### 第七話 世界最強は、知らないものを斬りたくない
アルト・レインは、旅行が嫌いではなかった。
知らない街。
珍しい料理。
初めて見る景色。
そういったものには、そこそこ興味がある。
ただし、旅行には一つだけ欠点があった。
「……宿代って、経費になりますよね?」
馬車の向かいに座るセラ・ヴァレンタインが、呆れた顔をした。
「お前、それを出発してから確認するなよ」
「いや、依頼書には調査費用込みって書いてあったんですけど……」
「なら込みなんだろ」
「でも、どこまでが調査費用なのかなって」
「普通の宿なら問題ないだろ」
「……普通って、どのくらいですか?」
「知らん」
「……そうですか」
アルトは少し不安になった。
今回の依頼報酬は金貨千枚。
大金である。
しかし、報酬が大きいからといって、無駄遣いしていいわけではない。
宿代。
食費。
馬車代。
必要経費は、きちんと区別しておきたい。
「……アルト」
隣から声がした。
エリシア・ノルンだった。
「……何?」
「私の分も、経費になる?」
「……え?」
「宿代」
「ああ……」
アルトは考えた。
エリシアは、正式な依頼の同行者ではない。
勝手についてきた。
いや、自分が了承したのだから、勝手というわけでもない。
しかし、契約書には名前がない。
「……どうだろう」
「……そう」
エリシアは少し考えた。
そして、言った。
「じゃあ、私が払う」
「……いいの?」
「うん」
「……助かります」
アルトは心底ほっとした。
セラが笑った。
「お前ら、もう少し他に話すことはないのか?」
「……他?」
エリシアが首を傾げた。
「例えば、旅先で何をしたいとか」
「……調査ですけど」
アルトが答えた。
「仕事の話じゃなくてだな」
「……じゃあ」
エリシアは少し考えた。
そして、アルトを見た。
「一緒に寝る?」
「…………」
アルトは固まった。
セラも固まった。
数秒後。
「……は?」
セラが低い声を出した。
エリシアは不思議そうに首を傾げた。
「宿代、安くなるでしょう?」
「……お前な」
セラは額を押さえた。
アルトは、顔を真っ赤にしていた。
「……い、いや」
「……駄目?」
「……だ、駄目です!」
アルトは必死に首を振った。
エリシアは少し残念そうだった。
「……そう」
セラは深いため息をついた。
「……先が思いやられるな」
*
北方国境。
王国と帝国を隔てる山岳地帯。
そこには、古い砦がいくつも存在していた。
かつて両国が争っていた時代に築かれたものであり、現在は監視所として利用されている。
今回、異常が発生したのは、そのうちの一つ。
グレイヴ砦。
王国側の最北端に位置する、小さな要塞だった。
馬車を降りたアルトたちは、砦へ向かって歩いていた。
「……静かですね」
アルトが呟いた。
セラが頷く。
「ああ」
鳥の声がしない。
虫の声もしない。
風は吹いている。
木々も揺れている。
しかし、生き物の気配がなかった。
「……変だな」
セラが双剣に手をかけた。
エリシアは、静かに周囲を見回していた。
「……アルト」
「……うん?」
「ここ、少しおかしい」
「……何が?」
「……分からない」
エリシアは首を傾げた。
「でも、何かが足りない」
アルトは、少し考えた。
そして、地面に落ちていた小石を拾った。
「……ちょっと見てて」
小石を、軽く投げた。
石は弧を描き、地面へ落ちた。
普通だった。
アルトは、もう一つ石を拾った。
今度は、少し遠くへ投げた。
石が飛ぶ。
そして。
途中で、消えた。
「…………」
セラが眉をひそめた。
「……今、消えたな」
「……はい」
アルトは頷いた。
エリシアが、興味深そうに目を細めた。
「……もう一回」
「うん」
アルトは、三つ目の石を投げた。
今度は、速度を変えた。
石が飛ぶ。
同じ場所を通過する。
しかし、消えない。
地面へ落ちた。
「……なるほど」
アルトは小さく呟いた。
セラが尋ねた。
「何が分かった?」
「……まだ、分からないです」
「……そうか」
