アルト・レインは、朝から三度も服を着替えていた。
一着目。
冒険者用の革鎧。
却下。
二着目。
普段着。
少しくたびれている。
却下。
三着目。
去年買った、紺色の上着。
「……これでいいかな」
鏡の前で、襟を整える。
悪くない。
少なくとも、変ではないと思う。
しかし、問題はそこではなかった。
今日は、リーナと出かける日である。
二人で。
高級菓子店へ。
つまり。
「……これ、デートなのかな」
アルトは真剣に悩んでいた。
リーナは、ただお菓子を食べたいだけかもしれない。
いや、実際そうなのだろう。
しかし、男女二人で出かけることを、世間ではデートと呼ぶのではないだろうか。
だとすれば、自分は今からデートに行くことになる。
「……いや、違うか」
アルトは首を振った。
きっと違う。
そもそも、リーナが自分をそういう対象として見ているとは思えない。
彼女は誰にでも明るい。
距離も近い。
自分だけが特別というわけではない。
「……よし」
アルトは深呼吸した。
そして、家を出た。
なお、この時点で既に、古竜討伐前より緊張していた。
*
王都中央通り。
待ち合わせ場所には、リーナが先に来ていた。
普段の冒険者服ではない。
淡い水色のワンピース。
白い靴。
髪には、小さな花飾り。
アルトは、一瞬だけ足を止めた。
(……え)
可愛い。
いや、普段から可愛いとは思っていた。
しかし、今日は何というか。
いつもと違う。
リーナがこちらに気づいた。
「あっ、先輩!」
笑顔で手を振る。
「おはようございます!」
「……お、おはよう」
「どうです?」
「……え?」
「今日の服!」
リーナは、その場でくるりと回った。
スカートがふわりと広がる。
「似合ってます?」
「……あ」
アルトは固まった。
似合っている。
非常に似合っている。
しかし、何と答えればいいのだろう。
可愛い。
そう言えばいいのか。
いや、いきなり可愛いと言うのは、失礼ではないだろうか。
軽い男だと思われるかもしれない。
「……その」
「はい?」
「……すごく、いいと思う」
リーナは、ぱちりと瞬きをした。
そして。
「……ふふ」
嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「……うん」
アルトは視線を逸らした。
顔が熱かった。
*
高級菓子店『ラ・フルール』。
王都でも有名な店である。
店内には、色とりどりの菓子が並んでいた。
果実を使ったタルト。
生クリームを挟んだ焼き菓子。
宝石のような飴細工。
そして、値札。
「……高いなぁ」
アルトは小さく呟いた。
リーナは楽しそうに店内を見回していた。
「わぁ……!」
その瞳が輝いている。
「先輩、見てください! これ!」
「……うん」
「すごく美味しそう!」
「……そうだね」
アルトは値札を見た。
銀貨五枚。
定食なら十回以上食べられる。
しかし。
リーナが、あまりにも嬉しそうだった。
「……好きなの選んでいいよ」
「えっ!」
リーナが振り向いた。
「いいんですか?」
「……うん」
「本当に?」
「……うん」
リーナは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
そして。
「じゃあ、これと、これと……」
アルトは少し後悔した。
*
店内の喫茶席。
リーナは幸せそうに菓子を食べていた。
「……んー!」
目を閉じる。
「美味しい……!」
アルトは、その様子を眺めていた。
確かに、嬉しそうだ。
それだけで、少し満足した。
「……先輩」
「うん?」
「先輩も食べます?」
「……え?」
リーナは、小さなフォークで菓子を切り分けた。
そして。
「はい、あーん」
アルトは固まった。
フォーク。
菓子。
リーナ。
自分。
距離。
近い。
「……え、えっと」
「どうしたんですか?」
「……いや」
「美味しいですよ?」
リーナは、にこにこしていた。
アルトは必死に考えた。
これは普通のことなのだろうか。
女の子というものは、友達にこういうことをするのだろうか。
いや、リーナは人懐っこい。
きっと普通なのだ。
「……じゃ、じゃあ」
アルトは、恐る恐る口を開けた。
菓子が入る。
甘い。
美味しい。
しかし。
味が、よく分からなかった。
「……どうです?」
