空間が反転し、上下の感覚すら失われる異質の世界。
「やぶれたせかい」へ足を踏み入れた瞬間、不気味な暗雲と、異空間特有の重苦しい圧力が三人へと襲いかかった。
「きゃ……っ!?」
足場の定まらない浮遊岩に着地し、思わず身体をすくませるヒカリ。
だがその直後、ヒカリの前に立ち塞がったのは、一切の躊躇なく一歩を踏み出したシロナとアストだった。
「――ガブリアス!」
シロナの凛とした声に応え、飛び出したガブリアスが放つ圧倒的な威圧感が、前方から押し寄せる歪んだ時空の衝撃波を真っ正面から押し戻す。
それとほぼ同時だった。アストの手元から解き放たれた色違いのサーナイトが、眩いサイコパワーの展開で頭上から崩落しかけた岩塊を完璧に静止させ、傍らのマニューラが滑るような疾走で足元から這い出る不気味な影を切り払う。
言葉による打ち合わせなど、何一つない。
着地したわずか一瞬で、シロナが正面の「空間圧力」を抑え、アストが「周囲の不確定要素」を完璧に制圧する。修羅場をくぐり抜けてきたふたりだからこそ成せる、息を呑むような阿吽の呼吸だった。
「ふふ……頼もしいわね。やっぱり、あなたを連れてきて正解だったわ」
ガブリアスの背後で、シロナがチラリとアストへ視線を送り、柔らかな笑みを浮かべる。
「……シロナが前だけ見てられるようにするって言ったろ」
アストは無骨にそう答えながらも、その瞳にはシロナへの揺るぎない信頼と愛着が宿っていた。シロナもまた、アストが背後を守ってくれているという絶対的な安心感を背中に受けて、前方の異次元を強く見据える。
十代のヒカリには決して入り込めない、互いのすべてを知り、支え合ってきたふたりだけの特別な空気感。
だが、その背中はヒカリにとって、何よりも頼もしく、温かい導きだった。
「ヒカリ、足元に気を付けてついていらっしゃい。……アカギは、この奥よ」
「……はいっ!」
重力が歪み、壁が床になり、階段が天へと伸びる異次元の道。
先頭を切るシロナとガブリアスが前方の空間を切り拓き、アストとサーナイト、マニューラがヒカリの背後と側方を完璧にガードする。
やがて――重なった浮遊岩の最奥、世界の「虚無」そのものを体現するように佇む男の姿があった。
アカギだ。
その周囲には、この世界の主であるギラティナの放つ禍々しい威圧感と、崩壊しかけた時空の亀裂がうごめいている。生半可な人間なら、その気配だけで精神を削り取られるほどの狂乱。
「ここまでだ、アカギ」
アストが前に出ると同時に、サーナイトが膨大なサイコパワーを全開にし、周囲の歪んだ空間と崩落の危険を力ずくで「完全固定」した。マニューラもまた鋭い爪を構え、影から湧き出ようとする雑音を完璧に断ち切る。
さらに、シロナのガブリアスとルカリオが前に立ち、ギラティナの放つ膨大なプレッシャーをその身で引き受け、完璧な「壁」となって空間を切り分けた。
ふたりが作り出したのは、異世界の狂乱の中で唯一静寂が保たれた、「ヒカリとアカギが誤魔化しなく正面からぶつかり合える決戦の場」だった。
「……行きなさい、ヒカリ。私たちがここは絶対に崩させない」
シロナが温かく、けれど絶対の確信を込めてヒカリの背中を押す。
「お前の『現実』を、あいつの虚無にぶつけてこい」
アストの静かな言葉と、背後を守るマニューラ、サーナイトたちの視線。
「……はい! 行ってきます!」
ヒカリは力強く頷くと、モンスターボールを握り締め、二人が作り出してくれた道筋を真っ直ぐに駆け出した。
絆を否定する男・アカギの目の前へ、自分と、これまでを共に歩んできた者たちの「現実」を証明するために。
◇
「……愚かな。感情という不完全な欠陥に怯え、傷つき合いながら生きることに、何の意味があるというのだ」
