### 第二話 世界最強は、偉い人が怖い
アルト・レインは、朝から困っていた。
服がない。
正確には、服はある。
普段着が三着。
冒険者用の装備が二組。
寝間着が一着。
それから、三年前に買った礼服が一着。
問題は、その礼服だった。
「……きつい」
アルトは鏡の前で、必死に釦を留めようとしていた。
留まらない。
胸元が、どうしても閉じない。
三年前。
十五歳だった頃の自分は、もう少し小柄だった。
それから三年。
身長も伸びた。
肩幅も広くなった。
剣を振るための筋肉もついた。
結果。
礼服が入らなくなった。
「……どうしよう」
アルトは真剣に悩んだ。
今日は王宮に呼ばれている。
昨日、古竜ヴァルグリムを討伐した直後、ギルドを通じて召喚状が届いたのだ。
差出人は、王国宰相。
エドガー・フォン・リヒテンベルク。
王国の政治を実質的に取り仕切る人物である。
そんな人に会うのに、普段着というわけにはいかない。
しかし、新しい礼服を買う時間もない。
「……うーん」
アルトはしばらく考えた。
そして、結論を出した。
「……上着は、着ないで持っていこう」
我ながら、あまり良い解決策ではなかった。
*
王宮へ向かう途中、アルトは冒険者ギルドに立ち寄った。
理由は単純だった。
誰かに相談したかったのである。
「……ミリアさん」
「はい?」
受付嬢ミリアが顔を上げた。
「王宮に行く時って、どんな服がいいんですか?」
「……王宮?」
「はい」
「……今日ですか?」
「はい」
ミリアは、アルトの服装を見た。
白いシャツ。
黒いズボン。
磨かれた革靴。
そして、腕に抱えられた礼服の上着。
「……アルトさん」
「はい」
「その上着は?」
「……ちょっと、きつくて」
ミリアは数秒、黙った。
そして、深いため息をついた。
「……仕方ありませんね」
彼女は受付の奥から、一枚の紙を取り出した。
「王宮への訪問許可証です。ギルドの正式な依頼として扱われていますので、冒険者の正装でも問題ありません」
「……正装?」
「はい。白金級冒険者の場合、冒険者証と装備一式が正装として認められます」
アルトは目を見開いた。
「……本当ですか?」
「本当です」
「……じゃあ、剣を持っていっても?」
「はい」
「……鎧も?」
「はい」
アルトは、しばらく黙った。
そして。
「……最初から、そうすればよかった」
小さく呟いた。
*
「……あ、先輩!」
ギルドを出ようとしたところで、声がした。
リーナだった。
栗色の髪を揺らし、こちらへ駆け寄ってくる。
「おはようございます!」
「あ、おはよう」
「今日はお仕事ですか?」
「いや、王宮に呼ばれてて」
「……王宮?」
リーナの目が輝いた。
「えっ! すごいじゃないですか!」
「いや、すごいのかな……」
「すごいですよ! 王様に会うんですか?」
「……たぶん、宰相閣下かな」
「えー! いいなぁ!」
リーナは楽しそうに笑った。
そして、アルトの服装を見た。
「……先輩」
「うん?」
「その格好で行くんですか?」
「……やっぱり変?」
「うーん……」
リーナは少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「じゃあ、私が整えてあげます!」
「……え?」
リーナはアルトの正面に立った。
そして、シャツの襟元へ手を伸ばした。
「……っ!」
アルトの身体が硬直した。
近い。
顔が近い。
しかも、リーナの指が首元に触れている。
「先輩、動かないでくださいね」
「……は、はい」
アルトは直立した。
リーナは楽しそうに襟を整え、少し曲がっていた留め具を直した。
「はい、できました!」
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
リーナは笑った。
そして、少し顔を近づけた。
「……先輩」
「……な、何?」
