### 第八話 世界最強は、契約書を読まずに署名しない
魔法陣が現れた瞬間、アルト・レインは一つのことを考えた。
(……床、弁償になるのかな)
石畳の上に浮かぶ、見たこともない紋様。
青白い光が幾重にも重なり、複雑な図形を描いている。
いかにも高位の魔法らしい。
しかし、床の石がところどころ変色していた。
砦は王国の所有物である。
勝手に壊したら、怒られるかもしれない。
「アルト!」
セラの声が飛んだ。
「足元!」
「……はい!」
アルトは跳んだ。
直後、魔法陣から光の柱が立ち上がった。
柱は天井を貫いた。
いや、貫いたのではない。
天井が、光に触れた部分だけ消えた。
丸く切り取られた石材が、音もなく失われる。
「……うわ」
アルトは着地しながら顔をしかめた。
「これは、さすがに弁償しなくていいですよね」
「今それを気にするな!」
セラが叫んだ。
もっともな意見だった。
*
影は、廊下の奥に立っていた。
人の形をしている。
しかし、輪郭は一定しない。
肩の位置が変わる。
腕の長さが変わる。
時折、身体の一部が薄くなり、その向こうの壁が透けて見えた。
『接続、継続』
声が響く。
アルトは眉をひそめた。
「……接続って、何と?」
影は答えなかった。
『対象、固定』
再び魔法陣が現れる。
今度は床ではない。
アルトの背後。
空中に、薄い円が浮かんだ。
「……っ!」
アルトは反射的に身体を捻った。
光の線が走る。
その線が通過した場所から、壁の一部が消えた。
セラが舌打ちする。
「こいつ、アルトしか狙ってないな」
「……みたいですね」
エリシアが静かに言った。
「……ねえ、アルト」
「……うん?」
「少し、変なことしていい?」
「……どのくらい変?」
「たぶん、少し」
アルトは迷った。
エリシアの「少し」が、どの程度なのか分からない。
しかし、彼女は既に剣を抜いていた。
「……何をするの?」
「確かめたいことがある」
エリシアは一歩前へ出た。
そして、影へ向かって剣を振った。
斬撃。
しかし、刃は影を通り抜けた。
予想通り。
エリシアは、そのまま二撃目を放った。
今度は、影の腕が動く瞬間に合わせた。
刃が触れる。
その瞬間。
剣先が、わずかに消えた。
「……あ」
エリシアが小さく呟いた。
アルトが目を見開く。
「……エリシアさん!」
「大丈夫」
彼女は、剣を引いた。
刃の先端が、指一本分ほど失われている。
しかし、エリシアは気にしていない様子だった。
「……やっぱり」
静かに言った。
「……これ、私たちを斬ってるんじゃない」
セラが眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「……位置を変えてる」
エリシアは、消えた剣先を見つめた。
「物が消える時、ほんの少しだけ、向こう側が見える」
「……向こう側?」
「うん」
エリシアは頷いた。
「……別の場所」
アルトは、少し考えた。
そして。
「……ああ」
小さく呟いた。
「……なるほど」
セラが二人を見比べた。
「……おい」
「……はい?」
「二人だけで納得するな」
アルトは、慌てて説明した。
「……えっと」
剣を構え直す。
「たぶん、この影は、何かを消してるんじゃなくて……」
少し考える。
「……別の場所へ、移してるんです」
セラは腕を組んだ。
「それはさっき聞いた」
「……はい」
「で?」
「……だから」
アルトは、影を見つめた。
「……向こう側に、何かあるんじゃないかなって」
セラは黙った。
そして、静かに頷いた。
「……なるほど」
*
その時だった。
影が、ゆっくりと動いた。
腕を上げる。
そして、アルトを指す。
『対象、認証』
空間に、文字が浮かんだ。
見たことのない文字だった。
しかし。
アルトには、何故か意味が分かった。
『境界外個体』
『接続適性、確認』
『権限移譲、準備完了』
アルトは、少し困った顔をした。
「……権限?」
セラが尋ねた。
「読めるのか?」
「……はい」
「何て書いてある?」
「……えっと」
アルトは、文字を見つめた。
「……権限移譲、準備完了……だそうです」
セラは眉をひそめた。
「……何の権限だ?」
「……分かりません」
エリシアが、静かに言った。
「……アルト」
「……うん?」
「それ、触らない方がいいと思う」
「……俺もそう思う」
アルトは頷いた。
その瞬間。
文字が変わった。
『承認を要求』
アルトは、ゆっくり瞬きをした。
「……承認?」
『承認を要求』
同じ文字が繰り返される。
そして、目の前に小さな光の球が現れた。
まるで、触れることを待っているようだった。
アルトは、しばらくそれを見つめた。
そして。
「……すみません」
小さく言った。
「……内容が分からないので、承認できません」