「でも、少なくとも、単純な結界じゃないですね」
アルトは、消えた石の位置を見つめた。
「……条件があるみたいです」
*
砦の入口。
門は開いていた。
しかし、破壊された様子はない。
血痕もない。
戦闘の痕跡もない。
ただ、人がいなかった。
「……妙だな」
セラが呟いた。
「斥候が三隊も消えた場所とは思えん」
「……そうですね」
アルトは頷いた。
そして、門の内側を見た。
石畳。
井戸。
兵舎。
見張り台。
すべて、普通だった。
しかし。
「……あれ?」
アルトは、足を止めた。
「……どうした?」
セラが尋ねた。
「……井戸」
「井戸?」
「……水が、減ってない」
セラは眉をひそめた。
「……何?」
アルトは井戸を覗き込んだ。
水面が見える。
しかし、揺れていない。
風が吹いているのに。
水面が、まったく動かない。
「……変ですね」
アルトは、小石を一つ落とした。
石が水面に触れる。
波紋が広がる。
しかし。
途中で、止まった。
まるで、時間が止まったように。
エリシアが、静かに言った。
「……これ」
「……うん」
アルトは頷いた。
「……時間が、少しおかしいのかもしれない」
*
砦の内部。
三人は、慎重に進んでいた。
兵舎。
食堂。
武器庫。
すべて、無人だった。
しかし、生活の痕跡は残っていた。
食べかけのパン。
開いたままの本。
火の消えた暖炉。
まるで、住人だけが突然消えたようだった。
「……アルト」
セラが声をかけた。
「……はい?」
「お前、どう思う?」
アルトは少し考えた。
「……魔物の仕業なら、もう少し痕跡があると思います」
「……ああ」
「それに、建物が壊れてない」
「……そうだな」
「……だから」
アルトは、少しだけ表情を引き締めた。
「……ここで何かが起きたんじゃなくて、ここそのものがおかしくなってるのかもしれません」
セラは、静かに頷いた。
「……なるほど」
その時だった。
エリシアが、足を止めた。
「……アルト」
「……うん?」
「……いる」
アルトは振り向いた。
廊下の奥。
暗闇。
そこに。
何かが立っていた。
人の形。
しかし、人ではない。
輪郭が曖昧で、身体の一部が透けている。
顔はない。
目もない。
ただ、そこに存在していた。
「…………」
アルトは、少し困った顔をした。
「……こんにちは?」
返事はなかった。
セラが双剣を抜いた。
「……アルト、下がれ」
「……いや、セラさん」
「何だ?」
「……ちょっと、待ってください」
アルトは、静かに前へ出た。
そして、影を見つめた。
「……これ」
小さく呟く。
「……斬っていいものなのかな」
*
影が動いた。
腕のようなものが伸びる。
その先端が、空間を歪めた。
セラが叫ぶ。
「……来るぞ!」
影の腕が、アルトへ伸びた。
アルトは、半歩横へ動いた。
攻撃が通過する。
その瞬間。
背後の壁が、消えた。
破壊されたのではない。
砕けたのでもない。
ただ、存在しなくなった。
「……うわ」
アルトは目を見開いた。
「……怖いな、これ」
セラが叫んだ。
「アルト!」
「……はい!」
アルトは剣を抜いた。
そして、影の腕を斬った。
しかし。
剣が、すり抜けた。
「……あれ?」
影は、何事もなかったように動いている。
エリシアが、静かに言った。
「……物理攻撃、効かない?」
「……みたいですね」
アルトは頷いた。
そして、少し考えた。
斬れない。
しかし、攻撃はしてくる。
しかも、触れたものを消している。
厄介だった。
非常に厄介だった。
「……どうしようかな」
アルトは、少しだけ困った顔をした。
*
影の攻撃が続いた。
アルトは、それらを避け続けた。
セラは、少し離れた場所で様子を見ていた。
エリシアも、剣を構えたまま動かない。
下手に攻撃すれば、何が起こるか分からない。
アルトは、影の動きを観察していた。
攻撃。
回避。
攻撃。
回避。
そして。
「……あ」
小さく呟いた。
影の腕が伸びる。
アルトは、わざと剣を近づけた。
剣先が、わずかに触れる。
