寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第11章 静かな旅立ち

 旅立ちは、一日延びた。

 理由は、腰である。

 十四冊を詰めた鞄を初めて持ち上げた夜、私の腰は、詩人の二十二年に対して明確な異議を申し立てた。弓聖が腰を押さえて町を出るわけにはいかない。伝説には、腰痛の入る余地がない。

 

 私は丸一日、自室で横になっていた。広間では「弓聖さまは、旅立ちの前に瞑想しておられる」と囁かれていたらしい。都合の良い誤解なので、訂正はしない。

 天井を見上げながら、私は置き手紙について検討した。

 

 第一に、黙って去れば、エレナは理由を案じるだろう。第二に、理由を書けば、それは詩帳の存在を認める文書になる。第三に、これがもっとも重要だが、紙に書かれた言葉は、書いた者の手を離れて独り歩きする。短剣に刻まれた一行が、それを証明している。

 却下。この町に、私の書いた紙は一枚も残さない。

 行き先についても検討した。こちらは結論が出なかった。北門を出て右へ行けば森、左へ行けば街道である。二十二年、私は右にしか曲がったことがない。

 そして今、夜明け前である。

 

 腰は、おおむね回復した。私は鞄の前に膝をつき、留め金を一つずつ外した。発つ前に一冊だけ、確かめておきたいものがあった。

 詩帳、第九冊。

 頁を探す必要はなかった。その頁だけ綴じ糸が緩んでいて、本を立てると自然にそこが開くのだ。十年間、風の強い日のたびに読み返してきた。風の強い日に、風との契約を確かめる。詩人として当然の手続きである。

 

   風と前髪の契約

  汝、山より来たる 名もなき放浪者よ

  吹くなとは言わぬ 汝もまた宿命(さだめ)の子

  されど我が後ろ髪に 触れることは許さぬ

  横の髪を 伏せることも許さぬ

  我は約す 汝が吹くとき

  物憂げなる眼差しを 遠き地平へ向けんと

  汝は約せ ただ一筋の乱れのみを

  我が額に 黄昏のごとく与えんと

  これは契約 誰にも明かさぬ

  風と我との 二人きりの――

  ――風よ、我が前髪のみを揺らせ

 

 悪くない。いや、良い。第二連の「約す」「約せ」の対句は、二十代の私にしか書けなかったものだ。

 問題は、第三連である。

 誰にも明かさぬ。

 その契約の最後の一行が、いまやイァーリの合言葉になっている。若手が木剣を振りながら唱え、ギルド長が卓の上で叫び、弟子が短剣に刻んだ。条項は破られた。破ったのは風ではない。屋根裏を隠し場所に選んだ、私である。

 

 私は頁を閉じ、第九冊を鞄のいちばん上に戻した。

 留め金を閉める。一つ。二つ。三つ。

 四つ目が、閉まらなかった。

 第九冊を最後に戻したぶん、鞄の口がわずかに膨らんでいる。押しても、体重をかけても、真鍮の爪は受け金の手前で止まる。腰が、それ以上の圧力に再び異議を申し立てた。

 

 私は四つ目の留め金を見下ろし、短い会議を開いた。結論はすぐに出た。

 三は、美しい数である。

 宿舎の廊下は暗かった。エレナの部屋の前は、今度は止まらずに通り過ぎた。止まれば、また長くなる。

 裏口を出ると、二階のルカの部屋の窓が見えた。灯りはない。斥候も眠る。都合の良い推論なので、採用する。

 

 眠る町を、北へ歩いた。

 一歩ごとに、二十二年が背骨にのしかかる。角の酒場の前で一度立ち止まり、ずり落ちかけた鞄を背負い直した。酒場の窓も暗い。この時刻に起きているのは、パン屋と門番と私くらいのものだ。

 鍛冶屋の前を通ったとき、暗い炉の奥で、小槌の音が一度だけ鳴った。それきり、何も鳴らなかった。グンターも、たまには早起きをするのだろう。

 

