寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
宿舎の自室で、俺は一枚の紙を机に広げた。
外套の袖は、まだ夜露で湿っていた。
昨夜は一睡もしていない。弓聖が鞄を背負って宿舎を出るのを見届け、角の酒場の向かいの路地に潜んだ。北門まではついて行けない。あの弟子がいる限り、弓聖の五百歩以内には近づけない。
事実一。弓聖は酒場の角で立ち止まり、鞄を背負い直した。そのとき、鞄の口から白いものが一枚、石畳に落ちた。弓聖は気づかずに北へ去った。
事実二。しばらくして、北門の方角から、合言葉の唱和が三度聞こえた。
事実三。若い連中がぞろぞろと戻ってきて、鼻をすすりながら紙の脇を通り過ぎた。誰一人、足元を見ていなかった。
事実四。弟子は、戻らなかった。
空が白むのを待って、俺は路地を出た。酒場の女将が箒を持って出てきたのと、ほぼ同時だった。危うく先を越されるところだったが、女将は前掛けに顔を埋めていた。運がいい。
紙の端には、綴じ穴が並んでいる。帳面から外れた一枚だ。
つまりこれは、屋根裏にあった二十年分の記録の、一頁である。
紙の端は、指の脂で柔らかくなっていた。何度も、何度も開かれた跡だ。よほど繰り返し確かめられてきた指令書らしい。
表題は「風と前髪の契約」。
汝、山より来たる名もなき放浪者よ。吹くなとは言わぬ。されど我が後ろ髪に触れることは許さぬ。横の髪を伏せることも許さぬ――。
詩の体裁をとっている。だが、詩にしては意味がない。前髪を揺らしてほしいだけの男が、なぜ風と契約を結ぶ必要がある。
仮に、ただの詩だとする。その場合、ギルド随一の弓手が、前髪の詩を書き、二十年分の記録と一緒に大切に保管し、旅立ちの朝にそれを落としていったことになる。あり得ない。
ゆえに、暗号だ。
俺は一行ずつ手帳に書き写し、並べ替え、線を引いた。
各行の頭の字を拾った。意味をなさない。各行の字数を数えた。並びに規則はない。漢字だけを拾った。「汝山来名放浪者」。山から来た名の放浪者。元の文と何も変わらない。
鍵は、もっと単純なところにあった。
髪だ。
髪は頭を囲むように生えている。後ろ髪は後ろに、横の髪は両脇に、前髪は前に。つまり、陣形だ。後ろ髪は後衛。横の髪は両翼。前髪は前衛。
そう置けば、すべてが読める。
「後ろ髪に触れることは許さぬ」。後衛には手を出すな。
「横の髪を伏せることも許さぬ」。伏せる、とは伏兵のことだ。両翼に兵を伏せるな。
「ただ一筋の乱れのみを、我が額に」。額は隊列の最前列。そこにだけ一筋の乱れ、つまり一点の突破を許す。
「物憂げなる眼差しを、遠き地平へ」。遠い地平とは、国境のことだ。
「黄昏のごとく」。決行は、黄昏時。
そして最終行。
――風よ、我が前髪のみを揺らせ。
風よ、前衛だけを動かせ。
残る行も、収まるべきところに収まった。「山より来たる名もなき放浪者」。山向こうから来る、名を伏せた者。符丁「風」の正体だ。「我は約す」「汝は約せ」。双方の務めを並べる、密約の書式。「二人きりの――」で途切れているのは、もう一方の名を書かずに済ませるためだ。
符丁「風」の人物に宛てた、作戦指令だ。後衛と両翼は動かさず、前衛だけで国境の一点を突く。森で聞いた一行と重ねれば、日付も出る。三度目の満月の夜、黄昏時。残りは、十三日。
そこまで書いて、羽ペンが止まった。
この指令の最終行を、イァーリの若手は毎朝、木剣を振りながら唱えている。指令文を、そのまま体に覚え込ませているのだ。号令ひとつで、前衛が動くように。
そして、その前衛を毎朝鍛えているのは、あの弟子だ。
宴の夜の、弓聖の顔が浮かんだ。取り返しのつかないものを失くした男の顔。俺はもう一度首を振った。作戦指令を書く男が、何を失くすというのだ。
昼前、俺はギルド長の部屋の前まで行った。
扉の向こうから、男の泣き声が聞こえた。
「あいつは……黙って行きやがった……わしに一言もなく……それが、あいつなんだ……」
扉を叩きかけた手を、俺は下ろした。
この紙を見せれば、ギルド長が何と言うかは分かりきっている。弓聖の置き土産だと泣き、額に入れて、広間に飾るだろう。
証拠は、この一枚だけ。読み解いたのは、俺だけだ。
自室に戻り、手帳の最後の問いの下に、ようやく答えを書いた。
――ギルド長に、報告すべきか。
――否。解読を終えるまで、単独で追う。
◇
師匠が発たれて、三日が過ぎた。
稽古場の朝は、変わった。