「今日のお菓子屋さんの約束、忘れてないですよね?」
「……うん」
「楽しみにしてますからね」
「……はい」
アルトは頷いた。
リーナは満足そうに手を振り、去っていった。
その姿を見送りながら、アルトは深く息を吐いた。
「……疲れた」
まだ王宮にも着いていなかった。
*
リーナ・ベルには、幼馴染がいた。
カイル・フェルナー。
十八歳。
銀級冒険者。
剣士。
努力家。
真面目。
そして、少々不器用な青年だった。
「……リーナ」
「ん?」
「お前、またアルト先輩に何か頼んだのか?」
「えー、何も頼んでないよ?」
「……本当か?」
「うん。ちょっとお菓子屋さんに付き合ってもらうだけ」
カイルは眉をひそめた。
「……それ、奢ってもらうつもりだろ」
「えへへ」
「……おい」
リーナは悪びれずに笑った。
「だって先輩、お金持ってるし」
「そういう問題じゃないだろ」
「カイルって、真面目だよねぇ」
リーナは肩をすくめた。
カイルはため息をついた。
彼は、アルトのことを尊敬していた。
十八歳にして白金級。
古竜を単独で討伐できる実力。
自分と同い年とは思えない。
しかし。
だからといって、何でも頼んでいいわけではない。
「……あんまり迷惑かけるなよ」
「分かってるって!」
リーナは笑った。
そして、ふと思い出したように言った。
「そういえば、先輩って結構かわいいよね」
「……は?」
「いや、ちょっと近づくだけですぐ赤くなるし」
カイルは黙った。
「最初は面白いからからかってたんだけどさ」
リーナは楽しそうに笑った。
「最近、ちょっと楽しくなってきちゃって」
「……何が?」
「んー、内緒」
カイルは、何とも言えない顔をした。
そして、心の中で思った。
(……嫌な予感がする)
その予感は、かなり正しかった。
*
王宮。
アルトは、正門の前で立ち止まっていた。
「……大きいなぁ」
何度か来たことはある。
しかし、慣れない。
巨大な城壁。
美しい庭園。
整列する近衛騎士。
そして、見るからに高そうな建物。
アルトは、少し緊張した。
「……失礼します」
門番に声をかける。
「本日、宰相閣下にお呼びいただいているアルト・レインです」
近衛騎士が顔を上げた。
「……アルト・レイン?」
「はい」
「……白金級冒険者の?」
「はい」
騎士は一瞬、目を見開いた。
そして、慌てて姿勢を正した。
「し、失礼いたしました!」
「……え?」
「お待ちしておりました! どうぞ、こちらへ!」
「……あ、はい」
アルトは頭を下げた。
騎士は深々と一礼した。
アルトは少し困った。
(……そんなに丁寧にされると、逆に緊張するんだけど)
*
王宮の応接室。
アルトは、椅子に座っていた。
目の前には、王国宰相エドガー・フォン・リヒテンベルク。
四十代後半。
銀髪。
整った顔立ち。
穏やかな表情。
しかし、その瞳には、鋭い知性が宿っていた。
「……アルト・レイン殿」
「は、はい」
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「い、いえ。こちらこそ……」
アルトは少し緊張していた。
宰相。
王国の政治を取り仕切る人物。
自分より、ずっと偉い人である。
「どうぞ、楽になさってください」
「……はい」
アルトは背筋を伸ばした。
まったく楽になっていなかった。
エドガーは微笑んだ。
「まず、古竜ヴァルグリムの討伐について、王国を代表して感謝申し上げます」
「……ありがとうございます」
「周辺の街道も、これで安全になるでしょう」
「そうだといいですね」
「ええ」
エドガーは頷いた。
そして、少し表情を変えた。
「……さて、本題ですが」
「……はい」
「実は、帝国から貴殿に対して、正式な招聘状が届いております」
「……帝国?」
「はい」
エドガーは一枚の書類を差し出した。
「帝国伯爵位。年金金貨一万枚。帝都の屋敷。軍務義務なし」
アルトは、しばらく黙った。
