第一幕 鴉は尸魂界に生きる
第一部 死して、なお
第2話 知らない世界
流魂街での生活は、思っていたよりも穏やかだった。
朝になれば目を覚まし。
水を汲み。
薪を割り。
源三と食事をする。
時折、団子を食べに行く。
夜になれば眠る。
ただ、それだけの日々。
任務はない。
誰かを監視する必要もない。
眠っている間に襲撃される可能性を考え、罠を張る必要もない。
誰かに嘘をつく必要もなければ。
誰かを殺す必要もない。
最初の頃。
イタチは、その生活に慣れなかった。
「イタチ」
「はい」
「薪」
「終わっています」
「水」
「汲んであります」
「屋根の補修」
「昨日済ませました」
「…………」
源三が黙った。
イタチは首を傾げる。
「どうしました?」
「お前、何かすること残しとけよ」
「なぜです?」
「俺が何もすることなくなるだろうが」
「休めばいいのでは?」
「そういう問題じゃねえ」
「そうですか」
「そうだよ」
源三は深く息を吐いた。
「お前、本当に働きすぎだぞ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。もう少し子供らしく遊んでこい」
「遊ぶ……」
イタチは考えた。
「何をすれば?」
「そこからかよ」
源三が額を押さえた。
遊ぶ。
言葉の意味は分かる。
だが、いざ何をするのかと問われると困る。
幼少期。
弟と過ごした時間はある。
シスイと修行以外の話をしたこともある。
だが、自分自身が何をして遊んでいたのか。
思い返してみれば、ほとんど記憶にない。
「……団子でも食べてきたらどうだ」
「それは遊びですか?」
「もうそれでいいよ」
源三は諦めたようだった。
◇
穏やかな生活を送る一方で、イタチは自分の身体を調べ続けていた。
この世界へ来た直後から感じていた力。
源三の言葉を借りるなら――霊力。
チャクラとは違う。
だが、まったく異質というわけでもなかった。
身体の内側に存在する力を認識し。
意識によって動かし。
必要な場所へ集める。
そこまでは似ている。
問題は、その先だった。
「…………」
人気のない林。
イタチは一本の木の前に立っていた。
右足を木へつける。
一歩。
二歩。
三歩。
そのまま垂直に幹を登る。
四歩目。
足が滑った。
「……」
身体を反転させ、地面へ着地する。
失敗。
イタチは木を見上げた。
かつてなら。
足裏へチャクラを集める程度、考える必要すらなかった。
木登りの修行。
忍としては初歩の初歩。
だが、同じように霊力を流しても上手くいかない。
もう一度。
一歩。
二歩。
今度は先ほどより霊力を弱くする。
五歩。
六歩。
落ちる。
「……なるほど」
少しずつ分かってきた。
チャクラと同じ感覚で扱えば、出力がずれる。
量だけの問題ではない。
力そのものの性質が違う。
ならば。
同じ技術をそのまま再現するのではなく、霊力に合わせて作り直せばいい。
イタチは再び木へ足をかけた。
失敗。
修正。
失敗。
修正。
何度も繰り返す。
日が傾き始めた頃。
イタチは木の枝に逆さまに立っていた。
足だけで身体を支えている。
「…………」
問題ない。
力を解除する。
身体が落下する。
途中で枝を掴み、回転。
静かに地面へ降りる。
できた。
だが。
「効率が悪いな」
以前なら意識すらしなかった動作に、まだ余計な力を使っている。
改善の余地がある。
明日も試す必要がある。
そう考えながら帰宅すると。
「お前、また何かやってただろ」
開口一番、源三に言われた。
「なぜ分かりました?」
「服」
見る。
土と木屑がついている。
「……なるほど」
「なるほどじゃねえ」
源三が呆れる。
「遊んでこいっつっただろ」
「遊んでいました」
「嘘つけ」
「俺にとっては似たようなものです」
「お前の遊び、絶対普通じゃねえだろ」
否定はしなかった。
◇