 北門の通用口には、いつもの門番の老人がいた。二十二年、夜ごとこの門を通る男に、彼は何も訊かない。今朝も何も訊かず、私の背中の鞄を一度だけ見て、黙って閂を外した。

 私は一歩、門の外へ――

 

「師匠」

 

 声は、すぐ隣から聞こえた。

 門柱の影に、エレナが立っていた。

 いつからそこにいたのか、分からなかった。気配が、なかった。弓聖と呼ばれる男が、三歩の距離にいる人間に気づかなかったのだ。

 エレナは天才である。私の功績ではない。

 

 私の内部で、緊急の会議が開かれた。議題は二つ。彼女はどこまで知っているのか。そして、何を言うべきか。

 第一の議題には、手がかりが一つあった。彼女は北門で待っていた。つまり、私が北門を選ぶことを、私より先に知っていた。私自身は、まだ行き先すら決めていないというのに。

 第一の議題に結論が出る前に、エレナが口を開いた。

 

「お見送りに、参りました」

 

 それだけだった。なぜ行くのかとも、どこへ行くのかとも、彼女は訊かなかった。

 訊かないのは、すでに知っているからだろう。詩帳を読んだ者に、旅立ちの理由を訊く必要はない。

 ならば、言うべきことは一つである。あの一行を、これ以上広めないでほしい。

 私は頭の中で文面を組み立てた。

 

 ――あの一行を、風よ、で始まるあの一行を、これ以上人前で唱えないでくれ。若手たちにも、そう伝えてくれ。

 

 長い。削る。

 「若手たちにも伝えてくれ」。これは彼女の判断に委ねてよい。削除。

 「唱えないでくれ」。彼女はあの一行を誓いと呼んだ。誓いを唱えるなと言うことは、誓いを捨てろと言うことに等しい。それは言えない。削除。

 「あの一行」。これを言えば、なぜ一行に限るのかと問われる。問われれば、答えに窮する。削除。

 残ったのは、「風」と、注意を促す言葉だけだった。詩帳を読んだ彼女になら、これで通じるはずだ。

 

「……風に、気をつけろ」

 

 エレナの目が、わずかに見開かれた。それから、静かに頷いた。

 

「――はい。決して、見逃しません」

 

 見逃さない。唱える者を見逃さず、止めてくれるということだろう。

 伝わった。

 

「行ってらっしゃいませ、師匠」

 

 行ってらっしゃい、は、帰ってくる者にかける言葉である。私は帰らない。訂正すべきだった。だが、口が動かなかった。

 言うべきことは、他にもあった気がした。だが、それを言うための言葉を、私は二十二年かけても見つけていない。

 私は一度だけ頷き、背を向けかけた。

 

「せーのっ!」

 

 番小屋の陰から、干し草の山の向こうから、樽の後ろから、若手たちが一斉に飛び出してきた。ティモがいた。ハンスとフリッツがいた。数えた。十三人。十三という数には、最近、縁がある。

 

「風よ、我が前髪のみを揺らせ!」

 

 夜明け前の北門に、十三人ぶんの声が響き渡った。

 議場は、崩落すらしなかった。崩落する議場が、もう残っていなかったのだ。更地である。

 

「風よ、我が前髪のみを揺らせ!」

 

 二度目。門番の老人が、閂を手にしたまま天を仰いだ。

 私はエレナを見た。唱える者を、止めてくれるはずの弟子を。

 エレナは目を閉じていた。そして三度目、その唇が、若手たちと同じ形に動いた。

 

「風よ、我が前髪のみを揺らせ!」

 

 伝わっていなかった。

 三度。三は、美しい数である。そのはずだった。私は生まれて初めて、三という数を憎んだ。

 私は彼らに向き直り、頷いた。頷きは、言葉の代替として極めて効率が良い。代替すべき言葉が、悲鳴しかなかったとしても。

 