決戦の場の中央で、アカギが冷酷に吐き捨てる。手元から解き放たれたのは、ヘルガー、ドンカラス、ギャラドス、クロバット、そしてマニューラ。寸分の狂いもない、計算し尽くされた殺意の陣形。
「意味なら……ここにあるよ! みんな、行こう!!」
ヒカリの叫びとともに、これまでを共に歩んできた者たちが一斉に弾けた。
異空間の不規則な重力を利用し、頭上から疾風のごとく襲いかかるムクホークとミミロップ。アクロバティックな連携でアカギのクロバットとギャラドスの視線を奪う。
そこへ叩き込まれるのは、ブーバーンの圧倒的な牽制射撃と、リーフィアのしなやかなカバー。火炎と葉の交差射撃が、アカギの完璧な計算による射線を次々と打ち砕いていく。
「な……ッ!?」
感情を捨てた最適解の連続。それに対し、ヒカリたちの戦いはどこまでも泥臭く、お互いの傷を補い合う「血の通った熱」そのものだった。
最後の一撃を任されたのは、エース・エンペルト。
相棒たちが切り開いた一瞬の隙を突き、鋼の羽を研ぎ澄ませたエンペルトが、アカギの切り札であるマニューラの懐へ飛び込む。
「心があるから傷つくし、迷うよ! でも、だから私たちは助け合えるの……! 私とこの子たちが積み重ねてきた時間は、絶対になかったことになんてさせない!!」
――ドガァァァンッ!!
「ハイドロカノン」の怒濤と熱い咆哮を乗せたエンペルトの一撃が、アカギの陣形を真っ向から打ち砕いた。
静寂が訪れる。
ひざまずくマニューラと、崩れ去った手持ちたち。アカギは自分の完璧な論理が、目の前の少女とポケモンたちの「現実の絆」に敗れた事実を、ただ愕然と見つめていた。
ギラティナの気配が遠ざかり、シロナとアストが固定していた空間の亀裂から、現実世界へと繋がる光の柱が差し込む。
「戻りましょう、アカギ。……やり直すことは、いつだってできるわ」
シロナが静かに手を差し伸べる。だが、アカギはその手をゆっくりと首を振って拒んだ。
「……あり得ん。心が存在する世界など、私は認めない。私はここで、誰の心にも脅かされない完全な世界を求めるだけだ」
男は敗北を受け入れながらも、最後まで「心」を受け入れることを拒み、一人暗闇の奥へ歩み出そうとする。
その背中に、アストが静かに歩み寄った。
「……全部消して虚無になれば、楽になれると思ってたか。俺も昔はそう思ってたよ」
アストの言葉に、アカギの足がわずかに止まる。
アストは自分の手元に寄ってくるマニューラにそっと手を置き、絶望の底から互いに痛みと傷を分かち合ってきた過去を見つめ直すように吐き捨てた。
「だが、どれだけ世界を拒絶しても……胸の中の『痛み』からは絶対に逃げられない。俺たちは痛みを抱えたまま生きるしかないんだ。……ここで一人で冷えていくというなら、引き止めはしない」
アストの不器用で、けれど「影を知る者」だからこそ発せられる最後の引導。
アカギは振り返ることなく、だがアストの言葉を背中に受け止めたまま、不気味な虚無の暗闇の中へと姿を消していった。
「……行きましょう。私たちの世界へ」
シロナの優しい声に促され、3人は光の裂け目へと飛び込んだ。
――眩い光とともに、視界が開ける。
冷たい風と、テンガンざんの荒々しい岩肌。やりのはしらへ戻ってきたヒカリは、安堵から思わず膝をついた。
「よく頑張ったわね、ヒカリ。本当に見事だったわ」
シロナがしゃがみ込み、シンオウを救った小さな英雄の頭を温かく撫でる。
アストもまた、マニューラとサーナイトを収めると、少しだけ表情を緩めてヒカリを見つめた。
「お前の『現実』の勝ちだ。……胸を張れ」
「……はいっ……! ありがとう、みんな……!」
これまでを共に歩んできた者たちに囲まれ、ヒカリは涙を拭いながら弾けるような笑顔を見せた。
異次元の狂乱を越え、互いの背中を預け合った絆は、より一層深く、揺るぎないものとなっていた。
ギンガ団編 決着