フタバタウンを飛び出したヒカリの冒険は、決して平坦なものではなかった。
ポケモン図鑑を手に、草むらで野生のポケモンとぶつかり、傷つき、モンスターボールを握る手が震えた日もある。コトブキシティでは「ギンガ団」と名乗る気味の悪い集団と遭遇し、理不尽な悪意に怯えながらも、相棒のポッチャマと共に必死で立ち向かった。
クロガネの炭鉱を抜け、ハクタイの森を走り、ヒカリは一歩ずつ「ポケモントレーナー」としての確かな足取りを刻んでいく。
その道中、彼女の手本であり、憧れであり続けたのはシンオウチャンピオン・シロナの存在だった。
「――この『ひみつのくすり』を、トバリシティのカフェにいるコダックたちに届けてあげて」
ふわりと舞う金髪。どこか神聖なまでの気品を纏いながら、困っている旅の少女に優しい微笑みを向け、そっと道を示してくれるシロナ。
ズイの遺跡やカンナギの街でシンオウの神話や歴史を語るシロナの瞳は、いつも夜空にきらめく星のように深く、美しかった。
だが――カンナギの古いカフェで身を寄せ合い、温かい紅茶を飲んでいたときのことだ。
「シロナ様……あの、シロナ様が留守にされていた間、代わりにリーグを守っていた『アスト代理』のことなんですけど……」
ヒカリは思い切って、ずっと気になっていた疑問を口にした。
シロナの不在時、公式中継で見た代理チャンピオン・アストの戦い。相手の攻撃を氷のように冷徹なさばきで完璧に受け止め、圧倒的な破壊力で一蹴してみせた男。勝利しても笑顔ひとつ見せず、勝利インタビューすら一切拒否してカメラの前から姿を消した、あの恐ろしいまでの冷酷さ。
世間では「冷血な代理」「感情のない刃」と噂されていた男だ。
「テレビで試合を見たとき、なんだかすごく冷たくて、怖い人だなって思っちゃって……」
「ふふ……画面越しだと、そう見えてしまうのね」
シロナは困ったように微笑むと、手元のカップをそっと置き、遥か北の空――テンガン山の寒冷な山嶺を見上げた。
その瞬間、ヒカリは息を呑んだ。
いつでも完璧で、気品に満ちたチャンピオンの顔が、ほんのわずかに崩れたのだ。その瞳には、一人の恋する女性としての深い熱と、切ないほどの愛おしさが宿っていた。
「彼はね、口下手で……自分の気持ちを言葉にするのが少し苦手なだけなの。……私の不在中、くだらない世論や雑音から私とリーグを守るために、あえて悪者になって一人で刃であり続けてくれたのよ」
「えっ……シロナ様のために……?」
「ええ。私に敗北の味を教えてくれた人であり……私の背中を預けられる、世界でたった一人の大切な人。彼がいなければ、今の私はチャンピオンでいられないわ」
愛おしそうに頬を緩ませるシロナ。
ヒカリは目を丸くし、自分の耳を疑った。
(あの、テレビで見た氷みたいに冷たいアスト代理と……シロナ様がこんなに優しく語る人が、本当に同一人物なの……!?)
憧れのシロナ様が言っているのだから嘘な訳がない。けれど、あまりのギャップにヒカリの頭の中は混乱でいっぱいだった。
「さあ、話が逸れてしまったわね。……ヒカリ、あなたはあなたの旅を続けなさい。大丈夫、あなたならきっと素敵なトレーナーになれるわ」
優しく肩を叩かれ、ヒカリは「はい!」と力強く頷いた。
だが、その背中を見送りながら、ヒカリの胸には未だ見ぬ「アスト」という男への、強烈な疑問と興味が残り続けていた。
――そしてその頃。
シロナに公務のすべてを戻し、画面の表舞台から完全に姿を消したアストは、単身でテンガン山北方の雪原へと足を踏み入れていた。
代理の重圧を捨て、ただ一人のトレーナーとして。
吹雪の中、静かに付き従うサーナイトと共に、破滅の気配が漂う北の果てへと向かう。
シロナが信じ、ヒカリが半信半疑で思いを馳せるその男の真価が試される時は、すぐそこまで迫っていた――。