出立を決意した日の朝であろうと、鍛錬は欠かさない。
村に鳴り響く鐘の音は、空が薄青くなってきた時を始めとして、一定間隔で聴こえられる。
僕はこれが四回鳴った時に身を起こす。
大抵の人間は六回ほどで起きて、働かない男どもは九回程度で起きるのではないだろうか。
鍛錬の内容としては、村の周囲を走り込むことから始まる。
村の周囲を囲む木々は未だ仄暗いが、涼しげな向かい風を浴びて、乾いた枝葉の擦れ合う騒めきを聞くのは心地よい。
なにより、他の村人達より早く起き、復讐成就の奇蹟待望のために、鍛錬を重ねる優越感と言ったらこの上ない。
健康的な背筋の痛み力みが、上下に分かれ始めた時の実感。腕の後ろに、一筋の鎌の刃のような半円の窪みが出来た時の喜び。
僕はレコンキスタ部隊の男ほどご立派な体はしていないが、それでもナッシャを抱き上げて、村を半周できる程度の自負はあった。
教団が主というのに祈りを捧げるなら、僕はこの鍛錬に自己を投影して、自分を崇拝して祈りを捧げていると言っても過言ではないのだ。
実戦想定のため、血と汗の染み込んだチェーンメイルを着ての走り込みである。
高価な装備などはないから、これで妥協している。
このチェーンメイル、暖かな季節はもちろん臭いは強くなる。
今の生暖かさと薄寒さの中間色の季節であっても、はっきり言って臭う。
血と鉄の臭いは最早慣れたのでいい。
問題なのは、首と肩周り、脇腹の下、胸部の臭いである。
汗のものなのだろうが、なんとも言えぬ、入れ歯の唾液と排泄物を混ぜたような臭いがする。
これが、体を揺らして走る度に鼻に纏わりつく。
蝿のように。
臭いを対策する術というのを、僕達は薬用植物を体に塗りつけたり、匂いの強い実を塗りつけること以外知らない。
その植物の中にも、同じ見た目をしておいて、肌に塗れば壊死させるものや、湿疹を起こさせる意地の悪い植物があるので、塗ろうにも塗れない。
なぜなら玉なしの男たちばかりだから。
湯浴びの習慣こそあれど、僕達は玉なしであるので、みんなで仲良く湯浴びということはない。
勘違いしてほしくないのは、僕は概念的玉なしであって、玉もカリバーンもついている。
それをバレないために、共同で湯浴びをしないという理由もある。
セクル爺さんだけが、僕のカリバーンが健在であることを知っている。
だからこそ、同じ屋根の下で暮らす屈辱を味わうことになっているのだが。
夜な夜な足音を消して、冷めた湯が張られた木桶に近寄り、慎重にそれを掬って体にかける。
そして薬草を塗りつける人は塗りつけ、怖い人は身体に叩く程度にして、さらに玉なしは逃げるように、影から這い出て、光を避ける虫同然の足取りでそれぞれの家屋に帰って行くのだ。
レコンキスタ部隊がやってきた時には、女性は体を擦るようにして、レコンキスタの連中を誘惑し、共に湯浴びをする。
確かナッシャも擦っていたんじゃないだろうか。
その後垢の浮いた湯を、玉のない虫が掻っ攫って行く。
もうこの話はやめる。
走り込みの後は、上半身のみ人の形を模して作られた木偶に向かって、ターキー・ミギフックの訓練をする。
僕はこの木偶に、かつての非力な自分や、村の人間の顔、レコンキスタ部隊の野郎どもの顔を浮かび上がらせて、右フックをかましている。
「左!右!!睨み合って……右フック!!」
左斜め上から切り下ろして、次は右斜め下から切り上げる。
木偶の首に剣を押し当てて鍔迫り合いの形を取り、突如右腕を剣から離して右フック。
木偶の固定されていない首と、頭にかけられた桶が左右に揺れる様を見るのは、大変心地よい。
「観念したか、レコンキスタ部隊め!この竿役どもが!」
僕の叫びに合わせて、鳥が鬱蒼とした木々の海から飛び立った。
かつて竜と呼ばれるものがいたらしいが、この星の重力に耐えられなくなり、仕方なく鳥に身を縮めたという説がある。
陰謀論である。
この星が平面という説もある。
陰謀論である。
僕の中で、ナッシャは処女懐胎を成し遂げたのではないかという説がある。
陰謀論である。
そもそも僕は、一角獣より二角獣の思想に傾倒しているから、ナッシャの処女懐胎説は……
――ターキー・ミギフックの鍛錬は10セット。
そしてオツギ・アッパーへの派生を10セット。
下半身のみの木偶の足を掴んで、ジャイアントスイングを5セット行う。
これだけで、鐘は追加で二回ほど鳴って、陽射しは濃くなり、僕の汚れたチェーンメイルの錆を強く照らす。