 その瞬間、開いた通用口から、山の吹き下ろしが吹き込んできた。

 風はまず、私の背の鞄に突き当たった。行商人の半年分の鞄は、私の頭より高い。風は鞄に割られ、後ろ髪にも横の髪にも届かず、上を越えたわずかな流れだけが、額へ回り込んだ。

 前髪だけが、揺れた。

 

「……前髪だけが、揺れてる」

 

 ティモの声が震えた。十三人が、息を呑んだ。

 十年前に結んだ契約が、初めて完全に履行された。私の二十二年を詰めた鞄が、風除けになって。

 遅すぎる、と思った。

 私は背を向け、通用口をくぐった。門を出て、左へ曲がった。二十二年で、初めてのことだった。

 振り返らずに、歩いた。

 

◇

 

 昨日、師匠は一日じゅう、自室から出てこられなかった。

 夕刻に一度だけ、水を汲みに廊下へ出てこられたお姿を見た。腰に手を添え、一歩ずつ、確かめるように歩いておられた。

 背負うものの重さを、確かめておられるのだと思った。

 稽古場では、若手たちが私の顔ばかりうかがっていた。素振りの合間に、ティモさんが小声で訊いてきた。

 

「弓聖さま、本当に行っちゃうんですか」

 

「師匠のお決めになることです」

 

 そう答えた私の剣先は、その朝、一度だけ揺れた。

 師匠は、決めたことを先へ延ばす方ではない。一日延ばされたのなら、それは支度のためだ。支度が済めば、すぐに発たれる。

 師匠が見せようとなさらないものを、見に行くつもりはない。けれど、旅立ちはもう町じゅうが知っている。隠しごとではない。だから、お見送りに行くことは、私の決めごとに背かない。

 ひと晩かけて、私はそう自分に言い聞かせた。

 

 夜半を過ぎたころ、師匠の部屋で、革の軋む音がした。留め金を外す音。一つ、二つ、三つ、四つ。しばらくして、閉める音。一つ、二つ、三つ。

 四つ目は、聞こえなかった。

 私は窓から出た。屋根を二つ渡って裏通りに降り、北門へ走った。夜ごと師匠が出ていかれる門だ。師匠はきっと、あの門を選ばれる。

 門柱の影に立ち、気配を閉じた。隠すほど、育つ。

 

 門の内側には、先客がいた。

 番小屋の陰に四人。干し草の山の向こうに五人。樽の後ろに四人。十三人ぶんの、ひそめた息。誰かがあくびをかみ殺し、ハンスとフリッツの弓が触れ合ってかちりと鳴り、「しっ」と言うティモさんの声が、いちばん大きかった。

 皆、師匠を送りに来たのだ。私は黙っていることにした。お送りしたいのは、私だけではない。

 

 やがて、通りの向こうから足音が近づいてきた。

 師匠の足音だった。けれど、いつもより重い。

 あれは、鞄の重さではない。師匠がずっとお一人で背負ってこられたものの、重さだ。

 門番のおじいさんが閂を外したとき、私は声をおかけした。

 師匠は、ひとことだけおっしゃった。

 

「……風に、気をつけろ」

 

 胸の奥で、何かが鳴った。

 風よ、我が前髪のみを揺らせ。風に心を乱されるな、芯は決して揺らすな、と師匠は教えてくださった。その教えを、私は短剣に刻んだ。

 けれど、それだけでは足りなかったのだ。

 風とは、移ろうもの。あらゆる変化のことだ。芯を揺らさずに立つだけでなく、吹いてくる風の、そのひとつひとつを見逃すな。揺らがぬ芯と、見逃さぬ目。二つ揃って、はじめてひとつの教えになる。

 これが、最後の奥義だ。

 