若手たちが、目を閉じて剣を振るようになった。風の強い日には丘に出て、風を受ける。夜は気配を閉じて宿舎の廊下を歩き、互いに見つけ合う。私が十年かけて師匠からいただいた教えを、ひとつずつ、皆に伝えた。
最初の日、ティモさんは目を閉じたまま稽古場の柱に三度ぶつかった。二日目には二度になり、三日目には、柱の手前で足を止めて「……ここに、柱がいます」と言った。夜の廊下では、ハンスさんとフリッツさんが互いの気配を見つけ合おうとして、同時に角を曲がり、額をぶつけた。双子は、気配まで似ているらしい。
皆、私が十日かかったところを、三日で進んでいく。教える側に回って、はじめて分かった。師匠も、こんなふうに私を見ておられたのだろうか。
合図も決めた。
「風よ」で目を閉じ、気配を開く。「我が前髪のみを」で、前に立つ者だけが一歩踏み出す。後ろの者は動かない。芯は、決して揺らさない。「揺らせ」で、打つ。
師匠の一行を、三つに分けただけだ。けれど三つに分けると、それはそのまま戦い方になった。師匠の言葉は、いつだって、私の思うより遠くまで届く。
四日目の朝、ギルド長に呼ばれた。
「オットーの旦那から、また峠越えの護衛だ。切り通しに、あの山賊どもが戻ってきたらしい。班は、お前に任せる。弓聖の弟子なら――いや」
ギルド長は、言い直した。
「エレナなら、任せられる」
班は、私と若手が八人。ティモさん、ハンスさん、フリッツさんも入った。それから、ルカさんが、峠の地形を確かめたいと言って加わった。ルカさんは、よほど峠の地形がお好きらしい。
ヴィンデル峠は、その日も吹き下ろしが強かった。
切り通しの手前で、私は目を閉じた。
風に、気をつけろ。
風の中に、変化があった。岩棚の上を、烏が一羽、旋回している。降りない。降りられない場所に、誰かがいる。右の斜面から吹いてくる風に、馬の汗の匂いが混じっている。左の岩陰で、砂が一筋、こぼれた。
「来ます。岩棚に一人。右の斜面に六人。左に五人」
オットーさんの馬車を止め、若手を二列に並べた。前列に五人。後列に、弓を持つハンスさんとフリッツさんと、もう一人。
砂嵐が来た。岩棚の上で、誰かが深く息を吸う音がした。角笛を吹く前の音だ。
「――風よ」
八人が、一斉に目を閉じた。
角笛が鳴り、斜面から山賊たちが駆け下りてきた。砂で、誰も目を開けていられない。山賊たちも、だ。目を閉じている者だけが、見えていた。
「我が前髪のみを」
前列の五人が、一歩踏み出した。後列は動かない。動かないまま、弦を引き絞る。
「揺らせ」
砂の中で、五本の剣が一斉に閃いた。後列の矢が、両脇から回り込もうとした二人の足元に突き立った。
ティモさんの正面に、棍棒を振りかぶった大男が迫った。ティモさんは目を閉じたまま半歩ずれ、棍棒は空を打ち、剣の柄が男のみぞおちに沈んだ。
私は岩棚へ跳んだ。頭目の放った矢を、風ごと斬り落とした。角笛は、新しいものに替わっていた。前の角笛は、あの日、師匠が射抜いたのだ。剣の腹で手首を打つと、新しい角笛は砂の上に落ちた。
短剣は、抜かなかった。師匠からいただいたものを、山賊の血で汚したくなかった。
砂嵐が過ぎたとき、山賊は十二人とも地面に伏していた。こちらは、かすり傷が二つ。
縛られた頭目が、私を見上げた。
「……弓聖は、いないのか」
「師匠は、旅に出られました」
頭目は、しばらく黙っていた。それから、ひとことだけ言った。
「……そうか」
何かを悟った人の声だった。
馬車の陰から、オットーさんが飛び出してきた。
「さすがは弓聖どのの教えだ! 弓聖どのがおられずとも、この強さか!」
「師匠の教えです」
ティモさんが、まだ目を閉じたまま、震える声で言った。
「エレナさん。俺……見えました」
若手たちが剣を掲げ、峠に八人ぶんの合言葉が響いた。
ふと見ると、ルカさんが岩陰で手帳を開いておられた。顔色が、少し悪い。羽ペンを持つ手が、震えている。
峠の風が、冷たかったのだろう。
帰りの峠道で、私は一度だけ振り返った。国境の方角の空に、薄い雲が流れていた。師匠は今ごろ、どこの風の中におられるのだろう。前髪だけが、揺れていればいいと思った。
ルカさんの帳面も、ずいぶん厚くなった。いつか見せ合える日が、楽しみだ。
その夜、ギルドに戻ると、ギルド長が卓の上で泣いた。弓聖の教えは不滅だと叫び、卓から転げ落ちた。
遅くなって稽古場をのぞくと、灯りの下で、まだ若手が四人、剣を振っていた。私が教えた者たちから、さらに教わった、峠には行かなかった子たちだった。
