寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
宴の翌朝、私は自室の机に向かい、羊皮紙を一枚広げた。
詩を書くためではない。計画を立てるためである。
議題。詩帳の存在が知られつつある状況において、私はいかに行動すべきか。
選択肢を列挙する。
第一案、口止め。
対象を数えた。エレナ。唱和していた若手が十三人。宴に居合わせたバルド、マルタ、ヨルク、その他の団員が三十人ほど。マルタが噂を広めることを考えれば、対象は町の全住民に及ぶ。口止めの手間は人数に比例し、噂の速度は人数の二乗に比例する。勝ち目がない。
加えて、エレナに口止めを頼むには、理由を説明しなければならない。「あれは私の恥ずかしい詩だから黙っていてくれ」と。彼女は昨夜、あの一行を「誓い」と言った。誓いを恥と呼ぶことは、私にはできない。
却下。
第二案、詩帳の焼却。
証拠を消せば、残るのは噂だけである。噂は、証拠がなければいずれ風化する。
だが、十四冊の詩帳は、私の二十二年である。十六の春から今日まで、ほぼ一夜も欠かさず書き、推敲し、矢で確かめてきた。それを燃やすことは、私の半生を燃やすことに等しい。
加えて、エレナがすでに写しを持っている可能性がある。原本を燃やしても、写しは残る。燃やし損である。
却下。
第三案、記憶の消去。
関係者全員の記憶から、あの一行を消す。そのような術は存在しない。仮に存在したとしても、私には使えない。
却下。
第四案、否認。
「あれは古い言い伝えだ。私の詩ではない」と言い張る。だが、エレナが詩帳を読んでいるなら、否認は即座に崩れる。崩れた否認は、沈黙よりも悪い。
却下。
第五案。
羽ペンが止まった。
第五案、ここを去る。
残った案は、それだけだった。消去法とは、そういうものだ。
私は窓の外を見た。裏の稽古場で、エレナが剣を振っていた。目を閉じて。その周りで、若手たちが木剣を振っている。「風よ」と誰かが言い、「前髪のみを」と誰かが続けた。
エレナは、もう私がいなくても大丈夫だ。
狼の群れを一人で率いて退けた。目を閉じたまま、闇の中で剣を振るえる。若手たちに慕われ、教えを伝えている。その教えが私の詩だという一点を除けば、何一つ問題はない。
師が去るには、悪くない頃合いだと思った。
論理的にも。
それ以外の意味でも。
私は羊皮紙の第五案に丸をつけ、それから紙を細かく裂いて、暖炉にくべた。
◇
十四冊の詩帳を運ぶには、相応の鞄が要る。
手持ちの背嚢には、せいぜい五冊しか入らない。下着と外套と食料を入れれば、三冊。残りの十一冊を置いていけば、それはそのまま十一冊分の発覚の種になる。
昼過ぎ、私は市場の革細工屋に出向いた。
「いちばん大きな鞄を」
店主は目を丸くし、店の奥から、子どもが一人入れそうなほどの革の旅行鞄を引きずり出してきた。真鍮の留め金が四つ。背負い紐が二本。
「旦那、こいつは行商人が半年の旅に使うようなやつですよ」
私は頷き、銀貨を置いた。
問題は、そこからだった。
鞄は大きすぎて、畳むことができなかった。空のまま背負うしかない。私は空の巨大な鞄を背負って、市場の真ん中を歩いて帰ることになった。
視線を感じた。
当然である。弓聖が、行商人の半年分の鞄を背負って歩いているのだ。
そして角の酒場の前で、ちょうど樽を運び出していたマルタと目が合った。
マルタは樽を抱えたまま、固まった。
私の顔を見た。鞄を見た。もう一度、私の顔を見た。
それから、その目に、みるみる涙が溜まっていった。
私は足を速めた。
その日の夕刻、ギルドの広間で、私は自分の噂を聞いた。
「聞いた? 弓聖さま、大きな旅の鞄を買われたんですって」
「やっぱり……。十年目の夜に、弟子の誓いを受け取って」
「弟子の独り立ちを見届けて、ひとり旅立たれるおつもりなのよ」
「黙って行かれるんだろうな。あの方は、そういう方だ」
発信源は、言うまでもなかった。
噂は、ほぼ正確だった。旅立つつもりであることも、黙って行くつもりであることも。ただ一点、理由だけが、決定的に美しく誤っていた。
訂正はしなかった。都合の良い誤解は、訂正しない主義である。
ただ、噂がここまで速いとなると、猶予は思っていたより短い。
今夜、運び出す。
◇
皆が寝静まるのを待って、私は自室を出た。
物置に入り、梯子を上り、屋根裏の奥の壊れた木箱から、詩帳を一冊取り出す。外套の内側に入れ、梯子を下り、自室に戻り、旅行鞄に収める。また物置へ。
