寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第10章 撤退計画

 宴の翌朝、私は自室の机に向かい、羊皮紙を一枚広げた。

 詩を書くためではない。計画を立てるためである。

 

 議題。詩帳の存在が知られつつある状況において、私はいかに行動すべきか。

 選択肢を列挙する。

 

 第一案、口止め。

 対象を数えた。エレナ。唱和していた若手が十三人。宴に居合わせたバルド、マルタ、ヨルク、その他の団員が三十人ほど。マルタが噂を広めることを考えれば、対象は町の全住民に及ぶ。口止めの手間は人数に比例し、噂の速度は人数の二乗に比例する。勝ち目がない。

 加えて、エレナに口止めを頼むには、理由を説明しなければならない。「あれは私の恥ずかしい詩だから黙っていてくれ」と。彼女は昨夜、あの一行を「誓い」と言った。誓いを恥と呼ぶことは、私にはできない。

 却下。

 

 第二案、詩帳の焼却。

 証拠を消せば、残るのは噂だけである。噂は、証拠がなければいずれ風化する。

 だが、十四冊の詩帳は、私の二十二年である。十六の春から今日まで、ほぼ一夜も欠かさず書き、推敲し、矢で確かめてきた。それを燃やすことは、私の半生を燃やすことに等しい。

 加えて、エレナがすでに写しを持っている可能性がある。原本を燃やしても、写しは残る。燃やし損である。

 却下。

 

 第三案、記憶の消去。

 関係者全員の記憶から、あの一行を消す。そのような術は存在しない。仮に存在したとしても、私には使えない。

 却下。

 

 第四案、否認。

 「あれは古い言い伝えだ。私の詩ではない」と言い張る。だが、エレナが詩帳を読んでいるなら、否認は即座に崩れる。崩れた否認は、沈黙よりも悪い。

 却下。

 

 第五案。

 羽ペンが止まった。

 

 第五案、ここを去る。

 残った案は、それだけだった。消去法とは、そういうものだ。

 私は窓の外を見た。裏の稽古場で、エレナが剣を振っていた。目を閉じて。その周りで、若手たちが木剣を振っている。「風よ」と誰かが言い、「前髪のみを」と誰かが続けた。

 エレナは、もう私がいなくても大丈夫だ。

 狼の群れを一人で率いて退けた。目を閉じたまま、闇の中で剣を振るえる。若手たちに慕われ、教えを伝えている。その教えが私の詩だという一点を除けば、何一つ問題はない。

 

 師が去るには、悪くない頃合いだと思った。

 論理的にも。

 それ以外の意味でも。

 私は羊皮紙の第五案に丸をつけ、それから紙を細かく裂いて、暖炉にくべた。

 

◇

 

 十四冊の詩帳を運ぶには、相応の鞄が要る。

 手持ちの背嚢には、せいぜい五冊しか入らない。下着と外套と食料を入れれば、三冊。残りの十一冊を置いていけば、それはそのまま十一冊分の発覚の種になる。

 昼過ぎ、私は市場の革細工屋に出向いた。

 

「いちばん大きな鞄を」

 

 店主は目を丸くし、店の奥から、子どもが一人入れそうなほどの革の旅行鞄を引きずり出してきた。真鍮の留め金が四つ。背負い紐が二本。

 

「旦那、こいつは行商人が半年の旅に使うようなやつですよ」

 

 私は頷き、銀貨を置いた。

 問題は、そこからだった。

 鞄は大きすぎて、畳むことができなかった。空のまま背負うしかない。私は空の巨大な鞄を背負って、市場の真ん中を歩いて帰ることになった。

 視線を感じた。

 当然である。弓聖が、行商人の半年分の鞄を背負って歩いているのだ。

 そして角の酒場の前で、ちょうど樽を運び出していたマルタと目が合った。

 

 マルタは樽を抱えたまま、固まった。

 私の顔を見た。鞄を見た。もう一度、私の顔を見た。

 それから、その目に、みるみる涙が溜まっていった。

 私は足を速めた。

 その日の夕刻、ギルドの広間で、私は自分の噂を聞いた。

 

「聞いた? 弓聖さま、大きな旅の鞄を買われたんですって」

 

「やっぱり……。十年目の夜に、弟子の誓いを受け取って」

 

「弟子の独り立ちを見届けて、ひとり旅立たれるおつもりなのよ」

 

「黙って行かれるんだろうな。あの方は、そういう方だ」

 

 発信源は、言うまでもなかった。

 噂は、ほぼ正確だった。旅立つつもりであることも、黙って行くつもりであることも。ただ一点、理由だけが、決定的に美しく誤っていた。

 

 訂正はしなかった。都合の良い誤解は、訂正しない主義である。

 ただ、噂がここまで速いとなると、猶予は思っていたより短い。

 今夜、運び出す。

 

◇

 

 皆が寝静まるのを待って、私は自室を出た。

 物置に入り、梯子を上り、屋根裏の奥の壊れた木箱から、詩帳を一冊取り出す。外套の内側に入れ、梯子を下り、自室に戻り、旅行鞄に収める。また物置へ。

 ひと月ほど前、私は同じ道を逆向きに、十三回往復した。今夜は、それを巻き戻している。

 