 ティモさんの「せーのっ」が響いたとき、師匠の背中がかすかに強ばった。驚かれたのだろうか。いいえ、師匠ほどの方が、十三人の気配に気づいておられなかったはずがない。

 二度目の唱和を聞きながら、私は目を閉じた。

 三度目は、私も唱えた。師匠に、届くように。

 

 師匠は、こちらに向き直り、頷いてくださった。

 そのとき、門の外から風が吹き込んだ。師匠の前髪だけが揺れていた。最後まで、体現しておられた。

 連れて行ってください、とは言わなかった。ひと晩のうちに三度、口の中で練習した言葉だった。三度とも、師匠はきっと困った顔をなさると思った。

 

 十年前、芋蔵の暗がりで、師匠は私に「もう、出ていい」とおっしゃった。あの日、私を外へ出してくださったのは師匠だった。

 今朝は、私が師匠をお送りする番だ。

 門を出た師匠は、左へ曲がられた。森へ向かわれるときは、いつも右だった。

 振り返らない背中が、街道の先の薄闇に溶けていくまで、私は門柱のそばに立っていた。

 

 それから、目を閉じた。

 風の中に、町じゅうの変化が流れ込んできた。パン屋の窯に火の入る音。屋根の上で猫が伸びをする気配。若手たちの、鼻をすする音。

 そして町の中に、ひとつだけ、ひどく張りつめた気配があった。よく知っている気配だった。

 ルカさんも、ご自分の場所から、師匠をお送りしておられるのだろう。

 帳面の新しい頁に、私は書いた。

 

 ――風に、気をつけろ。

 その下に、小さく書き添えた。

 

 ――最後の奥義。風とは、あらゆる変化のこと。ひとつも見逃すな。

 

◇

 

 酒場の朝は、町でいちばん早い。パン屋よりも早い。

 表の鎧戸は閉めたまま、奥の竈に火を入れて、豆を水に浸けていたら、表の通りを誰かが歩いてくる音がした。

 重たい足音だった。

 鎧戸の隙間からのぞいて、あたしは豆の桶を取り落としかけた。

 弓聖さまだった。

 

 あの、行商人みたいな大きな鞄を背負って。背中を丸めて、一歩ずつ。うちの角まで来ると立ち止まって、よいしょと鞄を背負い直した。鞄の口のあたりで何かがひらりとした気がしたけど、そのときのあたしは、もう目がにじんでいた。

 弓聖さまは、また北へ歩いていった。

 声はかけなかった。黙って行く人を呼び止めるのは、野暮ってもんだ。

 

 でもね、あたしは見たよ。

 あの鞄。あれは荷物の重さじゃない。あの方が二十年、黙って背負ってきたものの重さだ。若いころに何があったのかは知らない。知らないけど、あんなふうに背中を丸めて歩く人が、軽い過去を持ってるはずがないじゃないか。

 前掛けで目元を押さえていたら、北のほうから、若い衆の声が三度、風に乗って聞こえてきた。

 

 風よ、我が前髪のみを揺らせ。

 

 前掛けが、もう一枚要るところだった。

 収穫祭の夜もそうだった。お前も何か一言、と言われて、あの方は「遠慮しておく」とだけ言った。あのときから、あたしは分かってたんだ。言葉にできないものを抱えた人なんだって。

 そのとき、あたしはもう決めていた。昼までに、町じゅうに話す。重い過去を背負った男の、静かな旅立ち。これを話さずにいられるもんかね。

 

 空が白んできたころ、表の鎧戸を開けて、箒を持って外に出た。

 うちの角の石畳に、白いものが一枚、落ちていた。

 ちょうど、弓聖さまが鞄を背負い直したあたりだった。

 紙だ。何か、字が書いてある。あたしは前掛けで目元を拭きながら、そっちへ歩きかけた。

 そのとき、横から伸びてきた手が、先にそれを拾い上げた。

 見えたのは、夜露で色の変わった外套の袖だけだった。

 誰の手だったのかは、分からない。

 前掛けが、びしょびしょだったからね。

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