寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第1章 寡黙な弓の名手

 弓聖ミリアン・ロスについて、俺が入団前に聞いていた噂は三つある。

 

 ひとつ、彼の矢は外れない。

 ひとつ、彼は滅多に口をきかない。

 ひとつ、「弓聖が黙ったら、次の矢で終わる」。

 

 三つめは噂というより言い伝えに近い。国境の向こうの傭兵たちまでそう言って震えるのだと、酒場の女将が胸を張って教えてくれた。なぜ女将が胸を張るのかは分からなかったけど、とにかくそういう人なのだ、と俺は理解した。

 だから、イァーリに入って最初の仕事でその人と同じ班になったと聞いたとき、俺は嬉しさより先に胃が痛くなった。

 

 依頼は、街道に出る魔獣の討伐だった。岩背猪(いわせいのしし)と呼ばれる大猪で、背中の毛皮が岩みたいに硬く、並の矢は刺さらずに跳ね返るらしい。荷馬車が三台ひっくり返され、商人がひとり脚を折った。

 班は三人。先輩の槍使いヨルクさんと、新入りの俺と、弓聖。

 朝、ギルドの前で顔を合わせたとき、俺は昨夜三十回練習した挨拶を口にした。

 

「は、はじめまして! ティモです! 弓聖さまと組めて光栄です! 足を引っ張らないよう、精一杯――」

 

 弓聖はゆっくりとこちらを見た。

 背が高い。灰色がかった髪を無造作に後ろへ流し、顎には無精髭。目元には深い皺が刻まれていて、その一本一本に戦場がひとつずつ埋まっていそうな顔だった。

 その目が、俺を一秒ほど見た。

 そして何も言わずに、街道のほうへ歩き出した。

 

「……気にすんな」ヨルクさんが俺の肩を叩いた。「あの人はいつもああだ。口を開くと寿命が縮むんだと、俺は睨んでる」

 

 冗談なのか本気なのか、分からなかった。

 街道を半日歩くあいだ、弓聖は一言も喋らなかった。

 ときどき空を見上げ、ときどき目を閉じ、ときどき、ほんのかすかに唇を動かした。何かを数えているようにも見えた。敵の数か、風の向きか、それとも俺には想像もつかない何かか。

 俺は話しかけるのを諦めた。この人の沈黙を邪魔してはいけない気がした。

 

 岩背猪が現れたのは昼過ぎ、林を抜けて道が開けたところだった。

 最初に聞こえたのは地鳴りだった。それから、木が折れる音。茂みを割って現れたそいつは、想像より二回りは大きかった。荷馬車ほどもある。灰色の背中がごつごつと盛り上がって、本当に岩が歩いているみたいだった。

 

「ティモ、下がれ!」

 

 ヨルクさんが槍を構えて前に出た。でも猪は槍なんか見ていなかった。鼻を鳴らし、前脚で地面を掻き、まっすぐ弓聖のほうを向いた。

 弓聖は、動かなかった。

 矢筒から一本抜いて、弓に番えた。そこまでは見えた。でもそのあと、弓聖は弦を引かなかった。

 猪が走り出した。地面が揺れる。距離が縮まる。四十歩。三十歩。

 弓聖は、目を閉じていた。

 嘘だろう、と思った。何をしてるんだ。

 

「目を、目を開けてください!」

 

 叫んだつもりだったけど、声になっていたかどうか分からない。

 二十歩。

 弓聖の唇が動いた。何かを低く呟いた。風の音にまぎれて、俺には聞き取れなかった。

 十歩。

 弓聖の目が開いた。

 弦が鳴った。

 次の瞬間、猪の巨体が前のめりに崩れた。勢いのまま土をえぐって滑り、弓聖の足元、ほんの三歩手前で止まった。

 矢は、猪の右目に根元まで刺さっていた。岩のような背中でも、分厚い頭蓋でもない。硬い毛皮が唯一守っていない、拳ほどの隙間に。

 

 林を抜けてきた風が、弓聖の前髪を揺らした。

 