影は動かなかった。
『承認を要求』
「……いや、だから」
アルトは困った。
「……何を承認するのか、説明してもらわないと」
沈黙。
セラが、ゆっくりアルトを見た。
「……お前」
「……はい?」
「今、何と会話してるんだ?」
「……いや」
アルトは、少し恥ずかしそうに笑った。
「……よく分からないんですけど」
そして。
「……契約書って、読んでから署名するものじゃないですか」
セラは、しばらく黙った。
そして、笑った。
「……確かにな」
*
しかし。
影は、納得しなかった。
『承認、拒否』
『代替手順、開始』
空間が震えた。
光の球が消える。
代わりに、巨大な魔法陣が現れた。
今度は、砦全体を覆うほどの大きさだった。
「……っ!」
セラが双剣を構える。
「アルト!」
「……はい!」
アルトは、剣を握り直した。
しかし。
すぐには斬らなかった。
何かがおかしい。
この影は、こちらを殺そうとしているのだろうか。
それなら、もっと効率の良い攻撃があるはずだ。
少なくとも、今までの動きは奇妙だった。
アルトだけを狙う。
しかし、決定的な攻撃は避けているようにも見える。
そして、承認を要求してきた。
(……何かを、させたいのかな)
アルトは考えた。
しかし、考える時間はなかった。
魔法陣が輝く。
次の瞬間。
砦の床が、消えた。
「……っ!」
三人の身体が落下する。
アルトは、咄嗟にセラの腕を掴んだ。
エリシアも、彼の服を掴んだ。
そして。
視界が、真っ白になった。
*
王宮。
国王アレクシス三世は、書斎で立ち上がった。
「……消えた?」
未来が見えない。
いや、正確には違う。
北方国境に関する未来だけが、突然見えなくなった。
そこに存在していた無数の分岐。
そのすべてが、白く塗り潰されたように消えていた。
「……まさか」
国王は、静かに息を呑んだ。
未来視が通じない。
それは、初めてのことだった。
いや。
正確には、初めてではない。
かつて一度だけ、似た現象を見たことがある。
十年前。
王国南部。
ある古代遺跡の調査中に、同じようなことが起きた。
その時。
調査隊は、全員消息を絶った。
そして。
遺跡そのものが、地図から消えた。
「……エドガー」
国王は、静かに呼んだ。
扉の向こうから、宰相が現れた。
「……陛下」
「北方へ、追加の部隊を送るな」
エドガーは眉をひそめた。
「……しかし」
「命令だ」
国王は、静かに言った。
「……今、あそこへ人を送ってはならない」
エドガーは、しばらく黙った。
そして。
「……承知しました」
深く頭を下げた。
*
白い空間。
アルトは、ゆっくり目を開けた。
「……あれ?」
地面がある。
しかし、床ではない。
白い。
どこまでも白い。
空もない。
壁もない。
ただ、無限に広がる白い空間だった。
「……セラさん?」
アルトは周囲を見回した。
セラが、少し離れた場所に立っていた。
「……無事か?」
「……はい」
「エリシアは?」
「……ここ」
エリシアが、アルトの服を掴んだまま立っていた。
アルトは、少しだけ安心した。
「……よかった」
セラは、周囲を見回した。
「……どこだ、ここ」
「……分かりません」
アルトは答えた。
そして、足元を見た。
白い地面。
しかし、踏んだ感触がない。
まるで、空間そのものが足場になっているようだった。
「……変ですね」
アルトは呟いた。
その時。
声がした。
『……ようこそ』
三人は、振り向いた。
そこには、一人の少女が立っていた。
白い髪。
白い服。
白い瞳。
年齢は、十歳ほど。
しかし。
その存在感は、異様だった。
『……境界外個体』
少女は、アルトを見つめた。
『……あなたを、待っていました』
アルトは、少し困った顔をした。
「……えっと」
そして。
「……どちら様でしょうか」
少女は、静かに微笑んだ。
『……私は』
少し間を置く。
『……この世界の、管理者です』
沈黙。
セラが、低く呟いた。
「……何だと?」
エリシアは、興味深そうに目を細めた。
アルトは、少し考えた。
そして。
「……あの」
『……何でしょう』
「……帰ってもいいですか?」
少女は、初めて表情を変えた。
『…………え?』
アルトは、少し申し訳なさそうに言った。
「……いや、調査依頼で来ただけなので」
そして。
「……あんまり長引くと、宿代が増えるんですよね」
白い空間に、沈黙が落ちた。
セラは、ゆっくり天井のない空を見上げた。
「……お前は、本当に」
小さく呟いた。
「……どこまで行っても、お前だな」
エリシアは、静かに笑った。
「……うん」
そして。
「……好き」
アルトは、また固まった。
世界の管理者を名乗る少女は。
そんな三人を見つめながら。
初めて、自分の想定が大きく外れたことを理解し始めていた。
――第八話 完。