テンガン山の冷たい風の中で、アストの服の裾からそっと指を離したあの日。
シロナの足取りは、最初はほんの少しだけ震えていた。
振り返れば、いつだってそこにいたはずの広い背中はない。
ふとした野営の夜。一人で火を起こし、冷えた木の実をかじる時、胸の奥を刺すような寂しさが襲いかかる。
いつもなら、アストが不器用な顔でスープを分け合ってくれていた。
あの時、あいつはどんな顔をしていたっけ――ふと頭に浮かぶのは、強がっているくせに、誰よりも傷つきやすいアストの横顔だった。
(……あいつ、また一人で無理をしてるんだわ)
旅の途中で耳にする噂。異形のポケモンを従え、凄まじい気迫で勝ち進むアストの姿。
周囲は彼を「異色の天才トレーナー」「影の救世主」と持て囃すが、シロナには分かっていた。
あいつは完璧な英雄なんかじゃない。
昔からそうだ。周囲は英雄だと囃し立てる。でもシロナは知っていた。アストは誰かを救えなかった時、その痛みまで抱え込んでしまう人だということを。
(私……アストのことが好き。ただの幼馴染でも、ライバルでもなく……あいつの全部を、私が隣で支えたい)
ずっと胸の奥に隠していた恋心の自覚は、同時に一つの強い切なさと覚悟に変わった。
アストはいつだって誰かを救おうとするけれど、そのアスト自身が抱える孤独や傷を癒やせる存在になりたい。彼の背中にすがるのではなく、傷だらけのその隣に、対等な「光」として並び立ちたい。
その切なくも熱い愛の覚悟が、シロナの瞳に一切の迷いのない強さを灯した。
「行くよ、フカマル。私たちは、もっともっと強くならなくちゃいけないの。あいつの背中をただ見上げるんじゃなく、あいつが一人で抱え込んでいるものを、一緒に背負えるくらいに」
自分の恋心と覚悟を証明するため、シロナは激しい修行と各地の遺跡巡りに身を投じた。
知識を貪るように吸収し、バトルでは一瞬の隙も許さない苛烈で洗練された指揮を貫く。
アストへの愛と情熱は、気高く強い光の覇気となり、手持ちのポケモンたちを圧倒的な強さへと昇華させていった。
フカマルは圧巻の覇者を誇るガブリアスへ。
トゲピーはトゲキッスへ、スボミーはロズレイドへ、リオルは絆の果てにルカリオへ。
荒れ狂う嵐の夜も、苦しい遺跡の調査の最中も、シロナの心を支えていたのは、「あいつに負けない強さで、いつかあの傷ついた手を強く握りしめてやりたい」という一途な願いだった。
「待っていてね、アスト。……もう二度と、一人で背負わせたりしないから」
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そして――チャンピオンロードを越え、決戦の地・ポケモンリーグ。
エントランスの広場で、久しぶりに見上げたアストの姿。
影のポケモンたちを引き連れ、かつてよりもずっと重厚で、以前よりずっと逞しくなった男の顔をした彼を見た瞬間、シロナの胸の奥が激しく熱くなった。
(……やっぱり、すごいよ、アスト。あなたは、自分の弱さと傷をちゃんと乗り越えてここまで来たんだね)
胸の奥から溢れ出す愛しさと、トレーナーとしての燃えるような闘志。
非公式戦での敗北、そしてアストがチャンピオンの切り札・ドサイドンと繰り広げた死闘のすべてを、シロナは控室のモニター越しに祈るような心地で見つめていた。
アストが傷つきながらもすべてを懸けて削り取った王者の壁。
控室に戻ってきたアストの、戦いでボロボロになった手を見た時、シロナの胸に溢れたのは深い愛と絶対的な決意だった。
「私の背中を押して、アスト。あなたがその手で切り拓いてくれた強さと絆を持って、私は行ってくる」
あなたが見せてくれた痛みも、あなたへの愛も、すべてを胸に抱いて私は頂点に立つ――。
そして激闘の末、チャンピオン・ドサイドンを打ち破り、新チャンピオンとして輝くステージに立ったシロナ。
歓声が渦巻くスタジアムの頂点から、シロナはまっすぐにアストだけを見つめていた。
(追いついたよ、アスト。……もう、あなたの背中なんて見送らない。これからは私が、あなたの隣でその手を離さないから)
王座の光を纏った少女の胸には、傷だらけの少年を深く愛し、共に生きると誓った、世界でたった一つの強い光が満ちていた――。