個性が使えるようになってから、二年がたった。
ぼくの机には、いつも何か壊れたものが置いてある。
欠けた湯呑み。留め金の外れた鞄。近所のおばさんが持ってきた、片方だけ音の出ないラジオ。
どれも壊れてから時間が経っているけれど、壊れたところをもう一度壊し直せば、個性で直せる。
湯呑みは直せた。鞄も直せた。
ラジオは上手くいかない。
ほかのものと同じように壊して元通りにしても、ギーだとかガーだとか、変な音を出すだけだ。
どうも、中の壊れている部品を壊し直せていないらしい。
大きくて硬いものを壊し直すのは難しい。
ラジオを裏返して、継ぎ目に指をかけてみた。引っ張っても、びくともしない。
どこか、開けられるところはないだろうか。
「直、おつかいを頼んでもいいかい?」
「うん。ちょっと待って」
もう一度だけ裏側を確かめてから、ラジオを机に置いた。
続きは、帰ってからにしよう。
おばあちゃんから財布とメモを受け取る。買うものを確かめて、ポケットにしまった。
「いってきます」
「気をつけて行くんだよ」
玄関を出ると、思っていたより日が高くなっていた。
*
商店街を歩いていると、前のほうで怒鳴り声がした。
「どいつもこいつも、ブッ潰してやるッ!」
ガラスが割れた。
振り向いた人たちの向こうに、サイそっくりの巨大な頭が見えた。
店の二階の窓を覗き込めそうなほど背が高い。分厚い胸と肩が、店の入口をすっかり隠していた。鼻先に突き出た太い角だけで、ぼくの腕よりも長かった。
サイのヴィランが腕を振ると、店先の棚がまとめて吹き飛んだ。
「大型ヴィランだ!! ヒーロー呼べェ!!」
周りの人が走り出した。
ぼくも逃げる? だめだ! ここで逃げてちゃヒーローになんかなれない!
逃げていく人たちを横目に、サイのヴィランに向き直った。きっとぼくにも、何かできることがあるはずだ。
サイのヴィランが、丸太みたいな腕を振りかぶった。
拳が店の壁にめり込む。鈍い音と一緒に壁いっぱいにひびが走り、窓枠ごと大きく崩れた。
砕けた壁の塊が、こっちへ飛んできた。
「わっ!」
ぼくは咄嗟に道の端へ飛び退いた。さっきまで立っていたところで瓦礫が跳ねる。慌てて建物の隙間へ入り、奥まで下がってしゃがんだ。
外では、悲鳴に混じって物の壊れる音が続いていた。
壁の端からそっと覗くと、サイのヴィランが歩道の柵を掴んでいた。岩みたいにごつごつした腕に力がこもり、鉄の棒が紙きれみたいに簡単に折れ曲がっていく。
根元が砕けた。
サイのヴィランは引き抜いた柵を振り回し、逃げ遅れた人たちを追い立てた。投げ捨てた柵が店の壁にぶつかって、またガラスが散った。
握り締めた手が震えていた。力を入れても止まらなくて、ぼくは膝の間に押し込んだ。
あんなのと戦ったって、勝てっこない。だって、ぼくはまだ子供じゃないか。ヒーローじゃない。ぼくなんかが、あんなヴィランになにかできるわけなかったんだ。
──じゃあ5年後なら? 10年後なら?
もしヒーローになれたとして、あの敵と対峙して、ぼくは勝てるのか?