ひと月ほど前、私は同じ道を逆向きに、十三回往復した。今夜は、それを巻き戻している。
五往復目で、梯子の三段目にさしかかった。前回、軋んだ段だ。今回は、あらかじめ二段目から四段目へ跨いだ。
九往復目で、屋根裏の埃が舞った。前回は、くしゃみをこらえて涙が出た。今回は、口元を布で覆ってきた。
人は学ぶ生き物である。
ただ、どれほど学んでも、一冊ずつしか運べないことに変わりはない。
往復のあいだに一度だけ、私は宿舎の廊下で足を止めた。エレナの部屋の前だった。扉の向こうは静かだった。眠っているのだろう。
十三往復目を終え、最後の一冊を鞄に収めたとき、夜はもうだいぶ更けていた。
懐の十四冊目を取り出し、十三冊の上にそっと重ねた。
鞄の留め金を、四つ、一つずつ閉めた。
二十二年分の詩が、革の箱一つに収まった。思っていたより、軽かった。
いや、重かった。持ち上げてみて、腰を痛めかけた。比喩ではない。
◇
師匠の気配が、動いている。
寝台の中で、私は目を閉じたまま、それを追っていた。
自室を出る。廊下を歩く。物置に入る。上へ。屋根の下の、誰も使っていないはずの空間へ。しばらく留まり、下りてくる。自室へ戻る。また物置へ。
同じ道を、何度も、何度も。
何かを、運んでいるのだ。
昼間、マルタさんの噂を聞いた。大きな旅の鞄。弟子の独り立ちを見届けて、ひとり旅立つ。
私は、それを信じていなかった。信じたくなかった、のかもしれない。
師匠の気配が、私の部屋の前で止まった。
扉一枚隔てて、師匠が立っている。
私は息を殺した。気配を閉じた。眠っているふりをした。
しばらくして、気配はまた歩き出した。
起きて、扉を開けて、「師匠、何をなさっているのですか」と訊くことはできた。
けれど、私は起きなかった。
師匠が見せようとなさらないものを、見に行くつもりはない。それは十年前から、ずっと変わらない私の決めごとだ。
十三回。
師匠の気配が往復した回数を、私は数えていた。数えるつもりはなかったのに、数えてしまった。
枕元の短剣を、手探りで握った。刃の根元の文字を、指でなぞった。
――風よ、我が前髪のみを揺らせ。
芯は、決して揺らすな。
私は短剣を胸に抱いたまま、朝まで目を閉じていた。眠れはしなかった。
◇
俺は、宿舎の裏庭の井戸の陰から、物置の小窓を見上げていた。
屋根裏を調べるのは、警戒が解けるのを待ってから。そう決めていた。宴の夜、組織が表に出た。今こそ屋根裏の中身を確かめる好機だと考え、明日の昼、弓聖が外出した隙に忍び込むつもりだった。
だが、先を越された。
小窓の向こうで、影が梯子を上り、下りる。上り、下りる。そのたびに、懐に何かを抱えている。物置を出た影は、宿舎の廊下を通って、自室へ戻っていく。
十三往復。
ひと月前に運び込んだものを、全部、運び出している。
昼間、市場で噂を聞いた。弓聖が、行商人の半年分の旅行鞄を買った。弟子の独り立ちを見届けて、ひとり旅立つ。町じゅうが、それを美談として語っていた。
美談なものか。
二十年分の記録を詰め込んだ巨大な鞄を背負って、国境の町から姿を消す。それが何を意味するか、斥候なら誰でも分かる。
亡命だ。
宴の夜、合言葉が表に出た。計画が予定より早く露見しかけた。だから、記録を持って逃げる。三度目の満月まで、まだ半月ある。予定が早まったのだ。
決行は、近い。
俺は手帳を開いた。
――弓聖、屋根裏の記録を自室へ移送。十三往復。
――旅行鞄を購入。出奔の準備。
――決行、近し。
それから次の一行を書こうとして、羽ペンが止まった。
――ギルド長に、報告すべきか。
報告すれば、どうなる。バルドはあの男を誰より信じている。宴の夜、卓の上で泣いていた男だ。証拠を見せろと言われれば、俺に出せるのはこの手帳だけだ。森で聞いた一行と、「ぬるい」と、紙屋の帳簿と、十三往復。
それに、あの弟子がいる。五百歩先から俺の気配を読み、背後三歩まで忍び寄る娘が。俺が動けば、あの娘に知られる。
そして、もう一つ。
宴の夜の、弓聖の顔。
あれは、計画が露見しかけた男の顔だった。そのはずだ。
だが、ほんの少しだけ、別の何かにも見えた。取り返しのつかないものを失くした男の顔のようにも。
俺は首を振った。斥候は、見たものを見たまま並べる。感傷は並べない。
手帳の最後の行は、問いのまま残った。
――ギルド長に、報告すべきか。
答えは、書けなかった。