その瞬間。
剣の先端が、消えた。
「……なるほど」
アルトは頷いた。
セラが叫んだ。
「……何がなるほどだ!」
「……いや」
アルトは、少し考えた。
「……これ、消してるんじゃないですね」
「……何?」
「……別の場所に、移してるんだと思います」
セラは眉をひそめた。
「……どういうことだ?」
「……まだ、確証はないですけど」
アルトは、影を見つめた。
「……消えた石も、壁も、剣先も」
そして。
「……どこかに、あるはずです」
*
影が、再び腕を伸ばした。
アルトは、剣を構えた。
そして、今度は避けなかった。
「……アルト!」
セラが叫ぶ。
しかし、アルトは動かない。
影の腕が迫る。
その瞬間。
アルトは、剣を振った。
斬撃。
しかし、影を斬ったのではない。
影の腕が通過する空間を、斬った。
次の瞬間。
空間が、わずかに歪んだ。
影の腕が止まる。
そして。
何かが、音もなく砕けた。
影が、後退した。
「……あ」
アルトは、小さく呟いた。
「……できた」
セラは、呆然とした。
「……お前、今、何をした?」
「……いや」
アルトは、少し困った顔をした。
「……ちょっと、合わせてみただけです」
エリシアは、目を細めた。
「……面白い」
その瞳が、静かに輝いていた。
*
しかし。
影は、消えなかった。
むしろ。
大きくなった。
輪郭が広がる。
廊下の壁が歪む。
床が揺れる。
そして。
影の奥から、声がした。
『……観測』
三人は、動きを止めた。
『……適合』
声は、人間のものではなかった。
しかし、確かに言葉だった。
『……対象、確認』
アルトは眉をひそめた。
「……対象?」
影が、ゆっくりとアルトを指した。
『……境界外個体』
沈黙。
セラが、低く呟いた。
「……何だ、それは」
エリシアは、静かにアルトを見つめた。
そして。
「……アルト」
「……うん?」
「……あなた、何か知ってる?」
アルトは、少し考えた。
そして。
「……いや」
首を振った。
「……全然」
それは、本当だった。
少なくとも、アルト自身は。
*
その頃。
王宮。
国王アレクシス三世は、突然椅子から立ち上がった。
「……っ!」
視界が揺れる。
未来が、変わった。
今まで見えていた無数の分岐。
その一部が、突然消えた。
そして。
新しい未来が、現れた。
北方国境。
グレイヴ砦。
アルト・レイン。
そして。
彼の背後に立つ、巨大な影。
国王は、息を呑んだ。
「……まさか」
未来の中で。
影が、ゆっくりと口を開いた。
『……見つけた』
その言葉は。
未来を見ているはずの国王に向けられていた。
国王は、ゆっくり目を開けた。
額には、冷たい汗が滲んでいた。
「……こちらを、見た?」
それは、初めてのことだった。
未来の中の存在が。
未来を観測する自分に、気づいたのは。
*
グレイヴ砦。
アルトは、影を見つめていた。
影は、動かない。
しかし、何かを待っているようだった。
「……セラさん」
「……何だ?」
「……これ、普通の魔物じゃないですよね」
「……ああ」
「……じゃあ」
アルトは、少し考えた。
「……討伐依頼じゃなくて、調査依頼でよかったです」
セラは、眉をひそめた。
「……何?」
「……だって」
アルトは、影を見つめた。
「……斬っていいか、分からないので」
セラは、しばらく黙った。
そして。
「……お前な」
深いため息をついた。
「……本当に、変なところで慎重だな」
アルトは、少し困った顔をした。
「……そうですか?」
「ああ」
セラは頷いた。
「……でも」
双剣を構え直す。
「……嫌いじゃない」
エリシアも、静かに微笑んだ。
「……私も」
アルトは、少し照れた。
「……ありがとうございます」
しかし。
その時だった。
影の奥から、再び声がした。
『……接続、開始』
空間が、歪む。
砦全体が、震え始める。
そして。
アルトの足元に。
見たこともない魔法陣が、静かに浮かび上がった。
それは。
この世界の魔法体系には、存在しないものだった。
――第七話 完。