 弓聖は、黙っていた。

 弓聖が黙ったら、次の矢で終わる。噂は本当だった。

 それから弓聖は、倒れた猪のそばに膝をついた。目を伏せ、唇を動かし、何かを繰り返し呟いている。同じ言葉を、何度も、何度も。

 俺は息を呑んだ。

 祈っているのだ。今しがた自分が命を奪った獣のために。

 

「……あの人は、ああいう人なんだよ」

 

 ヨルクさんが、なぜか誇らしげに言った。

 

◇

 

 結論から述べる。

 私はあのとき、猪のことをほとんど考えていなかった。

 より正確に言えば、私の思考資源のおよそ九割は、朝から一つの問題に割かれていた。「宿命(さだめ)」と韻を踏む、気高い語は何か。

 昨夜書きかけた詩の三行目が、そこで止まっていたのである。一行目と二行目は完璧だった。三行目の末尾に「さだめ」と対になる語を置ければ、この詩は私の生涯の代表作の一つになる。その確信があった。

 候補はいくつか挙がっていた。

 

 第一に、「雨(あめ)」。韻としては申し分ないが、手垢がつきすぎている。宿命と雨を並べた詩人は、おそらく大陸に三千人はいる。

 第二に、「飴(あめ)」。気高さが致命的に足りない。

 第三に、「亀(かめ)」。論外である。

 

 つまり朝の時点で、有効な候補はゼロだった。ギルドの前で新入りが何か言っていた気がするが、そのとき私は「亀」を候補から外す作業に忙しく、彼を一秒見るのが精一杯だった。名前はたしかティモといった。亀と同時に処理したので、自信はない。悪いことをしたと思う。思うだけである。

 

 街道を半日歩くあいだも、私は韻を探し続けた。空を見上げては「天(あめ)」を検討し、読みが強引すぎると却下した。目を閉じては音の響きを確かめた。唇が動いていたかもしれない。動いていたとしても、意味は誰にも分からなかったはずだ。分かられては困る。

 

 岩背猪が現れたとき、私が最初に抱いた感想は「今か」だった。

 あと少しで何かが掴めそうだったのだ。猪の突進は、私の創作を物理的に中断させる、最悪の割り込みだった。

 そこで私は、矢を番えたまま目を閉じた。猪が届く前に韻を見つけ、見つけた瞬間に射る。それがあの場における最適解だと判断した。射るのは一瞬で済む。韻は、逃せば二度と戻らない。

 地響きが近づき、新入りが何か叫んだ。その叫びの中に、「目」という音が聞こえた。

 

 め。

 目覚め(めざめ)。

 ――さだめ。めざめ。

 見つけた、と思った瞬間、私は目を開け、射た。

 

 自慢ではないが、韻が決まった瞬間の私の矢は外れない。理由はよく分からない。心の拍子と弦の拍子が、どこかで揃うのだろう。どこを狙ったかは、正直よく覚えていない。体が勝手に、いちばん柔らかい場所を選んだのだと思う。

 倒れた猪のそばに膝をついたのは、祈るためではない。忘れないためである。

 詩句というものは、思いついた瞬間がもっとも鮮やかで、そこから砂のように崩れていく。帳面に書き留めるまで、私は口の中で「さだめ、めざめ、さだめ、めざめ」と唱え続ける必要があった。人前で帳面を開くわけにはいかない。その理由は後で述べる。

 

 帰り道、新入りがおずおずと話しかけてきた。

 

「あの……さっきは、猪に祈りを捧げていたんですか」

 

 私の内部で、短い会議が開かれた。

 選択肢は三つある。

 

 第一に、否定する。この場合「では何を唱えていたのか」という当然の追及が来る。真実を述べれば私は終わる。別の嘘を用意すれば、嘘の総量が増える。

 第二に、肯定する。嘘ではある。だが、一語で済む。

 第三に、黙る。私の常套手段だが、この距離で質問を無視すれば、新入りの心に無用な傷を残す恐れがある。

 

 費用と便益を比較した結果、私は第二案を採った。

 

「……ああ」

 

 新入りの目が潤んだ。ヨルクが黙って頷いた。

 私はごくわずかに良心の痛みを覚えたが、それは帳面に「めざめ」と書き込めば相殺される程度のものだと判断した。

 

◇

 