ぼくは唇を結んだ。
そんなこと、今は考えたくなかった。
なるべく身体を縮こめて、見つからないように。何も言わず、動かずに。じっと待った。
大きな音がするたびに肩が跳ねる。
もう一度、壁の端から外を覗こうとしたとき、明るい声が降ってきた。
「派手にやってんなァ!」
白い影が、視界を横切った。
顔を出すと、白い女のひとがサイのヴィランの目の前へ落ちていくところだった。
長いうさぎの耳を、白い髪と一緒に後ろへなびかせている。ぬいぐるみみたいに可愛い耳なのに、白いコスチュームから伸びた手足は驚くほどたくましい。日に焼けた脚には、筋肉の形がくっきりと浮いていた。
うさぎの人は空中で腰をひねると、片脚を大きく振り抜き、サイのヴィランの顔を横から蹴りつけた。
大きな身体が傾いた。踏ん張った足が地面を削り、何歩も後ろへ下がる。
うさぎの人は軽く着地すると、顔を上げた。
「いいねェ、頑丈じゃねえか!」
笑っていた。
あんなに大きな相手を見上げているのに、楽しそうだった。
サイのヴィランが吠え、拳を振り下ろした。
ぼくは思わず目をつぶった。
地面を叩く音。
慌てて開くと、拳のすぐ横にうさぎの人がいた。砕けた舗装の破片が腕をかすめても、足を止めずにサイのヴィランの懐へ入っていく。
サイのヴィランがもう片方の腕を伸ばした。
その手が届く前に、うさぎの人が地面を蹴った。
身体が後ろへひっくり返り、伸ばした脚が大きく弧を描く。
「踵月輪ッッ!」
振り上げられた踵が、顎を捉えた。
サイのヴィランの足が地面を離れ、店の軒先よりも高く跳ね上がった。
あの大きな身体が、宙でひっくり返る。
サイのヴィランは背中から道へ落ちた。重たい音が響き、ぼくの足元まで震えた。
うさぎの人はそばへ降り立ち、起き上がろうとする肩に足を置いた。
サイのヴィランが、その足を掴もうと腕を伸ばした。
うさぎの人は肩をぐっと踏み戻した。大きな身体が地面に押さえつけられ、潰れた声が漏れる。
「おとなしくしとけ」
サイのヴィランは歯を剥いたけれど、もう起き上がろうとはしなかった。
ぼくは壁に手をついたまま、夢中で食い入るようにその様子を見ていた。
すごい。
暴れているヴィランを、ヒーローが倒す。そんな光景は毎日のようにテレビやニュースで流れているし、ぼくも見るたびに、いつか自分もああなりたいと思っていた。
でも、本物の敵は、画面の向こうにいるものとはぜんぜん違った。
近くにいるだけで、何もできなくなった。隠れて、見つからないようにするだけで精一杯だった。
あの人は、そんな相手の前へ笑いながら飛び込んできた。
誰も近づけなかったサイのヴィランが、今は地面に転がっている。
駆けつけた警察にサイのヴィランが引き渡されると、歓声が上がった。
道へ戻った人たちが、うさぎの人の周りに集まっていく。人の背中に隠れて、その姿が見えなくなった。
ぼくは、壁についていた手を見た。
もう、震えていなかった。
おばあちゃんに治してもらった人が、ほっと息をつくところを思い出した。
ぼくも今、あんな顔をしているのかもしれない。
おばあちゃんみたいに、痛いところを治してあげたい。
それは、今も変わらない。
でも、あの人みたいに、怖い相手から誰かを守れたら。
怪我をした人が助けを求めていたら、そこがどんなに怖くても、駆け寄っていけたら。
ぼくはもう一度背伸びをして、人の間に白い耳を探した。
あんなふうにも、なりたい。
ぼくはようやく壁から手を離して、建物の隙間から出た。
*
辺りには、割れたガラスや、店から飛び出した物が散らばっている。少し前まで普通に歩いていた道なのに、通れるところを探さなければいけなかった。
足元に、さっきの柵が落ちていた。
引きちぎられた端が尖っていて、ぼくは踏み出しかけた足を止めた。
これ、直せるかな。
壊れたばかりの柵の根元は、すぐそばに残っていた。そこから折れたところへ手を添える。
個性を使うと、ひしゃげていた鉄の棒が、一瞬でまっすぐな柵に変わった。
ぼくは手を離し、軽く押してみる。大丈夫そうだ。
「……できた」
家で試したものより、ずっと大きい。
自分では壊せないものでも、壊れたばかりのものなら直すことができる。
もう一度柵を撫でていると、後ろから声がした。
「おまえ、いまそれ直したのか?」
振り向いた。
さっきのうさぎの人が立っていた。
近くで見ると、あんなに凶暴なヴィランを倒したとは思えない綺麗な人だった。ぼくと柵を見比べ面白そうに笑っていて、ぼくは慌てて頷いた。
「う、うん。ぼくの個性、壊れたものを直せるんだ。あ、でも、壊れたばっかりのものだけで……」
「へえ!」
女の人は柵を掴んで揺すった。さっきのサイのヴィランみたいに引き抜いてしまうかと思ったけれど、すぐに手を離した。
「すげえな。お前、名前は?」
「直。修善寺直だよ」
「直か。私はミルコ! 今年プロになったばっかだ。覚えとけよ!」
ミルコは笑って、直したばかりの柵を叩いた。
なったばかり?
