも?」
ヘイルは少し考えた。
「自分の考えていることを、実際のチームで試してみたかったんです」
ブアリは頷いた。
「失敗したら?」
「そのときは、失敗した理由を考えます」
「それで済むんですか?」
「済まないかもしれません」
ヘイルは答えた。
「でも、何もしなければ、自分の考えが正しかったかどうかも分からない」
ブアリは、しばらく監督の顔を見ていた。
画面越しに話したときと、印象は変わらない。
できない約束はしない。
分からないことは、分からないと言う。
それでも、自分の考えを持っている。
ブアリは少し笑った。
「変わった監督ですね」
ヘイルも笑った。
「よく言われます」
*
午後三時過ぎ。
ブアリは、レッドクリフ・グラウンドのピッチ脇に立っていた。
観客のいないスタジアムは、思っていたよりも静かだった。
約二万七千人を収容する古い競技場。
座席には、長年使われてきた痕跡が残っている。
通路は狭く、売店の設備も新しくはない。
それでも、ピッチに近いスタンドには独特の迫力があった。
「ここがホームです」
コールが言った。
ブアリは観客席を見上げた。
「満員になりますか?」
「試合による」
コールは正直に答えた。
「ただ、大事な試合では、かなりの雰囲気になる」
グレイが隣で頷いた。
「昔から、ここは声がよく響くんです」
ブアリはピッチへ視線を戻した。
中央の円。
ペナルティーエリア。
ゴール。
芝生の上に立つと、客席との距離が近いことがよく分かった。
「改修するんですよね」
ブアリが尋ねた。
「その予定だ」
コールは答えた。
「ただし、すぐに全部が変わるわけじゃない」
グレイが、スタンドの一角を指した。
「まずは屋根の修理です。雨が降ると、あそこから水が落ちる」
ブアリは見上げた。
「本当に?」
「本当に」
グレイは苦笑した。
「何年も前からの問題です」
「直せないんですか?」
「直します。ようやく、その話が進んでいます」
コールは続けた。
「新しいオーナーは、クラブを大きくしたいと考えている。ただ、今あるものを全部捨てるつもりでもない」
ブアリは頷いた。
「古いスタジアムですね」
「そうだ」
「でも、嫌いじゃないです」
コールは少し笑った。
「それはよかった」
ブアリは、もう一度観客席を見上げた。
ここに二万七千人が入る。
赤いシャツを着た人々が、自分の名前を呼ぶ。
まだ想像にすぎない。
しかし、空っぽのスタンドを見ているうちに、その光景が少しだけ具体的になった。
*
スタジアムを出た後、ブアリは父親と街を歩いた。
コールは案内役を申し出たが、父親が丁寧に断った。
「少し、二人で歩いてみたいんです」
コールは頷いた。
「何かあれば連絡してください」
二人は、港の方へ向かった。
古い建物と新しい店が並ぶ通り。
仕事帰りの人々。
学生らしい若者たち。
カフェの前に置かれた椅子。
ブアリは、行き交う人々を眺めながら歩いた。
「どうだった?」
父親が尋ねた。
「思っていたより、普通だった」
「何が?」
「クラブが」
父親は笑った。
「普通?」
「もっと、すごいものを見せられると思ってた」
「新しいオーナーがいるから?」
「うん」
ブアリは頷いた。
「でも、施設は古かったし、スタジアムも修理が必要だった」
「それで、がっかりしたか?」
ブアリは少し考えた。
「少し」
父親は頷いた。
「正直だな」
「でも、悪くなかった」
「なぜ?」
ブアリは、すぐには答えなかった。
練習場で見たケンドールの姿を思い出す。
ボールを受け、周囲を確認し、仲間へパスを出す。
自分が加入すれば、あの選手と競争することになる。
監督は、それを隠さなかった。
施設が古いことも、昇格が保証されていないことも、クラブは隠さなかった。
「なんていうか」
ブアリは言葉を探した。
「本当に、これから作るんだなって思った」
父親は何も言わなかった。
「完成したチームに入るんじゃなくて、まだできてないチームに入るんだ」
「それは、大変だぞ」
「分かってる」
「失敗するかもしれない」
「うん」
ブアリは頷いた。
「でも、僕がいれば変わるかもしれない」
父親は息子を見た。
「そう思うのか?」
ブアリは少し笑った。
「少なくとも、監督はそう思ってる」
「お前は?」
ブアリは足を止めた。
目の前には、港の水面が広がっていた。
午後の光が雲の間から差し込み、建物の影が水に映っている。
「まだ分からない」
父親は頷いた。
「それでいい」
二人は再び歩き始めた。
*
その日の夕方。
コールはオフィスで、ブアリの代理人からの連絡を待っていた。
訪問は予定どおり終わった。
クラブ側として、伝えるべきことは伝えたつもりだった。
あとは本人の判断になる。
机には、移籍交渉の資料が置かれている。
リールとの条件は、まだ最終合意に至っていない。
固定移籍金と追加報酬の構成について、さらに協議が必要だった。
それでも、本人が移籍を望まなければ、どんな条件も意味を持たない。
コールは時計を見た。
午後六時四十分。
電話は鳴らなかった。
*
ブアリがリールへ戻ったのは、翌日の午後だった。
移動の疲れもあり、その日は早く帰宅した。
自室で荷物を片づけていると、母親が声をかけた。
「どうだった?」
「よかったよ」
「それだけ?」
ブアリは少し笑った。
「まだ考えてる」
母親は頷いた。
「そう」
机の上には、ブリストルで受け取った資料が置かれていた。
新しいオーナー。
若い監督。
古いスタジアム。
これから改修される施設。
まだ完成していないチーム。
そして、中央のアンカーに書かれた自分の名前。
ブアリは椅子に座った。
リールに残れば、来季も欧州大会を戦える。
経験豊富な選手たちとプレーし、少しずつ出場時間を増やしていくことができる。
その道は、十分に魅力的だった。
ブリストルへ行けば、すべてが変わる。
リーグも、生活も、チームでの役割も。
成功する保証はない。
ただ、今日見た練習場の光景が、頭から離れなかった。
ケンドールが中央でボールを受ける。
右のインサイドハーフが動く。
相手の中盤が寄せてくる。
あの瞬間、自分ならどうするか。
ブアリは、無意識に考えていた。
そのことに気づいて、少し笑った。
まだ、あのチームの選手でもないのに。
携帯電話を取り出し、代理人とのメッセージを開いた。
返答は、明日でもいい。
もう少し考えてもいい。
しかし、今度は自分が何を考えるべきなのか、分かっていた。
ブリストルがどれほど大きなクラブになるかではない。
自分が、そこで何をしたいのか。
ブアリは携帯電話を机に置いた。
答えは、もう遠くないところにある気がした。