 ここで、私が何者であるかを整理しておく。

 私はミリアン・ロス、三十八歳。傭兵ギルド「イァーリ」の弓手である。人は私を「弓聖」と呼ぶ。

 この呼び名について、私は否定も肯定もしていない。内心では、悪くないと思っている。響きが良い。正直に言えば、かなり気に入っている。

 しかし、本業は詩人である。十六の頃から書き続け、詩帳は現在十四冊目に入った。誰にも見せたことはない。

 私が詩を書く理由は三つある。

 

 第一に、表現。言葉にしなければ、私の内側にある宇宙は誰にも観測されない。

 第二に、陶酔。書き上げた詩を夜中に読み返すとき、私は世界でいちばん美しい男になれる。

 第三に、いつか私が死んだのち、遺品の中から詩帳が見つかり、人々が「あの寡黙な弓聖の内側に、これほど繊細な世界が広がっていたのか」と涙することを望んでいる。

 

 問題は、第三の目的である。

 これは死後に発見された場合にのみ成立する。生前に発見された場合、同じ詩帳はまったく逆の効果を持つ。「あの寡黙な弓聖が、夜な夜なこんなものを書いていたのか」と言われ、涙の代わりに失笑が起きる。

 

 加えて、評判が高ければ高いほど、発覚したときの落差も大きくなる。弓聖という名が広まるほど、私の詩帳は危険物としての価値を増していく。名が売れて嬉しい気持ちと、名が売れて困る気持ちは、私の中で常に正比例して増え続けている。

 ゆえに、原則は一つである。

 

 ――詩は、生きているうちに見つかったら終わりだ。

 

 私が寡黙なのも、この原則による。口を開けば、詩人特有の言い回しがどこかで漏れる。あるいは逆に、語彙の乏しい日常会話によって「この男にそんな繊細な詩が書けるはずがない」と思われてしまう。後者は後者で腹が立つ。

 発話の費用は、常に便益を上回っている。だから私は黙る。人はそれを、背負った過去の重さだと解釈する。誤解だが、都合の良い誤解なので訂正はしない。

 

◇

 

 夕刻、ギルドに戻ると、ギルド長のバルドが両腕を広げて出迎えた。

 

「聞いたぞ! 岩背猪を一矢だと? さすがは弓聖だ!」

 

 広間の団員たちが一斉にこちらを見た。若い連中は背筋を伸ばし、古参は「当然だ」という顔で杯を掲げた。誰も私に近づいてはこない。いつもの隅の席に座ると、両隣の椅子から、人が静かに消えていった。

 ティモが仲間に何か耳打ちしているのが見えた。「祈り」という単語が聞こえた。聞き手の若者が、畏敬のまなざしでこちらを見た。

 

 私は、少しだけ不満だった。

 褒められるのは嫌いではない。だが、褒められているのは弓であって、詩ではない。今日の私の真の功績は、「さだめ」と「めざめ」を出会わせたことにある。猪は副産物にすぎない。その事実を、ここにいる誰も知らない。

 知られては困る。だが、知ってほしい。

 この矛盾をどう処理すべきか、私は麦酒一杯ぶん考え、結論を保留した。

 

 夜。

 自室に戻り、床板の三枚目を外す。その下に、十三冊の古い詩帳が眠っている。私は懐から十四冊目を取り出し、燭台の灯りの下で、ようやく三行目を書き入れた。

 

 黄昏の射手は 孤独を番(つが)える

 放たれし矢は 我が宿命(さだめ)

 闇よ震えよ 世界よ目覚め(めざめ)

 ――我は、風に選ばれし者

 

 読み返す。

 完璧だ。

 強いて言えば、三行目の「目覚め」は命令形の「目覚めよ」とすべきか、このまま止めるべきか、検討の余地がある。少なくとも三晩は要するだろう。四行目についても、選んだのは風なのか、それとも風を選んだのが私なのか、解釈が割れる可能性がある。それもまた良い。名作とは、解釈が割れるものだ。

 しかし今夜は、まだやることがある。

 詩は、声に出して読まれなければ完成しない。そして声に出すには、誰にも聞かれない場所が必要だ。

 私は外套を羽織り、詩帳を懐の奥にしまい、弓と矢筒を肩にかけた。

 町外れの森へ。

 弓聖の、本当の仕事の時間である。

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