ぼくはミルコを見上げた。あんなに強いのだから、しばらくヒーローをやっているものだと思っていた。
「ほかのも直せんのか?」
ぼくは散らかった道を見た。
硬い物も、大きい物も、まだたくさん壊れている。
「……やってみる」
まず、すぐ横の店に向かった。
崩れた壁の端に手を置いて、個性を使う。
窓枠ごと開いていた穴が、一瞬で塞がった。壁を走っていたひびも消え、元に戻った窓ガラスにぼくの顔が映る。
その後ろで、ミルコが口を開けていた。
「おお、本当に直りやがった!」
ぼくは振り返って、笑った。
次は、倒れた棚に触れた。
折れた脚が戻り、ひしゃげていた板もまっすぐになる。けれど、横倒しのままでは邪魔だった。
両手で押してみても、少ししか動かない。
「貸せ」
横から伸びてきた手が、棚の端を掴んだ。
ぼくが手を離すと、棚がひょいと持ち上がった。ミルコはそのまま店の前へ運び、元あったらしい場所へ置いた。
「ここでいいか?」
店の人が何度も頭を下げていた。
ふと、持ち上げた拍子に、ミルコの肘の近くを赤いものが伝ったのが目に留まった。
「あ、血が出てる」
「ん?」
ミルコは自分の腕を見て、指で血を拭った。その下には、細い傷が何本か走っていた。
「ああ、さっきのか。こんなの放っときゃ治る」
ぼくなら、すぐ治せるのに。
下ろしかけた腕を追いかけて、ぼくは手を伸ばした。傷のそばに指が触れたところで、そのまま個性を使う。
赤い切れ目が、一瞬で消えた。
「おっ?」
ミルコは腕を持ち上げた。残った血を拭うと、その下にはもう傷がなかった。
ぼくは反対の腕や脚にも目をやった。ほかに血が出ているところや、腫れているところはなさそうだった。
「他はどこも怪我してない?」
「ねぇよ。これで、きれいさっぱりだ!」
ミルコが腕を突き出して見せた。
ぼくはほっと息をついた。
人間を壊し直すことは、おばあちゃんに止められている。いや、止められていなくたって、そんなこと簡単にできやしない。
「壊れた物だけじゃなく人間も直せんのか。便利だなァ、お前の個性!」
「ありがとう!」
今度は、すぐに返事ができた。
ミルコの腕から手を離すのが、少し惜しかった。
こんなに強いヒーローにも、ぼくの個性が役に立った。
「回復系の個性たァ珍しいな、リカバリーガール以外で初めて見たぞ」
「ぼくのおばあちゃんだよ」
「あ?」
「リカバリーガール。修善寺治与はぼくのおばあちゃん」
ミルコはぼくの顔を見て、それから直った腕を見た。
「へえ! あの人の孫か!」
ぼくは頷いた。
おばあちゃんのことを知っているのもうれしくて、さっきより少し大きな声が出た。
「ぼくも、ヒーローになりたいんだ」
「なれんじゃねえか。もうこんだけ役に立ってんだし」
ミルコは親指で、ぼくが直した店先を示した。
壁も、窓も、棚も、元に戻っている。
それは、ぼくにできることだった。
でも。
「……ミルコみたいに強いヒーローになりたいな」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
ぼくは何もできなかった。さっきまで、そこの隙間に隠れていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
「おっ、言ったな?」
ミルコはにっと笑うと、さっき起こした棚を顎で示した。
「だったら、まずはあいつだな。次はお前ひとりで起こせるようになっとけよ」
ぼくは棚と、自分の腕を見比べた。
「……何をしたらいい?」
「まずは走れ! 戦う前にバテちまっちゃ、話になんねえからな」
「……うん」
今すぐサイのヴィランを倒すのは無理でも、走るくらいならできる。
ぼくが頷くと、ミルコも満足そうに頷いた。
「よし!」
ミルコは道の先へ顔を向けた。
「んじゃ、私はそろそろ行くぞ」
「もういくの?」
「ほかにも暴れてる奴がいるかもしれねえだろ」
そう言って笑う顔は、さっきサイのヴィランを見上げていたときと同じだった。
まだ戦いに行くんだ。
ぼくが黙っているうちに、ミルコは歩き出した。
「あの」
ミルコが振り返った。
「また、来る?」
思ったより小さな声になった。
ミルコは一度まばたきをして、それから、さっき治した腕を掲げた。
「近くで怪我したら寄るか。そんときはまた頼むぞ、直!」
「うん!」
ぼくは慌てて、家のあるほうを指さした。この道を行った先だと教えると、ミルコはそちらを見て頷いた。
「覚えとく!」
白い耳が揺れた。
ミルコが軽く膝を曲げたと思ったら、もう身体が浮いていた。店の屋根を越え、その向こうへ消えていく。
ぼくはしばらく、空を見ていた。
ミルコ。
今年ヒーローになったばかりなのに、あんなに強くて、ぼくの名前を覚えてくれた人。
次に会うときには、さっきの棚くらい、自分で動かせるようになっていたい。
ぼくは買い物を済ませると、家へ向かって走り出した。
すぐに息が苦しくなった。
それでも今日はこのまま、最後まで走り続けた。