「風よ」
「我が前髪のみを」
「揺らせ」
私のいないところで、合図が唱えられていた。師匠の言葉は、私の手も離れて、ひとりで歩き始めていた。
◇
旅立ちから五日目の夜、私は峠道と街道が交わる、国境手前の宿場町にいた。
並の旅人なら二日の道のりである。私は五日かかった。鞄が重く、腰がそれに異議を唱え、一刻ごとに休む必要があった。
風の強い日もあった。風は前から吹き、鞄は後ろにある。前髪も後ろ髪も横の髪も、平等に乱れた。契約が履行されたのは、あの朝の一度きりだったらしい。
宿の二階の小部屋で寝台に腰を下ろし、私は現状を整理した。
結論から述べる。秘密は、守られた。
第一に、詩帳十四冊は、この鞄の中にある。留め金は三つしか閉まっていないが、三は美しい数であり、実用上の問題はない。
第二に、あの町に、私の書いた紙は一枚も残っていない。置き手紙すら残さなかった。
第三に、合言葉はいずれ廃れる。作者のいない言葉は、やがて意味を失い、ただの音になる。音になった詩は、もはや詩ではない。ゆえに、発覚もしない。
加えて、私の詩を知る唯一の人間であるエレナは、決してそれを他人に話さない。私が育てたのだから。
残る課題は、新天地での名乗りである。ミリアン・ロスの名は、近隣国の傭兵にも知られすぎている。偽名を検討した。黄昏のロス。却下、詩人であることを自白している。名無しのロス。却下、名乗った時点で名がある。三つ目の案は考えなかった。偽名を考えると、どうしても詩になってしまう。本名でいい。弓聖の名は、詩人の名ではない。
私は鞄から第十四冊を取り出し、旅立ってから最初の一篇を書いた。
我は去る 誰にも告げず
宿命(さだめ)の轍(わだち)を 踏みしめて
――背に負うは、ただ黄昏のみ
実際に背負っているのは黄昏ではなく十四冊の詩帳であり、腰はいまもそれに抗議している。だが、詩とはそういうものである。
腹が減ったので、階下の食堂へ降りた。
炉端の卓で、行商人らしい三人連れが麦酒を飲んでいた。
「聞いたか。峠の切り通しの山賊が、また退治されたってよ」
「傭兵の若い連中がな、砂嵐の中を、目をつぶったまま斬り込んだんだと」
「戦の前に、妙な文句を唱えるらしいぜ。何だったか。『風よ、我が後ろ髪のみを揺らせ』」
「違う違う。『風よ、我が前掛けのみを』だ。酒場の女将から聞いたんだ、間違いねえ」
「前歯だろ。『我が前歯のみを揺らせ』。歯を食いしばれって意味さ」
私は、黒パンを手にしたまま動きを止めた。
私の内部で、会議が開かれた。議場はあの町に置いてきたはずだったので、仮設である。
仮説一。あれは、私の詩である。
仮説二。あれは、私の詩ではない。
第一に、「後ろ髪のみを揺らせ」は、私の契約の正反対である。私の詩は、後ろ髪に触れることを許していない。
第二に、「前掛け」と「前歯」は、検討に値しない。
第三に、傭兵ギルドは五つの国に少なく見積もっても百はあり、酒場の女将はどの町にもいる。
耐えられない結論を導く仮説は、採用しない。
宴の夜、議場とともに崩れ落ちたはずの鹿の論法が、街道の宿で、静かに立ち上がった。距離は、論理を回復させるのである。
仮説二を採用する。世の中には、風に何かを揺らしてほしい人間が、思いのほか多いのだ。
ただ、砂嵐の中を目を閉じたまま斬り込む剣士、という一点だけが、少し引っかかった。
目を閉じて剣を振る者など、世の中にいくらでもいる。
私は、一人しか知らないが。
黒パンを半分かじり、残りの半分を、私はしばらく眺めていた。
部屋に戻り、第十四冊の新しい頁を開いた。
毎年あの日に、森でそうしてきたように、一行目を書こうとした。羽ペンは、やはり一行目で止まった。十年かけても書けないものは、旅に出たくらいでは書けない。
ただ今夜は、頁を閉じる前に、いつもより少しだけ長く、白いままの紙を眺めていた。
翌朝、宿場の掲示板に、一枚の貼り紙があった。
――セリグマン王国、傭兵募集。弓に覚えある者、厚遇す。口の堅き者、なお可。
口が堅いことにかけては、二十二年の実績がある。
私は貼り紙に向かって、一度だけ頷いた。隣で貼り紙を読んでいた旅人が、なぜか一歩下がった。
国境の向こうへ。ふと、自分の詩の一節が頭をよぎった。三度目の満月の夜、風は国境を越える。
昨夜の月は、満月ではなかった。ゆえに、これは詩の成就ではない。単なる転職である。
私は鞄を背負い直し、国境へ向けて歩き出した。
秘密は、守られている。
私が言うのだから、間違いない。