季節が巡る。
イタチは流魂街について少しずつ知っていった。
尸魂界。
流魂街。
瀞霊廷。
護廷十三隊。
そして死神。
源三だけでは分からないことも多い。
だから、自分で調べた。
人に聞く。
店で話を聞く。
時折、流魂街へやって来る死神を遠目に観察する。
黒い死覇装。
腰には刀。
斬魄刀と呼ばれるもの。
虚を斬り、魂を浄化する刀。
それだけではない。
持ち主の魂と深く関わり、名を知ることで力を引き出すのだという。
「斬魄刀……」
イタチはその言葉を記憶した。
忍具とは根本から違う。
武器でありながら、持ち主自身の魂ともいえる刀。
詳しいことは分からない。
だが、興味深かった。
鬼道という技術もある。
霊力を用いて現象を引き起こす術。
攻撃を担う破道。
拘束や防御などに用いられる縛道。
そして、傷を癒すための回道。
「治療にも使えるのか」
「ああ、そう聞くな」
話を聞いていた店の主人が答えた。
「四番隊の死神なんかが得意らしいぞ」
「四番隊……」
イタチは小さく頷いた。
前世にも医療忍術は存在した。
だが、自分が修めた分野ではない。
人を傷つけるためではなく、傷ついた者を癒すために力を使う。
それは自分にとって馴染みの薄い技術だった。
だから、少し興味を引かれた。
もっとも。
興味があるのは、それだけではない。
斬魄刀は、なぜ持ち主によって異なる力を持つのか。
鬼道は、忍術とは何が違うのか。
死神はどのように霊力を扱い、どのように戦うのか。
自分が知っている技術は、この世界でも通用するのか。
通用しないのなら、何が違うのか。
知れば、一つ疑問が増える。
その答えを知れば、さらに次の疑問が生まれる。
イタチにとって。
死神という存在そのものが、まだ知らないことの塊だった。
◇
一年が過ぎた。
イタチの身体は少しずつ成長していた。
それと比例するように、扱える霊力も増えていく。
写輪眼も以前より長く維持できるようになった。
もっとも。
普段から使うことはない。
必要な時だけ。
それで十分だった。
林を駆ける。
地面を蹴る。
霊力を脚へ流す。
加速。
木の幹へ足をつけ。
そのまま方向を変える。
枝。
壁。
岩。
足場さえあれば、かつての瞬身に近い移動が可能になってきた。
まだ遅い。
以前の身体なら、もっと速かった。
だが。
今の身体で無理に再現する必要はない。
身体は成長する。
霊力も増える。
ならば今は、技術だけを磨けばいい。
着地。
ほとんど音はしなかった。
「……悪くない」
そこで。
腹が鳴った。
「…………」
イタチは沈黙した。
霊力を使うほど腹が減る。
最近ではかなり明確になっていた。
そして。
こういう時。
足が向かう場所も、いつの間にか決まっている。
「また来たのかい」
団子屋の女主人が笑う。
「はい」
「いつもの?」
「お願いします」
もはや注文すら必要ない。
皿が置かれる。
団子を一つ。
茶を一杯。
食べる。
「…………」
「本当に好きだねえ」
「そうでしょうか」
「週に何回来てると思ってるんだい」
考える。
「三回程度です」
「十分多いよ」
「そうですか」
「そうだよ」
どこかで聞いたやり取りだった。
◇
二年目。
源三はもう、イタチが何をしていてもあまり驚かなくなった。
朝起きると家の修繕が終わっている。
重い荷物を一人で運んでいる。
木の上から降りてくる。
いつの間にか背後に立っている。
最初は驚いていた。
今では、
「お前だからな」
で済ませるようになった。
「それはどういう意味です?」
「そのままの意味だ」
「分かりません」
「分からなくていい」
源三が茶を飲む。
イタチも隣で団子を食べる。
しばらく。
二人とも何も話さなかった。
沈黙は苦にならない。
源三も、無理に話そうとはしない。
それが心地よかった。
「なあ、イタチ」
「はい」
「お前、死神になるのか?」
