おばあちゃんの手は、小さい。
テレビに映るヒーローたちみたいに、太い腕も、大きな拳も持っていない。それでも、その手が触れると、泣いていた人が安心した顔になる。
ぼくは、それが好きだった。
「直。そこの包帯を取っとくれ」
「こっちの太いやつ?」
「ああ。それでいい」
渡す前に、袋の端を少しだけ開けておく。
おばあちゃんは受け取ると、診察台に座った男の人の腕へ包帯を巻いた。さっきまで血が出ていたところは、もう薄い桃色になっている。
「今日は帰ってよく寝るんだよ。傷が塞がったからって、走り回るんじゃない」
「助かりました、リカバリーガール」
男の人が何度も頭を下げる。
その人が帰ってから、ぼくは空になった包帯の袋を丸めた。
「やっぱり、すごいね。さっきまで、あんなに痛そうだったのに」
「その分、あの人の体力を使ってるんだ。何でも治せる魔法じゃないよ」
「うん。知ってる」
何度も聞いた話だった。
知っていても、すごいものはすごいと思う。
机の端に置いたノートを開く。今日見た処置を、忘れないうちに書いておきたかった。
「直」
「ん?」
「今日は、もう勉強はおしまいにしな」
「あと少しだけ。包帯の巻き方、忘れちゃいそうだから」
おばあちゃんは何か言いかけて、それからぼくの頭を軽く撫でた。
小さい手だった。
*
ぼくの名前は、修善寺直。
あのリカバリーガールこと、修善寺治与の孫だ。
それが分かると、大人はだいたい同じことを言う。
将来が楽しみだね。
きっと立派なヒーローになるね。
ぼくも当然そうなると思っていたし、おばあちゃんみたいにみんなを助けられるんだと、当たり前みたいにそう思っていた。
今は、少し返事に困る。
病院には行った。検査もした。先生の説明は難しかったけれど、家に帰る道で母さんがいつもよりたくさん話しかけてきたことは覚えている。
それから、ぼくの個性の話は、あまりしなくなった。
だから最近は、先に答えることにしている。
「ぼく、個性はないんだ」
──ああ、ぼくはヒーローにはなれないのかもしれない。
*
その日は、おばあちゃんの家に泊まることになっていた。
お風呂から上がると、居間におばあちゃんの姿はなかった。廊下の向こうから、電話で話す声が聞こえてくる。
喉が渇いて、台所へ向かった。
流しの横に、白いカップが置いてあった。
青い花が描いてある、おばあちゃんのお気に入りのカップだ。
縁が少し欠けているのに、ほかのカップではお茶の味が違うと言って、いつもそれを使っていた。
隣に伏せてあったコップを取ろうとして、袖を取っ手に引っかけた。
「あ」
カップが傾いた。
慌てて手を出したけれど、指先は底をかすめただけだった。
床で、硬い音がした。
取っ手が折れて、本体がいくつもの破片に分かれていた。
しばらく、そのまま動けなかった。
ぼくはしゃがんで、いちばん大きな破片を拾った。
青い花が、途中で切れていた。
どうしよう。
おばあちゃんは、怒るかもしれない。でも、それよりも、このカップを見て残念そうな顔をするのが嫌だった。
お願いだから、戻ってよ。割る前みたいに。
破片を両手で包んだ。
手の中で、何かが滑った。
「……え?」
気がつけば、手の中には元通りのカップがあった。
青い花が、つながっていた。
ぼくは底を見た。内側も見た。
さっきまであった割れ目が、どこにもなかった。
そっと取っ手を引っ張る。
取れない。
床を見回した。
破片は、一つも残っていなかった。
「……直った」
口にしてから、自分の手を見た。
カップを置いて、もう一度持ち上げた。
やっぱり、直っている。
胸がどきどきした。
……使えた! 使えたんだ! ぼくにも個性が!