そして。
「……え?」
間の抜けた声を出した。
金貨一万枚。
年金。
毎年。
働かなくても。
「……えっと」
アルトは書類を見つめた。
「……これ、本当ですか?」
「はい」
「……毎年?」
「はい」
「……何もしなくても?」
「形式上は、その通りです」
アルトは黙った。
頭の中で計算した。
金貨一万枚。
年間。
十年で十万枚。
いや、そもそも十万枚も使い道がない。
家が買える。
何軒も買える。
食堂の定食なら、何回食べられるのだろう。
アルトは、少し混乱した。
「……すごいですね」
「ええ」
エドガーは微笑んだ。
「帝国は、貴殿を非常に高く評価しているようです」
「……ありがたいことです」
アルトは頭を下げた。
しかし、少し考えた。
帝国。
大きな国。
軍事力も強い。
経済も発展している。
住みやすいかもしれない。
しかし。
「……あの」
「はい?」
「……帝国って、治安いいんですか?」
エドガーは、一瞬だけ目を細めた。
「……地域によりますが、帝都は比較的安定しています」
「……そうなんですか」
「ええ」
アルトは頷いた。
そして、少し考えた。
今の王都は、住みやすい。
知り合いもいる。
食堂もある。
ギルドもある。
わざわざ引っ越す必要があるのだろうか。
しかし、年金一万枚。
魅力的だった。
非常に魅力的だった。
「……少し、考えてもいいですか?」
エドガーの表情が、わずかに変わった。
「……もちろんです」
「ありがとうございます」
アルトは頭を下げた。
エドガーは微笑んだ。
しかし、その内心は穏やかではなかった。
(……本気で検討している)
当然だった。
帝国の条件は破格だ。
しかし、問題はそこではない。
この青年は、王国に強い帰属意識を持っていない。
今の生活に満足しているから、ここに住んでいる。
それだけだ。
つまり。
より良い環境があれば、普通に移住する可能性がある。
(……まずいですね)
エドガーは、静かに考えた。
この青年を、どう扱うべきか。
そして。
その答えは、思いのほか難しいものだった。
*
「……陛下」
王宮の奥。
宰相エドガーは、国王の私室を訪れていた。
部屋には、一人の男がいた。
リューデン王国国王。
アレクシス三世。
三十八歳。
若くして即位し、王国の安定を築き上げた名君である。
彼は窓辺に立ち、静かに庭園を眺めていた。
「……アルト・レインは?」
「帝国の招聘について、検討したいとのことです」
「……そうか」
国王は頷いた。
驚いた様子はなかった。
「……陛下」
「何だ?」
「いかがいたしましょう」
国王は、しばらく沈黙した。
そして、静かに言った。
「……無理に引き留めるな」
エドガーは眉をひそめた。
「……しかし」
「分かっている」
国王は頷いた。
「彼が帝国へ渡れば、王国の軍事的優位は大きく揺らぐ」
「……はい」
「だが、それでもだ」
国王は、静かに目を閉じた。
その瞬間。
彼の視界に、いくつもの光景が浮かんだ。
燃える王都。
崩れ落ちる城壁。
血に染まる玉座。
そして。
無数の兵士たちの屍の上に立つ、一人の青年。
アルト・レイン。
彼は、剣を握っていた。
しかし、その表情には、怒りも憎しみもなかった。
ただ。
少し困ったような顔をしていた。
国王は、ゆっくりと目を開けた。
「……エドガー」
「はい」
「力というものは、便利だ」
「……はい」
「だが、便利すぎる力は、人を堕落させる」
国王は窓の外を見た。
「魔剣を手にした者が、やがて魔剣に飲まれるようにな」
エドガーは黙った。
「アルト・レインを、王国の剣として扱ってはならん」
「……では」
「彼は、王国に住む一人の青年だ」
国王は静かに言った。
「それ以上でも、それ以下でもない」
そして。
「……少なくとも、今はな」
その言葉に、エドガーはわずかな違和感を覚えた。
しかし、何も尋ねなかった。
*
その日の午後。
王都の高級住宅街。