「結局、さらなる奥義の研究は出来ずじまいか……」
汗を拭い、剣を地面へ投げ捨てて、家屋に向かった。
新たな奥義とは、「ボストン・クラブ」、「ラリアット」の二つである。
特にラリアット。
ムカつく奴が横を通りかかった時、なんの構えもなしに、何食わぬ顔で放てそうであったから、完成させたいところだった。
***
「ベン……出て行くんだな」
セクル爺さんだけが家の前で、僕の服の洗濯を始めていた。
隠していたはずの荷物がバレたらしかった。
僕は黙っている。
爺さんを視界に入れまいと地面を見つめているが、嫌でも動きの輪郭は目の端で追えてしまう。
「ナッシャの妊娠が原因か」
「そんなんじゃない。ただ僕は、王国もレコンキスタ部隊もその全てが許せない。」
僕は屈んだ爺さんを避けるように歩いて、狭く薄汚れた家屋から、紐で括られたいくつかの袋を担いだ。
チェーンメイル、コイフ、籠手や脛当て等の装備は、全てこの村から掻っ攫って行く。
食料も掻っ攫う。
金目のものも掻っ攫う。
爺さんは大袈裟に腰を叩いて、呻きを上げて立ち上がり、僕を真っ直ぐと見つめていた。
「お前に悲願を託さんと言い続けたが、半分は冗談だったよ……」
僕は爺さんのその呟きを聞いて、さらにここに立つ自分が惨めに感じられた。
爺さんの背後で、洗濯された衣服の影が、強い陽射しに当たり、左右に揺れていた。
僕の旅の不安、行き場を失って宙吊りとなった自分自身、やってくる死を現して、踊っているように思われる。
「僕は母さんも探したい。ただ、そのためには王国の腐った政策は、やめさせなければならない。」
「行く当てはどうする」
「ギルドへ行くさ。身元を洗われる軍には入れないだろうから。あそこなら、曰くつきの人間だって生きていける。」
「ベン、ロバを連れて行け。元気なものを。」
「爺さん、ありがとう。世話になりました」
僕は家畜の待つ小屋へ向かった。
吐き出す息が清々しかった。
村で育んだ哀歓を一気に吐き出せたような気がした。
「な、なんで二頭!?なんで二頭!?限度があるだろ!なんで二頭!?」
「黙れジジイ!一頭は乗るため、もう一頭は、売るため!」
僕は乗ったロバの手綱を片手で掴み、もう一つの手綱を左手で強く引っ張った。
爺さんは僕を見上げて叫び散らし、ナッシャや何人かの村の人々が僕を見上げている。
これが王の気分か!
これが栄光の、黄金色に輝く出立の気分か!
僕は汗臭すぎるチェーンメイルで、頬を拭った。
そして再び、気怠げな二頭目のロバの手綱を引っ張った。
そのロバは毛に沈んだ瞳を、喚き散らす子供を迷惑そうに見つめる冷酷な大人の流し目を、静かに僕に送った。
ナッシャの両肩を露出した服から、彼女の豊満な二つの果実に押しつぶされる、紅い薔薇の蕾のような乳首が伺える。
素晴らしい色、素晴らしい形。素晴らしいサイズ。
レコンキスタ部隊の男にしゃぶられ、生まれてくるレコンキスタ部隊の子供にもしゃぶられる。
レコンキスタ部隊のカスどもは、死を思えよ。
「でてけっ!でてけかすっ!」
「っせぇジジイ!ころすぞっ!」
「賊の略奪だーっ!」
僕はロバを引き、村の出口へ向かった。
ナッシャは執拗に、小動物が媚びるように僕の足元をチラつく。
「ベン、待ってよ!私が子供を産むから……?」
「違う。元からこんな場所、出て行くと決めていた。」
ナッシャは僕の乗るロバに手を掛け、毛並みを整えるように撫でていた。
僕は膝を動かし、膝当てを彼女の肘に軽くぶつけて、それを退かした。
ロバの二頭目が咎めるような視線を向けて、ゆったりと僕の側に寄る。
ナッシャはその間を歩いている。
「ベン、手を取って……」
彼女は僕に両手を掲げた。
僕は厳格な、罪人のうなじを見下ろす、死刑執行人のような瞳を彼女へ向けるように努めた。
「君は子を産め。そしてこの村の男達のようには育てるな。それだけだよ……」
二頭のロバは歩みを速めた。
僕は体を上下に、ゆるやかな波に乗るように揺られながら、遠方の連続して並ぶ木々だけを見つめた。
背後の村の方から、何やら焦げ臭いにおいがした。
畑燃やしてるにおいである。
――暫く森を歩いた。
村の鐘の音は、まだ微かに聴こえられる。
木の根元に立ちションをかましたら、狼に嗅ぎつけられ、僕は今絶賛二頭のロバを連れて追いかけられています。
もう一頭は囮にしようかと思いましたが、どうも視線が痛いので無理そうです。