 五往復目で、梯子の三段目にさしかかった。前回、軋んだ段だ。今回は、あらかじめ二段目から四段目へ跨いだ。

 九往復目で、屋根裏の埃が舞った。前回は、くしゃみをこらえて涙が出た。今回は、口元を布で覆ってきた。

 

 人は学ぶ生き物である。

 ただ、どれほど学んでも、一冊ずつしか運べないことに変わりはない。

 往復のあいだに一度だけ、私は宿舎の廊下で足を止めた。エレナの部屋の前だった。扉の向こうは静かだった。眠っているのだろう。

 

 十三往復目を終え、最後の一冊を鞄に収めたとき、夜はもうだいぶ更けていた。

 懐の十四冊目を取り出し、十三冊の上にそっと重ねた。

 鞄の留め金を、四つ、一つずつ閉めた。

 二十二年分の詩が、革の箱一つに収まった。思っていたより、軽かった。

 いや、重かった。持ち上げてみて、腰を痛めかけた。比喩ではない。

 

◇

 

 師匠の気配が、動いている。

 寝台の中で、私は目を閉じたまま、それを追っていた。

 自室を出る。廊下を歩く。物置に入る。上へ。屋根の下の、誰も使っていないはずの空間へ。しばらく留まり、下りてくる。自室へ戻る。また物置へ。

 

 同じ道を、何度も、何度も。

 何かを、運んでいるのだ。

 昼間、マルタさんの噂を聞いた。大きな旅の鞄。弟子の独り立ちを見届けて、ひとり旅立つ。

 

 私は、それを信じていなかった。信じたくなかった、のかもしれない。

 師匠の気配が、私の部屋の前で止まった。

 扉一枚隔てて、師匠が立っている。

 私は息を殺した。気配を閉じた。眠っているふりをした。

 しばらくして、気配はまた歩き出した。

 

 起きて、扉を開けて、「師匠、何をなさっているのですか」と訊くことはできた。

 けれど、私は起きなかった。

 師匠が見せようとなさらないものを、見に行くつもりはない。それは十年前から、ずっと変わらない私の決めごとだ。

 

 十三回。

 師匠の気配が往復した回数を、私は数えていた。数えるつもりはなかったのに、数えてしまった。

 枕元の短剣を、手探りで握った。刃の根元の文字を、指でなぞった。

 

 ――風よ、我が前髪のみを揺らせ。

 

 芯は、決して揺らすな。

 私は短剣を胸に抱いたまま、朝まで目を閉じていた。眠れはしなかった。

 

◇

 

 俺は、宿舎の裏庭の井戸の陰から、物置の小窓を見上げていた。

 屋根裏を調べるのは、警戒が解けるのを待ってから。そう決めていた。宴の夜、組織が表に出た。今こそ屋根裏の中身を確かめる好機だと考え、明日の昼、弓聖が外出した隙に忍び込むつもりだった。

 だが、先を越された。

 小窓の向こうで、影が梯子を上り、下りる。上り、下りる。そのたびに、懐に何かを抱えている。物置を出た影は、宿舎の廊下を通って、自室へ戻っていく。

 

 十三往復。

 ひと月前に運び込んだものを、全部、運び出している。

 昼間、市場で噂を聞いた。弓聖が、行商人の半年分の旅行鞄を買った。弟子の独り立ちを見届けて、ひとり旅立つ。町じゅうが、それを美談として語っていた。

 

 美談なものか。

 二十年分の記録を詰め込んだ巨大な鞄を背負って、国境の町から姿を消す。それが何を意味するか、斥候なら誰でも分かる。

 

 亡命だ。

 宴の夜、合言葉が表に出た。計画が予定より早く露見しかけた。だから、記録を持って逃げる。三度目の満月まで、まだ半月ある。予定が早まったのだ。

 決行は、近い。

 俺は手帳を開いた。

 

 ――弓聖、屋根裏の記録を自室へ移送。十三往復。

 ――旅行鞄を購入。出奔の準備。

 ――決行、近し。

 

 それから次の一行を書こうとして、羽ペンが止まった。

 

 ――ギルド長に、報告すべきか。

 

 報告すれば、どうなる。バルドはあの男を誰より信じている。宴の夜、卓の上で泣いていた男だ。証拠を見せろと言われれば、俺に出せるのはこの手帳だけだ。森で聞いた一行と、「ぬるい」と、紙屋の帳簿と、十三往復。

 それに、あの弟子がいる。五百歩先から俺の気配を読み、背後三歩まで忍び寄る娘が。俺が動けば、あの娘に知られる。

 

 そして、もう一つ。

 宴の夜の、弓聖の顔。

 あれは、計画が露見しかけた男の顔だった。そのはずだ。

 だが、ほんの少しだけ、別の何かにも見えた。取り返しのつかないものを失くした男の顔のようにも。

 俺は首を振った。斥候は、見たものを見たまま並べる。感傷は並べない。

 手帳の最後の行は、問いのまま残った。

 

 ――ギルド長に、報告すべきか。

 答えは、書けなかった。

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