「……お、美味しい」
「ですよね!」
リーナは嬉しそうに笑った。
アルトは、しばらく動けなかった。
*
その様子を、少し離れた席から眺めている男がいた。
カイル・フェルナー。
十八歳。
銀級冒険者。
努力家の剣士。
そして、リーナの幼馴染である。
「……何やってんだ、俺」
カイルは、深いため息をついた。
別に、尾行するつもりはなかった。
ただ、偶然この店に来ただけだ。
偶然。
そういうことにしておきたかった。
しかし、現実は違う。
リーナがアルトと出かけると聞いて、気になってしまった。
そして、気づけば店の中にいた。
「……最悪だ」
カイルは、目の前の紅茶を飲んだ。
苦い。
砂糖を入れ忘れた。
しかし、今さら入れる気にもならなかった。
リーナが笑っている。
アルトも、少し照れたように笑っている。
楽しそうだった。
非常に楽しそうだった。
カイルは、胸の奥に小さな痛みを感じた。
彼は、リーナが好きだった。
幼い頃から。
ずっと。
しかし、まだ告白したことはない。
自分が一人前の冒険者になったら。
そう決めていた。
金級になったら。
十分に稼げるようになったら。
彼女を守れるくらい強くなったら。
そう考えて、毎日剣を振ってきた。
そして。
目の前には、十八歳にして白金級に到達した男がいる。
「……勝てるわけ、ないだろ」
カイルは呟いた。
しかし。
その直後。
彼は、自分の言葉に腹が立った。
(……何を言ってるんだ)
勝てない?
だから何だ。
剣の腕で負けているから、恋愛でも負けるのか。
そんな理屈があるか。
カイルは、拳を握った。
(……俺は、俺だ)
アルトがどれほど強くても関係ない。
自分には、自分の人生がある。
努力してきた。
これからも努力する。
そして。
いつか、必ず。
「……追いついてやる」
カイルは、小さく呟いた。
その瞳には、強い意志が宿っていた。
*
一方、その頃。
アルトは、別の意味で限界を迎えていた。
「……先輩」
「……うん?」
「口元、クリームついてますよ」
「……え?」
アルトは慌てて口元を拭った。
「……取れた?」
「まだです」
「……え?」
リーナが身を乗り出した。
そして、指先でアルトの口元を拭った。
「はい、取れました!」
「……っ!」
アルトは固まった。
顔が近い。
指が触れた。
しかも、リーナは何でもないように笑っている。
(……何なんだ、この子は)
アルトは、心の中で叫んだ。
古竜より恐ろしい。
いや、古竜は別に恐ろしくなかった。
少なくとも、どう対処すればいいかは分かった。
しかし、リーナは分からない。
何を考えているのか。
何をしたいのか。
どうすれば正解なのか。
まったく分からなかった。
*
同じ頃。
王宮では、国王アレクシス三世が一枚の報告書を読んでいた。
「……なるほど」
報告書には、アルト・レインの近況が記されていた。
古竜討伐。
帝国からの招聘。
そして、現在の動向。
王都中央通り。
高級菓子店。
銀級冒険者リーナ・ベルと同行。
国王は、少しだけ笑った。
「……年相応だな」
宰相エドガーが頷いた。
「はい。女性関係には、かなり疎いようです」
「……そうか」
国王は、報告書を机に置いた。
そして、静かに言った。
「エドガー」
「はい」
「アルト・レインに、王国特別顧問の地位を用意しろ」
エドガーは眉をひそめた。
「……特別顧問、ですか?」
「ああ」
「しかし、陛下。あの青年に政治的な役割を与えるのは……」
「政治はさせん」
国王は即答した。
「軍務も、原則として課さない」
「……では、何を?」
「何もしなくていい」
エドガーは黙った。
国王は続けた。
「年金金貨三千枚。王都での居住権。ギルド活動の自由。出国の自由も認める」
「……それでは、帝国の条件に比べて……」
「分かっている」
国王は頷いた。
「金額では勝てん」
そして、静かに言った。
「だから、金額以外で勝負する」
エドガーは、少し考えた。
なるほど。
アルト・レインは、金銭だけで動く人間ではない。
むしろ、生活環境を重視している。
ならば。
王国に残る理由を、増やせばいい。
「……承知しました」
エドガーは頭を下げた。
国王は、窓の外を眺めた。
そして、静かに呟いた。
「……できれば、彼には何もさせたくない」
その声には、わずかな疲労が滲んでいた。