台所を飛び出した。
「ねえ! ねえ! おばあちゃん!」
おばあちゃんはちょうど受話器を置いたところだった。
「何だい、そんなに慌てて」
「あのね、ぼく、個性が使えたかもしれないんだ!」
おばあちゃんの手が止まった。
「……個性?」
振り向いたおばあちゃんと、目が合った。
ぼくは何度も頷いた。
「うん。壊れたものを、綺麗に直せたんだ! もう一回やるから、何か壊れたものない!?」
おばあちゃんはぼくの顔をしばらく見つめてから、棚の上の古い写真立てに目を向けた。
「それなら、そこの写真立て。角が外れてるだろう」
ぼくは写真立てを取った。木の枠の角がひとつ、ぱっくりと開いている。
「ありがとう! 見ててね」
「落とさないようにおし」
ぼくは写真立てを両手で持った。
さっきと同じように、壊れたところへ指を当てる。直ってほしい、と強く思った。
けれど、何も起こらなかった。
角は開いたままだった。
「……あれ?」
*
布団に入っても、眠れなかった。
おばあちゃんの前では、結局、一度もできなかった。
写真立ても、背の外れかけた本も、変わらなかった。
「今日はもう休んで、また明日やってみよう」
そう言われて、頷いた。
おばあちゃんは、ちゃんと待っていてくれた。何度失敗しても、ぼくがやめるまで見ていてくれた。
だから、見せたかった。
直るところを、一回でいいから。
ぼくは布団から手を出した。
暗がりで、指を開いてみる。
カップを持った感触は、まだ覚えていた。
破片の角が指に当たっていたのに、気がついたら、つるりとした底に変わっていた。
あれは、何だったんだろう。
起き上がって、机の明かりをつけた。
昼間使っていたノートを開く。後ろの方に、少し破れたページがあった。
そこへ指を当てた。
お願い。直って。
……いくら待っても、何も起きなかった。
「……駄目かあ」
椅子の背にもたれた。
カップじゃなきゃ、できないのかな。
それとも、割れた欠片が全部揃っていないと駄目なんだろうか。
破れたページを見直す。紙はなくなっていない。切れ目が入っているだけだ。
じゃあ、どうして。
考えながら端をつまんでいると、切れ目が少し広がった。
「あ」
慌てて押さえた。
指先で、紙がくっついた。
ぼくは動きを止めた。
ゆっくり指を離す。
破れ目が、短くなっていた。
元からあった切れ目は残っている。でも、今、自分で広げたところだけが消えていた。
顔を近づけた。
裏返して、明かりに透かしてみる。
そこには、何もなかった。
ぼくは隣のページを開いた。
何も書いていない端を、ほんの少し破る。
指を当てる。
直ってほしい、と思った。
気がつくと、切れ目は閉じて、一枚に戻っていた。
「……できた」
もう一度、破る。
触る。
直る。
今度は、ちぎって完全に離してみた。
二つの切れ端を机に並べ、大きい方に指を置いた。
小さい方が滑ってきて、元の場所に収まった。
ぼくは思わず笑った。
口を押さえて、戸の方を見る。
廊下は静かだった。
おばあちゃんを呼びに行こうとして、椅子から腰を浮かせた。
でも、すぐに座り直した。
また、できなくなったら。
今度は、どうすればできるのか分かってから見せたかった。
新しいページに、試したものを書いた。
カップ。直った。
写真立て。直らなかった。
本。直らなかった。
紙。直った。
そこで鉛筆を止めて、前のページへ戻る。
古い破れ目は、残っている。
その先に指を置いてみたけれど、やっぱり変わらなかった。
紙なら何でも直せる、というわけでもないらしい。
ぼくは、残った切れ目を見つめた。
さっき広げたところだけ、直った。
カップも、落としてすぐに触った。
写真立てと本は、いつから壊れていたんだろう。
ノートに、二つ書き足した。
――ぼくが壊したものだから?
――壊れてすぐだったから?
確かめるには、どうしたらいいだろう。
少し考えて、紙を二枚ちぎった。
一枚を半分に破り、机の左側に置く。
もう一枚も同じように破り、こちらはすぐに直した。
ぼくは時計を見た。
今日はもう、寝なきゃいけない。
続きは朝にしよう。
机の左側に置いた紙のそばへ、小さなメモを添えた。
――まだ直さない。
朝になったら、まずこれを試す。
できなかったら、新しく破った紙と比べてみる。
ノートを閉じようとして、もう一度、最初のページを見た。
昼間、おばあちゃんに教わった包帯の巻き方が書いてあった。
その後ろには、今までなかった記録が増えている。
ぼくは、もしかしたらまだヒーローになれるのかもしれない。