一人の男が、豪華な椅子に座っていた。
肥満気味の身体。
派手な衣装。
指には、いくつもの宝石。
そして、見るからに悪そうな笑み。
男の名は、オスカー・フォン・バルツ。
三十四歳。
伯爵。
王国でも有数の悪徳貴族だった。
「……ふふふ」
オスカーは笑っていた。
机の上には、大量の金貨。
そして、数枚の証書。
「……素晴らしい」
彼は、証書を一枚持ち上げた。
そこには、こう書かれていた。
『古竜ヴァルグリム討伐成功』
オスカーは、満足そうに笑った。
「……やはり、アルト様は素晴らしい!」
彼は、古竜討伐の成功に巨額の金を賭けていた。
しかも、単なる成功ではない。
討伐者。
討伐時間。
生還の有無。
周辺被害。
すべてにおいて、アルトの完全勝利に賭けていた。
そして。
すべて、的中した。
「……ふはははは!」
オスカーは笑った。
「愚か者どもめ! 古竜だから何だというのだ!」
机を叩く。
「アルト様が負けるわけがなかろう!」
執事が、少し困った顔をした。
「……旦那様」
「何だ?」
「今回の賭け金ですが……」
「うむ」
「……領地の年間収入の、三倍でございます」
「知っておる」
「……もし外れていたら」
「外れるわけがない!」
オスカーは即答した。
「アルト様だぞ!」
執事は黙った。
この主人は、以前から悪徳貴族として知られていた。
賄賂。
密輸。
脱税。
違法賭博。
ありとあらゆる悪事に手を染めてきた。
しかし、最近は少し様子が違う。
アルト・レインという青年に、異常なほど入れ込んでいる。
そして、その青年の勝利に全財産を賭けては、莫大な利益を得ている。
「……ふふふ」
オスカーは笑った。
「次は、何に賭けようかのう」
その瞳には、純粋な幸福が宿っていた。
*
一方、その頃。
アルトは、王都の食堂で昼食を取っていた。
「……おばちゃん、今日の定食、ちょっと量少なくない?」
「あら、分かる?」
「……はい」
「最近、肉が高くてねぇ」
「ああ……」
アルトは頷いた。
古竜の影響で、北方の交易路が止まっていたらしい。
そのせいで、肉の値段が上がっていた。
「……じゃあ、明日から戻りますかね」
「そうだといいんだけどねぇ」
おばちゃんは笑った。
「それにしても、アルトちゃん」
「はい?」
「昨日、古竜を倒したんだって?」
「……あ、はい」
「すごいねぇ」
「いやぁ……」
アルトは少し照れた。
おばちゃんは、優しく笑った。
「……でも、無理しちゃ駄目だよ」
「……はい」
「まだ十八なんだから」
アルトは頷いた。
そして、少し嬉しくなった。
王宮では、世界最強の冒険者として扱われる。
ギルドでは、白金級冒険者として扱われる。
しかし、ここでは。
ただの、十八歳の青年だった。
それが、アルトには心地よかった。
*
その夜。
アルトは自宅で、帝国からの招聘状を眺めていた。
「……金貨一万枚かぁ」
魅力的だった。
非常に魅力的だった。
しかし、引っ越しは面倒だ。
家も探さなければならない。
知り合いもいない。
食堂も変わる。
ギルドも変わる。
それに。
「……帝国の女の人って、どんな感じなんだろう」
ふと思った。
帝国。
大きな国。
文化も違う。
もしかしたら、女性も積極的なのだろうか。
アルトは、少し想像した。
見知らぬ女性に、笑顔で話しかけられる。
手を握られる。
腕を組まれる。
そして。
「……無理だな」
アルトは、即座に結論を出した。
自分には、まだ早い。
帝国への移住は、少し考え直した方がいいかもしれない。
もちろん、国を選ぶ理由としては、あまりにも情けない。
しかし、アルトにとっては、かなり重要な問題だった。
そして。
彼はまだ知らなかった。
王国にも、帝国にも。
彼の平穏な生活を脅かす女性たちが、既に動き始めていることを。
さらに。
王国の未来を見通す国王が、彼の力を必要とする日が。
そう遠くないことも。
――第二話 完。