以前にも聞かれた問いだった。
あの時は。
「まだ分かりません」
そう答えた。
今は。
「……興味はあります」
「そうか」
「はい」
「なら、なればいい」
あまりにも簡単に言われた。
イタチは源三を見る。
「反対しないのですか」
「何で俺が反対すんだ」
「危険な仕事でしょう」
「そりゃそうだろうな」
「死ぬ可能性もある」
「お前はもう一回死んでるだろ」
「……それはそうですが」
「二回目は駄目だぞ」
源三が笑った。
イタチは少しだけ目を細めた。
「善処します」
「そこは絶対って言え」
◇
三年目。
イタチは十五歳ほどの姿になっていた。
この頃には、流魂街での生活にも完全に馴染んでいた。
霊力の扱いにも慣れた。
身体も成長した。
前世の技術のいくつかは、この世界の身体と霊力に合わせることで再現できるようになった。
だが。
それだけでは足りない。
自分は、この世界についてまだ知らないことばかりだ。
斬魄刀。
鬼道。
回道。
歩法。
死神の戦い方。
魂魄についての知識。
そして。
この世界そのもの。
知りたい。
その思いは、三年間で強くなっていた。
だから。
決断に迷いはなかった。
◇
「本当に行くのか」
朝。
源三が家の前で腕を組んでいた。
「はい」
「別にここにいたっていいんだぞ」
「分かっています」
「飯くらいなら何とかなる」
「それも分かっています」
「……なら」
「だからです」
源三が黙る。
「三年間、十分に世話になりました」
「ガキがそんなこと気にすんな」
「気にします」
イタチは源三を見る。
「それに、興味があります」
「死神にか?」
「はい」
この世界の力。
霊力。
死神。
斬魄刀。
鬼道。
知らないものばかりだった。
前の人生で、戦うことについて多くを学んだ。
だが。
それはあくまで、前の世界での話だ。
ここには、ここでしか学べないものがある。
「真央霊術院に入ります」
「そうか」
「はい」
「……止めても行くんだろ?」
「おそらく」
「そこは断言しろよ」
「では、行きます」
「可愛げがねえなあ」
源三が頭を掻いた。
そして懐から小さな包みを取り出した。
「持ってけ」
「これは?」
「昼飯」
受け取る。
まだ温かい。
「ありがとうございます」
「中身当ててみろ」
イタチは包みを見る。
匂いで大体分かった。
「団子ですね」
「即答かよ」
「三年間一緒にいれば分かります」
「お前が好きだからだろ」
「否定はしません」
「最初は普通ですとか言ってたくせに」
「過去の話です」
源三が笑う。
イタチも――ほんのわずかに、目元を緩めた。
「たまには帰ってこい」
「はい」
「死神になったからって偉そうにすんなよ」
「まだなっていません」
「なった後の話だ」
「善処します」
「それ絶対やらねえ奴の返事だろ」
イタチは一礼した。
「行ってきます」
源三の表情が止まった。
そして。
「ああ」
笑った。
「行ってこい」
イタチは歩き出した。
振り返らない。
だが。
背中に向けられた視線が消えるまで、その気配を感じていた。
前の人生では。
自分の進む道は、いつから決まっていたのだろう。
忍として生まれ。
うちはとして生まれ。
兄として生まれ。
そして最後まで、何かのために役割を演じ続けた。
だが今は違う。
誰からも命じられていない。
死神になれと言われたわけでもない。
瀞霊廷を守れと言われたわけでもない。
ただ、自分が知りたいと思った。
学びたいと思った。
だから行く。
それだけだった。
やがて、遠くに白い壁が見えてくる。
その向こうにある世界を、イタチはまだ知らない。
どんな者と出会うのか。
何を学ぶのか。
何一つ知らない。
それでいい。
一度目の人生では、選ぶより先に役割が与えられていた。
今度は違う。
自分で選び。
自分で歩く。
その最初の一歩だった。
イタチは白い壁の向こうを見据え、そのまま歩き続けた。