エドガーは気づかなかった。
国王の視界に、一瞬だけ未来が映っていたことを。
崩れ落ちる城壁。
燃える王都。
そして。
剣を抜く、十八歳の青年。
その背後で。
何かが、静かに壊れていく光景を。
*
王都中央通り。
アルトとリーナは、菓子店を出ていた。
「……ごちそうさまでした!」
「……うん」
アルトは笑った。
財布は、少し軽くなった。
しかし、リーナが嬉しそうなので、悪い気はしなかった。
「……先輩」
「うん?」
「今日は、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
リーナは、少しだけ真面目な顔になった。
「……また、一緒に出かけてくれます?」
「……え?」
「今度は、お菓子屋さんじゃなくてもいいです」
アルトは、少し驚いた。
リーナが、いつもより静かだった。
何だろう。
何か、言いたいことがあるのだろうか。
「……うん。もちろん」
アルトは頷いた。
リーナは、嬉しそうに笑った。
「……約束ですよ」
「……うん」
その時。
リーナが、そっと手を伸ばした。
アルトの手に、指先が触れる。
そして。
ゆっくりと、手を握った。
「……っ!」
アルトの心臓が跳ねた。
リーナは、少しだけ頬を赤くしていた。
「……先輩」
「……な、何?」
「……今日は、楽しかったです」
「……う、うん」
アルトは、何とか頷いた。
そして。
リーナが手を離した。
「……じゃあ、また!」
笑顔で手を振る。
アルトも、ぎこちなく手を振り返した。
リーナは、軽い足取りで去っていった。
アルトは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
そして。
「……え?」
小さく呟いた。
手。
握られた。
何故。
どういう意味。
アルトは、必死に考えた。
しかし、答えは出なかった。
*
その夜。
カイル・フェルナーは、王都郊外の訓練場にいた。
剣を振る。
一度。
二度。
三度。
何度も。
汗が流れる。
腕が痛む。
それでも、止めなかった。
頭の中には、昼間の光景が浮かんでいた。
リーナ。
アルト。
二人の笑顔。
そして、自分。
遠くから眺めるだけの、自分。
「……くそっ!」
カイルは剣を振り下ろした。
地面が抉れる。
しかし、満足できなかった。
もっと強くなりたい。
もっと速く。
もっと鋭く。
誰にも負けない剣士になりたい。
その時だった。
「……随分、熱心だな」
背後から声がした。
カイルは振り向いた。
そこには、一人の女性が立っていた。
銀色の髪。
透き通るような青い瞳。
白い外套。
そして、腰に下げられた細身の剣。
年齢は、十七か十八ほど。
美しい少女だった。
「……誰だ?」
カイルが尋ねた。
少女は、静かに答えた。
「……エリシア・ノルン」
そして、少しだけ首を傾げた。
「あなた、アルト・レインを知っている?」
カイルは眉をひそめた。
「……知ってるが」
「そう」
少女は頷いた。
そして。
「……会ってみたいの」
その瞳には、奇妙な光が宿っていた。
「私と同じような人間が、いるって聞いたから」
カイルは、少しだけ違和感を覚えた。
同じような人間。
何を意味しているのだろう。
少女は、静かに続けた。
「……ねえ」
「……何だ?」
「アルト・レインって、強い?」
カイルは、少し考えた。
そして、答えた。
「……ああ」
悔しいが、認めざるを得ない。
「……とんでもなく強い」
少女は、微笑んだ。
「……そう」
その笑みは、どこか嬉しそうだった。
そして。
「……楽しみ」
小さく呟いた。
*
一方、その頃。
アルトは自宅で、ベッドに横になっていた。
眠れない。
理由は分かっていた。
リーナ。
手。
握られた。
「……何だったんだろう」
アルトは、天井を見つめた。
何度考えても、分からない。
しかし。
嫌ではなかった。
むしろ。
少し、嬉しかった。
「……いや、でも」
アルトは、布団を頭まで被った。
「……勘違いだったら、恥ずかしいし」
世界最強の冒険者。
古竜を討伐し、国家から招聘される存在。
その青年は今。
女の子に手を握られた理由が分からず、眠れない夜を過ごしていた。
そして。
彼の知らないところで。
もう一人の天才が、彼を探し始めていた。
――第三話 完。